人間は考える葦である

人間は考える葦である

この有名なフレーズは
パスカルの『パンセ』断章347にある

考える葦(ROSEAU PENSANT)

人間の比喩になぜ【葦】なのか
日本人なら釈然としナイのがフツーだろう

L’homme n’est qu’un roseau, le plus faible de la nature; mais c’est un roseau pensant.
(人間は、自然のうちでもっとも脆い葦でしかない。しかし、それは考える葦である。)

なんて言われても
日本人の常識では【葦】は最も弱い植物ではナイ

【葦】と言われて日本人が思い起こすのは
軒先にぶら下がってたり、立てかけてある簾だろうて
その繊維質は弱いドコロか
強靭にさえ感じられるはずだw

それなのにパスカルの言を鵜呑みにして
賛同しちゃってる人もたまにいるし
中には「パスカルの比喩が甘い」なんて
バックグラウンドを推し量るコトなく
頭ごなしに非難してる輩までいて
YAHOO!知恵袋なんかで答えられてる殆どが
見当違いで失笑モノだったりするが
科学的に、理性的に、要するにまともに考えれば
【葦】より弱い生物なんて、他にもいくらでもいるし
そんなのパスカルも承知してるってヽ(゚∀。)ノ

なぜパスカルはあえて【葦】としたのか?

先に答えを言ってしまえば
キリスト教圏では単に
聖書に倣って人間を【葦】に例えてるので
パスカルもその慣例に従っただけだ

つまり、【葦】を人間に擬えるのは
ユダヤ(※)民族起源なので
換言すれば、【葦】を脆弱たらしめてるのは
旧約聖書成立以前のユダヤ人の感性なのであるるる~
現代日本人に合点が行くワケナイのだ。(´д`;)ギャボ
ヘブライもイスラエルも同義(使用する地域や時代で呼称が変わる)

但し、信者かどうかは別にしても
聖書の記述の真意を理解しようと努めて読んでれば
そういうモノなのだ、と刷り込まれてしまう

自分も信者ではナイが聖書は愛読書なので
旧約聖書の預言で人間を
【傷ついた葦】と表現してたり
イエスが群衆を愚弄するのに
【風に揺れる葦】と形容してるのは
合点は行かずとも
そういうモノと納得はしてたし
キリスト教圏の民であれば
もうそこに違和感を覚える余地もナイのだろう。(゚д゚lll)ギャボ

パスカルと同じく仏語圏のモーパッサンは
『メゾン テリエ』でお祝いに集まってきた人々を

そよ風にゆらぐ葦

としてて、原典のフランス語では次のようにあった

comme des roseaux sous la brise

comme:~のような
brise:弱い風(通常の風は vent で brise はそれより弱い風)

余談だが
風があえてそよ風なのは
これはモーパッサンにしてみれば(※)
vent では喧噪の只中の群衆のようだから
お祝いにかけつけた人々の心情に相応しくなかったので
brise としたのではなかろうか?
訳は杉捷夫

遥かに狂乱の群を離れて〈1〉 (昭和初期世界名作翻訳全集)遥かに狂乱の群を離れて〈2〉 (昭和初期世界名作翻訳全集)

喧噪の只中の群衆、と言えば
トマス・ハーディの『Far From the Madding Crowd』では
混雑した中で押し合いへし合いする群衆を

風に揺り動かされる芦(あし)のやうに揺られながら(※)

と表現してて、原典の英語がどうだかは不明だが
慣用句的な使われ方なのは想像に難くナイ
昭和初期世界名作翻訳全集なので旧かな遣いなのだ(訳者は英文学者宮島新三郎)
タイトルも『遥か群衆を離れて』が一般的だが、これは『遥かに狂乱の群を離れて』

ん(゚ ゚;)?!

改めて気づいたが、このタイトルの
『Far From the Madding Crowd』って
ユダヤ人に言わせれば
「荒野の葦原より遠のいて」なのか?!

☆・・・☆・・・☆

ラ・フォンテーヌの寓話の中に
『樫と蘆(あし)』てのがあって
頑丈な樫の木が自信満々で
何があってもびくともしナイ、としてて
鳥が留まったり風が吹いたりしただけで
たわんでしまう葦を
冒頭では憐れんでるのだが
最期には暴風によって
葦はいつものようにたわんだだけだったが
樫は根こそぎ倒れてしまった
と、そんな話だった

☆・・・☆・・・☆

それにしても葦、芦、蘆、葭・・・
葦の字は色々あるのだな

Les Provinciales

世界を司ってるモノが
神であろうが
自然の摂理であろうが
何だって構わナイし
どうせその答えは人類には出せナイ

ただ切に願わずにはいられナイのだ
世界は美しくあるべき、と

☆・・・☆・・・☆

パスカルはキリスト教信者だった(※)が
宗派としてはジャンセニスム(ヤンセニスム)で異端であり
ローマ・カトリック教会の中でもジェズイット教団(イエズス会)は
ジャンセニストに対して攻撃的だった
23歳の時に第1の回心、31歳の時に第2の決定的回心

ローマ教皇歴代誌

ローマ・カトリック教会はローマ教皇庁を頂点にした権威主義的な組織だが
その最高権威者たる大司教は単純に考えて神に任命されたワケではナイ
そんなコトは信者だってわかってる・・・はずヽ(゚∀。)ノ
それでも神の代理機関としてヨーロッパ中で認知されてたので
神の名を騙って異端審問を行ってた

この「審問」てのは「裁判」とは違って
異端審問を受ける=既に異端者として見做されてる、なので
受けたら最後、何らかの刑罰からは逃れようもなく
まあほとんどの場合は火炙りにされたのだが
要するにローマ・カトリックが中世より権威を保ってきたのは
教会にとって都合が悪い真実を述べてる人間を
悉く惨殺するコトによってなのだよ。(゚д゚lll)ギャボ

そういうローマ・カトリックのやり方がどうにも虫が好かナイ自分は
それでキリスト教自体にも懐疑的にならざるを得なかったが
パスカルはキリスト教そのものや神(至高存在)は是認してたので
正しい信仰の在り方を希求した結果として
ジェズイットとは反目するようになったのであって
消去法的にジャンセニストの側についた、という見方が正しいと思われ

それとゆーのも、パスカルが所属してたパリのポール・ロワイヤルは
当時のフランスにおけるジャンセニスムの本拠地だったので
これを目の敵にするジェズイットの攻撃が不可避で
パスカル自身が格別にジャンセニスムに傾倒してなかったとしても
ジャンセニスム擁護の立場におかれてたのだ

パスカルはジェズイットの攻撃に対する回答をまとめて
『プロヴァンシャル』として匿名で出版したが
ジャンセニストを代表してのパスカル名義ではナイコトや
論旨が必ずしもジャンセニスムに忠実ではナイコトからしても
単にジャンセニストとして十把一絡げにしまうのは憚られるのだが
キリスト者としても決して不寛容な妄信の徒ではなく
理性的に、時には科学的にさえ、考えてる

だって人間は【考える葦】だよ・・・。・゚・(ノД`)・゚・。
from パンセ by パスカル

自分は無神論者だが
パスカルが無神論者を嘆く気持ちが痛いほどよくわかるのだ

通常であれば、信者は信仰が定めた世界観が正しいと思い込んでて
その世界観に疑いを抱く非信者を間違ってると見做し
自身は神に従順な正義なので、反駁する相手を悪(魔)だと決め付ける

パスカルは押し付けられた世界観をそのまま享受してるのではナイ
世界がどう(美しく)あるべきかを吟味した上で
思い描くようになった理想郷があり
そこを神が支配してて欲しい、と願ったのがパスカルで
自分は反対に、そこで偽りの神を祀るべからず、となるワケだw
なんせ宗教の存在こそが争いとその後の悲劇の原因なのは
有史以来の歴史が明らかにしてる史実だwww
しかしパスカルに言わせれば
良心のありかは神の存在なくしては成り立たナイ
つまり、非道をやってのける者は神を畏れずにいるためにやってしまう
そんな前提で「良心を持ってて欲しい」=「神を信じて欲しい」だとすれば
無神論者の自分も=の前の部分には共感できてしまうのだが(-_-;)

と、ここまできてからなんだが
ジェズイットにしろ、ジャンセニスムにしろ
そもそもキリスト教からして日本人には馴染みが薄いかもだな。(´д`;)ギャボ

ジェズイット(ヤソ)会士は厳格な男子修道会で
平たく言えば修業を積んだら僻地へ布教に行く派遣員の候補者で
日本に布教に来たフランシスコ・ザビエルも
この教団の創始メンバーだった

聖フランシスコ・デ・サビエル書翰抄 上巻 (岩波文庫 青 818-1)聖フランシスコ・デ・サビエル書翰抄 下巻 (岩波文庫 青 818-2)アウグスティヌス講話 (講談社学術文庫)

ジャンセニスムは人間を罪重く非力な存在と貶めて
神の恩寵なくしては救われナイ、としてるのだが
これはオランダの神学者ヤンセンの著書に端を発してて
そのタイトルの『アウグスティヌス』てのは
若き放縦の日々への悔恨に苛まれ続けたヒッポの司教の名だ

Pensées

17世紀フランスの幾何学者パスカルの著書『Pensées(パンセ)』は
仏語で「思想」「思考」の意だが『パンセ』としたのはパスカル本人ではナイ

NHK「100分de名著」ブックス パスカル パンセパスカル『パンセ』 2012年6月 (100分 de 名著)

そもそも『パンセ』はパスカルの死後に出版されてて
『筑摩世界文学大系【13】デカルト パスカル』の「年譜」によれば
パスカルが『キリスト教弁証論』の構想に着手し始めたのは
34歳頃(1657年)だったのだが
その2年後には酷い衰弱状態に陥ってしまい
39歳の時(1662年)にはこの世を去ってしまってる

その『キリスト教弁証論』の遺稿(断片的なメモも含めて)が
『パンセ』として幾通りかに編纂されたのだが
パスカルが生き長らえて完成させてれば
『キリスト教弁証論』として出版されたはずだ

『パンセ』はそんな成立の事情により
各断章に割り振られた番号も全体の構成も版(編纂者)によって違い
どれもがパスカルからしたら不本意で
一旦書いても二重線で消してたりする部分が
そうしてあった、と断り書きをしながら載せられてたりもして
要するに未完の原稿が書きかけの状態のまま出版されてるのだから
当人からしたら冷や汗モノなのではなかろうか(;つД`)

しかし『パンセ』出版から300年以上を経た現代では
ブランシュヴィック版が一般的なようで
日本でも殆ど総てこの版の訳だと思われるが
それは最も合点がいく編集がなされてるからだろう

例えば「考える葦」についての記述がある2つの断章が
[347]及び[348]と連続してる(※)のは
なんとブランシュヴィック版だけだったりするのだヽ(゚∀。)ノ
例えば、ザカリー・トゥールヌール版が[183][107]
ルイ・ラフュマ全3巻が[200][113]、ルイ・ラフュマ完全版が[391][217]

ブランシュヴィック版の構成は以下だ

章(編) 松浪信三郎訳前田陽一と由木康の共訳断章番号
第1章精神および文体についてのパンセ精神と文体とに関する思想[1]-[59]
第2章神を持たない人間の悲惨神なき人間の惨めさ[60]-[183]
第3章賭の必然性について賭の必要性について[184]-[241]
第4章信仰の手段について信仰の手段について[242]-[290]
第5章正義、および現実の理由正義と現象の理由[291]-[338]
第6章哲学者哲学者たち[339]-[424]
第7章道徳と教理道徳と教義[425]-[555]
第8章キリスト教の基礎キリスト教の基礎[556]-[588]
第9章永続性永続性[589]-[642]
第10章象徴表徴[643]-[692]
第11章予言者預言[693]-[736]
第12章イエス・キリストについての証拠イエス・キリストの証拠[737]-[802]
第13章奇蹟奇跡[803]-[856]
第14章補遺、論争的断片論争的断章[857]-[924]

☆・・・☆・・・☆

パスカルの生きた時代(17世紀のフランス)は
ルネサンス(16世紀)と理性の世紀(18世紀)の間だった

ヨーロピアンの精神的支柱であるキリスト教が
中世の暗黒から抜け出て、ルネサンスの光明に曝され
不明瞭な部分を神に委ねずに解釈する人間が台頭してきたが
そんな先進的な思想を持つ先達にモンテーニュとデカルトがいた

2人ともパスカルと同じくフランス人だったが
モンテーニュはパスカルより一時代前に
デカルトはパスカルより一世代前(パスカルの父と同年代)に
キリスト教に対して真っ向から挑むような著述をした

それらがパスカルに『キリスト教弁証論(パンセ)』を書かせた
とゆー見解は『パンセ』を一読すれば瞭然で
とにかくモンテーニュとデカルトに対する反駁ばかりが目に付くのだ

なんせ自分などはパスカルの『パンセ』を読んでて
モンテーニュの『エセー(随筆)』や
デカルトの『方法序説』『省察』『情念論』を
読まずにはいられなくなったのだったw

モンテーニュとエセー (文庫クセジュ)

モンテーニュの『エセー』は
権威に対する懐疑主義的な皮肉が満載ながら
洒落のめしてて切れ味の゚+.(・∀・)゚+.゚イイ表現なのが
人文主義的美意識の高さを感じさせるので自分には好ましいが
その辺がキリスト教信奉者には疎ましいのだろう。(´д`;)ギャボ

加えて聖書の警句の引用がほとんど見当たらナイのと
それに比して古代ギリシア・ローマの哲学者の言を多用し
ましてや正論の論拠に用いてる部分も
ガチの信者には虫唾が走るような悪書の見本だったに違いナイし
実際、無神論の書として禁書扱いになってた

Que sais-je?(クセジュ?)
――我、何をか知らんや?

モンテーニュの発想はまるでソクラテスの無知の知だが
こういった節度を美徳とする古代ギリシア人気質が
分を弁えてる江戸っ子にもぐっとくるのだ

方法序説 (岩波文庫)

デカルトは前時代的なスコラ哲学をがっつり学んでて
神の存在をむしろ証明しようとしてたが
世界を神秘主義で結論付けてしまう思考停止に陥れずにいて
神の力に拠らずとも世界は成り立ってるし
そもそも世界が成り立ってるかどうか疑わしいのだが
そこを認識する際にはまず神の存在ありきではナイ
てな具合に遠回しにではあるが神を否定してしまった。(゚д゚lll)ギャボ

Cogito, ergo sum(コギト・エルゴ・スム)
――我思う、故に我在り

総てを疑わしく感じたデカルトがしたコトは
真の世界観の構築ではなく、世界の中の疑わしさの排除で
残ったのは疑念を抱く自分自身だけだったのだろうか?

キュパリッソスとヒュアキントス

1番好きな曲は『アポロン讃歌』だった

母親が来日した『ミロのヴィーナス』を1964年に観に行った際に
会場で買ってきたソノシートに入ってたフルートとハープの協奏曲で
『アポロン讃歌』と書いてあったのでそういうタイトルの曲なのだと思ってたのだ

いつの間にかこのソノシートが行方不明になってしまい
ググって見つけた『アポロン讃歌』目当てで
『古代ギリシアの音楽』なるCDを購入したのが数年前・・・
購入してすぐに『デルポイのアポロン讃歌』と『太陽神への讃歌』を聴いてみたが
自分が探してた曲とは違った・・・

珍しく落胆しつつも頭からかけ直してみると
古代ギリシアの楽器を再現して演奏してるだけあって
なんとも不思議な気分になる音楽だ
例えれば雅楽に1番近い
歌もお経ぽいw

ふと弦楽器のメロディーに捉えられて次の瞬間に震撼!
まさしく『アポロン讃歌』の主旋律だ!!
しかしタイトルは『テクメッサの嘆き』だったが・・・

そして弦楽器で奏でられると物悲しさは増して
自分の脳裏に残ってる曲の印象からだと
まだ希望の光が見えてた部分があったのだがこれは全く失われてる
途中から主旋律は打楽器に変わり陰鬱さがいや増し
悲愴感の中に置き去りにされて終るるる~

深い悲しみに包まれた『テクメッサの嘆き』ぱ+.(・∀・)゚+.゚イイ
でも自分はやはりフルートとハープのVer.の方が好ましいがね
聴き慣れてるのと失ったモノに対する哀惜を差し引いても

そして全編を何度か通して聴いてるうちに改めてはっきり認識したが
フルートの音自体が好きなのだな、自分
このCDの中ではシュリンクスとゆーパンフルート(葦笛)なのだが
金属製のモノより音に温かみがあって゚+.(・∀・)゚+.゚イイ

透明感のある美しい音色のフルートには鳥肌が立つほど感動するけど
シュリンクスは素朴な優しさに触れた時のように癒される・・・ホゥ(*-∀-)

ギリシア悲劇〈2〉ソポクレス (ちくま文庫)
夏の寓話 (山岸凉子スペシャルセレクション 6)
Ovid Metamorphoses

ところで『テクメッサの嘆き』のテクメッサは
トロイ戦争のギリシア方の英雄アイアスの妻なのだが
その嘆きはアイアスが狂気に陥って自殺してしまったコトによる・・・

アキレウスの遺物の武具をアイアスとオデュッセウスで奪い合い
まんまとオデュッセウスに出し抜かれてしまったアイアスはプライドを傷つけられ
その夜、ギリシアの武将たちを皆殺しにしてしまおうと決心したが
女神アテナによって狂気を齎されたアイアスが殺したのは
ギリシア勢でなく家畜だった。(゚д゚lll)ギャボ
正気に戻ったアイアスは笑い者になるコトに耐えかねて自決・・・バタリ ゙〓■●゙

妻のテクメッサにしてみれば夫の死はそれだけでも無念だろうが
狡猾なオデュッセウスに陥れられた末の死は納得が行かなかっただろう

テクメッサを想いながら聴けば悲愴感に加えて
生半可ではなかった憤慨や憤怒にぞっとさせられるモノがある・・・
曲の主題からはこの演奏の方が確かに的を得てるのだった

そんなワケで今まで『アポロン讃歌』だと思って聴いてた1番好きな曲は
『テクメッサの嘆き』の別Ver.だった

確かにポイボス(光り輝く)と冠されるアポロンを讃えた歌にしては
似つかわしくナイ陰鬱な調べだとはうすうす感じてたのだが
主旋律のフルートの甘やかな音色と伴奏のハープの瑞々しい響きが
その思いを撤回させ続けてきたのだった

そもそもアポロンの伝承には【太陽神】としての輝かしい英雄譚はナイ
比する者のナイ美貌と予言の能力と医術の心得と弓矢の技量と音楽の才気を持つ
神々の中でも格別に恵まれた神でありながら悲恋の物語ばかりだw

唯一アポロンの息子パエトーン(※)とのエピソードは悲恋ではナイが
最終的にパエトーンは死んでしまったし・・・
そう言えばアポロンの恋人たちは皆、死んで植物に身を変えてしまったので
沈痛な調べの哀歌が『アポロン讃歌』であるのは正しいのか?!
山岸凉子による『パエトーン』がe-BOOKで公開中

アポロンの恋人、とゆーか想い人だったキュパリッソスは
オウィディウスの『変身物語』によれば
ケオス島一の美少年であったが
いつも一緒にいた仲良しの鹿をうっかり槍で傷つけて
殺してしまい
これを嘆き悲しむ余り糸杉になり
糸杉となったかつての美少年を想って
【太陽神】アポロンは悲嘆にくれた、とある

溺愛してる無垢な動物の突然の死はそれだけで痛ましいが
ましてや自分が殺めてしまったとなれば
キュパリッソスの悲痛はいかばかりか・・・。・゚・(ノД`)・゚・。

しかしアポロンはキュパリッソスの心痛を想って胸が痛む以上に
キュパリッソスを失ってしまったコトを悲しんでるようだ
もっと的確に言えばキュパリッソスの美貌に対して惜しんでるのだ

そして同じ本によれば
アポロンの恋人だったヒュアキントスは
スパルタの美少年であったが
いつも一緒にいた仲良しの【太陽神】が投げた円盤に当たって
死んでしまい
これを嘆き悲しんだ【太陽神】は彼をヒアシンスの花に変え
ヒアシンスとなったかつての美少年を想って
【太陽神】アポロンは悲嘆にくれた、とあるが
ヒュアキントスの方はもう歴然としたアポロンの恋人であったため
悲嘆にくれてる様子も2ページに渡って描写されてるるる~

美貌の恋人の若過ぎる死はそれだけで痛ましいが
ましてや自分が殺めてしまったとなれば
アポロンの悲痛はいかばかりか・・・。・゚・(ノД`)・゚・。

ここでアポロンは最愛のヒュアキントスを失った悲しみと
その悲しみの原因が自分である無念さによって
まさに糸杉になったキュパリッソスと同じ嘆きを経験するワケだ!

この2つの変身譚は
間にガニュメデスを挟んではいるものの連続して編まれてるのは
オウィディウスが悲劇の応酬と再現による相乗効果を狙ってるのでは?!

それにしても輝ける【太陽神】であるアポロンの逸話は
どうしてこうも悲哀に満ちてるんだろうか?

そしてこの悲哀の「哀:アイ」だが
ちょうど古代ギリシアでも「AI:アイ」は悲しい際に発する言葉のようだ

こうして、この花には、「哀々:あいあい」という嘆きの文字がえがかれたのだ。

しかしヒヤシンスのどの辺がAIに見えるのかは謎だ???

また上の写真では白いが

テュロス染めの紅(くれない)よりも鮮やかな花

だったそうだ・・・
テュロス染めとはフェニキア開港都市テュロス(ティルス)の特産品の紫貝で染めた布だが
逆に言えばこの布が鮮紅色に程近い赤紫だったとゆーコトか(゚ ゚;)

余生にやりたいコトと今夜やるコト

昨年の暮れからやっと人生の課題に取り掛かるようになった
余生が30年くらいあると想定して色々やりたいと思ってるのだがw

1つは書くコト
30年来のパスカルに始まってニーチェに辿り着くまでの思索を
遡ってブログにまとめようと画策中w
ブログの形にするのにはキーを打つのだけど下書きしてるので「書く」なのだ
生活しながら生じた様々な想いを昇華したくて書き溜めてた断片だったが
これからはここまで生かしてくれた感謝の念に変えて
「書き直したい」のかな?

これについてはこのブログ内で展開してく

もう1つは編むコト
毛糸でもレース糸でもとにかく編みたい欲求が日々高まってて
編んでさえいれば至福の時なのだ
ビーズなど異素材を組み合わせて「編み込み」たいとか
編み上げた素材を提供して「コラボレーション」したいのは
「巡り会いたい」のかな?

これについてはこのブログ内から別途ブログに移行
LINK:Rose Yarn 薔薇色の糸

エウパリノス・魂と舞踏・樹についての対話 (岩波文庫)

あとは歌い踊るコトw
今までは素人が(*゚Д゚)つ[酒]の力に任せて発散するためにやってたので
笑いをとる以外には迷惑でしかナイレベルだったが
やはり歌や踊りは本来は神への捧げモノであるべきなのだ!
人間にウケるために創意工夫して作り上げるモノでなく
神(のような畏敬の念を持つ対象)に対して自らの魂の在り方を表現する手段だ!!
なので基本的にはフルートとヨガによって自室で秘かに厳かに行う・・・
呑んだらいつも通り歌い踊ってるだろうがね・・・ぉぅぃぇ(´∀`)/[酒]

これについてはブログなどには残さナイ、てか残せナイ
記憶失ってるから・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

但しどれもこれも
勤労が宿命の庶民にはなかなか・・・
きっと読みたい本も読まずに死んでくのだろう
だからこそこうして決心だけでも残しておきたいのかな?

でも【希望】以外の総てを持ってるより
【希望】しかナイ人生の方がきっとしゃーわせヽ(´▽`)/

とゆーワケで
まずは書くコトなのだがこれがすっかり滞ってしまってるるる~

考える葦(パスカル)
→聖書由来の葦にまつわる表現
→葦笛とパン
→偉大なるパンは死んだ
→神は死んだ(ニーチェ)

ニーチェとヘーゲル―ディオニュソス哲学の地下通路

そんな大まかな順序で話が進んでくはずだったが
葦笛とパンのトコロで以下のようにネタが盛りだくさん過ぎて止まってしまい
しかもいつのまにかそこからすっかり脱線ヽ(゚∀。)ノ

・ミダス王→王様の耳はロバの耳→カンタベリー(チョーサー)
・アポロンとマルシュアス→アポロン讃歌→アイアス(ソポクレス)
・ディオニュソス、バッカス→オルフェウス、バッカスの信女(エウリピデス)
・アポロンとデルフォイの神託→ピュティア→モラリア(プルタルコス)
・サテュロスとシレノス→サチュリコン(ペトロニウス)
・アポロンと美少年→ヒュアキントス、キュパリッソス(オウィディウス、ブルフィンチ)

なんて今年いっぱいはギリシア神話尽くしかと思ってたのに
なぜかキリスト教の方が先にきてしまって
トマス・アクィナスとスコラ哲学にハマったまま抜けられず今に至るるる~

・トマス・アクィナスとアリストテレス

ちょっと壮大過ぎてブログの記事にまとめようがなくなってるカンジだなw
とりあえず関連性のある過去記事を中途半端にアップしたまま
2ヵ月以上費やして何も進んでナイ。(゚д゚lll)ギャボ

しかも実際ブログ自体はまた全然違う方向に進んでもいて
『トリストラム・シャンディ』を中心にイギリス文学に向かってるぽい

ここまでくると計画通りに順序立てて書くのは無理っつ!
てか元々無謀だったのだ。(´д`;)ギャボ

そしてここへきてすっかり抜け落ちてるコトがあったのを思い出した
それは日本についての記述だ

須佐之男の原像

個人的に荒ぶる神スサノオ信奉だが
築土神社の氏子なのでニニギ信者でもある

そもそも日本は葦原中国(あしはらのなかつくに)であるからして
【葦】について考察する際には真っ先に思い浮かんで然るべきなのだよ

そういえば以前はスサノオ~ニニギ~ホオリの伝承を
簡単にまとめつつもツッコミドコロはおおいに突っ込んで
HPにアップしてあったのだが・・・今はナイのか(誰に聞いてるんだって)

サーバ上にはこれらのhtmlファイルがどこにもおいてなかったが
どこかに最低でもテキストデータとしてあるはず

今夜はまずこれらを探して明朝アップしよう

以上、七夕の短冊代わりw

チェンバロ(ハープシコード、クラヴサン、クラヴィチェンバロ)

毎朝6時から家事の合間に『クラシック倶楽部』と『新 漢詩紀行』を見てるが
今朝の『クラシック倶楽部』はがっつり観てしまった

楽器の世界コレクション1 - ブランシェのチェンバロ - 18世紀ヴェルサイユ・クラヴサン音楽の美の世界 浜松市楽器博物館所蔵の名器“ブランシェ”による [DVD]
百合の花ひらく フランスの美・ブランシェ・チェンバロ フランソワ・クープラン/クラヴサン曲集 [浜松市楽器博物館コレクションシリーズ8]

18世紀のフランソワ・ブランシェ作のチェンバロだが
これがなんと浜松の楽器博物館にあるとはついぞ知らなかった(゚*゚;)
LINK:楽器博物館

しかも木製の250年以上前の楽器が
現代に至って演奏が出来る状態にあるとはとても思えなかったのだが
館長の方のコメントでは「眠ってた」だけだったらしく
これが目覚めたワケなのだ・・・ホゥ(*-∀-)

それにしても1曲目のタイトルに驚愕!

『葦』・・・バタリ ゙〓■●゙

最近自分はどんだけ【葦】に縁があるのか(クープラン作曲)

そうこうしてる内になんとラモーの曲を!!

『アルマンド』『やさしい訴え』

逆に『ラモー』って曲もあってこれもやった(フォルクレ作曲)

チェンバロの響きは物悲しいが重くなくて、繊細で可憐だが力強さを秘めてるようなカンジ・・・
って、本トにつくづく音楽がわからナイ人間だ、自分(滝汗)

まあそうして自分はどの曲もうっとりと聴いてしまえるが
ルソーはラモーに対して批判的だ
でもどこがマズイのか自分にはさっぱりわからナイヽ(゚∀。)ノ

ルソーは音楽に長けてて『むすんでひらいて』の作曲者でもある
そんなルソーがラモーの音楽を批判するのは
ルソーが理想とする音楽からするとラモーの音楽は正しくナイ、のだろう
LINK:ルソー音楽年譜

ルソーとラモーは上記参考LINKの年譜だけからすると
音楽そのものではなく音楽の定義=音楽論、が噛み合ってなかっただけなのか?
とも思えてくるがいずれ自分には理解不可能に違いナイ

そういえばディドロの『ラモーの甥』は未読のままだが
これはやっぱ読むべきなのだろう・・・新刊売ってナイのだがw
LINK:ドゥニ・ディドロ『ラモーの甥』

ところで昨夜は仕事帰りに購入したヴォルテールの『寛容論』を読みながら
ルソーに読んで欲しい本だ、と思ってたトコロで
今朝はなんともタイムリーな番組だった。(゚д゚lll)ギャボ

ルソーはラモーともそうして音楽論でバトルしてたが著書『エミール』の中で
『ラフォンテーヌの寓話』を子供に読ませるべきではナイ、と完全否定してたりするるる~

『エミール』は教育の理想形態(自然回帰)を説いたモノだが
ラフォンテーヌは子供に読ませる理想的な内容と比較して正しくナイ、のだろう

なんせルソーは生真面目な田舎者なのだ(-_-;)
そこまでは決して悪いコトではナイが
都会の人間よりずっと清く正しく美しく生きてる自負があり
それを場を弁えずに振りかざしまくるから周囲はとんだとばっちりなのだよ

実際にはルソーが敵視するような都会人は存在しなくて
自身の妄想が人々を都会的に見せてるのだが
それに気付いてなくてカチンとくれば毒づいてしまうのだろうな
カチンとくるのも自身の無為な劣等感からだろうに・・・

ヴォルテールやディドロは都会的でも何でもなく寛容なだけなのだ
ヴォルテール曰く

寛容とは何であるか。
それは人類の持ち分である。
われわれはすべて弱さと過ちからつくりあげられているのだ。
われわれの愚行をたがいに許しあおう。
これが自然の第一の掟である。

自身も異質なれば他者の異種なるを認めざるを得ナイが
ルソーのように模範通りに生きてるつもりで
いつでも絶対に自身が正しいとゆー思い込みが激しいと
寛容になるのは悪徳に染まるより困難なのだろう。(´д`;)ギャボ

事実ルソーは理想の教育論を説きながら
自身の子は捨て子してるのだ・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

でもルソーはそうして赤っ恥を曝した後で
『告白』そして『孤独な散歩者の夢想』を執筆して
人間らしい゚+.(・∀・)゚+.゚イイカンジになってきたと思うから
それで愛しく思うのであった(*^^*)

もし同じ時代に生きてたらルソーの良き理解者として
スイスの田舎まで彼を訪ねて一緒に散歩をしながら彼の憤りを全部聴いてあげたい

お礼にクラヴサンを奏でてもらったりして・・・ホゥ(*-∀-)
こういう実直なタイプは理解を示せばきっと驚くほど素直になついてくるだろうなw
カワ゚+.(・∀・)゚+.゚イイかも♪

でもパリに帰れば
ヴォルテールの愛人でディドロを夫に持つ
なんて゚+.(・∀・)゚+.゚イイな~

ディドロとは一緒に『百科全書』の編纂の仕事をしたい
同志として共に生きて行きたい人だ

ヴォルテールとは一緒に観劇をしたい
愉しみを享受し合うのにこんなに魅力的な人はいナイ

あ~なぜ違う時代に生まれたのだろう。・゚・(ノД`)・゚・。

王様の耳はロバの耳

『王様の耳はロバの耳』と言えば
日本ではイソップ(アイソポス)寓話として知られてて
自分の世代だとミュージカルで観てたりするのだが
元ネタはギリシア神話のエピソードの1つだ

ロバの耳をした王様がいてそれを秘密にしてる
そんな前フリで物語は始まるのだが
王様がなぜロバの耳をしてるのかの説明は一切ナイのが常だ

King Midas and the Golden Touch

実は王様の名前はミダスと言い
太陽神アポロンの竪琴と牧神マルシュアスの葦笛で
演奏を競った際にマルシュアスを応援してて
マルシュアスが負けたので
お前の耳はおかしい、そんな耳はこうしてやるるる~
と、アポロンによってロバ耳にされたのだった。(゚д゚lll)ギャボ

アポロンはオリュンポスの12神に数えられてる神で
言わば神々の中でも代表格なのだが
それに比して、牧神マルシュアスは「神」の字は付くが
酒の神ディオニュソス(バッカス)の従者でしかなく
この勝負は音楽自体よりも演者の格からして
奏ずる前から勝負が決まってる気がしなくもナイ
ましてやアポロンは太陽神で音楽の神でもあるのだからして!

なので、完璧主義者のクラシックの演奏家に
快楽主義者のロック・ミュージシャンが挑むようなモノだが
それにしたって負けたマルシュアスの生皮を剥いだり
応援してた人間をロバ耳にするとは酷いp(-_-+)q

まあアポロンは人でなく神なので
むしろまさに「人でなし」なんだがなw

この挿話の教訓てのは
ロバ耳にされたミダス王は単なる聴衆でしかなく
一国の王ではあっても
音楽に関しては素人でしかナイのだから
彼に許される音楽に対する意見は
好きか嫌いかの個人的見解の範疇までで
間違っても第三者的に「評価」をしてはいけなかった・・・
そういうコトなのかね?

ギリシア神話では神に対して人間は一律に低位の存在で
人間社会での地位や名誉を得て
驕りや不遜を抱いてる者は
手厳しい制裁を受ける憂き目に遭う

音楽の神アポロンの完璧(なはず)の演奏より
牧神=山羊男のマルシュアスの方が劣ってる(はず)
なのに、たかが人間ごときが
その歴然とした勝敗に口出しをするのはタブーだったのだ

具体的にどんな演奏だったのかは不明なので
実際に聴いて自分がどちらを好むかは
自分自身にもわかりかねるがね
なんてのは現在日本人だからほざける戯言なのだよ(-_-;)

個人的にはアポロンは格別に好きな存在なので
その演奏を聴ける機会に恵まれたとしたら
それだけでもう拝んでしまうしかナイし
どれほど優美な旋律なのか
想像してるだけでも陶酔できる・・・ホゥ(*-∀-)

でも少々酔いどれのマルシュアスの調べに合わせて
くるくると回って陽気に踊りながら呑むのも
愉快そうだとも思われ♪

絶対的に優れてるのはアポロンだとしても
自分はマルシュアスにも好感が持てるかもしれナイので
ロバ耳にされたミダス王には同情を禁じ得ナイね

想像するにミダスは
王様だけあって育ちが良過ぎたのだろう
プライドの高い相手を憤慨させてしまうと無駄に恨みを買うだけ
そういう苦い経験をしておらず
畏れずに素直な感想を言ってしまったのだろう
それにしたってアポロンは横暴過ぎるがな・・・

自分は音楽に関しては
よく言えば音痴で、はっきり言えば音感なんか全然なくて
曲の出来の良さなんてのはまるでわからん人種だ

それでも音楽に対して歴然とした嗜好があるのは
音楽を構成してる要素以外の部分で
ぶっちゃけ、好感持てるかどうか、だけで選別してるるる~

ノリやすい調子の良さに踊ってみたり
うっとりとしてくるような繊細さや可憐さに目を瞑って心酔したり
心の中を白南風が吹き抜けるような清々しさに一緒に歌ってしまったり
反対に心の中の澱を吹き飛ばす破壊力に合わせてヘドバンしたり
そうして気に入った曲を物凄く愉しんではいるが
絶対音感ある人や音楽が理論的に解かる人には
こういう感覚ってあるのかナイのか
なかったとしたら謎なんだろうか?

ミダス王がどれほど音楽を聴き分けられたのかは不明だが
聴き分けられナイ人間には音楽を愉しむ価値もナイと
その権利を奪うのは音楽の神として正しいんだろうか?!

古代ギリシアではこの物語が
教訓を知らしめる説話としてあったらしく
驕り高ぶり、神に逆らったり
賢者に物言う者は必ずや罰が下り
マルシュアスのように生皮を剥がされたり
ミダスのようにロバ耳にされたり
そんな悲惨な目に遭うと・・・
それにしても戒めの域を超えた残虐さだが。(´д`;)ギャボ

だいたいにおいて演奏する人間(もしくは山羊男)は
何のためにそうして素晴らしい音を奏でるのか?

奏者自身も含めて
その演奏が必要だからで
なぜ必要なのかは癒しとなるからだ
愉しむのも愉しむコトによって最終的に得てるのは癒しなのだ

悲劇の誕生―ニーチェ全集〈2〉 (ちくま学芸文庫)

ところで上記のアポロンとマルシュアスの奏でる音の対比は
ニーチェの言うトコロのアポロン的、ディオニュソス的と置き換えるのは早計だが
プルタルコスの『モラリア【5】』に収録されてる「デルポイのEについて」に
素晴らしい見解の引用の記載がいくつかあり
それによって自分の想像が全く見当外れだと気がついた(滝汗)

エウリピデス

ステシコロス

ソポクレス

ところでジェフリー・チョーサーの『カンタベリー物語』の
「バースの女房の話」の中にこのロバ耳の王様のエピソードがあるが
チョーサーは王様の秘密を唯一知ってるのは床屋でなく奥さん(王妃)としてて
壺ではなく泉の水中に告白してしまうとしてるるる~

しかもこの挿話の続きはオウィディウスを参照するように促してて
こちらは通常通りに秘密を知ってるのは床屋で
掘った穴に秘密を漏らすとその穴を埋めた後に葦が生えてきて
その生えてきた葦が風にそよぎながら囁いて秘密をばらした、としてる

また【葦】なのかヽ(゚∀。)ノ

アポロンの竪琴とマルシュアスの笛

なかなか核心に辿り着けずにいるが
アポロンとディオニュソスは実はこのブログのテーマ(なはず)で
そこにこのブログのタイトルにある【葦】が複雑に絡み合ってるのを
解いているのかむしろより一層こんがらからせてるのか?!

実はギリシア語で【葦】とある場合には
植物以外に弦楽器の駒(ブリッジ)を指すのだそうだ
(我ながら後出しジャンケンみたいな話題の振り方だがw)
とか言いつつも自分は弦楽器には全くの素人なので
それは例えばギターだとどの部分なのか指差せっても無理っつ・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

でもググったらわかりやすい画像が見つかった♪
しかも(少年ダビデのハープ)とあり『旧約聖書』に登場するダビデ王の竪琴か?!
LINK:おもちゃのハープ♪
→記事中ほどに竪琴の部位名称及び解説の画像が(*^^*)

しかしながらダビデは紀元前1000年頃の人なので
このダビデのハープは洗練され過ぎてるのではなかろうか?

ヘルメス(メルクリウス)が拾った亀から竪琴を作った、てのは神話にしても
そういう神話が生まれたのは古代ギリシアでは竪琴と言えば
亀の甲羅製の弦楽器だったからなのでは?

よく知らナイで購入したCD『古代ギリシャの音楽』には
古代ギリシアの楽器を再現して演奏してて
ブックレットに写真が載ってた

phorminx:ポルミンクス(フォルミンクス)

lira:リラ(リュラ、もしくはリュレ)

ついでに名前からしてギターの原型となったぽいkithara:キタラ

アポロンやオルフェウスの持ってた竪琴は
後代の絵画や彫刻で見る装飾過多の華美なモノのはずがナイよな。(´д`;)ギャボ

アポロンの竪琴は牛泥棒の見返りにヘルメスから譲り受けてるので
間違いなくヘルメスが拾った亀から作ったモノのはずで
ややこしいコトにオルフェウスの竪琴も
父(とゆー説もある)アポロンより与えられてるらしい

つまり3つとも同じ竪琴なのだろうか・・・竪琴パラドックス。(゚д゚lll)ギャボ

さて
生まれたばかりのヘルメスが揺籃を抜け出して
亀を拾って中身を抉り出して竪琴を作り
アポロンの牛を盗んではシラをきり
バレても竪琴を与えてごまかし
人の゚+.(・∀・)゚+.゚イイアポロンから錫杖までもらう
そんな一部始終が岩波文庫抄訳版『四つのギリシャ神話―ホメーロス讃歌より』
「ヘルメースへの讃歌」にある
LINK:「ヘルメース讃歌」

この「ヘルメース讃歌」中の竪琴の作成手順の冒頭には
葦の茎を~、とあってあえて【葦】と訳してるくらいなので
ブリッジとして使われてるパーツのコトではナイらしいが
だとするとどの辺に使われてるのかも不明瞭だw

とにかくヘルメスは亀で竪琴を作る際に葦を使ってるるる~
更に通説では葦笛(シュリンクス)は牧神が作ったとされてるが
「ヘルメース讃歌」では葦笛もヘルメス作だとしてるるる~

まあいずれにせよ
葦はそうして楽器に事欠かナイ植物だったのだ、実は!

だからアポロンの竪琴と牧神マルシュアスの笛と
どちらが優れてるかなんて競い合いをしてアポロンが勝ったが
(そりゃあ音楽の神が負けたらマズイワケで)
所詮は葦を使って作られた原始的な楽器同士だったのだな

しかも牧神の笛はシュリンクスに相場が決まってると思ってたが
マルシュアスの笛はアウロス(もしくはアウルス)で
『ホメーロス讃歌』の「ヘルメース讃歌」でアポロンは
マルシュアスの吹くアウロスとヘルメスが吹くシュリンクスを比較して
シュリンクスの方が優れてる、とのたまってるのだった

アウロスはシュリンクスより先に存在してて
縦笛で2管笛でオーボエとかと同じくダブルリードだそうだ
画像の真ん中のがアウロスだろう
LINK:英語のWikipediaのAulos

シュリンクスの方は恐らく[葦舟と葦笛]にあげたラウネッダスに類似と思われ
3管笛でクラリネットと同様シングルリードだ
LINK:英語のWikipediaのLauneddas

ミダース王 (CenturyBooks―人と思想)

とか書いてはいても自分のように楽器に疎い人間には
詳細を辿るほどアウロスとシュリンクスの差異に実感が湧かナイのだが
牧神マルシュアスの吹くアウロスはアポロンの爪弾く竪琴に敗北し
それだけでは済まず木に吊るされて皮を剥がされてしまい
マルシュアスの方が勝者としたミダス王はロバの耳にされてしまう。・゚・(ノД`)・゚・。
このブログにはあえて掲載せずにおくが
「Marsyas」で画像検索すれば凄惨な場面が嫌になるほど出てくる(゚*゚;)

ところでこの牧神マルシュアスだが
マルシュアスてのは名前でその実体については
オウィディウスは牧神サテュロスとしてるが
ブルフィンチは牧神パーンとしてて
マルシュアスが仕える神も前者はバッカスで後者はディオニュソスだ

ギリシアではディオニュソスとパーン
ローマ(つまりラテン語)でバッカスとサテュロスで
ニーチェがディオニュソスと言うのは
ドイツ語がラテン語由来でナイからと勝手に思い込んでて
シンパの自分もニーチェに倣ってディオニュソスを使ってたが
改めて調べてみると各国語で混在してるのでどちらでも構わナイようだ

酒の神ディオニュソス(バッカス)に仕える牧神や巫女は
酒宴で神に音楽と舞踊を捧げるのだが
この様子をモチーフにしたバレエ(音楽)があり
バッカスから転じて仏語でBacchanales(バッカナール)だ(他国語も類似)
余談だがカフェのオーバカナルの店名の由来はこれだ♪

牧神の午後

フィギュア・スケートの1番好きな女子選手カロリーナ・コストナーが
『牧神の午後への前奏曲(プレリュード)』を演じてた

筑摩世界文学大系の43巻には
ステファヌ・マラルメの『L’Aprés-midi d’un Faune』が
鈴木信太郎訳で『半獣神の午後』(※)となってるが
マラルメのこの詩からインスピレーションを得て
ドビュッシーが『牧神の午後への前奏曲』を作曲して
これに振付けて踊ったのがニジンスキーの『牧神の午後』で
フィギュア・スケートでも演じられるようになった
「半」も「獣」も「神」も旧字

牧神の午後 (MFコミックス ダ・ヴィンチシリーズ)

付け加えれば山岸凉子がニジンスキーの伝記を『牧神の午後』とゆー少女漫画にした(*^^*)

牧神の午後 マラルメを読もう (慶應義塾大学教養研究センター選書)
ギリシア・ローマ神話―付インド・北欧神話 (岩波文庫)

オウィディウスの『変身物語』や
これに倣ったブルフィンチの『ギリシア・ローマ神話』によれば
牧神パンはニンフのシュリンクスに欲情して追いかけ
逃げ場を失ったシュリンクスは水に飛び込んで葦に姿を変えてしまった
パンが諦めきれずにこの葦を手折り残念がって溜息を漏らすと
振るえる葦から美しい音色が奏でられたので束にして葦笛を作成した
葦笛をパンの笛とかシュリンクスと呼ぶのはこのためだ

これが葦笛の起源とされてるのだが
なぜか発明したのはパンでなくメルクリウス(ヘルメス)だとされてたりする

オウィディウスは(ブルフィンチも)これを独立した物語でなく
「ヘルメスのアルゴス退治」と結び付けてて
身体中に眼があるアルゴスを眠らせるためにヘルメスが寝入り話をする筋立てで
その寝入り話の内容こそがこのパンとシュリンクスの挿話なのだが
とゆーコトはヘルメスはパンが葦笛を発明する様子を見てたのだろうか?
それなら正しくは発明者でなく発見者なのか?

ちなみにこの「ヘルメスのアルゴス退治」は
ギリシア神話の定番ネタとも言うべきゼウス(ユピテル)の浮気に始まる(苦笑)

浮気相手は正妻のヘラ(ユノー)に遣える美少女イオで
ゼウスは欲情のままに襲ってしまうのだが(実害があるだけにパンよりタチが悪いよなw)
ヘラにバレそうになると往生際の悪いゼウスはイオを牛に変えてまでシラをきる。(゚д゚lll)ギャボ

ヘラは女のカンなのか牛に姿を変えたイオを所望し
疑念を晴らすためゼウスは仕方なく牛のイオをヘラに与えたが
牛の姿で草を食むイオが可哀想になってきて
ヘラから牛を盗むように息子のヘルメスに言いつける。(´д`;)ギャボ

しかしヘラはまたしても女のカンなのか身体中に眼があるアルゴスに牛を見張らせたので
さすがのヘルメスもそんな怪物相手では盗む隙がなく
まずは葦笛を吹いてうっとりさせながらアルゴスに近寄って葦笛の起源について語り始めると
まもなくアルゴスが身体中の目を閉じて眠ったので
ヘルメスはその首を切り落としてまんまと牛を盗むのに成功!
と思いきや牛は逃亡!!

哀れなイオは牛のまま各地を彷徨う破目に陥るのだったヽ(゚∀。)ノ

しかしアポロドーロスの『ギリシア神話』では葦笛の起源はなくて
ヘルメスはアルゴスに石を投げつけて退治してたりして・・・

またヘルメスが葦笛の発明者とされてる話ではこれをパンに譲り受けたのか真似て作ったのかは謎だが
アポロンのケーリュケイオン(魔法の杖)と交換してるるる~

そもそもヘルメスは竪琴の発明者でもあるのだが
それとゆーのもヘルメスはアポロンから牛を盗んで牛を返す代わりに竪琴を作って与えたのだったw
そうして葦笛と竪琴をもらいうけたアポロンが楽人の神になり
ヘルメスは職人と商人の神となったが牛を盗んだので泥棒の神ともされるのだった
そういえばヘラからも牛を盗もうとしてた・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

『牧神の午後』は牧神パンがニンフのシュリンクスに欲情して
追いかけたが逃げられてやり損なって残念がってる、そんな午後・・・
って概略を述べたらミもフタもナイ話だったりするのだが
これがマラルメの詩で表現されると実に甘美な出来・・・らしい!
仏語を解さナイのでどの辺がどう、とかは言えナイがポール・ヴァレリーがそう絶賛してるし
ドビュッシーやニジンスキーなど異分野のアーティストに創作意欲を湧かせてるし
それだけでマラルメの霊感の威力は語るに及ばず・・・ホゥ(*-∀-)

しかしながらマラルメ自体が難解な上に鈴木訳がこれに輪をかけた冷や汗モノの難解さで
眉間にシワを寄せて口をへの字に結んで頭から「?」マークを放出しながら
読んでも読んでも一向に理解し得なかったり・・・バタリ ゙〓■●゙

他の詩人ならたいてい旧訳の方が断然好きなので
わざわざ新訳を読む気は起きナイのだが
もう少し解り易い新訳を読んでみたい気もしたりして(苦笑)

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そう言えばQUEENの『I Want to Break Free』のプロモ・ビデオでの
フレディ・マーキュリーのパロディ版『牧神の午後』はどういう意味なのか?
単にフレディがニジンスキーを模したかったんだろうか(-_-;)???

今だったらマラーホフ辺りが踊るなら観てみたいが
ググってみたら既に来日してニジンスキーの振り付けを完璧に再現してたとか・・・
とゆーコトは物議を醸した腕立て伏せの振り付けを
つまり「ニンフが残してった衣を使って自分で埒を開ける」のもやっちまったのか?!

ブラボー、マラーホフ!!
とはいえその素晴らしさはいかんせんわからん!
オスの自慰の切なさがわからんと無理なのだろうか?

葦舟と葦笛

『古事記』では冒頭の国産みの時に最初に産まれた蛭子が葦舟で流され
『旧約聖書』でもモーセが流されたのは葦舟だった

と表記されてる日本語訳を信じてたがモーセのはパピルス製であったコトが判明した

古事記 (学研M文庫)
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パピルスは『聖書植物大事典』によればカミガヤツリと言うくらいでカヤツリグサ科だが
葦はイネ科で全くの別物であるるる~

葦は高さ2~6mで茎の太さは1cm程度だが
パピルスは高さ4~5mで茎の太さは最大6cmにも及ぶ

そんな葦を束ねて作っただろう蛭子の舟はすぐに浸水してしまいそうだし
流されたのも海では助かる可能性は無いに等しいが
これはきっと間違いなく帰ってこナイようにそうしたのだな(-_-;)

ところがモーセの方は親が殺すに忍びなく頑丈なパピルス・バスケットに入れて
誰かに拾ってもらえるようにとナイルに浮かべ運良くエジプトの王女に拾われたワケだ

今まで両方が同じ葦舟だと思ってて腑に落ちなかった部分がすごくスッキリしたw

それなら葦笛はどうなのだろう?

ググってみたがWikipediaには該当項目はなく
どうやら日本では葦の葉を鳴らす葦笛はあるが葦の茎で作られた葦笛は存在しナイらしい
尺八や雅楽の笙(しょう)などはどれも竹製だ(※)
尤も大陸より伝来してるので日本起源ではナイのだが・・・

バレエ『くるみ割り人形』に「葦笛の踊り」があるが
これは英語だと「葦笛」の部分はreed pipeで和訳すればまさに「葦笛」と訳せそうだが
残念ながらパイプオルガンのパイプ部分の呼び名でフランス語ではjeux d’ancheだ

それなら「葦笛の踊り」は仏語ではどうなのか?
「Danse des mirlitons」となるがこのmirlitonsとはkazooのコトだそうだ。(゚д゚lll)ギャボ

LINK:Kazoo

LINK先を見ての通りKazooも「葦笛」ではナイが邦題は英語からの誤訳で「葦笛」としてて
でも仏語から英語になる時点でも誤訳があったワケでなんともややこしい事態だ。(´д`;)ギャボ

基本的には日本語で「葦笛」と訳すのは
英語ではpan flute、もしくはpan pipe
仏語ではflûte de Pan、もしくはsyrinx
これらのpanは材料とする植物の名ではなく
ローマ神話に登場する牧神パン(パーン)に由来してて
仏語のsyrinx(シュリンクス)もこの挿話に因むが
それによれば確かにこの笛は英語ではwater reeds、仏語ではroseauxから作られてて
紛うこと無き「葦笛」なのだが・・・

この牧神パン所以の葦笛の形状は葦を長短に切り音階順に並べて束ねたモノで
前述のパイプオルガンの部品やハーモニカの原型となったようだ

そうしてやっと頭の中が整理できたと思ったら
普段は見もしナイのになぜかテレビをつけると『旅のアルバム・世界の工芸品』なんてのをやってて
しかもイタリアのサルディニアの職人が葦製の笛ラウネッタ(Launetta)を作るって?!

キタ━━━━━(゚∀゚)━━━━━ !

ところがこれが直径2~3cmで葦より全然太いっつーのw
この番組も誤訳なのだった(-_-;)
LINK:ラウネッタ画像あり

☆・・・追記
あとからよくよく調べてみたら
イタリア語ではLauneddasだった
ラウネッタでなくラウネッダスが正しい表記なのでは・・・
さすが天下無敵のNHKクオリティw