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トルストイは『モーパッサン論』において
モーパッサンのある部分を絶賛して
ある部分に対して残念がってる

モーパッサンの『女の一生』では
善良な女が不埒な夫と放蕩息子に悩まされるが
トルストイの解釈ではこの女が
『旧約聖書』の「ヨブ記」に譬えられてて
要約すると・・・
道徳的な女が不道徳な男に踏み躙られる不幸と
その不幸が誰にも理解されナイコトを
深く感動的に描いてると絶賛し
以降の長編、特に次いで書かれた『ベラミ』は
美しい純潔な魂と社会の堕落との衝突が
同じように描かれてても
不道徳な登場人物の方にこそ
作者が肩入れしてるように思えて
濡れ場における詳細な描写も
芸術性を損なってると残念がってる

モーパッサンがなぜ
トルストイにとって残念な長編を書いてしまうのかは
以下の言にあるように
トルストイも根本的にわかってはいる

 モーパッサンが出入りしていたサークルで、芸術が奉仕すべき美として昔も今も認められているのは、何よりもまず女、若い、美しい、しかも多くは裸体の女、それからその女との性的な交渉である。そう認めてきた人々の中には、単にモーパッサンの≪芸術≫上のすべての仲間、つまりが画家や彫刻家や小説家や詩人ばかりではなく、若い世代の教師たる哲学者もふくまれている。

しかし理解するコトと納得するコトは別なので
ルナンの『マルクス・アウレリウスについて』から
以下の言葉を批判的に引用してくる

キリスト教の欠陥はここにはっきりあらわれている。つまりキリスト教はもっぱら道徳的でありすぎるのだ。美は完全にしめ出されている。ところが、円満具足の哲学の眼からみると、美はうわべだけの長所、危険なもの、不都合なものであるどころではない。それは徳と同じく、神のたまものなのだ、美には徳に匹敵する価値がある。美しい女は天才や、徳の高い女と全く同じように、神の意図の一面、神の目的のひとつをあらわしている。美しい女はそのことを知っているからこそ、おのずと気位が高くなるのだ。美しい女は自分が体内に持っている無限の宝を本能的に感知する。(後略)

(後略)の後もトルストイは
ルナンの美女讃歌を延々と引用して
「宝石を身に付けたり、化粧をしたり、髪型や服装に凝ったり、
女がその美しさを際立たせるようとするのは正しい行い」
としてる部分に次のように
皮肉な解釈を入れてくるワケだ。(゚д゚lll)ギャボ

してみれば、この若い世代の指導者{ルナン}の考えでは、ようやく、現代にいたって、パリの裁縫師や理髪師がキリスト教の犯したあやまちをただし、美のために本来の、そして最高の地位を回復してやった、という訳である

有史以来
人類は不自然な生活を強いられてて
生物としての本能が蔑ろにされてきた

特定の時代や地域社会でしか通じナイような
独特の価値観が存在してるが
それらはいずれも誰かが
要するに人間が勝手に作った観念でしかなく
バックグラウンドを異にする者が
正しいか誤りかを論じるのはナンセンスだ

キリスト教が華美な女性を疎んじてるのを
美の表現者である芸術家や
美徳の体現者である哲学者が
反感を持論で展開するのまでは構わナイ

でもトルストイの反論は
それを曲解してて
ましてやパリの裁縫師や理髪師を
つまり、技能労働者をバカにした物言いは
所詮ドシア人(※)だって僻みで
世の中を舐めた資産家のお坊ちゃんの世迷言だ
お洒落なパリに憧れるド田舎者の無粋なロシア人、の略w

そう思えるので
自分が賛同できるのは
モーパッサンや同じサロンに集う人々の方
だった・・・そう、過去形なんである

今現在の姥(年老いた女)の自分にとっては
トルストイの見解もありに思える

再度、肝心な部分を引用すると・・・

何よりもまず女、若い、美しい、しかも多くは裸体の女、それからその女との性的な交渉である。

生物学的見地からすれば
この主張は全く持って正しく
生物は子孫を残すために
生殖を行う必要があり
その際にはお互いに
優先順位が同等でナイ性を選ばなくてはならず
またできるだけ若く(=体力があり)
そして美しい(=整ってる)相手を求めるのは
分子生物学(※)からしても正しい
生物をDNA単位から考察する学問

但し
人間以外の生物の場合は
性の優先順位(※)が高い雌に雄を選ぶ権利があり
雄の方こそが若さと美しさで雌に選別される
正確にはミトコンドリアの優位性

ところが人間社会は変わってて
どんなに若く美しい雄でも
それだけでは雌に選んでもらえナイ!

とゆーのも
雌には子供を産み育てる環境についても
十分に考慮する必要があるからで
そこで若さと美しさで劣ってる雄でも
社会的に優位だったり、財産を持ってたりすると
子供を産み育てる環境も好かろうと
選んでもらえたりする(よね?)

いや、子供でなく
雌自身が好い環境で生活したくて
ってのが本音か???
まあ雌の見解の真意については今回はスルーでw

男が女にアプローチをかける時に
本能的に近付いてしまうのが
若く美しい女であるのは至極当然だが
仮に若くも美しくもナイ女しかいなければ
そこは躊躇せずにか、多少は躊躇したとしても
その女に選んでもらおうとするのが
男の性なのだ

最終的に性衝動を何とかしてくれるのであれば
ぶっちゃけ何でも構わナイ、てのが
雄の真っ当な種蒔き本能なので
手当たり次第に攻略を試みてく内に
選んでもらえたらラッキー、てなモノだ

攻略する順番は手当たり次第なんかではナイと
反論するヤツもいるかもしれナイが
そこはきっと個々の好みが反映してると思うので
傍から見てれば手当たり次第なのだよ

理性によって制御してはいるが
箍が外れた男はそんなモノだろう(-_-;)

それにしても
男が女を選ぶ時に
若さの判別は簡単だが
美醜の基準は曖昧模糊としてて
若いけど美しくはナイ女と
若くはナイが美しい女となると
どちらを選ぶかは微妙なトコロだ

僅差で前者をオススメするのは
生物学的な理由による
妊娠の確率が高く
子育てをするのに十分な体力があるからだ
でも後者も妊娠可能な限り
選ばれたとしても間違ってはいナイ

換言すれば
妊娠の可能性が全くナイ女だけは
美醜を問わず男を選ぶ権利もなければ
またそういう女を男が受け入れてしまうのは
生物学的には間違ってるとも言えるヽ(゚∀。)ノ

だからって
若くも美しくもナイ女は男に愛される価値がナイ
と思うのは生物学的狭量による早計で
哲学的とか、もっと素朴な情によるとか
あるいはスピリチュアル(霊的)とか
愛される理由付けはいくらでもある

むしろ社会的とか生物学的な結び付きは
若さと美しさと条件に適えば
もれなく誰でも゚+.(・∀・)゚+.゚イイとも言える

でも人間同士が愛を育むのは
とある妙齢の男ととある妙齢の女が、でなくて
個対個であって
性別も年齢も容姿も思想も何もかも
お互いが受け入れられれば
それだけでいんじゃん?

社会的かつ生物学的に条件が適って
お互いに合意した結婚だとしても
持続させるには条件を保ち続けるのでなく
他の要素で愛を育んでいかなければ
意味がナイワケで
条件が変わっただけで
破綻して離婚に至るのがオチ

その脆さに気付かナイで
社会的かつ生物学的な条件を
保つコトだけに奔走してる状態を
「若い」とか「青い」と言う

19世紀のフランス文学にハマって
メリメの『カルメン』
フローベールの『ボヴァリー夫人』
モーパッサンの『脂肪の塊』『ベラミ』
そして『女の一生』を立て続けに読んでた時期があって
全てがたまたま杉捷夫(としお)訳だった

『カルメン』を読むまで
カルメンの人物像を誤解してて
男にとってのみ魅力的な女だと思ってたが
女としてでなく、人として
生き様がカッコ好くて感動したし
死に様がカッコ好過ぎたのは残念だった

『ボヴァリー夫人』は
ボヴァリー夫人たるエマ(エンマ)が
夢見がちで不倫にひた走り
見栄っ張りで借金まみれになるような
勘違いバカ女で嫌悪感を抱いたが
自殺で落とし前を付けたのは
理想と現実のギャップに気付いたからだろうし
気付けナイような教育しか受けておらず
気付かせてくれる人間関係も育めなかったので
相対的には憐憫の情を抱けなくもナイ

『脂肪の塊』だけは短編で
面と向かってそうとは呼ばれてナイが
「脂肪の塊」と称されて噂される娼婦が
ラストで嗚咽するトコロで
一緒に嗚咽してしまい
読後もしばし嗚咽したままで
平常心を取り戻すのに時間がかかった程で
必ず泣いてしまう物語の1つとなった

『ベラミ』はそんな『脂肪の塊』と同じ作者なのかと
疑念を抱いてしまう程のピカレスク度MAX小説で
女を食い物にしてのし上がる男が主人公で
読後にはスタンダールの『赤と黒』で
出世を目論むジュリアン・ソレルが
なんだが可愛く思えてきた

そして『女の一生』のヒロインのジャンヌは
読み進むほどに肩透かしを食らって
何一つ共感できナイままに反感を持ってしまい
いくら悲惨な目に遭おうと
同情の余地もナイ程に嫌気が差した

先に『脂肪の塊』等を読んでおらず
『女の一生』一作だけだったら
モーパッサンを過小評価してたと思われw

美しくしなやかでスリリングな人間が好きで
特に女性は稀有な美貌によって
既にモラル的な是非は超越してるような美女だと
非凡な言動に魅せられ、心惹かれるのだが
するコトなすコト凡庸なジャンヌは
つまらナイ女の代表なのだ。(´д`;)ギャボ

でもそんなコトはタイトルで察するべきだった!
非凡な女の境涯が描かれてる作品は
『カルメン』や『ボヴァリー夫人』や『脂肪の塊』のように
その女の呼び名を冠してるのだが
『女の一生』は原題もそのまま『Une vie』で
不特定な女のままある人生、なのだよ。(゚д゚lll)ギャボ

そんな凡庸なジャンヌだが
父親のパーソナリティは実に興味深い!
93年を苦々しく思いつつ
革命の起爆剤となったであろう
ジャン・ジャック・ルソーの自然崇拝を
従来のキリスト教よりは信奉する!!

93年・・・1793年はルイ16世が処刑された年で
この年を苦々しく思うのは貴族だからだが
それだけの単純なキャラクターではナイ
貴族と言っても田舎に居を構えて
自然の中でのびのびと育ったせいか
貴族特有の高慢な性質も
悠然とした性格にすっかり呑み込まれてしまってて
周囲に不快感を与えるほど露呈しナイのだ
男気がある、とゆー程度

そして更にキリスト教には懐疑的で
ルソーの自然主義に共感を覚えてる点で
自分にとっては基本的に理解し合える相手だ

以上の父親についてのプロフィールは冒頭にあり
物語が進む中で少しづつ過去も解き明かされ
若い時にはなかなかどうしてやんちゃだったようで
情に脆く、感動しやすく
単に善良ではナイ心根の良さを持ち合わせてるぽい

その妻でありジャンヌの母親でもある婦人は
この父親に比すれば影が薄い存在だが
途中でいきなり意外な過去が発覚したりするるる~

そんな両親にしては
娘のジャンヌが主人公でありながら凡庸なのは
多感な時期に修道院にやられてたのが
原因と思われ。(´д`;)ギャボ

そんなワケで『女の一生』は
自分的には駄作と打ち捨ててたのだが
アラフォーになって違う訳で読み返してみたら
ジャンヌは凡庸だなんて
一言で簡単に片付けられなくなってた

ジャンヌの生活や人生に対する無欲さが
常軌を逸してるレベルで
非凡なコトに改めて気付いたのだ。(゚д゚lll)ギャボ

そしてジャンヌの全ての悲運は
その無欲さによるモノだとも思えてきた

例えば「金が欲しい」と思うから
働く(正攻法)、強奪する(非合法)
あるいはジャンヌの息子のように無心するのだが
無欲なので得ようと思わず
何のアクションも起こさずにいるし
逆に息子にたかられるままに
じゃんじゃん与えてしまえるのだ

浮気を放置しっ放しのダンナに対しても
悲しむだけで何の働きかけもしナイのは
単に裏切られたのが悲しいだけで
ダンナを欲してナイからだ

むしろダンナに限らず男が欲しくナイのだろう
そこはレズビアンの自分には唯一共感できる部分だw
ダンナにも他の男にも心や身体が傾くコトがなく
だから関心をすら惹く気がなく
女として美しくあろうなどと思いつきもせず
無欲なのだ

とはいえ、ジャンヌは冷酷な人間でもなく
フツーに愛情を育めるタイプだが
それを子供にだけ注いでしまったコトで
しかも庇護や過保護が過分に含まれてたせいで
息子の放蕩三昧が歯止めの利かナイレベルに達したのだ

ジャンヌはこの時代の良家の奥様にしては
赤ん坊を乳母に任せずに
自身で育てたのも珍しいってか変わってるが
乳母に任せっきりの育児に対して
「おかしいだろう?」と意見したのがルソーなので
さすが父親がルソー崇拝者だけのコトはある

でもジャンヌ自身はきっと
ルソーの教育論『エミール』を読んでおらず
だから息子を甘やかし過ぎて
ダメンズに育て上げてしまったんだろうヽ(゚∀。)ノ

ジャンヌは他の本もロクに読んでなかったから
その無味乾燥とした人生の中で
唯一感動したのがキリスト教なのは
もれなく当たり前の話だなw

『聖書』が世界的なベストセラーなのは
本を読まナイ大多数が唯一読んだ本だからだなwww

でもジャンヌはこれも父親の影響なのか
結果としては敬虔な信者にはならなかったのだ
教会に通ったりしなかったし
子供にも信仰を強要しなかった

なんせ子供の聖体拝受をどうしようか迷ってるのだ
同じくモーパッサンの『メゾン テリエ』では
娼婦が娘に聖体拝受をさせる話で
これは信仰心よりも親心で
堅気の子のように体裁を整えてやるんですが
それと比べたらジャンヌの信仰心は
恐らく娼婦にも異端視されるほどなんだろう

つまりジャンヌは人生には受身で翻弄されてても
決して世間には流されておらず
凡庸な人生を非凡に生き抜いたがために
不幸に身をやつした気がしてきた

モーパッサンには『水の上』と題した短編小説と紀行文がある

どちらも原題は【Sur l'eau】で「水の上」だが
初期に書かれた短編『水の上』の発表時のタイトルは
【En canot】で「ボートに乗って」だった
と、下記のLINKにあった(短編『水の上』の解説と邦訳本文)
LINK:モーパッサン 『水の上』

この解説によれば若き日のモーパッサンは
よくセーヌ河畔のボート上で楽しく過ごしてたそうだが
行楽的な楽しさ以上の愉しみを「水の上」で体験してたのだろう

そしてモーパッサンにとって「水の上」は
あくまでも川であって海ではナイ

短編『水の上』の導入部では
ユゴーの海の詩を引用して川と比較してたりもするが
川への賛美だけでなく欠点も含めての魅力を詩的に表現してて
それがまるで最愛の恋人について語るかの如くに熱っぽく
少し狂気じみた感さえあって圧倒される

そうして緊張感がMAXまで高まった状態にさせておいて
五感が研ぎ澄まされるような繊細な描写によって
すっかり河畔のボートの上の主人公の男の心境になってしまう

トルストイが『モーパッサン論』において
この短編『水の上』を高く評価してるのは凄く納得が行く

水辺で生まれ育った人なら似たような水辺に郷愁を覚えるのは当然だが
モーパッサンの「水の上」はもっと始原的な情景なので
自然の摂理を直観で享受してるような感覚に陥れられるのだ

人間が自然から感銘を受けるのは崇高な美意識に心打たれるからだが
それをなんとか模写して表現するのが芸術の本来の目的で
単なる文芸ではなく芸術として適ってる作品だ

変わって晩年に書かれた紀行『水の上』は
長編のタイトルにもある「ベラミ」号なるヨットで地中海沿岸の周遊してて
当時(19世紀)の風物についてや土地に纏わる古い伝承などが
日記形式で次から次へと軽妙に綴られてる

どうやら興味の対象がモーパッサンと被ってるらしく
繰り出される固有名詞に嬉々としていちいち反応せずにはいられナイのだが
それに対する考察がまた゚+.(・∀・)゚+.゚イイのだ!

それにしても紀行『水の上』はモーパッサンの著作にしては
本文159ページに対して訳注(※)が10ページほどもあるのは画期的だヽ(゚∀。)ノ
あまり読書家ではなかったらしく古典からの引用が殆どナイのが
もれなくモーパッサンの特徴とも言えるるる~
トルストイが憧れるようなモダンさは古めかしい装飾が一切ナイからかw
訳者は師弟関係の吉江喬松と桜井成夫で、吉江が大正2年に訳したモノを底本として桜井が新訳をした

トルストイは紀行『水の上』については次のように評価してる

その文学的活動の途上における作者の力強い道徳的成長は、これら珠玉のような短編にも、また彼の書いたいちばんりっぱな作品である『水の上』にも、消すことのできない線をもって書きとめられている。

紀行文は要は旅日記だが
そもそも日記が単に出来事の羅列でしかなければ
他人からしたらちっとも面白くナイ
出来事から何をどう思い巡らしたのか?
感性や人間性が垣間見えてこなくては意味がナイが
その点でこれ以上優れた日記はナイ

まあトルストイがモーパッサンに最も感じ入ってる部分は
基本的に人間社会の腐敗に対する憎悪に共感できるトコロだろう

有史以来、人間社会は腐敗し続けてて
美しい魂のままに生きるのは非常に困難なのだが
その困難に真っ向から挑んで生きる、否、むしろのたれ死ぬ。(゚д゚lll)ギャボ
そんな不器用ながらもひたすら美しくあり続ける人間の気高さ!
そういう人間の生きザマに何よりも心打たれるのだ!!

トルストイは『モーパッサン論』でモーパッサンについて
不道徳な人間に肩入れしてるような作品を書いてる、と非難もしてるが
これは生き方が違うから表現の仕方も違うのだと思われ。(´д`;)ギャボ

自然とは隔絶した人間社会で
幻のように現れては消える様々な現象に心奪われるコトなく生きるために
素朴な農民のように神を信じて生きようとしたのがトルストイで
自身の五感にさえ惑わされずに直観で生きたのがモーパッサンなのだ

ベラミ 《IVCベストバリューコレクション~文学編~》 [DVD]

一見、不埒な男の成り上がり話のような『ベラミ』には
それを肯定する明るさが微塵もなく
全編に渡って空虚さと疑念が常に付きまとってて
死を恐れる孤独な詩人がベラミに語りかけるシーンと
恵まれた生涯を過ごしてきた友人がベラミの目前で死んでく場面は
この物語の唯一の(2つだがw)真実なのであるが
これらを真摯に受け止められナイベラミは所詮凡庸な小人物に過ぎナイのだ(苦笑)

『ベラミ』を主人公に流されずに読めれば
絶望的な死への想いに耽る孤独な詩人の台詞と
素晴らしい伴侶を得て人生を煌かせたベラミの友人の死に際の光景が
心に残るだろう

モーパッサンが『ベラミ』で描きたかったのは死生観なのだと思われ

頽廃的な香りに慣れてしまうと
健全な俗物には嫌悪感さえ覚えるようになる

澁澤龍彦訳でマルキ・ド・サドを読み尽くしてしまって
馴れ初めの段階でおたおたしてるような男女の
ひたすら甘ったるい恋愛を描いた小説や少女マンガに
吐き気を催すようになったのは高1の頃・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

要するに今で言う腐女子ってヤツで
ノーマルな恋愛には不気味さを感じるほどだったが
基本的にはストイックな耽美主義者なので
ヤオイ(※)でとりあえず肉欲に走るって展開にも
程なく食傷気味になってしまった。(´д`;)ギャボ
ヤマなしオチなしイミなし

そんな時に新鮮な感動を齎したのが
サドよりもずっとまともに扱われてるフランス文学の一連の作品で
読み始めたとっかかりはメリメの『カルメン』だった

カルメン (岩波文庫 赤 534-3)

ビゼーのオペラで有名になったカルメン像は
一輪の真っ赤な薔薇を銜えた踊り子のイメージ(※)だったので
陳腐な恋愛小説を懸念しつつ、いや、確信して
読んでおかなくてはバカにもできナイ、と読み始めたのだが
主人公はカルメンではなかったし
またカルメンは安酒場の踊り子などではなかった
小説ではカルメンが銜えてたのは薔薇ではなくアカシヤ

カルメンは得体の知れナイ魅惑的過ぎる女で
恐らく謎に満ちてるからこそ魅力も増すのだろうが
とにかくそれまでに読んだ小説の登場人物の女性の中で
圧倒的な強靭さを持ち合わせてるコトに痺れた

そんなカルメンをして
初めて女にも正真正銘の一匹狼タイプがいると知った。(゚д゚lll)ギャボ
つまり、姫として侍女にか、あるいは侍女として姫に
依存せずに生きる・・・要はジプシーなのだが
姫でも侍女でもなく、また本妻でもなければ、愛人にも属さず
高級娼婦にも見えるがそうでもナイヽ(゚∀。)ノ

ボヴァリー夫人 (新潮文庫)ボヴァリー夫人 (河出文庫)

カルメンへの熱情が冷める前に続けて読み始めたのが
フローベールの『ボヴァリー夫人』だったが
偶然にも訳者が『カルメン』と同じく杉捷夫で
その次もたまたまモーパッサンの『ベラミ』を選択したら
またしても杉捷夫訳だったのが印象に残ってるるる~

カルメンのインパクトの後では
『ボヴァリー夫人』の主人公のエンマは
夢見がち過ぎてロマンティックな恋愛に溺れやすい女で
そんな甘いだけの女がハッピーエンドならば
ハーレクイン・ロマンス以下のレベルに留まるのだが
夫にも子供にも恵まれてて【リア充】なのに
それを振り切ってまで夢にひた走って破綻するって
むしろ持たざる者のカルメンより筋金入りかもしれなかったw

いずれにしろ、カルメンもエンマも
理想とする生き方を絶対に曲げナイタイプにして
こと恋愛に関しては一切妥協せず
男にしてみたら強情で扱い難い女だろう

「愛する男しか愛したくナイのよ~p(-_-+)q」

生き方としてはある意味、不器用なのかもしれナイが
そこが人間としても同性としても好感が持てた

ベラミ〈上〉 (岩波文庫)
ベラミ〈下〉 (岩波文庫)

そうして愛を全うする女たちに魅了されたトコロで
『ベラミ』を読み始めた

「愛だって?これだから女ときたら・・・チッ( -∀-)、」

主人公のベラミは一見、女を食い物にする非道な男だが
ベラミの目的は立身出世とはっきりしてて
女に身を任せて取り持ってもらうコトで取り入るので
その際にはノーマルな行為によって女を満足させてるのだし
傍目からそうと見えるほど、実際は放縦でもなく
だからさほど不道徳とも思えなかった

サドの小説に出てくるような放埓の限りを尽くす残忍な男には
現実の世界では絶対に関わりたくナイが
ベラミはウブだった(?)自分にはときめくに値した男で
もしベラミの恋人たちのようにヨユーがある女に将来なれたら
踏み台にされる価値を愉しむのも悪くナイと思った

そもそもダンナに内緒で短い逢瀬を愉しむ有閑マダムが
ベラミに利用された後で捨てられたからって何一つ困らナイのだよ
元の退屈なれど安定した生活に戻るだけなので
少々感傷的になったとしてもそれ以上でも以下でもナイ

ベラミの恋人たちにとっては
ストイックな紳士では不埒な恋愛を愉しみようがナイし
生真面目で純朴な青年をからかうのは愉しいかもしれナイが
熱を上げて真剣に求められたら拒絶するしかナイし
それで傷ついたからって恨まれても困惑するばかりだから
美貌だけが売りなのに成り上がりたい貧乏青年は
与しやすい遊び相手だったのだヽ(゚∀。)ノ

ベラミ自身は女を誑かして成り上がってるつもりでいるが
女たちの方が一枚も二枚も上手なのは明らかで
カルメンやエンマなどでは到底太刀打ちできナイレベルだ

なんせ彼女らは権力者の男(夫、愛人、他)を操って
立派に社会生活を営んでるのだから・・・!!

モーパッサンの短編『くびかざり』は群を抜いて好きな話だ

貧乏な家に美しく生まれついた女が
その美貌を世間に対して誇れるような環境を持たずに生きてたが
ある時、夫婦で大臣の夜会に出席する機会を得た
小役人の夫がへそくりでドレスを買ってやり
金持ちの友人からくびかざりを借りて
夜会の華々しい場での女としての価値を初めて存分に発揮できて
女は自身に見合った至福を味わうがそれもつかの間
帰宅してみるとくびかざりを失くしてたのだった
手を尽くして探したが見つからず
宝石屋で見つけたそっくりのくびかざりを借金して買って
借りたくびかざりと偽って返し
その借金を夫婦で返すのに10年の歳月をかける
10年も身を粉にして働けば
どれほどの美女も実年齢以上に老け込んでしまうだろうが
かつてくびかざりを借りた友人に再会した際
友人は彼女がわからずにいた
借金を返済し終わった女は友人に真実を告げるのだが
友人も女にくびかざりが偽物であった事実を告げた・・・
と、女と友人がお互いに震撼したであろうトコロで話が終わってるるる~

モーパッサン短篇選 (岩波文庫)

この短編の出だしは様々に訳されてる(※)が
モーパッサンが皮肉たっぷりに読者に確認してるのは
美人は金持ちに生まれてこそ幸せで貧乏ならむしろ美貌が仇になる、ってコト
モーパッサンの『くびかざり』の出だしの訳

美しく生まれついた女の深層心理など
フツーの女に生まれてさえも諮りかねてるのに
男であるモーパッサンがなぜこうも的確に表現できるのか感心するが
自身の美貌を誇る人間は男女の別なく似通ったモノかもしれナイ

『くびかざり』の主人公の女は『ベラミ』の主人公の男ベラミと似てて
2人とも美貌以外は取り立てて何があるってワケではナイ人物だが
唯一誇れる部分を自覚してて自己陶酔が激しく
虚栄心に煽られるままに見合った分を高く想定してしまい
想定以下の分に自身が置かれてる現状に不快を感じ
立腹さえしてしまう、そんな気病みの持ち主だw

確かに世間では容姿が見劣りするのに
容姿以外にも優れた点が一向に見出せナイような輩が
何の苦もなく虚栄心を充足させてたりするので
金回りの゚+.(・∀・)゚+.゚イイ女を食い物にして成り上がったベラミは
当人も満足しただろうし、世間から見ても成功した

但し自分も含めたほとんどの読者からは虚しく見えるだろう
ベラミには何一つとっても真実(本物)がナイのだ

ところが『くびかざり』の女の方はどうだろう?
一時の夢を見て現実に戻った時に失った代償は大きかったのだろうか?

結果としては一夜の夜会のために夫婦で10年かけて働いたのだが
女もそうなると知ってたら夜会には無理して行かなかったに違いナイ
尤も夜会でちやほやされる楽しさなんて
そこには何一つとっても真実(本物)がナイのだ
でも女がそれを切望してると知ってへそくりでドレスを買ってやる夫
更にくびかざりを失くしても女はこれを隠匿しようとし
まさに何一つとっても真実(本物)がナイのはこの女自身だが
それでも女と一緒に10年間も黙々と働きずくめの生活を享受する夫

仇になる美貌と引き換えに女は夫の愛
つまり唯一の真実(本物)に気づいただろうか?

2010年1月に洋画☆シネフィル・イマジカで
モーパッサンの短編が映像化された『モーパッサン劇場』をやってて
偶然【2】から観れたのだが月代わりメニューのようで
月末の最後の放映だった
【1】『いなか娘の話』『首飾り』
【2】『遺産』『オトー父子』
【3】『ミス ハリエット』『ふたりの友』
【4】『アマブルじいさん』『トワーヌ』
なので残念ながら『首飾り』を見逃してるのだが是非ともDVDで欲しい

Chez Maupassant, vol. 1 : contes et nouvelles

当然ながらフランス・アマゾンにはあるのだな・・・

ユゴーと言えば日本では『レ・ミゼラブル(ああ無情)』だが
昨年は出版150周年に当たり、これを記念してイギリスで映画化されて
日本でも年末に公開された

過去にジャン・ヴァルジャンを演じた俳優として思いつくのが
ジャン・ギャバン、ジェラール・ドパルデュー、リーアム・ニーソンなので
既に最低でも3度は映画化されてるはずなのだが
どうやらリメイクとか小説からの直接的な映画化ってより
80年代からロングランのミュージカルの映画化だそう

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自分はミュージカルでは観たコトナイのでなんとも微妙だが
とりあえず近年は観たい映画が日本公開スルーばかりだったので
観れる確証があればもうそれだけでありがたかった・・・
まあ、結局は観に行けなかったのだが(苦笑)

日本未公開と言えば、どうして外されたのか不思議なのは
オスカー・ワイルド原作の『Dorian Gray』と
モーパッサン原作の『Bel Ami』だ
主役がイケメン、つか、正統派の超絶美形だったのだから
上手いコト煽れば日本でもウケると思うのに・・・
どうもブサメンとかキモメンを
強引にイケメンと称して押し通すために
チョンが裏で妨害してるような気がしてならナイのだがねp(-_-+)q
『Dorian Gray』も『Bel Ami』もDVDが日本発売されたのでゲト♪

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ベラミ 愛を弄ぶ男 [DVD]

いかん、話が逸れた、いや、逸れてナイ、どっちだヽ(゚∀。)ノ

ユゴーはドリアンやベラミほどの優男ではなかったかもしれナイが
彼らに匹敵するか、それ以上に女には不自由してなかった
てか、むしろモテ過ぎて不自由してたかもだ・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

人間なのだから欠点があるのは当たり前で
それが女癖の悪さなら、自分の男でナイ限りは1番許せる欠点かとw

とはいえ、元女優で秘書兼愛人のジュリエットが50年間も
ユゴーの愛人だった、ユゴーだけの愛人だった、ユゴーの愛人でしかなかった
てのは、社会的にも生物学的にもどうなのかね。(´д`;)ギャボ
ましてやユゴーの方はまず正式な婚姻関係の妻がいたのだし
他にも肉体関係を持つ女が数え切れナイほどいたのだ。(゚д゚lll)ギャボ

そんなユゴーが道義的な『レ・ミゼラブル』のような作品を書き
その中でこんな感動的な一節をほざくのだwww

海洋よりも壮大なる光景、それは天空である。天空よりも壮大なる光景、それは実に人の魂の内奥である。(※)

心清き人の哀しき魂は河川を流れて海へ辿り着き
一旦は波間を漂いながらも最後には大海の深淵に沈み行くのだろう
しかし水底から解き放たれて空へと飛翔してみれば
気がついたら魂の内奥に帰着してた・・・なんて。・゚・(ノД`)・゚・。
訳は青空文庫にある読み易い豊島与志雄訳で岩波文庫『レ・ミゼラブル』【1~4】の【1】より

『レ・ミゼラブル』は上記以外にも海や空を殊更比喩に用いてるが
同じ時期(晩年)に書かれた詩集にもこの傾向は強く見られ
とりわけ最晩年の『諸世紀の伝説』(※)における空の表現は秀逸で
「サテュロス(原題:Le Satyre)」では天空を越えて
宇宙へまでも達してるるる~
第一集が1859年、第二集が1877年、第三集が1883年に出版されてるが、1883年には人類史の年代順に再編纂された決定版も出た

「サテュロス」は『諸世紀の伝説』の中で
「16世紀、ルネッサンス、異教」の時代に位置づけられており
訳者の解題を引用すれば

この詩は、『諸世紀の伝説』のすべてのテーマが描かれている「凝縮された鏡」なのである。すなわち『諸世紀の伝説』という大宇宙(マクロコスム)に対して、「サチュロス」は小宇宙(ミクロコスム)なのである。

またこの詩の構成はプロローグに始まり
第1部 青、第2部 黒、第3部 暗色、第4部 星空
として、1日の空の移り変わりになってて
最後の星空においてはサテュロスは牧神パンとなり

牧神は叫んだ。
「未来は 天空が作るように
底なしの無限のなかへ拡大すること
あらゆる方向から事物に浸(し)み込む精神だ!
世界よ 悪はすべて神々の形に由来する。
(中略)
燃えるかそれとも流れる 聖なる元素に代われ!
宇宙の輝きに代われ!
国王とは戦争 神は夜。
(後略)」

プルタルコスの『モラリア』【5】「神託の衰微について」には
「大いなるパーンは死せり!」との天の声を聞いた船乗りの逸話があり
これが誤ったまま伝わってキリスト教徒に寓意を纏わされて
更なる誤謬を携えながら近代まで信じ込まれてきたが
ユゴーはこれを前提として
ルネサンス期に他の神々と共に蘇った牧神パンに
人類が理想とすべきユマニスム(ヒューマニズム)が尊重される社会を
未来にあるべき姿として叫ばせているのだ!

残念なコトに21世紀の今もユゴーの時代から全く進歩がナイがね(゚*゚;)
人類は滅び行くまでこのままだろうてヽ(゚∀。)ノ

とにかく自分は晩年のユゴーを読んでると
海から空へ、そして宇宙への航海が
STYXの名曲『Come Sail Away』を想い起こさせる・・・ホゥ(*-∀-)

☆追記...
ユゴーは自身の死後に未刊の作品を集めた詩集を
『大洋(原題:Océan)』と冠して刊行するよう息子らに遺言してた

恋愛が成就する―それは非常に難しい問題だ

何をして成就なのかの定義からして曖昧模糊としてるからだ

愛する相手とどうしたいか、と
どういう形で恋愛を成就させたいのか、とでは
まるで違う

若さゆえのときめきとは
愛する相手とどうしたいか、に尽きる

視線はひたすら想う相手を追い求め
近付けたら話したい
見詰め合えたらキスしたい
気持ちが高揚すればベッドで過ごしたい・・・

これらが叶えばすっかり浮かれてしまって
成就だ、と満足できるのだ

その際にお互いの立場なんかどうでも゚+.(・∀・)゚+.゚イイ
同性愛だろうが不倫だろうが
成就だ、と満足できるのが若さってものだ

そういう恋愛の成就は
若いうちは夢みたいな出来事だが
歳を重ねるほどにリアルになるのは
老いが現実を見据えさせるので
夢見心地ではいられなくなるからだろうか?

不細工でもいつか綺麗になれる、と若ければ将来を夢見れようが
歳をとればとるほどにどんどん醜くなるしかナイので
昔は今よりはまだしも、と思い返すだに虚しいだけである

恋する気持ちが切ナイ、てのは年齢には隔たりがナイのだが
どこかしらに甘酸っぱさのナイ切なさは
苦い・・・(-_-;)

女の一生 (新潮文庫)ベラミ (角川文庫)

19世紀フランスの短編作家として知られるモーパッサンは
長編では『女の一生』『ベラミ』『死の如く強し』を書いてるが
『女の一生』は穢れを知らぬ女が汚れた男に翻弄され続ける転落悲話で
『ベラミ』は夫たちの陰で思うがままに生きる女たちを
翻弄しながら成り上がってるつもりの優男【ベラミ】の出世物語
そして『死の如く強し』は中年の男女のロマンスだ

Fort Comme La Mort

若い時分には
『女の一生』はハーレクイン・ロマンスにも劣ると思われたし
『ベラミ』の不道徳さはひたすら愉快痛快だったが
『死の如く強し』は『女の一生』以上に陳腐に感じられたヽ(゚∀。)ノ

男は初老だが美男で独身を貫いてる名の通った画家
女は画家と不倫関係を12年間続けてるモデル

12年前の絶世の美女も40歳ともなれば
彼女に生き写しの18歳の娘の愛らしさとは
比較するのも可哀相な有様だろうて
美意識の高い画家がどうして娘に心変わりをせずにいられよう?

そもそも歳老いて恋愛に現を抜かす自体が美しくナイのだが
それは歳を経てきたからこそ研ぎ澄まされるに至った美意識とは
ちょうど反比例してるかのように
容貌が見るに忍びなく衰えゆくからだ
しかも美貌を誇ってる者ほどその落差は顕著なのだ

そんな現実を直視して憂える初老の男女のロマンスは
深刻になるほど喜劇的で救いようがなく
とても耐えられずに初めて読んだ時は実は途中で放棄したw

ところが自分も同じ立場になってから読み返してみると
老いを噛み締めながらの恋愛の行く末に心が軋み
滑稽であるほどに切なさが胸を打った・・・
いや、打ったのでなく、食い込んできたのだった。・゚・(ノД`)・゚・。

恋愛の成就は唯一無二の愛する相手を確信するコトだ
なぜなら恋愛は0か1なのだ

もっと゚+.(・∀・)゚+.゚イイ人がいるはず、と
A~Zまで選り取り見取りの中から相手を決め兼ねてるモテる人は
はっきり言って自身しか愛せナイ恋愛音痴でしかなく
そういう人は周囲が羨むほどには満たされてはいナイのだよ
男だったら美女をモノにすれば征服欲だけは満たされるだろうが
女はどんな男を陥落しようが娼婦の感覚しか味わえやしナイ

0か1・・・
愛する相手がたった一人あり、その人でなければ要らナイ

そういう0か1の相手を一生涯愛し続けられれば
例え0だったとしても満たされてるのだ!
自分自身を偽らずに、そして迷わずに日々を過ごすのは至福だ!!
そこで相手にも愛されるような奇蹟を望む前に
ただ自分が愛するコトを相手が許してくれてれば゚+.(・∀・)゚+.゚イイ

Do I, do I love you, baby?
Yeah, yeah, yeah, yeah
More than ever

叶わナイ相手をさっさと諦めて
お互いに妥協できる相手とすっかり満足できたりするのも
否定はしナイが
歳をとって人生最期の恋愛なればこそ
今更、社会的にも生物学的にも縛りがナイのだから
ただ愛する相手を愛したいのだ

そして愛するとゆーコトは
いつでも相手を待ってるとゆーコトだ(苦笑)

モーパッサンの所有してたヨットはベラミ号で
代表作の長編小説のタイトル『ベラミ』から名づけたのだろうが
その思いの深さを辿るべくベラミの意味を杉捷夫の仏和辞典で調べてみた

ベラミ 愛を弄ぶ男 [DVD]

フランス語で綴るとBel-Amiで
Bel(Beau)が「美しい」、Amiが「恋人」で
基本的には「美しい恋人」の意だ

でもAmiには他にも「味方、友、愛人、愛好者」と様々な意味があったし
Beauも「りっぱな、(天気の)よい、(生活の)楽しい、(数や力の)十分な」とあり
つまり【好意を寄せる相手として申し分のナイ人】ってカンジかな?

そしてこれが un bel age となると「高齢」の意になるるる~

【美しい年代】が「高齢」ってなんて素敵!
これは恐らく【美しさを堪能できる年代】って意味ではナイだろうか?

年齢を重ねてみてやっと本トに美しいモノがわかって
それをじっくり味わったり、しんみりと感じ入ったりして愉しめるようになるのだ

自らの美しさには執着する必要がなくなった時にこそ
希求する美が見えてくるのだろうか?

見えてきてる気がする今日この頃、老いるのが愉快で仕方がナイ♪

☆・・・☆・・・☆

最近、気合を入れてダイエットに取り組み始めたのだが
還暦の時に理想の自分でいるためにやってるのだ

老いればフツーに今よりもテキパキと動けなるのは必定だが
鈍重な身体での緩慢な動作に慣れてしまう前に
体調を整えながら無理なく軽くしなやかな身体に鍛え直したいと思い立ったのだ

いや、思い立ったのでなく、そういう思いはいつもあったのだが
日々に流されておざなりになってたのだなヽ(゚∀。)ノ

あなたは半年前に食べたものでできている「老いる」とはどういうことか (講談社プラスアルファ文庫)歩けば歩くほど人は若返る

理想的な少年体型を目指してれば
まあ還暦までヨユーで10年以上もあるし
理想に適わなくとも近いトコロまでいけるのではナイかと~

【還暦を迎えるにあたっての10か条】

  1. 1日3食以上で1食を500kcal以下にして夜になるほど少なめに
  2. 野菜や海草やキノコをたくさん食べる
  3. 目標達成のご褒美にはカロリー低めの美味しいモノを少し食べる
  4. マメに体重を量る(毎食前に量ると効果的)
  5. シルエットのきれいなフィット感のある服を着る
  6. 適度な緊張感を保ちつつも歩き易い靴を履く
  7. 常に姿勢に緊張感を持ってしゃっきりと
  8. 掃除する(磨くのが有効)
  9. 買い物にカートを使わナイ(2kg以上を持って10分以上歩く)
  10. 1日1万歩以上歩く

これで1週間に1kg弱づつ緩やかに痩せて45kg前後を保つのが目標!

☆追記...

上記を実行してきて2年ほど経過したが
体重はずっと平均して45~46kgで
Ralph LaurenのDENIM & SUPPLYの1番小さいサイズを
なんとか着れてるるる~