Scaramouche

QUEENのBohemian Rhapsodyは荘厳な曲調の部分が気に入ってて
そこだけよく脳裏で回ってたりもするが
歌詞が謎めいてるのも鼻歌で歌ってておもしろい

オペラ座の夜<リミテッド・エディション>

I see a little silhouetto of a man
Scaramouch, scaramouch will you do the fandango
Thunderbolt and lightning – very very frightening me
Gallileo, Gallileo, Gallileo, Gallileo, Gallileo Figaro – magnifico

この曲を初めて聴いた時には小学生で「ガリレオ」だけ聴き取れたが
歌詞を見るまでずっと空耳してるのだと思い込んでたから
本トに「Gallileo」だったのに驚いたw

ガリレオ・ガリレイ―地動説をとなえ、宗教裁判で迫害されながらも、真理を追究しつづけた偉大な科学者 (伝記 世界を変えた人々)

これはしかし天文学者のガリレオなのだろうか?
次のFigaro(フィガロ)はあのオペラの主人公のか?
その前にfandango(ファンダンゴ)とあるのだからそうか?(※)
続くmagnifico(マニフィコ)はボッティチェリの『マニフィカトの聖母』てのがあるから
これらの人物を称えてるのだろうと予想を立てた
モーツァルト作曲の『フィガロの結婚』第3幕でファンダンゴの旋律が使われてる

モーツァルト:歌劇《フィガロの結婚》フィレンツェ歌劇場2003年 [DVD]

で、Scaramouch(スカラムーシュ)って何だ???
やっぱイタリア語なのかな?

今のようにググれなかった当時
解けなかった疑問は答えに巡り会うまで脳内倉庫に保管しとくしかなく
いつももどかしさに苛まれつつもしつこくくどく格納しておいた

それが間もなくパスカルの『パンセ』を読み始めたら
冒頭の12章に載ってるじゃナイか。(゚д゚lll)ギャボ

そうしてスカラムーシュが古い(※)イタリア喜劇に出てくる道化役の呼称と知った
しかもパスカルの時代(17世紀)のパリで
イタリア人俳優のチベリオ・フィオレリが黒尽くめの衣装で演じ
それが当たり役でこの呼称もチベリオかららしいとわかり
歌詞の情景がにわかに目の前に現れて感動した
パスカルの時代からしても前時代で、要するにルネサンス期なのでは?

現在『パンセ』は中公世界の名著版と筑摩世界文学大系版を持ってるが
両方から該当部分を引用してみるるる~

一つのことしか考えないスカラムッシュ。
何もかも言ったあとで、まだ15分間もしゃべるほど、言いたくてしかたがない博士。

一つのことしか考えないスカラムーシュ。
何もかも言ったあとで、なお15分間もしゃべる博士。それほど彼は語りたい思いでいっぱいなのである。

前者はパスカル研究者として名高い前田陽一訳で
後者は松浪信三郎訳だがスカラムーシュについての注は後者の方が詳しい

松浪の注によれば続けて出てくる博士も同じくチベリオ・フィオレリの当たり役で
グランシアン(グラチアーノ・パロアルド)博士らしい

道化と博士の対極的な2人を取り上げて
パスカルが何を言い表したかったのかは明らかではナイが
フレディーがスカラムーシュを登場させたのと何か通じる気がする

なんせ恋愛に縁がナイ道化のスカラムーシュにからかい混じりで
恋人同士の情熱的な舞踊であるファンダンゴを
踊るまいと思いながらわざと「踊らナイのかい?」と!

そうなると次の行の落雷の衝撃を非常に恐れてるのは
恋愛に臆病になってるスカラムーシュの心情なのではナイか?!

ここでセビリアの理髪師だったフィガロが出世して結婚できたのを
讃辞するのは謎ドコロかむしろわかりやすい

だがしかし!!
その間に挟まって連呼されてるガリレオが謎だ(゚*゚;)

万が一フレディーがこの部分を『パンセ』からインスパイアされてたら
グランシアン博士としたかったのをガリレオにしたとか・・・
いや、ひねり過ぎだろうヽ(゚∀。)ノ

今更ちょいとググってみたら
QUEENの楽曲を使ったミュージカル『We Will Rock You』では
主人公の少年にガリレオ・フィガロと称させ
相手役の少女にはスカラムーシュと名づけたそうだが
どうして何でもミュージカルになると意味が存在しなくなるんだかな

幻滅しつつもプロダクションに
愛するロバート・デ・ニーロの名があって笑うしかなくなった

何もしなくても世界が存在するのに
世界観に意味なんか求める自分が間違ってるんだろう(苦笑)

でも自分は意味を希求するのが愉しくて生きてるんだから
まあ間違ってても正すつもりはナイがな(*^^*)

Les Provinciales

世界を司ってるモノが
神であろうが
自然の摂理であろうが
何だって構わナイし
どうせその答えは人類には出せナイ

ただ切に願わずにはいられナイのだ
世界は美しくあるべき、と

☆・・・☆・・・☆

パスカルはキリスト教信者だった(※)が
宗派としてはジャンセニスム(ヤンセニスム)で異端であり
ローマ・カトリック教会の中でもジェズイット教団(イエズス会)は
ジャンセニストに対して攻撃的だった
23歳の時に第1の回心、31歳の時に第2の決定的回心

ローマ教皇歴代誌

ローマ・カトリック教会はローマ教皇庁を頂点にした権威主義的な組織だが
その最高権威者たる大司教は単純に考えて神に任命されたワケではナイ
そんなコトは信者だってわかってる・・・はずヽ(゚∀。)ノ
それでも神の代理機関としてヨーロッパ中で認知されてたので
神の名を騙って異端審問を行ってた

この「審問」てのは「裁判」とは違って
異端審問を受ける=既に異端者として見做されてる、なので
受けたら最後、何らかの刑罰からは逃れようもなく
まあほとんどの場合は火炙りにされたのだが
要するにローマ・カトリックが中世より権威を保ってきたのは
教会にとって都合が悪い真実を述べてる人間を
悉く惨殺するコトによってなのだよ。(゚д゚lll)ギャボ

そういうローマ・カトリックのやり方がどうにも虫が好かナイ自分は
それでキリスト教自体にも懐疑的にならざるを得なかったが
パスカルはキリスト教そのものや神(至高存在)は是認してたので
正しい信仰の在り方を希求した結果として
ジェズイットとは反目するようになったのであって
消去法的にジャンセニストの側についた、という見方が正しいと思われ

それとゆーのも、パスカルが所属してたパリのポール・ロワイヤルは
当時のフランスにおけるジャンセニスムの本拠地だったので
これを目の敵にするジェズイットの攻撃が不可避で
パスカル自身が格別にジャンセニスムに傾倒してなかったとしても
ジャンセニスム擁護の立場におかれてたのだ

パスカルはジェズイットの攻撃に対する回答をまとめて
『プロヴァンシャル』として匿名で出版したが
ジャンセニストを代表してのパスカル名義ではナイコトや
論旨が必ずしもジャンセニスムに忠実ではナイコトからしても
単にジャンセニストとして十把一絡げにしまうのは憚られるのだが
キリスト者としても決して不寛容な妄信の徒ではなく
理性的に、時には科学的にさえ、考えてる

だって人間は【考える葦】だよ・・・。・゚・(ノД`)・゚・。
from パンセ by パスカル

自分は無神論者だが
パスカルが無神論者を嘆く気持ちが痛いほどよくわかるのだ

通常であれば、信者は信仰が定めた世界観が正しいと思い込んでて
その世界観に疑いを抱く非信者を間違ってると見做し
自身は神に従順な正義なので、反駁する相手を悪(魔)だと決め付ける

パスカルは押し付けられた世界観をそのまま享受してるのではナイ
世界がどう(美しく)あるべきかを吟味した上で
思い描くようになった理想郷があり
そこを神が支配してて欲しい、と願ったのがパスカルで
自分は反対に、そこで偽りの神を祀るべからず、となるワケだw
なんせ宗教の存在こそが争いとその後の悲劇の原因なのは
有史以来の歴史が明らかにしてる史実だwww
しかしパスカルに言わせれば
良心のありかは神の存在なくしては成り立たナイ
つまり、非道をやってのける者は神を畏れずにいるためにやってしまう
そんな前提で「良心を持ってて欲しい」=「神を信じて欲しい」だとすれば
無神論者の自分も=の前の部分には共感できてしまうのだが(-_-;)

と、ここまできてからなんだが
ジェズイットにしろ、ジャンセニスムにしろ
そもそもキリスト教からして日本人には馴染みが薄いかもだな。(´д`;)ギャボ

ジェズイット(ヤソ)会士は厳格な男子修道会で
平たく言えば修業を積んだら僻地へ布教に行く派遣員の候補者で
日本に布教に来たフランシスコ・ザビエルも
この教団の創始メンバーだった

聖フランシスコ・デ・サビエル書翰抄 上巻 (岩波文庫 青 818-1)聖フランシスコ・デ・サビエル書翰抄 下巻 (岩波文庫 青 818-2)アウグスティヌス講話 (講談社学術文庫)

ジャンセニスムは人間を罪重く非力な存在と貶めて
神の恩寵なくしては救われナイ、としてるのだが
これはオランダの神学者ヤンセンの著書に端を発してて
そのタイトルの『アウグスティヌス』てのは
若き放縦の日々への悔恨に苛まれ続けたヒッポの司教の名だ

Heaven is a Place on Earth

自分が物心ついた頃に
小学館の学習マンガ『生きている地球』を読んで信じたのは
宇宙がガモフの言うトコロのビッグバンから始まり
生命の誕生はオパーリンのコアセルヴェート説だったが
この時にキリスト教圏で生息してたら
敬虔な信者になって創世論を頑なに信じただろうし
本を読まずにテレビだけ見てたら
何も考えずに芸能人を拝んでたかもしれナイ(-人-;)

ビーグル号世界周航記――ダーウィンは何をみたか (講談社学術文庫)

また小学生の時には
ダーウィンの『ビーグル号航海記』が愛読書で
生命のダイナミズムに感銘を受けて【進化論】を信奉してたが
世界中の荒唐無稽な神話にも興味を持ってて
特に『古事記』と『ギリシア神話』
そして『旧約聖書』の「創世記」の部分はお気に入りで
寓話と認識しながらその世界観で精神を開放して愉しんでた

既にどんな神も全く信じてなかったが
神に依らずともきっとこの世界は本来美しいモノだ、と確信してたので
意識して世界観から神を排除しようとも思わなかった
神自身は虚偽であったにせよ、信仰が派生したのは紛れもナイ史実で
その原動力となったのは神のような存在の到来を望む人々の
思い(希望・願望・野望)だったはず!
そして自分が人類の歴史に想いを馳せるのは
生命の連鎖以外にそういう気持ちの連鎖があったコトに感動したいからだ!!

中学~高校でバイオテクノロジーの時代を迎え
分子生物学によって生命の誕生や進化が解き明かされてくると
創世論者が事実の方を捻じ曲げようと
躍起になるのを目の当たりにして辟易しつつも
逆に神を否定しかねナイ科学を解する理性を持った学者たちが
自身の中で信仰と科学をどう結び付け、またどう切り離してるのかに
大いに興味が沸いたが
その時に出会ったのがパスカルの『パンセ』だった

パスカルの時代はキリスト教から派生したスコラ学が主流だったが
時代より先行して近代科学を学んでたパスカルは
要するに神に辻褄を合わせて理論付けるスコラ学派ではなく
事実から導いた理論をこそ実証する近代科学の先駆者だったのだからして
そうして科学的な理性をもってしてて
なぜ一方で非科学的な存在の神を信じられるのか?

『パンセ』を読み始めた頃はそこが甚だ疑問だったのだが
敬虔なキリスト教信者である科学者は珍しくナイ
ニュートンやリンネ、そしてダーウィンにしても元は神学を学んでた
むしろ神の創りたもうた世界を正しく認識したくて
もれなく科学者になったのがこの時代までの科学者だろう
ダーウィン然り、「創世記」に反論するためではなく
神の存在を決定付ける証拠を突き止めようとして
多様な生物について研究してたのだ

☆・・・☆・・・☆

ウイルスは生物ではナイが増殖する

但しウイルスの個体は増殖するための装置のみでできてるので
この装置がONになる環境がなくては増殖できず
換言すれば生物が増殖するのは
増殖するための環境と装置を生物の個体が併せ持ってるからだ

利己的な遺伝子 <増補新装版>” /></a><a href=神は妄想である―宗教との決別悪魔に仕える牧師

神を全面否定する分子生物学者リチャード・ドーキンスは
上記を踏まえて著書『利己的遺伝子』において
利己的遺伝子による理路整然とした世界観を構築してる

遺伝子(増殖するための装置)によって
生物の個体(増殖するための環境)は操られてるので
まるで生物の個体は単なる遺伝子の乗り物のような存在であり
それに比して遺伝子の方は利己的である、とな

人類が生物の中で特別な存在で生物界を支配してる
なんてとても思えなかったから
ヒトを含む全ての生物が自身の持つ遺伝子に支配されてる
その理性的な発想にはメカニズムを含めて賛同できる

しかし生物は個体としても生きる意志を持ってて
同じ種である仲間同士はもちろんだが
同じ生態系においては一見して敵対してると見做されつつも
その中で【共生】してる=助け合ってるのでは?

全ての生物は助け合って共存するのが自然の摂理に適った真理である
とゆー考えを根強く持ってた自分としては
利己的遺伝子の戦略に操られてる「だけ」となってしまうと
それはあまりにも情が無さ過ぎて納得行かなかった

正しいか間違ってるか、に対して
正しいかもしれナイけどあんまり非人情ですヽ(゚∀。)ノ
なんて、最先端科学を学んできた人間にしてはバカとしか言いようがナイ反論だが
こちとらがっつり江戸っ子として生きてきちまったんで
正論だろうと人情を欠いてちゃ合点が行かねんでいっ・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

どうも腑に落ちナイ・・・何か冷たいモノを感じてしまうのは
世界には美しさや優しさが満ちてるはずで
神がいてもいなくても・・・いや、神がいなければこそ
この世が天国(※)であって欲しいヽ(´▽`)/
ドーキンスからはそんな気持ちが汲み取れナイからだと思われ
理想郷、楽園、エデンの園、ユートピア、極楽浄土・・・等

Heaven on Earth

パスカルが神の存在を肯定したいのは
人類の望む方向がそういう意味で天国であって欲しいからだとしたら
潜在的世界観では自分と同じモノを持ってると感じるのだ

Blaise Pascal

パスカルの『パンセ』の決定版を
1冊選べと言われたら筑摩世界文学大系だが
2冊選べるなら中央公論社の世界の名著(※)もあれば完璧だ
このシリーズも中央公論社版が出て、その後に中公バックス版で再編纂されてるので
パスカルの巻は【24】と【29】と巻数が違ってても内容は同じ
またこのシリーズも半世紀前に出てるが【24】の方は概ね状態が゚+.(・∀・)゚+.゚イイ

中公世界の名著
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世界の名著 24 パスカル
世界の名著〈29〉パスカル (1978年) (中公バックス)
世界の名著 29 パスカル パンセ 小品集 中公バックス

中公世界の名著は前田陽一と由木康との共訳で
冒頭の前田陽一による「パスカルの人と思想」には
パスカルの生涯についての詳述があり
『パンセ』本文の後にはパスカルの「小品集」も収録されてて
当然ながら巻末には年譜と、あと索引があるのが便利だ

世界の名著〈第24〉パスカル (1966年)

パスカルの人と思想
前田陽一
小品集
パスカル / 前田陽一、由木康訳
パスカルと私真空論序言
パスカルの時代愛の情念について
生い立ち罪びとの回心について
科学者覚え書
人間探求者初代と今日とのキリスト者の比較
キリスト者ド・サシ氏との対話
『パンセ』の歴史幾何学的精神について
パスカルと後世病の善用を神に求める祈り
パスカルと日本大貴族の身分について
本書の読み方

しかしこれら2冊を揃えて嬉々としてるような自分も
実際には現代日本人で無神論者なので
信仰心を問われる箇所には今一つ踏み込めずにいて
ブランシュヴィック版の前半部分に限った愛読者だったりして
ラフュマ版なんて読み始めてすぐに嫌気が差した・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

その日本では稀有なラフュマ版を完訳してるのが田辺保なのだが
パスカルが書き留めた年代順に従ったこの版は
整理整頓されたブランシュヴィック版に慣れてると些か読み難く
涜神に対する呪詛のような言いがかりが
後半にまとまってなくて随所に散見してくると
とりわけ自分のような無神論者が抵抗なく読み進むのは難しい

パスカルと現代
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パスカルと現代 (1967年) (紀伊国屋新書)
パスカルと現代

そんなラフュマ版を支持する田辺保の著書を
そうとは知らずにうっかり読んで目から鱗な事実に気づかされた

神や宗教のような伝統的なまやかしを信奉してる信仰心と
科学や自然の摂理を真実だと確信する理性は
相反するようだが実は根っこが同じ場合もあるのだ

今、手元にあるのは『パスカルと現代』のみだが
以下の3冊も揃えたいと思ってて
電子書籍版が出てくれるのを待ってるるる~
とはいえ、『パンセ』自体が未だに電子書籍化されてナイのだが(-_-;)

パスカル―痛みとともに生きる (平凡社新書)パスカル伝 (講談社学術文庫)パスカルの信仰―パスカルとわたし

『パスカルと現代』

新装版への「まえがき」
はじめに―パスカルとわたしたち―
第1章パスカルの時代
  1. 「科学革命」の時代
  2. 17世紀フランスの社会
第2章パスカルの思想
  1. 生きたヴィジョン
  2. その政治思想
第3章精神の兄弟たち
  1. キェルケゴールとパスカル
  2. ペギーとパスカル
  3. パスカル、シモーヌ・ヴェイユ、テイヤール・ド・シャルダン
  4. 植村正久の『真理一斑』
ブランシュヴィク版との対照表
あとがき

☆・・・☆・・・☆

人間は誰しも成長の過程で何らかの世界観を形成してく

つまり、世界がどうあって
その中で自分が何なのか、自分のポジションがどこにあるのか?
何かを根拠にして信じるようになる

古来より民族に伝わる伝承なのか
科学実験の結果から齎された事実なのか
その根拠によって世界観は異なり
たいていの人間は自身とは違う世界観を享受できナイ

信仰を持ってる人間ほど世界観にすがって生きてるので
宗教・宗派が違えば憎み合いさえするワケだが
それをえげつナイと思ってかつては蔑んでた

しかし実は科学的に=理性的に生きてるはずの無神論者も
学者同士だったとしてもやはりえげつナイものなのだ
例えば進化論のように実験で結果が明らかにできナイ場合には
異論を唱える者に対して憎悪にも似た感情を抱く。(゚д゚lll)ギャボ

ドーキンス VS グールド (ちくま学芸文庫)

リチャード・ドーキンスとスティーブン・ジェイ・グールドがそれで
2人とも進化論自体は認めてるのに
その進化の過程についての考え方を批判し合ってるのだ

まあ進化論に関しては昔から
ラマルクに対するキュヴィエとか、カンメラーに対するベーツソンとか
創世論者が進化論者に対する以上の憎悪の念が感じられるがな。(´д`;)ギャボ

自分は無神論者だが懐疑主義者なので
事実として見せつけられてるコトも易々と信じはしナイし
ましてや情に脆い江戸っ子なので
見せかけの行動よりも真意を汲み取ろうとしてしまう

だからリアルで悪辣に見える人も
その悪意が諦めや失望によって齎されてたかもしれナイ
それとは別にもっと心の深い部分に思い描いてる理想郷に対してなら
共感できるってコトもあるかもしれナイ
そんな風に希望を捨てられナイ

パスカルとは同じ理想を夢見る仲間に違いナイ
アウグスティヌスもトマス・アクィナスもライプニッツも
そしてヴォルテールだってそうだが
神に依存するのが前者でそれができナイのがヴォルテールとか自分なのだ!

世界はきっと神の意思そのものではなくとも
宇宙の原理や自然の摂理が美しくあろうとしてるはずだ!!

Le choix des Pensées

パスカルの『パンセ』にはいくつかの翻訳があるが
その中でも研究者として名高い前田陽一訳は文体も読み易く
入手し易い点でもオススメだが
自分が最も愛読してるのは松浪信三郎訳だ

筑摩世界文学大系
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世界文学大系〈第13〉デカルト・パスカル (1958年)
筑摩世界文学大系〈19〉デカルト,パスカル (1971年)
筑摩世界文学大系 (19)

松浪信三郎訳は筑摩世界文学大系(※)で持ってるのだが
これは邦訳『パンセ』の決定版だp(-_-+)q
テキストはレオン・ブランシュヴィック版を底本としてるが
ザカリ―・トゥールヌール版、ルイ・ラフュマ版2種との差異や
断章番号もこれらの4つが掲載されており
訳者による「『パンセ』のテクストについて」では
『パンセ』編纂の歴史が事細かに綴られてて
これ以上に親切にはできナイ限界仕様だと断言できる
なお、本文の概要についてはPenseesを参照
このシリーズは2度に渡って編纂されてるので、【13】と【19】と巻数が違ってても内容は同じ

しかもデカルトとのカップリングなので
『方法序説』『省察』『情念論』を参照しながら読めるのだが
参照すべきとわかるのは訳注にそうあるからだ

『方法序説』野田又夫訳
【第1部】~【第6部】

『省察』桝田啓三郎訳

献辞「いとも賢明にして著名な聖なるパリ神学部の学部長ならびに博士諸氏に」
読者への序言
以下の六つの省察の概要
省察1疑われうるものについて
省察2人間精神の本性について。精神は身体よりも容易に知られるということ
省察3神について。神は存在するということ
省察4真と偽とについて
省察5物質的な事物の本質について。そして再び、神は存在するということについて
省察6物質的な事物の存在ならびに精神と身体との実在的な区別について
凡例
訳注

『情念論』伊吹武彦訳

第1部情念を概説してたまたま人性全般に及ぶ
第2部情念の数と順位、ならびに基本的六情念の説明
第3部特殊情念について

デカルトの『方法序説(および三試論)』が出版された時
パスカルの父がフェルマーらと共にこれに反論してるくらいだから
息子のパスカルもデカルトを敵視するのは無理もナイが
その敵意がどうも神に対する冒涜に向けられてる気がするのが
現代日本人で無神論者の自分からすると腑に落ちナイ点だ
とゆーのも、デカルトこそがキリスト教由来のスコラ哲学を踏まえてて
パスカル親子は当時の最先端の数学や科学を学んでたからだ

1634年、38歳のデカルトが『宇宙論』を発表しようとした矢先に
先んじたガリレオが教会に対して主張(地動説)を曲げず
裁判の末に有罪になった。(゚д゚lll)ギャボ
既にデカルトはそれまでの著作だけでも
デカルトの思想・哲学は有害であり有罪だ、とされてたので
『宇宙論』の出版は断念せざるを得なかったが
いずれにせよ、まだ時代が早過ぎたのだ

以降のデカルトは46歳(1642年)から54歳で(1650年に)没するまで
神を擁護する人間との抗争の内に明け暮れてたが
真実を捻じ曲げようとしてるローマ・カトリック教会に対して
真実を突きつければ異端審問にかかるのがオチだ。(´д`;)ギャボ

そして神の恩恵を看板に掲げた組織との抗争を余儀なくされたのは
【決定的回心】がなされてたパスカルにしても同様で
宗教改革後のヨーロッパなのであるからして
分裂した宗派の諍いが激化してたのだ

パスカルはジャンセニスト(ヤンセニスト)とされて
ジェズイット(イエズス会)から敵視されてたが
そもそもパスカルが所属してるポール・ロワイヤルが
ジャンセニスムの本拠地でフランス国教会もこれを支持してたので
しばしばローマ・カトリック教会が無視されたのだ
なのでジェズイットにしてみれば
正統な神の代理機関が蔑にされてるのは
ジェズイットの沽券に関わる不祥事だったのだが
これに対してパスカルが応じたのが『プロヴァンシアル』だヽ(゚∀。)ノ

内容的にはジャンセニストとジェズイットの対立を
神学上からなんとか収めようとしてる手紙で
この『プロヴァンシアル』とそのいきさつが「注説」として
筑摩世界文学大系には収録されてるるる~

『プロヴァンシアル』中村雄二郎訳

目下ソルボンヌで論議されている事柄について、ある田舎の住人(プロヴァンシャル)に、友だちの一人が書き送った第一の手紙
ある田舎の住人に友だちの一人が書き送った第五の手紙
ある田舎の住人に友だちの一人が書き送った第七の手紙
田舎の友への手紙の著者がイエズス会の神父がたにあてて書いた第十一の手紙
田舎の友への手紙の著者がイエズス会の神父がたにあてて書いた第十二の手紙
田舎の友への手紙の著者がイエズス会のアンナ神父にあてて書いた第十八の手紙
アンナ神父にあてられた第十九の手紙・断章

更に筑摩世界文学大系には
ジョルジュ・デュアメルのデカルト論(※)と
トマス・スターンズ・エリオットのパスカル論(※)に
デカルトとパスカルについての多数の著作がある野田又夫の解説もあり
巻末にはデカルトとパスカルの詳細な年譜もついてる充実ぶり!
これぞ『パンセ』決定版だ!!
G・デュアメル「デカルト 思考の師」(土居寛之訳)、T・S・エリオット「パスカルの『パンセ』」(青木雄造訳)

実は筑摩世界文学大系は半世紀近く前に出版されてるので
入手するとしたらもれなく古本なのだが
紙質が非常に良いので今まで(※)状態の悪い本を見たコトがナイ
できればモンテーニュの『エセー』も
入手するなら筑摩世界文学大系が゚+.(・∀・)゚+.゚イイ
自分がこのシリーズを入手し始めたのは近年になってからで100冊以上チェックしてる

現代日本人がパスカルの『パンセ』を理解するのは困難だろう
『パンセ』だけをいくら読んでも
全く意味不明か意味を取り違えてしまうだろう

最低でもモンテーニュとデカルトは読む必要があるし
モンテーニュを愉しむためにはルネサンスの教養人レベルの
古代ギリシア・ローマについての素養が必要だし
キリスト教の信者が真実としてる教義以上に
ローマ・カトリック教会の史実を知らなければならナイ

すっかり理解するにはスコラ哲学も必須だろうてw

Pensées

17世紀フランスの幾何学者パスカルの著書『Pensées(パンセ)』は
仏語で「思想」「思考」の意だが『パンセ』としたのはパスカル本人ではナイ

NHK「100分de名著」ブックス パスカル パンセパスカル『パンセ』 2012年6月 (100分 de 名著)

そもそも『パンセ』はパスカルの死後に出版されてて
『筑摩世界文学大系【13】デカルト パスカル』の「年譜」によれば
パスカルが『キリスト教弁証論』の構想に着手し始めたのは
34歳頃(1657年)だったのだが
その2年後には酷い衰弱状態に陥ってしまい
39歳の時(1662年)にはこの世を去ってしまってる

その『キリスト教弁証論』の遺稿(断片的なメモも含めて)が
『パンセ』として幾通りかに編纂されたのだが
パスカルが生き長らえて完成させてれば
『キリスト教弁証論』として出版されたはずだ

『パンセ』はそんな成立の事情により
各断章に割り振られた番号も全体の構成も版(編纂者)によって違い
どれもがパスカルからしたら不本意で
一旦書いても二重線で消してたりする部分が
そうしてあった、と断り書きをしながら載せられてたりもして
要するに未完の原稿が書きかけの状態のまま出版されてるのだから
当人からしたら冷や汗モノなのではなかろうか(;つД`)

しかし『パンセ』出版から300年以上を経た現代では
ブランシュヴィック版が一般的なようで
日本でも殆ど総てこの版の訳だと思われるが
それは最も合点がいく編集がなされてるからだろう

例えば「考える葦」についての記述がある2つの断章が
[347]及び[348]と連続してる(※)のは
なんとブランシュヴィック版だけだったりするのだヽ(゚∀。)ノ
例えば、ザカリー・トゥールヌール版が[183][107]
ルイ・ラフュマ全3巻が[200][113]、ルイ・ラフュマ完全版が[391][217]

ブランシュヴィック版の構成は以下だ

章(編) 松浪信三郎訳前田陽一と由木康の共訳断章番号
第1章精神および文体についてのパンセ精神と文体とに関する思想[1]-[59]
第2章神を持たない人間の悲惨神なき人間の惨めさ[60]-[183]
第3章賭の必然性について賭の必要性について[184]-[241]
第4章信仰の手段について信仰の手段について[242]-[290]
第5章正義、および現実の理由正義と現象の理由[291]-[338]
第6章哲学者哲学者たち[339]-[424]
第7章道徳と教理道徳と教義[425]-[555]
第8章キリスト教の基礎キリスト教の基礎[556]-[588]
第9章永続性永続性[589]-[642]
第10章象徴表徴[643]-[692]
第11章予言者預言[693]-[736]
第12章イエス・キリストについての証拠イエス・キリストの証拠[737]-[802]
第13章奇蹟奇跡[803]-[856]
第14章補遺、論争的断片論争的断章[857]-[924]

☆・・・☆・・・☆

パスカルの生きた時代(17世紀のフランス)は
ルネサンス(16世紀)と理性の世紀(18世紀)の間だった

ヨーロピアンの精神的支柱であるキリスト教が
中世の暗黒から抜け出て、ルネサンスの光明に曝され
不明瞭な部分を神に委ねずに解釈する人間が台頭してきたが
そんな先進的な思想を持つ先達にモンテーニュとデカルトがいた

2人ともパスカルと同じくフランス人だったが
モンテーニュはパスカルより一時代前に
デカルトはパスカルより一世代前(パスカルの父と同年代)に
キリスト教に対して真っ向から挑むような著述をした

それらがパスカルに『キリスト教弁証論(パンセ)』を書かせた
とゆー見解は『パンセ』を一読すれば瞭然で
とにかくモンテーニュとデカルトに対する反駁ばかりが目に付くのだ

なんせ自分などはパスカルの『パンセ』を読んでて
モンテーニュの『エセー(随筆)』や
デカルトの『方法序説』『省察』『情念論』を
読まずにはいられなくなったのだったw

モンテーニュとエセー (文庫クセジュ)

モンテーニュの『エセー』は
権威に対する懐疑主義的な皮肉が満載ながら
洒落のめしてて切れ味の゚+.(・∀・)゚+.゚イイ表現なのが
人文主義的美意識の高さを感じさせるので自分には好ましいが
その辺がキリスト教信奉者には疎ましいのだろう。(´д`;)ギャボ

加えて聖書の警句の引用がほとんど見当たらナイのと
それに比して古代ギリシア・ローマの哲学者の言を多用し
ましてや正論の論拠に用いてる部分も
ガチの信者には虫唾が走るような悪書の見本だったに違いナイし
実際、無神論の書として禁書扱いになってた

Que sais-je?(クセジュ?)
――我、何をか知らんや?

モンテーニュの発想はまるでソクラテスの無知の知だが
こういった節度を美徳とする古代ギリシア人気質が
分を弁えてる江戸っ子にもぐっとくるのだ

方法序説 (岩波文庫)

デカルトは前時代的なスコラ哲学をがっつり学んでて
神の存在をむしろ証明しようとしてたが
世界を神秘主義で結論付けてしまう思考停止に陥れずにいて
神の力に拠らずとも世界は成り立ってるし
そもそも世界が成り立ってるかどうか疑わしいのだが
そこを認識する際にはまず神の存在ありきではナイ
てな具合に遠回しにではあるが神を否定してしまった。(゚д゚lll)ギャボ

Cogito, ergo sum(コギト・エルゴ・スム)
――我思う、故に我在り

総てを疑わしく感じたデカルトがしたコトは
真の世界観の構築ではなく、世界の中の疑わしさの排除で
残ったのは疑念を抱く自分自身だけだったのだろうか?

風に揺れる葦

神の子イエスとバプテスマ(洗礼者)のヨハネは
それぞれの母親がいとこ同士なので血縁関係のある親族で
2人とも処女懐胎によって生まれてる(※)
いや、たぶんヨハネの母親エリザベツは非処女だろうがw

先に生まれたヨハネは早くから荒野で修業をして預言者として認められるようになり
人々に洗礼を施しててイエスさえもこのヨハネの洗礼を受けた

最後の誘惑 [DVD]

イエスの方は三十路を過ぎるまで家にいて
還暦を過ぎても現役の大工だった父ヨゼフに養われてた
(たまには父の仕事を手伝うコトもあったかもだが・・・)
この時代にしては定職に付かず結婚もせず三十路を過ぎるのは
珍しかったのではなかろうか?
現代ならこういうのはニートと呼ばれてて
先進国では格別に裕福でなくても
働かずとも生きてる庶民が多勢存在してるがw

これが突然神がかりになり家を出てヨハネの洗礼を受け
荒野で修業をした後は説教をして弟子を集め
各地で奇跡を起こしまくりながら旅をするるる~

そうこうしてる内にヨハネの方はヘロデ王に囚われ
王の誕生日の祝宴の最中に斬首されてしまう

イエスの【風に揺れる葦】発言があったのは
このヨハネが囚われてから斬首されるまでの間である

牢の中のヨハネは弟子たちからイエスの【奇跡】について逐一報告を受けると
イエスに遣いをやって問い質せた
ぶっちゃけ、あなたが救世主ですか、と。(゚д゚lll)ギャボ

イエスはこれに対して
どんな【奇跡】を行ったかを並べ立てながらまわりくどく肯定しておいて
今度はイエスが群衆に向かって問い質した

 あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。でなかったら、何を見に行ったのですか。柔らかい着物を着た人ですか。きらびやかな着物を着て、ぜいたくに暮らしている人たちなら宮殿にいます。でなかったら、何を見に行ったのですか。預言者ですか。そのとおり。だが、わたしが言いましょう。預言者よりもすぐれた者をです。その人こそ
『見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、
あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。』
と書かれてるその人です。あなたがたに言いますが、女から生まれた者の中で、ヨハネよりもすぐれた人は、ひとりもいません。しかし、神の国で一番小さい者でも、彼よりすぐれています。
ヨハネの教えを聞いたすべての民は、取税人たちでさえ、ヨハネのバプテスマを受けて、神の正しいことを認めたのです。これに反して、パリサイ人、律法の専門家たちは、彼からバプテスマを受けないで、神の自分たちに対するみこころを拒みました。では、この時代の人々は、何にたとえたらよいでしょう。何に似ているでしょう。市場にすわって、互いに呼びかけながら、こう言っている子どもたちに似ています。
『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。
弔いの歌を歌ってやっても、泣かなかった。』
というわけは、バプテスマのヨハネが来て、パンも食べず、ぶどう酒も飲まずにいると、『あれは悪霊につかれている。』とあなたがたは言うし、人の子が来て、食べもし、飲みもすると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』と言うのです。だが、知恵の正しいことは、そのすべての子どもたちが証明します。

意味不明な箇所が多い台詞だが
要するに公衆の面前でヨハネの弟子たちに
ズバリ、救世主なのかどうかを尋ねられてしまったイエスは
そうです、と簡単には回答せずに
自身が【奇跡】を行ったコトを述べて
既に人々に預言者とされてるヨハネをヨイショしつつ
でも【神の国】の者ときたらそんなヨハネよりすごい、として三段論法的に
神から遣わされた救世主であるイエス自身を民衆に有無を言わさず認めさせてしまったのだ

まあ細かい部分はさておき
とりあえずイエスの発言の中では【風に揺れる葦】が最も弱いモノの例えなどではナイ

実際に荒野に【風に揺れる葦】があったのかどうかは謎だが
「まるで風によってあっちへこっちへたなびく葦のように意思を持たずに周囲に合わせてなびく人々」
の意味で用いてる(生物学的特徴としての弱さでなく意志の弱さになら擬えてる)

この一般庶民の例えを受けてすぐ次の例えは「王侯貴族のような人々」であるコトから
預言者は「そのどちらにも属さナイ別格の人間」てワケだ

また後半に揶揄してるパリサイ人や律法の専門家てのは
本来の由緒正しいユダヤ教徒であり

ユダヤ人の祖アブラハムが神ヤハウェと契約したから
ヤハウェは人類の中でユダヤ民族のみを救う

とゆー見解を持ってるのだがイエスはこれに対して

改めて預言者ヨハネの洗礼を受けた者こそが
ユダヤ人でなくとも神に救われる

とゆー新説を唱えたのだよ。(´д`;)ギャボ

これを後世のヨーロピアンは100%イエスが正しいとするが
自分がこの時代のユダヤ人だったら、と考えると
民族の信仰とその信仰に深く結びついてる戒律を蔑ろにして
自身が救世主で親類のヨハネは預言者だ、と言うのは眉唾にしか感じられナイだろう
だからイエスを処刑するのに反対はしナイ気がするのだ

但し
自分の大切な人に【奇跡】を起こしてもらった、とかあったら
イエスを信じざるを得ナイ気もするのだ

自分もこの時代の庶民なら【考える葦】(※)でなく【風に揺れる葦】なのだろうか?
パスカルの『パンセ』の中では人間を葦に例えて【考える葦】としてる

ちなみに聖書の旧約・新約とゆーのは
神との古い(旧い)約束・新しい約束、の意だ

以下に『新約聖書』中の全文を掲載した(日本聖書刊行会 新改版)
マタイ(11)
ルカ(7)