Domine, Quo vadis?

1951年のハリウッド映画は
英語読みの『クォ・ヴァディス』で
1954年の岩波文庫も
同じく『クォ・ヴァディス』だった

これが1995年に岩波文庫から出た新訳では
ラテン語に忠実な読みになって
『クオ・ワディス』とされてしまった。(゚д゚lll)ギャボ

通常はギリシア語名やラテン語名の
英語読みには反対派なのだが
長年に渡って慣れ親しんでしまうと
正しい方に違和感がある。(´д`;)ギャボ

かつて自分が愛読した児童書は
1964年に出た偕成社少女世界文学全集だが
Vが「ヴ」でなくて
「バビブベボ」に置き換えられてて
『クォ・バディス』だったし
著者名もシェンキェビチになってたし
映画ではヴィニシウスとリジアだったのも
ビニキウスとリギアだった

しかし新訳はラテン語読みに正しく
『クオ・ワディス』になってるのと同様
ヴィニシウスもウィニシウスとなり
何が不便かってググる際に
何通りもググる必要が生じるし
そうしてググる人のコトを考えると
こうして記事にする時にも
表記について延々と説明する羽目に(-_-;)

てなワケで
表記についてが長くなったが
以下は本題の「QUO VADIS」の意味について

『新約聖書』では「ヨハネの福音書」13-36の
【最後の晩餐】のすぐ後の場面での
シモン(別名ペテロ)の科白に出てくる

Domine, Quo vadis?

Domine:主よ(とゆー呼びかけ)
Quo vadis?:いずこへ?
主と呼ばれたイエス・キリストの行く手には
磔刑に処される運命が待ち受けてるので
最終的な行き先は処刑場だ

しかしイエスはこれに答えず
シモンに以下のような暗示的な予言をする

鶏が鳴くまでに、あなたは3度わたしをしらないと言います。

シモンは予言通りに
イエスを知らナイと3度言い
イエスは十字架に架けられたが
シモンは免れたのだった

以降、シモンはペテロを名乗るが
その後、ローマにおいて
ぺテロ自身の身の上が危うくなり
こっそりローマを出ようとした時の話が
『新約聖書外典』の「ペテロ行伝」35にある

逃げ出そうとしてるまさにその時
イエス(の幻影)が現れて
ペテロが同じ科白でイエスに問うのだ

Domine, Quo vadis?

イエスはローマに戻って
十字架に架けられようとしてたので
「今度こそ自身が十字架に架けられよう!」
そんな決意をしたペテロは
ローマに戻って磔刑に処された

しかも主と同じでは畏れ多いとして
わざわざさかさまになって
十字架に架けられたが
シェンキェヴィチの小説に出てくるのは
後の方の問いかけのシーンだ

それにしても「ペテロ行伝」が
『新約聖書』の正典から排除されたのは
正典とするのに相応しくなかったからだろうが
その基準は曖昧模糊としてる

ユダヤ教とキリスト教では
正典に入れてるモノが同じではなくて
そんな事情からも明らかなように
正典か外典かの差と信憑性は無関係だ

ぶっちゃけ、どちらも信憑性に欠けるが
外典にも興味深い挿話は満載で
芸術作品の主題になってるモノも多い

と、この辺りでそろそろ
『クォ・ヴァディス』のあらすじを
映画版に沿って紹介しておく

青年貴族マーカス・ヴィニシウスのいた軍隊が
凱旋帰国したが
そのまますぐに帰宅できなかったのは
ネロが戦勝記念の祝典を行うまで
足止めを食らったからだった

その間にヴィニシウスは
アウルス将軍の館で世話になるが
この館で運命の美(少)女リジアと出会う

リジアとはローマに滅ぼされた蛮族の国名で
ローマにしてみたら蛮族抑止のための討伐なれど
勝手に蛮族呼ばわりされて滅ぼされた方からすると
ローマに略奪されたとしか言いようがナイが
その討伐なり略奪なりの際に孤児になった娘が
亡き祖国の名を名乗ってた

それもそのはずで
リジアはただの戦災孤児でなく
その国の王女だったらしく
忠実な下僕の巨人ウルススも
共にアウルス将軍の家に身を寄せてた

本来なら元の身分に関係なく
侵略されてローマ帝国の一部となったら
その国の民は王女であれ
ローマ人の奴隷となるのが常だろうが
リジアはアウルス将軍夫妻に
本トの娘のように大切に育てられてた

これはキリストの教えの高潔さが
この物語の主題でもあるので
キリスト教徒のアウルス夫妻が
慈悲心に優れてると示したかったのだろう

映画ではヴィニシウスとリジアの
ロマンス仕立てにもなってるが
基本的にはヴィニシウスの改悛の物語であり
キリスト教徒が大嫌いなネロを
ローマの大火の犯人に仕立て上げて
極悪非道のレッテルを貼るのが
目的なのではなかろうか?!

著者のシェンキェヴィチはポーランド人で
もちろんキリスト教徒だろうが
それ以上に祖国の独立を望んでて
圧政に対しての正しき者たちの抵抗を
描きたかったのだろうし
そこでわかりやすいように
ネロの時代を脚色したのだろう

でもローマの大火はネロの仕業ではなく
キリスト教信者はネロ以外の皇帝も
厳しく取り締まってたのだ

ちなみに「ペテロ行伝」の最後には
ネロがペテロの処刑には関わってなかった事実と
その後キリスト教信者の迫害から
手を引いたコトがちゃんと述べられてる

またリジアなる国は
実はポーランドのコトで
故国を失った王女リジアは
シェンキェヴィチ自身を投影してるるる~

サロメの実像

オスカー・ワイルドが戯曲『サロメ』を書く以前からサロメは悪徳の代表者だったが
キリスト教信者にとっては忌むべき存在で
男にとっては魅力的な存在で拒み通せる女ではなかった

聖者ヨハネ(ヨカナーン)とて生身の男であればその誘惑に打ち勝てたかは定かではナイが
生首になったコトで誘惑を遠ざけられ勝利できたのだろうか?

ところがワイルドは「生首へのキス」とゆー度肝を抜く展開で
サロメをまた逆点勝利に導いてしまうのだった。(゚д゚lll)ギャボ

「サロメ」の変容―翻訳・舞台

しかし実際のサロメは【ファム・ファタル】だったのだろうか?
その複雑怪奇な生い立ちを追ってみるるる~

まずサロメの母ヘロデヤについての言及から始めなくてはならナイが
ヘロデヤはヘロデ王の弟ピリポの妻であったが好色なヘロデ王に見初められて不貞をし
遂にはヘロデ王の妃に収まり、その際にヘロデヤの娘サロメも王女となった

なのでサロメがヘロデ王の実の娘ではナイのは明らかだが
そこでフツーに考えて実質的にはヘロデ王はサロメの伯父なのかと思ったら
ヘロデヤの前夫ピリポの娘でもナイので伯父には当たらなくて
ヘロデ王の父ヘロデ大王の子の別のヘロデとの娘だ。(´д`;)ギャボ

同じ名前ばかりでややこしいが
元を正せばヘロデ大王には10人の妻がいて
その内のマルタケ妃との間の息子がヘロデ王でマリアンメ妃との間の子の娘がヘロデヤで
ヘロデ大王からしたらヘロデ王は息子でヘロデヤは孫に当たり
サロメは曾孫でもあるのだが父親がヘロデ大王の息子なので孫でもあるるる~
ヘロデヤとサロメが親娘関係であるにも拘らず
父親の系統からはヘロデヤもサロメもヘロデ大王の孫なのだったヽ(゚∀。)ノ

なんともややこしいコトこの上ナイが今一度ヘロデヤを中心にまとめると
ヘロデ大王の孫娘でありながらヘロデ大王の息子のうち(少なくとも)3人と関係を持ってたのだ

以上、家系図にするのは断念・・・バタリ ゙〓■●゙

そういうワケでサロメは実の父親とは全く縁がなく
実母ヘロデヤの連れ子としてヘロデヤの夫の許で育ってきたので
恐らくサロメにとって父親としての存在感があったのはピリポだったのではナイだろうか?

だがしかし事件当時はこの養父ピリポを殺した両親の元に身を寄せてるのだ

うっかり「養父を殺した」などと書いてしまったが
ヘロデ王もヘロデヤも直接的にはピリポには手を下してはいナイ
但し後にヨハネが入る牢に長いコト幽閉された末に死んだらしいので殺したも同然だと思われ

以上のようにサロメの生い立ちはあまりにも特殊な状況にあり
王女、とゆー肩書きからは想像もつかナイ孤独や恐怖に苛まれ続けてたのだ

サロメが幼い時にピリポを父と慕ってた度合いにもよるが
ヘロデ王に対しては父親としての情を微塵も感じてナイのは予想がつくし
実の母であるヘロデヤへの情でさえ希薄か、もしくは憎悪を感じてたかもしれナイ

いずれにしろサロメはヨハネがヘロデ王とヘロデヤを非難してたコトに対しては
異存はなく、むしろヨハネを唯一の理解者のように感じたかもしれナイ

それでヨハネがかつて養父が繋がれてた牢に入れられてたら
サロメはその最期を知ってるのだから少なくとも憐憫の情は抱くだろうし
清く正しく美しい聖者に想いを寄せてしまうのも無理はナイ

そこでヨハネがサロメに対しても両親と同じように非難したとしたら
ヨハネに惨い仕打ちをするのも頷ける(-人-;)

自分はそんな風に想い描いたのでワイルドの『サロメ』にも納得は行く

最後の誘惑(デヴィッド・ボウイ出演作品)

自分にはアンテナがあって欲するモノが必ず引っかかってくるのだが
その1つにデヴィッド・ボウイの出演映画のアンテナがあり
今回のこの『最後の誘惑(原題:The Last Temptation of Christ)』も
そうとは知らずに購入して観てて気付いたのだった・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

この映画を観たいと思い立ったのは
タイトルの通りにイエス・キリストの生涯が描かれてて
その最期の時に十字架に架けられつつ彼が何を思ったかが主題だったからだ
なので邦題は「最後」ではなく「最期」として欲しかったのだが・・・

それにしてもその主題に辿り着くまでの伏線が映画の殆どを占めてるので
主人公がキリストほどの人格破綻者でなかったら途中で飽きてしまうと思われるるる~

いつも自分や母親のためにキリストに祈ってくださってるシスターが知ったら腰を抜かすだろうが
自分は【アンチ・キリスト】だヽ(゚∀。)ノ

まあ日本人でそんな考え方の人間はほとんどいナイだろうが
キリストを信仰してナイってコトは=悪魔崇拝なのかと言えばもちろん違うw
ところがたいていのキリスト教信者はきっぱりと2元的に捉えてて
否信者に対しては悪魔崇拝だと断定したがるが
中立的な立場でキリストに心を許さず悪魔にも魂を売ってナイ人間もいるのだ

そしてそんな人間だって単に興味の対象であるキリスト像を
信者としてではなく哲学的に科学的に人物像を知る権利だってあるし
そのための題材の一つとしてこの映画は是非とも観てみたいと思ってたのだ

それが中古屋に¥1,500でビデオがあり元値は¥15,000弱なので超お買い得だと即買い!
その後¥980でDVDで出たがな・・・(;つД`)
でもそうか、当時はまだビデオしかなかったのだよな(゚ ゚;)

最後の誘惑 [DVD]

さてこの作品でのデヴィッド・ボウイの役はこれがなんとピラト総督。(゚д゚lll)ギャボ
簡単に言うとキリストの磔刑を決定付けた役人。(´д`;)ギャボ

ロック・ミュージシャンは反体制なのが常だが
そのロック・ミュージシャンが反体制のイエス・キリストを裁く役人なのだ!
尤もこの映画をキリスト教徒が観れば
神(の子)であるキリストに対して不徳を冒してるのがピラトの方なワケで
そうなるとやっぱり反体制なのか?!

そんなピラトの出演場面はウィレム・デフォー演ずるキリストとの対峙で
このデフォーのキリストも美し過ぎるのが難だが
それ以上にピラトの無駄な美しさには困惑するるる~

エッケ・ホモ ――こいつホモセクシャルです

違った~ヽ(゚∀。)ノ

エッケ・ホモ ――この人を見よ

このラテン語のまま知られる有名な台詞を口にするデヴィッド・ボウイ
これが゚+.(・∀・)゚+.゚イイ!!

ペンブックス1 ダ・ヴィンチ全作品・全解剖。 (Pen BOOKS)
サロメ (岩波文庫)

しかし美麗過ぎるキリストやピラトはある意味ミス・キャストかもしれナイが
2人に比べて醜過ぎるバプテスマのヨハネは間違いなくミス・キャストだろうてp(-_-+)q
ダ・ヴィンチのアンドロギュヌス的な美貌のヨハネとは別人だと思いたいし
ワイルドの『サロメ』のヨハネだとしたら喜劇にしかならん。・゚・(ノД`)・゚・。

あと弟子たちは各々それなりだが(元から興味が薄いからだろうがw)
マグダラのマリアの解釈やくたびれ果てて聖母の面影がナイマリアも
実像はこんなモノだろう、と予想してたモノが表現されてて納得できた
自分が受け容れやすいくらいだからキリスト教信者にはさぞかし不評だったろうが(-_-;)

インチキ臭いキリスト礼賛がなく淡々と話が進むので
日本人とか先入観のナイ初心者が観るのにぱ+.(・∀・)゚+.゚イイかと・・・
但しこの映画から入信する人はいナイだろうから信者にとっては問題作なのだなヽ(゚∀。)ノ