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『水妖記(ウンディーネ)』はドイツ人作家フーケが
1811年に発表した民間伝承を元にした幻想文学で
文学史で言えばドイツ後期ロマン派だ

水の精ウンディーネには魂がなく
人間の男に愛されるコトによって魂を得るが
男に裏切られたら、その男を殺さなければならナイ

と、そんな前提のお話で
遡ればギリシア神話に登場する海の妖精セイレーンから派生してて
恐らくアンデルセンの『人魚姫』も
ウンディーネやセイレーンを元にして創作したモノで
キリスト教風味を強めたのだと思われ

20世紀初頭のフランスにおいて
ジロドゥがフーケの作品を戯曲化した『オンディーヌ』は
現代まで繰り返し演じられてるだけあって
水の精だとしても人間のフツーの女と何ら変わらずオンディーヌは一途で
オンディーヌが愛する人間の男ときたらやっぱフツーに不実で
そんな男女の恋愛の普遍の切なさに深く胸をえぐられるが
実際に芝居としては観たコトナイのだ・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

できるなら若く美しい加賀まりこさんのオンディーヌを観たかったな
テレビのインタビューでかつてやったと言ってたのだが
その際にオンディーヌなぞ知らなかったので
慌てて神保町の古書店で原作を買って読んだとか
彼女はさすが神田生まれだな、とやけに感心したのを覚えてるるる~

そういうワケで『水妖記(ウンディーネ)』を読み終えた後で
『人魚姫』も『オンディーヌ』も改めて読みたくなったし
『水妖記(ウンディーネ)』と一緒に買った『ライン河の文化史』も
ウンディーネ伝承の原点に触れていそうで読みたかったが
全て電子書籍ではなく紙の本で、しかもどれも持ち歩くレベルの大きさではナイので
就寝時と起床時に寝床で読むしかなくて枕元に積み上げといた

そこで持ち歩き用は電子書籍だよな~と思いつつも
ふと目に付いたのがバルザックの『サラジーヌ 他三篇』だった

サラジーヌ 他3篇 (岩波文庫)

表題作の『サラジーヌ』は別の訳でも持ってて
何度も読んでたので今更慌てて読む必要はなかったのだが
なぜか読み始めてしまう・・・こういうのって絶対に何かシンクロしてるのだが
やはりそこでセイレーンだの、ピュグマリオンだの、ハルピュイアだのが
女性の性質の例えとして使われてたのだった。(゚д゚lll)ギャホ

そしてその例えが素晴らしく的確なのだ!
さすがバルザックだ!!

セイレーンはギリシア神話の中では下半身が鳥とされてて
水辺で歌を歌っては航行中の男を惑わし、難破させたりしてたのだが
中世にはライン河畔の岩礁ローレライにも
魅惑的な声で男を誘惑し、水中に船もろとも引きずり込んでしまうとゆー
その名もローレライなる水の精が出現したらしい

セイレーンもローレライも元は人間の女(の名)で
紆余曲折の末に水に棲みつき、歌う魔物となったのだが
そこへ行くと人魚姫やウンディーネ(オンディーヌ)の場合は
恋い慕う人間の男のために人間になろうとする魔物上がり(?)なので
事情は全く逆なれど、男に捨てられた女だってのは
これらの一途な女たちの種を超えた共通事項なのであるるる~

片やピュグマリオンの方は人間の男に請われる女で
彫像だった彼女は女神に命を与えてもらい、男に愛されるのだ

なんという対極的な女たちであろうかヽ(゚∀。)ノ

男に愛される女になりたかったら、彫像のように美しくあり
それ以上に大切なのは彫像のように黙して語らぬコトなのだなw

愛してる、とその気持ちを露わにし、男を恋い慕えば
1度は受け容れてくれるかもしれナイが、いつか必ず捨てられるのか?!

さて、『サラジーヌ』の中でこれらの語が出てきた場面だが・・・

小部屋に身を隠している際に女中の閉めたドアに挟んで指を二本くらいつぶされても、叫び声をあげてはならないのだ。こうした手ごわい妖婦(セイレン)を愛することは、自らの命を賭けることではないだろうか?

妖婦、に「セイレン」とルビがふってあるのが憎い!(訳者は芳川泰久)
ちなみにこれは実在したド・ジョクール侯爵が
愛妾の家で身を隠した時に本トにあったエピソードなのだそうで
詳細は不明だが愛妾を庇うために声も出さずに痛さを耐え抜いたのだとか(-人-;)

で、この続きがある

そしてだからこそ、こうした女たちを、おそらくわれわれはかくも情熱的に愛するのだ!

情熱的・・・冷めるのを前提にして、なんて巧い言い回しなんだw
だから奥さんを情熱的に愛したりもしナイって?!

そして扇情的ではナイ男にとっての理想の女性は彫像やお人形なのだね

サラジーヌは、彼のために台座から降りてきたこのピグマリオンの彫像を、穴のあくほど見つめました。ラ・ザンビネッラが歌うと、もう有頂天でした。

ラ・ザンビネッラはカストラートなので実は男だが
サラジーヌは田舎者でカストラートの実体を知らなかったし
これは洗練された都会の男でも然りだが
毎度、化粧や衣装に惑わされてしまうほど男は単純なのだよヽ(゚∀。)ノ

結果的に、真実を知ったサラジーヌはラ・ザンビネッラを罵倒するるる~

おれはいつまでも記憶のなかに、天の怪鳥ハルピュイアの姿を抱くことになるだろう。そいつはこのありとあらあゆる男心に爪を立てに舞い降りてきて、おまえ以外のすべての女に、不完全という烙印を押すことだろう!怪物め!おまえは何ものにも生命を与えることができない。おまえはおれに対し、この大地から女という女を根絶やしにしてしまったのだ

それにしてもサラジーヌに限ったコトでなく
男ってのはどうして失態も不甲斐無さも自身の責を認めず
女(※)のせいにしなければ気が済まナイのだろう
かつて愛を捧げた美女を「怪鳥ハルピュイア」呼ばわりして逆恨みとはwww
まあラ・ザンビネッラは実際は男だったがね

ユゴーの紀行『ライン河(原題:Le Rhin)』が出版されたのは
愛娘レオポルディーヌがセーヌ河で溺死する前年の1842年で
以下の言及の後に悲劇が起こったのである

 たびたびあなたに話してきたことだが、わたしは河が好きだ。河は商品を選ぶのと同じように思想を選ぶ。創造においては、万物は華麗な役割を担っている。河は巨大なラッパのように、大洋に向かって、大地の美しさ、田畑の耕作、都市の繁栄、そして人間の栄光を歌いかけている。
 これもすでに話したことだが、あらゆる河のうちでも、わたしが好きなのはライン河だ。

ユゴーは血も受け継いでるせいか元来ゲルマン的なモノに惹かれてたようだし
セーヌよりラインやドナウを詩の題材としても好んだようだが
実際ユゴーの詩(※)のスケールに合っていたからだろう
残念ながら日本ではユゴーの詩は軽視されてるのか詩集の完訳は未だ1冊も刊行されておらず
『ヴィクトル・ユゴー文学館【1】詩集 』が新刊で読める唯一の詩選集である

ユゴー詩集

そう言えばドイツ語でもフランス語でも河川の名はたいてい女性名詞だが
ラインはドイツ語で【Der Rhein】フランス語で【le Rhin】と男性名詞であり
何かそんじょそこらの河とは違う特別な意義があるのだろうか?
なんてのは名詞の性別には不慣れな日本人だからこその勘繰りかね???

例えばユゴーの詩「怒りのドナウ」(※)では
ドナウ河が「ドナウ老人」と擬人化されてまさしく怒号してるのだが
フランス語では【le Danube】と男性名詞なので怒れる爺さんで
以下のような訳が充てられてるるる~
1823年作『東方詩集』収録

わしは洋々たるドナウだからな。
大変だぞ わしがことをおこしたら!
今はお情けに がまんしてやっているのだ。

しかしドイツ語では【Die Donau】と女性名詞なのだ?!
憂えるばあさんなのだろうか。(゚д゚lll)ギャボ

ちなみにドナウ老人の怒りの原因は間接的には戦争だが
ドナウ老人ががまんしてるのはあくまでも景観が損なわれる事態に対してだけで
トルコ領ベオグラードの回教徒とオーストリア領ゼムンのキリスト教徒が
河を隔てていがみ合ってるコト自体にはさすが神目線で
どちらの正義も意味しナイ、単に無益でしかナイ、と見捨ててるるる~
ただ大砲の砲弾の閃光や砲口からの煙霧によって
昼も夜も景観が損なわれてしまってるのだがどうにかならんのか、って・・・
そりゃ地球側からの意見としては尤もだよなwww
人類なんかどうなっても構わナイが
美しい景色がよく見えナイのは困るってか。(´д`;)ギャボ

最後にドナウ老人は「海レベルの大河なオレ、誇らしい」と自画自賛してるが
それって前提が河川より海が勝ってる、てコトになるじゃナイかw
これはそのままユゴーの潜在意識にあるのだろうか?

ユゴーが詩の中で構築する世界観は時空を超越してて
ギリシア神話にキリスト教、ローマ帝国にナポレオンのフランス帝国が
錯綜しながらも精神世界の秩序を形成してたり
伝承も史実のようだったり、現実が幻想のようでもある

またユゴーに限ったコトではナイが詩人が良く使う例えに
運命や人生を河川の流れに、心理や精神を海の状態に、てのがあるが
河川への想い入れが強いからこそなのか
ユゴーは以下のような強引な描き方もするのだ

ナポレオンは、すべてが大河のように流れさっていくのを見た。(※※)

ナポレオンの失脚をこう表現した後で呼応するように

ナイル河、ドナウ河、テヴェレ河の戦いが、(※※)

とあり、自分はナポレオンにはそこそこ詳しいつもりでいたので
テヴェレ河の戦いなんて知らなくて焦った(゚ ゚;)
しかし訳注にもあるがナポレオンはテヴェレ河では戦ってナイのだヽ(゚∀。)ノ
どうやらイタリア遠征を他の2つ(エジプト遠征とオーストリア作戦)と同じように
河の名で呼び連ねたかったらしい・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ
※※1852年作『懲罰詩集』収録の「贖罪」より

『諸世紀の伝説』収録の「哀れな人々」では
ユゴーの世界観の中の河川と海の意義が明確に描かれてる

ああ!愛せよ、生きよ、春に咲く桜草を摘め、
踊れ、笑え、恋の炎を燃やせ、盃を乾せ。
小川がみんな暗い大洋に行きつくように、
運命は、最後には行きつかせるのだ、宴を、揺り籠を、
花のように咲きでたわが子を熱愛する母親たちを、
魂が目眩く(めくるめく)肉体の接吻(くちづけ)を、
歌を、ほほえみを、みずみずしくて美しい愛を、
墓の不吉な冷たさに行きつかせるのだ!

「哀れな人々」は貧しい漁師とその妻子の善意に満ちた生活が報われナイ悲惨な物語で
現代でゆートコロの詩、てよりは韻文形式の短編小説で
夫が帰らぬ人となり、病に倒れた妻も誰にも知られずに息を引き取る
子供を残して・・・((((; ゜Д゜))) ガクガクブルブル

小川には束の間の幻想があり
城と森に囲まれた大河は伝説と共にあり
哀しみが生じても波に飲まれて大洋へと流れ込む・・・
そんなユゴーの水の流れに譬えた世界観の表現には心を揺さぶられるが
それでは大海の深淵は悲哀の吹き溜まりになってしまうではナイか。・゚・(ノД`)・゚・。

セーヌ河を愛するモーパッサンは
短編『水の上』で川を称える際に比較対照として
ユゴーの「夜は大洋から(原題:Oceano Nox)」(※)をあげてるが
この詩は猛り狂う海を歌った人類初の叙情詩だそうだ
詩集『光と影(原題:Les Rayons et les Ombres)』収録で『ヴィクトル・ユゴー文学館【1】詩集』にある

意外なのだがそれまでの海の詩と言えば
海原の美しさや広大さを讃美したり
穏やかな波が岸辺に打ち寄せるサマに酔い痴れたり
海の恵みを傲慢にも人間にとっての益だと有り難がったりで
嵐の海を詩にしようとは誰も思いつかなかったのである(゚ ゚;)

ユゴーがこの詩を書いたのは

「怒りに身をふるわせる」海を、八時間も眺めつづけた

そんな実体験からなのだが
モーパッサンにしても恐らく自らが夜の川で一夜を過ごした上で
短編『水の上』を書いたのだと思われる

ユゴーもモーパッサンも19世紀の人なので
近代化によって人々の感覚がいよいよ動物らしくなくなってきてて
つまり愚鈍になってしまってる五官に依らず
自然の中で研ぎ澄まされた感覚を呼び覚ましながら
詩作をしてきたのだろう

海や川の氾濫が齎す災禍には鋭いナイフで胸をえぐられるようだが
改めて自然に対して畏怖の念を抱くようになる
しかし人災は明らかに人間の悪意が関わって起きてるので
なんとも後味が悪くずっと心に燻り続けるし
実際に災難に遭った心ある者にも憎悪を植えつけてしまいかねナイ

モーパッサンの愛するセーヌは
ユゴーの愛娘レオポルディーヌを呑み込んだ

新婚の夫シャルルと共に乗船してたヨットが転覆して溺死したのである
その死後4年目に書かれた一連の詩「1843年2月15日」~「ヴィルキエにて」(※)は
神に問いかけをしては自らで呼応してるといった内容だが
そんな事情もあるユゴーにとってのセーヌは
どうしたって愛情より憎悪の方が深いのだ
『静観詩集』にある4篇の詩でヴィルキエはセーヌ河畔にある息女の溺死した場所に程近い村である

またユゴーはフランス人だがゲルマン民族の血も受け継いでおり
元より河と言えばラインに想い入れがあるようで
『ライン河(原題:Le Rhin)』なる紀行文を書いてたりもするが
これが邦訳では『ライン河幻想紀行』(※)となってるのがなんと適正なコトか!!
河畔の古城に領主がいた時代の伝説が語られてるのだ!
例えば「ザンクト・ゴアール」の章ではローレライの伝説に触れてるるる~
岩波文庫から出てる抄訳だがユゴーの描いたライン河のスケッチも収録されてる

あのローレライの伝説の岩山が、ラインに垂直に落ち込んでいる。
それこそ、声をかけたり歌を歌ったりする人に七たび答えると言われる名高い木魂の場所だ。

歌の本 (上) (岩波文庫)

自分はハイネの詩にある『ローレライ(原題:Die Loreley)』しか知らず(※)
その歌声で船乗りを誘惑しては水中に引きずり込むトコロから
下敷きになってるのは『オデュッセウス』等に登場するセイレーンと思ってたが
意外な言い伝え、なんと木魂・・・(゚ ゚;)?
セイレーンは海由来なので当然ながら木魂ではナイヽ(゚∀。)ノ
ちなみにユゴーには木魂が5回以上は聞こえなかったそうだがw
STYXにも『ローレライ(原題:Lorelei)』なる曲があるが歌詞にはラインの伝説らしい部分は微塵もナイ

ローレライ伝説の概要を確認したくてググってみると
どうもはっきりしナイながらも諸説あれど古い伝説ではナイのは間違いなく
クレメンス・ブレンターノの1801年発表の長編小説『Godwi』に
挿話として収録されてるローレライ伝説が文献としては最も古いようで
それでブレンターノの創作だって説もあるらしい

ユゴーによればローレライは水の精(ニンフ)で

その昔、神話の中で多くの王侯や伯爵たちに言い寄られた

とだけあり、ユゴー自身もよくわかってなかったのか?
あるいは当時は人口に膾炙してた伝承だったので語るまでもなかったのか?

水妖記―ウンディーネ (岩波文庫 赤 415-1)

で、「水の精」で「木魂」ならばフーケの『ウンディーネ』じゃナイのか。(゚д゚lll)ギャボ
1811年に出てるがこれがブレンターノのローレライ伝説とミックスされたとか?!
などと言いつつフーケの『ウンディーネ』は未読だか・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ
ジロドゥが戯曲化した『オンディーヌ』から推察。(´д`;)ギャボ

オンディーヌ (光文社古典新訳文庫)

この『ウンディーネ』もしくは『オンディーヌ』の物語の根幹部分の
異界の女が人間の姿になって愛する男の下へ行き
男に裏切られて一巻の終わり、とゆー悲恋の定番原則だが
アンデルセンの『人魚姫』とかバレエ『白鳥の湖』とか
必ず裏切ってしまうのが良くも悪くも人間の男の性なのだよな(-_-;)

但し『オンディーヌ』の場合には裏切った男の方が死んでしまい
オンディーヌは元の水の精の姿に戻れるのだが
愛する男との記憶を失ってしまう

愛する男を想いながら死んでくのと忘れて生き永らえるのって
どっちが幸せなのかって、自分は前者だなw

モーパッサンの短編『水の上』の導入部では
主人公の(恐らくモーパッサン自身の)川への想いが炸裂してるが
せいぜい公園に流れる半ば人工的な小川と皇居のお堀しか知らナイ自分でも
水辺には深い想い入れがある、と改めて自覚させられた

それくらい故郷の水辺は誰にでも郷愁を抱かせるワケだが
ましてや世界に名だたるような川が流れてるなら尚更なのだろうから
モーパッサンがセーヌに恋するのは尤もな気がするるる~

自身の記憶にはなくとも総ての生命は海由来なので
始原的な心象風景としてDNAに刷り込まれてるのだろうか。(゚д゚lll)ギャボ

実際にほんの1日か2日東京を離れて帰ってきた際には
何よりもお堀を目にするとほっとするので
地下鉄で帰りたくなくてJRで車中からでもお堀を見ながら帰宅するが
たまに衝動に駆られてお堀沿いを1時間ほど歩いて帰ったりもした

昔からよくお堀に沿って土手縁を散歩してたが
水辺には自然があり、季節によって様々な動植物と出合えるので
例えばトンボを目にしては『とんぼのめがね』を歌うなんてのが楽しかった

さすがに大きな声では歌わなくなったが
白鳥に出会えばサン・サーンスの『白鳥』が脳内には流れるので
鼻歌交じりでバレエの『瀕死の白鳥』を想い起こしながら
うっかりひらひらと踊りながら歩いてたりもする

瀕死の白鳥/アンナ・パヴロヴァを讃えて

しかもこれが近年ではトロックス(※)しか観てナイので
バラバラと羽根を撒き散らしながらユーモラスに舞うサマを想起して
思わず吹き出してしまったりしてw
トロカデロ・デ・モンテカルロ・バレエ団

ボート場に人影が見当たらナイ時間帯には
STYXの『Boat on the River』を口ずさむ・・・ってやっぱ歌ってるるる~
LINK:ボート・オン・ザ・リバー(Boat On The River) - STYX

この曲を書いたTommy Shawはアラバマ州の出身だが
『Boat on the River』にあるような川が実際に付近を流れてたそうだ
でも河川の名をはっきり口にしてナイので
モービル川とかアラバマ川のような大河ではなさそうだが
だからこそこの曲の哀愁が漂うようなひっそりとした光景なのだろう

隣接するミシシッピ州の名は原住民の部族語で「大きな河」を意味してるが
その名の通りの大きな河、ミシシッピ川が流れてるるる~
ミシシッピ川の全長は5,971kmで本流(ミズーリ川を除く)部分だけでも3,779km
日本列島の全長がおよそ3,000kmだからスケールの違いがわかろう

トム・ソーヤーの大冒険 [DVD]

そんな大河に寄せるマーク・トウェインの想いが
『トム・ソーヤーの冒険』と『ハックルベリー・フィンの冒険』に
瑞々しい少年の感性の中に溢れんばかりに表現されてて
読む度に心の中の宝石箱を開けるような愉しみを味わえるのだ(*^^*)

マイ・フレンド・フォーエバー [DVD]

若くして亡くなった映画俳優のブラッド・レンフロは
3作目で『トム・ソーヤーの大冒険(原題:Tom and Hack)』の
ハックルベリー・フィンの役を演じたのだが
2作目の『マイ・フレンド・フォーエバー』でも川を下るシーンがあり
自分はそこで既にハックルベリー・フィンを見出してたので
観る前からハマり役だと確信してた!
これが何度観ても゚+.(・∀・)゚+.゚イイ映画なのだがやっとDVD化された!!

ハックフィンの大冒険 [DVD]

その後『ハックフィンの大冒険(原題:The Adventures Of Huck Finn)』では
イライジャ・ウッドがハックルベリー・フィンをやったが
どうもイライジャのピュアな愛らしさが憐憫の情をそそってしまい
トムの方が俄然悪びれて見えるので調子が狂うのだった。(´д`;)ギャボ

☆・・・☆・・・☆

Tommy Shawは動物をたくさん飼いながら暮らしてたらしく
とりわけ『Sing for the Day』で歌われてるHannaなる女性が
人間ではなく犬だった、とインタビューにあったり
「小鳥の餌やり機」なるモノで近所中の小鳥に餌をやってた、とか
知れば知るほど総てのエピソードに心打たれまくりで
ミュージシャンとして以上に人として実に好ましい・・・ホゥ(*-∀-)

神保町の古本屋で背表紙に「『水の上』モーパッサン」とあった文庫を
トルストイの絶賛した短編『水の上』が収録されてると思い込み
値段だけ確認して中身を見ずに入手したのは2008年のコト

帰宅して目次を見た瞬間に間違いに気づいて目が点になったが
気を取り直して「解説」を読んでみると
むしろ短編『水の上』よりよほど興味が沸いたのは
これが晩年のカナ~リおかしくなってきてから書いた紀行文だったからだ

 モーパッサンの従者フランソワの『モーパッサンの回想記』によると、『水の上』ができたのは、1887年(出版されたのは、88年であるが)のように思われる。そうとすれば、彼の死んだ1893年7月3日から6年ばかり前の作である。すなわち、彼の38歳ころに書いたものである。
 モーパッサンが『ル・オルラ』を書いたのは、1887年で、そのころから彼の狂的徴候が見え出してきたと一般にいわれている。しかし、彼自身は、こういっている。「今日私は、『ル・オルラ』の原稿をパリへ送ってやった。一週間たたないうちに、すべての新聞は、私が気ちがいになったということを報ずるであろう。それは、勝手にするがよい。けれど、私は、まったく正気だ。(後略)」

改めて『筑摩世界文学大系【44】モーパッサン』の巻末の年表で確認すると
実際にはこの5年後に精神病院に送られてるので(※)
この発言にはぎくりとくるモノがあった
精神病院に送られた翌年には死んでる

ところで「ル・オルラ」ってどういう意味なのだろうか?
モーパッサン自身が先の発言の略した中で「想像の作り物」だとしてて
それが「読者をぞっとさせるであろう」としてる

綴りは【Le Horla】・・・
しかし杉捷夫編纂の仏語の辞書には載っておらず・・・バタリ ゙〓■●゙

ググってもヒットするのはまさしくモーパッサンの短編の【Le Horla】ばかりで
それが何なのか言及してある記事には辿り着けず
そうして謎が深まるほどに『ル・オルラ』が読みたくなるるる~

モーパッサン短編集 (3) (新潮文庫 (モ-1-8))

これが新潮文庫の『モーパッサン短編集 III』に収録と知って
早速購入して、まずはやはり「解説」から読み始めたが
何ら目ぼしい情報は見当たらず、観念して(?)『オルラ』の本編を読んだ

『オルラ』は日記形式で綴られてる小説だったが
終盤になっても「ル・オルラ」らしいモノはどこにも記されておらず
何度か今自分が読んでるのが本トに『オルラ』なのか確認してしまうほどだったが
それは間違いなく『オルラ』だった

日記を綴ってる主人公の男は平凡な日常を非凡な感覚で送ってて
およそ常識的に生きてるが常識の無意味さを直観でわかってるようで
最初の方でこんなコトをぼやいてる

 この「眼に見えぬもの」の神秘が、いかに深遠であることよ!われわれのあわれな五官では、その神秘を測ることはできぬのだ。われわれの眼にしたところで、あまりに小さいもの、あまりに大きいもの、あまりに近いもの、あまりに遠いものは、認めることができぬのだ。星の世界の住民も、一滴の水のなかの住民も、見ることはできぬのだ・・・。われわれの耳にしてもおなじことで、われわれを欺いてるのだ。なぜなら、耳は、空気の震動を、音調としてわれわれに伝えるではないか。いったい、耳なんて化け物だ。それは、空気の運動を音に変えてしまう奇蹟を行い、そして、この転身によって、自然の無言の動揺をして、音律的なものたらしめる、かの音楽を生むではないか・・・。(後略)

ポカーン。(゚д゚ )

そうそう、その通り!
と、共鳴しつつもこの感覚が気ちがい特有のモノなのだとしたら
幼少時からずっとこの疑念に捉われてきた自分は頭がおかしいのか。(゚д゚lll)ギャボ
いや、今更ながら驚愕するほど自覚がなかったワケではナイw

そして主人公の男はこんなコトも言い出す

神はおのれの姿に象って人間をつくった。そのお返しに、人間はおのれの姿に象って神をつくった。

ヴォルテールのこの言葉ほど的を得た神の定義はナイと思ってたが
主人公の男もそう感じてるるる~

結局、結末まで「ル・オルラ」が何かはわからなくて
読み終わってからあれこれ考えても納得の行く答えは見つからなくて
ただ【Le Horla】がモーパッサンの造語なのだとはわかったが
恐怖でぞっとするよりも不可解さがもやもやした気分を募らせた

再度、紀行『水の上』の「解説」に戻ってみると
モーパッサンのこんな言葉があった

要するに、不思議だとか、不可解だとかいうことは、その人の理解が足りないからである

そうなのだ(゚*゚;)
そしてその理解不可能なモノが自分にとって危険な存在に思えると
恐怖となって自分の心を捉えるのだ。(´д`;)ギャボ

それにしても当初の目的だった短編『水の上』も
この『オルラ』収録の新潮文庫の『モーパッサン短編集 III』にあったりして
間違って回り道をしたようで読む順番的にもちょうどよかった

モーパッサン短篇選 (岩波文庫)モーパッサン傑作選 (ハルキ文庫)

ところで短編『水の上』はさすがトルストイも絶賛なだけあってか
モーパッサンの短編の代表作らしく新潮文庫以外でも
岩波文庫の『モーパッサン短篇選』でも
ハルキ文庫の『モーパッサン傑作選』でも
必ず入ってたので探すまでもなかったのだヽ(゚∀。)ノ

ちなみに後から調べてわかったのだが
紀行『水の上』も短編『水の上』も原題は【Sur l'eau】でまさに「水の上」だが
短編の方は最初に発表された時点では【En canot】で「ボートで」だった

モーパッサンには『水の上』と題した短編小説と紀行文がある

どちらも原題は【Sur l'eau】で「水の上」だが
初期に書かれた短編『水の上』の発表時のタイトルは
【En canot】で「ボートに乗って」だった
と、下記のLINKにあった(短編『水の上』の解説と邦訳本文)
LINK:モーパッサン 『水の上』

この解説によれば若き日のモーパッサンは
よくセーヌ河畔のボート上で楽しく過ごしてたそうだが
行楽的な楽しさ以上の愉しみを「水の上」で体験してたのだろう

そしてモーパッサンにとって「水の上」は
あくまでも川であって海ではナイ

短編『水の上』の導入部では
ユゴーの海の詩を引用して川と比較してたりもするが
川への賛美だけでなく欠点も含めての魅力を詩的に表現してて
それがまるで最愛の恋人について語るかの如くに熱っぽく
少し狂気じみた感さえあって圧倒される

そうして緊張感がMAXまで高まった状態にさせておいて
五感が研ぎ澄まされるような繊細な描写によって
すっかり河畔のボートの上の主人公の男の心境になってしまう

トルストイが『モーパッサン論』において
この短編『水の上』を高く評価してるのは凄く納得が行く

水辺で生まれ育った人なら似たような水辺に郷愁を覚えるのは当然だが
モーパッサンの「水の上」はもっと始原的な情景なので
自然の摂理を直観で享受してるような感覚に陥れられるのだ

人間が自然から感銘を受けるのは崇高な美意識に心打たれるからだが
それをなんとか模写して表現するのが芸術の本来の目的で
単なる文芸ではなく芸術として適ってる作品だ

変わって晩年に書かれた紀行『水の上』は
長編のタイトルにもある「ベラミ」号なるヨットで地中海沿岸の周遊してて
当時(19世紀)の風物についてや土地に纏わる古い伝承などが
日記形式で次から次へと軽妙に綴られてる

どうやら興味の対象がモーパッサンと被ってるらしく
繰り出される固有名詞に嬉々としていちいち反応せずにはいられナイのだが
それに対する考察がまた゚+.(・∀・)゚+.゚イイのだ!

それにしても紀行『水の上』はモーパッサンの著作にしては
本文159ページに対して訳注(※)が10ページほどもあるのは画期的だヽ(゚∀。)ノ
あまり読書家ではなかったらしく古典からの引用が殆どナイのが
もれなくモーパッサンの特徴とも言えるるる~
トルストイが憧れるようなモダンさは古めかしい装飾が一切ナイからかw
訳者は師弟関係の吉江喬松と桜井成夫で、吉江が大正2年に訳したモノを底本として桜井が新訳をした

トルストイは紀行『水の上』については次のように評価してる

その文学的活動の途上における作者の力強い道徳的成長は、これら珠玉のような短編にも、また彼の書いたいちばんりっぱな作品である『水の上』にも、消すことのできない線をもって書きとめられている。

紀行文は要は旅日記だが
そもそも日記が単に出来事の羅列でしかなければ
他人からしたらちっとも面白くナイ
出来事から何をどう思い巡らしたのか?
感性や人間性が垣間見えてこなくては意味がナイが
その点でこれ以上優れた日記はナイ

まあトルストイがモーパッサンに最も感じ入ってる部分は
基本的に人間社会の腐敗に対する憎悪に共感できるトコロだろう

有史以来、人間社会は腐敗し続けてて
美しい魂のままに生きるのは非常に困難なのだが
その困難に真っ向から挑んで生きる、否、むしろのたれ死ぬ。(゚д゚lll)ギャボ
そんな不器用ながらもひたすら美しくあり続ける人間の気高さ!
そういう人間の生きザマに何よりも心打たれるのだ!!

トルストイは『モーパッサン論』でモーパッサンについて
不道徳な人間に肩入れしてるような作品を書いてる、と非難もしてるが
これは生き方が違うから表現の仕方も違うのだと思われ。(´д`;)ギャボ

自然とは隔絶した人間社会で
幻のように現れては消える様々な現象に心奪われるコトなく生きるために
素朴な農民のように神を信じて生きようとしたのがトルストイで
自身の五感にさえ惑わされずに直観で生きたのがモーパッサンなのだ

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一見、不埒な男の成り上がり話のような『ベラミ』には
それを肯定する明るさが微塵もなく
全編に渡って空虚さと疑念が常に付きまとってて
死を恐れる孤独な詩人がベラミに語りかけるシーンと
恵まれた生涯を過ごしてきた友人がベラミの目前で死んでく場面は
この物語の唯一の(2つだがw)真実なのであるが
これらを真摯に受け止められナイベラミは所詮凡庸な小人物に過ぎナイのだ(苦笑)

『ベラミ』を主人公に流されずに読めれば
絶望的な死への想いに耽る孤独な詩人の台詞と
素晴らしい伴侶を得て人生を煌かせたベラミの友人の死に際の光景が
心に残るだろう

モーパッサンが『ベラミ』で描きたかったのは死生観なのだと思われ

ユゴーと言えば日本では『レ・ミゼラブル(ああ無情)』だが
昨年は出版150周年に当たり、これを記念してイギリスで映画化されて
日本でも年末に公開された

過去にジャン・ヴァルジャンを演じた俳優として思いつくのが
ジャン・ギャバン、ジェラール・ドパルデュー、リーアム・ニーソンなので
既に最低でも3度は映画化されてるはずなのだが
どうやらリメイクとか小説からの直接的な映画化ってより
80年代からロングランのミュージカルの映画化だそう

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自分はミュージカルでは観たコトナイのでなんとも微妙だが
とりあえず近年は観たい映画が日本公開スルーばかりだったので
観れる確証があればもうそれだけでありがたかった・・・
まあ、結局は観に行けなかったのだが(苦笑)

日本未公開と言えば、どうして外されたのか不思議なのは
オスカー・ワイルド原作の『Dorian Gray』と
モーパッサン原作の『Bel Ami』だ
主役がイケメン、つか、正統派の超絶美形だったのだから
上手いコト煽れば日本でもウケると思うのに・・・
どうもブサメンとかキモメンを
強引にイケメンと称して押し通すために
チョンが裏で妨害してるような気がしてならナイのだがねp(-_-+)q
『Dorian Gray』も『Bel Ami』もDVDが日本発売されたのでゲト♪

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いかん、話が逸れた、いや、逸れてナイ、どっちだヽ(゚∀。)ノ

ユゴーはドリアンやベラミほどの優男ではなかったかもしれナイが
彼らに匹敵するか、それ以上に女には不自由してなかった
てか、むしろモテ過ぎて不自由してたかもだ・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

人間なのだから欠点があるのは当たり前で
それが女癖の悪さなら、自分の男でナイ限りは1番許せる欠点かとw

とはいえ、元女優で秘書兼愛人のジュリエットが50年間も
ユゴーの愛人だった、ユゴーだけの愛人だった、ユゴーの愛人でしかなかった
てのは、社会的にも生物学的にもどうなのかね。(´д`;)ギャボ
ましてやユゴーの方はまず正式な婚姻関係の妻がいたのだし
他にも肉体関係を持つ女が数え切れナイほどいたのだ。(゚д゚lll)ギャボ

そんなユゴーが道義的な『レ・ミゼラブル』のような作品を書き
その中でこんな感動的な一節をほざくのだwww

海洋よりも壮大なる光景、それは天空である。天空よりも壮大なる光景、それは実に人の魂の内奥である。(※)

心清き人の哀しき魂は河川を流れて海へ辿り着き
一旦は波間を漂いながらも最後には大海の深淵に沈み行くのだろう
しかし水底から解き放たれて空へと飛翔してみれば
気がついたら魂の内奥に帰着してた・・・なんて。・゚・(ノД`)・゚・。
訳は青空文庫にある読み易い豊島与志雄訳で岩波文庫『レ・ミゼラブル』【1~4】の【1】より

『レ・ミゼラブル』は上記以外にも海や空を殊更比喩に用いてるが
同じ時期(晩年)に書かれた詩集にもこの傾向は強く見られ
とりわけ最晩年の『諸世紀の伝説』(※)における空の表現は秀逸で
「サテュロス(原題:Le Satyre)」では天空を越えて
宇宙へまでも達してるるる~
第一集が1859年、第二集が1877年、第三集が1883年に出版されてるが、1883年には人類史の年代順に再編纂された決定版も出た

「サテュロス」は『諸世紀の伝説』の中で
「16世紀、ルネッサンス、異教」の時代に位置づけられており
訳者の解題を引用すれば

この詩は、『諸世紀の伝説』のすべてのテーマが描かれている「凝縮された鏡」なのである。すなわち『諸世紀の伝説』という大宇宙(マクロコスム)に対して、「サチュロス」は小宇宙(ミクロコスム)なのである。

またこの詩の構成はプロローグに始まり
第1部 青、第2部 黒、第3部 暗色、第4部 星空
として、1日の空の移り変わりになってて
最後の星空においてはサテュロスは牧神パンとなり

牧神は叫んだ。
「未来は 天空が作るように
底なしの無限のなかへ拡大すること
あらゆる方向から事物に浸(し)み込む精神だ!
世界よ 悪はすべて神々の形に由来する。
(中略)
燃えるかそれとも流れる 聖なる元素に代われ!
宇宙の輝きに代われ!
国王とは戦争 神は夜。
(後略)」

プルタルコスの『モラリア』【5】「神託の衰微について」には
「大いなるパーンは死せり!」との天の声を聞いた船乗りの逸話があり
これが誤ったまま伝わってキリスト教徒に寓意を纏わされて
更なる誤謬を携えながら近代まで信じ込まれてきたが
ユゴーはこれを前提として
ルネサンス期に他の神々と共に蘇った牧神パンに
人類が理想とすべきユマニスム(ヒューマニズム)が尊重される社会を
未来にあるべき姿として叫ばせているのだ!

残念なコトに21世紀の今もユゴーの時代から全く進歩がナイがね(゚*゚;)
人類は滅び行くまでこのままだろうてヽ(゚∀。)ノ

とにかく自分は晩年のユゴーを読んでると
海から空へ、そして宇宙への航海が
STYXの名曲『Come Sail Away』を想い起こさせる・・・ホゥ(*-∀-)

☆追記...
ユゴーは自身の死後に未刊の作品を集めた詩集を
『大洋(原題:Océan)』と冠して刊行するよう息子らに遺言してた

7月3日はモーパッサンの命日だった
亡くなったのは1893年で1650年8月5日生まれなので
43年足らずの生涯だった

文壇デビューは1875年で25歳の時だったが
本格的な作家デビューは1880年の『脂肪の塊』以降だろうし
1891年には発狂して翌年は自殺未遂で精神病院送りになってるので
実質的にはわずか10年ほどで長編6篇と短編300篇余りも書いてたコトになるが
更に地中海をヨットで航行しながら紀行『水の上』も書いてて
これが出版されたのが1888年で書いてたのは前年だ

晩年の心境がうかがわれるヨットでの地中海旅行記。アルプスの遠望、鉄仮面が幽閉された城塞等数々の情景が巧みな筆致で描かれる。

紀行『水の上』の表紙をめくったカバー部分にそんな概要があるのを見つけて
確かにモーパッサンが亡くなる6年前ではあるが
モーパッサン自身はまるで「晩年の心境」などではなかったと思われ
なんせまだ四十路にもなってなかったのだからヽ(゚∀。)ノ

また【鉄仮面】については
幽閉されてた城塞の場所についての記述が僅か数行あるのみで
上記の概要を鵜呑みにして読んだらガッカリするコト請け合いだが
訳注に【鉄仮面】の噂を流布した人物としてヴォルテールの名があるのには
自分としてはにやりとせずにはいられなかった( ̄ー ̄)ニヤリ

ダルタニャン物語〈第10巻〉鉄仮面 (fukkan.com)

で、【鉄仮面】が幽閉されてたのは
カンヌ南方の地中海上に浮かぶサント・マルグリット島だが
その近隣の島には別の興味深い伝説があった

 パガニーニの遺骸が、5年の間埋め隠されていたのは、海上の、この奇怪な岩の上なのである。こうした数奇な運命も、天才的で、しかも妖気のただよう、この芸術家の生涯にはふさわしいものだ。彼は悪魔にとりつかれた人物と伝えられていたが、それほど、行動も体躯も容貌も奇怪だったし、その超人的な技倆と異常な痩躯とは、彼を伝説的人物に、一種ホフマン流の人物に仕上げてしまったんである。

科学的に無理っつ(;つД`)
とは思いつつも悪魔憑きだと噂されてた人物なので
にわかに信じてしまうのはわかるし
ガセだとしても(ガセだろうが)ネタ元は明らかに実在の人物なのだから
少なくとも【鉄仮面】よりはリアリティーがあるるる~
最近になって改めてググってみてガセだとされてるソースを発見したが・・・
LINK:サン・フェレオル

それにしてもホフマンかよ。(゚д゚lll)ギャボ
かつて『金の壺』を読んでドイツ・ロマン派に対して苦手意識を持ったのだったw

黄金の壺/マドモワゼル・ド・スキュデリ (光文社古典新訳文庫)

とゆーのもその荒唐無稽過ぎる展開について行けなかったのだが
恐らく今や世界的な人気を誇る日本製の異世界アニメの方が
まだ話に整合性があるだろうと納得できるるる~

『金の壺』のあらすじを述べれば
主人公はフツーの大学生なのだがリラの木の下で会った緑の蛇と恋に落ちるのだ!
しかもこの緑の蛇の恋人が奇遇にも大学生の雇い主の娘だったのである!!
蛇の娘を持つくらいだから当然ながら雇い主も人間ではなく
実は火の精サラマンデルだったのだが
かつてアトランティスで恋人だった百合の花との間に生まれたのが3匹の蛇で
その内の1匹だったワケだ。(´д`;)ギャボ

人間の(と断りを入れるのもなんだが)女に横恋慕されたり
りんご売りの老婆に化けた魔女がこの女に加担したので
ガラス瓶に閉じ込められたりしながらも大学生と緑の蛇は愛を貫き
アトランティスにて幸せに暮らしました、めでたしめでたし(なのか?!)

とにかくそんな不可思議な感覚の物語と比べたら
2次元でもフィギュアでも人間の(形態の)女の子を好きならば
それはもう全く正常で何も問題がナイと思えてくるワケでヽ(゚∀。)ノ

まだしももう少しヒューマニズムが盛り込まれてれば
相手が動物だとしても舞台が異世界だとしても
そうして乗り越えられナイ障壁が歴然とあるからこそ
乗り越えた時の感動も一入なのだがね
心の琴線に触れるような出来事がナイので意味不明でしかナイのだ(-_-;)

とはいえ「ロマン派は病的だ」とのゲーテの言もあるが
自分には『金の壺』だけでドイツ・ロマン派を総括して病的とは断言できナイ
『金の壺』も原文(独語)で読めると印象が違ったりするかもしれナイし
ロマン派ってくらいだから内容如何よりもドイツ語の文体からくる表現の美しさに
ただひたすらうっとりするためだけにあるような文学だったりするのかも?!

それにしたって上記引用の例えからすれば
モーパッサンにとってドイツ・ロマン派自体はともかくとして
ホフマンについては異様なモノの代名詞として使ってるのは間違いナイw

ところでホフマン自身は作家で画家で音楽家でもあったのだが
それを目指してたってよりは多才だったので生計を立てるのに役立てただけで
奇行遍歴などは一切(と言って問題ナイくらい)なくて
司法官の職にも就いてた(と年譜にはある)ので
社会的には奇人変人扱いされる謂われはナイ
要するにそれだけ文学作品の異様な印象が強いのだろうか?

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ググってみたら『ホフマン物語』なるオペラがあって
これはネタがホフマンの3篇の小説なのだが作者ホフマンを主人公としてて
Wikiから引用すれば

歌う人形のオランピア、瀕死の歌姫アントーニア、ヴェネツィアの娼婦ジュリエッタと次々に恋に落ちるが何れも破綻するという内容。

これがバレエ『コッペリア』の原作で
しかもメタリカのEnter Sandmanに通じるとは思わなんだ(゚ ゚;)

フェニキア人の都市ビブロスの名から
イタリアのファッション・ブランドのbyblosを思い出した

青山とニュー・オータニ(サンローゼ赤坂)にショップがあって
前を通ればショウウィンドウはチェックしてた

切り替えが多いワリに直線的なデザインの服のイメージがあって
モデル体型でなければとても着こなせまいと思ってたが
オレンジやフューシャの色味が綺麗だったので
自分はユーザではナイが見た目には好きなブランドだった

1着だけ目にも眩しいオレンジの夏物のスーツを持ってて
大きな白いボタンに合わせて白いサンダルとバッグ
ゴールドのインナーとアクセサリ
そんなコーディネイトで着てた・・・若かったw

でも実はbyblosで好きなのは香水、正しくはその印象的なボトル!

このボトルの群青色が地中海を髣髴とさせるが
海洋民族であったフェニキア人に思いを馳せられるし
キャップの上に施された薔薇の花が
それこそビブロスの遺跡から発掘されたような温かみのある愛らしさだった!!

ロゴの「b」を模ったボトルもカッコよかったな~
これもアルファベットを発明したフェニキア人ぽいデザインと言えばそうかも

あと太陽を紋章にしたようなマークがついてるのがあって
これも遺跡に刻まれてたと言われたらそんなカンジ(画像見つからずざざざんね~ん)

どれも自分の中のビブロスのイメージとかけ離れてなくて素敵だったが
さすがにボトル目当てで購入したコトはなかったのだよ
それが今回はちょっとググってみたら劇安だったのでついお試し購入(*^^*)
買ったのはWater Flower↓

同じ値段のPassionと迷いに迷ってこれからの自分にはこっちが似合うかと・・・
でもPassionは上記の写真もカワ゚+.(・∀・)゚+.゚イイディスプレイだけど
ピンクの薔薇がハート型に敷き詰められてるイメージが゚+.(・∀・)゚+.゚イイね

モデルも彼女のTATOOも゚+.(・∀・)゚+.゚イイな

こっちのモデルはまた全然違う雰囲気だけど゚+.(・∀・)゚+.゚イイよ

てか、香水買うの何年ぶりだろう?!

本トは四十路になったら欲しかった香水があった
ARAMISのTUSCANY Per Donna(タスカニーペルドンナ)

香りも凄く気に入ってたがこれはこのゴブラン織り柄の箱に惚れた・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ
だから広告にあるような平べったいボトルだと箱の模様も下半分しか出ナイから
購入するとしたら細長いボトルでなくてはダメなのだp(-_-+)q
だがしかしこれがいつのまにか日本では取扱店がなくなり入手困難となってるるる~
しかもペアのメンズの方は売ってるのになななぜ~。・゚・(ノД`)・゚・。

まあ昔から自分が欲しい香水(CARONとか)は入手困難なのだがな。(´д`;)ギャボ
今回はbyblosがたまたま手に入ったが(しかも安かったが)
これも日本では取扱店がナイ

だから中でも手に入りやすかったGUERLAINのSAMSARAを愛用してたのだが
それももう10年以上前の話だ。(゚д゚lll)ギャボ

ここ数年は特に化粧品の香りが苦手な彼と付き合ってて遠慮してたが
普段は少し香水でもつけようかね
加齢臭緩和できる程度のあっさりした甘さのナイ香り・・・
そういう香水をつけようと思ったコトはなかったからこれから研究のし甲斐があるね

そういえば冬に編み物してる間は部屋がラベンダーの香りで充満してた
毛糸を収納してる引き出しにラベンダーのポプリを入れてて
編んでる時にはラベンダーのアロマを炊いてるのだ

出来上がったモノはティッシュにラベンダーオイルを数滴つけて
一緒にたたんで袋に詰めておくので取り出した時に゚+.(・∀・)゚+.゚イイ香り♪

今週からは早朝に居間でさくらんぼの紅茶(※)を煮出してて
朝の澄んだ空気と一緒にスズメを見ながらいただくのが日課になってて
頭がすっきりして凄く゚+.(・∀・)゚+.゚イイ
サクランボ・ヴェール、Vertって緑だからベースは日本茶なのだった

休日用には優雅にくつろげるようにダマスク・ローズ・ティー(^▽^*)