A Little Love

ある人間を毛嫌いするのはなぜか?
その人を受け入れるだけの器を持ってナイからでしかナイ

好き嫌いが激しい人は良く言えば正義感に溢れてて
まずいつでも自身が正しいとゆー前提があり
相手を正しいと認めるか否か?
常にそういう緊張感に苛まれて精神的に疲弊してるのだが
その裁量を相手と自身だけでは飽き足らずにか
周囲に対しても求めてしまったりすると
判定に満足できれば気持ちが持ち直せるかもだが
予想外に自身が責められたりすれば
そりゃあもうへとへとだろうて・・・バタリ ゙〓■●゙

人付き合いに疲れてしまうほどに
全うすべき正義などナイと思うのだがね?!
ましてや友達とか恋人とかにそんな風に挑んでるのは
いったい相手に何を求めてるのかね???

もし「誠実さ」ならば
もれなく逆をついてしまってると思われ
誠実さを求める=裏切りを恐れる故、なのだが
相手の裏切りを恐れるのは
自身こそが相手を信頼してナイからでしかナイ!

信じる、てのは当たり前だが決して疑わナイコトで
相手がその気持ちを汲んでくれて
憐憫の情が働いてこそ裏切れなくなるのだよ!!

自分もそうだったが
女はどうも正義の盾を翳したがる傾向があり
男女間のケンカを観察してると
女の方が時系列に何がどうだったかを確認しては
自身が間違ってナイコトだけを殊更に主張したがるものだw

ちなみにそういう時の男にとっては
女がそれまでの経過で正しかったかどうかなんて
例え愛する大切な女であったとしてもどうでもよくて
今、どうなのか?だけが重要な問題であり
「お前の裏切りが悲しいけど、許す」
もしくは
「あなたを信じてるわ、愛してるから」
どっちかにしか耳を貸したくナイものなのだろうが
それを解さずに女が正義の盾を翳したままだと
膠着状態が続いて、お互いに不愉快だし、疲れるだけだ(゚*゚;)

相手を変だとか不快だとか思ったら
むしろその変な部分を弄って愉しんでしまえば
人間関係なんかで消耗したりしナイで済むし
表面的に噛み合わナイ相手だとしても
意外と深い部分で共鳴してる場合もあって
似てるからこそ反発してしまってるのかもしれナイので
あからさまに毛嫌いする必要もナイかと・・・

もちろんトラブルの元になりやすい厄介なヤツなら
遠ざけておいた方が賢明とも言えるのだが
その場合に好き嫌いの感情論は差し挟まナイ方がより賢明だ

でもヨユーがあれば誰に対しても分け隔てなく
ごった煮状態で皆で愉しむのが理想的だし
その際には狭量の正義を振り翳して治める努力をするなんて
全く無意味なコトになるだろうヽ(゚∀。)ノ

☆・・・☆・・・☆

人の本質は変わらナイし、変えようがナイものだ

そんな見解を持つ人に明らかな特徴も
やはり良く言えば正義感に溢れてるのだが
まずいつでも自身が正しいとゆー前提があるためか
自身の方こそが先立って変わる必要性を全く感じておらず
相手がこちらに合わせる術を掴めてナイのを嘆くのだ

自分も今まではそう思ってた口だが
最近になって気づいたのは
毎度こちらが同じ接し方をするから
その度に相手も同じように返してるだけではナイだろうか?

つまり、変わるべきは自分ではなかろうか。(゚д゚lll)ギャボ

そして本来なら(人は変わらナイ、と思ってればこそ)
他人を変えようとするより、自分自身を変える方がまだしも楽なはずで
それなら例えばこちらが意地を張らずに先に折れれば
向こうも対抗してくる必要がなくなるから
諍いの起こりようもなくなると予測できるるる~

ところが不思議と良くナイ癖ほど染み付いてて
無意識にやってしまうものだ・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

またやってしまった。(´д`;)ギャボ

しかしそうと気づいた時に
既にケンカモードに突入してても遅くはナイから
全力で素直に一言を言い放つのだ!

「あ、また無駄に意地を張っちゃったよ、ごめんよ」とかね!!

意外な展開に不意を突かれて
それが潜在的に望んでた事態だったとしたら
名台詞ではなくても心に響くもので
感動できるし、その感動が相手の態度を変える、きっとヽ(´▽`)/

☆・・・☆・・・☆

Can't Wait All Night

Juice Newton自体が日本ではほとんど知られてナイけど
この曲(A Little Love)は歌詞が凄く゚+.(・∀・)゚+.゚イイ

チェンバロ(ハープシコード、クラヴサン、クラヴィチェンバロ)

毎朝6時から家事の合間に『クラシック倶楽部』と『新 漢詩紀行』を見てるが
今朝の『クラシック倶楽部』はがっつり観てしまった

楽器の世界コレクション1 - ブランシェのチェンバロ - 18世紀ヴェルサイユ・クラヴサン音楽の美の世界 浜松市楽器博物館所蔵の名器“ブランシェ”による [DVD]
百合の花ひらく フランスの美・ブランシェ・チェンバロ フランソワ・クープラン/クラヴサン曲集 [浜松市楽器博物館コレクションシリーズ8]

18世紀のフランソワ・ブランシェ作のチェンバロだが
これがなんと浜松の楽器博物館にあるとはついぞ知らなかった(゚*゚;)
LINK:楽器博物館

しかも木製の250年以上前の楽器が
現代に至って演奏が出来る状態にあるとはとても思えなかったのだが
館長の方のコメントでは「眠ってた」だけだったらしく
これが目覚めたワケなのだ・・・ホゥ(*-∀-)

それにしても1曲目のタイトルに驚愕!

『葦』・・・バタリ ゙〓■●゙

最近自分はどんだけ【葦】に縁があるのか(クープラン作曲)

そうこうしてる内になんとラモーの曲を!!

『アルマンド』『やさしい訴え』

逆に『ラモー』って曲もあってこれもやった(フォルクレ作曲)

チェンバロの響きは物悲しいが重くなくて、繊細で可憐だが力強さを秘めてるようなカンジ・・・
って、本トにつくづく音楽がわからナイ人間だ、自分(滝汗)

まあそうして自分はどの曲もうっとりと聴いてしまえるが
ルソーはラモーに対して批判的だ
でもどこがマズイのか自分にはさっぱりわからナイヽ(゚∀。)ノ

ルソーは音楽に長けてて『むすんでひらいて』の作曲者でもある
そんなルソーがラモーの音楽を批判するのは
ルソーが理想とする音楽からするとラモーの音楽は正しくナイ、のだろう
LINK:ルソー音楽年譜

ルソーとラモーは上記参考LINKの年譜だけからすると
音楽そのものではなく音楽の定義=音楽論、が噛み合ってなかっただけなのか?
とも思えてくるがいずれ自分には理解不可能に違いナイ

そういえばディドロの『ラモーの甥』は未読のままだが
これはやっぱ読むべきなのだろう・・・新刊売ってナイのだがw
LINK:ドゥニ・ディドロ『ラモーの甥』

ところで昨夜は仕事帰りに購入したヴォルテールの『寛容論』を読みながら
ルソーに読んで欲しい本だ、と思ってたトコロで
今朝はなんともタイムリーな番組だった。(゚д゚lll)ギャボ

ルソーはラモーともそうして音楽論でバトルしてたが著書『エミール』の中で
『ラフォンテーヌの寓話』を子供に読ませるべきではナイ、と完全否定してたりするるる~

『エミール』は教育の理想形態(自然回帰)を説いたモノだが
ラフォンテーヌは子供に読ませる理想的な内容と比較して正しくナイ、のだろう

なんせルソーは生真面目な田舎者なのだ(-_-;)
そこまでは決して悪いコトではナイが
都会の人間よりずっと清く正しく美しく生きてる自負があり
それを場を弁えずに振りかざしまくるから周囲はとんだとばっちりなのだよ

実際にはルソーが敵視するような都会人は存在しなくて
自身の妄想が人々を都会的に見せてるのだが
それに気付いてなくてカチンとくれば毒づいてしまうのだろうな
カチンとくるのも自身の無為な劣等感からだろうに・・・

ヴォルテールやディドロは都会的でも何でもなく寛容なだけなのだ
ヴォルテール曰く

寛容とは何であるか。
それは人類の持ち分である。
われわれはすべて弱さと過ちからつくりあげられているのだ。
われわれの愚行をたがいに許しあおう。
これが自然の第一の掟である。

自身も異質なれば他者の異種なるを認めざるを得ナイが
ルソーのように模範通りに生きてるつもりで
いつでも絶対に自身が正しいとゆー思い込みが激しいと
寛容になるのは悪徳に染まるより困難なのだろう。(´д`;)ギャボ

事実ルソーは理想の教育論を説きながら
自身の子は捨て子してるのだ・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

でもルソーはそうして赤っ恥を曝した後で
『告白』そして『孤独な散歩者の夢想』を執筆して
人間らしい゚+.(・∀・)゚+.゚イイカンジになってきたと思うから
それで愛しく思うのであった(*^^*)

もし同じ時代に生きてたらルソーの良き理解者として
スイスの田舎まで彼を訪ねて一緒に散歩をしながら彼の憤りを全部聴いてあげたい

お礼にクラヴサンを奏でてもらったりして・・・ホゥ(*-∀-)
こういう実直なタイプは理解を示せばきっと驚くほど素直になついてくるだろうなw
カワ゚+.(・∀・)゚+.゚イイかも♪

でもパリに帰れば
ヴォルテールの愛人でディドロを夫に持つ
なんて゚+.(・∀・)゚+.゚イイな~

ディドロとは一緒に『百科全書』の編纂の仕事をしたい
同志として共に生きて行きたい人だ

ヴォルテールとは一緒に観劇をしたい
愉しみを享受し合うのにこんなに魅力的な人はいナイ

あ~なぜ違う時代に生まれたのだろう。・゚・(ノД`)・゚・。