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2012年にWOWOWでジャンヌ・ダルクの映画をやってたのだが
主役がミラ・ジョボヴィッチでもイングリッド・バーグマンでもなく
原作はジョージ・バーナード・ショーだった

ジャンヌ・ダルクは100年戦争の時代に実在してはいるようだが
天の声(※)を聴いたとか、オルレアン解放軍に女の身で参加したとか
非現実的な所業がどうにも信じ難い人物だ
結果として、オルレアンは英国軍から解放され
勝利に対するジャンヌの貢献度はともかく
異装の(男装してた)ジャンヌは異端審問で火炙りにされてて
それがなぜか500年以上も経って、近代に至ってから聖人になってて
その辺りの事情もまた胡散臭いのだが
フランス人は元よりヨーロピアンには英雄視されてたりするし
カトリック教徒は聖人の一人として受け容れてる
天の声の主は聖人で、オルレアン包囲の際には大天使ミカエルの声を聴いたそうだ

でもバーナード・ショーの戯曲『聖女ジョウン(原題:Saint Joan)』では
イギリスで上演されるべく書かれたモノだからか
ジャンヌは英雄としても聖人としても扱われておらず
刑死後、魂が天国に行けずに彷徨い続けてて、化けて出てるヽ(゚∀。)ノ

そんなジャンヌの最後の科白は神への祈りだったのだが

早く天国へ導いてください(-人-;)

とキタ━━━━━(゚∀゚)━━━━━ !

ショーらしい皮肉が効いてて
一緒に観てたとーちゃんと大爆笑しながら画面に大喝采を送った

☆・・・☆・・・☆

自分は頽廃に憧憬を抱く反社会的な勤労庶民なので
大衆に媚びてるだけの娯楽作品が大嫌いで
とりわけハッピーエンドの男女のロマンスには
若い時は虫唾が走ったり吐き気を催したりするほどだったが
ショーの描く世界観にはそういう嫌悪感を覚える部分がまるでなく
そこに真実が見えて、魂の奥底から感銘を受けるのだ

だから映画『マイ・フェア・レディ』は忌々しく感じるるる~チッ( -∀-)、
自分にはシンデレラ・ストーリー自体が苦々しいのだが
ショーの戯曲『ピグマリオン』が原作なのに
作品を通して掲げられたテーマが完全に損なわれてしまってるからだ

『ピグマリオン』はギリシア・ローマ神話由来のラテン文学で
オウィディウスの『変身物語』の挿話『ピュグマリオン』が元ネタだ

主人公ピュグマリオンが自身で作った女性の彫像に惚れてしまい
その切なく苦しい胸の内をあわれに思った女神に
命を吹き込んでもらって想いを叶える、とゆー物語で
Barbieに恋し続けてる自分にはピュグマリオンの気持ちがよくわかるし
実際にBarbieそっくりの人間に巡り合うと
女神に感謝しつつ、その人をこよなく愛してしまってたヽ(゚∀。)ノ

『ピュグマリオン』はリア充には決して共感されナイ物語で
絶対に愛してくれナイ女を切望するピュグマリオンに嘲笑しながら
きっとこんな風に諭すのだろう

現実を見据えて人間の女と愛し合えば゚+.(・∀・)゚+.゚イイのに?!

他人に言われずともピュグマリオンも自分もわかってるが
それでも愛せずにいられナイのだよ。・゚・(ノД`)・゚・。

でも愛するってのが無償で相手を想う気持ちだとしたら
相手からのお返しを同じだけ望むのはむしろ本トに愛してるのかね?

☆・・・☆・・・☆

ショーの『ピグマリオン』の場合はもっとヲタ度が高く
ピグマリオン=ヒギンズは英語の発音における音声学者であり
彼が求めてたのは単なる理想の女性などではナイ
洗練された英語を話す女性、しかもそれを矯正できた自身に悦に入ってて
その女性には生き証人としての価値しか求めてナイ
ヒギンズがイライザ自身にはまるで興味がナイのは明白だ。(゚д゚lll)ギャボ

イライザも育ちが悪いながらも愚劣な女性ではなかったので
そんなヒギンズのヲタ魂の萌えに気づいてただろうから
純粋にイライザ自身を愛してくれるフレディを享受するのは然りだ
ショーの『ピグマリオン』でははっきりと結末は描かれてナイが
イライザがフレディの気持ちを無碍にできるとは思えナイし
ましてやそこでヒギンズを選ぶはずがナイ。(´д`;)ギャボ

ヒギンズとイライザが結婚してハッピーエンドの物語なら
タイトルを『ピグマリオン』にする意味はなく
ブロードウェイで意義を失ってしまったからこその
『マイ・フェア・レディ』へのタイトル差し替えなのかもしれナイなw

☆・・・☆・・・☆

そして世の中の流れはいつも商業主義に味方するので
主役が日本人の大好きなオードリー・ヘプバーンなのもあり
映画『マイ・フェア・レディ』ときたら
しつこいくらい年中、テレビで放映されてるのだが
それに比してショーの戯曲『ピグマリオン』を新刊で購入するのは
日本では少なくともこの10年ほどは困難だった

同じように冒頭に挙げた映画『聖女ジャンヌ・ダーク(原題:Saint Joan)』
ショーの脚色に忠実なこの作品だけが日本ではDVD化されず
原作の戯曲『聖女ジョウン』を新刊で購入するのも
『ピグマリオン』と同様、邦訳を読むコトが適わなかった

今世紀になって何よりも後悔してるのは
ショーの著作を若い内に買い集めておかなかったコトだ(;つД`)
『聖女ジョウン』でその後悔は募るばかりだったが
諦めつつもググってみると書物復権2012の復刊リストに
なななんと『バーナード・ショー名作集』があった・・・バタリ ゙〓■●゙

バーナード・ショー名作集

しかも『聖女ジョウン』も『ピグマリオン』も収録されてたので
早速購入して2作とも一気読みした・・・生きてて良かった。・゚・(ノД`)・゚・。

ちなみに『ピグマリオン』の序文には次のようにあった

(前略)ロマンスのヒロインになれたからというだけで、すぐさまロマンスの主人公と結婚したにちがいないということにはなるまい。こういう考え方には我慢がならない。せっかくのドラマもこういう得手勝手な判断にあっては、こわされてしまう。

Metallicaは格別好きでも嫌いでもナイが
カヴァーしてたこの曲のオリジナルDiamond Headは好きだ

Am I Evil

Diamond HeadはNWOBHMの括りに入るバンドだが
このバンド名と同名の曲をThe Venturesがやってたので
どうもサーファーのイメージが思い浮かんでしまい
その違和感が未だに拭いきれずにいるるる~

Am I Evil ?

これはGoogle翻訳機にかけると
「私は意地が悪いですか?」となってしまうが
「母親が異端審問で火炙りにされた」と歌詞の冒頭にあるので
「(その息子の)私は邪悪(なる者)なのか?」
そういう問いかけで、しかも自身に問いかけてるのだが
それに対してまた自身で答えてもいる

Yes I am.
I am man.

この2つの答えの文は中学生の英語レベルだが
後者の方は解釈に含みがあるだろう

manは男、てよりは、人間、で
人間=邪悪なる者、なのだろうか?
そんな業の深さに対する開き直りのようにも感じる一方で
恐らく母親もその息子も邪悪などではなかっただろうが
世間にそうだと烙印を押されてしまった運命を
受け入れつつも呪ってるようでもある

いずれにしろ異端審問てのは
ローマ・カトリック教会と意が合わぬ者を
あるいは何の罪もナイ人間でも見せしめとして
火炙りに処すコトができる機構だった
異端審問は云わばキリスト教の黒歴史なのだw

☆・・・☆・・・☆

昨日で激しく呑み過ごした誕生日週間(月間)を終えた

〆はG街納涼感謝祭だったが
前半は懐かしい友達との再会を楽しみながら
後半はひたすら眠気と戦いながら(負けてたかも?)
殆ど完璧に記憶を失くして、オマケにタブレットも失くして
すっきりさっぱり喪失感を堪能した・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

帰宅した際の詳細な記憶まで抜け落ちてるが
最後にいた店にタブレットを忘れてナイか確認のTELをして
炊飯器をセットしてから自室で寝た

数時間後に喉が渇いたので起きて
廊下に出るとトイレの前で母親が倒れてた。(゚д゚lll)ギャボ

「転んで起きられナイ」

ちょっと動かすと酷い痛がりようで叫ぶのだが
この人はいつもそうして演技過剰なので
やれやれ、またか・・・。(´д`;)ギャボ
今度は何が気に入らなくてストライキなんだろうか?

呑んで総てを失ってせいせいしてた矢先だったのに
苦々しい想いがすぐさま蘇ってきて
瞬く間に心に闇が広がった・・・気がした

このまま放置してて死なれるのは後味が悪いが
実際、これしきでは人は死なナイから
処置を施すとして、何をどうしようか?

とりあえず意見しようヽ(゚∀。)ノ

何でそんな目に遭ってるか、教えてあげようか?
自業自得、行いの報いが返ってきてるのよ!
世話をしてくれる人間に対しての
毎度の横柄な態度と逆切れの挙句の暴言て、何なの?!
どうしてそこまできっち~思いをしなくちゃ
わからナイの???

虚ろな目にはもうこちらに歯向かう意志はなかった
言ってる意味を解そうとする意志もだが・・・

そこへ折りよく父親が来たようだったので
またストライキらすぃ・・・と託して様子を見てると
珍しくまともなコトを言い出した

「病院行く・・・」

結局、救急車に3人がかりで運ばれてって
自分も付き添って病院へ
待つコト数時間、大腿骨骨折で即入院

お腹がすいた、と言うので好物の寿司を食べさせて
満足そうにしてるのを目にしてやっと憐憫の情が湧いてきた

帰宅してみれば夜も更けていた

☆・・・☆・・・☆

Am I Evil ?
Yes I am.

Am I Evil?

世界を司ってるモノが
神であろうが
自然の摂理であろうが
何だって構わナイし
どうせその答えは人類には出せナイ

ただ切に願わずにはいられナイのだ
世界は美しくあるべき、と

☆・・・☆・・・☆

パスカルはキリスト教信者だった(※)が
宗派としてはジャンセニスム(ヤンセニスム)で異端であり
ローマ・カトリック教会の中でもジェズイット教団(イエズス会)は
ジャンセニストに対して攻撃的だった
23歳の時に第1の回心、31歳の時に第2の決定的回心

ローマ教皇歴代誌

ローマ・カトリック教会はローマ教皇庁を頂点にした権威主義的な組織だが
その最高権威者たる大司教は単純に考えて神に任命されたワケではナイ
そんなコトは信者だってわかってる・・・はずヽ(゚∀。)ノ
それでも神の代理機関としてヨーロッパ中で認知されてたので
神の名を騙って異端審問を行ってた

この「審問」てのは「裁判」とは違って
異端審問を受ける=既に異端者として見做されてる、なので
受けたら最後、何らかの刑罰からは逃れようもなく
まあほとんどの場合は火炙りにされたのだが
要するにローマ・カトリックが中世より権威を保ってきたのは
教会にとって都合が悪い真実を述べてる人間を
悉く惨殺するコトによってなのだよ。(゚д゚lll)ギャボ

そういうローマ・カトリックのやり方がどうにも虫が好かナイ自分は
それでキリスト教自体にも懐疑的にならざるを得なかったが
パスカルはキリスト教そのものや神(至高存在)は是認してたので
正しい信仰の在り方を希求した結果として
ジェズイットとは反目するようになったのであって
消去法的にジャンセニストの側についた、という見方が正しいと思われ

それとゆーのも、パスカルが所属してたパリのポール・ロワイヤルは
当時のフランスにおけるジャンセニスムの本拠地だったので
これを目の敵にするジェズイットの攻撃が不可避で
パスカル自身が格別にジャンセニスムに傾倒してなかったとしても
ジャンセニスム擁護の立場におかれてたのだ

パスカルはジェズイットの攻撃に対する回答をまとめて
『プロヴァンシャル』として匿名で出版したが
ジャンセニストを代表してのパスカル名義ではナイコトや
論旨が必ずしもジャンセニスムに忠実ではナイコトからしても
単にジャンセニストとして十把一絡げにしまうのは憚られるのだが
キリスト者としても決して不寛容な妄信の徒ではなく
理性的に、時には科学的にさえ、考えてる

だって人間は【考える葦】だよ・・・。・゚・(ノД`)・゚・。
from パンセ by パスカル

自分は無神論者だが
パスカルが無神論者を嘆く気持ちが痛いほどよくわかるのだ

通常であれば、信者は信仰が定めた世界観が正しいと思い込んでて
その世界観に疑いを抱く非信者を間違ってると見做し
自身は神に従順な正義なので、反駁する相手を悪(魔)だと決め付ける

パスカルは押し付けられた世界観をそのまま享受してるのではナイ
世界がどう(美しく)あるべきかを吟味した上で
思い描くようになった理想郷があり
そこを神が支配してて欲しい、と願ったのがパスカルで
自分は反対に、そこで偽りの神を祀るべからず、となるワケだw
なんせ宗教の存在こそが争いとその後の悲劇の原因なのは
有史以来の歴史が明らかにしてる史実だwww
しかしパスカルに言わせれば
良心のありかは神の存在なくしては成り立たナイ
つまり、非道をやってのける者は神を畏れずにいるためにやってしまう
そんな前提で「良心を持ってて欲しい」=「神を信じて欲しい」だとすれば
無神論者の自分も=の前の部分には共感できてしまうのだが(-_-;)

と、ここまできてからなんだが
ジェズイットにしろ、ジャンセニスムにしろ
そもそもキリスト教からして日本人には馴染みが薄いかもだな。(´д`;)ギャボ

ジェズイット(ヤソ)会士は厳格な男子修道会で
平たく言えば修業を積んだら僻地へ布教に行く派遣員の候補者で
日本に布教に来たフランシスコ・ザビエルも
この教団の創始メンバーだった

聖フランシスコ・デ・サビエル書翰抄 上巻 (岩波文庫 青 818-1)聖フランシスコ・デ・サビエル書翰抄 下巻 (岩波文庫 青 818-2)アウグスティヌス講話 (講談社学術文庫)

ジャンセニスムは人間を罪重く非力な存在と貶めて
神の恩寵なくしては救われナイ、としてるのだが
これはオランダの神学者ヤンセンの著書に端を発してて
そのタイトルの『アウグスティヌス』てのは
若き放縦の日々への悔恨に苛まれ続けたヒッポの司教の名だ

scarlet-letter

トマス・ハーディの『ダーバヴィル家のテス』にしろ
サミュエル・リチャードソンの『パミラ』にしろ
ヴィクトリア朝の貧農の娘は病的に貞操観念が強いが
結婚前に純潔を失う=堕落する=地獄に落ちる、と信じてたのだし
社会的にも私生児を産んだ女には風当たりが強かったので
現代日本人が奇異に思うほど
彼女らが病んでるワケでもなかったりする

ところでヴィクトリア朝はハノーヴァー朝末期の
ヴィクトリア女王が統治してた1837年から1901年だが
アメリカの作家ナサニエル・ホーソーンが
『緋文字』を発表したのがこの時代で1850年だった

The Scarlet Letter (Classics)

アメリカは1607年に英国人が入植したのが始まりだが
最初の入植地はジェームズタウンで現ヴァージニア州にあった

1620年には新天地を求めたピューリタンが
現マサチューセッツ州ボストンの南東に移民し
メイフラワー号でイギリスのプリマスから出航したので
そこをニューイングランドと呼びプリマスと名付けた

そのニューイングランドのセイラム(現ダンバース)で
1626年に忌まわしい魔女裁判が起こり
200人近くの女性が告発され、異端審問を余儀なくされ
19人もが処刑されるに及んだ(加えて獄死者5人、拷問中の圧死者1人)が
ここの出身者で祖先が魔女裁判の判事をやってた、てのが
ホーソーンだったのだ

そうと知って何か読んでみようと思いたって
神保町へ赴いたのが昨年(2011年)末

昔から岩波文庫の『緋文字』は古本屋でよく目にしてたので
¥100~せいぜい¥300で購入できるだろうし
他にも掘り出し物があれば・・・と目論んで行ったのだが
掘り出し物はまさにホーソーンだった

『緋文字』は岩波文庫でなく河出書房の世界文学全集
また筑摩世界文学大系のホーソーンの巻もゲト!
これが3冊で¥500の小宮山書店のガレージセールだったので
もう1冊、河出の世界文学全集でドストエフスキーの『白痴』もゲト!!

3冊とも無傷で綺麗だったし
河出世界文学全集【13】の方はポーの短編も収録されてたが
それがハリー・クラークの挿絵入りだったりするし
本編には入ってなかったが『赤死病の仮面』のビアズリーのイラストも
オマケのしおりの表紙になってたのでカナ~リお得感(*^^*)

筑摩世界文学大系【81】には『七破風の屋敷』と短編3作品と
マーク・トウェインの『ハックルベリー・フィンの冒険』が収録されてて
ちゃんと月報もついてたし
もう1冊はドストエフスキー作品の中で1番好きな『白痴』で
これら3冊で¥500ってしゃーわせヽ(´▽`)/

こういう自分にとって最も有意義な運の使い方ができるってか
人生の中で何よりも巡り合わせに恵まれてるって
やっぱ日頃の行いが+.(・∀・)゚+.゚イイからか、などと浮かれつつ
まずは生まれて初めて『緋文字』を読んだ

その奇妙なタイトル【緋文字:The Scarlet Letter】は
以前から何のコトやらと気になりつつも見当さえつかなかったが
謎が解けてみると「A」の文字が刺繍された縫い取りだった

この「A」は「adultery(姦通、姦淫、不倫、不義密通、婚外性交)」の意で
私生児を産んだ母親を指し示してるのだが
その罪の女がいつでもどこでも誰にでもそうとわかるように
必ず胸に着けておくように示唆されるモノだったのだ。(゚д゚lll)ギャボ

しかし胸に着けた緋文字のために白眼視され続けるヘスターが
その罪の子を女手一つで地道に育てていく生きザマは
誰よりも清く正しく美しく・・・なんて強い。・゚・(ノД`)・゚・。

感動しながらも空恐ろしくなったのは
小説『緋文字』はフィクションでモデルなどがいたワケでもなかったが
【緋文字】の罰を受けた罪人は実在してた気がしたからだ

正確には、【緋文字】の罰を与えた社会が実在してた
としても疑う余地がなく納得できるくらいに
『緋文字』の時代背景(1650年頃のアメリカ)が
中世さながらに暗黒だったと改めて気付いたからだ

西洋ではキリスト教の教義に反した人間を罪人扱いして
社会的に排除する風習が民間に根強くあると認識してはいたが
ちょうどヴォルテールの『寛容論』を併行して読んでて
キリスト教がいかに不寛容な宗教なのか
否、中世~近代のキリスト教徒がいかに不寛容な振る舞いをしてきたか
身震いをしながら思い知った

どうもアメリカ文学には疎くて
(てか、文学全般に渡って古典以外はまるで疎いのだがw)
唯一好きな作家がマーク・トウェインで他には一切読んでおらず
ホーソーンも『緋文字』の作者としか知らず
しかもその『緋文字』さえ40年以上読まずに生きてたのだが
読んでみてあまりにも心打たれて
これまで避けてた自分を悔いたし恥じた

ホーソーンはギリシア神話をいくつか児童文学に編纂してて
その中には『ミダス王の物語(The Golden Touch)』も含まれてるし
『大理石の牧羊神(The Marble Faun)』なんて小説も書いてたが
ググってみたらこれは残念ながら現代の話で
ギリシア神話とは関係無さそうだった

roman-catholic

中世のフランスでジャンヌ・ダルクは異端審問により「異端」と見做されたため
火焙り(Autodafé)にされ
近代のフランスでマリー・アントワネットは国民議会の革命裁判で「有罪」となり
ギロチン(Guillotine)に処された

フランス史 2 中世 下
フランス史 5 (18世紀 ヴェルサイユの時代 (全6巻))
ジャンヌ・ダルク [DVD]
マリー・アントワネット (通常版) [DVD]

異端だとなぜ罪もナイのに火焙りなのか?

ローマ・カトリック教会を頂点とする組織が度々行ったこの処置に
小学生の自分は憤怒と憐憫を覚え疑問を持ったが
そこにまるで疑問を抱かナイカトリック信者の心情はもっと謎だった

しかもそれでいて同じ刑罰を
ローマ皇帝ネロが大火の犯人に行ったのは悪魔の仕業だ
などとと嘆くのも不思議だった

ジャンヌを冤罪で火焙りにしといても
死んだ(殺した)後で聖人に加えたコトで贖われてる
とか、そういう納得の仕方をしてるのだろうか?
それならネロの場合も同じようにすれば
キリスト教信者にここまで忌み嫌われなかったんだろうかw

近代国家での刑罰は罪状に対して負わされるモノだが
どちらかといえば犯罪者には甘い措置で
死刑のような極刑が下されるコトなどほとんどナイし
それが公開処刑なんてあり得ナイ!
とゆーのが現代日本人のフツーの感覚だろう

「異端」だから殺しても差し支えナイ!!
ましてや
見せしめのためには公開処刑で火焙りに!!
なんて発想にはとてもついて行けナイ。(´д`;)ギャボ

でもそれがジャンヌの時代では罷り通ってたのだし
その後ルネサンス期になっても早過ぎた天才たちは「異端」として
火で焼かれたのだ。(゚д゚lll)ギャボ

つまり「異端」とは
ローマ・カトリック教会の主旨に適わぬ考えを持つ者で
同じキリスト教信者でもプロテスタントは「異端」だったのだが
それならローマ・カトリック教会とは何ぞや?

実際はローマ法王を中心としたキリスト教の一組織でしかナイが
古くは法王は神直属で神に任命されたとしてたw

このローマ・カトリック教会の長年に渡る大罪を
ヴォルテールが『カンディド』でわかりやすく揶揄したのだが
そのヴォルテールら啓蒙思想家の死後に
イギリスより大幅に遅れて近代化を歩み出したフランスで
今度は教会に替わって庶民がこの大罪を担った

無知ゆえの妄信が引き起こす集団ヒステリー状態が
庶民を無意識のうちに革命へと駆り立て
まずは犠牲者として選ばれた国王をギロチンで処分した

ルイ16世の処刑に対しては罪状が何もなかったが
言うなれば庶民による新しい【異端審問】で「異端」とされた

それに比べて王妃は近代国家的に一応「有罪」とされたのだが
罪状はたぶんでっちあげたのだろうと思われ
なんたって8歳の息子との近親相姦だヽ(゚∀。)ノ

それにしても皮肉なのは
処刑道具としてギロチンを認定した張本人こそが
ギロチンにかけられたフランス国王ルイ16世だったってコトだ・・・

ちなみに通常は「オトダフェ」ではなく「アウトダフェ」とかな書きするのだが
ヴォルテールによったのでフランス語読みの「オトダフェ」とした
所有してるヴォルテールの『カンディド』では【異端審問】が【異端糾問】と訳されてるが
これは汎用の【異端審問】の方で統一してる(訳者は丸山俊雄と新倉俊一)
またこの『カンディド』の「火刑(オト・ダ・フェ)」の註には次のようにあった

スペインやポルトガルで行われた、異端糾問所(Inquisition)の判決宣告、及び、その宣告を受けた異端の徒に対する刑(通常は火刑)の執行をいう。

ミシュレの『フランス史』はそれだけで読み応えがあるが
読み比べるとより一層面白いかと思いついた

まずは『フランス史 II 中世【下】』
「8 ジャンヌ・ダルク―オルレアンの解放とランスの戴冠式」
「9 ジャンヌ・ダルク―裁判と死」

フランス史 2 中世 下
ジャンヌ・ダルク処刑裁判
ジャンヌ・ダルク [Blu-ray]
Saint Joan (New Mermaids)
ジャンヌ・ダルク (中公文庫)

自分の中のジャンヌ・ダルク像は胡散臭さが先立ってしまってたが
それとゆーのもキリスト教に即した絵本だったからだ

ジャンヌは火焙りにされてしまうが後に聖人として称えられて
めでたしめでたし・・・かょ。(゚д゚lll)ギャボ
何の疑問も抱かずに読後に感動できるなんて
自分にはおかしいとしか思えなかった。(´д`;)ギャボ

いや、むしろ信者こそが教会のあり方に対して疑念を抱くだろうに?
なんせ異端審問でジャンヌを火刑に処したのは当の教会組織だ
(この辺りの事情はルター以降だと釈然とする
つまりローマ・カトリック教会によるプロテスタント迫害だ
しかしジャンヌはルター以前の人であるるる~)

フランス人でもキリスト教信者でもなければ
ジャンヌ・ダルクにはとても共鳴できようもナイはず・・・(-_-;)
まあ自分は異装趣味に関しては応援できてしまうのだがw
自分だけでなくオスカルファンには鎧帷子姿のジャンヌがぐっとくるだろう

時代遅れの騎士道をズタズタに打ち破った一歩先行くイギリスに
今にも乗っ取られる寸前のフランスで男たちは立ち向かう勇気を失ってたが
そこにまさに騎士道精神の象徴的な姿で少女が旗を揚げるのである
この時代のフランスのどうしようもなさを知れば知るほど
それを打破しようとする少女のひたむきさの威力を思い知るp(-_-+)q

近年になってシラーの『オルレアンの処女』を読んで
ジャンヌの心情を克明に描いてるのはさすがシラーだと感心はしたが
いかんせん聖人ジャンヌなんである、一人の人間としてではなくね・・・
しかも肝心の火焙りになるシーンがナイのもどうかとヽ(゚∀。)ノ

それが今更ながら王道のミシュレの『ジャンヌ・ダルク』を読み
これこそが史実に忠実でかつ人間を描いた傑作だと確信した!
3つしか読んでなくっても・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

先述の『フランス史』のジャンヌの部分を
ミシュレが執筆してたのは1838年~1839年頃だったらしいが
その10年後の1848年の2月革命で挫折したミシュレは
ナポレオンへの忠誠の誓いを拒否して1852年には全てを失ってしまう
ところがその翌年に『フランス史』から抜粋されて
『ジャンヌ・ダルク』が単行本として出版されたのである!!

この単行本の邦訳が1987年に中公文庫で出てたのを昨年になって突然買ったのだが
もう「序文」だけですっかりジャンヌ・ダルクに
そしてミシュレに参ったのだった・・・バタリ ゙〓■●゙
※ちなみにこの序文は当たり前だが単行本化の際に加筆されたモノ

今回『フランス史』の方で前後の情勢もよくわかる中で読むと
より一層ジャンヌ・ダルクの生きザマに心を打たれるが
この一人の献身的な少女は神の加護がある聖人なんかではなく
ニーチェの称するトコロの超人なのではナイだろうか?

そこで他の作家の『ジャンヌ・ダルク』を読み比べてみたくなったが
邦訳で入手可能なのはマーク・トウェインくらいだった

アナトール・フランスのは元から邦訳がなさそうでフランス語版ならありそうだが
英語版はあるのだろうか?

1番読みたいバーナード・ショーの『聖女ジョウン』も原語(英語)版に頼るしかなさそうだが
とりあえず作品解説本『バーナード・ショーの劇』
「【第九章】 聖女ジョウン」を読めるだけでもありがたい(-人-;)

そしてヴォルテールの発禁を食らった『オルレアンの処女』だが
ネットで探したら英語版が読めそうな気配
LINK:THE MAID OF ORLEANS

他にもググってみたら
少女マンガでは天川すみこの『ジャンヌ・ダルク』てのもあったが
1巻の表紙の絵柄が好みからすると微妙だな・・・
また『ピュタゴラスの旅』の酒見賢一原作のマンガで
『D'arc(ダーク)ジャンヌ・ダルク伝』には酷く興味をそそられたが
絵柄が近藤勝也なる漫画家で自分の苦手なジブリ系だった。(゚д゚lll)ギャボ
無理っつ。(´д`;)ギャボ

これは途中まで3月11日より前に書いてたが
その後は実際にリスボンの大地震のような地震が日本を襲い
内容的に些か不謹慎かと自粛してアップせずにいた

今、世界中からの応援や支援を受けて
日本は復興への長い道のりを歩み出そうとしてるが
各々がやるべきコトを真摯に考えかつ実行するのは容易くナイ

ましてや原発事故の後遺症は延々と続くだろうし
先の見通しは決して明るくナイのだから・・・

自分は小市民らしく
愛する人たちのためにだけできる範囲の些細なコトをやる・・・ので精一杯だ
まあ震災があってもなくてもそこは同じだw

どう生きるか、は生きてる以上
意識して考えてはっきりと答えを出してなくても
無意識にその回答に従って生きてるはず

人は生きるコトに切実にならナイと・・・
要するに常に死を意識して生きてなければ無意識に生きてしまうが
それは生物として本能に適った生き方だとも言える

その無意識の中に悪意がナイのが庶民で
それこそが庶民の誇るべき長所だ

でもだからこそ庶民はいつでも悪意に満ちた権威者の犠牲になってしまうのだ

庶民はいつまで愚民でいるのか?
どうしたら権勢の都合で捏造された迷信を信じなくなるのか?

と、ヴォルテールや他の啓蒙思想家が啓発し続けたのは
フランス革命より以前のコトだったが
それから300年近く経って近代化した世界のどこの国でも
庶民は迷信を熱望さえしてる。(゚д゚lll)ギャボ

現代ではプロパガンダと呼称が変わったが。(´д`;)ギャボ

カンディード 他五篇 (岩波文庫)
ヴォルテールの世紀 精神の自由への軌跡
ライプニッツ (Century Books―人と思想)

さて表題のリスボンの大地震だが
ヴォルテールの時代のポルトガルはリスボンに起きた震災で
大地震の後には大津波が来て大火災も発生して
死者3万人を含む10万人もが被災する大惨事に至った

この惨状を知ったヴォルテールは
すぐにその嘆きを『リスボンの災害についての詩』にして
その後小説『カンディド』では震災の様子を見てきたかのように描写した

『リスボンの災害についての詩』の日本語訳は
2009年の暮れに出た『ヴォルテールの世紀 精神の自由への軌跡』
「【2】隠棲 ジュネーヴ、交友と反目」にて初めて目にして強い衝撃を受けはしたが
ヴォルテールの思想の分岐点がリスボンの大震災に齎された
とは、その時はまだ気がついてなかった

今年になって『カンディド』を英語版で再読し
改めてその文章の簡潔さと訴えてるコトの深さに感動したが
リスボンの大地震についての章を読みながら
ヴォルテールの詩に託された嘆きが交錯した時に
やっとヴォルテールの精神の中でも大激震が襲ったのだと気付き
それを具現化したのが『カンディド』だったと理解できた

その矢先に今回の震災である

リスボンの大地震での悲劇は地震と津波とゆー天災によって齎されたが
火事は半分は人災だろうか?
それでも誰かに責任を負わせられるようなレベルではナイので天災の方に程近い

カンディドとパングロスはこれらの渦中にいて命からがらなんとか助かったのだが
人柱として刑に処される羽目に陥る悲劇に見舞われた

この惨事の後の人柱の処刑とゆー惨劇は紛れもナイ人災だ
なんたって人が人を手にかけるのである!

そもそもなぜこの善良な2人が人柱とされたのか?

それは人柱を選ぶ基準が「異教徒であるコト」だったからだ

ポルトガルはカトリックでドイツ(プロシア)はプロテスタントで
確かに宗派は違うが異教徒ではナイ
と、思ってしまうのは宗教に疎い日本人の錯覚で
両者はお互いに皆殺しを望んでたのが実状だ

パングロスがライプニッツの【予定調和】をカンディドに説いてたトコロを当局に見つかり
「パングロスはワケのわからナイ話をしててカンディドはそれを熱心に聴いてた」
と、それだけだったが異教徒であると疑われたのだ

これでパングロスは縛り首、カンディドは鞭打ちに処されたが
疑われただけでなく本物の異教徒であると確信されれば
処刑は1番長く見物できる火炙りだったろう

いずれにせよ
この人柱の処刑が地震や津波そのものを沈静化させるためなどではナイ
と、いくら迷信深い愚民だってさすがにわかってるが
被災した鬱憤を晴らすための見世物として必要なパフォーマンスだったのだ

当然ながら人柱に選ばれた庶民は
異教徒であったにせよ、罪もなければ悪意も全くナイ

そして人柱に選ばれなかった庶民も
処刑の光景を嬉々として見守ってたにせよ、やはり微塵も悪意はナイのである・・・

庶民の一人一人は間違いなく善人だろうが
群衆心理は無意識の悪意を引き出してしまうのが怖ろしい
異端審問はその最たるモノだ(-人-;)