ロシナンテ

日本では今や「ドン・キホーテ」と言えば
年中無休24時間営業のディスカウントストアのコトだが
これも間違いなくセルバンテスの小説の主人公の名からとってるだろう

ドレの絵で読むドン・キホーテ

しかしなぜこんな名称にしたのか?
ググってみたらYAHOO!知恵袋に中の人が答えてるぽい
LINK:ディスカウントショップ「ドン・キホーテ」の名前の由来は?

しっかり『才智あふるる郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』に由来してるようだが
社員の中でこの長く退屈な小説を読破した兵は果たしてどれほどいるのだろうか?
なんせ現代日本人には意味不明な要素が盛りだくさんで
それらが話の腰を折るように次から次へと割り込んでくるのだから
次のエピソードに辿り着くまで緊張感を保てナイのだ。(´д`;)ギャボ

むしろ自分はその意味不明な部分にこそ愉しみを見出すのでうってつけなのだが
それでも前・後編のうち前編の半分ほどで挫折・・・
前編の後半にある有名な風車のエピソードは一応読んだがねw

確かに面白いと思える滑稽さが漲ってるのだが
そういうドン・キホーテの道化ぶりを素直に笑えナイのだ
そもそも道化ってキャラクタにはおかしさより憐憫を感じてしまう性質で
そこが合ってナイような気がするるる~

とか、ずっと敬遠してたのだが数年前にふとしたきっかけで読み始めたら
ハマった(゚*゚;)

トリストラム・シャンディ (研究社小英文叢書 (264))
エル・シードの歌 (岩波文庫)
ル・シッド
エル・シド デジタルニューマスター版 [DVD]
アレキサンダー【Blu-ray】

もう四十路に程近くなって還暦に向けての自分の人生の再構築をしてたその時
20歳からの20年間の義務を果たすための人生とは訣別して
余生はただひたすら幸せに、幸せのために生きたい、と思ってた

自分の幸せの在り処・・・それはかつて本の中にあり
読んでから反芻しながら散歩するのが至福だった・・・ホゥ(*-∀-)

もちろんそれだけの悠長な生活を送れる身分ではナイので働かねばならナイが
仕事と家事以外の時間は全て自分のためだけに使おうォゥ( -∀-)/

ところがふとしたきっかけで『ドン・キホーテ』を読み始めてしまい
読み進むほどに考えが変わって行った

なんせ主人公のドン・キホーテは中年もほど過ぎた冴えナイオッサンだが
自分と同じように本から与えられた夢の世界を愉しんでたのだ
それも現実に夢を再現して思いっきり愉しんでるのだった。(゚д゚lll)ギャボ

本の中、過去と未来、現実と夢、昨夜の酔いと今のまどろみ・・・
時空を超えて、交錯して、巡り会い別れ、でも繋がったまま・・・

ドン・キホーテはいつでもどこでも我武者羅に愉しんで
それを皆が見て笑う、嘲笑も気にならナイ、だって愉しんでるから♪

他人をおもしろがらせようとしても道化にはなれナイが
己の信じるままに大真面目に生きてると他人からは道化に見えるのだ
そう見えたら大いに笑ってくれたまえ

サンチョ・パンサはいつも酷い目に遭う予感がして
ドン・キホーテに忠告しながらも予想通りの災難を愉しんでる
信頼しきって迷惑かけまくるドン・キホーテを心配するのも愉しそうだ

人間ってやっぱり内に篭ったらつまらナイな・・・
まだまだバカやれる内に迷惑かけまくって笑われておこう!
見栄を張るのはあの世に行ってからで゚+.(・∀・)゚+.゚イイや!!

将来飼う犬の名前を1匹はブケファラスと決めてたが
もう1匹はロシナンテにしようかな(*^^*)

そう、ロシナンテだ
このドン・キホーテの愛馬の名が何て意味でどうやって名付けられたか
それが知りたくて再読したのだ

折りしもロレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』を読み始めて
まだ第1巻の第10章めだったが
そこに産婆を救った牧師が乗ってた馬(またなぜそんな馬に乗ってるのか)の話があり
その中でその馬に例えられてるのがロシナンテだった

『ドン・キホーテ』の第一篇第一章には次のようにある

『さきの痩せ馬(ロシナンテ)』と呼ぼうと思いついたが、これは彼の見るところでは、気高く、口調もよく、しかも現在の身分になる前に駄馬(ロシン)だった身の上を現わしたばかりか世のあらゆる駄馬の中でまず筆頭だということをこよなく現わした名前だった。

ドン・キホーテがドン・キホーテと名乗るコトにする一週間前に
馬の名がロシナンテと決まったのだが
馬に名付けるのには4日悩んで自らの呼称には1週間「も」悩んだってワケだヽ(゚∀。)ノ

アレクサンドロス大帝のブケフェルスも、エル・シードのバビエカもてんで足もとにもよりつけないと思われた。

とドン・キホーテの眼には映ってたらしい。(゚д゚lll)ギャボ

ブケフェルス・・・スペイン語だとそうなのかな、ブケファラス、ブーケファラス、ブケパロス・・・そんな読み
オリバー・ストーンの『アレキサンダー』では理想的なブケファラスだったな(*^^*)

バビエカは『エル・シードの歌』に出てくる英雄的騎士エル・シードの愛馬・・・らしい
とゆーのも原著の『エル・シードの歌』が未読だからだが
同じ題材を扱ったコルネイユの戯曲『ル・シッド』なら持ってるし
チャールトン・ヘストン主演の映画『エル・シド』もソフィア・ローレンのために買った
しかしバビエカの名には覚えがナイのである。(´д`;)ギャボ

このコトでヲタを自認してた自分はセルバンテスに惨敗した悔しさに
『ドン・キホーテ』を一気読みするに至ったのだった・・・ヽ(゚∀。)ノ

フランス人のエスプリ

古代ギリシアのヒポクラテスより中世に至るまでの西洋医学では
人体には血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁の4種類の体液があり
人の気質はその配合割合に因るとされてた

ヒポクラテスの西洋医学序説 (地球人ライブラリー (026))
エスプリとユーモア (岩波新書)

4種の体液が正しい比率で配合されてれば完璧とゆーか健全てワケだが
そんな人は稀で、たいていはどれかが優位を占めてるるる~

この体液がラテン語でhumor(フモール)で医学用語だったが
ルネサンス期のイタリアで、劇中人物の一貫した気質の特性をumore(ウモーレ)と呼び
これがエリザベス朝においてシェイクスピアが嫌悪するhumourとなったw

以上、河盛好蔵の『エスプリとユーモア』を参考に
英語圏でのユーモアの由来をまとめてみたが
実際ユーモアの定義は曖昧模糊としてて
英語のwitや仏語のesprit(エスプリ)、また仏語のhumeur(ユメール)と
一緒くたにもできナイが厳密に分け隔てをするのも困難だ

しかし、これがフランス人のエスプリだ、と直観できたコトがあった

【フォト/写真 5x7】 ソフィア・ローレン #7 (12.5x17.5cm) エル・シド

モーパッサンの短編『ロンドリ姉妹』を読んでて
コルネイユの悲喜劇『ル・シッド』の台詞が出てきた時だ

苦もなく敵をうち負かしても、そうした勝利は誇るにたりぬ

第二幕第二場でのこの台詞はおそらく慣用句的な言い回しなのだろう
ちなみに上記はすごく゚+.(・∀・)゚+.゚イイ訳で名台詞になってるが
自分の持ってる『ル・シッド』は下記のような訳だった

危険を冒さずに勝ったとて、そんな勝ち目は自慢にもならない。

とにかくこの台詞を吐くのは主人公の男で
これを否定的に使用して以下のように結んでる

ぼくのばあいは、危険を冒すだけの価値はじゅうぶんあると思うがね

これは旅先で拾った女を攻略するかどうか、連れの友人と議論してる場で
友人が先に目を付けた女だのに主人公の方を選んだので
「あの女はあばずれだからやめておけ」と友人が嫉妬交じりに忠告するのに対して
「そんなコトはナイ、陥落する価値のある女さ」と主人公が言い返してるのだ

名台詞をワザと差し挟んでるトコロが心憎い!
この心憎いカンジこそがフランス人のエスプリなのだな~、と!!

とはいえ、『ル・シッド』でこの台詞がどんな風に使われてるのか知らなければ
どの辺が心憎いのかはわからんて。(´д`;)ギャボ

要はエスプリてのは知らなければわからナイ可笑しさで
しかもその場でどこが可笑しいのか改めて説明するのは憚られるような題材を
可笑しさのエッセンスに使ってるモノなのだ。(゚д゚lll)ギャボ

でもそこがわかっちゃった瞬間って、快感・・・ホゥ(*-∀-)

そうしてエスプリの快楽(エスプリを愉しむ感覚)を求めて
中毒患者のようにエッセンスになりそうな題材を貪り読むようになったw

それにしても『ル・シッド』自体は
ネタバレしてようがどうしようが読む度に可笑しいので
あらすじを追ってみると・・・

舞台はスペイン
父親を侮辱された息子ロドリグは仇を討ちに伯爵のトコロへ

しかしここへきて初めて真剣勝負をするロドリグなんぞは
腕自慢の伯爵にとっては戦う価値もナイ相手であり
絶対に勝てる相手に返り討ちをしても名誉にならナイ、と
ロドリグの負けを見越して伯爵はのたまう

ところがなななんと~!
奇跡的に父親の仇が討ててしまったロドリグだった。(゚д゚lll)ギャボ

そうなると今度は伯爵の娘シメーヌにとって
ロドリグ自身が仇と目されるようになってしまうのだが
実はシメーヌとは恋仲だったりして・・・。(´д`;)ギャボ

これがシェイクスピアなら
恋人同士が『ロミオとジュリエット』の如く恋愛を貫き死に至り
さながら天国の悲劇になるのだろうが
コルネイユはスペインを舞台に『ドン・キホーテ』よろしく
恋人同士が真剣に悲恋を全うしようとするほど
地獄の喜劇に見えるように仕立て上げてしまったのだった
いや、あくまでもコルネイユ自身はマジで悲劇として書いたのだろうが(゚*゚;)

なんせシメーヌは家の名誉を重んじて仇討ちを果たす決心を曲げず
愛するロドリグを自らの手にかけようとし
その決意を口にするシメーヌに対してロドリグも
仇討ちを果たさせようと必死ヽ(゚∀。)ノ

悲運に見舞われた若き恋人たちの気持ちを察した周囲の人間は
なんとか仇討ちを果たさせまい、と説得するのだが
2人とも度が過ぎるほど頑固に拒み続け
シメーヌは涙ながらに「家の名誉のために仇を討たねば!」
ロドリグもこれに従いいきり立って「首を捧げます!!」
最後には国王が「2人とも思いとどまるように」と命令を下すのだった

そんなやりとりの内容は確かに悲劇的なのだが
ロドリグとシメーヌが真剣になればなるほど喜劇的に感じられたのは
家名を重んじるために命をかけたりしナイ現代日本庶民だからで
モーパッサンにしても革命後の近代フランス人で
コルネイユの時代の国家に忠誠を尽くすような生真面目さは
もれなく滑稽に感じられたのだろう

作中人物と作者が2重構造で可笑しさを倍増ししてるのが
更にダブって倍増し後にやっと笑いが自分に巡ってくるとゆー
その厚みのある可笑しさには単なる笑いを通り越して
何か崇高な快楽のような快感を伴うのだが
この感覚を起こさせるのがエスプリってヤツに違いナイp(-_-+)q

ところでモーパッサンの紀行『水の上』には次のような一節がある

 イギリス人やドイツ人は、必ずしもわれわれの洒落を理解しないのに、なぜ、フランス人は、みんな笑うのか?なぜか?それというのも、ひとえに、われわれが、フランス人であるからであり、われわれが、フランス人特有の知性をそなえているからであり、われわれが、笑いという、愉快な性能を持っているからである。

われわれの洒落=エスプリ、か?