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現エリザベス女王はエリザベス2世なのだと
最近になって知った、とゆーか再認識したのだが
エリザベス1世となると1558年に25歳の若さで即位して
一生を独身で通したテューダー朝最後の女王だ

生涯に6人の妻を持ったヘンリー8世を父に持ち
母はその2番目の妻アン・ブーリンだ
映画『ブーリン家の姉妹』ではナタリー・ポートマンによって
美しさゆえに勝気なアン・ブーリンが描かれているが
実像は冴えナイからこそ女子力に磨きをかけたぽい

ブーリン家の姉妹 [Blu-ray]

ヘンリー8世の妻になるまでの策士ぶりとか
前妻を陥れてからのその娘にまで及ぶ悪辣な仕打ちとか
その美貌によってちやほやされるのが当たり前の
ヨユーがある女には在り得ナイ陰湿さなのでそう思うのだがw

このアン・ブーリンの陰謀で
前妻との離婚を(より正確には離婚ではなく婚姻の無効を)
ゴリ押ししたヘンリー8世は
ローマ・カトリック教会と真っ向から対立した。(゚д゚lll)ギャボ

(仮)ザ・チューダーズ ヘンリー8世/背徳の王冠 DVD-BOX1

それとゆーのも聖トマス・アクィナスが認めてませんでしたから!(※)
ああ、しかしトマス様、なんたるコトでしょう!!
ルター批判によってカトリック信仰の擁護者の称号を授かった王が
遂には破門されてしまうとは・・・(←『トリストラム・シャンディ』風w)
ヘンリー8世の時代のトマスと言えばトマス・モアだが、モアも認めておらず
それが原因でモアはロンドン塔に幽閉ののち斬首刑に処された
またそうしてモアを追い詰めるに至った国教会の支持者クロムウェル卿もトマスだった

でも現代日本人からしたら一国の王の婚姻について
なんで他国の教会組織に許可をもらう必要があるのか???だし
従わなかったら破門されるってのも???だろうし
そもそも破門ってのが意味不明かと・・・。(´д`;)ギャボ

カトリック信者にとってのローマ・カトリック教会は
人間による神の代理組織の頂点、なのだ(現代においても!)

そこから破門されてしまうと秘蹟を享受できなくなり
秘蹟による赦しがなければ死後は地獄行き、と信じられてるるる~

聖地奪回のための十字軍遠征にこぞって参加したのも
そうすれば赦しを得られるとローマ・カトリック教会が説いたからだし
また参加せずとも金銭によって参加したコトにしてもらえたのも
ローマ・カトリック教会がそう示唆したからだ

これで免罪符による教会の不当な金儲けが正当化されたのを
おかしい、と感じて信仰の意義を唱えたのがルターの宗教改革で
ヘンリー8世在位中(1517年)の出来事だったが
熱心なカトリック信者でインテリだった王は(女癖は悪かったが)
ルターを批判しカトリックの秘蹟を擁護する文書を著して
当時の教皇に【信仰の擁護者】と称された

その同じ王が、たかが女性問題なんか(※)で
ローマ・カトリック教会と決別して仕舞いには破門されてるって
どんだけ女に弱いの?バカなの???
王妃はそのままにしといて影で愛人ともよろしくやるのが穏便な方法では?!

しかもそこまでして結婚したアン・ブーリンなのに
数年後には離婚してロンドン塔に幽閉した後にあっさり処刑ヽ(゚∀。)ノ
そういう両親の熾烈な愛憎劇の渦中に生まれ落ちたエリザベス1世が
決して結婚しなかったのには諸説あるが
自分としてはこのバックグラウンドだけで十分と思えるがね

このエリザベス1世の治世は1558年~1603年と44年ほども続いてて
シェイクスピアやマーロウの演劇が持て囃されてたが
要するにこの時代の文学と言えばほぼ戯曲だった

エリザベス朝演劇集〈1〉

そこからするとトマス・ハーディの『ダーバヴィル家のテス』での
以下の表現はシェイクスピアやマーロウに見受けられるのだろうか?

白雪をちりばめた紅ばらという、エリザベス朝の古めかしいたとえを、これほどしつこく、くり返し思い出させる女性の唇と歯を、いままで彼はついぞ知らなかった。彼は恋人としてだったら、それらを即座に完璧な口もとだと呼んだかもしれない。しかし、いや――それらは完璧ではなかった。一目みて完璧と見まごう画面に、一刷毛の描き残し、または不完全さが残っていてこそ、甘美な魅力は生まれるのだ、――不完全さ、それは人間性を発揮する要素だからである。

自然が望む美はシンメトリーなのだが
人間が憐憫の情を抱くのはアシンメトリーで
完璧にほど近い美の中の僅かに不完全な愛くるしさなのだ

そんなテスの唇を見つめる時
恋人のエンジェルは全神経をつらぬく薫風が吹き起こりめまいがするそうで
この薫風はギリシア語で「アウラ」(大沢衛の訳は【開花発気】)だ
なんて瑞々しい表現だろう・・・ホゥ(*-∀-)

テス  Blu-ray スペシャルエディション

ロマン・ポランスキによって映画化された『テス』では
小説で想像してたよりも幾分明るいイメージのナスターシャ・キンスキーが
ハーディの美的表現通りのテスを演じてたが
当時17歳のキンスキーはこの時ポランスキと深い仲だったそうで
だからこその出来の良さなのかもしれナイが
そこにどうにも苦々しさを感じてしまうのが残念だ

映画『テス』はポランスキの亡き妻シャロン・テイトに捧げられたが
それは彼女こそが夫に映画化を勧めてたからなのだ
チャールズ・マンソンの狂気の犠牲となる前に・・・

Puritan、即ちピューリタンとは何ぞや?!

事の始まりは1517年のルターの「95ヵ条の論題」だった

何が始まったかってキリスト教における宗教改革だが
改革、てのは改革前の元の状態があるワケで
それが免罪符の発行を許可したローマ・カトリック教会だ

宗教改革における立役者マルティン・ルターは
ドイツのザクセン出身の神学者だが
ルターの地元のヴィッテンベルク教会でも
魂の救済を約束する免罪符が発行されたのに対して
批判的な意見を「95ヵ条の論題」として提出したのだ

免罪符の起源は11世紀末~13世紀末に遡る
セルジューク・トルコに占領された聖地イェルサレムの奪回のために
キリスト教徒が十字軍として遠征してたのだが
実際に従軍する代わりに教皇指定寺院への参詣と寄進で
従軍した分の苦行を果たした、とする証明書を発行したのだが
この教皇指定寺院がローマ・カトリック教会だ

免罪符は言わば十字軍従軍代替苦行追行証明書だったのだが
十字軍遠征を行わなくなってからも
これが天国行きのパスポートに成り代わって
教会の財源確保目的に利用(悪用?)されるようになり
それに対してルターは次のような見解を表明した

免罪符なぞ買っても罪は贖われず魂の救済にならん!
教会のこの商売の仕方は神に遣えるものに似つかわしくナイ!!

現代日本人にはルターの言い分の方が尤もだろうが
当時のヨーロッパの世界観はキリスト教の神に支配されており
現世における神の代理機関がローマ・カトリック教会だったのだから
ルターの意見書が受け容れられようはずもなく
大論争の結果はもちろん教皇無謬となり
ルターと彼の支持者は教皇に破門状をもらう破目に陥った。(´д`;)ギャボ

そこでその破門状を燃やしてしまったルターは
ドイツ皇帝カール5世に意見書取り消しを強要されるも
なんせ教皇からの破門状を燃やすほどのルターが
皇帝の、要するに神学に素人の人間に屈服するワケもなく。(゚д゚lll)ギャボ

交渉決裂後、カール5世は自身の保身のためにルター派禁止令を発し
ここでルターの身柄も拘束されて然るべきだったのだが
当時のドイツは諸侯がそれぞれの領地を独立国のように統治してて
皇帝に絶対的な権力がなかったゆえ
反皇帝派の諸侯ザクセン公フリードリヒが
ワルトブルクの城(※)にルターを匿ったのだった!
ここでルターはそれまでラテン語だった聖書のドイツ語訳を完成させ、『キリスト者の自由』を執筆した

キリスト者の自由・聖書への序言 (岩波文庫)

こうしてルターには反皇帝派のドイツ諸侯が援護に付いたお蔭で
彼らの領地においてルター派が広まってったが
敵対するカール5世は再度ルター派禁止令を発布して
これに対してルター派は1529年にprotestantio(抗議文※)を提出
カトリックに対するプロテスタント(Protestant)の語源がここに由来する

ルターとは別に1523年にはスイスのジュネーヴでも宗教改革が起こり
発起したツヴィングリ自身は保守派と戦って戦死したが
この後を請けてフランスからやってきたのがカルヴァン(※)だった
スペルはCalvinで仏語でカルヴァン、英語でカルヴィン、『キリスト教綱要』を執筆した

キリスト教綱要 第1篇・第2篇

魂の救済は免罪符によっては得られナイとしてる部分では
カルヴァン派とルター派とは意見が一致してるが
起源としては別々なのである

このカルヴァン派がカトリックとは袂を分かつ教会として
フランスではHuguenot:ユグノー(語源は不明)
イングランドではPuritan:ピューリタン(清教徒)
スコットランドではPresbyterian:プレスビテリアン(長老派)
ネーデルラントではGeussen:ゴイセン(乞食)
などと称するようになったが
先のルター派も含めて総じてプロテスタントなのだ

要するにプロテスタントとはこれら宗派の総称なのだが
現代でも日本ではカトリックに対して非カトリックの意味合いで
プロテスタントとしてて、特にルター派を指してはいナイ
またカトリックを旧教、非カトリックを新教とも呼んだりするが
これは日本においてだけ通じる概念だろう

以上をまとめるとピューリタンとは基本的には
イギリスにおけるカルヴァン派を起源とするキリスト教徒だが
実態はもっと複雑なのであるるる~

それとゆーのもイギリスにはカトリックともピューリタンとも別に
イングランド国教会(Anglican Communion)があり
これはヘンリー8世がローマ・カトリック教会に破門されたため
跡を継いだ娘のエリザベス1世によって確立された宗派だ
ピューリタンは信仰においてはカトリックとも国教会とも争ってたが
政治的には絶対王政と対立してて、社会的には大商業資本家と反目してた

1620年には新天地を求めたピューリタンが
メイフラワー号でアメリカ東海岸に移民したり
1642年にはピューリタンの抗争が市民革命に発展し
革命の波は1688年の名誉革命に至る

時代を経るに従ってピューリタンの流れを汲む宗派は細分化して
クエーカーとか、バプテストとか、メソジストとか
今日でもアメリカでは多数存在してるのだが
ピューリタンの呼称は用いられてはいナイ

scarlet-letter

トマス・ハーディの『ダーバヴィル家のテス』にしろ
サミュエル・リチャードソンの『パミラ』にしろ
ヴィクトリア朝の貧農の娘は病的に貞操観念が強いが
結婚前に純潔を失う=堕落する=地獄に落ちる、と信じてたのだし
社会的にも私生児を産んだ女には風当たりが強かったので
現代日本人が奇異に思うほど
彼女らが病んでるワケでもなかったりする

ところでヴィクトリア朝はハノーヴァー朝末期の
ヴィクトリア女王が統治してた1837年から1901年だが
アメリカの作家ナサニエル・ホーソーンが
『緋文字』を発表したのがこの時代で1850年だった

The Scarlet Letter (Classics)

アメリカは1607年に英国人が入植したのが始まりだが
最初の入植地はジェームズタウンで現ヴァージニア州にあった

1620年には新天地を求めたピューリタンが
現マサチューセッツ州ボストンの南東に移民し
メイフラワー号でイギリスのプリマスから出航したので
そこをニューイングランドと呼びプリマスと名付けた

そのニューイングランドのセイラム(現ダンバース)で
1626年に忌まわしい魔女裁判が起こり
200人近くの女性が告発され、異端審問を余儀なくされ
19人もが処刑されるに及んだ(加えて獄死者5人、拷問中の圧死者1人)が
ここの出身者で祖先が魔女裁判の判事をやってた、てのが
ホーソーンだったのだ

そうと知って何か読んでみようと思いたって
神保町へ赴いたのが昨年(2011年)末

昔から岩波文庫の『緋文字』は古本屋でよく目にしてたので
¥100~せいぜい¥300で購入できるだろうし
他にも掘り出し物があれば・・・と目論んで行ったのだが
掘り出し物はまさにホーソーンだった

『緋文字』は岩波文庫でなく河出書房の世界文学全集
また筑摩世界文学大系のホーソーンの巻もゲト!
これが3冊で¥500の小宮山書店のガレージセールだったので
もう1冊、河出の世界文学全集でドストエフスキーの『白痴』もゲト!!

3冊とも無傷で綺麗だったし
河出世界文学全集【13】の方はポーの短編も収録されてたが
それがハリー・クラークの挿絵入りだったりするし
本編には入ってなかったが『赤死病の仮面』のビアズリーのイラストも
オマケのしおりの表紙になってたのでカナ~リお得感(*^^*)

筑摩世界文学大系【81】には『七破風の屋敷』と短編3作品と
マーク・トウェインの『ハックルベリー・フィンの冒険』が収録されてて
ちゃんと月報もついてたし
もう1冊はドストエフスキー作品の中で1番好きな『白痴』で
これら3冊で¥500ってしゃーわせヽ(´▽`)/

こういう自分にとって最も有意義な運の使い方ができるってか
人生の中で何よりも巡り合わせに恵まれてるって
やっぱ日頃の行いが+.(・∀・)゚+.゚イイからか、などと浮かれつつ
まずは生まれて初めて『緋文字』を読んだ

その奇妙なタイトル【緋文字:The Scarlet Letter】は
以前から何のコトやらと気になりつつも見当さえつかなかったが
謎が解けてみると「A」の文字が刺繍された縫い取りだった

この「A」は「adultery(姦通、姦淫、不倫、不義密通、婚外性交)」の意で
私生児を産んだ母親を指し示してるのだが
その罪の女がいつでもどこでも誰にでもそうとわかるように
必ず胸に着けておくように示唆されるモノだったのだ。(゚д゚lll)ギャボ

しかし胸に着けた緋文字のために白眼視され続けるヘスターが
その罪の子を女手一つで地道に育てていく生きザマは
誰よりも清く正しく美しく・・・なんて強い。・゚・(ノД`)・゚・。

感動しながらも空恐ろしくなったのは
小説『緋文字』はフィクションでモデルなどがいたワケでもなかったが
【緋文字】の罰を受けた罪人は実在してた気がしたからだ

正確には、【緋文字】の罰を与えた社会が実在してた
としても疑う余地がなく納得できるくらいに
『緋文字』の時代背景(1650年頃のアメリカ)が
中世さながらに暗黒だったと改めて気付いたからだ

西洋ではキリスト教の教義に反した人間を罪人扱いして
社会的に排除する風習が民間に根強くあると認識してはいたが
ちょうどヴォルテールの『寛容論』を併行して読んでて
キリスト教がいかに不寛容な宗教なのか
否、中世~近代のキリスト教徒がいかに不寛容な振る舞いをしてきたか
身震いをしながら思い知った

どうもアメリカ文学には疎くて
(てか、文学全般に渡って古典以外はまるで疎いのだがw)
唯一好きな作家がマーク・トウェインで他には一切読んでおらず
ホーソーンも『緋文字』の作者としか知らず
しかもその『緋文字』さえ40年以上読まずに生きてたのだが
読んでみてあまりにも心打たれて
これまで避けてた自分を悔いたし恥じた

ホーソーンはギリシア神話をいくつか児童文学に編纂してて
その中には『ミダス王の物語(The Golden Touch)』も含まれてるし
『大理石の牧羊神(The Marble Faun)』なんて小説も書いてたが
ググってみたらこれは残念ながら現代の話で
ギリシア神話とは関係無さそうだった

une-vie

時代背景は特定されてナイがたぶんヴィクトリア朝のイギリス

ピューリタン革命と名誉革命を経て
立憲王政を確立したイギリスは近代化への第一歩を逸早く歩みだした

Pamela: Or Virtue Rewarded (Oxford World's Classics)

貧しい両親の許で清く正しく美しく育った娘パミラは
お屋敷に奉公に出て奥様の大のお気に入りの小間使いとなった

パミラが仕えてた奥様は亡くなったが
跡を継いだ息子の小間使いとなり、この男に見初められてハッピーエンド

あらすじを簡略にまとめると余りにもありがちでお粗末な物語のようだが
パミラにご主人が恋するまでがこの小説の1/50ほどで
ご主人とパミラの操の攻防だけで物語の2/3を費やした挙句
やっと結婚してもそれで終わりではなく
パミラが愛人でなく正妻として周囲の人間に認められるまでが残りの1/3だ
真の大団円までの展開がどれほど長いか。(´д`;)ギャボ

しかし長くても冗漫ではナイのだ
純潔至上主義者のパミラが操を守ろうと奔走する道化ぶりと
それに振り回されるご主人や周囲の茫然自失の様相が
非常に愉快痛快で飽きさせナイから゚+.(・∀・)゚+.゚イイのだ

とは言え、そう思えるのはリチャードソンの『パミラ』を読んだのが
アラフォーになってからだからだろう
若い時に読んでたらもれなく駄作として封印したなw

女の一生 (新潮文庫)
Une Vie (Le Livre de Poche)

そうして封印したモノの中にモーパッサンの『女の一生』があるが
これはアラフォーになってうっかり読み返したら
なるほどトルストイが絶賛しただけのコトはあると感心した
但し自分としてはモーパッサンの傑作なら他にもっとあると思えるがね

時代背景はナポレオン流刑後のフランス

イギリスに立ち遅れて近代化を目指し始めたフランスで
貴族はまだ93年を苦々しく思ってた

裕福な両親の許で清く正しく美しく育った娘ジャンヌことジャネットは
純潔を守るためにか思春期には修道院にやられてて
適齢期(17歳)になったので帰ってきた

ジャンヌが初めて恋した好青年子爵を両親も気に入り
数ヵ月後には難なく婿に迎えてハッピーエンド

かと思いきや、この結婚相手の男がダメンズ過ぎて
結婚を機にジャンヌは女としての不幸を次々と体験してくのだが
その人生の暗転の転機となった結婚までが小説の1/5だ

まずは幸せなはずの新婚旅行中に将来を予見するような男の金汚さが垣間見えるが
これをジャンヌは気のせいだと見過す・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

そのうち女癖の悪さが際立ってくる頃に男は業突く張りも大概になり
女中との肉欲に溺れ、ジャンヌと息子は捨て置かれる。(゚д゚lll)ギャボ

ついに女中が不義の子を産んで出て行くと
今度はジャンヌの友人の女と関係を持ち、その夫にバレて女共々殺される
いや、実際には殺人でなく、一応は事故死なのだが・・・。(´д`;)ギャボ

ダメンズ旦那が死んだのでほっとしたジャンヌだったが
心の拠り所の息子を甘やかし過ぎたせいで今度は息子の放蕩に悩まされる

借金と女をこしらえる才能に長けた(?)バカ息子の便りは金の無心ばかりで
ジャンヌは母親として身の破滅へと暴走する息子を止めるドコロか
借金の肩代わりをして息子の放蕩を加速させるヽ(゚∀。)ノ

こうして冒頭では清く正しく美しい貴族の娘だったジャンヌは
結末では不幸に身をやつした極貧ババアに様変わりしてて
かつての旦那が御手付きした女中に生活の面倒を見てもらってた(-_-;)

こうしてあらすじをまとめて比較してみると
単純に『パミラ』と『女の一生』は全く逆のパターンであるコトがわかる

『パミラ』の主人公は女から見た理想の女性かもしれナイし
『女の一生』の主人公の境涯は女として1番不愉快に感じるかもしれナイ

しかし小説の主人公でなく実在の人物だったらどうだろうか?
パミラはたいていの女には羨まれるだろうし、妬む女もいるに違いナイ
ジャンヌは殆どの女の同情を買いつつも影では呆れられるだろう

実際にはジャンヌほどでなくとも
恋愛や結婚によって(要するに男のせいで)傷を負った女性は少なくナイので
同情を禁じえナイのはジャンヌの方だろうが
その生き方に共感されはしナイ

なんせジャンヌは働かざる者であっても
食うに困らナイばかりか家事さえもせずにのうのうと生きてるのだp(-_-+)q

それを言ったらパミラも両親は貧しかったかもしれナイが
女中の分際でありながらほとんど何の仕事もせずに手紙ばっか書いてるのだがヽ(゚∀。)ノ

1日10時間以上も仕事で時間を失い続ける身の上の自分には
どちらも羨まし過ぎる身の上だが
もしジャンヌだったら毎日散歩して庭作りして料理や刺繍をして
それだけで幸せだからダンナがダメンズでも放っておくがな~

自分が働かなくても生きていけるなら
たかがダメンズのダンナくらい飼ってやれよってw

いや、そのダメンズのダンナを自分が働いて養うとかなるとね
それはさすがに無理っつ。(´д`;)ギャボ
でも若かったらそこまで頑張ってしまったかも。(゚д゚lll)ギャボ

しかしこの2作は比較すればするほど興味深く
パミラは神に忠実であるように育てられてるのだが
ジャンヌは夫に従順になるように育てられており
これはピューリタンとカトリックの差なのではなかろうか?

それにしても
パミラの旦那様は金持ちの美男かもだが朴訥なイギリスの紳士で面白味がナイし
ジャンヌの夫は酷い男だが洒落たフランス男の不埒さを発揮してて愉しめそうだな♪
なんて、確実にダメンズ好きなのだな、自分(-_-;)

キリスト教徒の呆れた認識の一つに
正義のキリスト教徒が悪の異教徒を皆殺しにしても構わナイ!
いや、むしろそうすべき!!てのがあるが
スペイン人が新大陸において原住民を惨殺した歴史的事実も
キリスト教徒は認知しつつキリスト教の名の下に
正当である、としてるのはさもありなんw

いくら原住民の種族が残虐な宗教儀式を行ってたのだとしても
もちろん危害を加えられそうになったら正当防衛も必要だとは思うが
かのスペイン人たちは先住の民に対して先に危害を加えて
暴挙の限りを尽くしたのだからどこにも許す要素はナイ

アポカリプト [DVD]

しかも現代に至ってもまだ『アポカリプト』なんて映画を作って
やはり正義だった、と蒸し返してくるし。(´д`;)ギャボ

当然ながら食人を認めてるワケではナイが
戦士としてお互いが死力を尽くして戦った後に
勝った方が負けた方を食するのはその土地では理に適った掟だったんだろう
と、理解は出来なくナイ(まあ、納得はしかねるけどね)

また豊穣や戦勝やらを祈願して人間を供物にするのは
古くはどの民族だってやってた風習だろうに(賛成はしかねるがね)
それを咎めたり裁いたりする権利はキリスト教徒にはナイし
別の神の庇護下にある新大陸の先住民の命をどうにかする権利なんか
キリスト教の神にだってナイっつーのp(-_-+)q

キリスト教の神が唯一無二の普遍の神であると信じてるのは
キリスト教徒だけだってわかってナイのが痛い・・・

だからってキリスト教圏でなら
異端審問で非キリスト者と見做されたら
罪もナイ人間を拷問したり火刑に処したりするのがまかり通るのかって
近代的な道徳観念からしたらそれも食人種と同じく奇異だ

とはいえ、キリスト教の本質はユダヤ教の時代からそうで
いつでもどこでも侵略者でしかナイのに
まるで神に代わって残忍な種族を退治したみたいに聖者面して
他民族の犠牲の上に成り立ってたのだよ

怖ろしい連中だ((((; ゜Д゜))) ガクガクブルブル

そんな風に自分なりに考察して憤慨してたので
実際『アポカリプト』なんか観たら憤死しかねナイと思って
実は未見である・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

さて『ロビンソン・クルーソー』の場合だが
彼の状況では自己防衛(自らが生き延びる安全策)のためもあり
蛮人を皆殺しにする計画を何度も立てるるる~

それでいて蛮人皆殺し計画を実行したスペイン人を悪し様に罵るのだが
この辺りはロビンソン・クルーソーでなく
ダニエル・デフォーの本音なのかヽ(゚∀。)ノ

だいたいにおいて大航海時代にイギリスとスペインは
海洋(新発見の大陸、しいては植民地)の覇権を争ってたワケだから
仲が゚+.(・∀・)゚+.゚イイはずもナイが
スペイン人が基本的にカトリックであるため
イギリス人でも特にピューリタン(清教徒)はスペイン人に
苦手意識もしくは嫌悪感さえ抱いてたに違いナイだろう

ロビンソン・クルーソーがブラジルに永住する気がなかったのも尤もで
それとゆーのもブラジルはカトリック国なのだ
これもデフォーの本音ぽいかヽ(゚∀。)ノ

そんなワケで『ロビンソン・クルーソー』はいつのまにか
血湧き肉踊る冒険小説だったのが
宗教観と道徳観について思索が進む小説になり
いずれにしろ自分にとってはそれ自体は愉しめるモノだったりする

とはいえ、何度か映画になってる(※)が観たい気はしナイ
キリスト教マンセー映画だろうからきっとむかつくに違いナイ
ちなみに1つはピアース・ブロスナンで、もう1つはピエール・リシャールだ

冒険野郎マクガイバー シーズン5(日本語完全版)[DVD]

それとは別に近年のテレビシリーズの『Crusoe』は
原作とは全くかけ離れたアクションモノになってるらしいが
どのくらい「壊れてる」のかちょっと見てみたいかも・・・?!
しかし『冒険野郎マクガイバー』みたいな『ロビンソン・クルーソー』って
さすがアメリカと言うべきか。(゚д゚lll)ギャボ

それにしても自分は信仰心など微塵も持ち合わせてはいナイが
神の目にも誰の目にも触れナイと思ってても
社会的に与えられた役目・責任はきちんとこなすし
道徳的な配慮を怠るコトはナイ

自分自身を満たす工夫もしてるが
損を被ったとしても自分が必要とあらば他人に尽くす
自分の周囲も押しなべてそういう人間しかいナイ

信仰心からでなく、フツーに考えて道徳心を持ち
かつその心のままに実践してるから
あえてキリスト教の教義にあるような【戒め】を必要としナイ

神、神、と連呼してはいちいち話をこじつけて
自身に言い聞かせるロビンソン・クルーソーのやり口は
日本人には到底共感できそうにナイ

現代日本人の潜在意識には
キリスト教ももちろんだが土着の宗教が土壌として培われてナイからこそ
異民族は略奪して構わナイ、とか、異教徒を殺しても構わナイ
なんて意識を持ちようがナイのだとも思う

ところが最近は野蛮な日本人が増殖してて
彼らにとって改悛の書となり得る書物はまだ見つかってナイ

近年になって改めて『ロビンソン・クルーソー』を読んだ

初めて児童版を読んだ際には1日で読破したが
今回、完訳に1週間以上かかったのは
かつて読んだ版が随分省略されてたに違いナイ

ロビンソン・クルーソー (河出文庫)

だがしかし・・・。(´д`;)ギャボ

ロビンソン・クルーソー (岩波少年文庫)

小学生の間に何度か読み返してて
その都度、ずっと興奮しながら楽しく読みきってたが
今回は完訳とはいえ、特に参照すべき事項もなく
寄り道もせず1/3くらいまで快調なペースで読み進んだのに
突然、止まってしまった

なんで止まったかって
なんかいきなりがっかりしてしまったのだ
ちょうどロビンソン・クルーソーが無人島に1人の孤独な境遇から
それまでの人生を悔いて(要するに罰が当たった、と)
ついぞ祈ったコトなどなかった神といきなり向かい合ってしまうシーンが
茶番にしか思えなかったからだ。(゚д゚lll)ギャボ

自分のようにキリスト教圏で生息してナイ人間は
酷い目に遭った時に天罰かもしれナイ、と思ったとしても
悔い改めるべきコトは神にではなく自身の良心に問い質すし
償いをするのに神に赦しを請うて祈ったりせず
どうやって償うべきか考え、それを実行するのみだ

神を蔑ろにするとこんな酷い目に遭うぞ!
でも祈ったら助かる!!

そんなキリスト教徒目線での不埒な輩を脅すために
仕掛けられた物語のようにしか思えなくなって
すっかりしらけてしまったのだ・・・

児童版は日本人の子供向けに宗教色の濃い部分は削ってあって
フツーに冒険小説の様相だったが
完訳版はまるでピューリタン文学、しかも改悛の書で
確かに解説を読んでみると以下のようにあった

ミルトンのばあいには純正でなく、バニヤンのばあいには想像的であったピュリタニズムは、デフォーと出会うことによってはじめて、作品においても行動においても、きちんとした形を備えた積極的な信仰となった。

やっぱ正しくピューリタニズムだょヽ(゚∀。)ノ
キリスト者でナイ自分が感じた違和感は間違ってなかったが
そうなるとデフォーの本意が気になるるる~
改悛の書のパロディなんだろうか?
それともマヂ改悛の書なんだろうか???

欠乏を訴える不満は、すべて、現に与えられているものを感謝する心の欠乏から生ずる、というのが私の考え方だった。

こんな一節なら
宗教の壁を越えても万人が納得できる素晴らしい格言だが
こういう真摯な部分があるとゆーコトは
これはやはりマヂなんだろうな、デフォー(-人-;)

とすると、ピューリタン文学として大切な部分
つまり神との対話によって生じる自分自身との葛藤が
最も肝要な神との対話の部分だけ見事に取り除かれてるのは
子供向けの抄訳の中でもおそらく日本だけだろうなw

換言すれば、完訳版に茶番を見出してしまうのは
自分のような現代日本人だけで
例え異教徒だとしてもなんらかの宗教圏内に生きる人間にとっては
神を自身の神に挿げ替えて読むコトで
実に有益なワリには抹香臭さがナイ優れた文学だ

改悛の必要な不埒な少年にとって
ミルトンやバニヤンに比べたらどれほど読み易いか?!

ルソーもそう感じたらしく
『エミール』で「子供の時に読むべき唯一の本」として
『ロビンソン・クルーソー』を挙げてるし
バルザックの『ルイ・ランベール』では
初めて感動した、少年の心情を次のように表現してる

その宵じゅうオーグー神父の談話がわたくしの上に及ぼした影響は、わたくしの少年時代を通じて最もはげしいものの一つで、『ロビンソン・クルーソー』を読んだときの印象にしかくらべられない。

「自然に帰れ」とのたまうルソーにしては
子供を信仰に目覚めさせるために『ロビンソン・クルーソー』を強いるのは
どうも不自然な気もするし
ましてや最も自然に湧き上がらなくては意味のナイ信仰心を
人工的な演出によって授けよう、と考えてるのはどうかと思う反面
本から得た感動によって人生が決定付けられた自分には
素晴らしいアイディアだ、と絶賛せざると得ナイ

またルソーの教えに従ってのコトかどうかは謎だが
キリスト教がバックボーンにある国で
実際に『ロビンソン・クルーソー』が少年時代の必読書だからこそ
読者はバルザックの表現に共感できるのであって
残念ながらそうではナイ日本人には共感を覚えられナイのである

但し、自分は完訳を読むまで『ロビンソン・クルーソー』を
スティーヴンソンの『宝島』とかと同じく
最上級の冒険読物として捉えてて心から愉しんでたし
今でもその感動は持続してる