セム、ハム、ヤペテ~アブラハム(アブラム)

セム、ハム、ヤペテがそれぞれの民族の祖となった

殆どの日本人にはなんのこっちゃだろうが
このセム、ハム、ヤペテの3人は兄弟で
父親の名はノア

あの「ノアの箱舟」のノアだ

『旧約聖書』の「創世記」第9章~第10章によれば
この親子は方舟に乗って
大洪水を生き延びた唯一の人間の家族で
だから人類は全員ノアの子孫だとしてるのだ

但し、3人兄弟の誰を祖としてるかで
民族系統は異なってるそうだ
(元は兄弟なら同じ民族のはずなんだが・・・
とゆー突っ込みはナシでw)

『旧約聖書』によれば
セムの子孫のアブラハムの一族が
神に認められた正統な民族(※)となった
元はヘブライ人と呼ばれてたがイスラエル人と自称するようになり
ユダ王国(紀元前922年~紀元前586年)以降はユダヤ人と称された

そしてハムの息子のカナンは
カナン人の祖となったが
ハムは酔っ払って裸で寝てるノアを見たコトで
ノアに呪われて追放されてしまい
現パレスチナ辺りに追いやられたからだ

ヤペテの子孫については
『旧約聖書』の記述が途中までしかなく
その子孫がどの民族系統なのか言及されておらず

しかしギリシア神話のイアペイトスが
ヤペテと似た名前だとして同一視したのは
『失楽園』を著したジョン・ミルトンだった

でもギリシア神話と結び付けたのは無理があって
ヤペテの息子たち=イアペイトスの息子たちならば
人類に火を与えたプロメテウスや
人類初の女パンドラを娶ったエピメテウスが
ヤペテの息子ってのは
いかんせん辻褄が合わん・・・。(´д`;)ギャボ

もちろん
セムが黄色人種
ハムが黒色人種
ヤペテが白色人種
とそれぞれの祖だなんてのは
明らかに後からのこじつけであるるる~
(だから元は兄弟なら同じ民族のはずなんだってばw)

☆・・・☆・・・☆

ユダヤ民族の伝承の創世神話「創世記」と
神ヤハウェとの契約を遂行してきた歴史の記述が
1冊にまとめられて『旧約聖書』となったが
『旧約聖書』の「旧約」とは「旧い契約」の意で
後から唯一神と新しく契約したキリスト教徒によって
便宜上、『新約聖書』に対して
勝手に『旧約聖書』と名付けられたのだ

セムの子孫テラの子アブラムは
99歳の時にヤハウェと契約をして
アブラハムの名とカナンの地を与えられ
それまでカルデア(新バビロニア)のウルに住んでたが
父テラと妻サライと弟の息子ロトを連れて
カナンに向かった

そのころカナンびとがその地にいた。時に主はアブラムに現れて言われた、「わたしはあなたの子孫にこの地を与えます」。

途中のハランで父親のテラは死んでしまうが
アブラハムとサライ夫婦と息子のロトは
カナンに辿り着いて
「神がカナンの地をおれらに与えたんで
おまいらはどけ」とばかりに
ハムの子孫のカナン人は
セムの子孫のアブラハムに追いやられて
現レバノン海岸辺りへの移住を
余儀なくされた。(゚д゚lll)ギャボ

フツーに考えると
アブラハムの方が侵略者で
神の啓示があったなんてのも嘘かもしれナイが
唯一神を信仰してる民族にとっては
神に与えられた権利こそが正当な権利なのだw

ユダヤ人の選民思想は
どんなに卑劣な振る舞いをしても
絶対的な正義は神に認められたユダヤ人にあり
歯向かう相手こそが絶対的な【悪】となる

事実を捻じ曲げてでも
自身を正当化して
敵対勢力が不正であるとするのは
勧善懲悪を信奉する日本人の道徳観念では
到底、相容れず
既に理解の範疇を超えてるヽ(゚∀。)ノ

信憑性はさておき
神との約束通りにカナンを得たアブラハムだったが
その地が飢饉に見舞われると
妻のサライとエジプトに行ったΣ(゚д゚lll)ガーン

さて
エジプトで2人はどうなったか?!

  1. 奴隷として働いてなんとか貯えができて帰国した
  2. 神の恵みで良い働き口が見つかり十分に稼いで帰国した
  3. 結婚詐欺を働いてぼろ儲けして帰国した
  4. 神の預言者として厚遇されたので帰国の途につけた

大正解は3.だが
とりようによっては2.と4.も間違いではナイ

アブラハムは美人妻サライを妹と偽り
パロ(ファラオ、エジプト王の意)に取り持って
その兄として自身もパロに世話になりながら
たくさんの贈物までもらう

しかしこのサライの不倫に怒ったヤハウェは
疫病を齎すのであった!

齎されたのはアブラハムでもサライでもなくて
パロにだが・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

懼れたパロはサライをアブラハムに返し
アブラハムはパロからお土産をたんまり頂いて
エジプトを去った

これを結婚詐欺と言わずして
何と呼ぶのだ・・・バタリ ゙〓■●゙

 アブラムは妻とすべての持ち物を携え、エジプトを出てネゲブに上った。ロトも彼と共に上った(注:ロトはその後ソドムの地へ)。
 アブラムは家畜と金銀に非常に富んでいた。

セム系の遊牧民についての的を得た表現が
ゲルハルト・ヘルムの『フェニキア人』にあった

夜になると、獲物を求める盗賊となってやってきた。しかし昼間は、平和的な取引相手であった。

前夜に盗んだモノを
翌朝には盗んだ先に売りに行ってたりしそうだが
元より厳しい自然環境で暮らす遊牧民が
更に飢饉に襲われたら
一族を飢え死にさせナイためには
富める者から分捕るしかなく
その時に善意や良心や道徳観念が
彼らを救う何の役に立つのだろうか?!

自分は『旧約聖書』に対して
そんな想いを根底に感じ取れるので
現代日本人の道徳観で
一方的に批難する気は起きナイ(-_-;)

ところでアブラハムが
カルデアのウルにいたとすると
これは後の新バビロニア王国のなので
時代が合わナイ気がするが
古バビロニア王国時代の話でも
書かれたのが新バビロニア王国時代だからなのか?

何かで検証しようと思いつつ
ずっとそのままになってるるる~

白百合

白い花と言えば、真っ先に思い浮かぶのは百合だが
日本に自生の白百合となるとテッポウユリ(鉄砲百合)で
学名はLilium longiflorum

テッポウユリ
(上野不忍池付近で7月下旬に撮影)

テッポウユリは花冠筒(花弁の根元の筒部分)が長細くて
横から見ると鉄砲のような形状なのでその名がついたのだろう
ササユリ(笹百合)との比較スケッチがわかりやすい

ササユリとテッポウユリ

ササユリはその名の通り葉が笹に似てるが
学名がLilium japonicumでまさしく日本原産だ

稀に白百合(アルビノ)も存在するが
花弁が淡いピンク色で花粉は赤褐色がデフォなので
ササユリの原産地である四国・九州辺りでは
もしかしたら百合のイメージはピンクなのかもしれナイ?!

いや、鹿の子百合とか・・・

鬼百合とか・・・

山百合だってベースは白だけど
毒々しいほどの斑点模様があるるる~

百合が白いってイメージを植えつけられたのは
自分の場合は間違いなくキリスト教の受胎告知図だろうて

マリアが神の子を宿したコトを
大天使ガブリエルが告げに来る際に手にしてるのが
純潔の証しの白百合なのだよ
以下のガブリエル画像コレクションを参照してくれたまえw

バプテスマのヨハネ / 大天使 / 大天使ガブリエルとの出会い

ところでこれはダヴィンチの描いた百合のデッサンで
彼の潔癖なまでの精密さからしたら
現物と寸分違わずに描かれてるのだと断言できるが
自分には一見して百合の花と断定しづらい

いかんせん、葉が日本の百合にはナイ形で
花弁も短かめで巻きが甘いカンジ?
これはwikiの日本語版にはなかったが他言語版ではあった

英語でMadonna Lily、学名はLilium candidumで、和名はニワシロユリだ
このwikiページには数枚の写真がアップされてるが
その中の1枚のキャプションにShoshan(ショーシャーン)とあった!
ショーシャーンとかシューシャーンてのは
ヘブライ語で百合の意だ(と、『聖書植物大辞典』、『聖書象徴事典』にあった)!!

聖書植物大事典聖書象徴事典

なぜ覚えてたのかと言えば
古代ペルシアの都スーサもヘブライ語ではシューシャーンとなり
語源が百合と同じだとされてるからだが
このスサの王が『古事記』に出てくる「スサノオ」で
スサノオの別名スメラミコトは「スメラ(シュメール)の神」で
日本人のルーツが実は・・・って話に繋がるるる~

と、話が逸れた、白百合のルーツだったw
小石川後楽園の庭内のそこかしこに咲いてる白百合が
台湾固有種のタカサゴユリ(高砂百合)と知って驚愕したのは数年前のコトだ

タカサゴユリ
(小石川後楽園で8月中旬に撮影)

それとゆーのも小学生の頃に図鑑でテッポウユリとの違いを調べたら
タカサゴユリには花冠筒に薄紅色の筋が入ってる、とあったので
筋がナイ=テッポウユリ、と固く信じてたのだった(-_-;)

これがアルビノだったりで筋はなくとも
葉の形状(細い葉)でタカサゴユリであるのは明らかだったのだ。(´д`;)ギャボ
ちなみに学名はLilium formosanum

タカサゴユリ
(都市センターホテルで8月上旬に撮影)

そうと知って以来、よく注意して見てみれば
都心で見かける白百合は殆どがタカサゴユリなのだった。(゚д゚lll)ギャボ

タカサゴユリ
タカサゴユリ
タカサゴユリ

『エステル』の闇

ラシーヌの『エステル』についての殆ど総ては
ヴォルテールの『ルイ十四世の世紀』を読めばわかるのだが
やはり自分自身もその芝居を観るなり、せめて読むなりしなくては
単なるウケ売りになってしまうので
『世界古典文学全集【48】ラシーヌ』を購入して読んでみた

結論から言えばヴォルテールの言及とほぼ近い感想だったが
ヴォルテールが触れてナイ根幹的な部分にこそ自分には深く考えさせられた

比較するためにヴォルテールの言及を引用すると

(前略)荒唐無稽で、面白くもおかしくもない事件を、見せられるだけだ。王さまが一人出て来るが、半年も一緒に暮しながら、お后の素性を知らぬし、それを調べてみようともしないのだから、とうてい正気とは思えぬ。大臣がまた、ユダヤ人が、自分に敬意を表さぬというので、老若男女問わず、これを皆殺しにするよう、王さまに頼み込むなど、滑稽とも、野蛮とも、何ともいいようがない。この同じ大臣が、つまらぬことをしたもので、ユダヤ人を、十一ヶ月以内に、残らず殺せという触れを出すが、これでは、何のことはない、逃亡するなり、自衛の手段を講じるなり、勝手に振舞えということになる。王さまも王さまで、いわれもないのに、このおかしな命令に署名しておきながら、また、いわれもないのに、突然、当の気に入りの大臣を、絞り首にしてしまう。おまけに、筋らしい筋がなく、変化に乏しいし、面白みもないときているから、良識を持ち、趣味のよいものなら、うんざりするのが当然だ。

などと貶し放題だ。(´д`;)ギャボ

ここでヴォルテールが見落としてる重大な事実は
大臣の一族が先にユダヤ人に皆殺しにされてた過去があったコトである

サムエル記 (2) (ヘブライ語聖書対訳シリーズ (14))
出エジプト記 (1) (ヘブライ語聖書対訳シリーズ (3))

『旧約聖書』の「サムエル記」でイスラエル(ユダヤ人)の王サウルは
預言者サムエルに神の意思を告げられるるる~

わたしは、アマレクがイスラエルにした事、すなわちイスラエルがエジプトから上ってきた時、その途中で敵対したことについて彼らを罰するであろう。今、行ってアマレクを撃ち、そのすべての持ち物を滅ぼしつくせ。彼らをゆるすな。男も女も、幼な子も乳飲み子も、牛も羊も、らくだも、ろばも皆、殺せ。

ところがサウルはアマレクの王を生け捕り、家畜も殺さずにいたので
サムエルは神の意に背いたサウルを罪人扱い。(゚д゚lll)ギャボ

サムエルに引き渡されたアマレクの王は神の前でサムエルによって切り刻まれ
神はそれをよしとしたがサウルを王としたのを悔いた・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

後にダビデがアマレクの総てを「ぶんどり物」(※)として捕らえ
これらをまた皆殺しにして正しい大虐殺(?)の見本をやってのけたのだ
「ぶんどり物」てのは自分の持ってる聖書にそう書いてある通りだ
参考:セム、ハム、ヤペテ~アブラハム(アブラム)

マイケル・サンデルの講義に出たらサンデルもたじろぐだろう

正義=ユダヤ、以上p(-_-+)q←ユダヤ

ポカーン。(゚д゚ )←サンデル

みたいなw

とにかくユダヤ人がのさばるのに邪魔な民族は皆殺しにするのがユダヤ人の正義で
むしろ情けを起こしたりすれば神に背いた罪人と見做されるのだ

こういう民族に対して不条理を感じナイ人間だけが
もれなくキリスト教を享受できるのだな

信じる者は救われる

とは(都合)好く言ったモノで
ユダヤ人が信じる神ヤハウェは自ら選んだ民族以外を呪う神で
基本的にはヨーロピアンもアメリカンも呪われて然るべきなのだが
そこが神の子イエス・キリストの出現から解釈が変わって
ユダヤ人でなくても信じる者は救われる、となったのだ(゚*゚;)

しかも何を信じるかってユダヤ人の神ヤハウェではなく
唯一無二の神であり、キリストがその神の子であるコトであり
神を信じててもキリストを疑うのは善しとしナイ
これを父(神)と子(キリスト)と聖霊は三位一体なのだとして
非科学的、非理性的、かつ主観的な言い分で思考停止させてしまうのだなヽ(゚∀。)ノ

『エステル』がジェズイット教団にウケたのは然りで
ルターがローマ・カトリックに反旗を翻して真の信仰を説いた宗教改革に
真っ向から敵対したのがジェズイット教団(イエズス会)で
フランスではユグノーと呼ばれてたルター派の新教徒たちと衝突してた

ところでヴォルテールのみならず
ラシーヌも大臣の一族が皆殺しにされた過去をスルーしてるかと思いきや
以下のようなイスラエルの娘の台詞が見受けられた

祖先が罪を犯し、もう祖先は死んでしまった、
その罪の刑罰をわたしたちがこうむるのです。

まあこの一箇所だけでは観客には完全にスルーされただろうな(苦笑)

アハシュエロス

フローベールの『ボヴァリー夫人』のオメーがヴォルテールの信奉者で
そのヴォルテールが著書『ルイ十四世の世紀』の中で
ラシーヌを讃美してる中でも『アタリー』を高く評価してたので
オメーは自身の娘にアタリーと名付けた

と、そこまでの話は呑み込めたが
ヴォルテールがなぜ『アタリー』に対して高評価なのか
またなぜ前作の『エステル』を酷評してるのか
今一つ納得が行かナイのは当然ながら自分が観てナイからだヽ(゚∀。)ノ
参考LINK:マントノン夫人の高尚な意地悪

「百聞は一見にしかず」
換言すれば「一見が無理なら百聞を信じるしかナイ」のだが
聞くに及ばず見るに適わず、でも読めば゚+.(・∀・)゚+.゚イイワケで
『世界古典文学全集【48】ラシーヌ』を購入

『世界古典文学全集【48】ラシーヌ』には年代順に全作品が収録されてた!
そこで目的を忘れて『アレクサンドル大王』から読み始めるのは
ヲタ的には何も間違ってはいナイのだ!!

そして次にやっと『エステル』に辿り着いたのだが
本文に到達する前に序文で躓いてしまう・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

なんせラシーヌは序文で次のように述べてるのだ

わたしは、俗世のものと聖なるものとを混同することを慎重に避けたけれども、それでもアシュエリュス{アハシュエロス}をよりよく描きだすために、ヘロドトスから二、三の特徴を借りてもよいと考えた。というのは、この歴史家が語るイダスプ{ヒュスタスペス}の子の有名なダレイオス王とアシュエリュスが同じ者であると考える多くの聖書解釈学者の意見に従ったからである。

現代ではアハシュエロス=クセルクセスが通説のようだが
当時(ラシーヌの生きた17世紀頃)の聖書解釈学者や歴史家の間では
アハシュエロス=ダレイオス、しかもヒュスタスペスの子ならダレイオス1世なのか?
それともラシーヌが勘違いしてるのだろうか。(゚д゚lll)ギャボ

ヘロドトスの『歴史』巻3によればダレイオス1世は
王座を簒奪した謀反人を始末した7人の中で
取り決めに従って馬を1番先に嘶かすコトができたので王位に就いたが
ダレイオス自身には先王のキュロスやカンビュセスと同じ血は流れておらず
4人の妻の内3人が王家の娘で残る1人が謀反を看破したオタネスの娘で
ワシテやエステルに該当するような女は見受けられナイ
だいだいにおいてダレイオスの女とのエピソードはほとんど伝わってナイのだが
それとゆーのもダレイオスは戦争に明け暮れてたからだ

但しペルシア戦争に至るきっかけを作ったのは
妻アトッサにピロートークでギリシア征伐を勧められたからだが
アトッサはキュロスの娘にしてカンビュセスの妻であり
またカンビュセス亡き後には謀反を企てたマゴスの妻でもあった女で
間違いなくワシテにもエステルにも当て嵌まらナイ

ヘロドトスはダレイオスの妻(妾)との挿話をこの他に一切記述してナイので
これはやはりラシーヌの勘違いだろう。(´д`;)ギャボ

尤も現代においては『旧約聖書』に史実でナイ事象が含まれてるのは周知の事実で
それらは口承で伝えられてきた昔語りのようなモノだったのを
神と神が選んだ民族の栄光の物語、にユダヤ人が都合よく編纂してるのだw

なので『エステル記』も辺鄙な土地に伝わる物語なのかもしれなくて
アハシュエロスはダレイオスでもクセルクセスでもナイかもだ

『エステル記』を歴史的事実として検証しようと思ったら
ハマンの一族アマレク人がユダヤ人によって皆殺しにされた事件が
誰が王の時に起こったかを調べれば゚+.(・∀・)゚+.゚イイのだが
ペルシア側の史料にはそういった史実は認められナイ

エステル記 (ティンデル聖書注解)

聖書の解釈(むしろ曲解w)本の最新刊がまさに『エステル記』だったりするが

(前略)おとぎ話のように思われがちなエステル記の史実性にさまざまな資料から迫り、またモルデカイの傀儡のように見なされがちなエステルの自立性にも焦点を当てる。ユダヤ人問題にも触れる画期的な注解書。

てなワケで史実としての確たる資料がナイコトがよくわかるるる~
LINK:ティンデル聖書注解

それにしても『エステル記』の史実性についてググってたら
キリスト教信者はヲタとしては本トにレベル高くて
信じてる姿になんとか近づけるために事実無根でもでっちあげて
最終的には精神論で何かの比喩であると片付けて納得させるってコトを
改めて実感してしまったのが以下のLINK記事とか・・・ヽ(゚∀。)ノ
LINK:アマレク―後編

  アラビアやその周辺諸国には、アマレク人に関するたくさんのおとぎ話があります。これらのおとぎ話には根拠はありませんが、多くのアラビア、イスラム作家がアマレク人についての物語を創作してきました。さらに最近になって、イスラム作家たちは「イスラエルの大量虐殺による不運な犠牲者」としてアマレク人を描くようになりました。

確かに世界中に御伽噺はあって解釈は自由だが
上記のようにはっきりと自身でも「おとぎ話」で「根拠はありません」
「イスラム作家がアマレク人についての物語を創作してきました」とまで書いてるのに
そのすぐ後には次のように記してるのだ

 イスラム作家たちが書くアマレク人の物語は架空のものですが、アマレクとその子孫が確かに存在していたことは歴史的事実です。なぜなら、彼らについて明確な記述が聖書にあるからです。

架空ですが聖書にあれば歴史的事実です、なんて
信者以外には何の説得力もナイのに力説してるのが痛い、痛過ぎるるる~

単にペルシアに伝わる美しくも残忍な奴隷女の物語としたら
それはそれで自分は好きだけどね
LINK:アハシュエロス王との謁見のために化粧をするエステル

マントノン夫人の高尚な意地悪

ラシーヌの『エステル』と『アタリー』について述べてる箇所が
ヴォルテールの『ルイ十四世の世紀』の第2巻にあった

まず『エステル』と『アタリー』の訳注を見てみると次のようにある

『エステル』(Esther)及び『アタリー』(Athalie)
ラシーヌの創作活動の最後を飾るこの二作は、いずれも旧約聖書に取材し、合唱隊を登場させてギリシャ悲劇の形式に近づけてあり、晩年キリスト教に深く帰依するようになった作者が、悲劇の世界に新しい境地を開いたものとして注目される。
「アタリー」が初演当初成功しなかったのは、サン・シールの女生徒たちに対する宗教教育上の配慮から、衣装や装置を極端に簡素にしてしまったためとも言われるが、今日では、ラシーヌの代表作の一つとして、高く評価されている。

そして『ルイ十四世の世紀』の第27章には
モンテスパン夫人に代わって王の寵を受けるようになったマントノン夫人が
ラシーヌに『エステル』を依頼した経緯が以下のようにあった

知的な楽しみを復活させたのは、サン・シールの女学校である。ラシーヌは、ヤンセニスムと宮廷に気兼ねして、劇作を断念していたが、マントゥノン夫人が、このラシーヌに頼んで、自分の学校の生徒に上演できるような悲劇を作らせた。主題は聖書からとるというのが、その希望である。

王が病気になり、宮廷での艶やかな宴を一切取り止めてから
以来、観劇に姿を現すコトもなくなって
宮廷のみならず国中が塞いでた状態だったのだが
そこでマントノン夫人がささかやな観劇を自らの学院の生徒によって催し

まず、サン・シールの校内で、それから、1689年の冬、ヴェルサイユで、何度も、王の御前で上演される。

これに続く意表をつく文章が以下だ

宗教界の歴々や、ジェズイット教団の僧侶たちが、この妙な芝居を見ようとして、許可を得るのに汲々たるありさま。この作品が、当時、完全な成功を収めたのにひきかえ、二年後、『アタリー』が、同じ人々の手で上演され、全くの不首尾に終ったのは、注目に値する。

『エステル』は素人の女生徒による「妙な芝居」でもウケたらしい(゚ ゚;)
しかも宗教界の歴々やジェズイット教団の僧侶たちに?!
ところが『アタリー』は同じように「妙な芝居」であっても不評だった(-_-;)
それも宗教界の歴々やジェズイット教団の僧侶たちに?!

更にヴォルテール曰く

この両者が、作者の死後久しくしてから、パリで上演された時には、結果は正に正反対だったが、これは宮廷内の人間関係が変わったからだ。『アタリー』は、1717年に上演され、当然のことながら、感激の渦を巻き起こした。『エステル』の方は、1721年に上演されたが、何の反応もなく、その後二度と日の目を見ぬ。

キタ ━━━━━(゚∀゚)━━━━━ !

『エステル』はどうやら自分の予想してた通りに
ルイ14世の愛妾マントノン夫人の思惑に則った脚本だったようだ!!

つまり王の寵愛を過度に受けるエステルに自身を擬えてた芝居で
観ててそういうコトだとわかって権勢を誇る夫人へのお追従が絶えなかったのが
好評に繋がったのだな。(´д`;)ギャボ

ヴォルテールは「作者の死後」としてるが
要するにもうお追従は不要なマントノン夫人の権威の失墜後(※)で
だから1717年の『アタリー』の上演時も1721年の『エステル』の上演の際も
改めてプロの演劇集団による公演に正当な評価が下されたのだったが
その結果は『アタリー』の大当たり~(殴)
ルイ14世が1715年に没してるのでその少し前だろう

ところでヴォルテールは1ページ近く割いて『エステル』をクソ貶しに貶してるが
詩としては実に素晴らしい、と締め括ってラシーヌ自身を貶してはいナイ

ボヴァリー夫人 (河出文庫)

さてここで当初の疑問に話を戻すと
『ボヴァリー夫人』のオメーが娘にアタリーと名付けたのは
ヴォルテールに共鳴してるのだと合点が行った!
なぜならオメーは自らが神と仰ぐ人物を次のように挙げてる!!

ソクラテス、フランクリン、ヴォルテール、ベランジェの神だ!

ヴォルテールの言はオメーにとってキリストの福音なのだ(-人-;)

それにしてもマントノン夫人は
エステルに擬えられてさぞご満悦だっただろうが
マントノン夫人によって退けられたモンテスパン夫人も
アハシュエロスの元正妻ヴァスチ(ワシテ)に譬えられてて
さぞや悔しい思いをしてたのだろう

そう想像するとマントノン夫人もたいがいな女だが
意地悪の仕方が余りにも高尚なのがなんだか素敵に思えてくるし
それにそうとわかって耐えるモンテスパン夫人にしても
また更にそこでマントノン夫人に媚び諂ってる輩にしたってさえ
なんてインテリジェンスなのかと感動してしまうよなヽ(゚∀。)ノ

ヴォルテールにしてみればそれ以上に
不寛容なジェズイット教団の連中が『エステル』を絶賛してる図ワロタ
てなカンジなのかね(゚*゚;)

そしてそういう総てを踏まえてオメーのキャラクター設定を施したのだから
自分にはフローベールこそが神だな。(゚д゚lll)ギャボ

ラシーヌの『エステル』

『エステル』の原典も『アタリー』と同じく『旧約聖書』なのだが
こちらは目次に「エステル記」とあるので探す手間は不要

ペルシアの専制君主と美しい女奴隷の物語、てのが朧気な認識だったが
冒頭に首都がスサとあり

アハシュエロスすなわちインドからエチオピヤまで127州を治めた

てコトはアケメネス朝ペルシアの話で
確認するとアハシュエロス=クセルクセス1世じゃナイか。(゚д゚lll)ギャボ

歴史 下 (岩波文庫 青 405-3)

慌ててヘロドトスの『歴史』を開いてみると
「エステル記」と同じエピソードは見つからなかったが
クセルクセスもアハシュエロスと似たようなコトをしてたので
同一人物である確証が持てた。(´д`;)ギャボ

『歴史』の下巻にある【巻9】でクセルクセスは弟のマシステスの妻に横恋慕して
無碍にされたのでこの女自体は諦めたが
この弟夫婦の娘(名前は不明)を息子ダレイオスに嫁すよう取り計らいながらも
息子の嫁であるコトはお構いなしに自身の愛人にしてしまう・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

そこでクセルクセスは満足させてくれた娘に言う
「欲しいモノは何でも与えよう」と!

「エステル記」のアハシュエロスもエステルに会う度にこう言う!!

「王妃エステルよ、あなたの求めることは何か。あなたの願いは何か。国の半ばでもあなたに与えよう。」

これだけで既に同一人物な気がしてきたが
ここでユダヤ人のエステルがアハシュエロスに請いたモノが凄まじい!

1.ユダヤ人大量虐殺計画を企てた寵臣ハマンとその一族の処刑
2.エステルの叔父モルデカイの手柄に対しての取立て

ユダヤ人がユダヤ人大量虐殺計画の中止を請願するのはわかるが
当の寵臣とその息子ら10人の処刑では飽き足らず
一族の占めて7万5千人の殺戮をユダヤ人が行う許可を求めたのだ!!
ちなみにエステルの叔父の手柄とは王の暗殺計画を看破したコトだ

『旧約聖書』ではユダヤ人は神に選ばれた民族であるから
ユダヤ人が何をしても常に正義であり、危害を加え(ようとす)る者は容赦しナイ
とゆー道理を無理に通すために著された経典で
そういう意味でユダヤ人であるエステルの行いはユダヤ人にとっては正しいが
第三者の立場から見るとエステルこそ残忍酷薄に見えてしまう(苦笑)

アハシュエロスも寵妃エステルの望みを叶えたいだけなので悪意はナイのだろうが
言われるままに従って満足してて、正義も道理も憐憫の情もへったくれもナイ

一方、ヘロドトスによればクセルクセスも
娘(愛人となった息子ダレイオスの嫁)に誓言までして望みを叶えようとしたものの
娘が欲したモノがエステルに比べたらたわいナイモノでありながら
禍の元凶となり得るモノだったので困惑した(゚*゚;)
なんせクセルクセスが着てる正妻アメストリスの織った上着なのだからしてw
世の浮気男の常らしく、正妻には頭が上がらナイのだなヽ(゚∀。)ノ

それでも結局クセルクセスは娘に上着を与えてしまい
そうと知って激怒した正妻は報復に出る。(´д`;)ギャボ
しかも当の娘ではなくその母親に矛先を向ける。(゚д゚lll)ギャボ

元はと言えばクセルクセスはこの母親の方にこそ横恋慕してたので
正妻にしてみれば待ちかねた復讐だったかもしれナイし
クセルクセスのお気に入りの娘に傷をつければ
自身も不興を買ってしまうため母親の方にしたのか?!

いずれにしろ凄惨過ぎる仕打ちは以下の通り・・・

正妻は母親の身柄を自身に預けるようクセルクセスに掛け合うが
弟のマシステスの妻なので兄としては勝手に身柄を拘束するワケには行かず
まずはマシステスに離別を申し渡した・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

もちろんマシステスは離婚を受け入れようもなかったが
クセルクセスがそうして言い含めてる間にマシステスの妻は既に制裁を受けてて
帰宅したマシステスが見た妻は乳房も鼻も耳も舌も切られてた・・・((((; ゜Д゜))) ガクガクブルブル

事態に激昂したマシステスは兵を挙げるもクセルクセスに討ち取られるるる~

よく調べ物のために紐解く『旧約聖書』の中でも『歴史』の中でも
今までは引っかからなくて記憶に留めてなかった部分だったが
こうして改めて読んでみるとあんまりな話だな・・・バタリ ゙〓■●゙

ところで『旧約聖書』の「エステル記」では
アハシュエロスの正妻はワシテ(ヴァスチ)だったのだが
王の不興を買って王妃の位を剥奪されてしまい
そこへ代わって王妃の座についたのがエステルなのである
なのでこの『歴史』のクセルクセスの横恋慕から始まる一連の事件の時の正妻は
既にワシテではなくエステルなのではナイかと思うのだがどうだろう?
いや、この報復の残虐ぶりはエステルに間違いナイ(-人-;)
アメストリス=エステルに1票p(-_-+)q

ラシーヌの『アタリー』と『エステル』

ラシーヌの『フェードル / アンドロマック』が2006年に岩波文庫で復刊されたのを買い
巻末の「ジャン・ラシーヌ略年譜」に『アタリー』を発見したコトによって
フローベールの『ボヴァリー婦人』のオメーの娘の名アタリーの由来について改めて考察し始めたが
同じ年の暮れにまとめて購入した筑摩世界文学大系にも『フェードル』が収録されてた
LINK:筑摩世界文学大系【14】古典劇集

岩波文庫版の訳者渡辺守章による「解説」は30ページ以上に及び
読み応えはあっても残念ながら『アタリー』についての言及はなかったが
筑摩世界文学大系の方は訳者二宮フサによる解説が丸1ページ(※)で
概要は「ジャン・ラシーヌの作品群とその時代背景」と題するべきモノで
『アタリー』についても次のような決定的な事実が記されてた
筑摩世界文学大系の1ページは岩波文庫の3ページ分以上に相当する

とにかくラシーヌは1677年1月の『フェードル』上演を最後に、演劇の世界と絶縁した。彼が後年聖書に取材した宗教悲劇『エステル』、『アタリー』を書いたのは、当時のルイ14世の寵妃マントノン夫人の要請によるもので、2篇とも夫人の設立したサン・シールの女生徒たちによって演じられたのである。

ここへきて重要な見落としに気づいたのは
『アタリー』には必ず付随して『エステル』が絡んでた事実だ
Bajazet / Mithridate / Iphigenie / Phedre / Esther / Athalie [French]
二宮の上記引用によれば『エステル』も『アタリー』も
ラシーヌが演劇界と絶縁した後(※)の『旧約聖書』を題材とした作品で
マントノン夫人の要請でサン・シールの女生徒が演じるために書かれたのだった
ラシーヌが『フェードル』以降に書いたのは『エステル』と『アタリー』2作品のみ

改めて渡辺の『フェードル / アンドロマック』の巻末の「ジャン・ラシーヌ略年譜」で
『エステル』について確認すると次のようにあった

旧約聖書に基づき、ジャン=バチスト・モローが作曲した「合唱入り悲劇」は非常に国王の気に入り、宮廷中の話題となる。

ちょっと待て(-_-;)

『エステル』は素人の女生徒だけによって演じられたのなら
どれほど脚本が優れていようがお世辞にも絶賛されるようなモノではなかっただろう

宝塚のエンターテイメント性を知る現代人の自分にとっては
女生徒だけの芝居は微笑ましくも思える反面
日々の過酷な練習が宝塚の完成度を高めてると知ってて
貴族の孤児を寄せ集めただけの学校のクラブ活動が
同じレベルに到達するコトは断じて在り得ナイと思えるのだ。(´д`;)ギャボ

それでも『エステル』が

国王の気に入り、宮廷中の話題となる

なんて成功を収めてたとしたら
そこには芝居の出来とは別の要因がウケてたに違いナイのだ。(゚д゚lll)ギャボ

とりあえず『エステル』も『アタリー』も『旧約聖書』が原典なのはわかったし
『エステル』は目次にもある「エステル記」でペルシアの話だろうが
「アタリー記」てのはナイしその名に覚えがナイヽ(゚∀。)ノ

しかし『旧約聖書』は小学生の時に読破したので一応総てが既読の物語で
中には興味深く繰り返し読んでる部分とそうでナイ部分があり
記憶にナイアタリーの名が出てくるとしたら
特におもしろいと感じなくてすすんで読み返してなくて
更に参照すべき重大な記述(有名な場面、例えば預言とか)も含まれてなくて
しかも読み切り的に挿入されてるエピソードなのではナイかと予想でき
「列王紀」(※)の辺りと狙いを定めてたら下巻の第8章にアタリヤの名を発見できた
LINK:列王紀下8
自分の持ってる1955年発行の日本聖書協会の旧約聖書ではこの列王紀だけが「紀」の字を使ってる(他は「記」)

あらすじをものすごく簡単に述べると
異教の神バアルを信仰したために滅びた民族の話で
王アハジヤの母親でアハジヤ亡き後に王位を継いだのがアタリーだ

ユダヤ教徒からすれば異教徒=悪だったので
預言者エリシャはラモテ・ギレアデのエヒウなる者に
イスラエルの王ヨラムとユダの王アハジヤを撃ち
その一族アハブ王家を滅亡させて替わって王となるようけしかけた

エヒウは言われるままにヨラムとアハジヤを殺した後
ヨラムの母親のイゼベルを宦官に命じて惨殺させた(投げ落として馬に踏ませた)
ところがイゼベルは王の娘であったためその遺骸を葬るよう指示するが
頭蓋骨と手足しか見つからなかったと報告を受けた途端エヒウは
「だろ?犬に食われるって預言あったわw」って・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

アハブ王家へのエヒウの残虐行為は続き
王の子ら70人の首を籠に詰めて持ってこさせるわ
一族の42人が身を隠してるのを見つけて皆殺しにするわ
自身もバアル信仰をすると嘘を流布して
信者を神殿に集めて皆殺しにして神殿も破壊した

その殺戮に至る理由が異教徒であるコトだけなのは
現代日本人にとってはマジキチとしか思えナイが
当のエヒウにしてみると神の言を代弁する預言者によって
異教徒を一掃して代わって王になる使命を受けたので
それを生真面目にまっとうしてるだけなのだヽ(゚∀。)ノ

王となったエヒウはイスラエルを統治してたが治世28年で没し
一方、息子アハジヤを失いながらも生き延びたアタリーは
バアルを信仰しながら6年間国を治めてたのだが
ユダヤ教の神官にクーデターを起こされて殺された

ラシーヌの脚本はどんなだろうか想像もつかナイな・・・

大いなるパーンは死せり

昭和生まれで子供の頃に星座の名の由来に興味があったなら
きっと野尻抱影の本を読んでただろう

自分ももれなくそんな一人で
ギリシア神話自体が野尻の著書で初めて読んだし
そこに鏤められた星座に纏わるエピソード群を拠点として
ギリシア(ローマ)神話の世界観が構築されてったが
一通りわかった気になったトコロで手放してしまって四半世紀経過ヽ(゚∀。)ノ

代わって、この10年来に何十冊もギリシア・ローマ神話の本を購入したが
読めば読むほど、その世界観が覆されてった。(゚д゚lll)ギャボ

同じエピソードでも著者によって内容がマチマチであり
しかも辻褄が合わナイのを無理矢理こじつけてたりするので
改めて神話に異説は付き物だと思い知った。(´д`;)ギャボ

所詮は神話であって
史実でナイのはもちろんだが単なる伝承や英雄伝説より信憑性に欠くし
そこに最初から真も偽もナイのだが
だからこそ自分にとって納得が行くように編纂して
真とすれば゚+.(・∀・)゚+.゚イイとも思うのだ

むしろ史実だって確実な事象は確固たる事実として脳内に留めるが
それ以上にその時代を担った人々の心理を読み解いて
真実がどうあったのかを思索するコトこそ
歴史を学ぶ意味があるるる~

総ての神話はぶっちゃけ人間による創作だろうが
神話を創り上げる過程においてどんな想いがあったのか
神や怪物は何の比喩で、英雄に映し出された理想の人間像は何の教訓か
そしてなぜ民族の中で信じられて伝えられてきたのか
そこを深読みするのが醍醐味なのだ(*^^*)

ニーチェとヘーゲル―ディオニュソス哲学の地下通路

それにしたってニーチェが『悲劇の誕生』で比喩に使うほど
アポロンもディオニュソスも明確な切り分けができるキャラクターではなく
逆にギリシア神話の神において最も近しい2柱とも言え
違うのは容貌の美醜と信奉されてる場所(神殿か森か)くらいだ

なんせ両者とも音楽と酒がついて回り
美女との恋愛には全く縁がナイ非モテなのだ・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

ツァラトゥストラ (中公文庫)

ニーチェついでに『ツァラトゥストラ』で「神は死んだ」てのがあるが
これはプルタルコスの『モラリア』【5】「神託の衰微について」に
船上で「大いなるパーンは死せり!」との天の声を耳にした逸話が載ってて
後世のご都合主義のキリスト教が
古代の総ての神に代わってイエス・キリストが唯一神になった
などと勝手に解釈したのだ(゚*゚;)

逸話自体に何の根拠もナイのに
それに対するまた更にまるで根拠のナイ解釈で
まともなおつむをしてたらとても納得できナイが
これを当然のように妄信してしまうキリスト教徒に危惧して
この台詞を逆手にとって皮肉を言ってるのだ

モラリア〈5〉 (西洋古典叢書)

だがしかし
自分にはこのプルタルコスの伝える逸話にどうも不信感を抱いてて
3年前にやっと邦訳された『モラリア』【5】を読んでみて
謎が解けた気がしたΣ(゚д゚lll)ガーン

まあ謎解きは長~くなるから後日にして
とにかく酒の神ディオニュソス(バッカス)と牧神パーンと
山羊の角と脚を持ったファウヌス、サテュロス、シレノスの類は
ギリシア・ローマ神話の中で混同されてるので
あちこち読み漁るほどに困惑が増すとゆー有り様なのだが
そんな迷宮から脱出するのには初心に帰るのが1番で
前述したかつての愛読書である野尻の『星の神話・伝説』を入手して
「やぎ座」の項目をたった2ページ読んで万事解決p(-_-+)q

 山羊といっても、魚の尾をしているふしぎな『海山羊』です。そして、これもいて座の半人半馬の怪人などとおなじく、西アジアの星座から伝わったもので、バビロニアの古い彫刻にこの姿が残っています。

そうなのだった!
これらの半獣神の起源はバビロニアの占星術由来なのだった!!
で、1年前に書いた記事[Goats Head Soup]を大幅に修正した(汗)

 パアンというのは、ギリシアの森林と野原の神で、山羊の角と、毛のはえたとがった耳で、足にもひずめがありました。
 彼はいつも山のほら穴に住み、いたってのんきで、遊び好きで、夕ぐれになると穴から出てきて、おなじ半人半獣のサチュロスと、森や谷川の精女(ニンフ)たちを追いまわしたり、ヨシの茎で作ったシリンクスという笛をふいて羊飼いや精女(ニンフ)たちとおどったりしていました。
 あるとき、神々がナイル川の岸で酒盛りをひらき、パアンはヨシの笛をふいて、興をそえていました。そこへ、怪物ティフォン(うお座参照)が現れたので、神々はあわてて、思い思いの形にかわってにげました。パアンも山羊になってナイル川にとびこんだのですが、水にひたった部分だけ魚の尾にかわり、外にでていた部分は山羊のままでした。
 このできごとの記念に、大神ゼウスが、その形を星座に伝えたといいます。しかし、これは、山羊の尾が魚になっているのを、むりに説明した話です。

スッ ━━━━━ ゚+.(゚∀゚)゚+.゚━━━━━ キリ!

ちなみに日本語版Wikipediaの山羊座の項目
出典は明らかにされてはいナイが間違いなく野尻のこの本だなw

うお座参照、とあるのでうお座も見てみるるる~

 この二ひきの魚は、愛の女神アフロディテーと、その子エロースとが、ユウフラテス川の岸を歩いていると、怪物ティフォーンがおどしにでてきたので、親子はあわてて川へとびこみ、魚にばけて逃げました。
 その記念にアテーネ女神が、二ひきの魚を星の間に加えたものと伝えられます。
 この神話は、やぎ座、みなみのうお座にも通じていますが、古代バビロニアでも、この星座を魚と呼んで、女神アシュタルテとその子になっていたので、それがギリシアに伝わって変化したものと思われます。アシュタルテは、ギリシアのアフロディテー(ヴィーナス)と同じ女神で、星では金星にあたります。

このバビロニアのアシュタルテは
アッシリア(アッカド語)のイシュタル由来で
イシュタルは元はと言えばシュメールのイナンナなワケだが
イナンナの夫がドゥムジ、イシュタルの夫・・・もとい愛人はタンムズとなり
このタンムズへの信仰が「大いなるパーンは死せり!」の
謎解きの鍵なのだ・・・愉しいねえ(^▽^*)

イナンナ

バイオテクノロジーがカッコ゚+.(・∀・)゚+.゚イイ

そんなノリで学生時代は科学を学んできたが
最先端の科学とはまるで縁のナイ職業に就いた際には
心の隙間を埋めるようにむしろ科学の本を読み漁るようになった

講談社のブルーバックスが必ずバッグに入ってたし
Newtonの興味ある特集号もよく買ってたが
何よりも定期購読してたQuarkの発売日が楽しみだったのは
古代文明の遺跡の特集ページで今でもとってある(本体は捨てても!)

人生において科学好きになったのはダーウィンの『ビーグル号航海記』だが
深く学びたくなったきっかけはシュリーマンの『古代への情熱』で
要するに化石や遺跡に心惹かれたのだった
そりゃあもう妄想ヲタにはうってつけの素材だよなヽ(゚∀。)ノ

1番愉しい妄想は生命の誕生や人類の起源だったが
有史以前から古代までの神話と伝承と史実が絡み合ってる様相も
神話や伝承こそが史実以上に民族の精神世界を知り得るし
解明が待ち遠しくも謎だからこそ魅力的だった

フェニキア人はアルファベットを発明してて
ビブロスがパピルスの名産地であるにも関わらず
自らの歴史を書き残さなかったのが皮肉的で゚+.(・∀・)゚+.゚イイし
アレクサンドロス大王に残滅させられたテュロスとか
ローマ軍を打ち負かしたハンニバルとか
近所にチュニジア大使館があったりするのも偶然ではナイような気がしてて
蔵書リストのサイトにも独立した項目を作成してあるるる~

シュメール人の場合はもっと単純に
彼らこそが人類最古の文明の源流だと知って夢中になって
史実に基づいたシュメール文明年表をせっせと作成して悦に入ったり
世界最古の長編叙事詩『ギルガメシュ叙事詩』を
自分なりの解釈でイラスト入りでサイトにアップしてみたりもした(←妄想ヲタ炸裂w)

とりあえずシュメール人はしっかり書き残してる(※)だけあって
フェニキア人に比べたらいかんせん古いのだが
神話や伝承から史実に至るまで資料には事欠かナイのだ
とはいえ、邦訳されたモノは限られてた
粘土板に楔で彫ってるのだから、正しくは書いてたワケではナイがw

イナンナ 上弦の巻 (モーニングKCDX)

それでもシュメール神話「イナンナとドゥムジ」は
『七つの愛の物語』になんと64ページにも渡って載ってたので
ありがたく読んでみたものの・・・何が何やら???

さっぱりわからんてヽ(゚∀。)ノ

まず原典通りに訳されてて元からわけわからん話なのか
訳した時の解釈がおかしいのか?

これはアメリカ人女性のストーリーテラーが再話してるので
恐らく通常の再話、つまり子供向けに解かり易く書き直されたようなのと違って
大人が読み聞かせられて感動し易いように
神話の正統性は多少欠いたとしても
よりドラマティックな要素の方が重要視されてるのではなかろうか?

だがしかし参考文献や改変した部分についての解説なども全くナイし
他に比較すべき資料もなければ、それは推測に過ぎナイ

具体的にどの辺が意味不明なのかの前に
主要な登場人物(神含む、てかほとんど神)を一通り挙げると
主役のイナンナは月の神ナンナと月の女神ニンガルの娘で
イナンナの兄は太陽神ウトゥで
この兄の決めたイナンナの結婚相手が羊飼いのドゥムジで
ドゥムジの父はエンキ、母はシルトゥル、姉がゲシュティンアンナで
最初の方で簡潔に創世と神々(※)が語られてるが
そこに出てくる冥界の女王エレシュキガルはイナンナの姉らしい
天界の神アン、大気の神エンリル、冥界の女王エレシュキガル、知恵の神エンキ

イナンナは婚約者が羊飼いであるのが最初は気に入らなかったが
初夜を迎えてみればドゥムジの虜になっており
そこでなぜかイナンナは突然冥界に行き
また冥界で裁かれたイナンナは死を齎されてしまい
イナンナを冥界から連れ戻すために身代わりをどうするかで
迷った挙句にドゥムジを立てるるる~

イナンナの死に対して哀悼の態度が見受けられなかった
てのはドゥムジを身代わりにした理由としてはわからなくもナイが
それにしてもドゥムジが妻の死を悼まなかったのがなぜかも謎だし
そもそもなぜイナンナが冥界に行ったのかも
そこでなぜ裁かれて死ななければならナイのかも
どうして身代わりが必要で、逆にどうして身代わりでも問題ナイのか

さっぱりわからんてヽ(゚∀。)ノ

この物語において感慨深いのは
イナンナとドゥムジの初夜の赤裸々かつ詩的な描写だけで
でもイナンナの気持ちの変化が汲み取りにくくて
なんかB級ホラーポルノを観てるような感覚に陥ってしまって
読後感が気まずかった。(´д`;)ギャボ

ある意味、イナンナは快楽に対して奔放であり従順でもあり
そうしてはっきり認めた男であるドゥムジに対して
愛を誓うからこそ、裏切りを許さナイ面もあり
愛情深い分だけ憎悪も激しいのかね。(゚д゚lll)ギャボ

いや、もしかしたらテーマはSEXの快楽こそが重要であって
あとはどうでも゚+.(・∀・)゚+.゚イイのか?!

ビブロス(イシスとオシリス)

赤地に黒でセンシティヴで流麗なライン
ビアズリーかハリー・クラークのようなイラスト
中心には黒地で金枠に金の文字

七つの愛の物語―「イシスとオシリス」から「トリスタンとイゾルデ」まで

そんな表紙の美しい装丁の本『七つの愛の物語』には
ヨーロッパやオリエントの原初の愛の物語が
タイトル通りに7つ収録されてる

エジプト神話★イシスとオシリス
シュメール(メソポタミア)神話★イナンナとドゥムジ
インド神話★シヴァとサティー
ヘブライ人(イスラエル人、ユダヤ人)の伝承★雅歌
ギリシア神話・ラテン文学★プシュケーとエロース
アラビア人(ペルシア人、セム族)の伝承★ライラーとマジュヌーン
ロマンス(中世ヨーロッパの騎士物語)★トリスタンとイゾルデ

これらの中で「トリスタンとイゾルデ」は何冊も持ってるほどのヲタで
それでも飽き足らずに「トリスタンとイゾルデ」をググってて
この『七つの愛の物語』に出会った(のは2004年)

ギリシア神話もラテン文学もヲタなので
「プシュケーとエロース(アモルとプシュケ)」も
アプレイウスの『黄金の驢馬』の挿話としてよく知った話だった

その『黄金の驢馬』の最後に登場するのがイシスとオシリスで
エジプト神話由来の夫婦(兄妹)神だとは知ってたが
なんせプルタルコスの論文『イシスとオシリスについて』でしか読んでなくて
この神話の内容はどうも朧気だったのだ

では、これから神話を物語りますが、できるだけ手短に、まったく無用の余計な部分は省略することにしましょう。

そう前置きしつつ『イシスとオシリスについて』でも一応あらすじを紹介してはいるが
むしろ逆に無駄にプルタルコスお得意の薀蓄を織り交ぜてくるので
話が横道に逸れまくるわ、1つの単語を深く掘り下げ過ぎるわ
輪郭がさっぱり掴めんてヽ(゚∀。)ノ

しかもそうしてストーリーもはっきりわからナイワリには
違和感を感じて引っかかってしまう箇所があって
例えば、イシスの父親がヘルメスだとか。(´д`;)ギャボ
セト=テュポンとか、オシリス=ディオニュソスとか。(゚д゚lll)ギャボ
まあこういった系譜の異説や異民族間でのすり替えは神話ではよくあるコトだがw

但し、プルタルコスは古代ローマの神官(※)だったが
古代ギリシアの哲学者のような自然哲学に対する考察力があり
神と称される信奉の根源的存在を一種の象徴と捉えてる部分があり
各民族の信仰の由来が近似だった神同士を結びつけてるので説得力はあるるる~
アポロンを祀るデルポイ神殿に仕えてた

それでもどうにも納得が行かナイのは
オシリスの棺が流れ着いたのがビブロスだったってコトで
ウェルギリウスの『アエネーイス』にしてもだが
古代ローマ人が信じてるフェニキア人の各都市の成立年代(※)ってのが
史実より明らかに古過ぎるのだよな(-_-;)
ヘロドトスの『歴史』がフェニキア人についての記述から始まってるのが誤解の元かと推測

エジプト創世神話の時代にビブロスが既に都市化してて
トロイ戦争の頃にはカルタゴが建国されてたなんて・・・バタリ ゙〓■●゙

いや、神話の中で1,000年のズレがあるのは気にならナイが
人類史としたら100年もズレてたら嘘になってしまう
神は1,000年生きるだろうが人は100年も歳をとらずにはいられナイのだ

だからフェニキア人の史実を誤って神話に取り入れたために
神話としても不確実性を露呈してしまってるのがなんとも惜しい気がするのだ

ちなみにゲルハルト・ヘルムの『フェニキア人』によれば
確かにビブロスの遺跡は他のレバノン海岸沿いの都市と比して最も古く
最古で紀元前4,500年頃の村落跡が発見されてるが
イシスが訪ねたような王宮となると村落などではなく
もっと都市化された紀元前2,900年頃より以降と想定されるので
エジプト第1王朝(紀元前3,100年頃)よりも新しい

そもそも同じく『フェニキア人』によればビブロスの呼称は

ブブロスあるいはビュブロスは単に、強大なフェニキアの共同体の名というだけでなく、また、パピルス、すなわち紙の原料を表わすギリシア語でもあったのだ。のちに、それからビブリオン、すなわち本という表現ができ、最後にルナンが集中的に研究していた聖書(ビブル)になった。

パピルスあってこその名称でそう呼んだのも古代ギリシア人てコトは
少なくとも紀元前2,000年以降と更に新しく想定せねばなるまいて(゚*゚;)

対するイシスとオシリスの年代の古さだが
まず混沌からアトゥム=ラーが生じて
シュー(空気もしくは大気)とテフヌト(蒸気もしくは湿気)を産み
シューとテフヌトがゲブ(大地)とヌト(天空)を
ゲブとヌトがイシスとオシリスを産んだとされてるのだから
実はエジプト第1王朝とかのレベルではナイのだ

それはそれとしてイシスとオシリスが1,000年以上とか生きてて
それより前の世代は億単位の年数を生きてるとすると
科学史とはある意味で辻褄が合ってるのだが?!

ゲブとヌトが生まれたのはその名の通りに大地と天空ができた時で
シューとテフヌトが生まれたのは地球ができた45億年前で
アトゥム=ラーが生まれたのはビッグ・バンとか?!

古代エジプト人が地球外生物かと疑われる所以はこの創世神話かΣ(゚д゚lll)ガーン