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トルストイは『モーパッサン論』において
モーパッサンのある部分を絶賛して
ある部分に対して残念がってる

モーパッサンの『女の一生』では
善良な女が不埒な夫と放蕩息子に悩まされるが
トルストイの解釈ではこの女が
『旧約聖書』の「ヨブ記」に譬えられてて
要約すると・・・
道徳的な女が不道徳な男に踏み躙られる不幸と
その不幸が誰にも理解されナイコトを
深く感動的に描いてると絶賛し
以降の長編、特に次いで書かれた『ベラミ』は
美しい純潔な魂と社会の堕落との衝突が
同じように描かれてても
不道徳な登場人物の方にこそ
作者が肩入れしてるように思えて
濡れ場における詳細な描写も
芸術性を損なってると残念がってる

モーパッサンがなぜ
トルストイにとって残念な長編を書いてしまうのかは
以下の言にあるように
トルストイも根本的にわかってはいる

 モーパッサンが出入りしていたサークルで、芸術が奉仕すべき美として昔も今も認められているのは、何よりもまず女、若い、美しい、しかも多くは裸体の女、それからその女との性的な交渉である。そう認めてきた人々の中には、単にモーパッサンの≪芸術≫上のすべての仲間、つまりが画家や彫刻家や小説家や詩人ばかりではなく、若い世代の教師たる哲学者もふくまれている。

しかし理解するコトと納得するコトは別なので
ルナンの『マルクス・アウレリウスについて』から
以下の言葉を批判的に引用してくる

キリスト教の欠陥はここにはっきりあらわれている。つまりキリスト教はもっぱら道徳的でありすぎるのだ。美は完全にしめ出されている。ところが、円満具足の哲学の眼からみると、美はうわべだけの長所、危険なもの、不都合なものであるどころではない。それは徳と同じく、神のたまものなのだ、美には徳に匹敵する価値がある。美しい女は天才や、徳の高い女と全く同じように、神の意図の一面、神の目的のひとつをあらわしている。美しい女はそのことを知っているからこそ、おのずと気位が高くなるのだ。美しい女は自分が体内に持っている無限の宝を本能的に感知する。(後略)

(後略)の後もトルストイは
ルナンの美女讃歌を延々と引用して
「宝石を身に付けたり、化粧をしたり、髪型や服装に凝ったり、
女がその美しさを際立たせるようとするのは正しい行い」
としてる部分に次のように
皮肉な解釈を入れてくるワケだ。(゚д゚lll)ギャボ

してみれば、この若い世代の指導者{ルナン}の考えでは、ようやく、現代にいたって、パリの裁縫師や理髪師がキリスト教の犯したあやまちをただし、美のために本来の、そして最高の地位を回復してやった、という訳である

有史以来
人類は不自然な生活を強いられてて
生物としての本能が蔑ろにされてきた

特定の時代や地域社会でしか通じナイような
独特の価値観が存在してるが
それらはいずれも誰かが
要するに人間が勝手に作った観念でしかなく
バックグラウンドを異にする者が
正しいか誤りかを論じるのはナンセンスだ

キリスト教が華美な女性を疎んじてるのを
美の表現者である芸術家や
美徳の体現者である哲学者が
反感を持論で展開するのまでは構わナイ

でもトルストイの反論は
それを曲解してて
ましてやパリの裁縫師や理髪師を
つまり、技能労働者をバカにした物言いは
所詮ドシア人(※)だって僻みで
世の中を舐めた資産家のお坊ちゃんの世迷言だ
お洒落なパリに憧れるド田舎者の無粋なロシア人、の略w

そう思えるので
自分が賛同できるのは
モーパッサンや同じサロンに集う人々の方
だった・・・そう、過去形なんである

今現在の姥(年老いた女)の自分にとっては
トルストイの見解もありに思える

再度、肝心な部分を引用すると・・・

何よりもまず女、若い、美しい、しかも多くは裸体の女、それからその女との性的な交渉である。

生物学的見地からすれば
この主張は全く持って正しく
生物は子孫を残すために
生殖を行う必要があり
その際にはお互いに
優先順位が同等でナイ性を選ばなくてはならず
またできるだけ若く(=体力があり)
そして美しい(=整ってる)相手を求めるのは
分子生物学(※)からしても正しい
生物をDNA単位から考察する学問

但し
人間以外の生物の場合は
性の優先順位(※)が高い雌に雄を選ぶ権利があり
雄の方こそが若さと美しさで雌に選別される
正確にはミトコンドリアの優位性

ところが人間社会は変わってて
どんなに若く美しい雄でも
それだけでは雌に選んでもらえナイ!

とゆーのも
雌には子供を産み育てる環境についても
十分に考慮する必要があるからで
そこで若さと美しさで劣ってる雄でも
社会的に優位だったり、財産を持ってたりすると
子供を産み育てる環境も好かろうと
選んでもらえたりする(よね?)

いや、子供でなく
雌自身が好い環境で生活したくて
ってのが本音か???
まあ雌の見解の真意については今回はスルーでw

男が女にアプローチをかける時に
本能的に近付いてしまうのが
若く美しい女であるのは至極当然だが
仮に若くも美しくもナイ女しかいなければ
そこは躊躇せずにか、多少は躊躇したとしても
その女に選んでもらおうとするのが
男の性なのだ

最終的に性衝動を何とかしてくれるのであれば
ぶっちゃけ何でも構わナイ、てのが
雄の真っ当な種蒔き本能なので
手当たり次第に攻略を試みてく内に
選んでもらえたらラッキー、てなモノだ

攻略する順番は手当たり次第なんかではナイと
反論するヤツもいるかもしれナイが
そこはきっと個々の好みが反映してると思うので
傍から見てれば手当たり次第なのだよ

理性によって制御してはいるが
箍が外れた男はそんなモノだろう(-_-;)

それにしても
男が女を選ぶ時に
若さの判別は簡単だが
美醜の基準は曖昧模糊としてて
若いけど美しくはナイ女と
若くはナイが美しい女となると
どちらを選ぶかは微妙なトコロだ

僅差で前者をオススメするのは
生物学的な理由による
妊娠の確率が高く
子育てをするのに十分な体力があるからだ
でも後者も妊娠可能な限り
選ばれたとしても間違ってはいナイ

換言すれば
妊娠の可能性が全くナイ女だけは
美醜を問わず男を選ぶ権利もなければ
またそういう女を男が受け入れてしまうのは
生物学的には間違ってるとも言えるヽ(゚∀。)ノ

だからって
若くも美しくもナイ女は男に愛される価値がナイ
と思うのは生物学的狭量による早計で
哲学的とか、もっと素朴な情によるとか
あるいはスピリチュアル(霊的)とか
愛される理由付けはいくらでもある

むしろ社会的とか生物学的な結び付きは
若さと美しさと条件に適えば
もれなく誰でも゚+.(・∀・)゚+.゚イイとも言える

でも人間同士が愛を育むのは
とある妙齢の男ととある妙齢の女が、でなくて
個対個であって
性別も年齢も容姿も思想も何もかも
お互いが受け入れられれば
それだけでいんじゃん?

社会的かつ生物学的に条件が適って
お互いに合意した結婚だとしても
持続させるには条件を保ち続けるのでなく
他の要素で愛を育んでいかなければ
意味がナイワケで
条件が変わっただけで
破綻して離婚に至るのがオチ

その脆さに気付かナイで
社会的かつ生物学的な条件を
保つコトだけに奔走してる状態を
「若い」とか「青い」と言う

筑摩世界文学大系がお気に入りなのは
本文以外が充実してるからだ

巻末には必ず
充実した「解説」と詳細な「年譜」があり
更に巻によっては
他の作家による論文が収録されてたりするるる~

筑摩世界文学大系のモーパッサンの巻には
ロシアの文豪トルストイの『モーパッサン論』が・・・

筑摩世界文学大系【44/47】モーパッサン



「女の一生」岡田真吉訳
「ベラミ」中村光夫訳
「脂肪の塊」杉捷夫訳
 短編 杉捷夫訳
  「山小屋」
  「ペルル嬢」
  「橄欖畑」
  「シモンのパパ」
  「わら椅子直しの女」
  「狂女」
  「海の上のこと」
  「ジュール叔父」
  「ひも」
  「老人」
  「雨がさ」
  「くびかざり」
  「酒樽」
  「帰村」
  「あな」
  「クロシェット」
  「港」
「モーパッサン論」トルストイ / 木村影一訳
 解説 中村光夫
 年譜

そしてこれがモーパッサンを論じてるってよりは
モーパッサンとゆーフィルターを通して
自身の主義・思想を述べてるカンジで
大変興味深い内容になってる

なんせロシアには近代に至るまで
自国語の口語文学がなく(※)
仏文学に対するロシア人作家の劣等感は
そりゃあ根が深かったろう
ロシアの宮廷ではフランス語をしゃべってたくらいだ

貴族で才能にも恵まれてたトルストイだが
仏文学に対してのコンプレックスはあったに違いナイ

晩年のトルストイは
勤労農民の素朴な信仰心に回心させられ
自身の貴族の身分を恥じるようになったりもするが
「モーパッサン論」を書いてる時点では
まだその境地に達してなかったらしく
『女の一生』を大絶賛してるのが笑えるw

トルストイはあくまでも貴族目線で
主人公の貴族女のジャンヌに降りかかる
身に余る不幸を憐れみつつ
打ちひしがれても無抵抗でいる女に対して
純粋だとか、清らかだとか
見当違いの感動をしてるのであるwww

1日の大半が仕事に消費されて
やっと生活が成り立ってる勤労庶民には
(要するに自分のような人間には)
生まれながらにして生活苦には無縁で
自らが稼ぐ必要が全くナイ上に
家事や雑事さえも人任せの貴族女ジャンヌが
どんな悲劇に見舞われようが
おざなりに生きてられるのなんて
羨ましいくらいで、同情の余地無しp(-_-+)q

既に子供も与えてくれた夫に浮気されようが
その子供の放蕩が過ぎようが
それで明日のメシに困りゃあしナイのだから
悲しみに暮れてばかりいナイで
好きなコトをして楽しく生きればいんじゃん?

無趣味で無教養ゆえに
暇を持て余してるだけの貴族女が
「何もやるコトがナイ!」
などと嘆いてるのに対して
「なんと道徳的な女だ!!」
と感動できるトルストイのおめでたさには
さすが貴族、としか言いようがナイw

察するに
トルストイの周囲の貴族女はきっとこんなだろう

依頼心の塊のクセに我が強くて
欲深なワリに自身では何一つ行動を起こさず
気に入らなければ文句だけは人一倍

そんな女たちの厚かましさに
トルストイは辟易してただろうから
無欲なジャンヌを清らかな乙女として
崇め奉りたくもなるワケだ

ジャンヌときたら
ダメンズのダンナに騙され続けても
更に息子もダメンズに育て上げて
挙句に財産をもぎ取られても
他力本願で受身であり続け
生きるコトに消極的なままで
本ト、心底無欲・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

とはいえ
この時代の女が生きるためには
食わせてくれる男に対して
身を委ねるしかなかったのだから
貴族女も百姓女も娼婦も
男に傅かねばならなかった

それとゆーのも
社会が女にはごく限られた仕事しか与えず
微々たる収入を得る手段しかなく
それで生計を立てるのは大変なコトだったのだ

『女の一生』の原題『Une vie』は
直訳すれば「人生」で
とあるありふれた女の生涯の物語の意だが
このタイトルの解釈からして
トルストイの感覚が一般庶民とはズレてる

この作品の内容をなすものは、題名が示すとおり、破滅させられた、無邪気な、美しい行いならなんでもする素質を持った、愛すべき女性の一生の叙述である。

バタリ ゙〓■●゙

またモーパッサンの『女の一生』以外の作品について
トルストイは特にその芸術性について貶してる

モーパッサンのようにしか民衆を描かない作家、つまりブルターニュの下女たちの腰や乳房にしか興味を持たず、はたらく人々の生活は嫌悪と嘲笑とをもって描く作家は、芸術家として大きなあやまちをおかしているのである。

何が1番気に入らナイかって
男たちの放縦さにあるらしいが
トルストイはフランス文化に対して
畏敬の念を抱いてるからこそ
フランス男らの興味が
肉欲をそそるような対象にしかなく
貴婦人のはちきれんばかりに盛り上がった乳房や
下女の粗末なスカートを揺らす肉厚の尻などにあるのを
モーパッサンが赤裸々に描いてしまうコトに
「裏切られた感」があるぽい

しかもそこで女の方もそれに呼応して
お互いに理性を働かせるコトなく
本能に付き従ってしまうので
その低俗さに耐えられナイのだろうが
そこは自分も苦手意識があって
トルストイの言い分を理解はできる(゚*゚;)

でもだからって
放縦な男に騙されてる女に対して
それだけで同情するのはどうかと思う

逆にその放縦な男が
他の全ての性質も性悪だとは限らナイし
男のせいで不幸な目に遭った女が
それでも男を愛してる可能性もあるしね

トルストイは恐らく
放縦な男を悪と捉えてて
男が悲惨な目に遭ったり死んだりする場面では
きっと胸を撫で下ろしたりするのだろうが
そういうトコロもさすが貴族・・・

自分がジャンヌだったら
毎日自由時間を満喫して過ごせるだろうから
それを自覚できたら幸せ過ぎて
ダンナにも同等に幸せになる権利があると思えて
快楽を与えてくれる女に夢中になるのなんて
咎めようもナイけど・・・
既に息子を儲けてるのだから
自分に対しての義務は果たしてくれたんだしね

お互いに義務から解放されて
それぞれの快楽に耽ってるなんてのは
もしかしたら夫婦の理想形態ではナイだろうか?!

どんなに恵まれた人間も
そうと気付かなければありがたさを感じず
人生をどう生きるか以前に
まず今日を生き抜かなければと
そのために働いてる人間に
どう生きるか悩んでる時間は殆どなく
だからさもトルストイのように
「高潔に生きよう」とか誓ってるヨユーは
勤労庶民にあるはずもナイのだよ

『女の一生』以外の作品では
モーパッサンは生々しく庶民の人生を描いてて
それが自分には共感できるし素晴らしいと思えるが
そういう作品を蔑むトルストイは
さすが貴族、だ(こればっかりだな)

そして自分が『女の一生』を蔑みつつも
何度も読んだり映画を観てるのは
自身より社会的に恵まれた立場の女性の
無欲さが織りなす悲喜劇によって
自身の現実の厳しさが和らぐからだろう

どう控えめに見ても
ジャンヌより自分の方が
充実した人生を愉しみながら生きてる♪

モーパッサンのエスプリやユーモアと
自分のような江戸っ子の洒落は
生真面目なトルストイと無欲なジャンヌにゃ
理解できまいヽ(゚∀。)ノ

19世紀のフランス文学にハマって
メリメの『カルメン』
フローベールの『ボヴァリー夫人』
モーパッサンの『脂肪の塊』『ベラミ』
そして『女の一生』を立て続けに読んでた時期があって
全てがたまたま杉捷夫(としお)訳だった

『カルメン』を読むまで
カルメンの人物像を誤解してて
男にとってのみ魅力的な女だと思ってたが
女としてでなく、人として
生き様がカッコ好くて感動したし
死に様がカッコ好過ぎたのは残念だった

『ボヴァリー夫人』は
ボヴァリー夫人たるエマ(エンマ)が
夢見がちで不倫にひた走り
見栄っ張りで借金まみれになるような
勘違いバカ女で嫌悪感を抱いたが
自殺で落とし前を付けたのは
理想と現実のギャップに気付いたからだろうし
気付けナイような教育しか受けておらず
気付かせてくれる人間関係も育めなかったので
相対的には憐憫の情を抱けなくもナイ

『脂肪の塊』だけは短編で
面と向かってそうとは呼ばれてナイが
「脂肪の塊」と称されて噂される娼婦が
ラストで嗚咽するトコロで
一緒に嗚咽してしまい
読後もしばし嗚咽したままで
平常心を取り戻すのに時間がかかった程で
必ず泣いてしまう物語の1つとなった

『ベラミ』はそんな『脂肪の塊』と同じ作者なのかと
疑念を抱いてしまう程のピカレスク度MAX小説で
女を食い物にしてのし上がる男が主人公で
読後にはスタンダールの『赤と黒』で
出世を目論むジュリアン・ソレルが
なんだが可愛く思えてきた

そして『女の一生』のヒロインのジャンヌは
読み進むほどに肩透かしを食らって
何一つ共感できナイままに反感を持ってしまい
いくら悲惨な目に遭おうと
同情の余地もナイ程に嫌気が差した

先に『脂肪の塊』等を読んでおらず
『女の一生』一作だけだったら
モーパッサンを過小評価してたと思われw

美しくしなやかでスリリングな人間が好きで
特に女性は稀有な美貌によって
既にモラル的な是非は超越してるような美女だと
非凡な言動に魅せられ、心惹かれるのだが
するコトなすコト凡庸なジャンヌは
つまらナイ女の代表なのだ。(´д`;)ギャボ

でもそんなコトはタイトルで察するべきだった!
非凡な女の境涯が描かれてる作品は
『カルメン』や『ボヴァリー夫人』や『脂肪の塊』のように
その女の呼び名を冠してるのだが
『女の一生』は原題もそのまま『Une vie』で
不特定な女のままある人生、なのだよ。(゚д゚lll)ギャボ

そんな凡庸なジャンヌだが
父親のパーソナリティは実に興味深い!
93年を苦々しく思いつつ
革命の起爆剤となったであろう
ジャン・ジャック・ルソーの自然崇拝を
従来のキリスト教よりは信奉する!!

93年・・・1793年はルイ16世が処刑された年で
この年を苦々しく思うのは貴族だからだが
それだけの単純なキャラクターではナイ
貴族と言っても田舎に居を構えて
自然の中でのびのびと育ったせいか
貴族特有の高慢な性質も
悠然とした性格にすっかり呑み込まれてしまってて
周囲に不快感を与えるほど露呈しナイのだ
男気がある、とゆー程度

そして更にキリスト教には懐疑的で
ルソーの自然主義に共感を覚えてる点で
自分にとっては基本的に理解し合える相手だ

以上の父親についてのプロフィールは冒頭にあり
物語が進む中で少しづつ過去も解き明かされ
若い時にはなかなかどうしてやんちゃだったようで
情に脆く、感動しやすく
単に善良ではナイ心根の良さを持ち合わせてるぽい

その妻でありジャンヌの母親でもある婦人は
この父親に比すれば影が薄い存在だが
途中でいきなり意外な過去が発覚したりするるる~

そんな両親にしては
娘のジャンヌが主人公でありながら凡庸なのは
多感な時期に修道院にやられてたのが
原因と思われ。(´д`;)ギャボ

そんなワケで『女の一生』は
自分的には駄作と打ち捨ててたのだが
アラフォーになって違う訳で読み返してみたら
ジャンヌは凡庸だなんて
一言で簡単に片付けられなくなってた

ジャンヌの生活や人生に対する無欲さが
常軌を逸してるレベルで
非凡なコトに改めて気付いたのだ。(゚д゚lll)ギャボ

そしてジャンヌの全ての悲運は
その無欲さによるモノだとも思えてきた

例えば「金が欲しい」と思うから
働く(正攻法)、強奪する(非合法)
あるいはジャンヌの息子のように無心するのだが
無欲なので得ようと思わず
何のアクションも起こさずにいるし
逆に息子にたかられるままに
じゃんじゃん与えてしまえるのだ

浮気を放置しっ放しのダンナに対しても
悲しむだけで何の働きかけもしナイのは
単に裏切られたのが悲しいだけで
ダンナを欲してナイからだ

むしろダンナに限らず男が欲しくナイのだろう
そこはレズビアンの自分には唯一共感できる部分だw
ダンナにも他の男にも心や身体が傾くコトがなく
だから関心をすら惹く気がなく
女として美しくあろうなどと思いつきもせず
無欲なのだ

とはいえ、ジャンヌは冷酷な人間でもなく
フツーに愛情を育めるタイプだが
それを子供にだけ注いでしまったコトで
しかも庇護や過保護が過分に含まれてたせいで
息子の放蕩三昧が歯止めの利かナイレベルに達したのだ

ジャンヌはこの時代の良家の奥様にしては
赤ん坊を乳母に任せずに
自身で育てたのも珍しいってか変わってるが
乳母に任せっきりの育児に対して
「おかしいだろう?」と意見したのがルソーなので
さすが父親がルソー崇拝者だけのコトはある

でもジャンヌ自身はきっと
ルソーの教育論『エミール』を読んでおらず
だから息子を甘やかし過ぎて
ダメンズに育て上げてしまったんだろうヽ(゚∀。)ノ

ジャンヌは他の本もロクに読んでなかったから
その無味乾燥とした人生の中で
唯一感動したのがキリスト教なのは
もれなく当たり前の話だなw

『聖書』が世界的なベストセラーなのは
本を読まナイ大多数が唯一読んだ本だからだなwww

でもジャンヌはこれも父親の影響なのか
結果としては敬虔な信者にはならなかったのだ
教会に通ったりしなかったし
子供にも信仰を強要しなかった

なんせ子供の聖体拝受をどうしようか迷ってるのだ
同じくモーパッサンの『メゾン テリエ』では
娼婦が娘に聖体拝受をさせる話で
これは信仰心よりも親心で
堅気の子のように体裁を整えてやるんですが
それと比べたらジャンヌの信仰心は
恐らく娼婦にも異端視されるほどなんだろう

つまりジャンヌは人生には受身で翻弄されてても
決して世間には流されておらず
凡庸な人生を非凡に生き抜いたがために
不幸に身をやつした気がしてきた

オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』の「序文」には
ワイルドの芸術論が述べられてて、冒頭に芸術家の定義がある

芸術家とは、美なるものの創造者である。

また末尾を次のように結んでる

すべて芸術はまったく無用である。

要するに総ての美しいモノの中で人間が創ったモノが芸術なのだが
それら人の手による美は無用だってコトだ

確かに人間によって創られたのではナイ自然発生した美は
その美しさが必ず生命の営みに有用なのである

そして無用な美である芸術の存在は
だからこそ道徳的に善か悪かなどと判断すべきモノではナイし
ましてや芸術を解さナイ人間が無理矢理有用性を謳うのはナンセンスだし
そういう的を得ナイ芸術の批評はそれこそ有用ではナイばかりか有害だ

テンペスト―シェイクスピア全集〈8〉 (ちくま文庫)

そんなコトが述べられてる中で例えに使われてるのが
シェイクスピアの『テンペスト』に出てくるキャリバンである

十九世紀におけるリアリズムにたいする嫌悪は、キャリバンが鏡に映った自分の顔を見るときの怒りと異なるところがない。
十九世紀におけるロマンティシズムにたいする嫌悪は、鏡に自分の顔が映っていないといって怒るキャリバンそのままである。

前者はリアリズム(写実主義)への
後者はロマンティシズムへの批判を掲げる輩に対して
その滑稽さをキャリバンをして醜さの象徴としながら嘲笑してる
美を直観的に理解できナイ輩はまるでキャリバンだ、とねw

リアリズムの写実表現に対して「事実のままでしかナイ」とか
ロマンティシズムの夢物語に対して「現実的ではナイ」とか
わかりきった批判をするのはキャリバンと愚かさも卑しさも同レベルだってワケだ

19世紀のリアリスム(リアリズムの仏語的発音)文学と言えば
自分はフローベールの『ボヴァリー夫人』が真っ先に頭に浮かぶが
この作品は発表の翌年に告訴されても最終的には裁判に勝ち
また裁判沙汰になって話題になったお蔭で(?)
フランス中の人間がこの本を貪り読むに至った問題作だ

ボヴァリー夫人(新潮文庫)

どの辺が問題だったのかは
『ベランジェという詩人がいた』より起訴事実の部分を引用する

公衆及び宗教の道徳並びに良俗侮辱罪

『ボヴァリー夫人』の主人公のエマは夢見がちな女性で
ロマン主義に浸り
ありもしナイ自身を見出してしまって
不倫に走り
夫に内緒で散財して
行き詰まったトコロで死に至るのだが
先に引用した罪に問われてるのは実はこのエマであり
エマの代わりに彼女を創造したフローベール(と出版社)が
法廷に引きずり出されたのであるヽ(゚∀。)ノ

似たような裁判はボードレールにもあり
こちらはあろうコトか罪が認められて
ボードレールは罰金を課され
問題とされる部分(禁断詩篇)は総てカットされた

この辺の事情をワイルドは仄めかしてる気がするるる~

しかしワイルドの場合は作品が罪に問われたコトはなかったが
自身の男娼の罪で服役してるのだから
ある意味1枚上手なのだろうか?!

3連休は雨模様らすぃと予想されてたので
土曜日の夜のバイト以外には外出予定は入れずに
手芸三昧できたら゚+.(・∀・)゚+.゚イイなと思ってたが
日曜日は思いの外晴れたのと
ダンナが二日酔いで寝たきりなのを好都合に
チャリンコで上野の東京都美術館まで行って来た

とゆーのもウフィツィ美術館展をやってて
今回の目玉はボッティチェリの『パラスとケンタウロス』で
ケンタウロスが好きな自分にはこれだけでも観に行く意義があったのだ

それにしてもケンタウロスとパラスとは変な組み合わせだ
パラスとはギリシアで言うアテナ、ローマで言うミネルウァの別名だが
この知恵と闘いの女神がケンタウロスと対峙してるシーンは
ギリシア・ローマ神話には記述がなく
ボッティチェリがいったい何を描きたかったのか
もしくは依頼主がどういう趣旨でこんな絵を描かせたのか
様々な憶測が飛び交ってるが自分には決定的と思われるモノはナイ

それに専門家らの概ねの見解にありがちな
悪のケンタウロスが善のパラス・アテナに懲らしめられてる
なんて単純な図式を当て嵌めたかったら
何の係わりもナイこの2人をわざわざ描きはしナイだろうに
ましてやケンタウロスが肉欲の象徴なら
アトリビュート(象徴的な持ち物)が弓矢であるのも腑に落ちナイ
そう、専門家らの解釈に沿うならば、例えば
シュリンクス(パン・フルート)を吹くサテュロスに向かって
弓矢を構える処女女神アルテミスならわかりやすい

あれこれ考えを巡らせながら
遂に本物の大きな絵の前に立った瞬間
ケンタウロスの繊細な表情には憂いが読み取れたが
それはパラス・アテナに懲らしめられてるからではなく
もっと深い悲しみに沈んでるようだった
確かにパラス・アテナはケンタウロスの髪をつかんではいるが
いかんせん懲らしめてるようには見えなかったのだ

そして2人の間にある一艘の船の存在に気付いてみると
アキレウスの命運がトロイ戦争で尽きたのを嘆くケイロン(※)と
諦めを諭すパラス・アテナに見えてきた
この辺りの詳しい事情は[アキレウスとケイロン]参照

パラス・アテナはトロイの守り神として
そのパラディオン(神像)がトロイ建国時に神殿に祀られたが
これがある限りトロイは不落であるとされてたので
例の木馬作戦を実行する前にオデュッセウスらが盗み出した

パラディオンがギリシア陣営にあって
トロイの守護を放棄せざるを得なくなったパラス・アテナは
地理的には遠く離れてはいたが
アキレウスの訃報(※)に悲嘆にくれるケイロンと
お互いに守り育てた大切なモノを失う
その喪失感を共有してるのを感じて通じ合った
そんな図に思えてきた・・・
映画によってはトロイの木馬にアキレウスも参加してるが、知り得る限りの文献ではとっくに死んでて
アキレウスの代わりに息子のネオプトレモスが戦地に赴き、トロイの王を討ったのはこのネオプトレモスとされてる

人の子を育てた獣神であるケイロンと
人々の営みを育んできた女神であるパラス・アテナ

と、ここまでが頭の中で一気に展開して
何かが怒涛のように押し寄せてきて魂がスパークした
時間軸と空間を結ぶ点から存在が解き放たれると
現実や真実や事実より真意の重みを感じる

絵の前にいたのはほんの1分程だろうが
時空を超えて魂が旅をしてた
こういう感覚をまさにトリップと言うのだろう

薬物などでこの感覚を得てる人が
抜けられなくなるのはわかる、確かに爽快だ・・・
なので、この感覚を呼び覚ますモノでなければ
芸術として完成されてるとは自分には認められナイのだ

そんなだから、あとは数点しか
自分にとって有用な作品がなかったので
まあいつものコトだが15分ほどで会場を後にしたヽ(゚∀。)ノ

帰路、冷静になって考え直してみれば
ケイロンとパラス・アテナが手塩にかけた対象を
無慈悲に奪い去ったトロイ戦争が
開戦に及んだきっかけとなった大元の原因はと言えば
3柱の女神らの誰が1番美しいかの諍いで
その女神の内の1柱は誰あろうパラス・アテナだったし
戦争での勝利を約束するコトで審判を買収しようとさえした

とすると、パリスの審判でパラス・アテナが選ばれてたら
トロイは滅亡しなかったのだろうか?

九十三年

ヴィクトール・ユゴーの『93年』を読み返しながら
アキレウスとケイロンに想いを馳せる

秋の夜長・・・

2006年にまとめて購入した筑摩文学大系の中に
ロレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』と
ディドロの『運命論者ジャックとその主人』があり
2007年の終わり頃に先に『運命論者ジャックとその主人』を読んで
続けて『トリストラム・シャンディ』を読んでたのだが
これが1ヶ月かかっても第1章を読んでたくらい
超スローペースだったヽ(゚∀。)ノ

トリストラム・シャンディ 上 (岩波文庫 赤 212-1)トリストラム・シャンディ 中 (岩波文庫 赤 212-2)トリストラム・シャンディ 下 (岩波文庫 赤 212-3)

それとゆーのも本文中に気にかかる単語が頻出するので
その度に寄り道読書をする羽目になったのだ

寄り道読書とは1冊の本を最初から最後まで読むのに
本文から注へとページを行き来するのだが
注では飽き足らずに他の本で確認したり
そうして開いた本に更に別の本で確認したい事項があり・・・
などしてて、本の山が出来てしまうばかりで
当初、読もうとした1冊がなかなか読み進まナイ読書形態だw

自分はこの寄り道読書こそが本を読む愉しみだと思ってるので
読了までに20冊くらいは参照するのが常だ

『運命論者ジャックとその主人』もそれで
ルソー、ヴォルテール、プラトン、アリストテレス・・・etc.
など、読み返しながら読み進んでったのだが
それ以上に、既にストーリー自体が寄り道しまくりで
脱線に次ぐ脱線で本筋がなかなか展開せず。(゚д゚lll)ギャボ

運命論者ジャックとその主人

でもそこが愉快痛快に感じられた自分は
『運命論者ジャックとその主人』の風変わりな構想が
『トリストラム・シャンディ』に影響されたのだと知って
これを続けて読まずにいられなくなった(*^^*)
ディドロは英語に堪能なので『トリストラム・シャンディ』を読んで
そのパロディ版(?)をフランス語で書いたのだろう

ところが『トリストラム・シャンディ』は
予想を遥かに上回る寄り道読書っぷりを発揮させたので
のろのろながらもようやく第1章を読み終えた時に
まだ本文に入る前にある引用について謎が解けずにいて
寄り道と思ってたらすっかり迷子になってたのだ。(´д`;)ギャボ

そもそもがその引用とはエピクテトスなのだが
自分はエピクテトスを読み込んでたつもりでいたのに
これが全く意味不明だった・・・バタリ ゙〓■●゙

行為にあらず、行為に関する意見こそ、人を動かすものぞ。

しかもどこに書いてあったのか、まるで覚えがなく
改めて中公バックス世界の名著のエピクテトスの巻を読み返すも
この部分がどうしても見つからナイ
筑摩世界文学大系のギリシア思想家集の方は訳者も違うので
もしやと思ってこちらも一通り読むが見つからず

でもここへきて見落としてたコトが明らかになった
筑摩の方はページ数も少ナイので抄訳だとすぐ気付いたが
中公の方も抄訳だったのだ・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

この引用部分がちょうど抜け落ちてるのかΣ(゚д゚lll)ガーン

自分が持ってる以外のエピクテトスの本に
岩波文庫の『人生談義』があったが
その時点ではこれが完訳版だとは知らなかったし
重版未定でアマゾンでは上下巻共に¥3,000以上もしたので
そこまでして買う気は起こらなかった

当然ながらググってもみたが
エピクテトスの何の何章からの引用かはどこにもなくて
謎のままに終了・・・

人生談義〈上〉 (岩波文庫)人生談義〈下〉 (岩波文庫)

それから5年後(2013年)の岩波文庫の春の復刊に
『人生談義』があったので即購入すると
完訳版だったのでこれで謎が解明できると確信して
最初から最後まで一気に読んだ・・・が、該当箇所が見つからず
またしても謎のままに終了・・・

☆・・・☆・・・☆

電子書籍を読むようになって
重宝してるのがSONY ReaderのEvernoteとの連携機能だ

テキストの一部を選択してEvernoteへ送信すると
新規ノートが作成されて保存されるので
この引用ノートを後から編集すれば
自分なりの注釈書がEvernote内にできるのだが
これが寄り道読書には最高のツールで
『トリストラム・シャンディ』を読むのなら
SONY Reader Storeで購入するに限る、てワケで購入

但し、読み始めるにはやはり前回から謎の部分が気になるが
これがエピクテトスの『人生談義』の下巻『提要』の5にあった!

人々を不安にするものは事柄ではなくして、事柄に関する考えである。

これを探し当てた紆余曲折の過程はこちら→『トリストラム・シャンディ』の巻頭の引用

さ、安心して読み始めようっと♪

中世騎士物語の代表作と言えば
『アーサー王物語(Arthur)』
『トリスタンとイゾルデ(Tristan und Isolde)』
『ニーベルンゲンの歌(Niebelungenlied)』
『ローランの歌(Chanson de Roland)』

トマス・ブルフィンチはこれらの中から
『アーサー王物語』と『トリスタンとイゾルデ』を取り上げ
他にも英国民族の英雄伝説を加えて
『中世騎士物語』(詳細は前項参照)としたが
『ローランの歌』も『シャルルマーニュ伝説』として編纂してて
自分はこれを今世紀になってから入手して読んだ

シャルルマーニュ伝説 中世の騎士ロマンス (講談社学術文庫)

  • まえがき
  1. 序論
  2. 十二勇士
  3. 御前試合
  4. アルブラッカの攻囲
  5. リナルドとオルランドの冒険
  6. フランス侵攻(1)
  7. フランス侵攻(2)
  8. ブラダマンテとロジェロ
  9. アストルフォと女魔法使い
  10. 海魔オルク
  11. アストルフォの冒険はつづき、イサベラの冒険が始まる
  12. メドロ
  13. 狂ったオルランド
  14. ゼルビノとイサベラ
  15. アストルフォ月へ行く
  16. アフリカでの戦い
  17. ロジェロと結ばれるブラダマンテ
  18. ロンスヴァルの血戦
  19. バヤールを取り戻すリナルド
  20. リナルドの死
  21. ユオン・ド・ボルドー(1)
  22. ユオン・ド・ボルドー(2)
  23. ユオン・ド・ボルドー(3)
  24. オジエ・ル・ダノワ(1)
  25. オジエ・ル・ダノワ(2)
  26. オジエ・ル・ダノワ(3)
  • 訳者あとがき

吟遊詩人に歌い継がれてきた中世騎士物語には
確固たる原典が存在しナイのは然りだが
そうでなくてもアーサー王と円卓の騎士の一連の物語は
非科学的な要素が満載でほぼファンタジーなので
現代日本人の自分には史実として受容するのはとても無理だし
実際、史実とはまるで噛み合ってナイ

ところが『ローランの歌(シャルルマーニュ伝説)』は
実在の人物や歴史的事件なども登場するので
史実との摺り合わせができる部分もナイコトはナイのだが
当初(中世後期)、武勲詩として成立したモノが
イタリア・ルネサンスの作家らによって叙事詩として再編された際に
時代背景が変わってしまっても時代考証などお構いナシで
ウケ狙いでエピソードも盛ってるだろう写本ができ
ブルフィンチはそれらを底本にしてダイジェスト版にしたので
信憑性に欠ける、てか、信憑性はナイ。(゚д゚lll)ギャボ

ここでブルフィンチのセンスが素晴らしいのは
底本でいかにも原典のように装ってるが
その恭しい装いがバレバレなのをそのままにしてる点だ
事実として疑わしい部分に

(そうチュルパン大司教は主張している)

などと、嘯いてるのが可笑しいw

『シャルルマーニュ伝説』を読み始めた時分は
馴染みのキャラクターが登場する『中世騎士物語』に比して
とっつきにくく、話も散漫で読み辛いと思われたが
読み進む内に超絶美形で根明オバカのアストルフォに惚れ込んでしまい
トリスタンもランスロットもどうでもよくなった・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

またアストルフォの登場するエピソードが格別に愉快で
冒険譚の荒唐無稽レベルなんてラノベ。(´д`;)ギャボ

☆・・・☆・・・☆

自分が土曜日に働いてる新宿2丁目の少年アリス(※)は
新宿ゴールデン街のBar†ジュールの姉妹店なのだが
この店名のジュール(Jules)はどこからきたのかと思っていたら
サイトに誕生秘話があるのを発見!
なんとJules Verne(ジュール・ヴェルヌ)だった!!
少年アリスは2014年3月に閉店

まあ自分はJulesと言えばMichelet(ミシュレ)だが
ジュール・ヴェルヌも大好きな作家の一人で
『十五少年漂流記』『地底旅行』『海底二万里』は何度も読んだ

しかし店名のきっかけとなった『月世界旅行』は未読で
これを原作とした映画の存在も初めて知ったが
このシーン、てより、この顔は見覚えがあるような気がして
タブレットで検索するも、答えの見つからナイ内に寝落ち・・・バタリ ゙〓■●゙

ジョルジュ・メリエスの月世界旅行 他三編/映画創世期短編集 [DVD]月世界へ行く (新装版) (創元SF文庫)月世界旅行

そんなだからか、まんまとこの顔のある満月が夢に出てきて
「ほら、やっぱり見たコトがあった・・・でも何でだったっけ?」
とか、まだ目に刺さってナイ満月野郎と会話するのだが
「初めて月に着た人間が誰か知ってるか?」
なんて聞かれて咄嗟に出た答えが
「アストルフォ?!」

いやいや、フィクションだから、てか、夢だしヽ(゚∀。)ノ

☆・・・☆・・・☆

そんなんでアストルフォを思い出して
久々に『シャルルマーニュ伝説』を読もうとしたら
自分の持ってるのは講談社学術文庫版なのだが
余りの字の小ささに思わず眩暈・・・

電子書籍に慣れてしまったので
小さい字が苦痛に感じるようになってしまったのだった
早速、電子書籍化されてナイか探してみると
以下の表のような結果になった

現代教養文庫ライブラリーグーテンベルク21
Amazon Kindle上巻¥600+下巻¥600ナシ
SONY Reader Store上巻¥630+下巻¥630¥840
BookLive!上巻¥630+下巻¥630¥840
hontoナシナシ
YAHOO!ブックストア上巻¥630+下巻¥630ナシ

上下巻セットで¥1,260と全1巻で¥840となると
値段に¥420も違いがあるのだが
訳者はどちらも講談社学術文庫と同じく市場泰男で
ファイル形式も同じXMDFだったので
同じ内容ならグーテンベルク21版を買いたいのが人情だ

中身にどんな違いがあるのかサンプルを見てみたら
現代教養文庫ライブラリー版は
目次を見る限り講談社学術文庫版と同じ内容で
グーテンベルク21版はサンプルでは目次が見れなかったが
閲覧可能な途中の部分が講談社学術文庫版と全く同じだったので
とりあえず、安い方を買ってみるコトにした

シャルルマーニュ伝説(上) 中世の騎士ロマンス (現代教養文庫ライブラリー)シャルルマーニュ伝説(下) 中世の騎士ロマンス (現代教養文庫ライブラリー)

結論を言えば、値段は違えど、内容は同じだった
要するに、グーテンベルク21版がお買い得だってワケで
選択肢はSONY Reader StoreかBookLive!に絞られ
購入時点でのキャンペーンなどを加味したポイント還元率も見合わせて
今回はSONY Reader Storeで購入

ちなみに、YAHOO!ブックストアが選択肢に入らなかったのは
対応デバイスに[アプリ未対応]となってたからだが
[アプリ未対応]だとダウンロードできず
ブラウザからクラウド上の本しか読めナイので
オフラインで読むコトができナイ不便さがあるのと
万が一、YAHOO!ブックストアがなくなったとしたら
せっかく購入した本が読めなくなる可能性もなきにしもあらずなので
生涯に何度も読み返したい本を買うのには適さナイのだ

☆・・・☆・・・☆

↓↓↓『シャルルマーニュ伝説』オススメサイト↓↓↓

2号館【サガと各国神話】

1999年のある日
本屋の店頭で『ゴーメンガースト』なるタイトルが目に留まり
どういう意味???と無意識に手に取って開いた

ゴーメンガースト (創元推理文庫―ゴーメンガースト3部作)

ゴーメンガースト城。
蜘蛛の巣と苔に覆われたこの巨城の当主は、いまだ年少の第七十七代伯爵タイタス・グローン。
無限に繰り返される煩瑣な儀式から逃れ、未知の世界へ脱出することを、タイタスは望み始めた。
一方、権力の階段を頂まで登り詰めたスティアパイクは、城をわがものにすべく、タイタスの姉フューシャを籠絡せんと謀っていた。
日一日と成長するタイタス、狡猾きわまりなき奸計の綱を張りめぐらすスティアパイク。
両者はついに雌雄を決すべき時を迎えた。
読者の世界観を一変せしめるアダルト・ファンタジーの巨編、<ゴーメンガースト>三部作は、いよいよ佳境に入る!

とあり、それが架空の城の名前だとすぐに謎は解けたし
この物語が(アダルト・)ファンタジー小説で
自分がまず絶対読まナイ分野の本だと判明したのだが
なぜかもう1枚ページをめくってしまうヽ(゚∀。)ノ

しかも実は三部作で構成は次のようになってて

I Titus Groan:タイタス・グローン
II Gomenghast:ゴーメンガースト
III Titus Alone:タイタス・アローン

『ゴーメンガースト』は2部に当たり
フツーなら1部の『タイタス・グローン』から読み始めただろうが
読む気がなかったからこそ、お構いなしに手にした巻を開く

タイタスは七歳。
与えられた世界はゴーメンガースト。
(中略)
おお、大いなる闇の中の小さき革命よ!

この出だしは自分にとって魅力に溢れてた!
なんせ主人公のタイタスがわずか7歳にして既に世界の頂点に座してて
しかもその世界が外界から閉ざされた空間(城)なのだ!!
ましてやタイタスはその最高の官位に就きながら
その地位を捨てようとしてる革命児ってのがもうね・・・ホゥ(*-∀-)

最下層民出身の革命家は掃いて捨てるほどいるし
それに味方する貴族階級の革命家だって珍しくはナイけど
生まれながらに最高位を約束されてて、それを得たのに革命家とは?!
遊びたい盛りなのを厳しく取り締まられての子供らしい反発か
あるいは老成して虚無感を見出してしまうのだろうか・・・まさか???

The Gormenghast Trilogy

更に読み進むコト数ページほど・・・
途中から読んでる不自然さを全く感じさせずに
登場人物の興味深い描写が既に死んだ人間も含めて延々と続き
物語の設定やここまでの展開が読み取れて
もうそのまま次へと読み進まずにはいられなくなった

胸騒ぎを覚えながら先へ読んでくと
まずは悪漢スティアパイクがタイタスの姉フューシャに迫るシーンがあり
ピエロのように振舞うスティアパイクとそれに少なからず惹かれるフューシャが
緊張感のある恐喝めいた奇妙なロマンスを繰り広げ
しばしフューシャと共にスティアパイクに翻弄されてしまう

その内にタイタスの母親ガートルードが登場するが
こんな面妖な人間がタイタスの母親なのかと度肝を抜かれる以上に

衝撃的なまでに母性を欠き、タイタスに1年も声をかけてやらず、

この一節が心に突き刺さった
あまりの予期せぬ切なさに眩暈がしてきた

タイタスは世界の頂点にいても【にんじん】なのだ。・゚・(ノД`)・゚・。

にんじん (岩波文庫)

【にんじん】とはジュール・ルナールの自伝的小説『にんじん』の中で
ひたすら母親に疎まれ続ける息子の呼び名だ

母親から全く無関心な対象の子供なんて?
母親に邪魔者扱いされる子供なんて?
母親が悪意を抱く対象が実の子供であるなんて?
世間は認めたくナイようだがそんな毒母は珍しい存在ではなく
【にんじん】のような子供はそこいら中にいるのだ

ここまでで60ページだがこれを一気に読んでしまえるほど
総ての描写が奇異で自分を熱狂させ続けたが
すっかり熱病に侵されたようになったと思ったら
タイタスに【にんじん】を見出してしまい
それ以上読むのが困難になった

いや、困難にはなったが意欲は増して
最後までタイタスを見守る決心をしてしまった
そして最初からタイタスを見据えたい気持ちも高まった

と、こうしてタイタスはまだ一言も発してナイ内に
自分を虜にしてしまったのだった・・・バタリ ゙〓■●゙

そうして2巻から読み始めて3巻を読んでから
最後に謎解きのように1巻を読んで納得したトコロで読了w
小説にしては随分変則的な読み方をしてしまったが
不思議なコトにこれで何も不都合がナイドコロか
むしろゴーメンガースト城が何だったのか
最後に謎が明かされるような形になっておもしろかった!!

それにタイタスは一応の主人公ながら全体を通して影が薄いので
1部から読んだらタイタスが主役とは思えなかっただろうし
3部でいきなり主役に躍り出たタイタスにも感情移入しづらかっただろう

2部でやっと7歳になった子供で唯一まともな感覚の持ち主なので
一様にエキセントリックで妖怪めいてるレベルの他の登場人物に比較すれば
それもまあ仕方あるまいて・・・

『にんじん』を知ってるだろうか?

原作はジュール・ルナールの自伝的小説で
母親に蔑まれる子供の日常が淡々と描かれてるが
昭和の時代の少年少女のための文学全集などに必須の1冊で
日本で数多の訳で出版されてるのは
アマゾンで検索すれば一目瞭然

何度か映画化もされてるが
日本で公開されたのは1932年のロベール・リナン主演で
監督がジュリアン・デュヴィヴィエのモノ
だが
最近では2003年のリシャール・ボーランジェ監督作品がある

にんじん 《IVCベストバリューコレクション~文学編~》 [DVD]

自分はどうも『にんじん』なるタイトルが子供騙しな気がして
(いや、当時は正真正銘、子供だったのだがw)
ずっと児童版を目にしてたのに読まずに過ごしていて
岸田国士訳の岩波文庫版を読んだのが小5の時で
その後、神奈川テレビで放映されてた映画(1932年版)を観た

主役のにんじんは同士だった

世間の圧力は子供に母親を慕い敬うよう強要するが
そこに憤りを感じずにはいられナイ仕打ちを母親から受けた子供だ

ただ、にんじんはそうと感じとってはいるが
最初の方ではまだはっきりと認識できずにいる段階で
母親や、更にはそれに同調する他の兄弟から受ける蔑みを
一身に背負い・・・きれずに悶えてる状態だった

だいたい、にんじんにはフランソワとゆー名があるのだが
この名で呼ばれるコトはなく
髪が赤毛(人参の毛)だからにんじん・・・
これはあからさまな蔑称ではナイようだが愛称とは言えまいて

誰の目にも明らかな折檻を受けるのは心身ともに悲惨だが
傍目にはそうとわからナイほどにちくちくやられるのも
日常、腑に落ちナイ感で心が軋み続けるので
憂さを晴らすために小動物に残虐な行為をしたりもする
(そこの部分だけは承服しかねるが・・・)

最終的には父親に毒母ぶりを訴えて
どんなに理不尽な状況に陥ってるか判ってはもらうのだが
そこで父親がにんじんを救う手立てをとるコトもなく
簡単に表現すれば「諦めろ」と諭されて
ハッピーエンドには程遠い結末を迎えるのである

映画版ではもう少しにんじんに悲壮感を与えてて
首吊り自殺を実行する一歩手前までの場面が描かれてるが
この辺になるともう自分には涙で画面が見えなかった(;つД‘)

実際、母親に疎まれるだけでは自殺に追い込まれようもナイが
映画でのにんじんは家族の中で疎外感を強く感じてて
その余りの居た堪れなさに絶望したのだ

さもキルケゴールの語るが如く
絶望するから生きる意味を見失って死に至る病を発し
短絡的な思考だとすぐさま自殺に走るのだが
にんじんは無知な子供だったからこそ
絶望の後には何もなく、単純に自殺行為に及んだのだ

だがしかし!
実は家族の外にこそ世界が広がってるのだし
確かに厄介な家族は一生モノの足枷だが
生活を共にする我慢はほんの10数年で構わナイのだ!!

自分は生まれながらに不屈の精神力を持ってたのか
理想世界(ユートピア)が目の前にいつも開けてたので
押入れに閉じ込められて真っ暗闇の中にいても
未来は輝いてた
(まあ間もなく理想と現実がかけはなれてると気付いたがなw)

また並外れて脳天気だったのか
家族に愛されなくても他人に愛されれば゚+.(・∀・)゚+.゚イイさ♪
親の庇護にあるたかが10数年間くらい
タダメシ食わせてもらってるのだから我慢しとこうヽ(´▽`)/
そうして未来を見据えてたので現状に蝕まれなかった
(まあ一時的には歯を食いしばって憤怒を堪えたりもしたがなw)

とにかく毒親の弱さに気づいて哀れんでやり
死なナイ程度に上手く抵抗して生きながらえれば
絶対に勝算があるのは子供の方なのだから
家族の中での存在意義を問う前に
世界の存在に希望を持って強く生き抜いて欲しい

それにしても『にんじん』は全く一般的ではナイ話で
まず母親をママと呼んだりして甘えたコトが記憶にある人には
(ある意味、それはごくフツーの親子関係なのだがw)
どんなに説明しようとこの親子の言動は理解不可能なのだろうね
尤も、毒親の支配下で人間としての尊厳を踏み躙られ続けてる子供が大多数
なんてのは世も末なのだがね(-_-;)

人に嫌われるのには理由がある
嫌われる本人にある場合もあるが嫌う方にこそ理由がある

恐らく毒親は自身の不幸を緩和するために
より不幸な人間を傍においておきたいのだろうが
その大元の不幸も願望(野望?)通りにならナイジレンマでしかなく
しかも叶える努力をせずに他人を当てにしてたり
宗教や占いに依存してるのに努力してる気になってたり
いずれ他力本願だからこそ、他人を羨むしかできナイワケだが
そこで頭にくるのはそばをうろちょろしてる天真爛漫な子供なのだ
毒親は子供を所有物とか奴隷と見做してて
これをいくら蹂躙しても構わナイ、と大いなる勘違いをしてて
何も悪いコトをしなければ、むしろ゚+.(・∀・)゚+.゚イイコであるほど
凄まじく疎み蔑み、人権を全く無視した言動によって
子供を完膚なきまでに痛めつけるのだ

もちろん子どもの側はひたすら面食らう
本能的には自分を保護するべき存在なはずだのに
直感的にはそいつからこそ身を護らなくてはならナイのだ
この矛盾を孕んだ底知れナイ恐怖は味わった者にしかわからナイだろう
生きた心地がしナイとゆーか、生き地獄とゆーか、死んだ方がマシ・・・

ここでまともにくらってやられてしまおうか?
もれなく自分で絶つか?どうやって?
今日やるか?明日やるか?

そうして死と隣り合わせに生きてみると
子供ながら色々なモノが見えて世の中がわかってくるが
そうなってみると生きてるのもおもしろくなるヽ(゚∀。)ノ

世界が広いから生きてやるp(-_-+)q
自分を必要としてくれる人間はきっと見つかる、見つけるるる~

にんじんにそう伝えたかったが
伝える術がなくて悔しかったので泣けた。・゚・(ノД‘)・゚・。

この『にんじん』は岸田国士訳の岩波文庫版を持ってるが
ふと電子書籍で探してみたらBookLive!に辻昶訳であったので
これも読んでみたくなって購入した

にんじん (岩波文庫)にんじん (角川文庫クラシックス)にんじん (ポプラポケット文庫 (409-1))

また岸田国士の以下の随想も青空文庫にあった

「にんじん」を観て
ジュウル・ルナアル
劇作家としてのルナアル

岩波文庫版はイラストもFelix Vallottonで味わい深い
ついでに彼の描いた著者ルナールが
シュールながら似過ぎてて゚+.(・∀・)゚+.゚イイ

人生において最良の本を10冊選ぶとしたら、何を選ぶか?

30年前に選んでたと思われる10冊(タイトル)なら

生きている地球(学研学習マンガ)
ビーグル号航海記(チャールズ・ダーウィン著)
幸福な王子(オスカー・ワイルド著)
にんじん(ルナール著)
シートン動物記(アーネスト・T・シートン著)
ハックルベリー・フィンの冒険(マーク・トウェイン著)
宝島(スティーヴンソン著)
クォ・バディス(シェンキェビチ著)
埋もれた世界(A・T・ホワイト著)
キュリー夫人 愛と科学の母(清閑寺健著)

これらは人生の初期段階で世界観を構築するのに役立ったが
人生の岐路においても常に道標となった

生きている地球 学習漫画 地球の歴史 (3) (学習漫画 地球の歴史)

『生きている地球』は虚弱体質だった幼少の砌に
通ってた小児科の待合室に置いてあり
【ビッグバン】から始まる地質時代の様子が描かれてて
それはまさに知りたかったコトだったので
読んでは興奮して更に熱が上がったw

生命の誕生から人類の誕生までの道程
要するに【進化論】には魂を揺さぶられたが
特に生命の誕生についてのオパーリンの【コアセルヴェート説】は
以来、「干潟」と聞いただけで涙が溢れてくるほど
神々しく美しい生命のスープの光景が胸を打った。・゚・(ノД`)・゚・。

そうして生きている地球を実感した自分は
更にダーウィンの『ビーグル号航海記』(※)によって
自然の厳しさ(ある意味無慈悲さ)と
そこに生きる生物の力強さと儚さ、強靭さとしなやかさといった
地球が織りなすドラマに感じ入った
【進化論】を構想するに至った経緯が綴られてる航海日誌

だから同時期にキリスト教かぶれの母親から
旧約聖書の冒頭の創世記による世界の始まりを押し付けられるも
話が矛盾しまくりで突っ込みドコロ満載な寓話としか思えなかったのだ

生温いお人好しの江戸っ子だった自分は
『幸福な王子』でワイルドのペシミズムに衝撃を受け
自分だけが母親に嫌悪されてると悲観してた時
『にんじん』で同士を見出してほっとした

『シートン動物記』で動物の生態に興味を持ち
とりわけ「狼王ロボ」でオオカミが大好きになり今に至るが
その後、椋鳩十の動物モノにも夢中になり
扱われてたワシ、イヌ、シカなども格別に好きになった

『ハックルベリー・フィンの冒険』や『宝島』は
後に海洋小説とそれを原作とした映画にハマるきっかけになったが
元より『ビーグル号航海記』からしてそうかもしれナイ

『クォ・バディス』(※)はキリスト教寄りの歴史小説だが
最も魅力的と思えた登場人物はペトロニウスで次いでネロとセネカだった
当時はまだキリスト教に対して反感は抱いておらず
もれなくこの小説こそが不信感を募らせる要因になったのだヽ(゚∀。)ノ
映画のタイトルでは『クォ・ヴァディス』、新訳(岩波文庫)だと『クオ・ワディス』

『埋もれた世界』はトロイア、エジプト、メソポタミア、マヤの
遺跡を発掘する夢に人生を懸けた考古学者たちについて
子供にもわかりやすく書かれてて(翻訳されてて?)
ここでまた古代文明、中でもトロイアに惹かれた

たくさんの伝記を読んだ内では『キュリー夫人』に1番感銘を受け
化学者としてノーベル賞を受賞した女性、なる肩書きに憧れて
自分も化学だけは執り憑かれた様に勉強したのだが
物理学を理解できるほどの知能は持ち合わせておらず。(´д`;)ギャボ
『クォ・バディス』の著者シェンキェヴィチも
同じくノーベル賞を受賞してるポーランド人なのだが
とは言え、2人の時代にはポーランドは地図上から消えてて
2人とも祖国独立を悲願してたのだった
結局、シェンキェヴィチは独立を目にする前に命尽きたが・・・

Bulfinch's Greek and Roman Mythology: The Age of Fable (Dover Thrift Editions)

上記10冊の他に世界観を構築するのに補助的な役目を担ったのが
山川出版の日本史用語集と世界史用語集と
旧約聖書・新約聖書、古事記、ギリシア神話など
愛読書と言うよりは便覧のように何かにつけ参照しまくった

自分はこの時点で最早、読書の醍醐味は
1冊の本を最初から最後まで読みこなして消化するだけに非ず
ふと目にした部分から読み取った魂の共鳴を通じて
時空を超えて改めて世界を読み解くコトにあると気付いて
それからは生真面目に読書をしなくなった・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

そして30年経った今、これらが電子書籍化されてるのを見つけると
再読したくなって、あるいは違う訳で読んでみたくて
とにかく買わずにはいられナイのだが
そうしてダブったトコロで手元にある本が手放せるかと言えば
愛着もあるのでなかなか難しかったりするるる~

それにしても電子書籍の販売サイトはどこも
哲学、科学、古代史、仏文学、独文学などのジャンルがなくて
欲しい本が探しづらいったらナイ!
三省堂は本店の4階をこよなく愛してるが
BookLive!では哲学書がどこに分類されてるか一見してわからん!!