『女の一生』のジャンヌは凡庸か非凡か?

19世紀のフランス文学にハマって
メリメの『カルメン』
フローベールの『ボヴァリー夫人』
モーパッサンの『脂肪の塊』『ベラミ』
そして『女の一生』を立て続けに読んでた時期があって
全てがたまたま杉捷夫(としお)訳だった

『カルメン』を読むまで
カルメンの人物像を誤解してて
男にとってのみ魅力的な女だと思ってたが
女としてでなく、人として
生き様がカッコ好くて感動したし
死に様がカッコ好過ぎたのは残念だった

『ボヴァリー夫人』は
ボヴァリー夫人たるエマ(エンマ)が
夢見がちで不倫にひた走り
見栄っ張りで借金まみれになるような
勘違いバカ女で嫌悪感を抱いたが
自殺で落とし前を付けたのは
理想と現実のギャップに気付いたからだろうし
気付けナイような教育しか受けておらず
気付かせてくれる人間関係も育めなかったので
相対的には憐憫の情を抱けなくもナイ

『脂肪の塊』だけは短編で
面と向かってそうとは呼ばれてナイが
「脂肪の塊」と称されて噂される娼婦が
ラストで嗚咽するトコロで
一緒に嗚咽してしまい
読後もしばし嗚咽したままで
平常心を取り戻すのに時間がかかった程で
必ず泣いてしまう物語の1つとなった

『ベラミ』はそんな『脂肪の塊』と同じ作者なのかと
疑念を抱いてしまう程のピカレスク度MAX小説で
女を食い物にしてのし上がる男が主人公で
読後にはスタンダールの『赤と黒』で
出世を目論むジュリアン・ソレルが
なんだが可愛く思えてきた

そして『女の一生』のヒロインのジャンヌは
読み進むほどに肩透かしを食らって
何一つ共感できナイままに反感を持ってしまい
いくら悲惨な目に遭おうと
同情の余地もナイ程に嫌気が差した

先に『脂肪の塊』等を読んでおらず
『女の一生』一作だけだったら
モーパッサンを過小評価してたと思われw

美しくしなやかでスリリングな人間が好きで
特に女性は稀有な美貌によって
既にモラル的な是非は超越してるような美女だと
非凡な言動に魅せられ、心惹かれるのだが
するコトなすコト凡庸なジャンヌは
つまらナイ女の代表なのだ。(´д`;)ギャボ

でもそんなコトはタイトルで察するべきだった!
非凡な女の境涯が描かれてる作品は
『カルメン』や『ボヴァリー夫人』や『脂肪の塊』のように
その女の呼び名を冠してるのだが
『女の一生』は原題もそのまま『Une vie』で
不特定な女のままある人生、なのだよ。(゚д゚lll)ギャボ

そんな凡庸なジャンヌだが
父親のパーソナリティは実に興味深い!
93年を苦々しく思いつつ
革命の起爆剤となったであろう
ジャン・ジャック・ルソーの自然崇拝を
従来のキリスト教よりは信奉する!!

93年・・・1793年はルイ16世が処刑された年で
この年を苦々しく思うのは貴族だからだが
それだけの単純なキャラクターではナイ
貴族と言っても田舎に居を構えて
自然の中でのびのびと育ったせいか
貴族特有の高慢な性質も
悠然とした性格にすっかり呑み込まれてしまってて
周囲に不快感を与えるほど露呈しナイのだ
男気がある、とゆー程度

そして更にキリスト教には懐疑的で
ルソーの自然主義に共感を覚えてる点で
自分にとっては基本的に理解し合える相手だ

以上の父親についてのプロフィールは冒頭にあり
物語が進む中で少しづつ過去も解き明かされ
若い時にはなかなかどうしてやんちゃだったようで
情に脆く、感動しやすく
単に善良ではナイ心根の良さを持ち合わせてるぽい

その妻でありジャンヌの母親でもある婦人は
この父親に比すれば影が薄い存在だが
途中でいきなり意外な過去が発覚したりするるる~

そんな両親にしては
娘のジャンヌが主人公でありながら凡庸なのは
多感な時期に修道院にやられてたのが
原因と思われ。(´д`;)ギャボ

そんなワケで『女の一生』は
自分的には駄作と打ち捨ててたのだが
アラフォーになって違う訳で読み返してみたら
ジャンヌは凡庸だなんて
一言で簡単に片付けられなくなってた

ジャンヌの生活や人生に対する無欲さが
常軌を逸してるレベルで
非凡なコトに改めて気付いたのだ。(゚д゚lll)ギャボ

そしてジャンヌの全ての悲運は
その無欲さによるモノだとも思えてきた

例えば「金が欲しい」と思うから
働く(正攻法)、強奪する(非合法)
あるいはジャンヌの息子のように無心するのだが
無欲なので得ようと思わず
何のアクションも起こさずにいるし
逆に息子にたかられるままに
じゃんじゃん与えてしまえるのだ

浮気を放置しっ放しのダンナに対しても
悲しむだけで何の働きかけもしナイのは
単に裏切られたのが悲しいだけで
ダンナを欲してナイからだ

むしろダンナに限らず男が欲しくナイのだろう
そこはレズビアンの自分には唯一共感できる部分だw
ダンナにも他の男にも心や身体が傾くコトがなく
だから関心をすら惹く気がなく
女として美しくあろうなどと思いつきもせず
無欲なのだ

とはいえ、ジャンヌは冷酷な人間でもなく
フツーに愛情を育めるタイプだが
それを子供にだけ注いでしまったコトで
しかも庇護や過保護が過分に含まれてたせいで
息子の放蕩三昧が歯止めの利かナイレベルに達したのだ

ジャンヌはこの時代の良家の奥様にしては
赤ん坊を乳母に任せずに
自身で育てたのも珍しいってか変わってるが
乳母に任せっきりの育児に対して
「おかしいだろう?」と意見したのがルソーなので
さすが父親がルソー崇拝者だけのコトはある

でもジャンヌ自身はきっと
ルソーの教育論『エミール』を読んでおらず
だから息子を甘やかし過ぎて
ダメンズに育て上げてしまったんだろうヽ(゚∀。)ノ

ジャンヌは他の本もロクに読んでなかったから
その無味乾燥とした人生の中で
唯一感動したのがキリスト教なのは
もれなく当たり前の話だなw

『聖書』が世界的なベストセラーなのは
本を読まナイ大多数が唯一読んだ本だからだなwww

でもジャンヌはこれも父親の影響なのか
結果としては敬虔な信者にはならなかったのだ
教会に通ったりしなかったし
子供にも信仰を強要しなかった

なんせ子供の聖体拝受をどうしようか迷ってるのだ
同じくモーパッサンの『メゾン テリエ』では
娼婦が娘に聖体拝受をさせる話で
これは信仰心よりも親心で
堅気の子のように体裁を整えてやるんですが
それと比べたらジャンヌの信仰心は
恐らく娼婦にも異端視されるほどなんだろう

つまりジャンヌは人生には受身で翻弄されてても
決して世間には流されておらず
凡庸な人生を非凡に生き抜いたがために
不幸に身をやつした気がしてきた

「序文」:ワイルドの芸術論

オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』の「序文」には
ワイルドの芸術論が述べられてて、冒頭に芸術家の定義がある

芸術家とは、美なるものの創造者である。

また末尾を次のように結んでる

すべて芸術はまったく無用である。

要するに総ての美しいモノの中で人間が創ったモノが芸術なのだが
それら人の手による美は無用だってコトだ

確かに人間によって創られたのではナイ自然発生した美は
その美しさが必ず生命の営みに有用なのである

そして無用な美である芸術の存在は
だからこそ道徳的に善か悪かなどと判断すべきモノではナイし
ましてや芸術を解さナイ人間が無理矢理有用性を謳うのはナンセンスだし
そういう的を得ナイ芸術の批評はそれこそ有用ではナイばかりか有害だ

テンペスト―シェイクスピア全集〈8〉 (ちくま文庫)

そんなコトが述べられてる中で例えに使われてるのが
シェイクスピアの『テンペスト』に出てくるキャリバンである

十九世紀におけるリアリズムにたいする嫌悪は、キャリバンが鏡に映った自分の顔を見るときの怒りと異なるところがない。
十九世紀におけるロマンティシズムにたいする嫌悪は、鏡に自分の顔が映っていないといって怒るキャリバンそのままである。

前者はリアリズム(写実主義)への
後者はロマンティシズムへの批判を掲げる輩に対して
その滑稽さをキャリバンをして醜さの象徴としながら嘲笑してる
美を直観的に理解できナイ輩はまるでキャリバンだ、とねw

リアリズムの写実表現に対して「事実のままでしかナイ」とか
ロマンティシズムの夢物語に対して「現実的ではナイ」とか
わかりきった批判をするのはキャリバンと愚かさも卑しさも同レベルだってワケだ

19世紀のリアリスム(リアリズムの仏語的発音)文学と言えば
自分はフローベールの『ボヴァリー夫人』が真っ先に頭に浮かぶが
この作品は発表の翌年に告訴されても最終的には裁判に勝ち
また裁判沙汰になって話題になったお蔭で(?)
フランス中の人間がこの本を貪り読むに至った問題作だ

ボヴァリー夫人(新潮文庫)

どの辺が問題だったのかは
『ベランジェという詩人がいた』より起訴事実の部分を引用する

公衆及び宗教の道徳並びに良俗侮辱罪

『ボヴァリー夫人』の主人公のエマは夢見がちな女性で
ロマン主義に浸り
ありもしナイ自身を見出してしまって
不倫に走り
夫に内緒で散財して
行き詰まったトコロで死に至るのだが
先に引用した罪に問われてるのは実はこのエマであり
エマの代わりに彼女を創造したフローベール(と出版社)が
法廷に引きずり出されたのであるヽ(゚∀。)ノ

似たような裁判はボードレールにもあり
こちらはあろうコトか罪が認められて
ボードレールは罰金を課され
問題とされる部分(禁断詩篇)は総てカットされた

この辺の事情をワイルドは仄めかしてる気がするるる~

しかしワイルドの場合は作品が罪に問われたコトはなかったが
自身の男娼の罪で服役してるのだから
ある意味1枚上手なのだろうか?!

Bel Ami

頽廃的な香りに慣れてしまうと
健全な俗物には嫌悪感さえ覚えるようになる

澁澤龍彦訳でマルキ・ド・サドを読み尽くしてしまって
馴れ初めの段階でおたおたしてるような男女の
ひたすら甘ったるい恋愛を描いた小説や少女マンガに
吐き気を催すようになったのは高1の頃・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

要するに今で言う腐女子ってヤツで
ノーマルな恋愛には不気味さを感じるほどだったが
基本的にはストイックな耽美主義者なので
ヤオイ(※)でとりあえず肉欲に走るって展開にも
程なく食傷気味になってしまった。(´д`;)ギャボ
ヤマなしオチなしイミなし

そんな時に新鮮な感動を齎したのが
サドよりもずっとまともに扱われてるフランス文学の一連の作品で
読み始めたとっかかりはメリメの『カルメン』だった

カルメン (岩波文庫 赤 534-3)

ビゼーのオペラで有名になったカルメン像は
一輪の真っ赤な薔薇を銜えた踊り子のイメージ(※)だったので
陳腐な恋愛小説を懸念しつつ、いや、確信して
読んでおかなくてはバカにもできナイ、と読み始めたのだが
主人公はカルメンではなかったし
またカルメンは安酒場の踊り子などではなかった
小説ではカルメンが銜えてたのは薔薇ではなくアカシヤ

カルメンは得体の知れナイ魅惑的過ぎる女で
恐らく謎に満ちてるからこそ魅力も増すのだろうが
とにかくそれまでに読んだ小説の登場人物の女性の中で
圧倒的な強靭さを持ち合わせてるコトに痺れた

そんなカルメンをして
初めて女にも正真正銘の一匹狼タイプがいると知った。(゚д゚lll)ギャボ
つまり、姫として侍女にか、あるいは侍女として姫に
依存せずに生きる・・・要はジプシーなのだが
姫でも侍女でもなく、また本妻でもなければ、愛人にも属さず
高級娼婦にも見えるがそうでもナイヽ(゚∀。)ノ

ボヴァリー夫人 (新潮文庫)ボヴァリー夫人 (河出文庫)

カルメンへの熱情が冷める前に続けて読み始めたのが
フローベールの『ボヴァリー夫人』だったが
偶然にも訳者が『カルメン』と同じく杉捷夫で
その次もたまたまモーパッサンの『ベラミ』を選択したら
またしても杉捷夫訳だったのが印象に残ってるるる~

カルメンのインパクトの後では
『ボヴァリー夫人』の主人公のエンマは
夢見がち過ぎてロマンティックな恋愛に溺れやすい女で
そんな甘いだけの女がハッピーエンドならば
ハーレクイン・ロマンス以下のレベルに留まるのだが
夫にも子供にも恵まれてて【リア充】なのに
それを振り切ってまで夢にひた走って破綻するって
むしろ持たざる者のカルメンより筋金入りかもしれなかったw

いずれにしろ、カルメンもエンマも
理想とする生き方を絶対に曲げナイタイプにして
こと恋愛に関しては一切妥協せず
男にしてみたら強情で扱い難い女だろう

「愛する男しか愛したくナイのよ~p(-_-+)q」

生き方としてはある意味、不器用なのかもしれナイが
そこが人間としても同性としても好感が持てた

ベラミ〈上〉 (岩波文庫)
ベラミ〈下〉 (岩波文庫)

そうして愛を全うする女たちに魅了されたトコロで
『ベラミ』を読み始めた

「愛だって?これだから女ときたら・・・チッ( -∀-)、」

主人公のベラミは一見、女を食い物にする非道な男だが
ベラミの目的は立身出世とはっきりしてて
女に身を任せて取り持ってもらうコトで取り入るので
その際にはノーマルな行為によって女を満足させてるのだし
傍目からそうと見えるほど、実際は放縦でもなく
だからさほど不道徳とも思えなかった

サドの小説に出てくるような放埓の限りを尽くす残忍な男には
現実の世界では絶対に関わりたくナイが
ベラミはウブだった(?)自分にはときめくに値した男で
もしベラミの恋人たちのようにヨユーがある女に将来なれたら
踏み台にされる価値を愉しむのも悪くナイと思った

そもそもダンナに内緒で短い逢瀬を愉しむ有閑マダムが
ベラミに利用された後で捨てられたからって何一つ困らナイのだよ
元の退屈なれど安定した生活に戻るだけなので
少々感傷的になったとしてもそれ以上でも以下でもナイ

ベラミの恋人たちにとっては
ストイックな紳士では不埒な恋愛を愉しみようがナイし
生真面目で純朴な青年をからかうのは愉しいかもしれナイが
熱を上げて真剣に求められたら拒絶するしかナイし
それで傷ついたからって恨まれても困惑するばかりだから
美貌だけが売りなのに成り上がりたい貧乏青年は
与しやすい遊び相手だったのだヽ(゚∀。)ノ

ベラミ自身は女を誑かして成り上がってるつもりでいるが
女たちの方が一枚も二枚も上手なのは明らかで
カルメンやエンマなどでは到底太刀打ちできナイレベルだ

なんせ彼女らは権力者の男(夫、愛人、他)を操って
立派に社会生活を営んでるのだから・・・!!

ラシーヌの『ブリタニキュス』、そして全集

ローマ皇帝の中でもとりわけネロが好きな自分は
ネロについて書かれてる本を蒐集してるので
ラシーヌの『ブリタニキュス』もいつかは欲しいと思ってた

だから岩波文庫から出てる『ブリタニキュス』を古本屋で見かけては
購入すべきかどうか何度も迷いに迷ってた
迷いがあったのはこの本がちょうど岩波文庫の紙質が悪い時代に出てて
その後に重版されずにいたコトによる
時を経て紙面はすっかり褐変してるよれよれのモノばかりで
どうしてもコレクションに加え難い品質だった

だからいつかこれが奇跡的に復刊されるか
もしくは更に望み薄だが新訳が出たりした折には購入しようと決心してた

とはいえ、いずれにしろ随分気の長い話だと思ってたが
2006年夏に先に渡辺守章訳の『フェードル / アンドロマック』が復刊され
続いて2008年に遂に『ブリタニキュス / ベレニス』が同じく渡辺守章訳で出た!

ブリタニキュス ベレニス (岩波文庫)

古く『ブリタニキュス』は『星の王子さま』の訳で名高い内藤濯の訳だったので
きっと真意を深く追求した意訳だと予想できて魅力的だったが
『ブリタニキュス / ベレニス』の渡辺守章訳の方は
実際に脚本として用いられた口語訳なのがむしろ非常に読み易かった!!
これは既に『フェードル / アンドロマック』で馴染んでたせいもあるだろう

しかし渡辺訳版の秀でた点は本文以上に訳注と「解題」にあるるる~

ためつすがめつ購入を迷い続けた『ブリタニキュス』には
『ベレニス』が未収録であったのは言うまでもナイが
これが『ブリタニキュス / ベレニス』に比して1/4くらいの薄さだったのは
『ベレニス』が途轍もなく長い戯曲だったからではナイ
(実際『ブリタニキュス』より短い)

『ブリタニキュス』と『ベレニス』とで訳注が合わせて100ページ以上あり
「解題」がこれまた100ページ以上に及ぶために
200ページ強分の厚みが増してたのだった。(゚д゚lll)ギャボ

200ページとゆーページ数からも歴然としてるが
訳注も「解題」もとにかく詳細で隙がナイ。・゚・(ノД`)・゚・。

とりわけ「解題」の中の「ラシーヌの生涯と作品」には
各作品の紹介と共にその作品に対する当時の評価などもあったので
これを読んだら元の話を知ってるだけに(※)
ラシーヌの脚本をちゃんと読んだような気にすっかりなってしまえてたが
既出の4作(フェードル、アンドロマック、ブリタニキュス、ベレニス)以外は
後に筑摩書房の『世界古典文学全集【48】ラシーヌ』を入手して読んで
そういえば全く未読であった、と改めて気付いたくらい
渡辺の「解題」は詳し過ぎたのだったヽ(゚∀。)ノ
『アレクサンドル大王』は伝記の邦訳本を総て持ってたし、『アタリー』も『エステル』も『旧約聖書』にある

そうなのだ、ラシーヌにすっかり魅了された自分は
絶版の全集をついに手に入れたのだった!

しかもかねてから中公世界の名著と筑摩世界文学大系は
「解説」の充実度で他に比肩するモノはナイと確信を持ってたので
迷わず筑摩書房の『世界古典文学全集【48】ラシーヌ』を購入したのだが
これが予想以上に素晴らしい内容だった!!

ラシーヌ執筆の全作品がもれなく年代順に収録されており
時代背景、公演の評判、ラシーヌが参考とした資料などの詳細が
各作品の冒頭の「解説」にあり
それとは別にラシーヌ自身が書いた序文や
時の権力者に送った作品についての書簡などもあり
要するにこれ一冊でラシーヌを完璧に網羅できてしまうのだ

それでも『ブリタニキュス / ベレニス』も買っておいて損はなかった
てか、この岩波文庫版新訳の訳注と「解題」は
ネロヲタの自分としては最強に俺得で死ねる・・・バタリ ゙〓■●゙

それにしてもラシーヌの扱う題材は
どうしてこうも自分のヲタ趣味と合致するのだろうか?

トロイ戦争ヲタには既読の『アンドロマック』も俺得だったが
未読の中にも『イフィジェニー』があり
ゲーテの『タウリス島のイフィゲーニエ』と読み比べれば
一粒で2度美味しく愉しめるってモノだ♪

そして未読の目玉はなんと言っても『アタリー』と『エステル』だが
これはフローベールの『ボヴァリー夫人』の中で
最も個性的な登場人物オメーが娘にアタリーと名付けてるのが
まさしくラシーヌの『アタリー』由来なのだった
ましてやそうと名づけたオメーの真意を推し量るためには
実際に読んでみナイコトには考察のしようもナイ以上に
作中でオメーが信仰する神ヴォルテールの著書『ルイ十四世の世紀』で
『アタリー』を高く評価しつつ『エステル』を貶してる
と知らなけらばいかんせん意味不明なのである。(゚д゚lll)ギャボ

『エステル』と『アタリー』はプルーストの『失われた時を求めて』でも
「スワン家のほうへ」第一部の「コンブレ」で比喩に使われてるが
もちろんこの2作品をただ読むだけでなく
完璧に理解してなければやはり意味不明なのである。(´д`;)ギャボ

しかしアレクサンドロス大王ヲタである自分にとって
未読の中で真っ先に読んだのは『アレクサンドル大王』だったがw

それとゆーのも自分の読書の仕方がいつも決まってて
未読の本はまず目次や索引からアレクサンドロスを探して
そこから読み始めるからだ

マントノン夫人の高尚な意地悪

ラシーヌの『エステル』と『アタリー』について述べてる箇所が
ヴォルテールの『ルイ十四世の世紀』の第2巻にあった

まず『エステル』と『アタリー』の訳注を見てみると次のようにある

『エステル』(Esther)及び『アタリー』(Athalie)
ラシーヌの創作活動の最後を飾るこの二作は、いずれも旧約聖書に取材し、合唱隊を登場させてギリシャ悲劇の形式に近づけてあり、晩年キリスト教に深く帰依するようになった作者が、悲劇の世界に新しい境地を開いたものとして注目される。
「アタリー」が初演当初成功しなかったのは、サン・シールの女生徒たちに対する宗教教育上の配慮から、衣装や装置を極端に簡素にしてしまったためとも言われるが、今日では、ラシーヌの代表作の一つとして、高く評価されている。

そして『ルイ十四世の世紀』の第27章には
モンテスパン夫人に代わって王の寵を受けるようになったマントノン夫人が
ラシーヌに『エステル』を依頼した経緯が以下のようにあった

知的な楽しみを復活させたのは、サン・シールの女学校である。ラシーヌは、ヤンセニスムと宮廷に気兼ねして、劇作を断念していたが、マントゥノン夫人が、このラシーヌに頼んで、自分の学校の生徒に上演できるような悲劇を作らせた。主題は聖書からとるというのが、その希望である。

王が病気になり、宮廷での艶やかな宴を一切取り止めてから
以来、観劇に姿を現すコトもなくなって
宮廷のみならず国中が塞いでた状態だったのだが
そこでマントノン夫人がささかやな観劇を自らの学院の生徒によって催し

まず、サン・シールの校内で、それから、1689年の冬、ヴェルサイユで、何度も、王の御前で上演される。

これに続く意表をつく文章が以下だ

宗教界の歴々や、ジェズイット教団の僧侶たちが、この妙な芝居を見ようとして、許可を得るのに汲々たるありさま。この作品が、当時、完全な成功を収めたのにひきかえ、二年後、『アタリー』が、同じ人々の手で上演され、全くの不首尾に終ったのは、注目に値する。

『エステル』は素人の女生徒による「妙な芝居」でもウケたらしい(゚ ゚;)
しかも宗教界の歴々やジェズイット教団の僧侶たちに?!
ところが『アタリー』は同じように「妙な芝居」であっても不評だった(-_-;)
それも宗教界の歴々やジェズイット教団の僧侶たちに?!

更にヴォルテール曰く

この両者が、作者の死後久しくしてから、パリで上演された時には、結果は正に正反対だったが、これは宮廷内の人間関係が変わったからだ。『アタリー』は、1717年に上演され、当然のことながら、感激の渦を巻き起こした。『エステル』の方は、1721年に上演されたが、何の反応もなく、その後二度と日の目を見ぬ。

キタ ━━━━━(゚∀゚)━━━━━ !

『エステル』はどうやら自分の予想してた通りに
ルイ14世の愛妾マントノン夫人の思惑に則った脚本だったようだ!!

つまり王の寵愛を過度に受けるエステルに自身を擬えてた芝居で
観ててそういうコトだとわかって権勢を誇る夫人へのお追従が絶えなかったのが
好評に繋がったのだな。(´д`;)ギャボ

ヴォルテールは「作者の死後」としてるが
要するにもうお追従は不要なマントノン夫人の権威の失墜後(※)で
だから1717年の『アタリー』の上演時も1721年の『エステル』の上演の際も
改めてプロの演劇集団による公演に正当な評価が下されたのだったが
その結果は『アタリー』の大当たり~(殴)
ルイ14世が1715年に没してるのでその少し前だろう

ところでヴォルテールは1ページ近く割いて『エステル』をクソ貶しに貶してるが
詩としては実に素晴らしい、と締め括ってラシーヌ自身を貶してはいナイ

ボヴァリー夫人 (河出文庫)

さてここで当初の疑問に話を戻すと
『ボヴァリー夫人』のオメーが娘にアタリーと名付けたのは
ヴォルテールに共鳴してるのだと合点が行った!
なぜならオメーは自らが神と仰ぐ人物を次のように挙げてる!!

ソクラテス、フランクリン、ヴォルテール、ベランジェの神だ!

ヴォルテールの言はオメーにとってキリストの福音なのだ(-人-;)

それにしてもマントノン夫人は
エステルに擬えられてさぞご満悦だっただろうが
マントノン夫人によって退けられたモンテスパン夫人も
アハシュエロスの元正妻ヴァスチ(ワシテ)に譬えられてて
さぞや悔しい思いをしてたのだろう

そう想像するとマントノン夫人もたいがいな女だが
意地悪の仕方が余りにも高尚なのがなんだか素敵に思えてくるし
それにそうとわかって耐えるモンテスパン夫人にしても
また更にそこでマントノン夫人に媚び諂ってる輩にしたってさえ
なんてインテリジェンスなのかと感動してしまうよなヽ(゚∀。)ノ

ヴォルテールにしてみればそれ以上に
不寛容なジェズイット教団の連中が『エステル』を絶賛してる図ワロタ
てなカンジなのかね(゚*゚;)

そしてそういう総てを踏まえてオメーのキャラクター設定を施したのだから
自分にはフローベールこそが神だな。(゚д゚lll)ギャボ

ラシーヌの『アタリー』と『エステル』

ラシーヌの『フェードル / アンドロマック』が2006年に岩波文庫で復刊されたのを買い
巻末の「ジャン・ラシーヌ略年譜」に『アタリー』を発見したコトによって
フローベールの『ボヴァリー婦人』のオメーの娘の名アタリーの由来について改めて考察し始めたが
同じ年の暮れにまとめて購入した筑摩世界文学大系にも『フェードル』が収録されてた
LINK:筑摩世界文学大系【14】古典劇集

岩波文庫版の訳者渡辺守章による「解説」は30ページ以上に及び
読み応えはあっても残念ながら『アタリー』についての言及はなかったが
筑摩世界文学大系の方は訳者二宮フサによる解説が丸1ページ(※)で
概要は「ジャン・ラシーヌの作品群とその時代背景」と題するべきモノで
『アタリー』についても次のような決定的な事実が記されてた
筑摩世界文学大系の1ページは岩波文庫の3ページ分以上に相当する

とにかくラシーヌは1677年1月の『フェードル』上演を最後に、演劇の世界と絶縁した。彼が後年聖書に取材した宗教悲劇『エステル』、『アタリー』を書いたのは、当時のルイ14世の寵妃マントノン夫人の要請によるもので、2篇とも夫人の設立したサン・シールの女生徒たちによって演じられたのである。

ここへきて重要な見落としに気づいたのは
『アタリー』には必ず付随して『エステル』が絡んでた事実だ
Bajazet / Mithridate / Iphigenie / Phedre / Esther / Athalie [French]
二宮の上記引用によれば『エステル』も『アタリー』も
ラシーヌが演劇界と絶縁した後(※)の『旧約聖書』を題材とした作品で
マントノン夫人の要請でサン・シールの女生徒が演じるために書かれたのだった
ラシーヌが『フェードル』以降に書いたのは『エステル』と『アタリー』2作品のみ

改めて渡辺の『フェードル / アンドロマック』の巻末の「ジャン・ラシーヌ略年譜」で
『エステル』について確認すると次のようにあった

旧約聖書に基づき、ジャン=バチスト・モローが作曲した「合唱入り悲劇」は非常に国王の気に入り、宮廷中の話題となる。

ちょっと待て(-_-;)

『エステル』は素人の女生徒だけによって演じられたのなら
どれほど脚本が優れていようがお世辞にも絶賛されるようなモノではなかっただろう

宝塚のエンターテイメント性を知る現代人の自分にとっては
女生徒だけの芝居は微笑ましくも思える反面
日々の過酷な練習が宝塚の完成度を高めてると知ってて
貴族の孤児を寄せ集めただけの学校のクラブ活動が
同じレベルに到達するコトは断じて在り得ナイと思えるのだ。(´д`;)ギャボ

それでも『エステル』が

国王の気に入り、宮廷中の話題となる

なんて成功を収めてたとしたら
そこには芝居の出来とは別の要因がウケてたに違いナイのだ。(゚д゚lll)ギャボ

とりあえず『エステル』も『アタリー』も『旧約聖書』が原典なのはわかったし
『エステル』は目次にもある「エステル記」でペルシアの話だろうが
「アタリー記」てのはナイしその名に覚えがナイヽ(゚∀。)ノ

しかし『旧約聖書』は小学生の時に読破したので一応総てが既読の物語で
中には興味深く繰り返し読んでる部分とそうでナイ部分があり
記憶にナイアタリーの名が出てくるとしたら
特におもしろいと感じなくてすすんで読み返してなくて
更に参照すべき重大な記述(有名な場面、例えば預言とか)も含まれてなくて
しかも読み切り的に挿入されてるエピソードなのではナイかと予想でき
「列王紀」(※)の辺りと狙いを定めてたら下巻の第8章にアタリヤの名を発見できた
LINK:列王紀下8
自分の持ってる1955年発行の日本聖書協会の旧約聖書ではこの列王紀だけが「紀」の字を使ってる(他は「記」)

あらすじをものすごく簡単に述べると
異教の神バアルを信仰したために滅びた民族の話で
王アハジヤの母親でアハジヤ亡き後に王位を継いだのがアタリーだ

ユダヤ教徒からすれば異教徒=悪だったので
預言者エリシャはラモテ・ギレアデのエヒウなる者に
イスラエルの王ヨラムとユダの王アハジヤを撃ち
その一族アハブ王家を滅亡させて替わって王となるようけしかけた

エヒウは言われるままにヨラムとアハジヤを殺した後
ヨラムの母親のイゼベルを宦官に命じて惨殺させた(投げ落として馬に踏ませた)
ところがイゼベルは王の娘であったためその遺骸を葬るよう指示するが
頭蓋骨と手足しか見つからなかったと報告を受けた途端エヒウは
「だろ?犬に食われるって預言あったわw」って・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

アハブ王家へのエヒウの残虐行為は続き
王の子ら70人の首を籠に詰めて持ってこさせるわ
一族の42人が身を隠してるのを見つけて皆殺しにするわ
自身もバアル信仰をすると嘘を流布して
信者を神殿に集めて皆殺しにして神殿も破壊した

その殺戮に至る理由が異教徒であるコトだけなのは
現代日本人にとってはマジキチとしか思えナイが
当のエヒウにしてみると神の言を代弁する預言者によって
異教徒を一掃して代わって王になる使命を受けたので
それを生真面目にまっとうしてるだけなのだヽ(゚∀。)ノ

王となったエヒウはイスラエルを統治してたが治世28年で没し
一方、息子アハジヤを失いながらも生き延びたアタリーは
バアルを信仰しながら6年間国を治めてたのだが
ユダヤ教の神官にクーデターを起こされて殺された

ラシーヌの脚本はどんなだろうか想像もつかナイな・・・

ラシーヌの『アタリー』

フローベールの『ボヴァリー夫人』に出てくるオメーは
科学の最先端の職種だったであろう薬剤師であり
粋人気取りでやたらと高尚なモノに憧れては
純朴な民衆を俗物と見下してるような人物なのだが
お気に入りだったりするのは自分と似てるからだろうか。(゚д゚lll)ギャボ

オメーは4人の子持ちで上から順に
長男が栄光の象徴ナポレオン、次男が自由の象徴フランクリン
などとたいそうな名前をつけてるのだが
次のイルマのローマン主義への譲歩、てのがわからナイし
1番下のアタリーがフランス演劇最大不朽の傑作に敬意を表して、だそうだが
初めて読んだ際には意味不明だった。(´д`;)ギャボ

すぐに調べようともしたがなんせ20ん年前のコト!
今みたいにググれなかったから専ら本に頼るしかナイのだが
おおよその見当くらいつかなければ本屋や図書館でも調べようがナイ!!

イルマのローマン主義ってのはフランスのロマン主義文学だろうか?
シャトーブリアンやユゴーの作にはイルマは見当たらナイが
それも自分が未読なだけだろうか?

アタリーのフランス演劇はフランス古典主義演劇だろうとは思ったが
それこそ当時は全く未読で未知の世界だったから
コルネイユか?モリエールか?ラシーヌか?
と絞るコトさえままならなかったのだ

そうして謎のままに年月は過ぎて
2006年の夏の岩波文庫の一括重版28点35冊の中に
ラシーヌの『フェードル / アンドロマック』があり
トロイ戦争ヲタの自分はアンドロマックがヘクトルの妻アンドロマケであるとピンときて
それ以上深いコトは何も考えずに購入した

フェードル アンドロマック (岩波文庫)

フランス古典主義演劇作家ラシーヌの作品に初めて触れたのがこの時で
それまではラシーヌ本人についてや作品について全然何も知らなかったので
本編を読む前にまず巻末の「解説」と「ジャン・ラシーヌ略年譜」にとりかかったが
訳者の渡辺守章による「年譜」は【略】とあるワリには15ページに及び
これをじっくり読み進んでいったら『アタリー』の作品名を発見!

1691年(53歳)
一月、サン・シールにおいて、悲劇『アタリー』の御前稽古。『エステル』で試みた実験、すなわちコロス(合唱隊)が重要な役割を占める古代悲劇に比肩しようとする計画であり、更には、オペラが流行させた壮麗な装置が効果を挙げるべき芝居でもあり、しかもラシーヌの「異教的悲劇」の「偉大な悪女」に匹敵する女王アタリーを主人公に据えた極めて野心的な作品である。しかし前作『エステル』が、宮廷内で余りに世俗的に評判になったことへの批判もあって、衣装なしで御前上演がなされただけである。(『アタリー』のコメディー・フランセーズ初演は1716年3月。)

これがオメーの言うフランス演劇最大不朽の傑作なのだな!
そうとわかればアマゾンで検索!!

だがしかし・・・『アタリー』の個別の邦訳本は見当たらナイし
全集には入ってるかもしれなかったが総て絶版状態にあり
収録作品リストがなくてどれに入ってるかわからナイのに
年代も古く状態も微妙なのに値段は破格な全集を買い漁るワケにもいかず
『アタリー』の入手を一旦は諦めざるを得なかった

但しこの時点までで以下のコトが判明した

1.ラシーヌ53歳の時の作品でこれが最期の作品となった
2.マントノン夫人の主催するサン・シール女子学院(貴族の孤児たちの教育機関)の生徒が演じた
3.ラシーヌの生前には衣装ナシの御前稽古のみで上演されなかった
4.コメディー・フランセーズによる初演は1716年でラシーヌの死後17年後だった

Racine's Athalie, Ed. with an Introduction, Containing a Treatise on Versification

そしてこれらの事実からどうも疑わしく思えてきたのが
『アタリー』がフランス演劇最大不朽の傑作だ、とのオメーの評価の真意だ

通常だったらプロの演劇集団が商業的成功を収めてこそ世間の評価も高まるのだが
既に前作の『エステル』から以降は素人の女学生が演じてるだけで
『アタリー』に至ってはそれさえ上演されてナイのだ?!

それでも『エステル』は

宮廷内で世俗的に評判になった

とゆーのだからこれはどう考えてもおかしな話だヽ(゚∀。)ノ

ラシーヌの『アタリー』(と加えて『エステル』)が
なぜルイ14世の愛妾マントノン夫人の許でのみ上演されてたのだろうか?
そしてなぜ(『エステル』の宮廷での成功があり)『アタリー』は上演前から不興を買ってたのか?
オメーが『アタリー』を絶賛してるのはどういう思惑からなのか?
いや、著者フローベールがオメーの人間像をどう見せようとしてるのか?

謎が深まるほどに魅了されるるる~

ベランジェ、そしてフローベールとボードレール

『ベランジェという詩人がいた』からのネタは続く・・・

ベランジェが訴えられて
第1回目の裁判があった1821年に
フローベールとボードレールが生まれた

2人ともベランジェに対しては批判的だそうだが
そうするとヴォルテールに対しても非難を浴びせてるのは
然りなんだろうか

フローベールは『ボヴァリー夫人』で
オメーとゆー自分からしたら理想的な男性像を描いてるので
オメー=フローベールなのでは、とすっかり誤解をしてたのだが
フローベールからするとオメーは
ベランジェやヴォルテールと同じ神を敬う
好まれざる人物像なんだ・・・。(゚д゚lll)ギャボ

自分もこの2人にはさぞや嫌われただろうな(苦笑)

ちなみに
フローベールの『ボヴァリー夫人』も
ボードレールの『悪の華』も
裁判にかけられ
『ボヴァリー夫人』は無罪
『悪の華』は有罪
だった・・・

ベランジェ自身は2度の裁判で2度とも有罪になり
罰金を課されて投獄される

第1回目の裁判で問題になったシャンソン集は
以下の4つの争点について審議された

風俗壊乱
公共の倫理、宗教倫理の冒涜
王個人の侮辱
反乱幇助

あるシャンソンの一部の意味や
あるシャンソンの全体のイメージの
意図するモノが上記4つに該当してるかどうか?

結果
当初は公共の倫理、宗教倫理の冒涜反乱幇助
該当すると有罪判決を下されて
のちに反乱幇助に対しては
やはり無罪だったと判決が覆された

結局のトコロ最後まで引っかかったのは
宗教倫理の冒涜、ってヤツなんだな・・・。(´д`;)ギャボ

これはもう現代の日本人からしたら
有罪になるのがむしろ不条理だとしか思えナイ

だがしかし
自分も今まで知らなかったのだが
ベランジェより1世紀ほど古い時代には
ルソーの『エミール』やビュフォンの『博物誌』まで
発禁になってたそうだから侮れナイ

さすがに
フローベールの『ボヴァリー夫人』は無罪となったが
これが有罪になってたら余りにもナンセンスだよな。(゚д゚lll)ギャボ

ボードレールの『悪の華』が有罪になったのは
公衆道徳良俗紊乱だったワケだが
これは簡単に言えば
政府が恋愛の歓喜の表現に対して
キリスト教に準じてナイ形態を容認するワケには行かなかったのだな

逆に自分がボードレールを高く買うのは
その禁断詩編だったりするんだがw

なぜか最近またボードレールを読む機会が多いけど
相容れナイ部分は増大してくばかりで
今まで好きな作家の中でも格別な引き立てがあったのが
不可解に思われてきたくらいだが
それでもレズビアンを高尚に詠ったこの男を
嫌いになる余地はナイんだよなwww

ボードレールは『悪の華』とゆータイトルを
時代が許せば『レスボスの女たち』としてたはずなのだ(*^^*)

ベランジェという詩人がいた―フランス革命からブルボン復古王朝まで





『良い人々の神』

『ベランジェという詩人がいた』は全くなんて面白いんだろう!

ほんの数ページしかじっと読んでいられナイほど
参照すべきキーワードが辺り一面に鏤められてて
それらを見つける度に他の本を手に取る

しばらく開いてなかった本、
最近別件で読んだ本、
買ったばかりの本・・・

まるで
旧友と再会したり、
親友と更に交友を深めたり、
新しい友達ができたり・・・
そんなカンジで本に対する愛情を再認識させられた

そしてついに出くわしたのだ♪
そもそもこの本との巡り会いのきっかけとなった
フローベールの『ボヴァリー夫人』の一節に!
自分を介して見知った友達同士だと思ったら
実は旧知の仲であった、みたいな?!
こうして本と本の絆を目の当たりにするのは
人と人の絆を目の当たりにするのと同じかそれ以上に
人生の醍醐味だ!!

本は著者の思想が詰まってるモノなのだから
ある意味人間同士以上に共鳴し合ってても不思議はナイが
人間同士なら時空の際限を超えて出会いようもナイのが
本とゆー形になって時代を巡り

さて本題に突入すると
ベランジェのシャンソンに『良い人々の神』とゆーのがあり
この歌の締め括りが

グラス片手に、私は、陽気に、
良い人々の神に心を捧げます。

となってるのだが
この神は当然ながら世界3大宗教の神なんかではナイw
酔っ払って祈るドコロか呑むコト自体がアウトだからねwww

この【良い人々の神】を信仰してるのは
『ボヴァリー夫人』の超脇役であるオメーで
オメーは理性によって物事を判断する科学的思考の持ち主で
教会の権威主義と信者の妄信によって作り出されたような
不条理な神などに平伏す必要はナイが
それはむしろ神を蔑ろにしてるのではなく
神を尊んでるからこそなのだ

『ベランジェという詩人がいた』

ベランジェは日本人には全く馴染みがナイ詩人・・・
正しくはシャンソニエだが
祖国フランスでさえも現代ではほとんど顧みられてナイようだ

自分も今までは全く興味がなく
なんとなくフランス革命~ナポレオン時代の詩人らしい・・・
くらいのぼんやりしたイメージしか持ってなかったし
そのぼんやりしたイメージさえも
実際に作品を知ってのコトではナイ

ベランジェの作品についての評価が
その当時の小説(スタンダールの『赤と黒』や
フローベールの『ボヴァリー夫人』)にあったのを読んで
注釈から機械的にインプットされただけに過ぎなくて
ベランジェって誰?
と改まって聞かれてもピンとこなかっただろう

アマゾンで検索しても1冊しか該当しなかったが
1冊でも見つかったのはむしろ奇跡的なコトなんではなかろうか?!

その希少価値である本の著者は林田遼右で
「あとがき」より河盛好蔵と師弟関係だったと判明し
すっかり気持ちを預けて読み出した(*^^*)

当然ながら決して権威主義なんでなく
その著書や訳書から直に伝わるその人となりに好感が持てるコトが
自分の敬意の対象なので
そういう意味で河盛に対して敬意を抱いてたワケだが
そんな河盛の身近な存在であり彼をリスペクトしてる林田遼右は
もうそれだけで同志として崇めたくなるんである

案の定ツボが近かったw
読み始めたら期待以上の面白さに止まらなくなり
夜を徹して読んでしまった・・・
しかもそのままこうして思うトコロを記さずにいられず
PCに向かってるんだからどうしようもナイね
今日はもう仕事する気が今の時点で全く起きてナイ
3時間後に無機質に出社しても眠気に勝てる自信もナイwww

でもそれくらい自分を夢中にさせるモノと巡り会えるなんて
本ト幸せだよな~。・゚・(ノД`)・゚・。

☆・・・☆・・・☆・・・☆・・・☆

■序章

国民詩人の死

■第一章 屋根裏部屋の青春

少年時代
貸本屋
リュシアン・ボナパルト
ペンを取れ、市民達よ!
シャンソンとポエム
≪カヴォ≫
韻文
≪ヴォードヴィルの夕食(デイネ)≫
≪サン=スーシ修道院≫
就職
友人への手紙
出版統制
≪カヴォ・モデルヌ≫
デゾージエ
替え歌
好色な歌
≪カヴェ・モデルヌ≫へ入会

■第二章 攻撃するシャンソニエ

帝政崩壊
『イヴトの王』
風見鶏
個性発揮
≪風見鶏騎士団≫
『新しいディオゲネス』
『リーズのための政治概論』
そこのけ、おいらの場所だ
白鳥の歌
御用詩人
初めての出版
『上院議員』
年金
ゴゲット
王の帰還
1816年
旧軍人
『カラバ公爵』
聖職者攻撃
イエズス会神話
鳥は戻る

■第三章 ブルボン王政との闘い

言論の自由
『風邪ひき男』
シャンソン戦争
「ミネルヴ」紙
『良い人々の神』
「コンスティテュショネル」
『古い軍旗』
第一回目の裁判
『良い神』
侮辱された王
判決
『おばあさん』
ポール=ルイ・クーリエ
サント=ペラジー監獄
裁判記録

■第四章 栄光につつまれた囚人

『検閲官』
第三シャンソン集
ラヴォカ
妥協しないベランジェ
殉教者通り(リュウ・デ・マルティール)
バルボンはまだ統治している
公判
出版社の責任
検事の反論
ラ・フォルス監獄
高い家賃
『囚人の火』
出獄
ナポレオン伝説(神話)
エミール・ドゥブロー

■第五章 さまよう共和主義者

七月革命
オルレアン派ではない
銀行家の王
『ラ・マルセイエーズ』
挿絵
ベストセラー
シャトーブリアン
なぜ祖国を離れるのか
パウロよ、どこへ行くのか
ロマン派の人々
後輩のシャンソニエ
栄光の頂点
ナポレオン三世

■終章

忘却
古稀

あとがき
年表
参考文献

☆・・・☆・・・☆・・・☆・・・☆

いや~充実した内容だった!
何と言ってもラファイエットについての記述が
あちらにもこちらにも登場するのが
全く期待してなかっただけに嬉しさも一入!!

シャンソンとゆー庶民の文化が話題の中心なだけに
時代を体感できるカンジで
今までにもフランス革命~ナポレオン~王政復古と
この辺りは色々読んだけど
自分にとっては1番興味深い記述が多かったね

1つ残念なのは
ベランジェが『ネロン』とゆー詩を書いてた(と手紙にあった)のだが
この詩自体はこの本には掲載されてなかったのだ。(゚д゚lll)ギャボ
ネロンは間違いなくローマ皇帝ネロだろう

ベランジェがどんな詩を書いてたのか
つまりはネロをどう捉えてたのか
ネロヲタとしては非常に気になるトコロである。(´д`;)ギャボ

ベランジェという詩人がいた―フランス革命からブルボン復古王朝まで