人間は考える葦である

この有名なフレーズは
パスカルの『パンセ』断章347にある

考える葦(ROSEAU PENSANT)

人間の比喩になぜ【葦】なのか
日本人なら釈然としナイのがフツーだろう

L’homme n’est qu’un roseau, le plus faible de la nature; mais c’est un roseau pensant.
(人間は、自然のうちでもっとも脆い葦でしかない。しかし、それは考える葦である。)

なんて言われても
日本人の常識では【葦】は最も弱い植物ではナイ

【葦】と言われて日本人が思い起こすのは
軒先にぶら下がってたり、立てかけてある簾だろうて
その繊維質は弱いドコロか
強靭にさえ感じられるはずだw

それなのにパスカルの言を鵜呑みにして
賛同しちゃってる人もたまにいるし
中には「パスカルの比喩が甘い」なんて
バックグラウンドを推し量るコトなく
頭ごなしに非難してる輩までいて
YAHOO!知恵袋なんかで答えられてる殆どが
見当違いで失笑モノだったりするが
科学的に、理性的に、要するにまともに考えれば
【葦】より弱い生物なんて、他にもいくらでもいるし
そんなのパスカルも承知してるってヽ(゚∀。)ノ

なぜパスカルはあえて【葦】としたのか?

先に答えを言ってしまえば
キリスト教圏では単に
聖書に倣って人間を【葦】に例えてるので
パスカルもその慣例に従っただけだ

つまり、【葦】を人間に擬えるのは
ユダヤ(※)民族起源なので
換言すれば、【葦】を脆弱たらしめてるのは
旧約聖書成立以前のユダヤ人の感性なのであるるる~
現代日本人に合点が行くワケナイのだ。(´д`;)ギャボ
ヘブライもイスラエルも同義(使用する地域や時代で呼称が変わる)

但し、信者かどうかは別にしても
聖書の記述の真意を理解しようと努めて読んでれば
そういうモノなのだ、と刷り込まれてしまう

自分も信者ではナイが聖書は愛読書なので
旧約聖書の預言で人間を
【傷ついた葦】と表現してたり
イエスが群衆を愚弄するのに
【風に揺れる葦】と形容してるのは
合点は行かずとも
そういうモノと納得はしてたし
キリスト教圏の民であれば
もうそこに違和感を覚える余地もナイのだろう。(゚д゚lll)ギャボ

パスカルと同じく仏語圏のモーパッサンは
『メゾン テリエ』でお祝いに集まってきた人々を

そよ風にゆらぐ葦

としてて、原典のフランス語では次のようにあった

comme des roseaux sous la brise

comme:~のような
brise:弱い風(通常の風は vent で brise はそれより弱い風)

余談だが
風があえてそよ風なのは
これはモーパッサンにしてみれば(※)
vent では喧噪の只中の群衆のようだから
お祝いにかけつけた人々の心情に相応しくなかったので
brise としたのではなかろうか?
訳は杉捷夫

遥かに狂乱の群を離れて〈1〉 (昭和初期世界名作翻訳全集)遥かに狂乱の群を離れて〈2〉 (昭和初期世界名作翻訳全集)

喧噪の只中の群衆、と言えば
トマス・ハーディの『Far From the Madding Crowd』では
混雑した中で押し合いへし合いする群衆を

風に揺り動かされる芦(あし)のやうに揺られながら(※)

と表現してて、原典の英語がどうだかは不明だが
慣用句的な使われ方なのは想像に難くナイ
昭和初期世界名作翻訳全集なので旧かな遣いなのだ(訳者は英文学者宮島新三郎)
タイトルも『遥か群衆を離れて』が一般的だが、これは『遥かに狂乱の群を離れて』

ん(゚ ゚;)?!

改めて気づいたが、このタイトルの
『Far From the Madding Crowd』って
ユダヤ人に言わせれば
「荒野の葦原より遠のいて」なのか?!

☆・・・☆・・・☆

ラ・フォンテーヌの寓話の中に
『樫と蘆(あし)』てのがあって
頑丈な樫の木が自信満々で
何があってもびくともしナイ、としてて
鳥が留まったり風が吹いたりしただけで
たわんでしまう葦を
冒頭では憐れんでるのだが
最期には暴風によって
葦はいつものようにたわんだだけだったが
樫は根こそぎ倒れてしまった
と、そんな話だった

☆・・・☆・・・☆

それにしても葦、芦、蘆、葭・・・
葦の字は色々あるのだな

サテュロスと『サテュリコン』

ニーチェの『悲劇の誕生』では
2つの比喩的な語が繰り返される

アポロン(的)と
ディオニュソス(的)だ

これらが古代ギリシアの神であり
アポロンは太陽神で
予言、医術、音楽を司ってて
ディオニュソスは酒の神

そのくらいの認識は
およそ無教養な現代日本人でも持ってるだろう

とはいえ

 芸術は、<アポロン的なもの>と<ディオニュソス的なもの>という、ふたつの要素のせめぎあいによって展開してゆく。それはオスとメスによる生殖のようなものだ。生物の場合、ふたつの異質なものが絶えずせめぎあい、両者の和合はしかるべきときに定期的にしか訪れないわけだが、芸術にもそれと似たところがある。そうした芸術の特質を、ただ論理的に理解するだけでなく、ずばり直観的にも把握できるようになれば、美学はおおきく前進することになるだろう。

などと、のっけから言われても
太陽神と(葡萄)酒の神が
どうしてオスとメスほどに対極的なのかは
はっきり言って合点がいかんてw

ギリシア神話の神々の中では
ヘルメスが1番好きだが
次いでアポロンとディオニュソスも
甲乙付け難くお気に入り

そんな自分でさえも
ニーチェのこの位置付けには
疑問を感じてしまう

アポロンは美麗な青年の姿の神で
竪琴を爪弾くのだから
人間だったなら絶対にモテただろうが
これがなぜか非モテなのだ。(゚д゚lll)ギャボ

例えば
予言の術を授けるから恋人になるよう
トロイの王女カッサンドラに言い寄るのもおかしいが
それで振られた腹いせに
予言を信じる者がいナイようにしたり
美女コロニスを手篭めにして
恋人気取りでいたら
他の男と結婚してしまったからって
コロニスを殺そうとしたり
意外と人間臭いってか
姑息な部分が垣間見えるので
ニーチェが示唆するような高潔なイメージは
どうにも持てナイのだが。(´д`;)ギャボ

だいたいアポロンは相手の性別問わず
悲恋のエピソードばかりなのだが
腐女子にとってはアポロンの悲恋こそが
ギリシア神話の美味しい部分だ

ヒュアキントスやキュパリッソスなど
名だたる美少年とアポロンとの
在りし日のやりとりには妄想力を惜しまナイし
美少年の死に際に限定すれば
悲壮感の中にも優美なアポロンてのはわかるが
主知的、理性的とかは違う気がするし
それに比してディオニュソスを
激情的とするのはどうかと思われ

ディオニュソスの配下の
サテュロスのような牧羊神ら(※)は
放埓な獣らしい下半身をしてたりするし
パーンの笛の音でマイナデスは踊るだろうが
ディオニュソス自身は酩酊もせず
超然としてるカンジだが?
ローマのバッカスの従者であるファウヌス然り

サテュロスの名に由来する
『サテュリコン』なる奇異な小説を知ったのは
偕成社の少女世界文学全集の『クォ・バディス』で
そこには『サチリコン』とあり
登場人物のペトロニウスが書いた本なので
実在するとは夢にも思ってなかった

ところが雑誌ALLANの影響で
マルキ・ド・サドを澁澤龍彦訳で読み漁り
澁澤訳のユイスマンスの『さかしま』に巡り会い
ペトロニウスも『サテュリコン』も実在してたと知った!

それはまるでシュリーマンが
トロイの遺跡を探し当てたような興奮を思えたが
なんせネットで検索などできなかった時代のコトで
更に当時、女子高生だった身としては
大っぴらに買い求めづらかったのもあって
闇雲に古本屋を探し回るしかなかった

また映画『サテリコン』の存在を知ったのも
ALLANに載ってたからだが
そこで紹介されてる美少年ジトーネに一目惚れして
この映画を冥土の土産にどうしても観たいp(-_-+)q
そう思いながら20年余りが過ぎ
結局、DVDが発売されたのを買って
観たのは2003年だった

そうしてずっと片隅に追いやりながらも
人生の中で『サテュリコン』を切望してたので
サテュロスの名がいつも脳裏を掠めてて
山羊の角と下半身を持つ異形の姿を
ワリと身近に感じてて
現代日本に魔女狩りが無くて良かったw

最後に最愛のヘルメスに関して
神に対して不謹慎かもしれなんだが
ファッションを含めたルックスがたまらなく好きで
性格的にやんちゃで愛嬌たっぷりなのも
ときめかずにはいられん・・・ホゥ(*-∀-)

アポロンは最も美しい青年の容貌を持つとされ
そりゃあ文句のつけドコロは皆無だが
ヘルメスの方が愛らしいと思えるのは単に好みで
特にボッティチェリの描いた
『プリマヴェーラ(春)』でのヘルメスときたら
甘かやなヘアスタイルといい
端正な顔立ちといい
肉付きのイマイチ感といい
個性的な帽子とサンダル(ブーツ?)といい
大好きなテイストで仕上がっててるるる~

世界観を構築した10冊(子供の頃の愛読書)

人生において最良の本を
10冊選ぶとしたら?

まず、小学校高学年の時に
選んでたと思われる10冊(タイトル)

生きている地球(学研学習マンガ)
ビーグル号航海記(チャールズ・ダーウィン著)
シートン動物記(アーネスト・T・シートン著)
ハックルベリー・フィンの冒険(マーク・トウェイン著)
宝島(スティーヴンソン著)
幸福な王子(オスカー・ワイルド著)
にんじん(ルナール著)
クォ・バディス(シェンキェビチ著)
埋もれた世界(A・T・ホワイト著)
キュリー夫人 愛と科学の母(清閑寺健著)

これらは人生の初期段階で
世界観を構築するのに役立ったが
後に人生の岐路においても
常に道標となった

虚弱体質だった幼少の砌に
お世話になった小児科の待合室に
置いてあったのが『生きている地球』

【ビッグバン】から始まり
地質時代の様子が年代を追って描かれたマンガで
それはまさに知りたかったコトばかりで
毎度、熱心に読んでは
興奮して更に熱が上がってたw

その本への病的な執着が
遂に医師の妻で薬剤師の女性の心を動かし
「よかったらどうぞ持って帰って
差し上げますから」と言わしめた時
熱意が人の心を動かすと
奇蹟が起きるのだと
初めて確信したのだった

生命の誕生から
人類への進化までを
理路整然と説いた【進化論】には
魂を揺さぶられたが
とりわけ生命の誕生については
オパーリンの【コアセルヴェート説】で
神々しく美しい生命のスープが
干潟になって濃縮してく様子を思い描いては
生命の神秘に涙した

そんな風に理性と感動によって
自分が世界観の外枠を構築した後で
旧約聖書の冒頭の創世記による世界の始まりを
キリスト教かぶれの母親から
いくら恭しく押し付けられたトコロで
突っ込みドコロ満載な寓話としか思えなかったw

【進化論】を構想するに至った経緯を
ダーウィンが綴った『ビーグル号航海記』は
自然の厳しさ(ある意味無慈悲さ)と
そこに生きる生物の
力強さと儚さ、強靭さとしなやかさといった
地球が織りなすドラマに感じ入った

そうして【進化論】を踏まえて
動物の生態に興味を持つようになり
『シートン動物記』も読むべくして読んだが
中でも「狼王ロボ」でオオカミが大好きになり
今に至るるる~

『ハックルベリー・フィンの冒険』や『宝島』は
『ビーグル号航海記』からしてそうなんだが
後に海洋小説とそれを原作とした映画を
格別に好むきっかけになった

まあ自分自身はからきし苦手で
酒より船の方が酔うんだがね( *゚Д゚)つ[酒]

典型的なお人好しの江戸っ子だった自分は
『幸福な王子』でワイルドのペシミズムに衝撃を受け
母親に嫌悪されてると悲観し始めた時
『にんじん』で同士を見出してほっとした

歴史小説『クォ・バディス』(※)は
ローマ皇帝だったのがネロの時代の
キリスト教に傾倒した長編で
実在した登場人物のネロとセネカ
そしてペトロニウスが魅力的だった
映画のタイトルでは『クォ・ヴァディス』、新訳(岩波文庫)だと『クオ・ワディス』

当時はまだキリスト教に対して
今ほど反感は抱いておらず
もれなくこの小説こそが
不信感を募らせる要因になったのだったヽ(゚∀。)ノ

『埋もれた世界』は
トロイア、エジプト、メソポタミア、マヤの
遺跡を発掘する考古学者たちについて
子供にもわかりやすく書かれて(翻訳されて)たが
古代文明の中でも自分は特にトロイアに惹かれた

たくさんの伝記を読んだ内では
『キュリー夫人』に1番感銘を受けたが
それは化学者としてノーベル賞を受賞した女性が
既にいるのは心強かったからだ、なんて
自分もキュリー夫人の後に続くつもりでいて
化学だけは執り憑かれた様に勉強してた

但し、物理学(の数式)を理解できるほど
知能を持ち合わせておらず断念。(´д`;)ギャボ

『クォ・バディス』の著者シェンキェヴィチも
キュリー夫人と同じく
ノーベル賞を受賞してるポーランド人だが
受賞時にはポーランドは地図上から消えてて
2人とも祖国独立を悲願してたのだった。(゚д゚lll)ギャボ

結局、シェンキェヴィチは
独立を目にする前に命尽きたが・・・

上記10冊の他にも
世界観を構築するのに
補助的な役目を担ったのが
山川出版の日本史用語集と世界史用語集と
旧約聖書・新約聖書、古事記、ギリシア神話などで
愛読書と言うよりは便覧のように
何かにつけ参照しまくった

自分はこの時点で最早
読書の醍醐味は
1冊の本を最初から最後まで読みこなして
単体で消化するだけに非ず
一言一句から
著者の真意を汲んで
改めて世界を読み解くコトに
意義があると気付いて
生真面目に読書をしなくなった・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

40年近く経った今
改めてこれら10冊に感謝したいのは
与えられた知識はもちろん
感動、信条、希望、霊感・・・etc.etc.
そしてノスタルジーも加わり
人生をスピリチュアルな面から
支えてくれたコトだ

気のふれた母親に
押し入れに閉じ込められても
電気スタンドで照らされた文字から
確信してた

世界は広く美しい(はず)

いつも心を希望で満たし
明るい未来へ導いてくれ続けた

親友(著者)と時空を超えて
共有してる宝物のような存在が
愛読書だと自分は思う

恋愛が成就するとはどういうコトなのか?

恋愛が成就する

それは非常に難しい問題だ

何をして成就なのか?
その定義からして曖昧模糊としてるからだ

愛する相手とどうしたいのかと
どういう形で恋愛を成就させたいのかは
実は似て非なるモノだ

若さゆえのときめきとは
愛する相手とどうしたいのか
これに尽きる

視線はひたすら想う相手を追い求め
近付けたら話したい
見詰め合えたらキスしたい
気持ちが高揚すればベッドで過ごしたい・・・

そうした次々と湧き起こる欲求が
叶い続ける限りは
成就してると満足できるのだ

しかもその際に
お互いの立場なんかどうでもよく
同性愛だろうが不倫だろうが
むしろ障害があるほどに
成就したとより満足できるのが
若さってモノだろう

そういう恋愛の成就は
ぶっちゃけ肉欲の満足感だけで
それも若いうちなら
夢のような出来事だろうが
歳を重ねれば
現実を見据えざるを得ず
夢心地ではいられなくなるのだ

だからいい歳こいて不倫してると
バカにされるし
糾弾されるワケだw

肉欲の同意を恋愛の成就と考えてて
しかも人生において
他に何の愉しみも見いだせずにいると
モテるための努力以外は
何もしナイ人間になってしまう。(゚д゚lll)ギャボ

それだって若い娘が
一時的に夢中になって頑張ってる図は
バカなりに可愛いとは思うが
美魔女とかって酔い痴れてるようなのは
バカに付ける薬がなくて
可哀そうだと思う。(´д`;)ギャボ

美貌を構成する成分の殆どは若さで
若さは儚いからこそ美しい

歳をとればとるほどに
美女も醜女(しこめ)も差はなくなり
美人だからと結婚した男ならば
若くて綺麗な他の女性に
現を抜かすようになるのは必定

そんな至極当然の未来も予期できずに
モテる容貌を取り繕うのにばかり
必死になってるからバカだと言うのだw

男を楽しませるのは
起きてる時は顔だけで
寝てる時は身体だけ・・・

そんな美人こそが
3日で飽きられるって典型だヽ(゚∀。)ノ

さて19世紀フランスの
モーパッサンは短編作家として知られるが
長編では『女の一生』『ベラミ』
そして『死の如く強し』を書いてる

『女の一生』は穢れを知らぬ女が
汚れた男に翻弄され続ける転落悲話で
自分は主人公の女が大嫌いだが
それでも読み返してしまうし
映画も映画館まで観に行ってしまった(苦笑)

『ベラミ』は貧乏なイケメン【ベラミ】が
金持ちの奥様や令嬢を手玉に取りながら
成り上がってく出世物語で
不道徳さがひたすら愉快痛快だったが
実は死生観などが語られてて
読み込む程に味わい深い作品だった

そして『死の如く強し』は・・・
中年の男女のロマンスなのだが
女の娘が絡んだ三角関係が
自分にはどうにも陳腐に感じられたヽ(゚∀。)ノ

男は初老だが
美男で独身を貫いてる名の通った画家
女はモデルで
画家と不倫関係を12年間続けてる

12年前の絶世の美女も
40歳ともなれば色褪せてくるし
ましてや彼女に生き写しの
18歳の娘の愛らしさ!

美意識の高い画家が
どうして娘に心変わりをせずにいられよう?

そもそも歳老いてから
若者との恋愛に現を抜かすなど
自分からしたらその有様は美しくなく思える

容貌が見るに忍びなく衰えゆくのは
女だけでなく男もだし
しかも美貌を誇ってた者ほど
その落差は顕著なのだが
そんな現実に憂える初老の男女のロマンスは
深刻になるほど救いようがなく
それはもう悲劇と言うより喜劇的で
とても耐えられずに
実は1度読み始めてから10年以上
途中で放棄してた・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

ところが自分も歳をとって
ふと読み返してみると
老いを噛み締めながらの恋愛の
行く末に心が軋み
滑稽であるほどに切なさが胸を打った・・・
いや、打ったのでなく
食い込んできたの方が正確だ

恋する気持ちが切ナイのは
年齢には隔たりがなかったし
若者の切なさが甘酸っぱいとしたら
年寄りの切なさはもれなく苦い(-_-;)

冒頭で
愛する相手とどうしたいのかと
どういう形で恋愛を成就させたいのかは
実は似て非なるモノだ
と述べたが

どういう形で恋愛を成就させたいのか?

唯一無二の愛する相手だと
お互いに確信できたら
それが恋愛の成就だ

なぜなら恋愛は0か1なのだ

A~Zまで選り取り見取りの中から
相手を決め兼ねてるモテる人は
実は自身しか愛せナイ恋愛音痴でしかなく
同じコトを違う相手と繰り返し続けるのだ

もっと゚+.(・∀・)゚+.゚イイ人がいるはず

モテる人は周囲が羨むほどには
心は満たされてはいなかったりする

まあ男だったら美女をモノにすれば
肉欲と征服欲だけは満たされるだろうが
女はどんな男を陥落しようが
心が満たされなかったら
娼婦の感覚しか味わえやしナイ

0か1・・・
愛する相手がたった1人あり
その人でなければ要らんとね!!

0か1の相手とお互いに信じ合い
ずっと愛し続けられれば
何も偽らずに、何も迷わずに
日々を過ごせて至福だろう・・・ホゥ(*-∀-)

そして伴侶として
お互いを認め合うようになるには
艱難辛苦を助け合って
乗り越えてこそp(-_-+)q

一方的に依存してて
相手が思う通りにしてくれナイと
嘆いてるようではダメで
いつも相手に何をしてあげたら
笑顔になってもらえるかを
考え、実行するコト!

若かろうが
歳をとっていようが
最も努力すべきはそこ!!

『女の一生』のジャンヌと『遥か群衆を離れて』のバスシェバ

美人は得でブスなら損

人生はそんなに単純なモノではナイが
金持ちと貧乏人ならば
金持ちにヨユーがあるのは間違いナイだろう

貧乏してる
てのは、生活についての心配がいつもあり
また生活以外の何かをしようとすると
まずお金はもちろん無いのだが
だからこそ生活費のために
働いてるのが常なので
時間も無かったりするのだ

まずそうした生活に窮してる女が
生涯の伴侶となる男として
稼ぎもナイのに金がかかる男を選ぶのは
物理的に無理だし
自身の生活や家族の生活のためには
恋愛感情より損得勘定が先立って
受身にならざるを得ナイ

それならば受身にならずに済む金持ちで
しかも女としての恵まれた容姿を持ち得てたら
理想的な男と結婚できて
幸せになれる確約となり得るのかと言えば
そんなコトもナイ

☆・・・☆・・・☆

モーパッサンの『女の一生』では
主人公の貴族の子女ジャンヌが
生活に困るようなコトがナイ家に生まれて
清く正しく美しく育ったばっかりに
金汚く女癖の悪い男の犠牲者となってしまう

恵まれた女だったはずのジャンヌは
修道院育ちで男を見る目がなく
そこにあざとくつけいった男との結婚によって
不幸に身をやつしてくのだが
どんな情況に陥ってもただ嘆くばかりで
自らは解決策を企てようともせず
次々と襲ってくる不幸を
ひたすら享受し続けるるる~

端から見て
どんなに恵まれて生まれた女だって
当人がそれに気づかなければ
やはり受身でしかなかったりするのだ

そして財産は使えば無くなるし
美貌も年月に晒されるだけで色褪せてしまう

それでもずっと働きもせず
家事一つさえもせず
またそれを当然と受け止めてるジャンヌは
それでも自分などからしたら
確かに恵まれてる環境とは思えるが
別段、羨ましくもナイ

☆・・・☆・・・☆

一方
トマス・ハーディの『遥か群衆を離れて』の
主人公の農場主の美女バスシェバは
元はそこそこ貧しく
近隣の農場の手伝いなどしてたが
その秀でた美貌ゆえの誇り高さがあったので
そこそこの金持ち男の当たり障りのナイ求婚に対して
「あなたを愛してません!」
なんて、一喝して断れるような女だった

その後、遺産相続によって
引き継いだ農場経営に成功して
若くして金持ちになったバスシェバは
更に男に対して受身ではいられなくなってしまう

そうしてずっとバスシェバの周囲には
魅力的な゚+.(・∀・)゚+.゚イイ男(悪い男?)がおらず
何のときめきも抱けずにいたのだが・・・

ところが突如として現れたのが
バスシェバが不慣れなタイプの男!

それはハンサムで洒落者の軍人だったが
とうとうバスシェバは陥落される

結婚した時までは有頂天だったバスシェバだが
夫の生活態度に翻弄され
特に放浪癖と浮気に悩まされるようになる

☆・・・☆・・・☆

これらジャンヌとバスシェバの
恵まれてた女だったのに
結婚によって人生が破綻する物語は
一見すると酷似してるのだが
根幹が決定的に違ってる

ジャンヌは夫に対して
「幸せにしてくれるはず」と期待して結婚したが
その期待が裏切られる度に失望してるだけで
最初から最期まで夫に対して愛情の欠片もナイのだ

だから浮気をされても
夫の不実さ以上に腹立たしいのは
浮気相手が身分が低いから見下してた女中で
彼女に見くびられたコトに対してなのだ

つまりジャンヌは自分自身だけを愛してて
社会的には夫に裏切られた妻だが
実質的には夫を愛してもいなかったので
夫の裏切りについてはワリとスルーで
女中に裏切られたコトの方が
苦々しく思ってる節がある

それに比べてバスシェバは
浮気相手の女の墓に花を添えられるほどに
夫の総てを赦し
最期まで情熱的に愛し
欲し続けた

結果的に
夫に顧みられるコトは叶わなかったので
さぞや辛かったろうと思う反面
実際、幸せだったとも思えてしまうのは
だってそこには希望があるから!

名義上だけでも夫であれば
公的に愛する権利があるのだから
溢れる愛を我慢しなくても゚+.(・∀・)゚+.゚イイし
そうして愛し続ければ
いつか相手も愛してくれるコトがあるかもしれナイ
いや、ナイかもしれナイし
その可能性の方が高いのは承知の上で
でもずっと待ってても゚+.(・∀・)゚+.゚イイのだ

愛される、まで行かずとも
拒絶さえされなければほっとするし
目が合えば嬉しいし
唇を合わせれば至上の喜びで
肌を合わせたら・・・ヽ(´▽`)/
その時、赦せナイような一体何が
愛しい相手にあるのか?

無いっつp(-_-+)q

キリスト教では人の罪を神が贖うために
「赦しの秘蹟」なる儀式があるが
恋人同士が肌を合わすのは
愛する相手を「赦す」儀式でもあると思われ
そしてお互いに「赦し」合ってる状態が
きっと相思相愛なのだろう

それにしても愛されてる側の人間てのは
それだけでは不幸ではナイかもだが
愛する側の人間ほどには
実は幸せではナイような気がするのだ。(´д`;)ギャボ

極論を言えば
一方的に愛されてる側の人間てのは
相手を受け入れるか拒むかだけで
恋愛の境地には至れナイのかも。(゚д゚lll)ギャボ

とりあえず恋愛には
美貌も財産も決して有利には働かナイのは
間違いなかろうヽ(゚∀。)ノ

ティツィアーノの描いた大がらの女性の絵

モーパッサンは
『女の一生』では主人公のジャンヌを
ヴェロネーゼの肖像画の女性に譬えてるが
短編『ロンドリ姉妹』では
一糸纏わぬ姿でベッドで眠る女を
こう表現してる・・・

ティツィアーノの描いた大がらの女性の絵

そもそもティツィアーノが描く女性には
女神含め、貧相で痩せこけたような女はいなくて
大柄の女性が裸で横たわってる絵は
いくつも思い当たるが
著者の意図するのがズバリどれなのか?

正解を確認しようもナイコトだからこそ
自由気ままに推理するのは愉しい

聖水係の男
「冷たいココはいかが!」
脂肪の塊(ブール・ド・スュイフ)
マドモアゼル・フィフィ
ローズ
雨傘
散歩
ロンドリ姉妹
痙攣
持参金

年譜
訳者あとがき

その前にまず
どういうシチュエーションなのかと言えば
登場人物は列車の旅で先刻知り合ったばかりの
フランス男2人組と1人のイタリア女

不機嫌そうにしてる不愛想な女が
男たちとは打ち解けナイままに
宿を共にするコトになるも
ホテルは二部屋しか空きがなかった

一部屋を女に与えてしまうか
どちらかが女と同衾するかの選択肢で
意を決して女に意向を伺うと
女は拒絶せず、また選択もせず
どちらの男でも結構、とな!

男たちは言い争いの後
主人公の男の方が女の部屋へ入ってみれば
女は素っ裸で眠ってた!!

これ、女の意図はどうなんだろう?

その晩の宿を提供してくれる男に対して
お礼のつもりで寝るのだとしたら
「好きにして」の意思表示か?

ただ単に着替えの途中で
眠さに勝てなくなっただけなのか?

ティツィアーノの『ダナエ』は
裸でベッドに横たわってる大柄の女性だが
このエピソードは最高神ゼウスが
純潔を死守するために閉じ込められてるダナエを
さすが雷神だけあって
金の雨になってゴーカンしに行くとゆーモノ

なので、ダナエはゼウスに犯されるのを
待ってたワケではナイのだよヽ(゚∀。)ノ

それでも神に、そして運命に
身を委ねるしかナイ処女の表情は
絶望してるようには見えず

『ロンドリ姉妹』の女も
捨てる神あれば拾う神あり
なんて諺があるが
拾ってくれた男が神でなくとも
運命ならば身を委ねてしまおうと
意を決してたのだとしたら
『ダナエ』とダブらなくもナイ

ただ気になるのは
ポーズが刺激的過ぎる気がw

ティツィアーノが描く横たわる裸婦と言えば
人間でなく女神ではあるが
『ヴィーナス』連作のシリーズもあげておく

1つめは『ヴィーナスとオルガン奏者』

ヴィーナスはオルガン奏者には目もくれず
でもそっぽを向いてはいても
音楽そのものに感じ入ってるよう

ヴィーナスと見詰め合うのは息子のアモル(※)で
しかもプットタイプ(幼児体形)なので
以外にも母親としての情を感じる
※エロス、クピド、キューピッドの別名もある

オルガン奏者のヴィーナスへの欲情は
あからさまに一方通行がゆえに
音に託すしかなく
官能的な音楽を奏でてるのではと
見てる方は今にもその聴こえナイ音色に
情欲を掻き立てられそうな・・・

『ロンドリ姉妹』の女と重ね合わせてみれば
確かに男2人は拒絶こそされなかったが
どちらも選ばれてはおらず
ヴィーナスとオルガン奏者との距離感は
もしかして似てる?

2つめは『ヴィーナスとアドニス』

代わって今度はヴィーナスの方が
アドニスに対して一方的に恋焦がれてる図

狩りの最中のような着衣のアドニスに
裸のヴィーナスが腕を伸ばしてて
タックルをかまそうとしてるように見えるw

またこの絵はよく見ると
奥の方ではアモルが寝こけてて
母親の恋路にだけは関わり合いたくナイ
とでも言わんばかりなのが笑えるが
息子もたじろぐほど恋愛にかまける母親は
現実的には息子を女性不振にしてしまうだろうね

夫を裏切っても平然としてて
バレては不味い相手には嘘を付くのだから
それが女ってモノなんだと認識したら
女性不振にならナイ方が不思議だ

そういう男が女性不振から解放されるには
一途な女性にひたむきに愛され続けるしかナイが
疑念を抱いただけでもその女性に対して
母親と同類と感じてしまったら
そこで一巻の終わりだ

話が逸れてしまったが
『ロンドリ姉妹』の女は先に述べたように
不機嫌そうにしてる不愛想な女でも
実は1度情を交わしたら
このヴィーナスのような激しさで
求めてくるのやも・・・?!

男は好きなのだよ
自身に無関心な美女を陥落するのもだが
積極的な美女に陥落させられるのもw

自分はこの物語を初めて読んだ時は
もしかしてその両方を味わえる
極上の女との出会いの物語かと勘ぐってた^^;

読み進むと予想とは違って
もっと複雑で・・・
そりゃあもう複雑怪奇www

最後にこれが本命と思える『ウルビーノのヴィーナス』

見る者を見返して虜にするこのヴィーナスは
一見してまるで情欲の女神だが
周囲に描かれたモノから察するに
嫁入り支度の整ったお嬢様なのだよ!

夫となる男以外とも既にしたたかに通じてるのか?
あるいは処女の無垢ゆえの奔放な魅力なのか?

『ロンドリ姉妹』の女も
両極端に想像できるくらい謎めいてる点からしても
この『ウルビーノのヴィーナス』を想起させる

ジャンヌの容貌とヴェロネーゼの緑

モーパッサンは『女の一生』の冒頭で
ヒロインのジャンヌの容貌を
次のように表現してる

ヴェロネエズの肖像画を思わせた。

ヴェロネエズはヴェロネーゼ(Veronese)だ

北イタリアのヴェローナ出身故に
ヴェロネーゼと称されるも
本名はPaolo Caliariで
ヴィンチ村出身のレオナルドが
ダ・ヴィンチと呼ばれてるが如くである

ヴェロネーゼの作品と言えば
有名ドコロは『カナの婚礼』とか・・・

自分が好きな『レダと白鳥』とか・・・

しかしヴェロネーゼの肖像画となると
生憎、印象に残ってるモノがナイ

ググってみると・・・この辺りだろうか???

これはヴェネチア女性の肖像なので
恐らく豪商の奥方と見た

フランス貴族の嫁入り前のジャンヌは
ましてや修道院に預けられてたときたら
こんなに恰幅良いはずもなくw

とは言え
ヴェロネーゼの作品はやはり
キリスト教やギリシア神話を主題としたモノが多く
テーマに沿った登場人物が描かれてて
相対的に肖像画は少なく
その中でも若い女性となると
これくらいしか該当するモノが見当たらず

まあ他のちょっと年上だろう女性の肖像画も
面立ちはどれも似通ってるので
当たらずとも遠からずかと思われ

ところでヴェロネーゼと言えば
Vert Veroneseと称する色があって
直訳すれば「ヴェロネーゼの緑」

高級ブランドのHERMESでも
このカラーが取り扱われてて
ファッション・デザイナーのマーク・ジェイコブスが
まさにこのバーキンを持ってた!

くすんだ緑、カーキぽい(てか、カーキ?!)

これより一段トーンが明るいVert Anisだと
全然ヴィヴィッドな印象になって
名だたるバーキン持ちのヴィクトリア・ベッカムが
目に眩しい黄色いコートに合わせてる

そういうワケで
Vert Veroneseがどんな色なのかは判明

今度はそのヴェロネーゼの緑が
いったいどの絵から派生したのか気になって
それらしい緑を用いた印象的な一作品があるかどうか
ググりまくるも該当作品は見当たらず・・・

但し
殆ど総ての作品で複数の人物を描いてて
登場人物1人1人の表情を引き立たせるためにか
背景に木々などを配してても
明るいトーンの緑でなく
アースカラーで描いてるってのはある

よって
まるでヴェロネーゼが背景に好んで使うような緑
なのか?(断言はせずにおくw)

カランダッシュの水彩色鉛筆に
ヴェロネーゼ・グリーンがあった!

水彩色鉛筆だとトーンがだいぶ明るめ!!

どうもヴェロネーゼの緑は
国(あるいは民族もしくは言語)による違いもありそうだw

最後はバルバロ邸のフレスコ画

ヴェロネーゼが手掛けてて
樹木が主役級に描かれてるので
ヴェロネーゼの緑を一通り堪能できるるる~

続・トルストイの『モーパッサン論』

トルストイは『モーパッサン論』において
モーパッサンのある部分を絶賛して
ある部分に対して残念がってる

モーパッサンの『女の一生』では
善良な女が不埒な夫と放蕩息子に悩まされるが
トルストイの解釈ではこの女が
『旧約聖書』の「ヨブ記」に譬えられてて
要約すると・・・
道徳的な女が不道徳な男に踏み躙られる不幸と
その不幸が誰にも理解されナイコトを
深く感動的に描いてると絶賛し
以降の長編、特に次いで書かれた『ベラミ』は
美しい純潔な魂と社会の堕落との衝突が
同じように描かれてても
不道徳な登場人物の方にこそ
作者が肩入れしてるように思えて
濡れ場における詳細な描写も
芸術性を損なってると残念がってる

モーパッサンがなぜ
トルストイにとって残念な長編を書いてしまうのかは
以下の言にあるように
トルストイも根本的にわかってはいる

 モーパッサンが出入りしていたサークルで、芸術が奉仕すべき美として昔も今も認められているのは、何よりもまず女、若い、美しい、しかも多くは裸体の女、それからその女との性的な交渉である。そう認めてきた人々の中には、単にモーパッサンの≪芸術≫上のすべての仲間、つまりが画家や彫刻家や小説家や詩人ばかりではなく、若い世代の教師たる哲学者もふくまれている。

しかし理解するコトと納得するコトは別なので
ルナンの『マルクス・アウレリウスについて』から
以下の言葉を批判的に引用してくる

キリスト教の欠陥はここにはっきりあらわれている。つまりキリスト教はもっぱら道徳的でありすぎるのだ。美は完全にしめ出されている。ところが、円満具足の哲学の眼からみると、美はうわべだけの長所、危険なもの、不都合なものであるどころではない。それは徳と同じく、神のたまものなのだ、美には徳に匹敵する価値がある。美しい女は天才や、徳の高い女と全く同じように、神の意図の一面、神の目的のひとつをあらわしている。美しい女はそのことを知っているからこそ、おのずと気位が高くなるのだ。美しい女は自分が体内に持っている無限の宝を本能的に感知する。(後略)

(後略)の後もトルストイは
ルナンの美女讃歌を延々と引用して
「宝石を身に付けたり、化粧をしたり、髪型や服装に凝ったり、
女がその美しさを際立たせるようとするのは正しい行い」
としてる部分に次のように
皮肉な解釈を入れてくるワケだ。(゚д゚lll)ギャボ

してみれば、この若い世代の指導者{ルナン}の考えでは、ようやく、現代にいたって、パリの裁縫師や理髪師がキリスト教の犯したあやまちをただし、美のために本来の、そして最高の地位を回復してやった、という訳である

有史以来
人類は不自然な生活を強いられてて
生物としての本能が蔑ろにされてきた

特定の時代や地域社会でしか通じナイような
独特の価値観が存在してるが
それらはいずれも誰かが
要するに人間が勝手に作った観念でしかなく
バックグラウンドを異にする者が
正しいか誤りかを論じるのはナンセンスだ

キリスト教が華美な女性を疎んじてるのを
美の表現者である芸術家や
美徳の体現者である哲学者が
反感を持論で展開するのまでは構わナイ

でもトルストイの反論は
それを曲解してて
ましてやパリの裁縫師や理髪師を
つまり、技能労働者をバカにした物言いは
所詮ドシア人(※)だって僻みで
世の中を舐めた資産家のお坊ちゃんの世迷言だ
お洒落なパリに憧れるド田舎者の無粋なロシア人、の略w

そう思えるので
自分が賛同できるのは
モーパッサンや同じサロンに集う人々の方
だった・・・そう、過去形なんである

今現在の姥(年老いた女)の自分にとっては
トルストイの見解もありに思える

再度、肝心な部分を引用すると・・・

何よりもまず女、若い、美しい、しかも多くは裸体の女、それからその女との性的な交渉である。

生物学的見地からすれば
この主張は全く持って正しく
生物は子孫を残すために
生殖を行う必要があり
その際にはお互いに
優先順位が同等でナイ性を選ばなくてはならず
またできるだけ若く(=体力があり)
そして美しい(=整ってる)相手を求めるのは
分子生物学(※)からしても正しい
生物をDNA単位から考察する学問

但し
人間以外の生物の場合は
性の優先順位(※)が高い雌に雄を選ぶ権利があり
雄の方こそが若さと美しさで雌に選別される
正確にはミトコンドリアの優位性

ところが人間社会は変わってて
どんなに若く美しい雄でも
それだけでは雌に選んでもらえナイ!

とゆーのも
雌には子供を産み育てる環境についても
十分に考慮する必要があるからで
そこで若さと美しさで劣ってる雄でも
社会的に優位だったり、財産を持ってたりすると
子供を産み育てる環境も好かろうと
選んでもらえたりする(よね?)

いや、子供でなく
雌自身が好い環境で生活したくて
ってのが本音か???
まあ雌の見解の真意については今回はスルーでw

男が女にアプローチをかける時に
本能的に近付いてしまうのが
若く美しい女であるのは至極当然だが
仮に若くも美しくもナイ女しかいなければ
そこは躊躇せずにか、多少は躊躇したとしても
その女に選んでもらおうとするのが
男の性なのだ

最終的に性衝動を何とかしてくれるのであれば
ぶっちゃけ何でも構わナイ、てのが
雄の真っ当な種蒔き本能なので
手当たり次第に攻略を試みてく内に
選んでもらえたらラッキー、てなモノだ

攻略する順番は手当たり次第なんかではナイと
反論するヤツもいるかもしれナイが
そこはきっと個々の好みが反映してると思うので
傍から見てれば手当たり次第なのだよ

理性によって制御してはいるが
箍が外れた男はそんなモノだろう(-_-;)

それにしても
男が女を選ぶ時に
若さの判別は簡単だが
美醜の基準は曖昧模糊としてて
若いけど美しくはナイ女と
若くはナイが美しい女となると
どちらを選ぶかは微妙なトコロだ

僅差で前者をオススメするのは
生物学的な理由による
妊娠の確率が高く
子育てをするのに十分な体力があるからだ
でも後者も妊娠可能な限り
選ばれたとしても間違ってはいナイ

換言すれば
妊娠の可能性が全くナイ女だけは
美醜を問わず男を選ぶ権利もなければ
またそういう女を男が受け入れてしまうのは
生物学的には間違ってるとも言えるヽ(゚∀。)ノ

だからって
若くも美しくもナイ女は男に愛される価値がナイ
と思うのは生物学的狭量による早計で
哲学的とか、もっと素朴な情によるとか
あるいはスピリチュアル(霊的)とか
愛される理由付けはいくらでもある

むしろ社会的とか生物学的な結び付きは
若さと美しさと条件に適えば
もれなく誰でも゚+.(・∀・)゚+.゚イイとも言える

でも人間同士が愛を育むのは
とある妙齢の男ととある妙齢の女が、でなくて
個対個であって
性別も年齢も容姿も思想も何もかも
お互いが受け入れられれば
それだけでいんじゃん?

社会的かつ生物学的に条件が適って
お互いに合意した結婚だとしても
持続させるには条件を保ち続けるのでなく
他の要素で愛を育んでいかなければ
意味がナイワケで
条件が変わっただけで
破綻して離婚に至るのがオチ

その脆さに気付かナイで
社会的かつ生物学的な条件を
保つコトだけに奔走してる状態を
「若い」とか「青い」と言う

トルストイの『モーパッサン論』

筑摩世界文学大系がお気に入りなのは
本文以外が充実してるからだ

巻末には必ず
充実した「解説」と詳細な「年譜」があり
更に巻によっては
他の作家による論文が収録されてたりするるる~

筑摩世界文学大系のモーパッサンの巻には
ロシアの文豪トルストイの『モーパッサン論』が・・・

筑摩世界文学大系【44/47】モーパッサン



「女の一生」岡田真吉訳
「ベラミ」中村光夫訳
「脂肪の塊」杉捷夫訳
 短編 杉捷夫訳
  「山小屋」
  「ペルル嬢」
  「橄欖畑」
  「シモンのパパ」
  「わら椅子直しの女」
  「狂女」
  「海の上のこと」
  「ジュール叔父」
  「ひも」
  「老人」
  「雨がさ」
  「くびかざり」
  「酒樽」
  「帰村」
  「あな」
  「クロシェット」
  「港」
「モーパッサン論」トルストイ / 木村影一訳
 解説 中村光夫
 年譜

そしてこれがモーパッサンを論じてるってよりは
モーパッサンとゆーフィルターを通して
自身の主義・思想を述べてるカンジで
大変興味深い内容になってる

なんせロシアには近代に至るまで
自国語の口語文学がなく(※)
仏文学に対するロシア人作家の劣等感は
そりゃあ根が深かったろう
ロシアの宮廷ではフランス語をしゃべってたくらいだ

貴族で才能にも恵まれてたトルストイだが
仏文学に対してのコンプレックスはあったに違いナイ

晩年のトルストイは
勤労農民の素朴な信仰心に回心させられ
自身の貴族の身分を恥じるようになったりもするが
「モーパッサン論」を書いてる時点では
まだその境地に達してなかったらしく
『女の一生』を大絶賛してるのが笑えるw

トルストイはあくまでも貴族目線で
主人公の貴族女のジャンヌに降りかかる
身に余る不幸を憐れみつつ
打ちひしがれても無抵抗でいる女に対して
純粋だとか、清らかだとか
見当違いの感動をしてるのであるwww

1日の大半が仕事に消費されて
やっと生活が成り立ってる勤労庶民には
(要するに自分のような人間には)
生まれながらにして生活苦には無縁で
自らが稼ぐ必要が全くナイ上に
家事や雑事さえも人任せの貴族女ジャンヌが
どんな悲劇に見舞われようが
おざなりに生きてられるのなんて
羨ましいくらいで、同情の余地無しp(-_-+)q

既に子供も与えてくれた夫に浮気されようが
その子供の放蕩が過ぎようが
それで明日のメシに困りゃあしナイのだから
悲しみに暮れてばかりいナイで
好きなコトをして楽しく生きればいんじゃん?

無趣味で無教養ゆえに
暇を持て余してるだけの貴族女が
「何もやるコトがナイ!」
などと嘆いてるのに対して
「なんと道徳的な女だ!!」
と感動できるトルストイのおめでたさには
さすが貴族、としか言いようがナイw

察するに
トルストイの周囲の貴族女はきっとこんなだろう

依頼心の塊のクセに我が強くて
欲深なワリに自身では何一つ行動を起こさず
気に入らなければ文句だけは人一倍

そんな女たちの厚かましさに
トルストイは辟易してただろうから
無欲なジャンヌを清らかな乙女として
崇め奉りたくもなるワケだ

ジャンヌときたら
ダメンズのダンナに騙され続けても
更に息子もダメンズに育て上げて
挙句に財産をもぎ取られても
他力本願で受身であり続け
生きるコトに消極的なままで
本ト、心底無欲・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

とはいえ
この時代の女が生きるためには
食わせてくれる男に対して
身を委ねるしかなかったのだから
貴族女も百姓女も娼婦も
男に傅かねばならなかった

それとゆーのも
社会が女にはごく限られた仕事しか与えず
微々たる収入を得る手段しかなく
それで生計を立てるのは大変なコトだったのだ

『女の一生』の原題『Une vie』は
直訳すれば「人生」で
とあるありふれた女の生涯の物語の意だが
このタイトルの解釈からして
トルストイの感覚が一般庶民とはズレてる

この作品の内容をなすものは、題名が示すとおり、破滅させられた、無邪気な、美しい行いならなんでもする素質を持った、愛すべき女性の一生の叙述である。

バタリ ゙〓■●゙

またモーパッサンの『女の一生』以外の作品について
トルストイは特にその芸術性について貶してる

モーパッサンのようにしか民衆を描かない作家、つまりブルターニュの下女たちの腰や乳房にしか興味を持たず、はたらく人々の生活は嫌悪と嘲笑とをもって描く作家は、芸術家として大きなあやまちをおかしているのである。

何が1番気に入らナイかって
男たちの放縦さにあるらしいが
トルストイはフランス文化に対して
畏敬の念を抱いてるからこそ
フランス男らの興味が
肉欲をそそるような対象にしかなく
貴婦人のはちきれんばかりに盛り上がった乳房や
下女の粗末なスカートを揺らす肉厚の尻などにあるのを
モーパッサンが赤裸々に描いてしまうコトに
「裏切られた感」があるぽい

しかもそこで女の方もそれに呼応して
お互いに理性を働かせるコトなく
本能に付き従ってしまうので
その低俗さに耐えられナイのだろうが
そこは自分も苦手意識があって
トルストイの言い分を理解はできる(゚*゚;)

でもだからって
放縦な男に騙されてる女に対して
それだけで同情するのはどうかと思う

逆にその放縦な男が
他の全ての性質も性悪だとは限らナイし
男のせいで不幸な目に遭った女が
それでも男を愛してる可能性もあるしね

トルストイは恐らく
放縦な男を悪と捉えてて
男が悲惨な目に遭ったり死んだりする場面では
きっと胸を撫で下ろしたりするのだろうが
そういうトコロもさすが貴族・・・

自分がジャンヌだったら
毎日自由時間を満喫して過ごせるだろうから
それを自覚できたら幸せ過ぎて
ダンナにも同等に幸せになる権利があると思えて
快楽を与えてくれる女に夢中になるのなんて
咎めようもナイけど・・・
既に息子を儲けてるのだから
自分に対しての義務は果たしてくれたんだしね

お互いに義務から解放されて
それぞれの快楽に耽ってるなんてのは
もしかしたら夫婦の理想形態ではナイだろうか?!

どんなに恵まれた人間も
そうと気付かなければありがたさを感じず
人生をどう生きるか以前に
まず今日を生き抜かなければと
そのために働いてる人間に
どう生きるか悩んでる時間は殆どなく
だからさもトルストイのように
「高潔に生きよう」とか誓ってるヨユーは
勤労庶民にあるはずもナイのだよ

『女の一生』以外の作品では
モーパッサンは生々しく庶民の人生を描いてて
それが自分には共感できるし素晴らしいと思えるが
そういう作品を蔑むトルストイは
さすが貴族、だ(こればっかりだな)

そして自分が『女の一生』を蔑みつつも
何度も読んだり映画を観てるのは
自身より社会的に恵まれた立場の女性の
無欲さが織りなす悲喜劇によって
自身の現実の厳しさが和らぐからだろう

どう控えめに見ても
ジャンヌより自分の方が
充実した人生を愉しみながら生きてる♪

モーパッサンのエスプリやユーモアと
自分のような江戸っ子の洒落は
生真面目なトルストイと無欲なジャンヌにゃ
理解できまいヽ(゚∀。)ノ

『女の一生』のジャンヌは凡庸か非凡か?

19世紀のフランス文学にハマって
メリメの『カルメン』
フローベールの『ボヴァリー夫人』
モーパッサンの『脂肪の塊』『ベラミ』
そして『女の一生』を立て続けに読んでた時期があって
全てがたまたま杉捷夫(としお)訳だった

『カルメン』を読むまで
カルメンの人物像を誤解してて
男にとってのみ魅力的な女だと思ってたが
女としてでなく、人として
生き様がカッコ好くて感動したし
死に様がカッコ好過ぎたのは残念だった

『ボヴァリー夫人』は
ボヴァリー夫人たるエマ(エンマ)が
夢見がちで不倫にひた走り
見栄っ張りで借金まみれになるような
勘違いバカ女で嫌悪感を抱いたが
自殺で落とし前を付けたのは
理想と現実のギャップに気付いたからだろうし
気付けナイような教育しか受けておらず
気付かせてくれる人間関係も育めなかったので
相対的には憐憫の情を抱けなくもナイ

『脂肪の塊』だけは短編で
面と向かってそうとは呼ばれてナイが
「脂肪の塊」と称されて噂される娼婦が
ラストで嗚咽するトコロで
一緒に嗚咽してしまい
読後もしばし嗚咽したままで
平常心を取り戻すのに時間がかかった程で
必ず泣いてしまう物語の1つとなった

『ベラミ』はそんな『脂肪の塊』と同じ作者なのかと
疑念を抱いてしまう程のピカレスク度MAX小説で
女を食い物にしてのし上がる男が主人公で
読後にはスタンダールの『赤と黒』で
出世を目論むジュリアン・ソレルが
なんだが可愛く思えてきた

そして『女の一生』のヒロインのジャンヌは
読み進むほどに肩透かしを食らって
何一つ共感できナイままに反感を持ってしまい
いくら悲惨な目に遭おうと
同情の余地もナイ程に嫌気が差した

先に『脂肪の塊』等を読んでおらず
『女の一生』一作だけだったら
モーパッサンを過小評価してたと思われw

美しくしなやかでスリリングな人間が好きで
特に女性は稀有な美貌によって
既にモラル的な是非は超越してるような美女だと
非凡な言動に魅せられ、心惹かれるのだが
するコトなすコト凡庸なジャンヌは
つまらナイ女の代表なのだ。(´д`;)ギャボ

でもそんなコトはタイトルで察するべきだった!
非凡な女の境涯が描かれてる作品は
『カルメン』や『ボヴァリー夫人』や『脂肪の塊』のように
その女の呼び名を冠してるのだが
『女の一生』は原題もそのまま『Une vie』で
不特定な女のままある人生、なのだよ。(゚д゚lll)ギャボ

そんな凡庸なジャンヌだが
父親のパーソナリティは実に興味深い!
93年を苦々しく思いつつ
革命の起爆剤となったであろう
ジャン・ジャック・ルソーの自然崇拝を
従来のキリスト教よりは信奉する!!

93年・・・1793年はルイ16世が処刑された年で
この年を苦々しく思うのは貴族だからだが
それだけの単純なキャラクターではナイ
貴族と言っても田舎に居を構えて
自然の中でのびのびと育ったせいか
貴族特有の高慢な性質も
悠然とした性格にすっかり呑み込まれてしまってて
周囲に不快感を与えるほど露呈しナイのだ
男気がある、とゆー程度

そして更にキリスト教には懐疑的で
ルソーの自然主義に共感を覚えてる点で
自分にとっては基本的に理解し合える相手だ

以上の父親についてのプロフィールは冒頭にあり
物語が進む中で少しづつ過去も解き明かされ
若い時にはなかなかどうしてやんちゃだったようで
情に脆く、感動しやすく
単に善良ではナイ心根の良さを持ち合わせてるぽい

その妻でありジャンヌの母親でもある婦人は
この父親に比すれば影が薄い存在だが
途中でいきなり意外な過去が発覚したりするるる~

そんな両親にしては
娘のジャンヌが主人公でありながら凡庸なのは
多感な時期に修道院にやられてたのが
原因と思われ。(´д`;)ギャボ

そんなワケで『女の一生』は
自分的には駄作と打ち捨ててたのだが
アラフォーになって違う訳で読み返してみたら
ジャンヌは凡庸だなんて
一言で簡単に片付けられなくなってた

ジャンヌの生活や人生に対する無欲さが
常軌を逸してるレベルで
非凡なコトに改めて気付いたのだ。(゚д゚lll)ギャボ

そしてジャンヌの全ての悲運は
その無欲さによるモノだとも思えてきた

例えば「金が欲しい」と思うから
働く(正攻法)、強奪する(非合法)
あるいはジャンヌの息子のように無心するのだが
無欲なので得ようと思わず
何のアクションも起こさずにいるし
逆に息子にたかられるままに
じゃんじゃん与えてしまえるのだ

浮気を放置しっ放しのダンナに対しても
悲しむだけで何の働きかけもしナイのは
単に裏切られたのが悲しいだけで
ダンナを欲してナイからだ

むしろダンナに限らず男が欲しくナイのだろう
そこはレズビアンの自分には唯一共感できる部分だw
ダンナにも他の男にも心や身体が傾くコトがなく
だから関心をすら惹く気がなく
女として美しくあろうなどと思いつきもせず
無欲なのだ

とはいえ、ジャンヌは冷酷な人間でもなく
フツーに愛情を育めるタイプだが
それを子供にだけ注いでしまったコトで
しかも庇護や過保護が過分に含まれてたせいで
息子の放蕩三昧が歯止めの利かナイレベルに達したのだ

ジャンヌはこの時代の良家の奥様にしては
赤ん坊を乳母に任せずに
自身で育てたのも珍しいってか変わってるが
乳母に任せっきりの育児に対して
「おかしいだろう?」と意見したのがルソーなので
さすが父親がルソー崇拝者だけのコトはある

でもジャンヌ自身はきっと
ルソーの教育論『エミール』を読んでおらず
だから息子を甘やかし過ぎて
ダメンズに育て上げてしまったんだろうヽ(゚∀。)ノ

ジャンヌは他の本もロクに読んでなかったから
その無味乾燥とした人生の中で
唯一感動したのがキリスト教なのは
もれなく当たり前の話だなw

『聖書』が世界的なベストセラーなのは
本を読まナイ大多数が唯一読んだ本だからだなwww

でもジャンヌはこれも父親の影響なのか
結果としては敬虔な信者にはならなかったのだ
教会に通ったりしなかったし
子供にも信仰を強要しなかった

なんせ子供の聖体拝受をどうしようか迷ってるのだ
同じくモーパッサンの『メゾン テリエ』では
娼婦が娘に聖体拝受をさせる話で
これは信仰心よりも親心で
堅気の子のように体裁を整えてやるんですが
それと比べたらジャンヌの信仰心は
恐らく娼婦にも異端視されるほどなんだろう

つまりジャンヌは人生には受身で翻弄されてても
決して世間には流されておらず
凡庸な人生を非凡に生き抜いたがために
不幸に身をやつした気がしてきた