トーマス・マンはトルストイの『アンナ・カレーニナ』を分析する

フローベールの『ボヴァリー夫人』はリアリスムの傑作だが問題作だった

主人公のボヴァリー夫人はちょっと(当時にしてみればカナ~リw)奔放な女で
退屈な夫に内緒で刺激的な愛人の元に走ってしまうのだが
これが社会に悪影響を齎すと裁判沙汰になった

アンナ・カレーニナ〈上〉 (岩波文庫)

トルストイの『アンナ・カレーニナ』も不倫の物語だが
ボヴァリー夫人であるエマ(エンマ)が生きてる間は夫にバレてなかったのと対照的に
アンナは愛人に求められるままに夫を捨てて愛人の元へ身を寄せてる

エマもアンナも不倫の末に自殺したのは同じなのだが
そのタイトルからも歴然とわかるように
エマは死ぬまでボヴァリー夫人であり続けたし
アンナは最初から最期までアンナ・カレーニナであったのだ

アンナ・カレーニナ〈中〉 (岩波文庫)
アンナ・カレーニナ〈下〉 (岩波文庫)
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田舎の開業医の妻であった夢見がちなエマは
行きずりの色男たちと不倫するのだが夫を捨てるには至らナイ

一方、官僚の妻であった美貌のアンナは
1人の将校の熱烈な求めに応じて不倫して夫を捨てるに至るが
困った時にはまた夫に寛大に迎え入れられるし
そうかと思えば再び将校と駆け落ちして猜疑心から自殺する破目に陥る

この時代の女性にとっては夫とはズバリ生活の糧、だったので
女は愛とか恋とかほざく前に
生きるためにとりあえず結婚せねばならず
逆にどんなに深く愛し合った夫でも
先立たれたら他の男に嫁ぐしか生きる道がなかったのだ

そういう社会機構の中でずっと女性の気持ちは無視され続けてきたので
エマやアンナが時代に先行して恋愛感情を顕わにしたからって
現代人の感覚で不倫だから不道徳とは言い難い

とか、若い時はエマやアンナに同調してたのだが
今になってよくよく考えてみると
エマは金持ちの愛人に駆け落ちを迫ったが断られてしまったし
若い恋人にはエマが満足できるような生活能力もなく
夫の元で暮らすしかなかったのだし
アンナは自身を求める男に対してその度に身を預けてただけで
2人とも結局は男に振り回されたに過ぎなかったのだ

いずれにせよ、この2人を責める気にはなれナイ(-人-;)

しかしトルストイが自身でアンナのようなヒロインを描きながら
「モーパッサン論」で『女の一生』のヒロインが
どれほど鬼畜な夫であれ、放蕩息子であれ、耐え抜いた
などと絶賛してる(※)のを苦々しく思ってた
※LINK:トルストイの『モーパッサン論』について

それがトーマス・マンの「アンナ・カレーニナ論」(※)を読んで合点が行った
LINK:『筑摩世界文学大系【37】トルストイ』収録

『アンナ・カレーニナ』の主役はアンナではなくレーヴィンである

なんですと。(゚д゚lll)ギャボ

レーヴィンはトルストイでありキチイもトルストイ夫人なのである

なるほど。(´д`;)ギャボ

生活力のナイ女の不倫の最期は自殺しかナイ、そんな教訓なのだなヽ(゚∀。)ノ

だからこそまあ世の中がこうも不景気になって
夫の収入だけで生活するのが困難な状況が当たり前になってくると
妻には夫に従う意味もなくなるので離婚率が上がるのは尤もな気がするるる~