テスの真意をキリスト教によって読み解く

トマス・ハーディの『ダーバヴィル家のテス』は
自分も含め、現代日本人の感覚では
登場人物の思考が理解し難かったりすると思われヽ(゚∀。)ノ

時代背景としては
1870年代のイングランドのドーセット地方の
マーロット村が舞台なのだが・・・

ドーセット地方ってのはこの辺りらすぃ(by Wiki)

19世紀後半のイングランドってコトで
ヴィクトリア女王(在位1837~1901)の治世で
比較的安定した世の中ではあった

そんなバックグラウンドで
テスもエンジェルもキリスト教徒には違いナイ

でもカトリックなのかどうか
そうでなかったら何派なのかが
翻訳されたモノだけでは確証に至らず
原文がThe Project Gutenbergにあったので
参照しながら検証してみた

テスが赤ん坊に自ら洗礼を施し
教会に埋葬してもらいに行くシーンでは
神父だか牧師だかが登場するが・・・

最初の方では
the parson of the parish とあって
単に教区の人(担当者)

最後の方で
the Vicar とあり
これは神の代理人を意味するので
まずプロテスタントでは使わなさそうだ

とは言え、カトリックだけでなく
英国国教会も使いそうなので
どちらかに限定するのは困難だ

とりあえずテスは熱心な信者ではなく
カトリックでも英国国教会でも
一般的なキリスト教信者であって
赤ん坊の洗礼に拘ってるトコロから
地獄や煉獄に恐れをなしてるコトは明白で
その事実にさえ裏付けが取れれば
どちらでもさして変わりはナイ

エンジェルは牧師ジェームズ・クレアの息子なので
明らかにプロテスタントだろうと踏んでたが
ジェームズ・クレアが傾倒してる人物が・・・

Wycliff, Hus, Luther, Calvin

カルヴィンときたら
やはり間違いなくプロテスタントで
だから牧師なのだと合点が行った

アレックはブルジョワの放蕩息子で
信仰心を持ち合わせてなかったようだが
何の因果なのか
エンジェルの父ジェームズ・クレアによって
メソジストに改宗してる旨の一文があり・・・

it is Alec d’Urberville, who has been converted to Methodism under the Reverend James Clare’s influence.

ジェームズ・クレアがメソジストなら
息子のエンジェルもそうなのか?

そしてアレックはテスを救うために
結局は信仰を捨てて
不信心者に逆戻りするのだがw

まあそういうワケで宗派は違えど
また信心深さも違えど
基本的に登場人物はキリスト教信者であり
キリスト教の教えが常識としてある

キリスト教圏では
中世より死後の世界が確証されてたが
例えば自分のような無神論者は
無条件で地獄や煉獄へ落ちるのだと
考えられてて・・・

神の御許(天国)に行き着くためには
魂の救済が必要不可欠なのだが
特にカトリックでは【洗礼】の秘蹟によって
この処置を施すのだ

換言すれば
【洗礼】を受けずに死ねば
地獄や煉獄行き確定との考えが
民間信仰レベルで根強い

テスの産んだ子は私生児だったため
【洗礼】を受けられずにいて
この子が死に瀕した際に
テスはその純粋な信仰心から
二重の負い目を持つ我が子が死んだら
地獄に落ちると確信する

二重の負い目・・・それは
私生児(=罪の子)であるコトと
【洗礼(=魂の救済処置)】が施されてナイコト

カトリックの信徒の地獄の概念は
凄まじく恐ろしいモノで
テスはふと思い巡らせただけで
居ても立ってもいられなくなったのだろう

とうとう自らの手で赤ちゃんに
【洗礼】を行うに至った

[1]水(聖水)で浄める
[2]名前(洗礼名)を付ける

【洗礼】の概要は以上の2項目と
かつてカトリックのシスターに教わった

やるコト自体は安易ではあるが
誰でもできるワケではなく
れっきとした授洗者(神父)が行わねば
【洗礼】の秘蹟とはならず・・・

それも承知の上で
テスが自ら【洗礼】を強行したのは
恐怖心から何もせずにはいられなかったのだろう

淡い望みと冷たくなった我が子を
胸に抱いたテスは教区の教会に赴いて
キリスト教徒として埋葬してもらうよう懇願する

もちろん神父は教義上
その子を認めるワケにはいかず
堕獄の集ばかりが眠る墓場に埋められた・・・

この堕獄の集とは
キリスト教の教義に適わぬ死に方をした者で
悪名高い酔っ払いや人殺しや自殺者
そして【洗礼】の秘蹟を齎されずに死んだ者だ

どんなに素晴らしい生き方をした人でも
無垢な乳幼児であっても
死ぬ前に【洗礼】を受けなければならんとは
キリスト教の唯一神は
どんだけ了見の狭いヤツで
どんだけ融通が利かナイヤツなんだかヽ(゚∀。)ノ

実際、神がいたとしても
死後の人間の魂をどう取り計らってるのかなんて
生きてる人間には知る由もナイだろうに
てのは、無神論者の勝手な思い込みではなく
ローマ・カトリック教会の教えこそが
そう貶めてしまってるのが痛いw

ルターはその痛さに耐えられなかったんだろう

いずれにせよ
信者がどれほど【洗礼】に重きを置いてるかは
無神論者にも理解はできる
(納得はできなくとも)

だからなるべく早く
子供に【洗礼】を受けさせたいのだろうし
極論として
生まれる前の子供の【洗礼】にまで
話が及んでしまうのもわかる

なんせ近代まで
乳幼児が死ぬ確率は現代とは比較にならナイほど高く
妊娠~出産時の死亡率も母子共に高かったのだ

ロレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』の
第1巻の第20章では
生まれる前の子供の【洗礼】
つまり嬰児の【洗礼】についての
ローマ・カトリック教会とソルボンヌ大学と
聖トマス・アクィナスの見解が
原注に記されてる

ローマカトリック教会の儀典書は、危急の際における出産前の子供の洗礼を指令しています――ただし、子供の体のいずれかの部分が授洗者の目にふれた時という条件付です。――ところがソルボンヌの博士たちは、1733年4月10日、彼らの間で行われた審議の結果、産婆の権限を拡大して、子供の体のいかなる部分も外にあらわれないときでも、注射によって(小なるカヌーレの使用により――つまり、注射器を用いて)洗礼を施すべきことを決定しました。――ここで甚だ不思議なのは、かの聖トマス・アキナスが、一方ではあのスコラ派神学の無数の紛糾錯雑したこんぐらかりを作るほうにもああいうきわ立った緻密な頭を持ちながら、この問題には大いに労力を傾注したあげくに、最後はこれを第二の不可能事として遂に断念してしまったことです。――「母胎内にある嬰児は、」(聖トマスは言っています)「いかなる手段によりてもこれに洗礼を施すを得ず」――何ということです、トマス様!トマス様!

現代日本に生息する無神論者からしたら
胎児に【洗礼】を施そうとするコト自体が
ナンセンスなのだが
聖水を注射器に仕込んで母胎に注入する
なんてグロテスクな方法には
どうしてそんな発想ができるのか
眉を顰めてしまう(-_-;)

しかもこの「母胎に注射器」を条件とすれば
【洗礼】が「有効」である
と認めたのがソルボンヌ大学とな。(゚д゚lll)ギャボ
いやいや、それを神も認めてるかどうかは
誰にもわからんて。(´д`;)ギャボ
しかし聖トマスは認めてませんから~ヽ(゚∀。)ノ

ちなみに作中では
「母胎に注射器」での【洗礼】の代わりに
主人公のトリストラム・シャンディは以下を提案してる

父親の精子の小人全員に対してならどうか?

精子全部を聖水で浄める
なんてのはもうやり方も想像を絶するなw

それにしても今でこそ
生まれる前に性別を知り得て
性別に見合った名前をつけるなんて
当たり前にできるようになったのだが
昔はそうはいかなかったのだから
もしかして「母胎に注射器」で【洗礼】を行うより
洗礼名をつける方が困難だったりして(-人-;)ナムアーメン

ロシナンテ

日本では今や「ドン・キホーテ」と言えば
年中無休24時間営業のディスカウントストアのコトだが
これも間違いなくセルバンテスの小説の主人公の名からとってるだろう

ドレの絵で読むドン・キホーテ

しかしなぜこんな名称にしたのか?
ググってみたらYAHOO!知恵袋に中の人が答えてるぽい
LINK:ディスカウントショップ「ドン・キホーテ」の名前の由来は?

しっかり『才智あふるる郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』に由来してるようだが
社員の中でこの長く退屈な小説を読破した兵は果たしてどれほどいるのだろうか?
なんせ現代日本人には意味不明な要素が盛りだくさんで
それらが話の腰を折るように次から次へと割り込んでくるのだから
次のエピソードに辿り着くまで緊張感を保てナイのだ。(´д`;)ギャボ

むしろ自分はその意味不明な部分にこそ愉しみを見出すのでうってつけなのだが
それでも前・後編のうち前編の半分ほどで挫折・・・
前編の後半にある有名な風車のエピソードは一応読んだがねw

確かに面白いと思える滑稽さが漲ってるのだが
そういうドン・キホーテの道化ぶりを素直に笑えナイのだ
そもそも道化ってキャラクタにはおかしさより憐憫を感じてしまう性質で
そこが合ってナイような気がするるる~

とか、ずっと敬遠してたのだが数年前にふとしたきっかけで読み始めたら
ハマった(゚*゚;)

トリストラム・シャンディ (研究社小英文叢書 (264))
エル・シードの歌 (岩波文庫)
ル・シッド
エル・シド デジタルニューマスター版 [DVD]
アレキサンダー【Blu-ray】

もう四十路に程近くなって還暦に向けての自分の人生の再構築をしてたその時
20歳からの20年間の義務を果たすための人生とは訣別して
余生はただひたすら幸せに、幸せのために生きたい、と思ってた

自分の幸せの在り処・・・それはかつて本の中にあり
読んでから反芻しながら散歩するのが至福だった・・・ホゥ(*-∀-)

もちろんそれだけの悠長な生活を送れる身分ではナイので働かねばならナイが
仕事と家事以外の時間は全て自分のためだけに使おうォゥ( -∀-)/

ところがふとしたきっかけで『ドン・キホーテ』を読み始めてしまい
読み進むほどに考えが変わって行った

なんせ主人公のドン・キホーテは中年もほど過ぎた冴えナイオッサンだが
自分と同じように本から与えられた夢の世界を愉しんでたのだ
それも現実に夢を再現して思いっきり愉しんでるのだった。(゚д゚lll)ギャボ

本の中、過去と未来、現実と夢、昨夜の酔いと今のまどろみ・・・
時空を超えて、交錯して、巡り会い別れ、でも繋がったまま・・・

ドン・キホーテはいつでもどこでも我武者羅に愉しんで
それを皆が見て笑う、嘲笑も気にならナイ、だって愉しんでるから♪

他人をおもしろがらせようとしても道化にはなれナイが
己の信じるままに大真面目に生きてると他人からは道化に見えるのだ
そう見えたら大いに笑ってくれたまえ

サンチョ・パンサはいつも酷い目に遭う予感がして
ドン・キホーテに忠告しながらも予想通りの災難を愉しんでる
信頼しきって迷惑かけまくるドン・キホーテを心配するのも愉しそうだ

人間ってやっぱり内に篭ったらつまらナイな・・・
まだまだバカやれる内に迷惑かけまくって笑われておこう!
見栄を張るのはあの世に行ってからで゚+.(・∀・)゚+.゚イイや!!

将来飼う犬の名前を1匹はブケファラスと決めてたが
もう1匹はロシナンテにしようかな(*^^*)

そう、ロシナンテだ
このドン・キホーテの愛馬の名が何て意味でどうやって名付けられたか
それが知りたくて再読したのだ

折りしもロレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』を読み始めて
まだ第1巻の第10章めだったが
そこに産婆を救った牧師が乗ってた馬(またなぜそんな馬に乗ってるのか)の話があり
その中でその馬に例えられてるのがロシナンテだった

『ドン・キホーテ』の第一篇第一章には次のようにある

『さきの痩せ馬(ロシナンテ)』と呼ぼうと思いついたが、これは彼の見るところでは、気高く、口調もよく、しかも現在の身分になる前に駄馬(ロシン)だった身の上を現わしたばかりか世のあらゆる駄馬の中でまず筆頭だということをこよなく現わした名前だった。

ドン・キホーテがドン・キホーテと名乗るコトにする一週間前に
馬の名がロシナンテと決まったのだが
馬に名付けるのには4日悩んで自らの呼称には1週間「も」悩んだってワケだヽ(゚∀。)ノ

アレクサンドロス大帝のブケフェルスも、エル・シードのバビエカもてんで足もとにもよりつけないと思われた。

とドン・キホーテの眼には映ってたらしい。(゚д゚lll)ギャボ

ブケフェルス・・・スペイン語だとそうなのかな、ブケファラス、ブーケファラス、ブケパロス・・・そんな読み
オリバー・ストーンの『アレキサンダー』では理想的なブケファラスだったな(*^^*)

バビエカは『エル・シードの歌』に出てくる英雄的騎士エル・シードの愛馬・・・らしい
とゆーのも原著の『エル・シードの歌』が未読だからだが
同じ題材を扱ったコルネイユの戯曲『ル・シッド』なら持ってるし
チャールトン・ヘストン主演の映画『エル・シド』もソフィア・ローレンのために買った
しかしバビエカの名には覚えがナイのである。(´д`;)ギャボ

このコトでヲタを自認してた自分はセルバンテスに惨敗した悔しさに
『ドン・キホーテ』を一気読みするに至ったのだった・・・ヽ(゚∀。)ノ

トリストラム

ロレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』は
5年前に1度読み始めて第1章で挫折したが
つまらなくて放棄したのではなく
余りにも興味深い語が頻出しまくるので
寄り道読書をし過ぎてなかなか次へ読み進めナイままに
結局は途中で迷子になってしまった(-_-;)

トリストラム・シャンディ 上 (岩波文庫 赤 212-1)トリストラム・シャンディ 中 (岩波文庫 赤 212-2)トリストラム・シャンディ 下 (岩波文庫 赤 212-3)

それに自分が持ってる版は筑摩世界文学大系で
箱入りのハードカバーで大きくて重いので
落ち着いてじっくり読む分には構わナイが持ち歩くのは無理っつ!
(余談だが、中身は3段組で字が小さくてびっしりなので
活字に抵抗があるような人は開いた途端に読む気を失うだろうて・・・)

そんなワケで老後の愉しみにとっておこうかと思ってたのに
電子書籍版を発見して、うっかり購入して再読し始めた

☆・・・☆・・・☆

とりあえず前回の迷子の原因は究明できたので
今回は迷子にならナイレベルで寄り道読書を堪能しようとした矢先
またしてもふりだしに戻ってしまったのは
タイトル、てか、トリストラムなる名前についての疑問が
再燃してしまったのだ・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

トリストラム=トリスタン、なのは
アーサー王の円卓の騎士に同じだろうが
この名前の綴り(発音)が時代と言語でどう分かれてるのか?
手持ちの本から表を年代順に起こしてみた

著者・監督タイトルトリスタンイゾルデ
ジョゼフ・ベディエトリスタン・イズー物語トリスタンイズー
トマス・ブルフィンチ中世騎士物語トリストラムイゾーデ
リヒャルト・ワーグナートリスタンとイゾルデトリスタンイゾルデ
ローズマリー・サトクリフトリスタンとイズートリスタンイズー
ダイアン・ウォークスタイン七つの愛の物語トリスタンイゾルデ
ケビン・レイノルズトリスタンとイゾルデトリスタンイゾルデ

言語的にはベディエがフランス語、ワーグナーがドイツ語で
他は英語圏なのだがこの英語圏にバラつきがあり
なぜこんな事態になるのかが引っかかってる部分だが
まず三省堂英和辞典を引いてみると

Tristramは男性名; 【アーサー王伝説】トリストラム, トリスタン(恋人はIseult [Isolde];別称Tristan).

仏語でTristan et Iseut、独語でTristan und Isoldeなので
もしかすると英語圏では元々はTristanてのはなく
英語名はTristramだったのだろうか?
そうだとするとスターンは18世紀のイギリス人だから納得だ

ワーグナー トリスタンとイゾルデ (オペラ対訳ライブラリー)

英語圏でもTristanが元のTristramと併用されるようになったのは
恐らく19世紀後半にワーグナーのオペラが大成功を収めたからだろうが
このオペラの初演が1865年なのでそれ以降と考えられ
19世紀のアメリカ人ブルフィンチがTristramとしてるのも
1867年に他界してるので辻褄が合う

トリスタン・イズー物語 (岩波文庫)

またワーグナーが作曲の構想の際に基にしたのは
ゴットフリート・フォン・シュトラースブルクの叙事詩だとされてて
これは独語→独語なのでそのままなのだが
サトクリフはIseutが仏語なのからしてベディエに基づいてるのだろう

トリスタンとイズー

それにしてもサトクリフ版のこの表紙は
繊細な筆致でなんと美しいコトか・・・ホゥ(*-∀-)
山田章博て方が描いておられるのだが
それに比して(比べるのも何だが)洋書のイマイチ感たるや。(゚д゚lll)ギャボ

Tristan and IseultTristan and Iseult (Sunburst Book)Tristan and Iseult (New Windmills)

『七つの愛の物語』も表紙、てか、装丁が華麗だが
このビアズリー風タッチのイラストは杉本真文なる方が手掛けてて
中身も挿絵が゚+.(・∀・)゚+.゚イイ雰囲気を醸し出してるるる~

七つの愛の物語―「イシスとオシリス」から「トリスタンとイゾルデ」まで

☆・・・☆・・・☆

『トリストラム・シャンディ』の第1巻 第19章には
このトリストラムなる名について本文中にこう説明されてる

ラテンのトリスティスから出て「悲しみの、悲しめる」の意を持つ

そう言えばブルフィンチの『中世騎士物語』では
第12章「トリストラムとイゾーデ」に似たようなくだりがあった

その子供は生れた時の憂愁にとざされた事情からトリストラムと名を呼ばれた。

トリストラムには*(訳注マーク)が付いてるので訳注を見てみると

トリストラムはトリストレムとも、トリスタンとも、トリスタムとも呼ばれる。

これではなぜそう呼ばれるのかは不明瞭だが
サトクリフの『トリスタンとイズー』でも以下のようにある

彼は子供に、悲しみを意味するトリスタンの名を与えた。

独語辞書によればtristは形容詞で
「悲しい」「悲惨な」「哀れな」「陰鬱な」「荒涼とした」とあった
仏語辞書でもtristeは形容詞で
「悲しい」「いやな」「つらい」「貧弱な」とあった
英語辞書も調べたが近い単語は見つからず
どうやら英語にだけ語源的な単語が欠落してるらすぃ(゚ ゚;)

☆・・・☆・・・☆

ところで自分が知らナイだけかもだが
『トリスタンとイゾルデ』の映画ってっこれだけなのだろうか。(´д`;)ギャボ

トリスタンとイゾルデ [DVD]

アーサー王と円卓の騎士に出てるのは別として
今世紀まで映画化されてなかったとは意外な事実ヽ(゚∀。)ノ

トリストラム・シャンディ

2006年にまとめて購入した筑摩文学大系の中に
ロレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』と
ディドロの『運命論者ジャックとその主人』があり
2007年の終わり頃に先に『運命論者ジャックとその主人』を読んで
続けて『トリストラム・シャンディ』を読んでたのだが
これが1ヶ月かかっても第1章を読んでたくらい
超スローペースだったヽ(゚∀。)ノ

トリストラム・シャンディ 上 (岩波文庫 赤 212-1)トリストラム・シャンディ 中 (岩波文庫 赤 212-2)トリストラム・シャンディ 下 (岩波文庫 赤 212-3)

それとゆーのも本文中に気にかかる単語が頻出するので
その度に寄り道読書をする羽目になったのだ

寄り道読書とは1冊の本を最初から最後まで読むのに
本文から注へとページを行き来するのだが
注では飽き足らずに他の本で確認したり
そうして開いた本に更に別の本で確認したい事項があり・・・
などしてて、本の山が出来てしまうばかりで
当初、読もうとした1冊がなかなか読み進まナイ読書形態だw

自分はこの寄り道読書こそが本を読む愉しみだと思ってるので
読了までに20冊くらいは参照するのが常だ

『運命論者ジャックとその主人』もそれで
ルソー、ヴォルテール、プラトン、アリストテレス・・・etc.
など、読み返しながら読み進んでったのだが
それ以上に、既にストーリー自体が寄り道しまくりで
脱線に次ぐ脱線で本筋がなかなか展開せず。(゚д゚lll)ギャボ

運命論者ジャックとその主人

でもそこが愉快痛快に感じられた自分は
『運命論者ジャックとその主人』の風変わりな構想が
『トリストラム・シャンディ』に影響されたのだと知って
これを続けて読まずにいられなくなった(*^^*)
ディドロは英語に堪能なので『トリストラム・シャンディ』を読んで
そのパロディ版(?)をフランス語で書いたのだろう

ところが『トリストラム・シャンディ』は
予想を遥かに上回る寄り道読書っぷりを発揮させたので
のろのろながらもようやく第1章を読み終えた時に
まだ本文に入る前にある引用について謎が解けずにいて
寄り道と思ってたらすっかり迷子になってたのだ。(´д`;)ギャボ

そもそもがその引用とはエピクテトスなのだが
自分はエピクテトスを読み込んでたつもりでいたのに
これが全く意味不明だった・・・バタリ ゙〓■●゙

行為にあらず、行為に関する意見こそ、人を動かすものぞ。

しかもどこに書いてあったのか、まるで覚えがなく
改めて中公バックス世界の名著のエピクテトスの巻を読み返すも
この部分がどうしても見つからナイ
筑摩世界文学大系のギリシア思想家集の方は訳者も違うので
もしやと思ってこちらも一通り読むが見つからず

でもここへきて見落としてたコトが明らかになった
筑摩の方はページ数も少ナイので抄訳だとすぐ気付いたが
中公の方も抄訳だったのだ・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

この引用部分がちょうど抜け落ちてるのかΣ(゚д゚lll)ガーン

自分が持ってる以外のエピクテトスの本に
岩波文庫の『人生談義』があったが
その時点ではこれが完訳版だとは知らなかったし
重版未定でアマゾンでは上下巻共に¥3,000以上もしたので
そこまでして買う気は起こらなかった

当然ながらググってもみたが
エピクテトスの何の何章からの引用かはどこにもなくて
謎のままに終了・・・

人生談義〈上〉 (岩波文庫)人生談義〈下〉 (岩波文庫)

それから5年後(2013年)の岩波文庫の春の復刊に
『人生談義』があったので即購入すると
完訳版だったのでこれで謎が解明できると確信して
最初から最後まで一気に読んだ・・・が、該当箇所が見つからず
またしても謎のままに終了・・・

☆・・・☆・・・☆

電子書籍を読むようになって
重宝してるのがSONY ReaderのEvernoteとの連携機能だ

テキストの一部を選択してEvernoteへ送信すると
新規ノートが作成されて保存されるので
この引用ノートを後から編集すれば
自分なりの注釈書がEvernote内にできるのだが
これが寄り道読書には最高のツールで
『トリストラム・シャンディ』を読むのなら
SONY Reader Storeで購入するに限る、てワケで購入

但し、読み始めるにはやはり前回から謎の部分が気になるが
これがエピクテトスの『人生談義』の下巻『提要』の5にあった!

人々を不安にするものは事柄ではなくして、事柄に関する考えである。

これを探し当てた紆余曲折の過程はこちら→『トリストラム・シャンディ』の巻頭の引用

さ、安心して読み始めようっと♪

それはマリー・アントワネットから始まった

2007年はなぜかフランス革命づいてたw

正月早々に映画『マリー・アントワネット』を観た
画面的には砂糖菓子のようだが音楽はパンキッシュな映画で
ゴスロリ好きにはたまらナイ作り・・・

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フェルゼンとの不倫のシーンで使われる曲が
アダム・アントの『Goody Two Shoes』だったのが個人的には1番嬉しかったり(*^^*)

Marie Antoinette

春先にはこの映画で使われた衣装が
なぜか明治記念館に展示されてたので観に行った



お茶をしてから新宿御苑のフランス庭園を巡り
渋谷Bunkamura Museumのティアラ展にも行ったりして
なんとも優雅な1日だった・・・ホゥ(*-∀-)

こういうのは庶民だからこその愉しみなのであるるる~

ここからフランス革命はもちろん
フランス革命前の啓蒙思想家の本も次から次へと購入して
ヴォルテールの『ルイ十四世の世紀』の第1巻もこの年の5月に購入したのだが
とにかく何かに執り憑かれたかのように買い漁り
しまいにはそのために本棚を買う羽目に・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

元よりお気に入りのラファイエット熱もぶり返すし
ユゴーの『93年』を読んでヴァンデ軍にハマったりもしたが
そこへきて更に新宿紀伊國屋書店の紀伊國屋画廊にて
2007年10月25日(木)~10月30日(火)と短い期間だったが
『フランス革命下の民衆と自由・平等(歴史資料)
―専修大学「ベルンシュタイン文庫」が語るフランス革命―』
なる展示があった

専修大学の創立130年記念事業だそうだが
なんてタイムリーに(ユゴーの『93年』読んでる時に)
まさに欲してた展示をやってくれたのだろうか。・゚・(ノД`)・゚・。

当初ベルンシュタインときて「あれ?ドイツ???」と思ったが
フルネームはミシェル・ベルンシュタイン=ロランで
フランスの古書籍商で書誌学者だ(2003年没)

展示品はこの方のコレクションで
フランス革命期に刊行、または記録された印刷史料と手稿史料で
具体的には人権宣言の公布書や『93年』に出てくるアッシニヤ紙幣
ロベス・ピエール、サン・ジュストの処刑判決書も見れたが
やはりルイ16世とアントワネットの処刑判決書にぐっとくるモノがあった(;つД`)

全く予想外にロゼッタストーンの写しもあり大興奮!!
と同時に残念で仕方がなかった!
なぜフランス語を解さナイんだ、自分・・・。(´д`;)ギャボ
まあでもほんのいくつかの単語が読めた時には
嬉しくて飛び跳ねそうになったり(*^^*)

ところでルイ16世が処刑直前に書いた家族への遺書は
結局家族の手に渡らなかった、と自分の頭にはインプットされてて
だからこそ、そのまま現存してたのだろうか?
展示されてたのは写しだったが・・・真偽は不明だ

それとは別にヴァレンヌ逃亡直後に書かれた遺書「すべてのフランス人に告ぐ」の方は
2009年にアメリカで直筆のモノが発見されたらしい

無料でこれだけのモノが見れるとは感無量(いや、別に洒落のつもりではw)だったが
その上お土産がすごかった!!

  1. 当時描かれたフランス革命史画のポストカード4点
  2. 当時描かれたフランス革命史画の解説
    (画廊前廊下に展示してあったモノの史料でプリント2枚)
  3. 革命の詳細な年表(プリント1枚)
  4. 図録(20ページフルカラーで表紙はこの記事トップの画像)
  5. 以下のクリアファイル2種


こりゃ専修大学には足向けて寝られナイわな・・・(-人-;)

と、そういうワケで2007年の終わりに近い頃は
ディドロの『運命論者ジャックとその主人』を読んでて
続けてこの元ネタとなった『トリストラム・シャンディ』に至り
読み始めて10日目くらいにまだ第1巻の第9章を読んでたが
ここで次の引用にぶち当たった

 かがやく月の女神よ、 おん身もしカンディードとキューネゴンド女史の身の上に心身を労してなお余力あるならば、――願わくばトリストラム・シャンディの身に起こることもまたおん身の庇護下に包容したまわんことを

カ、カンディドかよ。(゚д゚lll)ギャボ
なんだ、先に『カンディド』読んでおけばよかった。(´д`;)ギャボ
と、元の木阿弥のヴォルテールの『カンディド』を
『トリストラム・シャンディ』を中断して先に読むコトにw

何が元の木阿弥かって
自分を『トリストラム・シャンディ』に導いた『運命論者ジャックとその主人』と
同じ本に収まってるるる~

ちなみに元の木阿弥は、三省堂の辞書に以下のようにあった

一説に、戦国大名の筒井順昭が病死したとき、その子順慶が幼かったので、死をかくして順昭に声の似た盲人木阿弥を替え玉として病床に置いた。順慶が成長したのち、順昭の死を公にし、木阿弥はまたもとの生活にもどったという故事から

Ab ovo. 卵から始める

ネタバレを忌み嫌うような人とゆーのは
よっぽどつまらナイ小説しか読んでなくておよそくだらナイ映画しか観てナイのだろうか?
と思ってしまう自分は
何度読み返しても新たな発見があるような古典しか興味がナイし
そうして何度も読んで当然オチがわかってても映画化されて愉しめるのだから
しゃーわせヽ(´▽`)/だとつくづく思う

とはいえ映画化された古典にも駄作は多いのだが
それはそれで突っ込みドコロ満載なのが愉快だったりするから゚+.(・∀・)゚+.゚イイ

逆に映画としては秀作だとしても
古典からネタを拝借しといて何の断りもなく(よってリスペクトも一切なく)
剽窃の疑念(いや、疑念でなく明白なのだが)しか抱けナイような映画は
日本人100人中100人が大絶賛してるアニメでも
自分には胸糞悪いだけだったりする。(´д`;)ギャボ
まあそれを観るコトや更に鑑賞後に涙するコトを強要されるワケではナイので
スルーしてればやっぱしゃーわせヽ(´▽`)/なのだがね

詩学 (岩波文庫)
ホラティウス全集
ホメロス ~史上最高の文学者~ (「知の再発見」双書)
完訳 イリアス
「オデュッセイア」を楽しく読む
トリストラム・シャンディ (研究社小英文叢書 (264))

アリストテレスの『詩学』やホラティウスの『詩論』
古代ギリシア(ローマ)における詩劇(叙事詩や戯曲)の在り方について
ホメロスやギリシア悲劇などを例に挙げながら論じた著書だが
1つのエピソードをどれだけ深く掘り下げてそれを表現し得たかに
作者の技量が問われてしまうので
同じエピソードを扱ってても書いた人によって解釈が違い
観客にしてみれば新鮮な感動を味わえるが
またそのエピソードとゆーのも人口に膾炙した神話などネタバレ必定なので
そういうモノでなければ意味がナイだろう、としてるるる~

ホメロスの『イリアス』が傑作なのもそこで
誰もが知ってるトロイ戦争を題材にして
アキレウスとゆー特異的な魅力あるキャラを際立たせて
主人公の英雄ヘクトルの死を最大限に盛り上げるコトに成功してるのは
物語にクライマックスが組み込まれてるからでなく
クライマックスだけで成り立ってるからであるヽ(゚∀。)ノ

Ab ovo.「卵から始める」

これは逆説的な表現でホラティウスの『詩論』147行目に以下のようにある

(ホメロスだったら)トロイアー戦争を双子の卵から始めることもしない。

『イリアス』はアキレウスとアガメムノンの戦利品の取り合いから始まるが
これは戦いが10年目に入ってから始まってるのだ!
トロイ戦争の原因も結果も当時は誰だってわかりきってるコトだったが
その要因となったヘレネが生まれる卵からホメロスは語り始めたりはしナイ!!
だから退屈すべき部分が全くなくて全編が最高におもしろいから世紀の傑作なのだ
そんなトコロがホラティウスのホメロス評価だ

付け加えれば続編の『オデュッセイア』において
回想シーンに『イリアス』の後日談(有名な【トロイの木馬】のエピソードなど)を
オデュッセウスに臨場感たっぷりに語らせて再現してたりして
ホメロスのこの2大叙事詩の構成は素晴らしいと思う・・・ホゥ(*-∀-)

ちなみにヘレネが生まれるのがなぜ双子の卵なのか簡単に説明しておこう

ゼウスがスパルタ王妃レダに横恋慕して白鳥に化けて油断させといて
ゴーカン・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ
ゼウスの子供を身篭ったレダは2つの卵を産み(さすが白鳥に化けてただけあってか?)
その1つからはヘレネとクリュタイムネストラの姉妹が生まれ
もう1つからはカストルとポリュデウケス(ポルックス)の兄弟が生まれた
故に双子の卵(あるいは2つの卵)なのだ

しかし確かにヘレネ誕生からトロイ戦争譚をだらだら始めなかったから
ホメロスのトロイ2連作は素晴らしいのだ、とゆーホラティウスの見解には賛成するが
その他のトロイ戦争関連の書物などがだいぶ散逸してしまって
史料に乏しい現代人からすると卵から始まった物語だって
いや、その方がなかなかおもしろかったりしたとも思うのだがな(苦笑)

またホラティウスはホメロスについて
トロイ2連作をひたすら絶賛してるだけでなく稚拙な詩句について次のように語ってる

すぐれたホメロスも居眠りすることがある

これも諺になってたりするが
ホラティウスはセンスの゚+.(・∀・)゚+.゚イイ言い回しが多いね

ホラティウスの言葉を借りれば「卵のはじめから」たどってゆけることを、この上なくよろこぶものであります。

ロレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』の第1巻の第4章より

ホラティウス自身は「卵から始める」のはよろしくナイとしてて
スターンの見解は全く逆なのだが
そもそもこの『トリストラム・シャンディ』のあらすじは
主人公のトリストラム・シャンディの生涯を綴る・・・主旨のはずが
話が脱線しまくって生まれるトコロにさえなかなか行き着かナイ。(゚д゚lll)ギャボ
そこを愉しむのでワザとこう述べてるワケだw

ホムンクルス

読書の意義は自分にとっては「知りたいコトを知るため」に尽きるが
だから読み方も知りたいトコロが書いてありそうな部分を知りたい順に読む

誰しも本を読んでる時に読めナイ漢字や意味の曖昧な単語に出会えば辞書を引くだろうが
同じように調べたい事柄にぶち当たったら他の本を参照する・・・
その所作がやたらと多いのが自分の読書の特徴だ

1冊読み始めるとすぐに10冊くらいの本が山積になり
何がどの本の何ページに書いてあった、とかそういう思索の過程と
思索の末に自分なりに見出した回答などの
メモ書きがたくさんできるるる~

そんなたわいもナイ読書が自分には人生における至福の時間なのだが
この至福を味わってるうちに最初に読み始めた1冊が数ページ読んだまま放置プレイ・・・
なんてコトもしばしばw

トリストラム・シャンディ 上 (岩波文庫 赤 212-1)
トリストラム・シャンディ 中 (岩波文庫 赤 212-2)
トリストラム・シャンディ 下 (岩波文庫 赤 212-3)
古い医術について 他8篇 (岩波文庫 青 901-1)
情念論 (岩波文庫)
森鴎外全集 【11】ファウスト  ちくま文庫
科学1001の常識―生命・遺伝子・素粒子・宇宙 (ブルーバックス)
ダランベールの夢 他四篇 (岩波文庫 青 624-2)
大博物学者ビュフォン―18世紀フランスの変貌する自然観と科学・文化誌

リチャード・スターンの『トリストラム・シャンディ』は
そうした放置プレイをしまくってる小説で

行為にあらず、行為に関する意見こそ、人を動かすものぞ。――エピクテータス

とか、いきなりエピクテトスで始まってて
しかも自分としてはカナ~リ読み込んでるはずのエピクテトスなのに
この句がどこに書いてあったか全く思い当たらなくて気になって確認w
でも一通り目を通してみたが見つからナイ(;つД`)

よく考えたら邦訳は抄訳なのだった・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

諦めて気を取り直して『トリストラム・シャンディ』第一巻第一章を読むと
「生殖の際の体液や気分によって生まれる個体の天分や一家全体の運命までもが決定付けられる」
とあり、体液と体質についての関係が詳しく述べられてる本として
自分が思い起こすのはヒポクラテスだった
『空気、水、場所について』や『人間の自然性について』の中で
どういう土地においてどんな生活をしてるかで体質の傾向に違いがあり
それによってかかりやすい疾患や疾病が何であるか、しきりに述べられてるのだ

気がつけばなんとなくヒポクラテスを読み始めてしまってたり(-_-;)

再度『トリストラム・シャンディ』に戻ってやっと2ページ目に進むが
今度は【動物精気】だと。(゚д゚lll)ギャボ
次はデカルトかょ。(´д`;)ギャボ

デカルトの『情念論』第一部の「7.身体各部およびその若干機能に関する略解」に
「筋肉の運動は神経の作用であり(以上は概略で以下は引用)

神経とはすべて脳に源を発する細糸または細管状のものであり、脳と同じくきわめて微妙な一種の気体ないしは気息をふくんでいる。これを動物精気(esprits animaux)と呼ぶ。

」とあり
「10.動物精気はいかにして脳の中に作られるか」に
「心臓で希薄化された血液の中で極めて精妙な部分が動物精気で
その実体はろうそくの炎のような敏速に動く極微体な物体で
これの一部は脳室へ入り他の一部は脳実質の気孔から神経→筋肉へと移動」とある
以上、引用部分は伊吹武彦訳による(筑摩世界文学大系)

デカルトは身体を科学的に見て機械として扱ってるがそれを支配するのは精神であるとしてて
この対極しつつも一体である不可思議な2者の繋がりを『情念論』で緻密に論じてる

簡潔に言い表せば、精神の中に生じる情念が
精気とゆー神経伝達物質のようなモノになって身体に作用する、てなカンジ

と、ここでやっと『トリストラム・シャンディ』第1巻の第2章へ
1ページ読み進むのに時間がかかり過ぎるったらナイが
ここへきて「精子(ホマンキュラス)の小人」て。(゚д゚lll)ギャボ

第一巻 第二章は全体に渡って古典生物学的ホムンクルス説が展開されてて
当時の最新の科学がどういう風に民間に波及してたのか窺い知るコトができるので
非常に参考になるし的外れの見解こそがおもしろい!

科学は正しい新説で古く間違った説が上書きされてしまうと
モノによっては【古典~学】などと称されるようになって残るのだが
余りにも荒唐無稽な説は当然ながら抹殺されるるる~

そうして闇に葬られた説には魅力的な発想からきた興味深い説も少なくナイが
ホムンクルス説もその奇異さにおいて立ち消えてしまうのは惜しい説だ
どの本だったか失念したがたいそう不気味な図入りで
この説がまことしやかに説明されてる科学の本があって持ってたはず・・・
鞭毛を持った精子の頭部に体育座りの人間が詰まってる図は
夢見が悪くなりそうな衝撃があって忘れたくても忘れられナイのだが
肝心の解説はうろ覚えなのが悔やまれる。(´д`;)ギャボ

ゲーテの『ファウスト』に出てくるような中世の錬金術師が作成した人造人間の小人を
元来ホムンクルスと呼んでたワケだがそれがなぜ精子の中の小人になったのか?

オランダのレーウェンフックが自作の顕微鏡で精液を観察した際に
生殖過程における精子の役割を初めて理解したのが17世紀後半のコトだった
レーウェンフックはこの他にも
様々な顕微鏡画(もちろん当時には写真はナイ)を英国王室学会に送りつけたのだが
これらは画期的な業績であると認められて
フェロー(英国王室学会の名誉会員)に推挙された
そんなレーウェンフックは精子たる「精液微小動物」を観察しながら
その頭部に小人(ホムンクルス)が入ってる、と考えた
(以上『応用微生物学』教科書と講談社ブルーバックス『科学1001の常識』を参考に記載)

とはいえレーウェンフックは実際には精子の頭部に小人をはっきりと見たのではナイ
既にそういう考えを発表してた人物がいたので
精子の形態(頭部があり鞭毛が生えてる形)から想像しただけなのだ
なぜなら精子の頭部に本トに人型のモノが入ってたとしても
それを認められるほど精度の高い顕微鏡が作れてなかったのは明白だからだ

【存在胚種】とゆー考え方はオランダの昆虫学者スワンメルダムが1669年に提唱した説だが
毛虫の解剖をしてたら蝶の形態が発現したので
マトリョーシカ式に最初から入れ子状態になってるのだ、としてて興味深い説だ

【世代の無限分割】とゆー考え方はフランスのマルブランシュが1674年に著書『真理の研究』に著した説で
リンゴの木がリンゴの種から生じるのはそこに既にリンゴの木があったからで
世界の終わりまでの分のそこに存在するべきリンゴの木は
総て最初の木に入れ子状態で存在してた、となるともう常軌を逸してるが・・・

これら【存在胚種】や【世代の無限分割】は総括して胚種の前成説とされるが
言い換えればこれが【ホムンクルス説】なのである

ディドロはこの説に『ダランベールとディドロの対談』の中で反駁してる

1つの原子(アトム)のなかに完成された一匹の象がおり、この原子の中に完成された象がもう一匹いる、そんなことが果てしなく続く、なんて考えることを理性は嫌うからね。

とディドロ自身として述べててダランベールにはそんなディドロに対する反対意見を語らせてる
つまりダランベールは古典的で保守的で一般的だから【ホムンクルス説】の方が当時は罷り通ってたってコトだ!

しかしこの訳注には「ビュフォンもディドロと同意見だった」とあるが
むしろディドロが大博物学者ビュフォンに影響されたのだろう

『大博物学者ビュフォン』の第9章「発生から生殖へ~第十章 生殖から生命の問題へ」で
35ページに渡って詳述されてた・・・
(ここではホムンクルスを主題にしてるからビュフォンの正当な見解の方をこそ省く)

スターン自身が信じてたのかどうかは定かではナイが
『トリストラム・シャンディ』の作中ではさも最新の科学理論であり
読者は知らなかったかもしれなくともこれこそが事実である、と恭しく記述されてる

って、ダメだ、誰か止めてくれ~ヽ(゚∀。)ノ