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幼少時に通ってた小児科医の待合室には
学研から出てたまんが『生きている地球』がおいてあった

宇宙が出来て
地球が生まれて
そこに生命が生じて
生物が進化してく

その過程がとても理路整然として描かれてたので大いに納得したが
子供の純粋無垢さを差し引いても疑いの余地がなかったから
記されてるコトが事実だと素直に信じられたのだった

ところが同じ頃に教会で教えられた「天地創造」の方は
自分にとっては釈然としナイ部分が多く
深く追求して質問すればするほど理不尽な回答しか得られず
とても歴史的事実だとは信じ難かった
いや、明らかに寓話だと断定できたのだった

そもそも自然に興味津々の子供で
花や鳥や虫が好きで図鑑が大好きだったせいもあり
現存する生物だけでも膨大な種類があるコトをよく心得てたので
そりゃあ「ノアの方舟」の話には合点が行くワケがナイw
総ての動物をつがいで方舟に乗せるなんてのは
文明の利器が揃った現代においてさえ物理的に全く不可能なのだから
それを真実だなんて受け止めようもなかった

だから「天地創造」の際に
あるいはノアが方舟に動物のつがいを詰め込む際に
【種】の数をカウントしてたなら
これらが寓話でしかナイコトがもっとはっきりと示せただろうにチッ(-д-)、
なんて舌打ちしてはひとりごちてた・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

しかしサンタクロースを信じる子供は愛らしいし
その期待に応えようとしてサンタクロースを演じる親は更に愛らしい(*^^*)
その穢れなき魂のあり方は人として愛らしい!
穢れなき魂には罪はナイし愛らしいコトは美しきコトである!!
そんな美しい事態なら
サンタクロースを信じてナイコトを非難されるのも心地゚+.(・∀・)゚+.゚イイし
こちらもあえて否定する気は毛頭ナイ

信じる信じナイは別としても
自分も神話や伝説の類が好ましいと思える性質ではあり
これらが夢や希望を与えてくれればどんなに不条理だって構わナイ

尤も寓話としての正しさは科学としての正しさとは全く逆なので
科学的に寓話を否定する余地などナイのだ
寓話を彩る迷信の類が近代に至って科学的に実証されるコトはままあるが
時空を経て継承される内にどんどん変化してった寓話は
原初のモノこそが正確だ
正確と言うのは内容が正しいかどうかでなく
例えばディズニーが改変した寓話は
アメリカ国民の能天気さに合わせてか悲劇的要素は排除され
時に悲劇もハッピーエンドの結末に書き換えられ
もはや原典とはまるで違ったモノになってしまってたりするが
寓話としては完全に間違ってる
(まあエンターテインメントとしては楽しませられれば何でもOKで
寓話としての真意を伝える必要なんかナイんだがね)

それに比べて科学となると
その時点での最新理論こそが最も正しい
とお互いが仮定して話を進めるし
それまでずっと正しいとされて皆が信じてたコトでも
実は正しくなかったと証明さえできれば
その証明を裏付ける新説の方が正しい、つまりは元の説は正しくナイ
そうなれば元の説は時代を経て顧みられなくなるモノだ

また寓話と科学は価値も正反対だ

寓話は多少辻褄が合わなくたって非現実的であったって
間違っていようもナイ類のモノで
そこに求めるのは何が正しいかでなく
先人の知恵だったり、信奉の根源的な挿話だったり
先述のディズニーならば単に愉しめる要素だ

反して科学は事象の実体の解明で
それが理性的、客観的、第三者的であるコトに意義がある
(但し、特に学会のような組織が確固たる権威を持つようになってから
権威主義によって価値が決まる場合もあり
極端な話、真偽を実証できナイ複数の説があったとしたら
最も権威ある学者の説が真偽以上にまかり通るコトもあった)

そういう根本的に成り立ちの違う寓話と科学が
同じ土俵でどちらが正しいか決着をつけようとするのは
その取り組み自体がナンセンスである

なので、サンタクロースの存在を信じる子供は無敵だ。(゚д゚lll)ギャボ

自分は無神論者で科学をよく勉強してたが
高校で「応用微生物」を勉強してる時にこんな風に愉しんだ

これらの生物も「天地創造」の時に神が創ったとしたら?
性別もナイ微生物をノアはつがいでなくてコロニーで方舟に詰め込んでたのか?
生物か非生物か不明のウイルスも方舟に乗れたのだから今に至るとしたら
どうやって箱舟に乗り込んだのだろうか?
そもそも神としてはウイルスを生物のつもりで創ったのか?

・・・次々と想像してたら仕舞いには噴出さずにはいられなくなるが
科学の概念で非科学的な物語に想いを巡らすのは愉しい(^▽^*)

どちらを信奉するかきちんと決める必要ナイし
決めたからって信奉しナイ方に敵対する必要ナイし
必要ナイコトを上手くできナイからってそれに対して懺悔するなんてのは
全くもって不要だと思うのだがそれを生真面目にやってたのが
このトルストイの『懺悔』だったりするのだ

懺悔 (岩波文庫 赤 619-0)

絶対に答えが出ナイ問題をずっと考えてたらツライ
世界の始まりはどうだったか?
どうやって生命は誕生したのか?
なぜ生物種はこれほどまでに多種多様なのか?
・・・etc.etc.なんてのは問題が大き過ぎるだけに
これはもうシラフで悩んでたらもれなく気が狂って当然だろう

以前読んだ時はトルストイに同調して
同じ真実の深淵に嵌って気が狂いそうになった・・・んでやめたヽ(゚∀。)ノ

深淵を彷徨い続けてはいけナイ
実際に深淵の虜となったニーチェなんかはもう・・・ヤヴァイ
抜けられナイ恐ろしさと虚しさでうっかり死にたくなったりするが
これでちょっと気がふれてて簡単に死ぬ方法があれば
もれなく死んでしまうからだ

嘔吐

同じ感覚をもっとよりリアルに味わうならサルトルの『嘔吐』だが
今読み返してみると全然リアル(現実的)ではナイね
なんせトルストイはもちろんサルトルも発想が庶民とは隔絶してて
それはとりもなおさず生活が庶民とは一線を画してたからだ

働けど働けど我が暮らし楽にならざりじっと手を見る

そんな啄木の気持が切実にわかるほどになると
『懺悔』も『嘔吐』も働かざる者の倦怠からくる憂愁だとわかる

個人は個人として成り立ってる以上に
相互関係あってこその自己がまず存在してると思う
それを構築してくのが自己の追求であり
それは最愛の人だけでなく
自分と係わる全ての人によって形成されると思う
対峙する相手によって自分が変化するのがフツーで
いかなる時でも無駄に卑屈になる必要もなければ
そういう卑屈になる人に対してあえて高飛車に出て蔑む必要もナイ

魂のまま
ルソーの言う自然
それが最良なのだと思う

ゴモラの放蕩児のように奔放な無神論者である自分だが
社会を腐敗から離脱させようとするくらい清く正しく
宗教(とゆーか神)に忠実でもあるルソーに対して
なぜか説教臭い部分を感じナイ

 自分自身に対して誠実でなくてはならない。わたしの意見からきみに納得のいくものをわがものとして、残りを棄てるがいい。
『自然宗教論』の結論の一、個人的宗教と伝統的宗教より(平岡昇訳)

ここがルソーの押し付けがましくなくて好きな部分(*^^*)
でもそこんとこは忠実に遵守してるな~

河出書房から出てた『世界の思想(2)フランスの啓蒙思想』
これアマゾンで検索しても出てこなかった。(´д`;)ギャボ
モンテスキューの『法の精神』と
ルソーの『社会契約論』『自然宗教論』の
素晴らしいカップリングだったのにな・・・
☆追記.....

よく探したらあった!

それにしても
エミールくらい自然に育て上げるのは
現代においては自然の状態をカナ~リ意識しナイと無理だが
それって実は不自然だったりするw

※『自然宗教論』は『エミール』の第4篇にある
「サヴォワの助任司祭の信仰告白」部分で
岩波文庫では『エミール(中)』のp120~p220
ちなみに岩波の訳は今野一雄である

【参照】フランス啓蒙思想

世界の思想(2)フランス啓蒙思想