コンテンツへスキップ

エウリピデスの『トロイアの女たち』の新訳が
なぜか、突如として昨年末に出てた

そう、なぜ、エウリピデスの悲劇の中でも
今、これだけが単品で出るのか、訝しく思ったが
ちょうど蜷川幸雄演出の『トロイアの女たち』の公演があり
それに合わせてだったのだろうか?!

いや、WOWOWで観たらサルトルVer.だったw

トロイアの女たちギリシア悲劇〈3〉エウリピデス〈上〉 (ちくま文庫)

そう言えば『トロイアの女たち』は
エウリピデスのなら松平千秋訳のをダブって持ってるし(※)
『サルトル全集【33】トロイアの女たち』を
神保町の古本屋で奇跡的にゲトできたが
肝心のセネカ版が未だ手元になかったと思い出した
ちくま文庫のギリシア悲劇【III】エウリピデス(上)筑摩世界文学大系【2】ギリシア・ローマ古典劇集

セネカの『トロイアの女たち』は
京都大学出版の西洋古典叢書の『セネカ悲劇集』に収められてるるる~

セネカ悲劇集〈1〉 (西洋古典叢書)

セネカ悲劇集【1】
狂えるヘラクレス(小川正廣訳)
トロイアの女たち(高橋宏幸訳)
フェニキアの女たち(大西英文訳)
メデア(小林標訳)
パエドラ(大西英文訳)

セネカ悲劇集【2】
オエディプス(岩崎務訳)
アガメムノン(大西英文訳)
テュエステス(宮崎徳也訳)
オエタ山のヘルクレス(竹中康雄訳)
オクタウィア(木村健治訳)

【1】は『トロイアの女たち』以外にも
『フェニキアの女たち』も『メデア』も『パエドラ』(※)も
エウリピデスと比較して差異を読み解きたい
エウリピデスの『ヒッポリュトス』に当たる、ラシーヌだと『フェードル(とイポリート)』

しかし最も興味深いのは【2】の『オクタウィア』だ!
なんせセネカのオリジナルでネロが題材の史劇なのだからして!!

久々にアマゾンで両方チェックしてみたら
【2】が半額以下で出品されてたのでそっちをポチったった♪
トロイヲタとして【1】も絶対いつか購入するだろうがw

とりあえず蜷川の『トロイアの女たち』はサルトルに倣ってたが
現代日本人の常識の範疇に「トロイ戦争」はナイので
そりゃあ誤解のナイようにポセイドンが説明せねばなるまいて
改めてサルトルの手腕に脱帽しつつ
蜷川の奇異なアイディア(3ヶ国語でコロスを繰り返し)にも
よくもこんな鬱陶しいコトをやり通したモノだ
と、感心したし、感動した。・゚・(ノД`)・゚・。

☆・・・☆・・・☆

蜷川はちょっと前に『トロイラスとクレシダ』もWOWOWで観た(※)が
シェイクスピアの全作をオールメールでって試みの一環で
その発想からして素晴らしいと思ったね
しかも『トロイラスとクレシダ』は中でも1番厄介だったろうに
納得の行く出来映えだったのには度肝を抜かれた。(゚д゚lll)ギャボ
参考URL:http://www.wowow.co.jp/pg_info/detail/102292/

クレシダには穢れを知らナイ澄んだ美しさがあり
絶世の美女ヘレネの方が蠱惑的ではあるが
決して見劣りはしナイ美貌なはずと思われ。(´д`;)ギャボ
その点、2人とも性別を乗り越えた以上に美的に釣り合ってたが
恐らく女性がやると想像すると
主役のクレシダはでしゃばって美貌から儚さを失するだろうし
ヘレネも美しさよりいやらしさが目立ってしまいそうだ(-_-;)

でも何よりもカサンドラにはぞっとさせられた
『トロイアの女たち』でも運命に憤り、怒りながら舞うカサンドラがいたが
『トロイラスとクレシダ』のカサンドラの方がしなやかな動きで
巫女の資格を失った悲しみが舞踏に表現されてたし
狂気もそれらしく見えた

基本的にカサンドラは狂ってるのではなく
予言を口にすると狂ってるように見えてしまうだけだから
発狂してるだけだと白けてしまうのだよ
カサンドラはアポロンから予言の術を授かったが
引き換えにアポロンの恋人になる約束だったのを破ったので
それでアポロンによって予言が信じてもらえナイようにされたのだ

☆・・・☆・・・☆

宮本亜門の『サロメ』もWOWOWでやってて(※)
観る前はキャスティングに仰天したが
もれなく多部未華子ちゃんのサロメこそがサイコーだった
サロメは無垢ゆえに残酷なのだな・・・
参考URL:http://www.wowow.co.jp/pg_info/detail/101601/

サロメ (岩波文庫)

古典劇はハリウッド映画とかブロードウェイ・ミュージカルでも
原作の魅力が減退しまくりなのが多くてウンザリするが
日本の新劇が魅力を損なわずにやってるなんて
目にするまで思いもよらなかったね

とにかく戯曲は本で読んでるより
舞台で演じてるのを観る方が断然゚+.(・∀・)゚+.゚イイ
てのは、当たり前かヽ(゚∀。)ノ

ここは一つ、宮本の『キャンディード』のDVDを購入すべきか?!

先月末の3月31日(日)の朝っぱらから
テレビで映画『ソフィーの選択』をやってた

ソフィーの選択 [Blu-ray]

もう2度と観ナイと思ってたのだが
母親が観てたので自分も家事をしながらうっかり所々観たが
その時、次のような字幕が視線を捉えた

ネロは毎日リークを食べて声を磨いた

この映画を以前観た時に
ネロヲタの自分は早速リークを買いに走ったのを思い出した

実際、リーク、別名ポロネギは、たかがネギのクセに高級品で
なかなかお目にかかれず、あれば1本¥1,000近くして
結局、ビビって買いそびれて以来、未購入のままだったが
今だと相場はどれくらいなのかググってみると
外国産のはやはり1本(約400g)で¥950だった

なので、ブーケガルニを巻くのに使う以外に
これと言った食べ方(調理法)も知らず
無謀な買い物をするのはどうかと思いつつも
ネロヲタとしては再び、どうしても食べてみたくなった

で、当のネロはどうやって食べてたのか?
またググってみると(便利な時代よの~)油漬けにしてたらすぃ
リークのオリーブオイル浅漬けみたいなものか???
完璧なレシピを探してググりまくるるる~

が、なかった・・・少なくとも日本語のページでは。(´д`;)ギャボ

代わりに簡単で美味そうなリークのレシピを見つけた♪

つまみに良さそうじゃナイかヽ(´▽`)/

安く購入できナイものかとしつこくくどくググってると
5kg(25本前後)で¥2,500とかあった(゚ ゚;)

ネギが25本もあってもどうよ、と思いつつ
スタカでポロネギ祭りでも開催させてもらうとかもあり?
ハシゴしながら呑み屋に配り歩けば゚+.(・∀・)゚+.゚イイかね?

但し、これが「3月末で販売完了」とあり
そう確認した時にはもう4月1日になってたので
なんか面倒くさくなって諦めてしまったが
今は4月も半ばなのにまだ「在庫あり」になってるるる~

そしてサイト内を改めてよく見たら
これでもかってくらいポロネギレシピ満載だったりして
しかもどれもとっても美味しそう(まだ購入できるのかな~?)

それにしてもリークてのは英語のleek(リーキ)で
ポロネギのポロはフランス語のpoireau(ポワロー)からきてたのか

もしかして『名探偵ポワロ』も「ネギ」なのか?
違った、綴りがPoirotだったw

名探偵ポワロ 全巻DVD-SET

このポワロはベルギー南部のワロン出身って設定で
基本的には仏語を話す・・・はずだ
ベルギー語てのはなく、公用語はオランダ語とフランス語で
主に北部が蘭語圏で南部が仏語圏(※)なのでね
※※一部ドイツ語圏もあるとか

でも英国滞在中は仏語訛り(&混じり)の英語をしゃべり
当人曰く、英国人を油断させるためにわざとそうしてるそうだが
それならフランス人に間違えられて怒るなってのヽ(゚∀。)ノ

ベルギーの首都ブリュッセルは北部にあるが
この北部地域の呼称が仏語のフランドル地方ってより
日本では英語のフランダース地方の方が
『フランダースの犬』の知名度に即して馴染みがあるだろう

劇場版 フランダースの犬 [DVD]世界名作劇場・完結版 フランダースの犬 [DVD]フランダースの犬 ファミリーセレクションDVDボックス

しかし子供の頃は水車や木靴などから
『フランダースの犬』はオランダの物語だと固く信じてたが
ベルギーだったし、フランダースでもなくフランドルだったし
オランダ語だとVlaanderen(フランデレン)だった。(゚д゚lll)ギャボ
更にWikiにはフラマンて呼称も出てくるが
日本より小さい国なのに言語体系が複雑過ぎて
それだけで民族の独立までの歴史を彷彿とさせるレベル・・・バタリ ゙〓■●゙

『フランダースの犬』は結末が悲劇的ではあるが
犬好きで大型犬を飼うのに憧れてた自分には
パトラッシュを飼ってるってだけでネロが羨ましかった(;つД`)
いや、はっきり言えば妬ましかったかもしれナイ(-_-;)
傍らにパトラッシュがいる人生は短くても意義があるし
犬も飼えナイ人生に何の意味があるんだp(-_-+)q
子供心にでなく、今もその思いは変わらなかったりするるる~

ん?

ネロに始まって違うネロに辿り着いたったw
綴りはネロ帝はNero、パトラッシュの飼い主はNelloだがね

ポーランドの作家シェンキェヴィチが
古代ローマ世界を克明に綴った歴史小説『クオ・ワディス』では
実在した登場人物の中でもとりわけ皇帝ネロと側近のペトロニウスについて
仔細に渡って活き活きと描かれてるので
どこまでが創作なのか、その典拠を確認してみたくなった

児童版『クォ・バディス』の巻末の「解説」には次のようにあった

スエトニウスという歴史家が書いたローマ時代の本を参考にして、1896年、この世界的な傑作、「クォ・バディス」を書きあげたのでした

しかし『ローマ皇帝伝(下)』にはネロについては詳述されてるものの
ペトロニウスの名は実際1度も出てこナイ・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

自分の知る限りではタキトゥスの『年代記(下)』において
3ページ弱で綴られてるのみが人物像の全貌だ

1.昼日なか眠って、夜を享楽に生きた
2.無精、無頓着だったが、それが天真爛漫と見受けられた
3.激務も全うした精力家だったが、背徳者を装いネロを誑かした

1.昼日なか眠って、夜を享楽に生きた

Up all night, sleep all day, that's right♪

欲望のターゲット

Slaughterの曲にはまさにそんなペトロニウス節があったなw
これは簡潔に表現すれば「不良」だったってコトだが
社会的地位が高くして「不良」てのは潔くて゚+.(・∀・)゚+.゚イイね
ネロなんかは皇帝にしてアナーキストだからカッコ゚+.(・∀・)゚+.゚イイのだ

なんせいくらローマが退廃してたとはいえ
当時のローマ市民の日常生活は現代人には考えが及ばナイ健全さで
日の出と共に起きて、陽が沈んだら寝るしかなかった

当たり前ながら夜は真っ暗なのだよ
電気がなければ蝋燭の灯りだけが頼りなので
そんな時代に夜を愉しむのだから
灯りの設備に無駄に金をかけてた=贅を尽くしてたのだ

尤もペトロニウス自身も不道徳な金持ちだったが
ペトロニウスが自腹を切るようなコトは稀だっただろう
ほとんどの遊行費は、その不道徳の限りを一身に享受するネロが
国庫から無尽蔵に浪費してたと思われ

だいたい、金銭的ヨユーがあるからこそ
一切の道徳観念を無視して愉しみに耽溺できるワケだがね
そしてかつてのネロを指導した哲学者セネカこそが
実は破格の金持ちだったりするるる~

2.無精、無頓着だったが、それが天真爛漫と見受けられた

これこそがペトロニウスの真価だろう
無精とか無頓着とかは鵜呑みにすると全く的を得なくなるが
ペトロニウスの場合は何に対してもそうだったのでなく
興味の範疇以外がそうだったのだよ
そしてそのコトが天真爛漫と見受けられたのは嫣然としてたからだろう
嫣然、ってのは通常は美女の微笑を表現するのに使う言葉だが
ペトロニウスくらいの粋人(すいじん)には似つかわしい

粋人の意味を説明するほど無粋なコトもナイが
読んで字の如く粋な人で単なるインテリでなく遊び心がある人だ
教養があってもそれを万人にひけらかすコトなく
わかる相手にだけ仄めかし、わかった同士だけが納得するのだ♪

その点セネカはペトロニウスよりは生真面目だったから
ネロの放縦を横目に見過ごしつつも内心は気を揉んでただろうが
そんなセネカに対してもペトロニウスは臆するコトなく
嫣然とやり過ごしてたのを傍から見れば
なるほど、天真爛漫に映っただろう

年代記〈下〉ティベリウス帝からネロ帝へ (岩波文庫)

3.激務も全うした精力家だったが、背徳者を装いネロを誑かした

タキトゥスはペトロニウスを「贅沢の通人」と表現したが
資産を食い潰してる文字通りの大食漢や
無目的に放蕩に身を任せてるだけの能無しとは違って
世間から反感を買うようなコトはなかった、と言及した上で
ペトロニウスのそれまでの職歴を示し
出世街道を着実に歩んできてるのをその証拠としてる

つまりタキトゥスに言わせればペトロニウスは
「不良」のように振舞っても、本来は役職に就いてた人間なので
背徳者を装って、ネロを誑かそうとしてたに違いナイ、となるが
タキトゥスは【趣味の判定者】の意義がわかるほど
歓楽的に生きてなかっただろうし、洒落を解せなかったかもだ

ペトロニウスの教養は単なるインテリ趣味に非ず
完璧に洒落のめしてて、素地があるくらいではついてけなくて
ネロはある程度まではわかったので夢中になったのだ!
お追従にうんざりしてたであろうネロには
多少辛辣でも刺激的な方が新鮮で愉しめたのだな

基本的にはイベントは金をかければより一層おもしろくなる
どんなつまらナイ企画でも金をかけられるだけかけたら
たちどころに愉快になるのは間違いナイのは
現代においても変わらナイ事実であって
金を湯水のように使いながらバカ騒ぎする、なんてのは
誰もが1度は試みたい、とは思う

ところがそんな誰もが夢見るイベントも
毎晩やってると日に日に面白みは減退してくのだ
日々イベントをやり続けるには実際、金の力より企画力で
ペトロニウスの企画はネロさえ飽きなければそれで゚+.(・∀・)゚+.゚イイ
そうしてペトロニウスはネロの魂に火を点けたのだ!!

ネロの本質的な趣向を見抜いて
見合ったイベントを次々と計画し、催し
自身も愉しんでた、それがペトロニウスの実態なのでは?!

悪評の尽きナイローマ皇帝ネロだが
自分はどうも人としての興味が尽きナイw

ネロは若い皇帝らしい傍若無人さを発揮してて好感が持てるが
皇帝になる前からネロの師傅(しふ)だったセネカと
趣味の判定者としてネロの側近になったペトロニウスが
彼らの著作を読めばわかるがネロ以上に奇人変人で魅力的だ

ストア派哲学者として現代に至るまで名の知れたセネカも
自然現象についての考察をまとめてるかと思えば
ギリシア悲劇風の戯曲を書いてたりしてて
しかもこれらがヲタ全開なのも非常に興味深いが
哲学書にしても深読みすればなかなか人間臭くて小気味良いのだ

ペトロニウスの小説『サテュリコン』はもっとわかりやすくて
ラテン文学における悪徳の金字塔、とでも言おうか

『サテュリコン』は酒池肉林享楽放縦悪徳残忍・・・etc.
ローマの退廃の限りを尽くした描写が絵にも描けナイおぞましさで
フェリーニによって映画化(※)されてるが
さすがの自分も冷や汗が出るような変質者のオンパレードで
まともな人間が観たら夢見が悪くなるコト必至だ
映画の邦題は『サテリコン』

シェンキェヴィチの歴史小説『クオ・ワディス』には
ペトロニウスが『サテュリコン』を
甥のウィニキウスに買い与える場面があり
作者が誰なのかはネロにはバレてナイ、とゆー設定なのも面白い

悪徳の宝庫のような「トリマルキオの饗宴」なる宴の
主催者トリマルキオのモデルがネロなのは火を見るより明らか(※)だが
このモデルの起用はまともな人間ならば憤慨するだろうし
当然ながら皇帝である者には侮辱ともとれるだろう
ペトロニウスがネロを槍玉に挙げた、とはネロにはバレてナイ、としてるのだ
ネロもペトロニウスも何もコメントを(残)してナイので史実としては謎ではある

自分の見解では、モデルはネロで、自身もそうと知ってて
内心では不満に思いつつも面白がってるフリをしてたのでは?

酷過ぎると思う部分にネロはぶるぶる震えながらも
洒落だ=面白がれ、とペトロニウスがすまして示唆すれば
恰好つけて無理して洒落のめしてたりしてw
そんなネロの様子をペトロニウスは内心では嘲笑ってたりしてwww

ネロ、カワ゚+.(・∀・)゚+.゚イイよ、ネロ~!!

皇帝としてどうかではなく
アーティスティックかつエキセントリックな若者として見た時
どうしても嫌いにはなれナイのだが!

粋人(すいじん)だったペトロニウスからしても
頭の硬い年寄りの政治家や血気盛んで無教養な軍人の中で
下衆な噂話か、無味乾燥とした政策論か、血生臭いだけの武勲・・・
そんな聞きたくもナイ話ばかり聞かされて
瑞々しい感性をすっかり干からびさせてたネロが
孤独に耐えるいたいけな少年に見えたに違いナイと思うのだ

そしてついかまいたくなったってくらいの出来心だったのだろうが
ペトロニウスのめくるめく快楽への誘いは
若く多感なネロにとってどれほど魅惑的に感じられたコトか

それまで皇帝としてのネロが発揮できずにいたモノを
ペトロニウスがけしかけて解放してしまったのだ
うむ、それだけのコトだと思われ

国費を散財してる時点で既に不道徳の極みゆえ
その金で何をして遊ぼうがいずれ真っ当とは言及しようもナイが
やってるコトが自著『サテュリコン』の如き世界観を反映してたなら
それはもう筆舌に尽くし難い悪徳に違いなく
その現場はきっとフツーの人間なら卒倒しかねナイし
生真面目なストア哲学者なら憤死しそうだ!

セネカは憤死はしなかったが一緒に愉しめなかったぽい
剣闘士の試合を非難したりしてるし

食べるために吐き、吐くために食べているのだ

この有名な嘆きもセネカの言だ

ローマはなぜ滅んだか (講談社現代新書)

そしてセネカは弓削達著の『ローマはなぜ滅んだか』によれば
ローマ帝国に長者番付があれば常連として名を連ねてたに違いなく
具体的にはその財産が3億セステルティウスほどだったそうだ
概算で40万セステルティウスが1億円ほどに当たるから
どれほど金持ちだったのだ・・・バタリ゙〓■●゙

そんなセネカは財産に対してこんな言い訳をしてる

財産は、賢者にあっては奴隷の地位にあるが、愚者にあっては支配者の地位にある

ストア派なら財産を持ってても悪徳には染まらナイって?!
まあそういう言い訳がましいトコロも含めてセネカは好きだがね

その点、ペトロニウス自身は案外シニカルに愉しんでたのでは?
エピキュリアン(快楽主義者)でなくシニック(犬儒派)!

しかしネロがペトロニウスに感化されるのは至極当然の成り行きだな♪
とか、ほくそえむ自分は不道徳な人間だろうかね

完訳を最初から読んでたら平静に読み進めるだろうが
読み慣れた児童版に隠されてた秘め事が露見すると思いつつ読むと
無駄にどぎまぎしてしまう

【禁忌】を破る、ってのは妙な興奮があるからなw
表現自体はたいしたコトなくてもパンドラのときめきはあるるる~

幼少の砌、偕成社の世界少女文学全集を愛読してて
その中にシェンキェヴィチの『クォ・バディス』があったが
完訳版『クオ・ワディス』を読んだのは四十路を過ぎてからだった

クオ・ワディス〈下〉 (岩波文庫)

通常だと削除(省略)されてるのは暴力とかセックスとかの描写で
子供の教育上よくナイ=子供がそれを真似たら困る、からだ
しかし児童版『クォ・バディス』で削除されてた部分は
ハリウッド映画『クォ・ヴァディス』でも意図的に省かれてたのだ!

例えば、この物語の背景であるネロの頃のローマ帝国と周辺の
主要都市やそこに実在した人物についての噂話など
譬え話や洒落に悉く引用されてるのだが
無垢な子供には意味がわからナイだろう、とか
教養や経験値がなければ面白みを感じられナイだろう、とか
そんな危惧のために省かれた描写であり
物語の筋には直接関係ナイワリに註釈が冗長になり過ぎるきらいがあるせいか
そのほとんどがスルーだったのだ・・・バタリ ゙〓■●゙

ギリシア・ローマ古典 (知のカタログ)

It's Greek to me !(※)
それって、自分にとって、ギリシア語だわ!
(つまり、それって意味わかんねえよ、ってコトだw)

英語を母国語とする民族にそんな慣用句があるくらいに
無教養な一般大衆からすれば
古代ギリシア(ローマ)の古典はちんぷんかんぷんなのだヽ(゚∀。)ノ
原題が『It's Greek To Me !』とゆーマイケル・マクローンの著書には
古代ギリシア・ローマの古典由来の慣用句の解釈が簡潔に数ページで綴られてる

まだ無分別な子供以上に
一生教養を身につける気なぞナイアメリカ人には
古代ギリシア・ローマのインテリジェンスをバックボーンにした洒落が
通じるワケもなく・・・そりゃあ省くよな。(´д`;)ギャボ

自分からしたらその無教養さからゴーインに展開する
アメリカン・ジョークの方が理解不可能だがな。(゚д゚lll)ギャボ

とゆーのも笑いのツボが違うのだよ
疑似体験も含めて知ってると「なるほど」と思い巡らせて
当て嵌まるエピソードが脳裏に浮かぶとほくそえんでしまうのだが
無垢な子供は奇を衒ってるだけでおかしくて笑うし
むしろ意味があってもわからなければ笑えナイ

そう考えると真に享楽的な人間は
勤勉で教養があり、人生経験豊富で
とりわけ失敗談に尽きナイのが望ましいかもしれナイ

言うほど教養はナイがヲタな自分にとっては【It's Greek to me !】こそが読書の愉しみだが
ペトロニウスが登場してる場面ではこれが凄まじいほどで
さすが趣味の審判者(アルビテル・エレガンティアルム)たるサマに
うっとりするやら、失笑するやら・・・

ペトロニウスは身分的には貴族で地位は執政官ではあったが
ネロに重用されてたのは政治的な立場においてではナイ
あくまでも芸術的趣味が世間から持て囃されてたのを気に入られたのだが
ネロとペトロニウスの趣味趣向が具体的にどうだったのか
その最も知りたかったコトが仔細に綴られてて
シェンキェヴィチも相当なヲタだと改めて感服した次第

特にペトロニウスの容貌についても
まだ1段落目の終わりくらいで決定的に胸熱な表現が出てくる

《神のごとき》アレクサンドロスがあなたに似ていたとすれば――ヘレネがああなったのも不思議はありませんね

アレクサンドロスキタ━━━━━(゚∀゚)━━━━━ !

この場合のアレクサンドロスとはトロイの王子パリスで
葡萄の房の巻き毛を持つ美麗な王子だ

しかもこれはペトロニウスの姉の息子であるウィニキウスの台詞だが
ウィニキウスこそがこの物語の主役の美青年なのに
ペトロニウスの美貌についてお世辞抜きで言ってるワケで
参考画像はアルフォンス・ミュシャの描いたペトロニウス(左)だ
美しい巻き毛もアレクサンドロス・パリスらしい

《神のごとき》とはもちろんその美貌が人並み外れてるからだが
趣味の審判者と呼ばれる美意識の高い人間が
自らもやはりその美意識に適ってるのだp(-_-+)q

児童版や映画ではいかんせんここの詰めが甘かったので
自分はペトロニウスを侮ってたよ(;つД`)
今や完璧な敗北感を味わってるるる~
但しとても気分が゚+.(・∀・)゚+.゚イイ負けだがな♪

児童版の人物紹介のペトロニウスの項を読み返してみると・・・

ローマでもっともすぐれた貴族。その賢さのために皇帝ネロの信頼が厚い。ネロの詩の先生であり、また辛辣な批評家でもある。(後略)

訳者である野田開作の苦心を考えると申し訳ナイが笑ってしまう!
「すぐれた貴族」て、表現自体が不可思議だが
「賢さのために~信頼が厚い」も「ネロの詩の先生」も実体は違う
まあペトロニウスの奥深い人物像を
人生経験も浅い子供にわかるように解説するコト自体が不可能だろうて

キリスト教徒はかつて信者が罰せられた遺恨から
ネロを目の敵にして悪の権化に仕立て上げようと躍起だが
ポーランド独立運動に従事したシェンキェヴィチは
そういうキリスト者の一般論を利用して
『クォ・ヴァディス』でネロを圧政者として描いてるのだろう

それにしたってキリスト教信者が胡散臭いほど清廉潔白で
ネロがローマの大火の真犯人だと脚色するのはやり過ぎだと思うが
それ以上にアーティスト、あるいはエンターテイナーとしても
ネロを侮り過ぎてる気がするのは自分も侮ってたからだ

年代記〈下〉ティベリウス帝からネロ帝へ (岩波文庫)ローマ皇帝伝 下 (岩波文庫 青 440-2)

死に至るその時に『イリアス』の一行が口をついて出たと
タキトゥスの『年代記』にもスエトニウスの『ローマ皇帝伝』にもあるし
実はネロは教養があり、感性も豊かだったのではなかろうか?

まずネロがギリシア通であったコトは疑いの余地がナイ
叙事詩や悲喜劇などを諳んじてたし
遂には自作の詩に合わせて竪琴を奏でてたくらいだ

しかしそういうコトは皇帝の趣味として相応しくなかった
かのアレクサンドロス大王もまだ王子であった時
竪琴を上手に奏でて父王ピリッポスに怒られたそうだ。(゚д゚lll)ギャボ
楽器を意のままに奏でるのも武術に秀でるのも、訓練の賜物だが

そこでアレクサンドロスが訓練すべきは竪琴であるはずがなかろう?!

とそういう意味で怒られたのだ

若くして皇帝となったネロとて、謡いながら竪琴を爪弾くのは
皇帝らしからぬ、と周囲に禁じられてたかもしれナイ
ところがペトロニウスが高尚な趣味としてネロに指南したりして
周囲も認めざるを得なくなってしまったとか?
しかもネロは調子に乗ってネロ祭なんて始めてしまったとw

とはいえ、ペトロニウスはタキトゥスが言うほどに
ネロを誑かすつもりも、そのために背徳者を装うつもりもなかっただろう
周囲からはペトロニウスがネロを手懐けてるように見えたかもだが
ペトロニウスはネロの若さと生来の感性からくるほとばしりを
自身も一緒に愉しみながら解放しただけに過ぎナイ
恐らく2人は無教養な人間をこきおろしてたに違いナイ

ペトロニウスはタキトゥスの『年代記』によれば

贅沢の通人として世に聞えていた

とあり、この一文からでもペトロニウスが時代の寵児であるコトが伺えるが
一種スター的存在には誰もが憧れを抱かずにはいられナイので
絶対君主であるはずの皇帝にとっても憧憬の対象であったはずだ

ネロは降って湧いたように皇帝の地位に就いてはいたが
それ以上に自身では芸術家として認められたい気持ちがあって
創作した詩や竪琴の演奏についての芸術性を
ペトロニウスに認めてもらえたらそれは嬉しかったのだ!

しかもそこでペトロニウスはお追従で濁さなかったのが
むしろネロの絶対的な信頼を得たのだろう
そして辛辣に批判されれば萎れ、よきアドヴァイスは素直に受け入れ
褒められれば天にも昇る心持ちになっただろう!!
とか、想像するだにネロがいじらしくてたまらなくなるるる~

ローマの哲人 セネカの言葉

そもそもネロがギリシア通になったのは
ネロの師セネカによるトコロが大きいと思われるのだが
史実としてセネカは自身が哲学者でありながら
ネロに対しては哲学を指南してナイ

セネカは一応ストア派哲学者としての彼が1番名が通ってるが
科学書も著せば戯曲も書いてる多才な著述家で
ネロの時代のローマでは最も学識の高い人物だったので
ローマ人が目指すギリシア的な教養をネロに授けたのだろう

残存するセネカの書簡には生活に即した先人の言葉で
相手にとって最も有効な回答を学派に拘らずに引用してたりするが
セネカのやり方は実践しながら学び取らせる人生哲学なので
ネロに対してもストア派たるように仕込むコトはしなかっただろう

そういう押し付けがましさはセネカのやり方に反してるし
加えて芸術家気質で詩を諳んじたり竪琴を奏でたりするコトにこそ
ネロの感性が迸ってるのを理解してたのかもしれナイ

裏を返せば、セネカはエキセントリックなネロを目にするにつけ
哲学を受け入れる資質にはネロはおよそ恵まれてナイ
と誰よりも感じてたかもしれナイ

それでも17歳にして戴冠したネロはたぶん
セネカが予想してた以上に立派に皇帝らしく振舞って見えた

ネロの天性の才で自覚もしてるが要はエンターテイナーなのだな
いつも役者のように芝居がかってたワケだが
皇帝を演じるのもなかなか堂に入った役者ぶりだったのだ

映画『クォ・ヴァディス』でのセネカは控えめな役ドコロだが
ペトロニウスの自殺に際した最期の晩餐の場面が印象的だ
とゆーのも、セネカもネロに命じられて自殺してるのだからね
映画にはそのシーンはナイからこそ見るに忍びナイ

とにかくキリスト教信者は「迫害された」とゆー史実に対して
狂信的な思い込みからひたすらネロを忌み嫌うが
新興宗教の流行が政府にとって頭痛の種なのはネロに限った話ではナイ
それどころか現代社会にしても変わらナイ事実なのだ
残酷さで言えば中世に教会が行った異端審問の方が酷いかと・・・

シェンキェヴィチは1846年のリスワニアで生まれたが
この頃のリスワニアはポーランドの一部で
ポーランド自体は分割されロシアやプロイセンに支配されてた

ワルシャワ大学を出てアメリカに渡り
カリフォルニアの農園で働きながら「アメリカだより」を書き
これがポーランドの新聞に掲載されてた

三十路も過ぎてポーランドに帰ってきてからは
ポーランド独立に向けて国民を奮い立たせるような小説を書き始め
政府に取り締まられるようになったが屈するコトなく
1896年に『クォ・ヴァディス』を書き上げた

クオ・ワディス〈中〉 (岩波文庫)

2000年前のローマ帝国を舞台に
腐敗する政治とそれに付き従う軍隊
その恩恵を受けたり犠牲になったりする民衆
贄として闇に葬られようとする新興宗教の信者の姿
まるでその時代の全てを見てきたように克明に描いた作品で
後にロバート・テイラー主演でハリウッドで映画化された

登場人物のキャラクターが練れていてリアリティーがあるのは
実在の人物が多いからに他ならナイ
暴君ネロの狂態の凄まじさや
ネロの指南役ペトロニウスの趣味の粋さや
新興宗教の開祖キリストの弟子ペテロの信心の抹香臭さが
主人公の活躍以上に興味深く、歴史小説として出来過ぎの感があるが
それは抄訳で、ましてや児童版の『クォ・バディス』でさえもそう思わせた

1冊の本を何度も読むのは2つの理由がある

1つには確認したい事項があるからで、必要最低限の部分だけを探して読む
もう1つは感動したいからで、感銘を受けた部分の前後も含め読み返す

『クォ・バディス』は実在の人物が出てくるし
実際にあった歴史的事件を追って物語が展開するので
歴史的事実との照合のための拾い読みが格別に愉快だった

ネロ、ペトロニウス、セネカの人となりをもっと深く知りたい!
そんな希求が自分の原点(ルーツ)でもあるが
それを知り得た時が終着点でもあるような気がするので
大袈裟かもしれナイが『クォ・バディス』は人生の一端を担ってるのだ!!

ところが『クォ・バディス』は現在では児童文学としては存在しておらず
それだけでなく、自分の子供の頃(昭和の後期)に図書室に必ずあったような
子供向けに編纂された世界の文学や偉人伝のほとんどが存在しナイのだ

つまり、今や『クォ・バディス』はもちろんのコト
不朽の名作のあらすじや偉人の生い立ちなどを知る小学生は
絶滅危惧種並みの稀有な存在なのだ

てか、フツーに原作を忠実に訳した通常版さえ
今となっては入手困難なモノが結構あり
子供の情操教育のレベルが如何に低下してるのか以上に
大人も含めて無知蒙昧な人間が如何に蔓延ってるのかを痛感する

人類の歴史が編み出した尊い遺産は蔑ろにされてるるる~
つくづく世の中に幻滅し、またしてもハリー・ハラーの心境だ・・・

☆・・・☆・・・☆

完訳 イリアス

ハリー・ハラーは同胞だと思えるが
死の間際に『イリアス』の一節を口にしたネロ(※)は同好の士だ
タキトゥスの『年代記』にもスエトニウスの『ローマ皇帝伝』にもある

ネロを知ったのは偕成社の少女世界文学全集『クォ・バディス』で

知性と情操を培う世界の文学!

と冠された児童向けの本で編集者には川端康成も名を連ねてたほどだから
決してよくある子供騙しの抄訳ではなかった
作者についての解説も充実してた

これを読んだ小学生の時は
まだキリスト教に否定的ではなかったので
キリスト教徒を見せしめに虐殺するネロに対して
最初は定石通りに反感を抱いたw

ところがもれなく聖書を旧約~新約と読破してみると
ユダヤ人の道徳観念は日本人の根底にある不道徳に一致してると思えたし
イエス・キリストはその神性以前の問題として
人間性がなってナイ(※)、と不信感を抱いてしまった
働かざる者食うべからず、この庶民の義務を軽んじてる、当人も三十路までニートだし

その後、ローマ・カトリック教会が
神を畏れずに科学的思考をする人間に対して
残忍な制裁処置を執り続けてきた歴史を知るにつけ
ユダヤ教徒以上にキリスト教徒の方が怖くなってきたが
それとは逆に知れば知るほどネロの人物像には深みが増してきた

歴史上で暴君・愚帝として名高いネロだが
どう転んでも皇帝には不向きの内向的な快楽主義者が
しかもかのローマ帝国の皇帝職に就いてしまったのだからしょうがナイ

そのワリにはどれほど悪政によって人民を苦しめたかって
むしろ治世とゆー点では永らく安定してたし
怪しい新興宗教団体も厳しく罰して、ローマ市民の平和に貢献してたw

シェンキェヴィチは悪い面を殊更誇張し過ぎかと思われ・・・

1951年のハリウッド映画は英語読みの『クォ・ヴァディス』で
1954年の岩波文庫も『クォ・ヴァディス』だったので
これが一般的なタイトルかと思いきや
1995年に岩波文庫から出た新訳ではラテン語に忠実な読みになったのか
『クオ・ワディス』とされてしまった

クオ・ワディス〈上〉 (岩波文庫)

通常はギリシア語名やラテン語名の英語読みには反対派なのだが
長年に渡って慣れ親しんでしまうと正しい方に違和感が生じる

かつて自分が愛読した児童書(※)は
Vが「ヴ」でなく「バビブベボ」に置き換えられてたので
『クォ・バディス』だったし、著者名までもシェンキェビチになってたし
ヴィニシウスとリジアもビニキウスとリギアだったのだが
どうも『クオ・ワディス』でのウィニシウスの方がしっくりこナイのだがw
1964年に出た偕成社少女世界文学全集

そんなワケで「QUO VADIS」はラテン語だが
出典は『新約聖書』で精確には『新約聖書外典』である

『新約聖書』では「ヨハネの福音書」13-36に出てくる
有名な【最後の晩餐】のすぐ後の場面でのシモン(ペテロ)の科白だ

Domine, Quo vadis?

Domine:主よ(とゆー呼びかけ)
Quo vadis?:いずこへ?

主イエス・キリストの行く手に待ち受ける運命は磔刑で
最終的な行き先は処刑場なのだがこれに答えず
シモンがイエスにはついてこれナイコトを次のように暗示的に予言する

鶏が鳴くまでに、あなたは3度わたしをしらないと言います。

予言通りにシモンはイエスを知らナイと3度言い
イエスは十字架に架けられたがシモンは免れたのだ

新約聖書外典 (講談社文芸文庫)

シェンキェヴィチの小説で扱われてるのはこの後の話で
これが『新約聖書外典』(※)の「ペテロ行伝」35にあるのだが
またしてもペテロ(シモン)の科白として出てくる
『新約聖書』編纂の際に正典から除外された挿話集で正典に対して外典(アポクリファ)と言う

今度はローマにおいてぺテロ自身の身の上が危うくなり
こっそりローマを出ようとしてたのだが
逃げ出そうとしてるまさにその時、イエス(の幻影)が現れ
ペテロが同じ科白でイエスに問う

イエスはローマに戻って十字架に架けられようとしてたので
今度こそイエスでなく自身が十字架に架けられよう
と決意してペテロはローマに戻った・・・バタリ ゙〓■●゙

信仰心がある人でなければペテロの心理は意味不明だが
ともかくペテロはめでたく(?)磔刑に処された。(´д`;)ギャボ

しかも主イエスと同じでは畏れ多いとして
わざわざさかさまになって十字架に架けられたとか。(゚д゚lll)ギャボ

「ペテロ行伝」が正典から排除されたのは
正典とするのに相応しくなかったからなのだろうが
ユダヤ教とキリスト教で正典に入れてるモノが同じではナイので明らかなように
換言すれば、正典に入れる基準ははっきりとは示唆されてナイのだ
なので正典だろうと外典だろうとどちらも信憑性に欠ける点では同等だし
外典には正典以上に興味深い挿話が満載で
大衆に好まれ、芸術作品の主題になってるモノも少なくナイ

☆・・・☆・・・☆

青年貴族マーカス・ヴィニシウスのいた軍隊が凱旋帰国したが
そのまますぐに帰宅できなかったのは
ネロによる戦勝記念の祝典を行うまで足止めを食らったからだった
その間にヴィニシウスはアウルス将軍の館で世話になるが
この館で運命の美少女リジアと出会う

リジアとはローマに滅ぼされた蛮族の国名で
滅亡の原因はローマにしてみたら蛮族抑止のための討伐なれど
勝手に蛮族呼ばわりされて滅ぼされた方からすると
ローマに略奪されたとしか言いようがナイが
その討伐なり略奪なりの際に孤児になった娘が亡き祖国の名を名乗ってた

リジアはただの戦災孤児でなくその国の王女だったらしく
忠実な下僕の巨人ウルススも共にアウルス将軍の家に身を寄せてて
本来なら元の身分に関係なく、侵略されてローマ帝国の一部となったら
その国の民は王女であれローマ人の奴隷となるのが常だろうが
リジアはアウルス将軍夫妻に本トの娘のように大切に育てられてた

これはキリストの教えの高潔さがこの物語の主題でもあるので
キリスト教徒のアウルス夫妻が慈悲心に優れてると示したかったのだな

映画ではヴィニシウスとリジアのロマンス仕立てにもなってるが
基本的にはヴィニシウスの改悛の物語であり
キリスト教徒が大嫌いなネロをローマの大火の犯人に仕立て上げ
極悪非道のレッテルを貼るのが目的なのではなかろうか?!

但し、著者のシェンキェヴィチはポーランド人で
もちろんキリスト教徒だろうがそれ以上に祖国の独立を望んでて
圧政に対しての正しき者たちの抵抗を描きたかったのだろう
そこでわかりやすいようにネロの時代を脚色したのだな

ちなみに「ペテロ行伝」の最後には
ネロがペテロの処刑には関わってなかった事実と
その後キリスト教信者の迫害から手を引いたコトについて述べられてる

偕成社の世界少女文学全集の『クォ・バディス』を
初めて読んだのは小学生の時だったが
30年近く経ってこの本と古本屋で再会したのをきっかけに
映画で『クォ・ヴァディス』を観たのは2006年5月

クォ・ヴァディス [Blu-ray]

『クォ・バディス』から引用すれば主役のビニキウス(ヴィニシウス)は

たくましいからだとととのった目鼻だちとをそなえたビニキウスは、いかにもローマの青年貴族らしく、きびきびしていた

遠く北ペルシアの戦いにおもむき、大いに手柄をたてて凱旋した

などとあるので、原作ではヴィニシウスは
凛々しいラテン系美青年で、軍隊での出世を夢見る若者で
未婚であるコトから、恐らく20歳そこそこの設定だと思われたので
ロバート・テイラーの起用には困惑したのだが
それは単純に実年齢が倍の四十路(※)だったってだけではナイ
1951年作のこの映画出演時には1911年生まれのロバート・テイラーは40歳

趣味の権威者である叔父のペトロニウスが
彫刻家がヘラクレス像のモデルにしたがるような、と形容してるので
ヴィニシウスはヘラクレスを彷彿とさせる青年貴族で
確かに、ロバート・テイラーもヘラクレスレベルの容貌ではあるが
顔に瑞々しさがナイのが致命的に役に合ってなかったのだ。(゚д゚lll)ギャボ

なんせ惚れた女に洗脳されて、改心してキリスト教徒になり
持ち前の正義感を発揮して、仲間の救出に尽力するようになるのだが
結果、叔父ペトロニウスを裏切り、皇帝ネロに反目する

簡潔に表現すれば青二才なのだが
ローバート・テイラーではとてもそうは見えん。(´д`;)ギャボ
女のために信念を曲げるなんて以ての外だろうし
そもそも胡散臭い新興宗教にかぶれてるような女は相手にしナイだろうw

それに加えて、往年の超A級ハンサム俳優だったのが鼻についた
てか、推測するに年を追う毎に人気が低迷してきたので
起死回生を懸けて身体を鍛え上げてアクションスターへ転向(を計った第1作目)
らしい意気込みが見て取れてしまうのが痛かった

とはいえ、顔が引き締まってもまだ甘さを兼ね備えてて
その辺りがこの人の最大の武器なんだろうが
どんなに荒々しく傍若無人に振舞ってもいかんせん甘いのだ!
そこに頑なな聖少女さえもつい心を許してしまうのはわかるるる~!!

こうしてヴィニシウスの年齢設定があがったせいで
相手役の年齢設定もあがったのだろう
『クォ・バディス』にはアウルス将軍の息子とボール遊びをして
頬を紅潮させてるリギア(リジア)の挿絵があったので
せいぜい16~17歳と推定してたが演じてたデボラ・カーは当時30歳ヽ(゚∀。)ノ

尤もその神々しいまでの美貌で年齢を超越してたし
リジアを本トに10代の少女が演じてたら
ヴィニシウスとのロマンスに無理があるだろう

緑園の天使 [DVD]

また『クォ・バディス』によればリジアの容貌は

黒いふさふさした髪を持ち

夢の楽園の天使のよう

などとあるので、『緑園の天使』でのエリザベス・テーラー(※)を思い浮かばせてて
ブロンドのゴージャス美人のリジアには面食らったのだが
所詮ヴィニシウスとリジアは架空の人物だから
ハリウッド風だとこれで゚+.(・∀・)゚+.゚イイのかもな
映画『クォ・ヴァディス』を検索してたら、リジアに扮してるリズの写真を発見!
う~ん、『緑園の天使』の頃ならよかったけど、この頃はもう色っぽ過ぎてリジアにはミス・キャストだ

デボラ・カーはこの後『ジュリアス・シーザー』にも出てて
ブルートゥスの妻を演じてて圧倒的な美しさを誇ってる
『黒水仙』での尼僧姿も、『キング・ソロモン』での探検家スタイル(?)でも
その美麗さには遜色がなく、むしろ装飾を取り払ってしまってこそ
この人はますます光り輝いて見える本物の美女だが
『クォ・ヴァディス』ではキリスト教の敬虔な信者で不遇な身上(※)ゆえに
その美しさには泥沼に咲く蓮のような清らかさが満ちてる
リジア国(もしくは民族)の王(あるいは長)の娘で戦争孤児

また、バレエをやってた人特有の無駄な脂肪がナイ肢体を
三十路過ぎても保ってて、特に二の腕は賞賛に値する・・・ホゥ(*-∀-)

主役にロバート・テイラー、相手役にデボラ・カー
このキャスティングだけでハリウッド映画としては既に成功してるが
歴史大作としてはやはり主役の美男美女だけでは納得できナイ
ネロ、ペトロニウス、セネカ、ペテロなど
実在した人物のキャスティングの妙にこそ真価が凝縮される

自分はキャラ的にペトロニウスが大のお気に入りだが
レオ・ゲンのペトロニウスは奴隷のユーニスとセットでよかった
てか、ユーニスが良過ぎた、美し過ぎるのだよ

ネロはローマ皇帝の中では1番好きなのだが
ピーター・ユスティノフのネロもなかなか可愛くて
ポッパエアの毒女ブリと好対照だった

惜しむらくはもう少しセネカに活躍して欲しかったが
まあ史実的にもローマの大火の前に隠居してたからしかたナイ

但し、ローマの大火でネロが火付けを指図した、てのは
歴史的事実に反するだろうがね
だいたいネロに対する誹謗・中傷はキリスト教徒の陰謀でしかナイ

そんなコトを言ってる自分も初めて読んだ頃には
まだ世界観が確立してなくて流されがちだったせいか
迫害されるキリスト教徒に同情を禁じえず
逆にネロが悪の権化だと真に受けそうになってたのだがねw

ペトロニウスの『サテュリコン』の登場人物ながら
恐らく主人公よりも有名なのがトリマルキオ(Trimalchio)だ

Trimalchioはギリシア語で「3度祝福された人」の意で
フェリーニの映画ではイタリアンぽくトリマルチョーネとなってる
他の登場人物も原作と映画で読み方が違うので下表にまとめておく

登場人物『サテュリコン』『サテリコン』意味
Trimalchioトリマルキオントリマルチョーネ3度祝福された人
Gitonギトンジトーネ隣人(ゲイトン)
Encolpiusエンコルピオスエンコルピオ抱かれる人
Ascyltosアスキュルトスアシルト決してへこたれない人
Eumolpusエウモルポスエウモルポ甘く歌う人

修辞学校の教師の名がアガメムノンなのは

なぜか、彼の名はトロイア戦争におけるギリシア遠征軍の総帥の名にちなむ

とあるが、助教師の名がメネラオスなので、安易にセットで命名したと思われ

そしてまとめておいてなんだが
このブログでは臨機応変にどちらも使用する・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ
なので、基本的には小説の話題ならギトンでも映画の話題ならジトーネだ

トリマルキオの饗宴―逸楽と飽食のローマ文化 (中公新書)

しかしトリマルキオは一般的にもトリマルキオで通ってて
例えば『トリマルキオの饗宴』と冠する本があり
この記事ではその本についても触れてるのでトリマルキオで統一しとくw

その『トリマルキオの饗宴―逸楽と飽食のローマ文化』が
以前は中公新書で出てたのがタイトルがちょっと変わった(※)だけで
中身はそのままで、昨年、講談社学術文庫から再版されてた
逸楽と飽食の古代ローマ―『トリマルキオの饗宴』を読む、となった

逸楽と飽食の古代ローマ―『トリマルキオの饗宴』を読む (講談社学術文庫)

たまたま昼休みに読む本をうっかり忘れてきて
手持無沙汰で本屋に物色に行った時に見つけたので
即座に購入して愉しく読み耽ったが
この本を手にして最初に捲るページてのが決まってて
それはつまり最も気に入ってる件なのだ

 そのとき、ブドウの葉とキヅタの髪飾りをつけた美少年がブドウの籠を手にして登場し、酒神バッコスのさまざまな仕草を真似ながら、トリマルキオの詩を甲高い声でうたった。

バッカスに扮した美少年が歌い踊るのを思い浮かべて呑むワインは
格別に美味い( *゚Д゚)つ[葡萄酒]

但し、些細なコトだが、岩波文庫の国原吉之助訳のように
ブドウは葡萄、キヅタは常春藤、と漢字の方が香り高い気がするのと
「さまざまな仕草」は後からちゃんと解説があるにせよ
やはり文中での鮮明な描写があった方がより陶酔できるのに
と、ほんのちょっぴり残念に思う

『サテュリコン』では以下のように訳されてる

 こんな会話をかわしていたとき、一人の美少年が葡萄の葉と常春藤で頭髪を飾り、ときに陶酔の酒神バッコスを、ときに苦悩の解放者バッコスを、ときに霊感の鼓吹者バッコスをよそおい、葡萄の実の入った小籠を持ってまわりながら、彼の主人の詩を甲高い声でうたった。

トリマルキオがこの美少年の奴隷に対して
「ディオニュソスよ、自由(リーベル)になれ」と、声をかけると
美少年奴隷は皿の上のイノシシの頭に乗せられた解放奴隷の帽子をとって
自身の頭に乗せ、皆がそれを祝福してキスをするのだが
これはトリマルキオが美少年を奴隷の身分から自由にしてやった
と自分には思えたのだが、注釈でもそこが判然としなかった

ところが『トリマルキオの饗宴』は薀蓄本なので
当然、この場面に対しての詳しい解説があり

 少年はトリマルキオがつくった詩を殊勝にも丸暗記しており、少年らしい高く通る声で朗唱した。詩の最大の理解者は作者であるという法則にたがわず、トリマルキオは深い理解と感銘から心を揺らし、その揺れが言葉となって現われた。

そして自分が悟った通りの状況が述べられてるので胸がすくのだ!

しかし映画『サテリコン』ではこの場面はナイ。(´д`;)ギャボ
てか、原作に忠実な作りではナイので
既に饗宴参加メンバー(※)からして大いに違ってたりもするしね
『サテュリコン』では修辞学校の教師ら、エンコルピオス、アスキュルトス、ギトンだが、『サテリコン』ではエンコルピオとエウモルポ

☆・・・☆・・・☆

それにしても古代ローマにおいては
奴隷、の単語から発せられるイメージに陰惨さはまるでナイ
とりわけトリマルキオの饗宴においては
主人自身が解放奴隷だってのもあるのかもしれナイが

 少年奴隷たちは面倒な仕事中でもつねに歌をうたっていた。

なんて、陰惨どころか、底抜けに明るいし
アメリカにおける黒人奴隷なんかとは全く違ってて
主人の信頼を得られれば、人間性も尊重されるし
先述のバッカスに扮した少年のように
饗宴での才気の対価として、快く自由を与えるコトもあるのだ

『サテュリコン』の著者であるペトロニウスは
実際の家族構成がどうだったのかは謎だが
シェンキェヴィチの『クオ・ヴァディス』の中では
美しい奴隷を愛人にしてたりもするし
そもそもローマ帝国の皇帝であるネロも解放奴隷であるアクテに恋をして
由緒正しい王女だった正妻のオクタヴィアとは離婚して
アクテを愛人ではなく、正妻に迎えようとしたのだ。(゚д゚lll)ギャボ

映画『クオ・ヴァディス』ではペトロニウスと奴隷女の恋愛が
非常にロマンティックに描かれてて
自分もこの時代に生まれるなら美人の奴隷に生まれたいと思ったw

クォ・ヴァディス [DVD] FRT-052NERO ザ・ダーク・エンペラー [DVD]

ネロとアクテの恋物語も『NERO ザ・ダーク・エンペラー』で堪能できる