ペトロニウスとセネカ

悪評の尽きナイローマ皇帝ネロだが
自分はどうも人としての興味が尽きナイw

ネロに好感が持てるのは
若い皇帝らしい傍若無人さを発揮してるトコロだ

そんな若気の至りで暴走するネロの
人間関係がまた興味深い

とりわけ
皇帝になる以前より
師傅(しふ)だったセネカと
皇帝になってから
側近となった【趣味の審判者】ペトロニウスが
ネロ以上に奇人変人で魅力的なのだ!

というのは彼らの著作を読めばわかるるる~

セネカはストア派の哲学書だけでなく
人情味のある往復書簡もやりとりしてて
ギリシア悲劇風の戯曲を書いてたりもするが
自然現象についての考察をまとめてるかと思えば
その中に下世話な(てか、卑猥な)見聞録さえあり
どれも非常に面白い内容に仕上がってる

ペトロニウスは唯一残存してるのが
長編小説『SATYRICON(サテュリコン)』で
しかもごく一部のみなのだが
ラテン文学における悪徳の金字塔とでも言おうかw

酒池肉林、享楽、放縦、残忍・・・etc.etc.と
ローマの退廃の限りを尽くした描写が
絵にも描けナイおぞましさで
フェリーニによって映画化されてる

さすがの自分も冷や汗が出るくらい
変質者のオンパレードで
まともな人間が観たら
夢見が悪くなるコト請け合いだ

シェンキェヴィチの歴史小説『クオ・ワディス』には
ペトロニウスが『サテュリコン』を
甥のウィニキウスに買い与える場面があり
作者が誰なのかはネロにはバレてナイ設定なのも面白い

悪徳の宝庫のような「トリマルキオの饗宴」の
主催者トリマルキオのモデルが
ネロなのは火を見るより明らか(※)だが
このモデルの起用はまともな人間ならば憤慨するだろうし
当然ながら皇帝である者には侮辱ともとれるだろう
ネロもペトロニウスも何もコメントを(残)してナイので史実としては謎ではある

ペトロニウスがネロを槍玉に挙げてて
それを読んで皆で嘲笑してるのは
ペトロニウス曰く
ネロにはバレてナイとしてるのだが
実はネロ自身は気が付いてて
内心では不満に思いつつも
あえて黙ってたかもだ

酷過ぎると思う部分に
ネロはぶるぶる震えながらも
洒落だ=面白がれ、と
ペトロニウスがすまして示唆すれば
恰好つけて無理して洒落のめしてたりしてw

そんなネロの様子を
ペトロニウスは心底面白がってたりしてwww

ネロ、カワ゚+.(・∀・)゚+.゚イイよ、ネロ~!!

皇帝としてどうかではなく
アーティスティックかつエキセントリックな若者として見た時
どうしても嫌いにはなれナイ人物像なのだが!

粋人(すいじん)だったペトロニウスからしても
頭の硬い年寄りの政治家や
血気盛んで無教養な軍人の中で
下衆な噂話か
無味乾燥とした政策論か
血生臭いだけの武勲のような
そんな聞きたくもナイ話ばかり聞かされて
瑞々しい感性をすっかり干からびさせてたネロが
孤独に耐えるいたいけな少年に見えたに違いナイと思うのだ

そしてついかまいたくなったって出来心だったのだろうが
ペトロニウスのめくるめく快楽への誘いは
若く多感なネロにとって
どれほど魅惑的に感じられたコトか

それまで皇帝としてのネロが発揮できずにいたモノを
ペトロニウスがけしかけて解放してしまったのだ
うむ、それだけのコトだと思われ

国費を散財してる時点で既に不道徳の極みゆえ
その金で何をして遊ぼうが
いずれ真っ当とは言及しようもナイが
自著『サテュリコン』の如き世界観を反映してたなら
それはもう筆舌に尽くし難い悪徳に違いなく
その現場はきっとフツーの人間なら卒倒しかねナイし
生真面目なストア哲学者なら憤死しそうだ!

セネカは憤死はしなかったが
一緒に愉しめなかったぽい
剣闘士の試合を非難したりしてるしね

食べるために吐き、吐くために食べているのだ

この有名な嘆きもセネカの言だが
ローマの退廃はストア派哲学者には
耐え難い地獄絵図だったのだろう

弓削達著の『ローマはなぜ滅んだか』によれば
ローマ帝国に長者番付があれば
セネカは常連として名を連ねてたに違いなく
具体的にはその財産が3億セステルティウスほどだったそうだ

概算で40万セステルティウスが1億円ほどに当たるから
どれほど金持ちだったのだ・・・バタリ゙〓■●゙

そんなセネカは財産に対してこんな言い訳をしてる

財産は、賢者にあっては奴隷の地位にあるが、愚者にあっては支配者の地位にある

ストア派なら財産を持ってても
悪徳には染まらナイって?!
まあそういう言い訳がましいトコロも含めて
セネカも好きだがね

その点、ペトロニウス自身は
案外シニカルに愉しんでたのでは?
エピキュリアン(快楽主義者)でなく
シニック(犬儒派)!

しかしネロがペトロニウスに感化されるのは
至極当然の成り行きだと
ほくそえむ自分も
セネカからしたら不道徳な人間だろうか?

トリストラム・シャンディ

2006年にまとめて購入した筑摩文学大系の中に
ロレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』と
ディドロの『運命論者ジャックとその主人』があり
2007年の終わり頃に先に『運命論者ジャックとその主人』を読んで
続けて『トリストラム・シャンディ』を読んでたのだが
これが1ヶ月かかっても第1章を読んでたくらい
超スローペースだったヽ(゚∀。)ノ

トリストラム・シャンディ 上 (岩波文庫 赤 212-1)トリストラム・シャンディ 中 (岩波文庫 赤 212-2)トリストラム・シャンディ 下 (岩波文庫 赤 212-3)

それとゆーのも本文中に気にかかる単語が頻出するので
その度に寄り道読書をする羽目になったのだ

寄り道読書とは1冊の本を最初から最後まで読むのに
本文から注へとページを行き来するのだが
注では飽き足らずに他の本で確認したり
そうして開いた本に更に別の本で確認したい事項があり・・・
などしてて、本の山が出来てしまうばかりで
当初、読もうとした1冊がなかなか読み進まナイ読書形態だw

自分はこの寄り道読書こそが本を読む愉しみだと思ってるので
読了までに20冊くらいは参照するのが常だ

『運命論者ジャックとその主人』もそれで
ルソー、ヴォルテール、プラトン、アリストテレス・・・etc.
など、読み返しながら読み進んでったのだが
それ以上に、既にストーリー自体が寄り道しまくりで
脱線に次ぐ脱線で本筋がなかなか展開せず。(゚д゚lll)ギャボ

運命論者ジャックとその主人

でもそこが愉快痛快に感じられた自分は
『運命論者ジャックとその主人』の風変わりな構想が
『トリストラム・シャンディ』に影響されたのだと知って
これを続けて読まずにいられなくなった(*^^*)
ディドロは英語に堪能なので『トリストラム・シャンディ』を読んで
そのパロディ版(?)をフランス語で書いたのだろう

ところが『トリストラム・シャンディ』は
予想を遥かに上回る寄り道読書っぷりを発揮させたので
のろのろながらもようやく第1章を読み終えた時に
まだ本文に入る前にある引用について謎が解けずにいて
寄り道と思ってたらすっかり迷子になってたのだ。(´д`;)ギャボ

そもそもがその引用とはエピクテトスなのだが
自分はエピクテトスを読み込んでたつもりでいたのに
これが全く意味不明だった・・・バタリ ゙〓■●゙

行為にあらず、行為に関する意見こそ、人を動かすものぞ。

しかもどこに書いてあったのか、まるで覚えがなく
改めて中公バックス世界の名著のエピクテトスの巻を読み返すも
この部分がどうしても見つからナイ
筑摩世界文学大系のギリシア思想家集の方は訳者も違うので
もしやと思ってこちらも一通り読むが見つからず

でもここへきて見落としてたコトが明らかになった
筑摩の方はページ数も少ナイので抄訳だとすぐ気付いたが
中公の方も抄訳だったのだ・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

この引用部分がちょうど抜け落ちてるのかΣ(゚д゚lll)ガーン

自分が持ってる以外のエピクテトスの本に
岩波文庫の『人生談義』があったが
その時点ではこれが完訳版だとは知らなかったし
重版未定でアマゾンでは上下巻共に¥3,000以上もしたので
そこまでして買う気は起こらなかった

当然ながらググってもみたが
エピクテトスの何の何章からの引用かはどこにもなくて
謎のままに終了・・・

人生談義〈上〉 (岩波文庫)人生談義〈下〉 (岩波文庫)

それから5年後(2013年)の岩波文庫の春の復刊に
『人生談義』があったので即購入すると
完訳版だったのでこれで謎が解明できると確信して
最初から最後まで一気に読んだ・・・が、該当箇所が見つからず
またしても謎のままに終了・・・

☆・・・☆・・・☆

電子書籍を読むようになって
重宝してるのがSONY ReaderのEvernoteとの連携機能だ

テキストの一部を選択してEvernoteへ送信すると
新規ノートが作成されて保存されるので
この引用ノートを後から編集すれば
自分なりの注釈書がEvernote内にできるのだが
これが寄り道読書には最高のツールで
『トリストラム・シャンディ』を読むのなら
SONY Reader Storeで購入するに限る、てワケで購入

但し、読み始めるにはやはり前回から謎の部分が気になるが
これがエピクテトスの『人生談義』の下巻『提要』の5にあった!

人々を不安にするものは事柄ではなくして、事柄に関する考えである。

これを探し当てた紆余曲折の過程はこちら→『トリストラム・シャンディ』の巻頭の引用

さ、安心して読み始めようっと♪

Pensées

17世紀フランスの幾何学者パスカルの著書『Pensées(パンセ)』は
仏語で「思想」「思考」の意だが『パンセ』としたのはパスカル本人ではナイ

NHK「100分de名著」ブックス パスカル パンセパスカル『パンセ』 2012年6月 (100分 de 名著)

そもそも『パンセ』はパスカルの死後に出版されてて
『筑摩世界文学大系【13】デカルト パスカル』の「年譜」によれば
パスカルが『キリスト教弁証論』の構想に着手し始めたのは
34歳頃(1657年)だったのだが
その2年後には酷い衰弱状態に陥ってしまい
39歳の時(1662年)にはこの世を去ってしまってる

その『キリスト教弁証論』の遺稿(断片的なメモも含めて)が
『パンセ』として幾通りかに編纂されたのだが
パスカルが生き長らえて完成させてれば
『キリスト教弁証論』として出版されたはずだ

『パンセ』はそんな成立の事情により
各断章に割り振られた番号も全体の構成も版(編纂者)によって違い
どれもがパスカルからしたら不本意で
一旦書いても二重線で消してたりする部分が
そうしてあった、と断り書きをしながら載せられてたりもして
要するに未完の原稿が書きかけの状態のまま出版されてるのだから
当人からしたら冷や汗モノなのではなかろうか(;つД`)

しかし『パンセ』出版から300年以上を経た現代では
ブランシュヴィック版が一般的なようで
日本でも殆ど総てこの版の訳だと思われるが
それは最も合点がいく編集がなされてるからだろう

例えば「考える葦」についての記述がある2つの断章が
[347]及び[348]と連続してる(※)のは
なんとブランシュヴィック版だけだったりするのだヽ(゚∀。)ノ
例えば、ザカリー・トゥールヌール版が[183][107]
ルイ・ラフュマ全3巻が[200][113]、ルイ・ラフュマ完全版が[391][217]

ブランシュヴィック版の構成は以下だ

章(編) 松浪信三郎訳前田陽一と由木康の共訳断章番号
第1章精神および文体についてのパンセ精神と文体とに関する思想[1]-[59]
第2章神を持たない人間の悲惨神なき人間の惨めさ[60]-[183]
第3章賭の必然性について賭の必要性について[184]-[241]
第4章信仰の手段について信仰の手段について[242]-[290]
第5章正義、および現実の理由正義と現象の理由[291]-[338]
第6章哲学者哲学者たち[339]-[424]
第7章道徳と教理道徳と教義[425]-[555]
第8章キリスト教の基礎キリスト教の基礎[556]-[588]
第9章永続性永続性[589]-[642]
第10章象徴表徴[643]-[692]
第11章予言者預言[693]-[736]
第12章イエス・キリストについての証拠イエス・キリストの証拠[737]-[802]
第13章奇蹟奇跡[803]-[856]
第14章補遺、論争的断片論争的断章[857]-[924]

☆・・・☆・・・☆

パスカルの生きた時代(17世紀のフランス)は
ルネサンス(16世紀)と理性の世紀(18世紀)の間だった

ヨーロピアンの精神的支柱であるキリスト教が
中世の暗黒から抜け出て、ルネサンスの光明に曝され
不明瞭な部分を神に委ねずに解釈する人間が台頭してきたが
そんな先進的な思想を持つ先達にモンテーニュとデカルトがいた

2人ともパスカルと同じくフランス人だったが
モンテーニュはパスカルより一時代前に
デカルトはパスカルより一世代前(パスカルの父と同年代)に
キリスト教に対して真っ向から挑むような著述をした

それらがパスカルに『キリスト教弁証論(パンセ)』を書かせた
とゆー見解は『パンセ』を一読すれば瞭然で
とにかくモンテーニュとデカルトに対する反駁ばかりが目に付くのだ

なんせ自分などはパスカルの『パンセ』を読んでて
モンテーニュの『エセー(随筆)』や
デカルトの『方法序説』『省察』『情念論』を
読まずにはいられなくなったのだったw

モンテーニュとエセー (文庫クセジュ)

モンテーニュの『エセー』は
権威に対する懐疑主義的な皮肉が満載ながら
洒落のめしてて切れ味の゚+.(・∀・)゚+.゚イイ表現なのが
人文主義的美意識の高さを感じさせるので自分には好ましいが
その辺がキリスト教信奉者には疎ましいのだろう。(´д`;)ギャボ

加えて聖書の警句の引用がほとんど見当たらナイのと
それに比して古代ギリシア・ローマの哲学者の言を多用し
ましてや正論の論拠に用いてる部分も
ガチの信者には虫唾が走るような悪書の見本だったに違いナイし
実際、無神論の書として禁書扱いになってた

Que sais-je?(クセジュ?)
――我、何をか知らんや?

モンテーニュの発想はまるでソクラテスの無知の知だが
こういった節度を美徳とする古代ギリシア人気質が
分を弁えてる江戸っ子にもぐっとくるのだ

方法序説 (岩波文庫)

デカルトは前時代的なスコラ哲学をがっつり学んでて
神の存在をむしろ証明しようとしてたが
世界を神秘主義で結論付けてしまう思考停止に陥れずにいて
神の力に拠らずとも世界は成り立ってるし
そもそも世界が成り立ってるかどうか疑わしいのだが
そこを認識する際にはまず神の存在ありきではナイ
てな具合に遠回しにではあるが神を否定してしまった。(゚д゚lll)ギャボ

Cogito, ergo sum(コギト・エルゴ・スム)
――我思う、故に我在り

総てを疑わしく感じたデカルトがしたコトは
真の世界観の構築ではなく、世界の中の疑わしさの排除で
残ったのは疑念を抱く自分自身だけだったのだろうか?