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トルストイは『モーパッサン論』において
モーパッサンのある部分を絶賛して
ある部分に対して残念がってる

モーパッサンの『女の一生』では
善良な女が不埒な夫と放蕩息子に悩まされるが
トルストイの解釈ではこの女が
『旧約聖書』の「ヨブ記」に譬えられてて
要約すると・・・
道徳的な女が不道徳な男に踏み躙られる不幸と
その不幸が誰にも理解されナイコトを
深く感動的に描いてると絶賛し
以降の長編、特に次いで書かれた『ベラミ』は
美しい純潔な魂と社会の堕落との衝突が
同じように描かれてても
不道徳な登場人物の方にこそ
作者が肩入れしてるように思えて
濡れ場における詳細な描写も
芸術性を損なってると残念がってる

モーパッサンがなぜ
トルストイにとって残念な長編を書いてしまうのかは
以下の言にあるように
トルストイも根本的にわかってはいる

 モーパッサンが出入りしていたサークルで、芸術が奉仕すべき美として昔も今も認められているのは、何よりもまず女、若い、美しい、しかも多くは裸体の女、それからその女との性的な交渉である。そう認めてきた人々の中には、単にモーパッサンの≪芸術≫上のすべての仲間、つまりが画家や彫刻家や小説家や詩人ばかりではなく、若い世代の教師たる哲学者もふくまれている。

しかし理解するコトと納得するコトは別なので
ルナンの『マルクス・アウレリウスについて』から
以下の言葉を批判的に引用してくる

キリスト教の欠陥はここにはっきりあらわれている。つまりキリスト教はもっぱら道徳的でありすぎるのだ。美は完全にしめ出されている。ところが、円満具足の哲学の眼からみると、美はうわべだけの長所、危険なもの、不都合なものであるどころではない。それは徳と同じく、神のたまものなのだ、美には徳に匹敵する価値がある。美しい女は天才や、徳の高い女と全く同じように、神の意図の一面、神の目的のひとつをあらわしている。美しい女はそのことを知っているからこそ、おのずと気位が高くなるのだ。美しい女は自分が体内に持っている無限の宝を本能的に感知する。(後略)

(後略)の後もトルストイは
ルナンの美女讃歌を延々と引用して
「宝石を身に付けたり、化粧をしたり、髪型や服装に凝ったり、
女がその美しさを際立たせるようとするのは正しい行い」
としてる部分に次のように
皮肉な解釈を入れてくるワケだ。(゚д゚lll)ギャボ

してみれば、この若い世代の指導者{ルナン}の考えでは、ようやく、現代にいたって、パリの裁縫師や理髪師がキリスト教の犯したあやまちをただし、美のために本来の、そして最高の地位を回復してやった、という訳である

有史以来
人類は不自然な生活を強いられてて
生物としての本能が蔑ろにされてきた

特定の時代や地域社会でしか通じナイような
独特の価値観が存在してるが
それらはいずれも誰かが
要するに人間が勝手に作った観念でしかなく
バックグラウンドを異にする者が
正しいか誤りかを論じるのはナンセンスだ

キリスト教が華美な女性を疎んじてるのを
美の表現者である芸術家や
美徳の体現者である哲学者が
反感を持論で展開するのまでは構わナイ

でもトルストイの反論は
それを曲解してて
ましてやパリの裁縫師や理髪師を
つまり、技能労働者をバカにした物言いは
所詮ドシア人(※)だって僻みで
世の中を舐めた資産家のお坊ちゃんの世迷言だ
お洒落なパリに憧れるド田舎者の無粋なロシア人、の略w

そう思えるので
自分が賛同できるのは
モーパッサンや同じサロンに集う人々の方
だった・・・そう、過去形なんである

今現在の姥(年老いた女)の自分にとっては
トルストイの見解もありに思える

再度、肝心な部分を引用すると・・・

何よりもまず女、若い、美しい、しかも多くは裸体の女、それからその女との性的な交渉である。

生物学的見地からすれば
この主張は全く持って正しく
生物は子孫を残すために
生殖を行う必要があり
その際にはお互いに
優先順位が同等でナイ性を選ばなくてはならず
またできるだけ若く(=体力があり)
そして美しい(=整ってる)相手を求めるのは
分子生物学(※)からしても正しい
生物をDNA単位から考察する学問

但し
人間以外の生物の場合は
性の優先順位(※)が高い雌に雄を選ぶ権利があり
雄の方こそが若さと美しさで雌に選別される
正確にはミトコンドリアの優位性

ところが人間社会は変わってて
どんなに若く美しい雄でも
それだけでは雌に選んでもらえナイ!

とゆーのも
雌には子供を産み育てる環境についても
十分に考慮する必要があるからで
そこで若さと美しさで劣ってる雄でも
社会的に優位だったり、財産を持ってたりすると
子供を産み育てる環境も好かろうと
選んでもらえたりする(よね?)

いや、子供でなく
雌自身が好い環境で生活したくて
ってのが本音か???
まあ雌の見解の真意については今回はスルーでw

男が女にアプローチをかける時に
本能的に近付いてしまうのが
若く美しい女であるのは至極当然だが
仮に若くも美しくもナイ女しかいなければ
そこは躊躇せずにか、多少は躊躇したとしても
その女に選んでもらおうとするのが
男の性なのだ

最終的に性衝動を何とかしてくれるのであれば
ぶっちゃけ何でも構わナイ、てのが
雄の真っ当な種蒔き本能なので
手当たり次第に攻略を試みてく内に
選んでもらえたらラッキー、てなモノだ

攻略する順番は手当たり次第なんかではナイと
反論するヤツもいるかもしれナイが
そこはきっと個々の好みが反映してると思うので
傍から見てれば手当たり次第なのだよ

理性によって制御してはいるが
箍が外れた男はそんなモノだろう(-_-;)

それにしても
男が女を選ぶ時に
若さの判別は簡単だが
美醜の基準は曖昧模糊としてて
若いけど美しくはナイ女と
若くはナイが美しい女となると
どちらを選ぶかは微妙なトコロだ

僅差で前者をオススメするのは
生物学的な理由による
妊娠の確率が高く
子育てをするのに十分な体力があるからだ
でも後者も妊娠可能な限り
選ばれたとしても間違ってはいナイ

換言すれば
妊娠の可能性が全くナイ女だけは
美醜を問わず男を選ぶ権利もなければ
またそういう女を男が受け入れてしまうのは
生物学的には間違ってるとも言えるヽ(゚∀。)ノ

だからって
若くも美しくもナイ女は男に愛される価値がナイ
と思うのは生物学的狭量による早計で
哲学的とか、もっと素朴な情によるとか
あるいはスピリチュアル(霊的)とか
愛される理由付けはいくらでもある

むしろ社会的とか生物学的な結び付きは
若さと美しさと条件に適えば
もれなく誰でも゚+.(・∀・)゚+.゚イイとも言える

でも人間同士が愛を育むのは
とある妙齢の男ととある妙齢の女が、でなくて
個対個であって
性別も年齢も容姿も思想も何もかも
お互いが受け入れられれば
それだけでいんじゃん?

社会的かつ生物学的に条件が適って
お互いに合意した結婚だとしても
持続させるには条件を保ち続けるのでなく
他の要素で愛を育んでいかなければ
意味がナイワケで
条件が変わっただけで
破綻して離婚に至るのがオチ

その脆さに気付かナイで
社会的かつ生物学的な条件を
保つコトだけに奔走してる状態を
「若い」とか「青い」と言う

筑摩世界文学大系がお気に入りなのは
本文以外が充実してるからだ

巻末には必ず
充実した「解説」と詳細な「年譜」があり
更に巻によっては
他の作家による論文が収録されてたりするるる~

筑摩世界文学大系のモーパッサンの巻には
ロシアの文豪トルストイの『モーパッサン論』が・・・

筑摩世界文学大系【44/47】モーパッサン



「女の一生」岡田真吉訳
「ベラミ」中村光夫訳
「脂肪の塊」杉捷夫訳
 短編 杉捷夫訳
  「山小屋」
  「ペルル嬢」
  「橄欖畑」
  「シモンのパパ」
  「わら椅子直しの女」
  「狂女」
  「海の上のこと」
  「ジュール叔父」
  「ひも」
  「老人」
  「雨がさ」
  「くびかざり」
  「酒樽」
  「帰村」
  「あな」
  「クロシェット」
  「港」
「モーパッサン論」トルストイ / 木村影一訳
 解説 中村光夫
 年譜

そしてこれがモーパッサンを論じてるってよりは
モーパッサンとゆーフィルターを通して
自身の主義・思想を述べてるカンジで
大変興味深い内容になってる

なんせロシアには近代に至るまで
自国語の口語文学がなく(※)
仏文学に対するロシア人作家の劣等感は
そりゃあ根が深かったろう
ロシアの宮廷ではフランス語をしゃべってたくらいだ

貴族で才能にも恵まれてたトルストイだが
仏文学に対してのコンプレックスはあったに違いナイ

晩年のトルストイは
勤労農民の素朴な信仰心に回心させられ
自身の貴族の身分を恥じるようになったりもするが
「モーパッサン論」を書いてる時点では
まだその境地に達してなかったらしく
『女の一生』を大絶賛してるのが笑えるw

トルストイはあくまでも貴族目線で
主人公の貴族女のジャンヌに降りかかる
身に余る不幸を憐れみつつ
打ちひしがれても無抵抗でいる女に対して
純粋だとか、清らかだとか
見当違いの感動をしてるのであるwww

1日の大半が仕事に消費されて
やっと生活が成り立ってる勤労庶民には
(要するに自分のような人間には)
生まれながらにして生活苦には無縁で
自らが稼ぐ必要が全くナイ上に
家事や雑事さえも人任せの貴族女ジャンヌが
どんな悲劇に見舞われようが
おざなりに生きてられるのなんて
羨ましいくらいで、同情の余地無しp(-_-+)q

既に子供も与えてくれた夫に浮気されようが
その子供の放蕩が過ぎようが
それで明日のメシに困りゃあしナイのだから
悲しみに暮れてばかりいナイで
好きなコトをして楽しく生きればいんじゃん?

無趣味で無教養ゆえに
暇を持て余してるだけの貴族女が
「何もやるコトがナイ!」
などと嘆いてるのに対して
「なんと道徳的な女だ!!」
と感動できるトルストイのおめでたさには
さすが貴族、としか言いようがナイw

察するに
トルストイの周囲の貴族女はきっとこんなだろう

依頼心の塊のクセに我が強くて
欲深なワリに自身では何一つ行動を起こさず
気に入らなければ文句だけは人一倍

そんな女たちの厚かましさに
トルストイは辟易してただろうから
無欲なジャンヌを清らかな乙女として
崇め奉りたくもなるワケだ

ジャンヌときたら
ダメンズのダンナに騙され続けても
更に息子もダメンズに育て上げて
挙句に財産をもぎ取られても
他力本願で受身であり続け
生きるコトに消極的なままで
本ト、心底無欲・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

とはいえ
この時代の女が生きるためには
食わせてくれる男に対して
身を委ねるしかなかったのだから
貴族女も百姓女も娼婦も
男に傅かねばならなかった

それとゆーのも
社会が女にはごく限られた仕事しか与えず
微々たる収入を得る手段しかなく
それで生計を立てるのは大変なコトだったのだ

『女の一生』の原題『Une vie』は
直訳すれば「人生」で
とあるありふれた女の生涯の物語の意だが
このタイトルの解釈からして
トルストイの感覚が一般庶民とはズレてる

この作品の内容をなすものは、題名が示すとおり、破滅させられた、無邪気な、美しい行いならなんでもする素質を持った、愛すべき女性の一生の叙述である。

バタリ ゙〓■●゙

またモーパッサンの『女の一生』以外の作品について
トルストイは特にその芸術性について貶してる

モーパッサンのようにしか民衆を描かない作家、つまりブルターニュの下女たちの腰や乳房にしか興味を持たず、はたらく人々の生活は嫌悪と嘲笑とをもって描く作家は、芸術家として大きなあやまちをおかしているのである。

何が1番気に入らナイかって
男たちの放縦さにあるらしいが
トルストイはフランス文化に対して
畏敬の念を抱いてるからこそ
フランス男らの興味が
肉欲をそそるような対象にしかなく
貴婦人のはちきれんばかりに盛り上がった乳房や
下女の粗末なスカートを揺らす肉厚の尻などにあるのを
モーパッサンが赤裸々に描いてしまうコトに
「裏切られた感」があるぽい

しかもそこで女の方もそれに呼応して
お互いに理性を働かせるコトなく
本能に付き従ってしまうので
その低俗さに耐えられナイのだろうが
そこは自分も苦手意識があって
トルストイの言い分を理解はできる(゚*゚;)

でもだからって
放縦な男に騙されてる女に対して
それだけで同情するのはどうかと思う

逆にその放縦な男が
他の全ての性質も性悪だとは限らナイし
男のせいで不幸な目に遭った女が
それでも男を愛してる可能性もあるしね

トルストイは恐らく
放縦な男を悪と捉えてて
男が悲惨な目に遭ったり死んだりする場面では
きっと胸を撫で下ろしたりするのだろうが
そういうトコロもさすが貴族・・・

自分がジャンヌだったら
毎日自由時間を満喫して過ごせるだろうから
それを自覚できたら幸せ過ぎて
ダンナにも同等に幸せになる権利があると思えて
快楽を与えてくれる女に夢中になるのなんて
咎めようもナイけど・・・
既に息子を儲けてるのだから
自分に対しての義務は果たしてくれたんだしね

お互いに義務から解放されて
それぞれの快楽に耽ってるなんてのは
もしかしたら夫婦の理想形態ではナイだろうか?!

どんなに恵まれた人間も
そうと気付かなければありがたさを感じず
人生をどう生きるか以前に
まず今日を生き抜かなければと
そのために働いてる人間に
どう生きるか悩んでる時間は殆どなく
だからさもトルストイのように
「高潔に生きよう」とか誓ってるヨユーは
勤労庶民にあるはずもナイのだよ

『女の一生』以外の作品では
モーパッサンは生々しく庶民の人生を描いてて
それが自分には共感できるし素晴らしいと思えるが
そういう作品を蔑むトルストイは
さすが貴族、だ(こればっかりだな)

そして自分が『女の一生』を蔑みつつも
何度も読んだり映画を観てるのは
自身より社会的に恵まれた立場の女性の
無欲さが織りなす悲喜劇によって
自身の現実の厳しさが和らぐからだろう

どう控えめに見ても
ジャンヌより自分の方が
充実した人生を愉しみながら生きてる♪

モーパッサンのエスプリやユーモアと
自分のような江戸っ子の洒落は
生真面目なトルストイと無欲なジャンヌにゃ
理解できまいヽ(゚∀。)ノ

19世紀のフランス文学にハマって
メリメの『カルメン』
フローベールの『ボヴァリー夫人』
モーパッサンの『脂肪の塊』『ベラミ』
そして『女の一生』を立て続けに読んでた時期があって
全てがたまたま杉捷夫(としお)訳だった

『カルメン』を読むまで
カルメンの人物像を誤解してて
男にとってのみ魅力的な女だと思ってたが
女としてでなく、人として
生き様がカッコ好くて感動したし
死に様がカッコ好過ぎたのは残念だった

『ボヴァリー夫人』は
ボヴァリー夫人たるエマ(エンマ)が
夢見がちで不倫にひた走り
見栄っ張りで借金まみれになるような
勘違いバカ女で嫌悪感を抱いたが
自殺で落とし前を付けたのは
理想と現実のギャップに気付いたからだろうし
気付けナイような教育しか受けておらず
気付かせてくれる人間関係も育めなかったので
相対的には憐憫の情を抱けなくもナイ

『脂肪の塊』だけは短編で
面と向かってそうとは呼ばれてナイが
「脂肪の塊」と称されて噂される娼婦が
ラストで嗚咽するトコロで
一緒に嗚咽してしまい
読後もしばし嗚咽したままで
平常心を取り戻すのに時間がかかった程で
必ず泣いてしまう物語の1つとなった

『ベラミ』はそんな『脂肪の塊』と同じ作者なのかと
疑念を抱いてしまう程のピカレスク度MAX小説で
女を食い物にしてのし上がる男が主人公で
読後にはスタンダールの『赤と黒』で
出世を目論むジュリアン・ソレルが
なんだが可愛く思えてきた

そして『女の一生』のヒロインのジャンヌは
読み進むほどに肩透かしを食らって
何一つ共感できナイままに反感を持ってしまい
いくら悲惨な目に遭おうと
同情の余地もナイ程に嫌気が差した

先に『脂肪の塊』等を読んでおらず
『女の一生』一作だけだったら
モーパッサンを過小評価してたと思われw

美しくしなやかでスリリングな人間が好きで
特に女性は稀有な美貌によって
既にモラル的な是非は超越してるような美女だと
非凡な言動に魅せられ、心惹かれるのだが
するコトなすコト凡庸なジャンヌは
つまらナイ女の代表なのだ。(´д`;)ギャボ

でもそんなコトはタイトルで察するべきだった!
非凡な女の境涯が描かれてる作品は
『カルメン』や『ボヴァリー夫人』や『脂肪の塊』のように
その女の呼び名を冠してるのだが
『女の一生』は原題もそのまま『Une vie』で
不特定な女のままある人生、なのだよ。(゚д゚lll)ギャボ

そんな凡庸なジャンヌだが
父親のパーソナリティは実に興味深い!
93年を苦々しく思いつつ
革命の起爆剤となったであろう
ジャン・ジャック・ルソーの自然崇拝を
従来のキリスト教よりは信奉する!!

93年・・・1793年はルイ16世が処刑された年で
この年を苦々しく思うのは貴族だからだが
それだけの単純なキャラクターではナイ
貴族と言っても田舎に居を構えて
自然の中でのびのびと育ったせいか
貴族特有の高慢な性質も
悠然とした性格にすっかり呑み込まれてしまってて
周囲に不快感を与えるほど露呈しナイのだ
男気がある、とゆー程度

そして更にキリスト教には懐疑的で
ルソーの自然主義に共感を覚えてる点で
自分にとっては基本的に理解し合える相手だ

以上の父親についてのプロフィールは冒頭にあり
物語が進む中で少しづつ過去も解き明かされ
若い時にはなかなかどうしてやんちゃだったようで
情に脆く、感動しやすく
単に善良ではナイ心根の良さを持ち合わせてるぽい

その妻でありジャンヌの母親でもある婦人は
この父親に比すれば影が薄い存在だが
途中でいきなり意外な過去が発覚したりするるる~

そんな両親にしては
娘のジャンヌが主人公でありながら凡庸なのは
多感な時期に修道院にやられてたのが
原因と思われ。(´д`;)ギャボ

そんなワケで『女の一生』は
自分的には駄作と打ち捨ててたのだが
アラフォーになって違う訳で読み返してみたら
ジャンヌは凡庸だなんて
一言で簡単に片付けられなくなってた

ジャンヌの生活や人生に対する無欲さが
常軌を逸してるレベルで
非凡なコトに改めて気付いたのだ。(゚д゚lll)ギャボ

そしてジャンヌの全ての悲運は
その無欲さによるモノだとも思えてきた

例えば「金が欲しい」と思うから
働く(正攻法)、強奪する(非合法)
あるいはジャンヌの息子のように無心するのだが
無欲なので得ようと思わず
何のアクションも起こさずにいるし
逆に息子にたかられるままに
じゃんじゃん与えてしまえるのだ

浮気を放置しっ放しのダンナに対しても
悲しむだけで何の働きかけもしナイのは
単に裏切られたのが悲しいだけで
ダンナを欲してナイからだ

むしろダンナに限らず男が欲しくナイのだろう
そこはレズビアンの自分には唯一共感できる部分だw
ダンナにも他の男にも心や身体が傾くコトがなく
だから関心をすら惹く気がなく
女として美しくあろうなどと思いつきもせず
無欲なのだ

とはいえ、ジャンヌは冷酷な人間でもなく
フツーに愛情を育めるタイプだが
それを子供にだけ注いでしまったコトで
しかも庇護や過保護が過分に含まれてたせいで
息子の放蕩三昧が歯止めの利かナイレベルに達したのだ

ジャンヌはこの時代の良家の奥様にしては
赤ん坊を乳母に任せずに
自身で育てたのも珍しいってか変わってるが
乳母に任せっきりの育児に対して
「おかしいだろう?」と意見したのがルソーなので
さすが父親がルソー崇拝者だけのコトはある

でもジャンヌ自身はきっと
ルソーの教育論『エミール』を読んでおらず
だから息子を甘やかし過ぎて
ダメンズに育て上げてしまったんだろうヽ(゚∀。)ノ

ジャンヌは他の本もロクに読んでなかったから
その無味乾燥とした人生の中で
唯一感動したのがキリスト教なのは
もれなく当たり前の話だなw

『聖書』が世界的なベストセラーなのは
本を読まナイ大多数が唯一読んだ本だからだなwww

でもジャンヌはこれも父親の影響なのか
結果としては敬虔な信者にはならなかったのだ
教会に通ったりしなかったし
子供にも信仰を強要しなかった

なんせ子供の聖体拝受をどうしようか迷ってるのだ
同じくモーパッサンの『メゾン テリエ』では
娼婦が娘に聖体拝受をさせる話で
これは信仰心よりも親心で
堅気の子のように体裁を整えてやるんですが
それと比べたらジャンヌの信仰心は
恐らく娼婦にも異端視されるほどなんだろう

つまりジャンヌは人生には受身で翻弄されてても
決して世間には流されておらず
凡庸な人生を非凡に生き抜いたがために
不幸に身をやつした気がしてきた

salome

『新約聖書』ルカ9、ヘロデの恐れとバプテスマのヨハネの死の事情

 さて、国王ヘロデは、このすべての出来事を聞いて、ひどく当惑していた。それは、ある人々が、
「ヨハネが死人の中からよみがえったのだ。」
と言い、ほかの人々は、
「エリヤが現れたのだ。」
と言い、さらに別の人々は、
「昔の預言者のひとりがよみがえったのだ。」
と言っていたからである。ヘロデは言った。
「ヨハネなら、私が首をはねたのだ。そうしたことがうわさされているこの人は、いったいだれなのだろう。」
ヘロデはイエスに会ってみようとした。

『新約聖書』マタイ14、ヘロデの恐れとバプテスマのヨハネの死の事情

 そのころ、国王ヘロデは、イエスのうわさを聞いて、侍従たちに言った。
「あれはバプテスマのヨハネだ。ヨハネが死人の中からよみがえったのだ。だから、あんな力が彼のうちに働いているのだ。」
実は、このヘロデは、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤのことで、ヨハネを捕えて縛り、牢に入れたのであった。それは、ヨハネが彼に、
「あなたが彼女をめとるのは不法です。」
と言い張ったからである。ヘロデはヨハネを殺したかったが、群集を恐れた。というのは、彼らはヨハネを預言者と認めていたからである。
 たまたまヘロデの誕生祝があって、ヘロデヤの娘がみなの前で踊りを踊ってヘロデを喜ばせた。それで、彼は、その娘に、願う物は何でも必ず上げると、誓って堅い約束をした。ところが、娘は母親にそそのかされて、こう言った。
「今ここに、バプテスマのヨハネの首を盆に載せて私に下さい。」
王は心を痛めたが、自分の誓いもあり、また列席の人々の手前もあって、与えるように命令した。彼は、人をやって、牢の中でヨハネの首をはねさせた。そして、その首は盆に載せて運ばれ、少女に与えられたので、少女はそれを母親のところに持って行った。
 それから、ヨハネの弟子たちがやって来て、死体を引き取って葬った。そして、イエスのところに行って報告した。

『新約聖書』マルコ6、ヘロデの恐れとバプテスマのヨハネの死の事情

 イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にもはいった。人々は、
「バプテスマのヨハネが死人の中からよみがえったのだ。だから、あんな力が、彼のうちに働いているのだ。」
と言っていた。別の人々は、
「彼はエリヤだ。」
と言い、さらに別の人々は、
「昔の預言者の中のひとりのような預言者だ。」
と、言っていた。
 しかし、ヘロデはうわさを聞いて、
「私が首をはねたあのヨハネが生き返ったのだ。」
と、言っていた。実は、このヘロデが、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤのことで、人をやってヨハネを捕え、牢につないだのであった。これは、ヨハネがヘロデに、
「あなたが兄弟の妻を自分のものとしていることは不法です。」
と言い張った、からである。ところが、ヘロデヤはヨハネを恨み、彼を殺したいと思いながら、果たせないでいた。それはヘロデが、ヨハネを正しい聖なる人と知って、彼を恐れ、保護を加えていたからである。また、ヘロデはヨハネの教えを聞くとき、非常に当惑しながらも、喜んで耳を傾けていた。
 ところが、良い機会が訪れた。ヘロデがその誕生日に、重臣や、千人隊長や、ガリラヤのおもだった人などを招いて、祝宴を設けたとき、ヘロデヤの娘がはいって来て、踊りを踊ったので、ヘロデも列席の人々も喜んだ。そこで王は、この少女に、
「何でもほしい物を言いなさい。与えよう。」
と、言った。また、
「おまえの望む物なら、私の国の半分でも、与えよう。」
と言って、誓った。そこで少女は出て行って、
「何を願いましょうか。」
とその母親に言った。すると母親は、
「バプテスマのヨハネの首。」
と言った。そこで少女はすぐに、大急ぎで王の前に行き、こう言って頼んだ。
「今すぐに、バプテスマのヨハネの首を盆に載せていただきとうございます。」
王は非常に心を痛めたが、自分の誓いもあり、列席の人々の手前もあって、少女の願いを退けることを好まなかった。そこで王は、すぐに護衛兵をやって、ヨハネの首を持って来るように命令した。護衛兵は行って、牢の中でヨハネの首をはね、その首を盆に載せて持って来て、少女に渡した。少女は、それを母親に渡した。
 ヨハネの弟子たちは、このことを聞いたので、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めたのであった。


筑摩世界文學大系【12】グーテンベルク21角川文庫
ぷろろぐ(総序)ジェネラル・プロローグ序の歌
騎士の話騎士の話◆未収録◆
粉屋の話粉屋の話粉屋の物語
親分の話荘園管理人の語家扶の物語
料理人の話◆未収録◆◆未収録◆
法律家の話◆未収録◆◆未収録◆
バースの女房の話バースの女房の話バースの女房の物語
托鉢僧の話◆未収録◆托鉢僧の物話
刑事の話◆未収録◆送達̪史の物話
学僧の話◆未収録◆◆未収録◆
貿易商人の話貿易商人の話商人の物話
騎士の従者の話◆未収録◆◆未収録◆
郷士の話◆未収録◆郷士の物話
医者の話◆未収録◆◆未収録◆
赦罪状売りの話◆未収録◆◆未収録◆
船長の話◆未収録◆船乗りの物語
尼寺の長の話女子修道院長の話◆未収録◆
チョーサーの話◆未収録◆◆未収録◆
(メリベの話)◆未収録◆◆未収録◆
修道院僧の話◆未収録◆◆未収録◆
尼院侍僧の話女子修道院付司祭の話◆未収録◆
第二の尼の話◆未収録◆◆未収録◆
僧の従者の話◆未収録◆◆未収録◆
大学賄人の話◆未収録◆◆未収録◆
牧師の話◆未収録◆◆未収録◆
・解説・解説・『カンタベリー物語』の由来
・年譜・訳者あとがき

筑摩世界文學大系【12】のタイトルは『カンタベリ物語』で
著者名もジェフレイ・チョーサーとなってるのは
訳者が西脇順三郎で初めて訳されたのが昭和24年なので
昭和初期らしいカナ遣いになってるワケだ

冒頭のkindleも訳者が西脇順三郎で
著者名こそジェフリー・チョーサーとなってるが
タイトルも『カンタベリ物語』のままで
ブラウザから試し読みをしてみたら
リトアニアがリチュアニアになってるくらいなので
昭和初期らしいカナ遣いのままなのだなw

筑摩世界文學大系【12】では
巻末の解説に訳者の西脇によるモノとは別に
オルダス・ハクスレー(鷲尾久訳)によるモノがあって
巻末の年譜も詳細で充実してるし
ラブレーの『ガルガンチュア物語』とのカップリングなので
お得だと思われ^^

『ガルガンチュア物語』の訳は渡辺一夫で
巻末にはもちろんラブレーについての解説も年譜もあり
解説にはアランの書いたモノもある!

筑摩世界文學大系は半世紀前の古い書籍なれど
紙質が良く外箱以外は殆ど劣化してナイので
完訳版の紙の書籍を安価で入手するなら
アマゾンでこれを買うがよろし♪
自分もこの10年くらいの間に購入したにも拘わらず状態の良好な本にしか巡り会ってナイ

筑摩世界文學大系【12】チョーサー/ラブレー
筑摩世界文學大系【12】チョーサー/ラブレー

なぜかアマゾンには同じ本なのに2ページある・・・が
筑摩世界文學大系はこういうダブリが多いので気にするコトはナイ

グーテンベルク21

完訳 カンタベリ物語

角川文庫

カンタベリー物語

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完訳 カンタベリー物語〈上〉 (岩波文庫)
完訳 カンタベリー物語〈中〉 (岩波文庫)
完訳 カンタベリー物語〈下〉 (岩波文庫)

紀伊國屋新宿本店で「ほんのまくら」なるブックフェアをやってて
これが実に気色悪いのだが書き出しの一文が表紙になってて
著者名や作品名がわからナイ状態で売られてたのは
2012年の夏だった


出典:www.mishimasha.com

自分には読みたい本も買いたい本もあり過ぎて
こんなイベントに足を運んでまで
本の無駄買いをする意欲は到底持てナイが
小説の冒頭ってのは凄く興味深い

もちろんそれは興味の範疇にある小説に限った話で
この抽出の無作為さは闇鍋の具のような気持ち悪さしかナイ

オスカー・ワイルドの小説『ドリアン・グレイの肖像』は
次のような一節から始まってる

 アトリエの中には薔薇のゆたかな香りが満ち溢れ、かすかな夏の風が庭の木立を吹きぬけて、開けはなしの戸口から、ライラックの淀んだ匂いや、ピンク色に咲き誇るさんざしのひとしお細やかな香りを運んでくる。

自分は初めてこの出だしを読んだ時には
文脈からその情景を思い起こして
どう考えても矛盾してるとしか思えなかったw

美に対する直観が鈍い、とワイルドに嗤笑されそうだが
科学的に、理性的に、現実的に、考えてみれば
薔薇のきつい匂いが充満した部屋では
風にのって運ばれてきたライラックやさんざしの香りなど
感じ取れるはずもナイのだ。(´д`;)ギャボ

そして少し先に読み進むと
これがまたよくわからナイ例えにぶつかるるる~

時おり、おもてを飛ぶ小鳥の夢のような影が、大きな窓にかかった長い山繭織りのカーテンをよぎり、その一瞬、まさに日本的な気分をつくり出す。すると、かれの脳裡には、固定した芸術媒体を通じて身軽さと動きの感じを伝えようとするあの東京の画家たちの硬玉のように青白い顔が浮んでくる。

え~と・・・。(゚д゚lll)ギャボ

このワイルドの日本観を用いた例えは未だに理解に苦しむが
情景をはっきりと思い描こうとするからこそ
さっぱり掴めなくなるのだ
単に異国情緒の雰囲気が漂った気がする、なんてトコロだろうか?

どうもワイルドの小説は表現が詩的過ぎるのであるるる~

確かにこういう表現は
ボードレールやランボーの詩には多用されてて
はっきり思い浮かべると情景が重なり合ってしまい
実体が掴めなくなってしまうのだが
それが詩なら抽象的であっても何も問題はナイ

悪の華 (集英社文庫)

尤も詩の場合には
情景の正確さより語句の美しさ自体を愉しむので
矛盾が生じてもそれに捉われるコトもナイのだが
小説中ではどうも引っかかるのだ

ボードレールはこの表現方法についても自ら詩作してるが
その詩のタイトル『コレスポンス』は
鈴木信太郎によって【交感】
また堀口大學によって【呼應】と訳されてて
これは五感によって概念を直観的に感じさせる手法である

万人に共有される秩序だった理解ではなく
特異的な美感を持つ者にしか感じようがナイ「悟り」・・・とでも言おうか?

そのモノの本質的な美を感じ取らせるために
研ぎ澄まされた美意識から共鳴を呼び覚ます語句を鏤めるのだが
その語句には自然の色や香り、花や鳥の名など
これは残念ながら幼少期の内にその美しさに胸を打たれた記憶がなければ
どうにも持ち得るコトができナイ感覚だったりもする

なのでまるでわからナイモノの門前払いをしたがってるかのようなのだが
小説でそこまでやるのはさすがワイルドだなw

オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』の「序文」には
ワイルドの芸術論が述べられてて、冒頭に芸術家の定義がある

芸術家とは、美なるものの創造者である。

また末尾を次のように結んでる

すべて芸術はまったく無用である。

要するに総ての美しいモノの中で人間が創ったモノが芸術なのだが
それら人の手による美は無用だってコトだ

確かに人間によって創られたのではナイ自然発生した美は
その美しさが必ず生命の営みに有用なのである

そして無用な美である芸術の存在は
だからこそ道徳的に善か悪かなどと判断すべきモノではナイし
ましてや芸術を解さナイ人間が無理矢理有用性を謳うのはナンセンスだし
そういう的を得ナイ芸術の批評はそれこそ有用ではナイばかりか有害だ

テンペスト―シェイクスピア全集〈8〉 (ちくま文庫)

そんなコトが述べられてる中で例えに使われてるのが
シェイクスピアの『テンペスト』に出てくるキャリバンである

十九世紀におけるリアリズムにたいする嫌悪は、キャリバンが鏡に映った自分の顔を見るときの怒りと異なるところがない。
十九世紀におけるロマンティシズムにたいする嫌悪は、鏡に自分の顔が映っていないといって怒るキャリバンそのままである。

前者はリアリズム(写実主義)への
後者はロマンティシズムへの批判を掲げる輩に対して
その滑稽さをキャリバンをして醜さの象徴としながら嘲笑してる
美を直観的に理解できナイ輩はまるでキャリバンだ、とねw

リアリズムの写実表現に対して「事実のままでしかナイ」とか
ロマンティシズムの夢物語に対して「現実的ではナイ」とか
わかりきった批判をするのはキャリバンと愚かさも卑しさも同レベルだってワケだ

19世紀のリアリスム(リアリズムの仏語的発音)文学と言えば
自分はフローベールの『ボヴァリー夫人』が真っ先に頭に浮かぶが
この作品は発表の翌年に告訴されても最終的には裁判に勝ち
また裁判沙汰になって話題になったお蔭で(?)
フランス中の人間がこの本を貪り読むに至った問題作だ

ボヴァリー夫人(新潮文庫)

どの辺が問題だったのかは
『ベランジェという詩人がいた』より起訴事実の部分を引用する

公衆及び宗教の道徳並びに良俗侮辱罪

『ボヴァリー夫人』の主人公のエマは夢見がちな女性で
ロマン主義に浸り
ありもしナイ自身を見出してしまって
不倫に走り
夫に内緒で散財して
行き詰まったトコロで死に至るのだが
先に引用した罪に問われてるのは実はこのエマであり
エマの代わりに彼女を創造したフローベール(と出版社)が
法廷に引きずり出されたのであるヽ(゚∀。)ノ

似たような裁判はボードレールにもあり
こちらはあろうコトか罪が認められて
ボードレールは罰金を課され
問題とされる部分(禁断詩篇)は総てカットされた

この辺の事情をワイルドは仄めかしてる気がするるる~

しかしワイルドの場合は作品が罪に問われたコトはなかったが
自身の男娼の罪で服役してるのだから
ある意味1枚上手なのだろうか?!

オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』は
純朴な美青年だったドリアン・グレイがその美貌を讃えられ
調子に乗ってヘンリー・ウォットン卿に翻弄されまくり
ダークサイドに堕ちてしまう物語。(´д`;)ギャボ

ところがドリアンの外見が
いつまで経っても若く天使のように美しいままで
寄る年波も邪悪な精神面も微塵も反映されなかった。(゚д゚lll)ギャボ
それは非科学的な事態だが
画家バジルによって描かれた肖像画が
当人に代わって年老いて醜悪な容貌へと変わってたのだ
そんな肖像画の存在をドリアンは秘密にしてて
結局はなぜそんな奇蹟が起きたのかは謎のままに終わるのだが
これは謎解きが主題なのではナイ

ブロマイド写真★『ドリアン・グレイ 美しき肖像』ヘルムート・バーガー/白黒

ドリアン・グレイのモデルとなった「輝ける青春」
若さを失していくのと併行して
美貌も褪せて、輝きようもなくなって
そう呼ぶ者もいつしかいなくなっただろうが
ワイルドはドリアン・グレイには
当人に代わって肖像画に歳を重ねさせたので
苛酷にも見た目だけがいつまでも若く美しく輝いてた(-_-;)

なぜそれがドリアンにとって苛酷だったのかと言えば
時が止まったワケではなかったので
生身の見た目が変わらなかっただけで
実は老いさらばえて醜くなっていってたのだ

「老いる」とはどういうことか (講談社プラスアルファ文庫)

老いとは単に生物学的な老化だけではナイからだ
まず生物学的な老化があり
それで身体が思うように動かなくなるワケだが
見た目にもその鈍重さが顕現してきて
いつしかあからさまに鈍そうに見えるようになるし
実際の鈍さも伴ってくのだ

全体的な鈍化に比べたら
むしろ精神の顔面への反映はもっと迅速だ
卑しさや残酷さなどは思いついた瞬間に表情に映し出されるし
そんなよからぬ想いにばかり捉われてる人間に
醜い表情の癖がついてしまうのは
老いを待つ必要さえナイのだΣ(゚д゚lll)ガーン

ドリアンの肖像画はそういった老いのメカニズムを
上辺だけ当人の代わりに請け負ってくれたので
悪徳に染まっていく過程でどんどん醜く変貌していき
どっぷり悪徳に浸った時にはまだ年齢的に老いがくる前だったが
もう十分に醜怪に朽ちてたのだ((((; ゜Д゜))) ガクガクブルブル

ワイルドはその高い美意識から
ぱっと見だけ小奇麗だが邪悪な表情を持つ人間を皮肉って
そこを赤裸々に映し出すこんな物語を書いたんだろう

自分は学生の時に生物の中でも特に単細胞生物の魅力にとり憑かれてたが
彼らのオートガミーなる細胞の蘇生の秘術は
ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』を読んでこそ理解できた

生命はどのようにして死を獲得したか―老化と加齢のサイエンス

オートガミーは老いた細胞が若い細胞に蘇る機構で
この生命の不可逆反応の摂理を超越した現象を初めて知った時は
どうしてそんなコトが現実に起こるのか理解不可能だったが
単細胞生物が無垢であるならそれもありか?!

昨今のアンチエイジング・ブームの風潮を担う医療技術の進歩が
三位一体とも言える若さと美貌と輝きの中から
若さと美貌だけを切り離して
一見して若く美しく見えるような
様々な手段を提供するようになったが
単細胞生物のオートガミーほどの完璧さがナイのは
多細胞生物の高次設計のせいかw

自分も確かに若さは保持したいと思う
日常生活をしっかり送るための健康な身体と健全な精神に加えて
更にタフに生きようと思ったらしなやかさは失いたくナイ
敏捷さが多少衰えてもしなやかであれば
身体的な苦痛は少なくて済むからだ
また心のしなやかさは瑞々しい感性の所在に他ならナイが
最期の瞬間まで「あはれ」を愉しめる自分でいたい

ドリアンは見た目のみ若く美しいまま年月を経ていくが
その心は既に醜悪に腐りきってしまってた
そこに不快感を感じナイ美意識の低い人間ほど
安易に見た目だけの安っぽい美を執拗に求めるのだね(゚*゚;)

ちなみにドリアンのモデルの「輝ける青春」について
画家バジルのモデルとなった男は「画家の序文」でこう証言してる

ワイルドの創造した悪の主人公とは正反対の存在であったことはいうまでもない

オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』の
新潮社版の冒頭には「画家の序文」があり
この画家とはバジルのモデルとなった男なのだが
主人公のドリアン・グレイのモデルについて触れてて
それは次のように書き出してる

わたしのモデルのひとりに、友人たちから「輝ける青春」と綽名されるほど、ひときわ目立つ美貌の青年がいた。

ドリアン・グレイの肖像 (新潮文庫)

若さはそれ自体が魅力的で光彩を放つのだが
その光が最も眩しく感じられるのが青春なる時期であろう
幼さから若さへ移行したばかりの頃だ

なので、青春の形容に対して
わざわざ「輝ける」などと付加する必要はナイのだが
類稀なる美貌の持ち主ともなれば
若さと美貌の相乗効果で神々しいほどに光り輝いて見えても無理はナイ

波うつ金髪、生き生きと赤みがかった頬、健康ないたずらっぽさと、品の良いユーモアと、高邁な思想とにきらめく眼。
東風が吹きすさぶときでさえ、この世を愉快なものと思わせるような若者だった。
ひとの良さと陽気さが全身から発散して、かれがはいってくれば、陰鬱このうえない部屋もほんのりと明るみを帯び、輝くのだった。

まるで太陽神アポロンを思い起こすような形容だが
神であるアポロンは永遠の美青年であり
人間であるドリアンが美青年でいられるのは
通常であれば余りにも短い期間だ。(´д`;)ギャボ

その儚さに気付いた瞬間にはドリアンに憐憫の情を禁じえナイが
ワイルドも歎息まじりにこう言ったそうだ

あんなすばらしい人間が年をとってしまうとは、なんという傷ましいことだ

若さには美が宿ってるが
美貌が輝いて見えるのは若さ故なのだ
若さを失すれば美貌が損なわれずとも輝きを失ってしまう

もちろん老いてもその人らしい美しさを携えてる人もいるが
万人が認めざるを得ナイような若く美しい人間とではその輝きの質が違う

若さ、それは無敵だが脆く儚い輝きであり
日本語にはこの輝きを表現するのに最適な言葉がある
「あはれ」だ

若さを失った時に何も残らなければ
どれほどの美貌でも輝きを失う

若い時に若さ以外に何を持ち得るかで
老いた時の顔は決まる

そう思えるので
美し過ぎる若者にはつい憐憫の情を抱いてしまうのだ(;つД`)
稀有な美貌に恵まれた者が若さに輝いてる時は
まさに無敵なので
老いた自身の姿などとても想像するコトができず
実際に老いてしまって輝きを失い美貌も褪せてみて
もはや何も人の心を捉え得ナイ自らに直面した時の
失望と絶望ははかりしれナイだろう
それまで愛され慣れてきただけに落差はいかばかりか。(´д`;)ギャボ

ワイルドの嘆きも単純に老いで美貌が損なわれるってだけでなく
それに気付けナイ悲劇をこそ輝きの中にも見取る故なのだ

しかし若さを必ず失わなくてはならナイのは
自然の摂理なので享受するしかナイ
そこで画家バジルのモデルとなった男は
ワイルドに賛同して言った

もし「ドリアン」がいつまでもいまのままでいて、代りに肖像画のほうが年をとり、萎びてゆくのだったら、どんなにすばらしいだろう。
そうなるものならなあ!

この会話から生まれたのが
虚構の「輝ける青春」に執り憑かれた若者の物語
『ドリアン・グレイの肖像』だった

オスカー・ワイルドの『The Picture of Dorian Gray』は
自分はこれまで新潮社版の『ドリアン・グレイの肖像』しか読んでおらず
その冒頭にある「画家の序文」も小説の一部と信じて疑わなかった

The Picture of Dorian Gray: An Annotated, Uncensored Edition

ところが筑摩書房版(※)の『ドリアン・グレイの画像』を読んでみたら
「画家の序文」がなかったのだ。(゚д゚lll)ギャボ
慌てて本屋に駆け込んで光文社版(仁木めぐみ訳)をチェックしたが
これにもなかったのでもしかするとナイのがフツーなのか?!
筑摩世界文学大系【91】近代小説集

まず「画家の序文」がどういうモノであるかを簡単に説明すると
登場人物である画家バジルのモデルとなった実在の男(仮に「実在のバジル」とする)が
そうとは知らずにある日この本を入手してみたら
ワイルドとのふとしたやりとりから生まれた物語のようだ、と回想してるのだが
これはワイルド自身が書いた信憑性を与えるための演出と思われた

しかしよく考えてみれば(いや、よく考えなくても)これが演出なはずはナイ

何年か過ぎたある日のこと、ふとした機会でこの本がわたしの手にはいった。

つまり実在のバジルが初版を入手してたと仮定した場合
そこに「画家の序文」が入ってたら矛盾してしまうではナイかヽ(゚∀。)ノ
そんな間抜けなパラドックスをワイルドがわざわざ演出するとは考え難い・・・

とすると「画家の序文」は少なくとも初版出版時(1891年)にはなくて
実在のバジルがそうと気づいて以降に付け加えられたのだろうが
いつどういういきさつで附されたのかの仔細がナイ

いつ、を推測すれば

ワイルドはこのテーマを永いあいだ暖めていたにちがいない。

ともあるので、実在のバジルは「ちがいない」と確信しつつも
それをワイルド自身に確認をとってはいナイコトから
ワイルドの死後(1900年以降)だろうか?

あるいは生きてても獄中にあった(1895年~1897年)間のみ
出版社が勝手に附けてた、てのもありうるか?

とにかく実在のバジルは自身がモデルとなってるのを
ワイルドから知らされてなかったのだから
本を手にした「ある日」以降にはもちろんのコト
恐らく「ある日」までもワイルドとは永らく会ってなかったワケだ

そしてどういういきさつかは「ある日」以降に実在のバジルが
自らすすんでなのか、周囲に乗せられたのかは不明だが
出版社から「画家の序文」の執筆を依頼されて書いたのだろう

なので「画家の序文」の存在はワイルドの知るトコロではなく
もしかすると意に反してるかもしれナイのだ
それとゆーのもいわゆるネタバレ的要素も含まれてるので
出版社の方針として新潮社以外ではわざと省いてるのかもしれナイ