ダフニスとクロエ

「愛する」とは「愛してもらおうとする企て」である

サルトルの哲学書『存在と無』にある名言だが
つまりそんな【企て】に始終心を奪われてる期間が
恋愛中ってワケだ

しかも【企て】の結果如何によって
不安もしくは安堵とか、至福もしくは絶望とか
両極端に心が揺れ動くのだが
それを常に確認しなければ気が済まなくなってて
精神状態は非常に不安定になるるる~

【企て】通りに進捗しなければ
落胆や憤怒は狂気の沙汰で
その狂気を相手にぶつけるコトから始まる争いは
傍から見れば微笑ましいような痴話げんかだとしても
当人同士にとっては当に死闘。(゚д゚lll)ギャボ

恋煩い、てのはよく言ったもので
恋する気持ちは確かにもれなく病んでるのだ

それはお互いの【企て】が噛み合ってたとしても
つまり両想いだったとしても同じだ

恋人同士と認知し合う幸せに酔い痴れる様は
まるで泥酔者の如きで
先々の不幸も身に迫る危険も
もはや察知できなくなり
死をも怖気付くには値しなくなったりさえ・・・。(´д`;)ギャボ

家族は運命共同体なので
より良い社会生活を営むための様式を
助け合って構築する(のが理想的だ)
その家族の基盤となる最小単位が夫婦だが
夫婦以外の他の構成員は
繁殖によって賄われる(のが理想的だ)

この社会通念と生物学的な事由は正しいが
無謀な恋人たちには
正誤の判断なぞ出来兼ねるワケで
何をか言わんや糞食らえだw

恋人は宿命の半身(はんしん)なので
社会的でも生物学的でもなく
哲学的な存在だ!

お互いの存在意義をお互いの中に認めてて
むしろ自己の存在意義は
相手によってこそ成り立ってたりするのだ!!

そうなると恋愛の終焉は
【自己の存在意義の喪失】で
ましてや欠点こそ愛しく思えるくらい
愛し合ってたりすれば
そこで補われた自らの至らナイ部分が
相手を失った瞬間に一気に顕になってしまい
自分自身に向かって
矢のように突き刺さってくるだろう

この矢傷が招く症状が自己嫌悪で
恋人を失うと同時に
自己の存在意義を見失った際に
無駄に自己嫌悪に陥るのは
そのためだと思われ

片恋の相手に失恋して
自棄になるのも
相手が見出してくれるだろう
と期待してた自己の存在意義を
認めてもらえなかったコトで
茫然自失するからだな

☆・・・☆・・・☆

『ダフニスとクロエ』は
シャガールの連作や
ラヴェルのバレエ音楽などで
牧歌的な恋愛譚って大まかなあらすじだけ
なんとなく知ってる気になってた

ちゃんと読んでみたのは
5年前(2013年)で
電気書籍になってたからだ

ウブな山羊飼いの少年ダフニスと
無垢な羊飼いの少女クロエが
お互いに自身の感情が恋だと気付かずに
てか、恋とゆーモノを知らナイため
想いが募って遂には病気になってしまうのだ(-_-;)

しかしキスをするコトで苦しみが癒されるのを知り
最終的には結ばれる喜びに満たされるのだが
いや~、泣けた・・・(;つД`)

現代日本ではSEXって不道徳なモノのように扱われ過ぎてるし
自分もすっかりその風潮に毒されてた

不特定多数の相手とのSEXと唯一無二の相手とのSEXを
同じように蔑視してる自分に気付いて
泣きながら恥じ入った。・゚・(ノД`)・゚・。

まあでもそれだけの純愛物語でもまたナイのだw
年増女の恋の手ほどき(筆おろしってヤツね)あり、男色ありで
強気で人間臭いギリシアの神々も健在で
三島由紀夫が感化されて『潮騒』を書いたのも納得だし
ゲーテが賞賛するのも尤もだわ

ちなみに作者はロンゴスなる人物で
2~3世紀頃のギリシア人(ってコト以外はわかっておらず)

☆・・・☆・・・☆

果たしてサルトルが言うように
「愛する」とは「愛してもらおうとする企て」だろうか?

ダフニスとクロエの場合は明らかに違う気がするな
「愛する」とは、もとい、「愛し合う」とは
「恋しい苦しい気持ちを癒し合うコト」だろうか?