映画『QUO VADIS(1951)』

児童版『クォ・バディス』から引用すれば
主役のビニキウス(映画ではヴィニシウス)は

たくましいからだとととのった目鼻だちとをそなえたビニキウスは、いかにもローマの青年貴族らしく、きびきびしていた

とあり、凛々しいラテン系美青年を想起する

原作では未婚なので20歳そこそこの設定だろうが
ヴィニシウス役のロバート・テイラーは1911年生まれで
映画出演時(1951年)には40歳。(゚д゚lll)ギャボ

【趣味の審判者】たる叔父のペトロニウスが
彫刻家がヘラクレスのモデルに使いたがると形容してて
確かにマッチョなハンサムではあるが
いかんせん、瑞々しさに欠く

ヴィニシウスの役ドコロは
惚れた女に洗脳されて
改心してキリスト教徒になって
持ち前の正義感を発揮して
仲間の救出に尽力するようになるも
結果的には叔父ペトロニウスを裏切って
皇帝ネロに反目する立場になるので
簡潔に表現すれば青二才だw

しかしローバート・テイラーでは
とてもそうは見えん。(´д`;)ギャボ

女のために信念を曲げるなんて
以ての外ってカンジに顔が締まってて
とても胡散臭い新興宗教にかぶれてる女に
のぼせてしまうようには見えんて

それに加えて
往年のスターだったのが鼻についたかもだ

それも年を追う毎に人気が低迷してきたので
起死回生を懸けて身体を鍛え上げて
アクションスターへ転向を計った第1作目p(-_-+)q
そんな意気込みが見て取れてしまう

それでもまだそこはかとなく
甘さを兼ね備えてて
どんなに荒々しく傍若無人に振舞っても
強面にはならぬ甘やかさがあるのが
この往年のスターの最大の魅力であろう
そこに頑なな聖少女さえも
つい心を許してしまうのはわかるるる~

こうしてヴィニシウスの年齢設定があがったせいで
相手役の年齢設定もあがったのだろう

児童版『クォ・バディス』には
アウルス将軍の息子とボール遊びをして
頬を紅潮させてるリギア(リジア)の挿絵があったので
せいぜい16~17歳と推定してたが
演じてたデボラ・カーは当時なんと30歳ヽ(゚∀。)ノ

尤もその神々しいまでの美貌で年齢を超越してたし
リジアを本トに10代の少女が演じてたら
四十路のヴィニシウスとのロマンスに
無理があるってモノだ

また児童版『クォ・バディス』によるリジアの容貌は

黒いふさふさした髪を持ち(中略)夢の楽園の天使のよう

とあるのから自分は勝手に
『緑園の天使』でのエリザベス・テーラーを当て嵌めてて
ブロンドのゴージャス美人のリジアには
正直、面食らったのだった

しかしその想起は自分だけではなかったようで
リジアに扮してカメラテストを受けてるリズの写真が
IMDbにアップされてた!

でもこの頃はもう色っぽ過ぎて
リジアにはミス・キャストだ(-_-;)

デボラ・カーはこの後
『ジュリアス・シーザー』にも出てて
ブルートゥスの妻を演じてるが
圧倒的な美しさを誇ってる

『黒水仙』での尼僧姿も
『キング・ソロモン』での探検家スタイル(?)でも
その美麗さには遜色がなく
むしろ装飾を取り払ってしまってこそ
ますます光り輝いて見える本物の美女だが
それが『クォ・ヴァディス』では
不遇な身上の元王女で
敬虔なキリスト教の信者なので
泥沼に咲く蓮のような清らかさが満ちてる

また、バレエをやってた人特有の
無駄な脂肪がナイ肢体を
三十路過ぎても保ってて
特に二の腕は賞賛に値する・・・ホゥ(*-∀-)

主役にロバート・テイラー
相手役にデボラ・カー
このキャスティングだけで
ハリウッド映画としては既に成功してるが
歴史大作としてはやはり
主役の美男美女だけでは納得できん!

ネロ、ペトロニウス、セネカ、ペテロなど
実在した人物が大多数なので
そのキャスティングの妙にこそ真価が凝縮されてる

自分はキャラ的にペトロニウスが大のお気に入りだが
レオ・ゲンのペトロニウスは
奴隷のユーニス役の美女とセットで好かった

ネロはローマ皇帝の中では1番好きなのだが
ピーター・ユスティノフのネロもなかなか可愛くて
ポッパエアの毒女ブリと好対照だった

惜しむらくは
もう少しセネカに活躍して欲しかったが
まあ史実的にも
ローマの大火の前に隠居してたからしかたナイ

但し、ローマの大火でネロが火付けを指図したなんて
歴史的事実に反してるんだがね・・・
だいたいネロに対する誹謗・中傷は
キリスト教徒の陰謀でしかナイ

そんなコトを言ってる自分も
初めて読んだ頃には
まだ世界観が確立してなくて
憐憫の情だけは持ち得てたので
迫害されるキリスト教徒に同情を禁じえず
逆にネロが悪の権化だと
うっかり真に受けそうになってたのだった

Domine, Quo vadis?

1951年のハリウッド映画は
英語読みの『クォ・ヴァディス』で
1954年の岩波文庫も
同じく『クォ・ヴァディス』だった

これが1995年に岩波文庫から出た新訳では
ラテン語に忠実な読みになって
『クオ・ワディス』とされてしまった。(゚д゚lll)ギャボ

通常はギリシア語名やラテン語名の
英語読みには反対派なのだが
長年に渡って慣れ親しんでしまうと
正しい方に違和感がある。(´д`;)ギャボ

かつて自分が愛読した児童書は
1964年に出た偕成社少女世界文学全集だが
Vが「ヴ」でなくて
「バビブベボ」に置き換えられてて
『クォ・バディス』だったし
著者名もシェンキェビチになってたし
映画ではヴィニシウスとリジアだったのも
ビニキウスとリギアだった

しかし新訳はラテン語読みに正しく
『クオ・ワディス』になってるのと同様
ヴィニシウスもウィニシウスとなり
何が不便かってググる際に
何通りもググる必要が生じるし
そうしてググる人のコトを考えると
こうして記事にする時にも
表記について延々と説明する羽目に(-_-;)

てなワケで
表記についてが長くなったが
以下は本題の「QUO VADIS」の意味について

『新約聖書』では「ヨハネの福音書」13-36の
【最後の晩餐】のすぐ後の場面での
シモン(別名ペテロ)の科白に出てくる

Domine, Quo vadis?

Domine:主よ(とゆー呼びかけ)
Quo vadis?:いずこへ?
主と呼ばれたイエス・キリストの行く手には
磔刑に処される運命が待ち受けてるので
最終的な行き先は処刑場だ

しかしイエスはこれに答えず
シモンに以下のような暗示的な予言をする

鶏が鳴くまでに、あなたは3度わたしをしらないと言います。

シモンは予言通りに
イエスを知らナイと3度言い
イエスは十字架に架けられたが
シモンは免れたのだった

以降、シモンはペテロを名乗るが
その後、ローマにおいて
ぺテロ自身の身の上が危うくなり
こっそりローマを出ようとした時の話が
『新約聖書外典』の「ペテロ行伝」35にある

逃げ出そうとしてるまさにその時
イエス(の幻影)が現れて
ペテロが同じ科白でイエスに問うのだ

Domine, Quo vadis?

イエスはローマに戻って
十字架に架けられようとしてたので
「今度こそ自身が十字架に架けられよう!」
そんな決意をしたペテロは
ローマに戻って磔刑に処された

しかも主と同じでは畏れ多いとして
わざわざさかさまになって
十字架に架けられたが
シェンキェヴィチの小説に出てくるのは
後の方の問いかけのシーンだ

それにしても「ペテロ行伝」が
『新約聖書』の正典から排除されたのは
正典とするのに相応しくなかったからだろうが
その基準は曖昧模糊としてる

ユダヤ教とキリスト教では
正典に入れてるモノが同じではなくて
そんな事情からも明らかなように
正典か外典かの差と信憑性は無関係だ

ぶっちゃけ、どちらも信憑性に欠けるが
外典にも興味深い挿話は満載で
芸術作品の主題になってるモノも多い

と、この辺りでそろそろ
『クォ・ヴァディス』のあらすじを
映画版に沿って紹介しておく

青年貴族マーカス・ヴィニシウスのいた軍隊が
凱旋帰国したが
そのまますぐに帰宅できなかったのは
ネロが戦勝記念の祝典を行うまで
足止めを食らったからだった

その間にヴィニシウスは
アウルス将軍の館で世話になるが
この館で運命の美(少)女リジアと出会う

リジアとはローマに滅ぼされた蛮族の国名で
ローマにしてみたら蛮族抑止のための討伐なれど
勝手に蛮族呼ばわりされて滅ぼされた方からすると
ローマに略奪されたとしか言いようがナイが
その討伐なり略奪なりの際に孤児になった娘が
亡き祖国の名を名乗ってた

それもそのはずで
リジアはただの戦災孤児でなく
その国の王女だったらしく
忠実な下僕の巨人ウルススも
共にアウルス将軍の家に身を寄せてた

本来なら元の身分に関係なく
侵略されてローマ帝国の一部となったら
その国の民は王女であれ
ローマ人の奴隷となるのが常だろうが
リジアはアウルス将軍夫妻に
本トの娘のように大切に育てられてた

これはキリストの教えの高潔さが
この物語の主題でもあるので
キリスト教徒のアウルス夫妻が
慈悲心に優れてると示したかったのだろう

映画ではヴィニシウスとリジアの
ロマンス仕立てにもなってるが
基本的にはヴィニシウスの改悛の物語であり
キリスト教徒が大嫌いなネロを
ローマの大火の犯人に仕立て上げて
極悪非道のレッテルを貼るのが
目的なのではなかろうか?!

著者のシェンキェヴィチはポーランド人で
もちろんキリスト教徒だろうが
それ以上に祖国の独立を望んでて
圧政に対しての正しき者たちの抵抗を
描きたかったのだろうし
そこでわかりやすいように
ネロの時代を脚色したのだろう

でもローマの大火はネロの仕業ではなく
キリスト教信者はネロ以外の皇帝も
厳しく取り締まってたのだ

ちなみに「ペテロ行伝」の最後には
ネロがペテロの処刑には関わってなかった事実と
その後キリスト教信者の迫害から
手を引いたコトがちゃんと述べられてる

またリジアなる国は
実はポーランドのコトで
故国を失った王女リジアは
シェンキェヴィチ自身を投影してるるる~

ELEGANTIAE ARBITER【趣味の審判者】

『クォ・ヴァディス』の著者
ヘンリク・シェンキェヴィチは
ポーランド人初のノーベル賞受賞者だ

だがしかし
彼がノーベル文学賞を受賞したのは1905年で
その時、ポーランドは完全に消滅してて
帝政ロシアの一部となってた

シェンキェヴィチが生まれた時には
まだポーランド(立憲)王国と称されてたが
実態は国王を既に帝政ロシアの皇帝が兼任してて
ポーランド人による国家ではなかったのだ

ポーランド独立を願いつつ
残念ながら独立前に死去してしまうが
そんなシェンキェヴィチの
『クォ・ヴァディス』以外の作品は
愛国者の果敢な闘いを題材にした小説が多い

まあ『クォ・ヴァディス』にしても
迫害を受けるキリスト教徒が
信仰や信念を曲げずに
死を選ぶ姿が克明に描かれており
やはり不屈の精神で抗う民衆がテーマだ

実在した登場人物が出てくる中でも
とりわけネロの側近のペトロニウスが
活き活きと描写されてるのが魅力的だが
いったいどこまでが史実で
どこからが創作なのか
その典拠を確認してみたくなった

まず児童版『クォ・バディス』の巻末に
「解説」として次のようにあった

スエトニウスという歴史家が書いたローマ時代の本を参考にして、1896年、この世界的な傑作、「クォ・バディス」を書きあげたのでした

これをずっと信じてて
いざ、スエトニウスの『ローマ皇帝伝』を
上下巻とも購入して読んでみるも・・・

確かに『ローマ皇帝伝(下)』では
ネロのプロフィールは詳述されてたが
ペトロニウスについては
その名がただの1度も出てこず・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

とゆーコトはシェンキェヴィチは
ネロについてはこの本も参考にしただろうが
ペトロニウスの特異な人物像などは
別の書物を参照してるはずだ

自分の知る限りでは
タキトゥスの『年代記(下)』において
3ページ弱で綴られてるのみが
ペトロニウスの全貌だ

1.昼日なか眠って、夜を享楽に生きた

2.無精、無頓着だったが、それが天真爛漫と見受けられた

3.激務も全うした精力家だったが、背徳者を装いネロを誑かした

1.昼日なか眠って、夜を享楽に生きた

そう言えば、Slaughterの曲には
まさにそんなペトロニウス節があった

Up all night, sleep all day, that’s right♪

これは簡潔に表現すれば
「不良」だったってコトだろうが
社会的地位が高くして「不良」てのは
潔くて゚+.(・∀・)゚+.゚イイね!

尤もネロなんかは
皇帝にしてアナーキストだから
尚更カッコ゚+.(・∀・)゚+.゚イイのだがw

なんせいくらローマが退廃してたとはいえ
当時のローマ市民の日常生活は
現代人には考えが及ばナイ健全さで
日の出と共に起きて
陽が沈んだら寝るしかなかったのは
当たり前ながら夜は真っ暗だったからだ

電気がなければ
蝋燭の灯りだけが頼りなので
そんな時代に夜を愉しむのだから
灯りの設備に無駄に金をかけて
贅を尽くしてたのだ

ペトロニウスは不道徳な金持ちだったが
彼が自腹を切るようなコトは稀で
その不道徳の限りを一身に享受するネロが
国庫から無尽蔵に浪費してたと思われ

そうして金に糸目を付けなかったからこそ
一切の道徳観念を無視して
愉しみに耽溺できたのだろう

でも実のトコロ
かつてのネロを指導した哲学者セネカこそが
破格の金持ちだったり・・・。(゚д゚lll)ギャボ

2.無精、無頓着だったが、それが天真爛漫と見受けられた

これこそがペトロニウスの真価で
無精とか無頓着とかは
鵜呑みにすると全く的を得なくなるが
ペトロニウスは何に対してもそうだったのでなく
興味の範疇以外がそうだったのだ

天真爛漫と見受けられたのは
嫣然としてたからだろう
いや、「嫣然(えんぜん)」てのは
通常は美女の微笑を表現するのに使う言葉だが
ペトロニウス程の粋人(すいじん)には
むしろ似つかわしいかもだ

ああそう、粋人の意味を説明するくらい
無粋なコトもなかろうが
読んで字の如くで粋な人であり
単なるインテリでなく
それを踏まえて遊び心がある人だ

教養があっても
それを万人にひけらかすコトなく
わかる相手にだけ仄めかし
わかった同士だけが納得するのだね

その点、セネカは洒落もわかる教養人だが
ペトロニウスと比すれば
まだしも生真面目だったので
ネロの放縦を横目に見過ごしつつも
内心は気を揉んでただろうが
そんなセネカに対しても
ペトロニウスは臆するコトなく
嫣然とやり過ごしてたのを傍から見れば
なるほど、天真爛漫に映ったはず

3.激務も全うした精力家だったが、背徳者を装いネロを誑かした

タキトゥスはペトロニウスを
「贅沢の通人」と表現してるが
資産を食い潰してる文字通りの大食漢や
無目的に放蕩三昧の能無しとは違って
世間から反感を買ったりしなかった
などと言及した上で
ペトロニウスのそれまでの職歴を示し
出世街道を着実に歩んできてるのを
その証拠としてる

つまりタキトゥスに言わせれば
ペトロニウスは「不良」のように振舞っても
本来は役職に就いてた人間なので
背徳者を装ってるだけで
ネロを誑かそうとしてたのだと・・・

恐らくタキトゥス自身は
【趣味の審判者】の意義がわかるほど
歓楽的に生きてなかっただろうし
洒落を解せなかったかもだ

ペトロニウスの教養は
単なるインテリ趣味に非ず
完璧に洒落のめしてて
素地があるくらいではついて行けなくて
だからネロが彼に夢中になったのは
裏を返せば、それがわかったからなのだ!

くだらナイお追従に
うんざりしてたであろうネロには
多少辛辣でも刺激的な方が
新鮮で愉しめたのだな

イベントは基本的には
金をかければより一層おもしろくなる

どんなつまらナイ企画でも
金をかけられるだけかけたら
たちどころに愉快になるのは間違いなく
それは現代においても変わらナイ事実であって
金を湯水のように使いながら
ひたすらバカ騒ぎするなんてのは
誰もが人生に1度は試みたいと思うものだ

ところがそんな誰もが夢見るイベントも
毎晩やってると飽きてくるモノで
日に日に面白みは減退してく

生涯に1回きりでなく
日々イベントをやり続けるには
金の力より企画力が必要で
そこでペトロニウスのプロデュース力が
ネロの魂に火を点けたのだ!

まあ実質的にはネロさえ飽きなければ
それで゚+.(・∀・)゚+.゚イイのだが
皇帝であるネロに詩の朗読や竪琴演奏をさせて
時に辛辣に批評したりして
その際のネロの反応を
周囲の人間も十分に楽しんでたのでは?

ネロが演じてる最中に居眠りした者がいて
これを咎めようとしたのを
ペトロニウスが救った有名なエピソードが
岩波文庫の『クォ・ワディス』上巻に出てくるが
ペトロニウスはすかさず
ネロをかのオルフェウスに譬え
彼の竪琴の音色で野獣が眠ったと・・・

そんな風に褒められてしまって
ネロは怒っていられなくなったのだが
これってネロがギリシア通で
オルフェウスをリスペクトしてたから
成立したんだと思うと
自分にはやはりネロが愛おしく感じられるし
ペトロニウスの大岡裁きみたいなやり口は
カッコ゚+.(・∀・)゚+.゚イイと感心する

ちなみに居眠りをした不届き者は
後に皇帝となるウェスパシアヌスだった

セム、ハム、ヤペテ~アブラハム(アブラム)

セム、ハム、ヤペテがそれぞれの民族の祖となった

殆どの日本人にはなんのこっちゃだろうが
このセム、ハム、ヤペテの3人は兄弟で
父親の名はノア

あの「ノアの箱舟」のノアだ

『旧約聖書』の「創世記」第9章~第10章によれば
この親子は方舟に乗って
大洪水を生き延びた唯一の人間の家族で
だから人類は全員ノアの子孫だとしてるのだ

但し、3人兄弟の誰を祖としてるかで
民族系統は異なってるそうだ
(元は兄弟なら同じ民族のはずなんだが・・・
とゆー突っ込みはナシでw)

『旧約聖書』によれば
セムの子孫のアブラハムの一族が
神に認められた正統な民族(※)となった
元はヘブライ人と呼ばれてたがイスラエル人と自称するようになり
ユダ王国(紀元前922年~紀元前586年)以降はユダヤ人と称された

そしてハムの息子のカナンは
カナン人の祖となったが
ハムは酔っ払って裸で寝てるノアを見たコトで
ノアに呪われて追放されてしまい
現パレスチナ辺りに追いやられたからだ

ヤペテの子孫については
『旧約聖書』の記述が途中までしかなく
その子孫がどの民族系統なのか言及されておらず

しかしギリシア神話のイアペイトスが
ヤペテと似た名前だとして同一視したのは
『失楽園』を著したジョン・ミルトンだった

でもギリシア神話と結び付けたのは無理があって
ヤペテの息子たち=イアペイトスの息子たちならば
人類に火を与えたプロメテウスや
人類初の女パンドラを娶ったエピメテウスが
ヤペテの息子ってのは
いかんせん辻褄が合わん・・・。(´д`;)ギャボ

もちろん
セムが黄色人種
ハムが黒色人種
ヤペテが白色人種
とそれぞれの祖だなんてのは
明らかに後からのこじつけであるるる~
(だから元は兄弟なら同じ民族のはずなんだってばw)

☆・・・☆・・・☆

ユダヤ民族の伝承の創世神話「創世記」と
神ヤハウェとの契約を遂行してきた歴史の記述が
1冊にまとめられて『旧約聖書』となったが
『旧約聖書』の「旧約」とは「旧い契約」の意で
後から唯一神と新しく契約したキリスト教徒によって
便宜上、『新約聖書』に対して
勝手に『旧約聖書』と名付けられたのだ

セムの子孫テラの子アブラムは
99歳の時にヤハウェと契約をして
アブラハムの名とカナンの地を与えられ
それまでカルデア(新バビロニア)のウルに住んでたが
父テラと妻サライと弟の息子ロトを連れて
カナンに向かった

そのころカナンびとがその地にいた。時に主はアブラムに現れて言われた、「わたしはあなたの子孫にこの地を与えます」。

途中のハランで父親のテラは死んでしまうが
アブラハムとサライ夫婦と息子のロトは
カナンに辿り着いて
「神がカナンの地をおれらに与えたんで
おまいらはどけ」とばかりに
ハムの子孫のカナン人は
セムの子孫のアブラハムに追いやられて
現レバノン海岸辺りへの移住を
余儀なくされた。(゚д゚lll)ギャボ

フツーに考えると
アブラハムの方が侵略者で
神の啓示があったなんてのも嘘かもしれナイが
唯一神を信仰してる民族にとっては
神に与えられた権利こそが正当な権利なのだw

ユダヤ人の選民思想は
どんなに卑劣な振る舞いをしても
絶対的な正義は神に認められたユダヤ人にあり
歯向かう相手こそが絶対的な【悪】となる

事実を捻じ曲げてでも
自身を正当化して
敵対勢力が不正であるとするのは
勧善懲悪を信奉する日本人の道徳観念では
到底、相容れず
既に理解の範疇を超えてるヽ(゚∀。)ノ

信憑性はさておき
神との約束通りにカナンを得たアブラハムだったが
その地が飢饉に見舞われると
妻のサライとエジプトに行ったΣ(゚д゚lll)ガーン

さて
エジプトで2人はどうなったか?!

  1. 奴隷として働いてなんとか貯えができて帰国した
  2. 神の恵みで良い働き口が見つかり十分に稼いで帰国した
  3. 結婚詐欺を働いてぼろ儲けして帰国した
  4. 神の預言者として厚遇されたので帰国の途につけた

大正解は3.だが
とりようによっては2.と4.も間違いではナイ

アブラハムは美人妻サライを妹と偽り
パロ(ファラオ、エジプト王の意)に取り持って
その兄として自身もパロに世話になりながら
たくさんの贈物までもらう

しかしこのサライの不倫に怒ったヤハウェは
疫病を齎すのであった!

齎されたのはアブラハムでもサライでもなくて
パロにだが・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

懼れたパロはサライをアブラハムに返し
アブラハムはパロからお土産をたんまり頂いて
エジプトを去った

これを結婚詐欺と言わずして
何と呼ぶのだ・・・バタリ ゙〓■●゙

 アブラムは妻とすべての持ち物を携え、エジプトを出てネゲブに上った。ロトも彼と共に上った(注:ロトはその後ソドムの地へ)。
 アブラムは家畜と金銀に非常に富んでいた。

セム系の遊牧民についての的を得た表現が
ゲルハルト・ヘルムの『フェニキア人』にあった

夜になると、獲物を求める盗賊となってやってきた。しかし昼間は、平和的な取引相手であった。

前夜に盗んだモノを
翌朝には盗んだ先に売りに行ってたりしそうだが
元より厳しい自然環境で暮らす遊牧民が
更に飢饉に襲われたら
一族を飢え死にさせナイためには
富める者から分捕るしかなく
その時に善意や良心や道徳観念が
彼らを救う何の役に立つのだろうか?!

自分は『旧約聖書』に対して
そんな想いを根底に感じ取れるので
現代日本人の道徳観で
一方的に批難する気は起きナイ(-_-;)

ところでアブラハムが
カルデアのウルにいたとすると
これは後の新バビロニア王国のなので
時代が合わナイ気がするが
古バビロニア王国時代の話でも
書かれたのが新バビロニア王国時代だからなのか?

何かで検証しようと思いつつ
ずっとそのままになってるるる~

禁忌(イヴとパンドラ)

既にパンドラ(パンドーラー)の名からして・・・

パン=すべて
ドーラー=贈り物

そもそも彼女自身が
人類に災いとして天から齎されたワケで
セット商品的に箱が・・・
元の言語的に正しくは壺(甕)が付いてきてる

その壺の中に入ってたモノは
細々と分別された災いで
中に「エルピス」も含まれてた

この「エルピス」をどう訳すかが問題で
英語圏では「hope(希望)」なので
日本語でも「希望」としてるんだろうが
「前ぶれ」「予兆」「前兆」「期待」・・・
等々に翻訳可能なんである

寓意的な神話で訓話的要素もあるので
どの訳を当て嵌めるのが゚+.(・∀・)゚+.゚イイのか
解釈次第で何通りもあって正解はナイ

災いセットに「希望」が入ってるコトに
違和感を感じてるとしたら
「前ぶれ」などの災いに含めてしっくりくる語に
置き換えれば゚+.(・∀・)゚+.゚イイ

自分なんかはむしろ「期待」を選ぶね
自身では何もせずに他人に依存して
期待してる人間は災いでしかナイ

毒親とその子供の関係なんかは
何が問題なのかって「期待」に尽きるね

一つは親が子供に期待し過ぎて
子供が親を負担に感じるようになるパターン

もう一つは子供が親に愛情を期待しても
親の愛情が欠如してて人格形成に欠陥が生じるパターン

尤も親子に限らず
人間関係では「期待」は殆どの場合災いする

よく友達や恋人に裏切られたって嘆く人がいるが
実はそいつらが裏切ったんでなく
期待した通りではなかったと判明しただけのコトだ

まあでも「エルピス」の真意が何かは
この神話を作った意図からすれば
ワリとどうでも゚+.(・∀・)゚+.゚イイのだ

これは禁忌の訓話であり
しかも男性優位社会を築こうとする男たちが
なんとかして女を服従させようとして
でっち上げた作り話に違いナイからだ

人類で初めて禁忌を犯したのは
ギリシア神話に倣えばパンドラだろうが
キリスト教圏で生活してるならば
信じる信じナイは別として
イヴ(エヴァ)を思い起こすだろう

エデンの園で禁断の果実を
食べてしまった人類初の女とされてるイヴだ

『旧約聖書』の「創世記」では
第1章で神によって世界が創られて
第2章で神によって人が造られて
第3章では神に定められた禁忌を人が犯して
神によって罰せられてる

具体的には
まず神なる絶対的な存在を示唆しておいて
その神を裏切ったのがイヴなので
イヴと同じ性の女は罪深い存在だとしてて
要するに罪人であるコトを理由に
女を格下げしようと目論んでるのが
痛いほどわかる構成なのだw

いや、罪を犯したのはイヴ個人で
その罪を人類の女全員が背負う必要なんて
どこにある?!

と、正論をのたまえるのは
自分が現代日本人の女だからで
砂漠や荒野で厳しい自然に晒されて
ギリギリで生きてるような民族に生を受け
ましてや男に生まれてて
しかも族長の立場であったなら
女のまともな意見に対して
いちいち納得して従ってたら
一族は飢え死にするしかなかったのだろう。(´д`;)ギャボ

『旧約聖書』に話を戻すと
禁忌を犯したのが発覚したすぐ後で
罪が神に裁かれる部分では
以下のような原因譚が神の口から語られてる

蛇がなぜ4つ足で歩いてナイのか
女性がなぜ蛇を忌み嫌うのか
女性がなぜ出産の苦痛と夫への欲求を持つのか
男性(人)がなぜ土を耕すのか
男性(人)がなぜ土に返るのか(死ぬのか)

これらの答えが
古代のユダヤの民に生活信条とされたのだが
だから『旧約聖書』の偏った正義が
近代的な道徳から外れているのは致し方ナイ

そうして民族の価値観の相違について
熟考する題材として
『旧約聖書』が書物として存在するのは
ありがたいコトだと思う

イエス・キリストの登場で
『新約聖書』と一緒に勝手に編纂されたり
それをローマ・カトリック教会が
都合良く曲解してしまったりもしたが
それでもユダヤ民族の真意は慮るコトができる

とはいえ
現代日本人の立場から
科学的な見解を言わせてもらえば
男はその事実をスルーして認めナイが
イヴがアダムを助けるために創られたなら
アダムよりは出来が良かったと思われヽ(゚∀。)ノ

それに神が禁忌を設定しなければ
イヴは罪を犯す必要もなかったって話だが
なんで仕向けるようにエデンの園のど真ん中に
禁断の果実が生る木を植えてるんだか・・・

一方、パンドラの場合は
ゼウスは最初から人間を懲らしめるために
災いセット「パンドラ」を贈ってる。(゚д゚lll)ギャボ

プロメテウスこそが粘土で人間を作った
なんて異説もあるが
一般的にはヘシオドスに詠われてるように
人間の男は既に存在してて
プロメテウスが天上から盗んだ火を与えた

実は火だけでなく
ゼウスが糧を隠してた際にも
プロメテウスがゼウスを欺いて糧をも与えた

それは窮乏してた人間を哀れに思って
助けてあげたってだけで
それでゼウスが怒ってるのも
なんだかな~だが
そこでゼウスが人間を懲らしめるとか
本ト、なんだかな~(-_-;)

そうして人間に助力するプロメテウスに対して
ゼウスが騙してやろうと計画を立てて
そのために人間の女を創った

それじゃ人類には
パンドラが齎されるまで
女がいなかったって・・・Σ(゚д゚lll)ガーン
と、引っ掛かるであろうがそこはスルー推奨w

いや、「人間の女を創った」のでなく
鍛冶の神ヘパイストスに命じて
「女神に似せたモノを粘土でこしらえさせた」のだが
それは女神かと見紛う美貌に
プロメテウスが恋してしまうと想定してたからだ

これにパンドラと名付けて
神々から種々の能力と贈物を授けて
当初はプロメテウスに贈ったのだった

ところがプロメテウスは
名前の通りに考えが先立つ男で
怪しいと勘付いてパンドラを拒否したので
名前の通りに考えが及ばナイ男の
弟のエピメテウスが
パンドラに魅了されるままに
妻にしてしまったワケだ

エピメテウスの妻となったパンドラは
箱(壷)を開けてしまう

開けてはいけナイ【禁忌】の箱だったのに
好奇心にかられたパンドラによって開けられた

なんてこった!
【禁忌】を犯して
人類に厄災を齎したのが
女だった!!

先のイヴの寓話とは作者が同じと思える程
その筋立ての根本にある思想が似てるw

実際にこのパンドラなどは
イヴとダブって描かれてるがね

TABOO~パンドラ随想~

3月26日はSteven Tylerの誕生日で
なんと70歳だそう!

Aerosmithの音源は
CD1枚(※)しか持っておらず
グレイテスト・ヒッツ1973-1988

ヒットした曲には馴染みがあるが
アルバムのタイトルが思い浮かばなくて当然だw

40年近くも好きでいて
LIVEにも何度も足を運んでるワリには
筋金入りのにわかファンだったりするるる~

たまたま「パンドラの箱」とアマゾンで検索してみて
初めてAerosmithのBEST盤に
『パンドラの箱』てのがあると知った

これが「箱」ではなくて
『パンドラの匣』となるとRod Stewartだ

「匣」の字を使ってるトコロからして
この邦題をつけたディレクターは
太宰ファンかと睨んでた

それにしてもRod Stewartのアルバムは
原題が『Foolish Behavior』で
「愚かな行動」って意味で
パンドラなんてどこにも見当たらん

これってパンドラが禁忌を破ったのを
「愚かな行動」だとしてるとしたら
その太宰ファンのディレクターは
読みが深くても思考は短絡的なのだろうか?

パンドラはギリシア神話に出てくる人間の女の名で
「パンドラの箱(もしくは壺)」の挿話は
日本でもお馴染みで以下が概略だ

☆・・・☆・・・☆

プロメテウスが天上界から火を盗み
火が生物の中で唯一人類にだけ齎されたが
大神ゼウスはこれを許さなかった

プロメテウスの弟エピメテウスの結婚祝いに
ゼウスは箱(壷)を贈るが
これを開けるコトは許さなかった

花嫁が好奇心に勝てずに
この箱を開けてしまった途端
7種の災いが飛び出したので
人々は大いに憂えた

花嫁が慌てて閉じた箱の中には
前兆(または希望)だけが残った

この箱を開けた花嫁がパンドラだった

☆・・・☆・・・☆

プロメテウス(先に考える男の意)と
エピメテウス(後から考える男の意)の兄弟は
人間ではなく巨人族(Tytan)で
イアペイトスの子らだ

Tytan:ティタン(もしくはタイタン)と言えば
80年代のNew Wave of British Heavy MetalのBANDで
擦り切れる程、アルバムを聴いてたが
アマゾンで検索してみたら
唯一のアルバム『Rough Justice』が
今更(2017年に)CD化されてて
オンタイムのファンの自分には驚愕だった。(゚д゚lll)ギャボ

さて
人類初の女はパンドラでなくイヴ(エヴァ)で
更にパンドラはエピメテウスの嫁ではなく
『旧約聖書』のヤペテの息子の嫁とされてると
トマス・ブルフィンチは『ギリシア・ローマ神話』で
至極当然とばかりに以下のようにのたまう

 プロメーテウスとエピメーテウスとはイーアペイトスの息子でしたが、ミルトンはイーアペイトスをヤペテに変えているのです。

要するにエピメテウスの父親の名が「イアペイトス」で
「ヤペテ」と語感が近いって・・・
それだけかいなw

ノアの方舟で有名なノアには
3人の息子がいて
1人がヤペテ(他の2人はセムとハム)だが
ヤペテの息子となると
ゴメル、マゴグ、マダイ、ヤワン、
トバル、メシェク、ティラスと7人いて
いったいこの中の誰と誰が
プロメテウスとエピメテウスなのだ。(´д`;)ギャボ

またギリシア神話でも
ノアの方舟級の大洪水があったりするのだが
それはエピメテウスとパンドラの娘が
プロメテウスの息子と結婚した後の話だ

ノアとその息子ヤペテの時とは別に
子孫が再び大洪水にあったとは
『旧約聖書』の記述にはナイ

旧約聖書・創世記ギリシア神話
ノアの代ノアウラノス(妻はガイア)
ノアの息子の代セム、ハム、ヤペテイアペイトス
ノアの孫(ヤペテの息子)の代ゴメル、マゴグ、マダイ、ヤワン、トバル、メシェク、ティラスプロメテウス、エピメテウス(妻はパンドラ)
ノアの曾孫(ヤペテの孫)の代省略デウカリオーン(プロメテウスの息子)
ピュラ(エピメテウスとパンドラの娘)

ブルフィンチはどうも
ギリシア神話の辻褄が合わナイ部分を正すワリに
キリスト教には従順で
どんなに矛盾を孕んでても
『旧約聖書』には突っ込まナイようだヽ(゚∀。)ノ

まあパンドラのエピソードなど
所詮はイヴと同様に
単に【禁忌】を破った女の話として
その肝心な部分が伝われば
瑣末なコトは気にしなくて゚+.(・∀・)゚+.゚イイ
てのが男の身勝手な言い分なのだよ

女は【禁忌】を遵守して
男に仕えるべし!
不貞は禁ずるるる~!!

でも、むしろ男に貞節は守れまいw
美女に誘惑されれば
すぐさま破るだろうからなwww

そんな男の世迷言の呪縛に
初めて打ち勝った女が
ギリシア神話で世界一の美女と謳われた
スパルタ王妃だったヘレネだろうか?!

夫の留守中に他国の王子と駆け落ちをして
トロイ戦争の原因となったのだが
その双子の姉のクリュタイムネストラも
後に元夫を殺した現夫を
不貞の相手と共謀して殺害し
復讐を遂げた

むしろこの姉妹の母親は
スパルタ王妃レダで
白鳥に化けたゼウスと不貞して
この姉妹を産んでるので
もれなくレダこそが
夫である男(ましてや一国の王)に対して
裏切り行為をした初めての女だったのだろうか?!

テスの真意をキリスト教によって読み解く

トマス・ハーディの『ダーバヴィル家のテス』は
自分も含め、現代日本人の感覚では
登場人物の思考が理解し難かったりすると思われヽ(゚∀。)ノ

時代背景としては
1870年代のイングランドのドーセット地方の
マーロット村が舞台なのだが・・・

ドーセット地方ってのはこの辺りらすぃ(by Wiki)

19世紀後半のイングランドってコトで
ヴィクトリア女王(在位1837~1901)の治世で
比較的安定した世の中ではあった

そんなバックグラウンドで
テスもエンジェルもキリスト教徒には違いナイ

でもカトリックなのかどうか
そうでなかったら何派なのかが
翻訳されたモノだけでは確証に至らず
原文がThe Project Gutenbergにあったので
参照しながら検証してみた

テスが赤ん坊に自ら洗礼を施し
教会に埋葬してもらいに行くシーンでは
神父だか牧師だかが登場するが・・・

最初の方では
the parson of the parish とあって
単に教区の人(担当者)

最後の方で
the Vicar とあり
これは神の代理人を意味するので
まずプロテスタントでは使わなさそうだ

とは言え、カトリックだけでなく
英国国教会も使いそうなので
どちらかに限定するのは困難だ

とりあえずテスは熱心な信者ではなく
カトリックでも英国国教会でも
一般的なキリスト教信者であって
赤ん坊の洗礼に拘ってるトコロから
地獄や煉獄に恐れをなしてるコトは明白で
その事実にさえ裏付けが取れれば
どちらでもさして変わりはナイ

エンジェルは牧師ジェームズ・クレアの息子なので
明らかにプロテスタントだろうと踏んでたが
ジェームズ・クレアが傾倒してる人物が・・・

Wycliff, Hus, Luther, Calvin

カルヴィンときたら
やはり間違いなくプロテスタントで
だから牧師なのだと合点が行った

アレックはブルジョワの放蕩息子で
信仰心を持ち合わせてなかったようだが
何の因果なのか
エンジェルの父ジェームズ・クレアによって
メソジストに改宗してる旨の一文があり・・・

it is Alec d’Urberville, who has been converted to Methodism under the Reverend James Clare’s influence.

ジェームズ・クレアがメソジストなら
息子のエンジェルもそうなのか?

そしてアレックはテスを救うために
結局は信仰を捨てて
不信心者に逆戻りするのだがw

まあそういうワケで宗派は違えど
また信心深さも違えど
基本的に登場人物はキリスト教信者であり
キリスト教の教えが常識としてある

キリスト教圏では
中世より死後の世界が確証されてたが
例えば自分のような無神論者は
無条件で地獄や煉獄へ落ちるのだと
考えられてて・・・

神の御許(天国)に行き着くためには
魂の救済が必要不可欠なのだが
特にカトリックでは【洗礼】の秘蹟によって
この処置を施すのだ

換言すれば
【洗礼】を受けずに死ねば
地獄や煉獄行き確定との考えが
民間信仰レベルで根強い

テスの産んだ子は私生児だったため
【洗礼】を受けられずにいて
この子が死に瀕した際に
テスはその純粋な信仰心から
二重の負い目を持つ我が子が死んだら
地獄に落ちると確信する

二重の負い目・・・それは
私生児(=罪の子)であるコトと
【洗礼(=魂の救済処置)】が施されてナイコト

カトリックの信徒の地獄の概念は
凄まじく恐ろしいモノで
テスはふと思い巡らせただけで
居ても立ってもいられなくなったのだろう

とうとう自らの手で赤ちゃんに
【洗礼】を行うに至った

[1]水(聖水)で浄める
[2]名前(洗礼名)を付ける

【洗礼】の概要は以上の2項目と
かつてカトリックのシスターに教わった

やるコト自体は安易ではあるが
誰でもできるワケではなく
れっきとした授洗者(神父)が行わねば
【洗礼】の秘蹟とはならず・・・

それも承知の上で
テスが自ら【洗礼】を強行したのは
恐怖心から何もせずにはいられなかったのだろう

淡い望みと冷たくなった我が子を
胸に抱いたテスは教区の教会に赴いて
キリスト教徒として埋葬してもらうよう懇願する

もちろん神父は教義上
その子を認めるワケにはいかず
堕獄の集ばかりが眠る墓場に埋められた・・・

この堕獄の集とは
キリスト教の教義に適わぬ死に方をした者で
悪名高い酔っ払いや人殺しや自殺者
そして【洗礼】の秘蹟を齎されずに死んだ者だ

どんなに素晴らしい生き方をした人でも
無垢な乳幼児であっても
死ぬ前に【洗礼】を受けなければならんとは
キリスト教の唯一神は
どんだけ了見の狭いヤツで
どんだけ融通が利かナイヤツなんだかヽ(゚∀。)ノ

実際、神がいたとしても
死後の人間の魂をどう取り計らってるのかなんて
生きてる人間には知る由もナイだろうに
てのは、無神論者の勝手な思い込みではなく
ローマ・カトリック教会の教えこそが
そう貶めてしまってるのが痛いw

ルターはその痛さに耐えられなかったんだろう

いずれにせよ
信者がどれほど【洗礼】に重きを置いてるかは
無神論者にも理解はできる
(納得はできなくとも)

だからなるべく早く
子供に【洗礼】を受けさせたいのだろうし
極論として
生まれる前の子供の【洗礼】にまで
話が及んでしまうのもわかる

なんせ近代まで
乳幼児が死ぬ確率は現代とは比較にならナイほど高く
妊娠~出産時の死亡率も母子共に高かったのだ

ロレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』の
第1巻の第20章では
生まれる前の子供の【洗礼】
つまり嬰児の【洗礼】についての
ローマ・カトリック教会とソルボンヌ大学と
聖トマス・アクィナスの見解が
原注に記されてる

ローマカトリック教会の儀典書は、危急の際における出産前の子供の洗礼を指令しています――ただし、子供の体のいずれかの部分が授洗者の目にふれた時という条件付です。――ところがソルボンヌの博士たちは、1733年4月10日、彼らの間で行われた審議の結果、産婆の権限を拡大して、子供の体のいかなる部分も外にあらわれないときでも、注射によって(小なるカヌーレの使用により――つまり、注射器を用いて)洗礼を施すべきことを決定しました。――ここで甚だ不思議なのは、かの聖トマス・アキナスが、一方ではあのスコラ派神学の無数の紛糾錯雑したこんぐらかりを作るほうにもああいうきわ立った緻密な頭を持ちながら、この問題には大いに労力を傾注したあげくに、最後はこれを第二の不可能事として遂に断念してしまったことです。――「母胎内にある嬰児は、」(聖トマスは言っています)「いかなる手段によりてもこれに洗礼を施すを得ず」――何ということです、トマス様!トマス様!

現代日本に生息する無神論者からしたら
胎児に【洗礼】を施そうとするコト自体が
ナンセンスなのだが
聖水を注射器に仕込んで母胎に注入する
なんてグロテスクな方法には
どうしてそんな発想ができるのか
眉を顰めてしまう(-_-;)

しかもこの「母胎に注射器」を条件とすれば
【洗礼】が「有効」である
と認めたのがソルボンヌ大学とな。(゚д゚lll)ギャボ
いやいや、それを神も認めてるかどうかは
誰にもわからんて。(´д`;)ギャボ
しかし聖トマスは認めてませんから~ヽ(゚∀。)ノ

ちなみに作中では
「母胎に注射器」での【洗礼】の代わりに
主人公のトリストラム・シャンディは以下を提案してる

父親の精子の小人全員に対してならどうか?

精子全部を聖水で浄める
なんてのはもうやり方も想像を絶するなw

それにしても今でこそ
生まれる前に性別を知り得て
性別に見合った名前をつけるなんて
当たり前にできるようになったのだが
昔はそうはいかなかったのだから
もしかして「母胎に注射器」で【洗礼】を行うより
洗礼名をつける方が困難だったりして(-人-;)ナムアーメン

『ダーバヴィル家のテス』のあらすじと疑問点

トマス・ハーディの『ダーバヴィル家のテス』は
人生で3度通読してて
ナスターシャ・キンスキー主演の映画や
ジェマ・アタートン主演のリメイク版の映画を
何度も観てたりするも
余り好きな作品とは言い難いのは
共鳴・共感する部分が殆ど無いからだ

その中で次の一節は
初回に読んだ際の読書メモに残してた

道徳的な人間とは、どういう人間なのか?
さらに適切にいえば、道徳的な女とは、いかなる女をいうのか?
ある性格の美醜は、その人の業績にばかりあるものではなく、その目的と動機にあるのだ。
性格の真の歴史は、成し遂げられたことのあいだにあるのではなくて、意図されたことのあいだにあるのだ。

道徳、なんて言葉を他人に振り翳す人間ほど
不道徳の罠にかかった道徳的な女を
無責任に傷付けたりするモノだ

ヴィクトリア朝時代のイギリスの片田舎に
極貧で子沢山の一家の長女として生まれたのがテス

美しかったお蔭で
金持ちのアレックに見初められて愛人になり
家族を養うコトができるようになって
大団円♪

と、思いきや
テスは突然アレックの元を去る。(゚д゚lll)ギャボ

当初テスがアレックの強引さに戸惑ってたのは
処女ならではの抵抗で
そういうテスをアレックは愛しく思ったろうし
若くてハンサムで洒落者の男に
甘やかされてほだされナイ女はいナイから
そろそろテスもアレックに対して素直になる頃かな?

と、思った矢先に
突然アレックの元を去ったのだ。(´д`;)ギャボ

テスの突飛な行動に
アレックも呆然としただろうが
現代日本人の読者としては
当のアレック以上にあっけにとられた

アレックの何が嫌なのか?
単に愛人とゆー立場なのが嫌なのか?
既に純潔も失ったテスだのに
いったいどうしてこうも頑ななのか?

そしてもっと切実な問題として
テスはこれからどうやって家族を養うつもりなのか?!

よりを戻そうとするアレックを拒み続けるテスは
家族を養うために野良仕事に明け暮れて
厳しい日々に耐える

それだけならテスの姿は
とても感動的で心を打たれるが
意地を張らずにアレックの元に戻りゃ゚+.(・∀・)゚+.゚イイのに
と思えば同情の余地はナイ・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

そうして重労働に身をやつすテスは
エンジェルと出会った

そしてエンジェルが美しいテスを見初めるのはわかる
しかしテスがエンジェルを好きになるのは
なぜなのか、まるでわからん

無粋で意固地で自分勝手で夢見がちで
処女崇拝で男尊女卑の冴えナイ男だw

テスの不運は男の趣味が悪かったコトと
それを貫き通した我の強さかヽ(゚∀。)ノ

学生時代に初めて読んだ時から
ずっと疑問だったのは
非の打ちドコロのナイアレックの愛人の座から
テスがなぜ逃げ回ってるのかだ

一方で
覚束ナイエンジェルと正式に結婚しようと
テスがなぜ躍起になってるのかが
更に理解し難い

今になってやっと納得が行ったが
テスの思考や行動の全ては
恋愛感情でも損得勘定でもなく
信仰心から発したモノだったからだ

当のテスは信仰心だけを貫きたかったが
アレックはまるで悪魔のように誘惑して虜にした

生活苦から逃れて甘い夢を見せられて
幸せのぬかるみにはまってしまったテスだが
現実的に家族を養ってくためにも
もれなく捨てるべきだったのは
アレックではなくて信仰心だったのでは?
と、無神論者の自分は思う(-人-;)ナムアーメン

テスはアレックの元を去ってから
秘かに罪の子を産み、更にその子を亡くし
これまた信仰心ゆえに
無駄に自身を呪わしく感じてしまう

だからエンジェルに対しても
どうしても恋心より罪悪感が先に立ち
その罪の重さに耐えかねて
遂には告白してしまう

これはエンジェルに関しても言えるが
典型的な庶民=純粋なキリスト教の信徒、なので
恋愛感情よりも性欲よりも何よりも
信仰心が勝ってるるる~

テスが非処女であると
知った途端に拒んだエンジェルを
以前は単に恋人の裏切りに対する拒絶としか捉えられず
なんて器の小さい男だ、と軽蔑してた

でも実はテスが告白したのは
恋人への裏切りなんかではなかったのだ!

私生児を産んだ女=罪を犯した女
それもキリスト教では赦されざる罪だったのだから
エンジェルにしてみれば
地獄へ落ちるのが確定してる女に見えただろうw
そりゃあ逃げ出したくもなるって(゚*゚;)

だからそうして
一旦は逃げ出したはずのエンジェルが
ましてや牧師の息子であったのに
テスの元へ戻ったのは(遅過ぎたけど)
これこそが恋愛も性欲も信仰も超えた愛
真実の愛だったのではナイだろうか?

続・トルストイの『モーパッサン論』

トルストイは『モーパッサン論』において
モーパッサンのある部分を絶賛して
ある部分に対して残念がってる

モーパッサンの『女の一生』では
善良な女が不埒な夫と放蕩息子に悩まされるが
トルストイの解釈ではこの女が
『旧約聖書』の「ヨブ記」に譬えられてて
要約すると・・・
道徳的な女が不道徳な男に踏み躙られる不幸と
その不幸が誰にも理解されナイコトを
深く感動的に描いてると絶賛し
以降の長編、特に次いで書かれた『ベラミ』は
美しい純潔な魂と社会の堕落との衝突が
同じように描かれてても
不道徳な登場人物の方にこそ
作者が肩入れしてるように思えて
濡れ場における詳細な描写も
芸術性を損なってると残念がってる

モーパッサンがなぜ
トルストイにとって残念な長編を書いてしまうのかは
以下の言にあるように
トルストイも根本的にわかってはいる

 モーパッサンが出入りしていたサークルで、芸術が奉仕すべき美として昔も今も認められているのは、何よりもまず女、若い、美しい、しかも多くは裸体の女、それからその女との性的な交渉である。そう認めてきた人々の中には、単にモーパッサンの≪芸術≫上のすべての仲間、つまりが画家や彫刻家や小説家や詩人ばかりではなく、若い世代の教師たる哲学者もふくまれている。

しかし理解するコトと納得するコトは別なので
ルナンの『マルクス・アウレリウスについて』から
以下の言葉を批判的に引用してくる

キリスト教の欠陥はここにはっきりあらわれている。つまりキリスト教はもっぱら道徳的でありすぎるのだ。美は完全にしめ出されている。ところが、円満具足の哲学の眼からみると、美はうわべだけの長所、危険なもの、不都合なものであるどころではない。それは徳と同じく、神のたまものなのだ、美には徳に匹敵する価値がある。美しい女は天才や、徳の高い女と全く同じように、神の意図の一面、神の目的のひとつをあらわしている。美しい女はそのことを知っているからこそ、おのずと気位が高くなるのだ。美しい女は自分が体内に持っている無限の宝を本能的に感知する。(後略)

(後略)の後もトルストイは
ルナンの美女讃歌を延々と引用して
「宝石を身に付けたり、化粧をしたり、髪型や服装に凝ったり、
女がその美しさを際立たせるようとするのは正しい行い」
としてる部分に次のように
皮肉な解釈を入れてくるワケだ。(゚д゚lll)ギャボ

してみれば、この若い世代の指導者{ルナン}の考えでは、ようやく、現代にいたって、パリの裁縫師や理髪師がキリスト教の犯したあやまちをただし、美のために本来の、そして最高の地位を回復してやった、という訳である

有史以来
人類は不自然な生活を強いられてて
生物としての本能が蔑ろにされてきた

特定の時代や地域社会でしか通じナイような
独特の価値観が存在してるが
それらはいずれも誰かが
要するに人間が勝手に作った観念でしかなく
バックグラウンドを異にする者が
正しいか誤りかを論じるのはナンセンスだ

キリスト教が華美な女性を疎んじてるのを
美の表現者である芸術家や
美徳の体現者である哲学者が
反感を持論で展開するのまでは構わナイ

でもトルストイの反論は
それを曲解してて
ましてやパリの裁縫師や理髪師を
つまり、技能労働者をバカにした物言いは
所詮ドシア人(※)だって僻みで
世の中を舐めた資産家のお坊ちゃんの世迷言だ
お洒落なパリに憧れるド田舎者の無粋なロシア人、の略w

そう思えるので
自分が賛同できるのは
モーパッサンや同じサロンに集う人々の方
だった・・・そう、過去形なんである

今現在の姥(年老いた女)の自分にとっては
トルストイの見解もありに思える

再度、肝心な部分を引用すると・・・

何よりもまず女、若い、美しい、しかも多くは裸体の女、それからその女との性的な交渉である。

生物学的見地からすれば
この主張は全く持って正しく
生物は子孫を残すために
生殖を行う必要があり
その際にはお互いに
優先順位が同等でナイ性を選ばなくてはならず
またできるだけ若く(=体力があり)
そして美しい(=整ってる)相手を求めるのは
分子生物学(※)からしても正しい
生物をDNA単位から考察する学問

但し
人間以外の生物の場合は
性の優先順位(※)が高い雌に雄を選ぶ権利があり
雄の方こそが若さと美しさで雌に選別される
正確にはミトコンドリアの優位性

ところが人間社会は変わってて
どんなに若く美しい雄でも
それだけでは雌に選んでもらえナイ!

とゆーのも
雌には子供を産み育てる環境についても
十分に考慮する必要があるからで
そこで若さと美しさで劣ってる雄でも
社会的に優位だったり、財産を持ってたりすると
子供を産み育てる環境も好かろうと
選んでもらえたりする(よね?)

いや、子供でなく
雌自身が好い環境で生活したくて
ってのが本音か???
まあ雌の見解の真意については今回はスルーでw

男が女にアプローチをかける時に
本能的に近付いてしまうのが
若く美しい女であるのは至極当然だが
仮に若くも美しくもナイ女しかいなければ
そこは躊躇せずにか、多少は躊躇したとしても
その女に選んでもらおうとするのが
男の性なのだ

最終的に性衝動を何とかしてくれるのであれば
ぶっちゃけ何でも構わナイ、てのが
雄の真っ当な種蒔き本能なので
手当たり次第に攻略を試みてく内に
選んでもらえたらラッキー、てなモノだ

攻略する順番は手当たり次第なんかではナイと
反論するヤツもいるかもしれナイが
そこはきっと個々の好みが反映してると思うので
傍から見てれば手当たり次第なのだよ

理性によって制御してはいるが
箍が外れた男はそんなモノだろう(-_-;)

それにしても
男が女を選ぶ時に
若さの判別は簡単だが
美醜の基準は曖昧模糊としてて
若いけど美しくはナイ女と
若くはナイが美しい女となると
どちらを選ぶかは微妙なトコロだ

僅差で前者をオススメするのは
生物学的な理由による
妊娠の確率が高く
子育てをするのに十分な体力があるからだ
でも後者も妊娠可能な限り
選ばれたとしても間違ってはいナイ

換言すれば
妊娠の可能性が全くナイ女だけは
美醜を問わず男を選ぶ権利もなければ
またそういう女を男が受け入れてしまうのは
生物学的には間違ってるとも言えるヽ(゚∀。)ノ

だからって
若くも美しくもナイ女は男に愛される価値がナイ
と思うのは生物学的狭量による早計で
哲学的とか、もっと素朴な情によるとか
あるいはスピリチュアル(霊的)とか
愛される理由付けはいくらでもある

むしろ社会的とか生物学的な結び付きは
若さと美しさと条件に適えば
もれなく誰でも゚+.(・∀・)゚+.゚イイとも言える

でも人間同士が愛を育むのは
とある妙齢の男ととある妙齢の女が、でなくて
個対個であって
性別も年齢も容姿も思想も何もかも
お互いが受け入れられれば
それだけでいんじゃん?

社会的かつ生物学的に条件が適って
お互いに合意した結婚だとしても
持続させるには条件を保ち続けるのでなく
他の要素で愛を育んでいかなければ
意味がナイワケで
条件が変わっただけで
破綻して離婚に至るのがオチ

その脆さに気付かナイで
社会的かつ生物学的な条件を
保つコトだけに奔走してる状態を
「若い」とか「青い」と言う

『女の一生』のジャンヌは凡庸か非凡か?

19世紀のフランス文学にハマって
メリメの『カルメン』
フローベールの『ボヴァリー夫人』
モーパッサンの『脂肪の塊』『ベラミ』
そして『女の一生』を立て続けに読んでた時期があって
全てがたまたま杉捷夫(としお)訳だった

『カルメン』を読むまで
カルメンの人物像を誤解してて
男にとってのみ魅力的な女だと思ってたが
女としてでなく、人として
生き様がカッコ好くて感動したし
死に様がカッコ好過ぎたのは残念だった

『ボヴァリー夫人』は
ボヴァリー夫人たるエマ(エンマ)が
夢見がちで不倫にひた走り
見栄っ張りで借金まみれになるような
勘違いバカ女で嫌悪感を抱いたが
自殺で落とし前を付けたのは
理想と現実のギャップに気付いたからだろうし
気付けナイような教育しか受けておらず
気付かせてくれる人間関係も育めなかったので
相対的には憐憫の情を抱けなくもナイ

『脂肪の塊』だけは短編で
面と向かってそうとは呼ばれてナイが
「脂肪の塊」と称されて噂される娼婦が
ラストで嗚咽するトコロで
一緒に嗚咽してしまい
読後もしばし嗚咽したままで
平常心を取り戻すのに時間がかかった程で
必ず泣いてしまう物語の1つとなった

『ベラミ』はそんな『脂肪の塊』と同じ作者なのかと
疑念を抱いてしまう程のピカレスク度MAX小説で
女を食い物にしてのし上がる男が主人公で
読後にはスタンダールの『赤と黒』で
出世を目論むジュリアン・ソレルが
なんだが可愛く思えてきた

そして『女の一生』のヒロインのジャンヌは
読み進むほどに肩透かしを食らって
何一つ共感できナイままに反感を持ってしまい
いくら悲惨な目に遭おうと
同情の余地もナイ程に嫌気が差した

先に『脂肪の塊』等を読んでおらず
『女の一生』一作だけだったら
モーパッサンを過小評価してたと思われw

美しくしなやかでスリリングな人間が好きで
特に女性は稀有な美貌によって
既にモラル的な是非は超越してるような美女だと
非凡な言動に魅せられ、心惹かれるのだが
するコトなすコト凡庸なジャンヌは
つまらナイ女の代表なのだ。(´д`;)ギャボ

でもそんなコトはタイトルで察するべきだった!
非凡な女の境涯が描かれてる作品は
『カルメン』や『ボヴァリー夫人』や『脂肪の塊』のように
その女の呼び名を冠してるのだが
『女の一生』は原題もそのまま『Une vie』で
不特定な女のままある人生、なのだよ。(゚д゚lll)ギャボ

そんな凡庸なジャンヌだが
父親のパーソナリティは実に興味深い!
93年を苦々しく思いつつ
革命の起爆剤となったであろう
ジャン・ジャック・ルソーの自然崇拝を
従来のキリスト教よりは信奉する!!

93年・・・1793年はルイ16世が処刑された年で
この年を苦々しく思うのは貴族だからだが
それだけの単純なキャラクターではナイ
貴族と言っても田舎に居を構えて
自然の中でのびのびと育ったせいか
貴族特有の高慢な性質も
悠然とした性格にすっかり呑み込まれてしまってて
周囲に不快感を与えるほど露呈しナイのだ
男気がある、とゆー程度

そして更にキリスト教には懐疑的で
ルソーの自然主義に共感を覚えてる点で
自分にとっては基本的に理解し合える相手だ

以上の父親についてのプロフィールは冒頭にあり
物語が進む中で少しづつ過去も解き明かされ
若い時にはなかなかどうしてやんちゃだったようで
情に脆く、感動しやすく
単に善良ではナイ心根の良さを持ち合わせてるぽい

その妻でありジャンヌの母親でもある婦人は
この父親に比すれば影が薄い存在だが
途中でいきなり意外な過去が発覚したりするるる~

そんな両親にしては
娘のジャンヌが主人公でありながら凡庸なのは
多感な時期に修道院にやられてたのが
原因と思われ。(´д`;)ギャボ

そんなワケで『女の一生』は
自分的には駄作と打ち捨ててたのだが
アラフォーになって違う訳で読み返してみたら
ジャンヌは凡庸だなんて
一言で簡単に片付けられなくなってた

ジャンヌの生活や人生に対する無欲さが
常軌を逸してるレベルで
非凡なコトに改めて気付いたのだ。(゚д゚lll)ギャボ

そしてジャンヌの全ての悲運は
その無欲さによるモノだとも思えてきた

例えば「金が欲しい」と思うから
働く(正攻法)、強奪する(非合法)
あるいはジャンヌの息子のように無心するのだが
無欲なので得ようと思わず
何のアクションも起こさずにいるし
逆に息子にたかられるままに
じゃんじゃん与えてしまえるのだ

浮気を放置しっ放しのダンナに対しても
悲しむだけで何の働きかけもしナイのは
単に裏切られたのが悲しいだけで
ダンナを欲してナイからだ

むしろダンナに限らず男が欲しくナイのだろう
そこはレズビアンの自分には唯一共感できる部分だw
ダンナにも他の男にも心や身体が傾くコトがなく
だから関心をすら惹く気がなく
女として美しくあろうなどと思いつきもせず
無欲なのだ

とはいえ、ジャンヌは冷酷な人間でもなく
フツーに愛情を育めるタイプだが
それを子供にだけ注いでしまったコトで
しかも庇護や過保護が過分に含まれてたせいで
息子の放蕩三昧が歯止めの利かナイレベルに達したのだ

ジャンヌはこの時代の良家の奥様にしては
赤ん坊を乳母に任せずに
自身で育てたのも珍しいってか変わってるが
乳母に任せっきりの育児に対して
「おかしいだろう?」と意見したのがルソーなので
さすが父親がルソー崇拝者だけのコトはある

でもジャンヌ自身はきっと
ルソーの教育論『エミール』を読んでおらず
だから息子を甘やかし過ぎて
ダメンズに育て上げてしまったんだろうヽ(゚∀。)ノ

ジャンヌは他の本もロクに読んでなかったから
その無味乾燥とした人生の中で
唯一感動したのがキリスト教なのは
もれなく当たり前の話だなw

『聖書』が世界的なベストセラーなのは
本を読まナイ大多数が唯一読んだ本だからだなwww

でもジャンヌはこれも父親の影響なのか
結果としては敬虔な信者にはならなかったのだ
教会に通ったりしなかったし
子供にも信仰を強要しなかった

なんせ子供の聖体拝受をどうしようか迷ってるのだ
同じくモーパッサンの『メゾン テリエ』では
娼婦が娘に聖体拝受をさせる話で
これは信仰心よりも親心で
堅気の子のように体裁を整えてやるんですが
それと比べたらジャンヌの信仰心は
恐らく娼婦にも異端視されるほどなんだろう

つまりジャンヌは人生には受身で翻弄されてても
決して世間には流されておらず
凡庸な人生を非凡に生き抜いたがために
不幸に身をやつした気がしてきた