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19世紀のフランス文学にハマって
メリメの『カルメン』
フローベールの『ボヴァリー夫人』
モーパッサンの『脂肪の塊』『ベラミ』
そして『女の一生』を立て続けに読んでた時期があって
全てがたまたま杉捷夫(としお)訳だった

『カルメン』を読むまで
カルメンの人物像を誤解してて
男にとってのみ魅力的な女だと思ってたが
女としてでなく、人として
生き様がカッコ好くて感動したし
死に様がカッコ好過ぎたのは残念だった

『ボヴァリー夫人』は
ボヴァリー夫人たるエマ(エンマ)が
夢見がちで不倫にひた走り
見栄っ張りで借金まみれになるような
勘違いバカ女で嫌悪感を抱いたが
自殺で落とし前を付けたのは
理想と現実のギャップに気付いたからだろうし
気付けナイような教育しか受けておらず
気付かせてくれる人間関係も育めなかったので
相対的には憐憫の情を抱けなくもナイ

『脂肪の塊』だけは短編で
面と向かってそうとは呼ばれてナイが
「脂肪の塊」と称されて噂される娼婦が
ラストで嗚咽するトコロで
一緒に嗚咽してしまい
読後もしばし嗚咽したままで
平常心を取り戻すのに時間がかかった程で
必ず泣いてしまう物語の1つとなった

『ベラミ』はそんな『脂肪の塊』と同じ作者なのかと
疑念を抱いてしまう程のピカレスク度MAX小説で
女を食い物にしてのし上がる男が主人公で
読後にはスタンダールの『赤と黒』で
出世を目論むジュリアン・ソレルが
なんだが可愛く思えてきた

そして『女の一生』のヒロインのジャンヌは
読み進むほどに肩透かしを食らって
何一つ共感できナイままに反感を持ってしまい
いくら悲惨な目に遭おうと
同情の余地もナイ程に嫌気が差した

先に『脂肪の塊』等を読んでおらず
『女の一生』一作だけだったら
モーパッサンを過小評価してたと思われw

美しくしなやかでスリリングな人間が好きで
特に女性は稀有な美貌によって
既にモラル的な是非は超越してるような美女だと
非凡な言動に魅せられ、心惹かれるのだが
するコトなすコト凡庸なジャンヌは
つまらナイ女の代表なのだ。(´д`;)ギャボ

でもそんなコトはタイトルで察するべきだった!
非凡な女の境涯が描かれてる作品は
『カルメン』や『ボヴァリー夫人』や『脂肪の塊』のように
その女の呼び名を冠してるのだが
『女の一生』は原題もそのまま『Une vie』で
不特定な女のままある人生、なのだよ。(゚д゚lll)ギャボ

そんな凡庸なジャンヌだが
父親のパーソナリティは実に興味深い!
93年を苦々しく思いつつ
革命の起爆剤となったであろう
ジャン・ジャック・ルソーの自然崇拝を
従来のキリスト教よりは信奉する!!

93年・・・1793年はルイ16世が処刑された年で
この年を苦々しく思うのは貴族だからだが
それだけの単純なキャラクターではナイ
貴族と言っても田舎に居を構えて
自然の中でのびのびと育ったせいか
貴族特有の高慢な性質も
悠然とした性格にすっかり呑み込まれてしまってて
周囲に不快感を与えるほど露呈しナイのだ
男気がある、とゆー程度

そして更にキリスト教には懐疑的で
ルソーの自然主義に共感を覚えてる点で
自分にとっては基本的に理解し合える相手だ

以上の父親についてのプロフィールは冒頭にあり
物語が進む中で少しづつ過去も解き明かされ
若い時にはなかなかどうしてやんちゃだったようで
情に脆く、感動しやすく
単に善良ではナイ心根の良さを持ち合わせてるぽい

その妻でありジャンヌの母親でもある婦人は
この父親に比すれば影が薄い存在だが
途中でいきなり意外な過去が発覚したりするるる~

そんな両親にしては
娘のジャンヌが主人公でありながら凡庸なのは
多感な時期に修道院にやられてたのが
原因と思われ。(´д`;)ギャボ

そんなワケで『女の一生』は
自分的には駄作と打ち捨ててたのだが
アラフォーになって違う訳で読み返してみたら
ジャンヌは凡庸だなんて
一言で簡単に片付けられなくなってた

ジャンヌの生活や人生に対する無欲さが
常軌を逸してるレベルで
非凡なコトに改めて気付いたのだ。(゚д゚lll)ギャボ

そしてジャンヌの全ての悲運は
その無欲さによるモノだとも思えてきた

例えば「金が欲しい」と思うから
働く(正攻法)、強奪する(非合法)
あるいはジャンヌの息子のように無心するのだが
無欲なので得ようと思わず
何のアクションも起こさずにいるし
逆に息子にたかられるままに
じゃんじゃん与えてしまえるのだ

浮気を放置しっ放しのダンナに対しても
悲しむだけで何の働きかけもしナイのは
単に裏切られたのが悲しいだけで
ダンナを欲してナイからだ

むしろダンナに限らず男が欲しくナイのだろう
そこはレズビアンの自分には唯一共感できる部分だw
ダンナにも他の男にも心や身体が傾くコトがなく
だから関心をすら惹く気がなく
女として美しくあろうなどと思いつきもせず
無欲なのだ

とはいえ、ジャンヌは冷酷な人間でもなく
フツーに愛情を育めるタイプだが
それを子供にだけ注いでしまったコトで
しかも庇護や過保護が過分に含まれてたせいで
息子の放蕩三昧が歯止めの利かナイレベルに達したのだ

ジャンヌはこの時代の良家の奥様にしては
赤ん坊を乳母に任せずに
自身で育てたのも珍しいってか変わってるが
乳母に任せっきりの育児に対して
「おかしいだろう?」と意見したのがルソーなので
さすが父親がルソー崇拝者だけのコトはある

でもジャンヌ自身はきっと
ルソーの教育論『エミール』を読んでおらず
だから息子を甘やかし過ぎて
ダメンズに育て上げてしまったんだろうヽ(゚∀。)ノ

ジャンヌは他の本もロクに読んでなかったから
その無味乾燥とした人生の中で
唯一感動したのがキリスト教なのは
もれなく当たり前の話だなw

『聖書』が世界的なベストセラーなのは
本を読まナイ大多数が唯一読んだ本だからだなwww

でもジャンヌはこれも父親の影響なのか
結果としては敬虔な信者にはならなかったのだ
教会に通ったりしなかったし
子供にも信仰を強要しなかった

なんせ子供の聖体拝受をどうしようか迷ってるのだ
同じくモーパッサンの『メゾン テリエ』では
娼婦が娘に聖体拝受をさせる話で
これは信仰心よりも親心で
堅気の子のように体裁を整えてやるんですが
それと比べたらジャンヌの信仰心は
恐らく娼婦にも異端視されるほどなんだろう

つまりジャンヌは人生には受身で翻弄されてても
決して世間には流されておらず
凡庸な人生を非凡に生き抜いたがために
不幸に身をやつした気がしてきた

道徳、なんて言葉を他人に振りかざす人間ほど
不道徳の罠にかかった道徳的な女を傷つけたりするモノだ

【映画パンフ】テス ロマン・ポランスキー ナスターシャ・キンスキー

道徳的な人間とは、どういう人間なのか?
さらに適切にいえば、道徳的な女とは、いかなる女をいうのか?
ある性格の美醜は、その人の業績にばかりあるものではなく、その目的と動機にあるのだ。
性格の真の歴史は、成し遂げられたことのあいだにあるのではなくて、意図されたことのあいだにあるのだ。

トマス・ハーディの『ダーバヴィル家のテス』の中で1番心に沁みる部分だ

テス 上 (岩波文庫 赤 240-1)テス 下 (岩波文庫 赤 240-2)

以下、『ダーバヴィル家のテス』のあらすじと疑問点

☆・・・☆・・・☆

ヴィクトリア朝時代のイギリスの片田舎に
テスは極貧で子沢山の一家の長女として生まれたが
美しかったお蔭で金持ちのアレックに見初められて愛人になり
家族を養うコトができるようになって
大団円♪

と、思いきやテスは突然アレックの許を去る。(゚д゚lll)ギャボ

当初テスがアレックの強引さに戸惑ってたのは処女ならではの抵抗で
そういうテスをアレックはますますかわいく思っただろうし
若くてハンサムで洒落者の男に甘やかされてほだされナイ女はいナイから
テスもそろそろアレックに対して素直になる頃かな?

と、思った矢先に突然アレックの許を去ったのだ。(´д`;)ギャボ

テスの突飛な行動にアレックも呆然としただろうが
現代日本人の読者としては当のアレック以上にあっけにとられた

アレックの何が嫌なのか?単に愛人とゆー立場なのが嫌なのか?
既に純潔も失ったテスがいったいどうしてこうも頑ななのか?

そしてもっと切実な問題として
テスはこれからどうやって家族を養うつもりなのか?!

よりを戻そうとするアレックを拒み続けるテスは
家族を養うために野良仕事に明け暮れて厳しい日々に耐える
それだけならテスの姿はとても感動的で心を打たれるが
意地を張らずにアレックの許に戻りゃ゚+.(・∀・)゚+.゚イイのに、と思うと
どうにもバカバカしくなってくるるる~・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

そうして重労働に身をやつすテスはエンジェルと出会った

エンジェルが美しいテスを見初めるのはわかる
しかしテスがなぜエンジェルを好きになるのかはまるでわからん
無粋で意固地で自分勝手で夢見がちで処女崇拝で男尊女卑の冴えナイ男だw
テスの不運は男の趣味が悪かったコトとそれを貫き通した我の強さかヽ(゚∀。)ノ

学生時代に初めて読んだ時からずっと疑問だったのは
テスがなぜ非の打ちドコロのナイアレックの愛人の座から逃げ回り
一方で覚束ナイエンジェルと結婚しようと必死だったのか?

今になってやっとわかったがテスの思考や行動の全ては
恋愛感情でも損得勘定でもなく信仰心から発したモノだったのだ

当のテスは信仰心だけを貫きたかったが
アレックはまるで悪魔のように誘惑して虜にした
甘い夢を見せられて幸せのぬかるみにはまってしまったテスが
それに気づいた時にもれなく捨てるべきだったのは
アレックではなくて信仰心だったのでは?・・・まあ捨てられナイだろうがな

そうして罪の子を産み、更にその子を亡くし
これまた信仰心ゆえに無駄に自身を呪わしく感じてしまう
だからエンジェルに対してもどうしても恋心より罪悪感が先に立ち
その罪の重さに耐えかね、ついには告白してしまう

これはエンジェルに関しても言える
典型的な庶民=純粋なキリスト教の信徒、なのだからして
恋愛感情よりも性欲よりも信仰心が勝ってるるる~

テスが非処女であると知った途端に拒んだエンジェルを
以前は単に恋人の裏切りに対する拒絶としか捉えてなかったので
なんて器の小さい男だ、と軽蔑してた
でも実はテスが告白したのは恋人への裏切りなんかではなく
私生児を産む、とゆーキリスト教では赦されざる罪を犯してた事実で
エンジェルにしてみれば地獄へ落ちるのが確定してる女に見えただろうから
そりゃあ逃げ出したくもなるってものだ

だからそうして一旦は逃げ出したはずのエンジェルが
ましてや牧師の息子であったのにテスの元へ戻ったのは(遅過ぎたけど)
これこそが恋愛も性欲も信仰も超えた愛だったのではナイだろうか?

17世紀フランスの幾何学者パスカルの著書『Pensées(パンセ)』は
仏語で「思想」「思考」の意だが『パンセ』としたのはパスカル本人ではナイ

NHK「100分de名著」ブックス パスカル パンセパスカル『パンセ』 2012年6月 (100分 de 名著)

そもそも『パンセ』はパスカルの死後に出版されてて
『筑摩世界文学大系【13】デカルト パスカル』の「年譜」によれば
パスカルが『キリスト教弁証論』の構想に着手し始めたのは
34歳頃(1657年)だったのだが
その2年後には酷い衰弱状態に陥ってしまい
39歳の時(1662年)にはこの世を去ってしまってる

その『キリスト教弁証論』の遺稿(断片的なメモも含めて)が
『パンセ』として幾通りかに編纂されたのだが
パスカルが生き長らえて完成させてれば
『キリスト教弁証論』として出版されたはずだ

『パンセ』はそんな成立の事情により
各断章に割り振られた番号も全体の構成も版(編纂者)によって違い
どれもがパスカルからしたら不本意で
一旦書いても二重線で消してたりする部分が
そうしてあった、と断り書きをしながら載せられてたりもして
要するに未完の原稿が書きかけの状態のまま出版されてるのだから
当人からしたら冷や汗モノなのではなかろうか(;つД`)

しかし『パンセ』出版から300年以上を経た現代では
ブランシュヴィック版が一般的なようで
日本でも殆ど総てこの版の訳だと思われるが
それは最も合点がいく編集がなされてるからだろう

例えば「考える葦」についての記述がある2つの断章が
[347]及び[348]と連続してる(※)のは
なんとブランシュヴィック版だけだったりするのだヽ(゚∀。)ノ
例えば、ザカリー・トゥールヌール版が[183][107]
ルイ・ラフュマ全3巻が[200][113]、ルイ・ラフュマ完全版が[391][217]

ブランシュヴィック版の構成は以下だ

章(編) 松浪信三郎訳前田陽一と由木康の共訳断章番号
第1章精神および文体についてのパンセ精神と文体とに関する思想[1]-[59]
第2章神を持たない人間の悲惨神なき人間の惨めさ[60]-[183]
第3章賭の必然性について賭の必要性について[184]-[241]
第4章信仰の手段について信仰の手段について[242]-[290]
第5章正義、および現実の理由正義と現象の理由[291]-[338]
第6章哲学者哲学者たち[339]-[424]
第7章道徳と教理道徳と教義[425]-[555]
第8章キリスト教の基礎キリスト教の基礎[556]-[588]
第9章永続性永続性[589]-[642]
第10章象徴表徴[643]-[692]
第11章予言者預言[693]-[736]
第12章イエス・キリストについての証拠イエス・キリストの証拠[737]-[802]
第13章奇蹟奇跡[803]-[856]
第14章補遺、論争的断片論争的断章[857]-[924]

☆・・・☆・・・☆

パスカルの生きた時代(17世紀のフランス)は
ルネサンス(16世紀)と理性の世紀(18世紀)の間だった

ヨーロピアンの精神的支柱であるキリスト教が
中世の暗黒から抜け出て、ルネサンスの光明に曝され
不明瞭な部分を神に委ねずに解釈する人間が台頭してきたが
そんな先進的な思想を持つ先達にモンテーニュとデカルトがいた

2人ともパスカルと同じくフランス人だったが
モンテーニュはパスカルより一時代前に
デカルトはパスカルより一世代前(パスカルの父と同年代)に
キリスト教に対して真っ向から挑むような著述をした

それらがパスカルに『キリスト教弁証論(パンセ)』を書かせた
とゆー見解は『パンセ』を一読すれば瞭然で
とにかくモンテーニュとデカルトに対する反駁ばかりが目に付くのだ

なんせ自分などはパスカルの『パンセ』を読んでて
モンテーニュの『エセー(随筆)』や
デカルトの『方法序説』『省察』『情念論』を
読まずにはいられなくなったのだったw

モンテーニュとエセー (文庫クセジュ)

モンテーニュの『エセー』は
権威に対する懐疑主義的な皮肉が満載ながら
洒落のめしてて切れ味の゚+.(・∀・)゚+.゚イイ表現なのが
人文主義的美意識の高さを感じさせるので自分には好ましいが
その辺がキリスト教信奉者には疎ましいのだろう。(´д`;)ギャボ

加えて聖書の警句の引用がほとんど見当たらナイのと
それに比して古代ギリシア・ローマの哲学者の言を多用し
ましてや正論の論拠に用いてる部分も
ガチの信者には虫唾が走るような悪書の見本だったに違いナイし
実際、無神論の書として禁書扱いになってた

Que sais-je?(クセジュ?)
――我、何をか知らんや?

モンテーニュの発想はまるでソクラテスの無知の知だが
こういった節度を美徳とする古代ギリシア人気質が
分を弁えてる江戸っ子にもぐっとくるのだ

方法序説 (岩波文庫)

デカルトは前時代的なスコラ哲学をがっつり学んでて
神の存在をむしろ証明しようとしてたが
世界を神秘主義で結論付けてしまう思考停止に陥れずにいて
神の力に拠らずとも世界は成り立ってるし
そもそも世界が成り立ってるかどうか疑わしいのだが
そこを認識する際にはまず神の存在ありきではナイ
てな具合に遠回しにではあるが神を否定してしまった。(゚д゚lll)ギャボ

Cogito, ergo sum(コギト・エルゴ・スム)
――我思う、故に我在り

総てを疑わしく感じたデカルトがしたコトは
真の世界観の構築ではなく、世界の中の疑わしさの排除で
残ったのは疑念を抱く自分自身だけだったのだろうか?

偕成社の世界少女文学全集の『クォ・バディス』を
初めて読んだのは小学生の時だったが
30年近く経ってこの本と古本屋で再会したのをきっかけに
映画で『クォ・ヴァディス』を観たのは2006年5月

クォ・ヴァディス [Blu-ray]

『クォ・バディス』から引用すれば主役のビニキウス(ヴィニシウス)は

たくましいからだとととのった目鼻だちとをそなえたビニキウスは、いかにもローマの青年貴族らしく、きびきびしていた

遠く北ペルシアの戦いにおもむき、大いに手柄をたてて凱旋した

などとあるので、原作ではヴィニシウスは
凛々しいラテン系美青年で、軍隊での出世を夢見る若者で
未婚であるコトから、恐らく20歳そこそこの設定だと思われたので
ロバート・テイラーの起用には困惑したのだが
それは単純に実年齢が倍の四十路(※)だったってだけではナイ
1951年作のこの映画出演時には1911年生まれのロバート・テイラーは40歳

趣味の権威者である叔父のペトロニウスが
彫刻家がヘラクレス像のモデルにしたがるような、と形容してるので
ヴィニシウスはヘラクレスを彷彿とさせる青年貴族で
確かに、ロバート・テイラーもヘラクレスレベルの容貌ではあるが
顔に瑞々しさがナイのが致命的に役に合ってなかったのだ。(゚д゚lll)ギャボ

なんせ惚れた女に洗脳されて、改心してキリスト教徒になり
持ち前の正義感を発揮して、仲間の救出に尽力するようになるのだが
結果、叔父ペトロニウスを裏切り、皇帝ネロに反目する

簡潔に表現すれば青二才なのだが
ローバート・テイラーではとてもそうは見えん。(´д`;)ギャボ
女のために信念を曲げるなんて以ての外だろうし
そもそも胡散臭い新興宗教にかぶれてるような女は相手にしナイだろうw

それに加えて、往年の超A級ハンサム俳優だったのが鼻についた
てか、推測するに年を追う毎に人気が低迷してきたので
起死回生を懸けて身体を鍛え上げてアクションスターへ転向(を計った第1作目)
らしい意気込みが見て取れてしまうのが痛かった

とはいえ、顔が引き締まってもまだ甘さを兼ね備えてて
その辺りがこの人の最大の武器なんだろうが
どんなに荒々しく傍若無人に振舞ってもいかんせん甘いのだ!
そこに頑なな聖少女さえもつい心を許してしまうのはわかるるる~!!

こうしてヴィニシウスの年齢設定があがったせいで
相手役の年齢設定もあがったのだろう
『クォ・バディス』にはアウルス将軍の息子とボール遊びをして
頬を紅潮させてるリギア(リジア)の挿絵があったので
せいぜい16~17歳と推定してたが演じてたデボラ・カーは当時30歳ヽ(゚∀。)ノ

尤もその神々しいまでの美貌で年齢を超越してたし
リジアを本トに10代の少女が演じてたら
ヴィニシウスとのロマンスに無理があるだろう

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また『クォ・バディス』によればリジアの容貌は

黒いふさふさした髪を持ち

夢の楽園の天使のよう

などとあるので、『緑園の天使』でのエリザベス・テーラー(※)を思い浮かばせてて
ブロンドのゴージャス美人のリジアには面食らったのだが
所詮ヴィニシウスとリジアは架空の人物だから
ハリウッド風だとこれで゚+.(・∀・)゚+.゚イイのかもな
映画『クォ・ヴァディス』を検索してたら、リジアに扮してるリズの写真を発見!
う~ん、『緑園の天使』の頃ならよかったけど、この頃はもう色っぽ過ぎてリジアにはミス・キャストだ

デボラ・カーはこの後『ジュリアス・シーザー』にも出てて
ブルートゥスの妻を演じてて圧倒的な美しさを誇ってる
『黒水仙』での尼僧姿も、『キング・ソロモン』での探検家スタイル(?)でも
その美麗さには遜色がなく、むしろ装飾を取り払ってしまってこそ
この人はますます光り輝いて見える本物の美女だが
『クォ・ヴァディス』ではキリスト教の敬虔な信者で不遇な身上(※)ゆえに
その美しさには泥沼に咲く蓮のような清らかさが満ちてる
リジア国(もしくは民族)の王(あるいは長)の娘で戦争孤児

また、バレエをやってた人特有の無駄な脂肪がナイ肢体を
三十路過ぎても保ってて、特に二の腕は賞賛に値する・・・ホゥ(*-∀-)

主役にロバート・テイラー、相手役にデボラ・カー
このキャスティングだけでハリウッド映画としては既に成功してるが
歴史大作としてはやはり主役の美男美女だけでは納得できナイ
ネロ、ペトロニウス、セネカ、ペテロなど
実在した人物のキャスティングの妙にこそ真価が凝縮される

自分はキャラ的にペトロニウスが大のお気に入りだが
レオ・ゲンのペトロニウスは奴隷のユーニスとセットでよかった
てか、ユーニスが良過ぎた、美し過ぎるのだよ

ネロはローマ皇帝の中では1番好きなのだが
ピーター・ユスティノフのネロもなかなか可愛くて
ポッパエアの毒女ブリと好対照だった

惜しむらくはもう少しセネカに活躍して欲しかったが
まあ史実的にもローマの大火の前に隠居してたからしかたナイ

但し、ローマの大火でネロが火付けを指図した、てのは
歴史的事実に反するだろうがね
だいたいネロに対する誹謗・中傷はキリスト教徒の陰謀でしかナイ

そんなコトを言ってる自分も初めて読んだ頃には
まだ世界観が確立してなくて流されがちだったせいか
迫害されるキリスト教徒に同情を禁じえず
逆にネロが悪の権化だと真に受けそうになってたのだがねw

幼少時からクリスマス・イヴにはミサに行ってた

信者ではナイが母娘2代に渡ってお世話になったシスターがいて
クリスマスを口実に会いに行ってたのが実情だが
ミサに参加すると必ず奇蹟が起きてたので
シスターが異動で遠くに行ってしまってからも
できる限りどこかのミサに足を運んだ

響きわたる音の神殿~パイプオルガン~ 酒井多賀志が語るその構造と歴史と音楽 [DVD]

ここ何年かはパイプオルガンの音色が気に入ってて
四ツ谷の聖イグナチオ教会に行ってるが
昨年は具合悪かったかで行けずに悔やまれたので
今年は是が非でも行こうと決心してた

しかし早朝から寒さ厳しく
夜遅く出歩くのは体力的にとても無理と思えたので
なるべく早い時間のミサに参加しようと明るい内に出かけて
着いたのは15時45分頃

なんとか16時半のミサに間に合えば・・・ラッキー!
間に合わなくても次回の18時には確実だ!!
毎度、1時間くらいはヨユーで待つので、そこは諦め半分w

既に長蛇の列ができてたので最後尾まで早足で進むと
パンフレットを手渡されて、すかさず
「あと5名です!」

ひょえ(゚ ゚;)

なるほど、パンフレットをもらえた人だけが
16時半からのミサに参加可能なワケだ
あとちょっと遅かったら18時のミサまで2時間15分待ちだったのが
45分・・・そう考えるとたった45分かね

外で並んで待ってる間は当然ながら寒かったが
昼間に買ったばかりの本を持ってきて読書に没頭してたので
寒さを辛く感じなかったし、すぐに入れた気がした

こういう時に人間の精神力の方が
体力を上回ってるとひしひしと感じ入るね

つまり状況から受け取るストレスよりも多くの快感を
自分自身に与えるコトができれば差し引きでチャラになるるる~

さて、聖堂の中はめちゃ混みで立ち見だったが
とにかくパイプオルガンが正面に見える左手奥に進み
ばっちり見える場所を陣取れた♪
司祭は見えなかったけどね・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

最初は『Silent Night』
閉めは『Joy to the World ! the Lord is come』

一昨年はやらなくてがっかりした『あめのみつかいの』の
「Gloria(※)」の部分も「♪Glo~ooooo~ooooo~ooooo~ria♪」と
気持ちよく熱唱できたので大満足(*^^*)
※Ziggyではナイw

閉会してもまだパイプオルガンの演奏が続く中で
余韻に浸る暇もなく退場して向かうのはお楽しみ袋の売り場

要するに福袋のようなモノで
キリスト教関連グッズとシスターの手作りお菓子が入ってて
以前は値段がなくて適宜¥1,000とか払ってた気がするが
今年は一律¥2,000となってた

実はクリスマスの奇蹟はこのお楽しみ袋に入ってるので
¥2,000で買えるなら安いモノだが
おみくじと同じでたくさん買ってしまうと無効な気がするので
1つだけ買って家路を急いだ

開けてみるとこんなカンジで色々入ってるのだが・・・

まずシスターの手作りお菓子は
ドライフルーツやナッツ入りのパンケーキで
翌朝(クリスマスの朝)美味しく頂いた(^▽^*)

そして入ってた奇蹟は2つの預言で
1つはマザー・テレサの本とポストカード3枚セット

そうだ!
自分はマザー・テレサのように生きたい!!
地球家族として総ての子供たちを慈しまなきゃあ・・・

マザー・テレサ日々のことば

もう1つは奏楽天使のオーナメントと楽譜柄のメモ

そか、何かしらミュージシャンとは縁がある運命なのだな
畏れず受け入れよう・・・

それにしても楽譜柄のメモ帳はどの辺りがキリスト教グッズなのやら?

幼少時からクリスマスのミサにはよく参加してた

超高音シャウトで讃美歌を歌うのが愉しみで
特にLes anges dans nos campagnes(あめのみつかいの)の
歌詞の一部をラテン語で歌えるのが気持ちよかった

Gloria in excelsis Deo!
(最高神に栄光あれ!)

ミサに行く目的の大半はこの部分を熱唱するコトにあり
近年では四ツ谷の聖イグナチオ教会でのパイプオルガンの伴奏が
大のお気に入りであるるる~

それにしてもこの日はカナ~リ寒くて
夕方には寒気→悪寒→発熱とゆー一連の体調予想ができたので
それを回避するために寒さに身体を慣らしておこうと
朝9時から散歩に出かけた

北の丸公園をうろうろしてたら
水辺に小鳥の大挙して押し寄せてきて
すかさず木陰に身を隠して息を殺して見守ってると
こちらには気づかずに1羽が接近してきた!

なんと目の前の30cmほどの至近距離の枝にとまり
くるりと振り返ってこちらを見たので
一瞬、目が合ってしまった!!

スズメより少し大きいくらいで
身体はオレンジ色で頭は黒っぽくて、顔の模様に特長があり
ホオジロのオスと判明♪

そんな奇蹟の瞬間の後は余韻に浸りながら
しばし水辺でのバード・ウォッチングを満喫して
すっかりにやけ顔になってから神保町へ

千代田区の消費生活支援事業「スタンプカード事業」の
¥10,000分が三省堂書店で使えるので
これで毎年クリスマスには
普段は買うのを躊躇するような高額な本を買うのだ

自分にとっては三省堂書店の4階の思想・哲学・宗教の辺りが
この世で最も煩悩に塗れてしまう場所で
あれもこれも欲しい本だらけで
吟味してるうちに新たに欲しい本が増えるばかりだw

いつのまにかプリニウスの『博物誌』が復刊してたりして
でも1冊¥6,000超えで全5巻は自分には無理っつ

プリニウスの博物誌〈第1巻~第6巻〉

全巻集める予定のプルタルコスの『モラリア』の中では
売り場に【8】しかなかったのでこれだけは即決

モラリア8 (西洋古典叢書)
ジョルダーノ・ブルーノの哲学―生の多様性へ (シリーズ・古典転生)
地中海の暦と祭り (刀水歴史全書)

毎度、思い悩んでは買わずにきてるブルーノの著作集は
今回こそ購入を決意してたのだがそんな時に限って店頭にはなく
でも『ジョルダーノ・ブルーノの哲学―生の多様性へ』は
むしろ買いだと思ってこれも即決した

と、2冊で既に¥8,000超えだ

ここであともう1冊を悩んだ末に『地中海の暦と祭り』にしたのは
1番興味深かったタンムズ(あるいはドゥムジ、もしくはアドニス)の
死と復活の祭礼について書かれてたからだ

このタンムズの死を嘆く女たちの声が
プルタルコスの『モラリア』の【5】にある逸話・・・
「大いなる神パンは死んだ」の天の声の正体なのだ
とゆー何か確たる証拠を掴みたいので
これは必須の資料と目論んだのだ

他にもクリスマスの起源となった異教の祭祀について
記述があるかもしれナイ、との期待もあった

最後まで買うかどうか迷いに迷ったが次回に持ち越したのは
『洞窟へ―心とイメージのアルケオロジー』と
京都大学学術出版会の『トロイア陥落せず:弁論集2』と
その他、デカルト、フーコー、キルケゴール、ヘーゲルとか
予算が余ったら堀口大學の『月下の一群』も
母親のを借りるのが面倒なので自分用を買いたかった

洞窟へ―心とイメージのアルケオロジー

トロイア陥落せず: 弁論集2 (西洋古典叢書)

それ以外に古本屋で
『現代思想』のユング特集号が¥400だったのと一緒に
値段はなかったが『ディオニュソスへの旅』をおそるおそるレジへ持ってくと
『ディオニュソスへの旅』は蛍光ペンのハイライトが多かったお蔭(?)で
なんと¥100だった

ディオニュソスヲタにしてみれば
この本との出会いだけで奇蹟だったと思えるが
値段が¥100てのは二重の奇蹟だったね

昭和生まれで子供の頃に星座の名の由来に興味があったなら
きっと野尻抱影の本を読んでただろう

自分ももれなくそんな一人で
ギリシア神話自体が野尻の著書で初めて読んだし
そこに鏤められた星座に纏わるエピソード群を拠点として
ギリシア(ローマ)神話の世界観が構築されてったが
一通りわかった気になったトコロで手放してしまって四半世紀経過ヽ(゚∀。)ノ

代わって、この10年来に何十冊もギリシア・ローマ神話の本を購入したが
読めば読むほど、その世界観が覆されてった。(゚д゚lll)ギャボ

同じエピソードでも著者によって内容がマチマチであり
しかも辻褄が合わナイのを無理矢理こじつけてたりするので
改めて神話に異説は付き物だと思い知った。(´д`;)ギャボ

所詮は神話であって
史実でナイのはもちろんだが単なる伝承や英雄伝説より信憑性に欠くし
そこに最初から真も偽もナイのだが
だからこそ自分にとって納得が行くように編纂して
真とすれば゚+.(・∀・)゚+.゚イイとも思うのだ

むしろ史実だって確実な事象は確固たる事実として脳内に留めるが
それ以上にその時代を担った人々の心理を読み解いて
真実がどうあったのかを思索するコトこそ
歴史を学ぶ意味があるるる~

総ての神話はぶっちゃけ人間による創作だろうが
神話を創り上げる過程においてどんな想いがあったのか
神や怪物は何の比喩で、英雄に映し出された理想の人間像は何の教訓か
そしてなぜ民族の中で信じられて伝えられてきたのか
そこを深読みするのが醍醐味なのだ(*^^*)

ニーチェとヘーゲル―ディオニュソス哲学の地下通路

それにしたってニーチェが『悲劇の誕生』で比喩に使うほど
アポロンもディオニュソスも明確な切り分けができるキャラクターではなく
逆にギリシア神話の神において最も近しい2柱とも言え
違うのは容貌の美醜と信奉されてる場所(神殿か森か)くらいだ

なんせ両者とも音楽と酒がついて回り
美女との恋愛には全く縁がナイ非モテなのだ・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

ツァラトゥストラ (中公文庫)

ニーチェついでに『ツァラトゥストラ』で「神は死んだ」てのがあるが
これはプルタルコスの『モラリア』【5】「神託の衰微について」に
船上で「大いなるパーンは死せり!」との天の声を耳にした逸話が載ってて
後世のご都合主義のキリスト教が
古代の総ての神に代わってイエス・キリストが唯一神になった
などと勝手に解釈したのだ(゚*゚;)

逸話自体に何の根拠もナイのに
それに対するまた更にまるで根拠のナイ解釈で
まともなおつむをしてたらとても納得できナイが
これを当然のように妄信してしまうキリスト教徒に危惧して
この台詞を逆手にとって皮肉を言ってるのだ

モラリア〈5〉 (西洋古典叢書)

だがしかし
自分にはこのプルタルコスの伝える逸話にどうも不信感を抱いてて
3年前にやっと邦訳された『モラリア』【5】を読んでみて
謎が解けた気がしたΣ(゚д゚lll)ガーン

まあ謎解きは長~くなるから後日にして
とにかく酒の神ディオニュソス(バッカス)と牧神パーンと
山羊の角と脚を持ったファウヌス、サテュロス、シレノスの類は
ギリシア・ローマ神話の中で混同されてるので
あちこち読み漁るほどに困惑が増すとゆー有り様なのだが
そんな迷宮から脱出するのには初心に帰るのが1番で
前述したかつての愛読書である野尻の『星の神話・伝説』を入手して
「やぎ座」の項目をたった2ページ読んで万事解決p(-_-+)q

 山羊といっても、魚の尾をしているふしぎな『海山羊』です。そして、これもいて座の半人半馬の怪人などとおなじく、西アジアの星座から伝わったもので、バビロニアの古い彫刻にこの姿が残っています。

そうなのだった!
これらの半獣神の起源はバビロニアの占星術由来なのだった!!
で、1年前に書いた記事[Goats Head Soup]を大幅に修正した(汗)

 パアンというのは、ギリシアの森林と野原の神で、山羊の角と、毛のはえたとがった耳で、足にもひずめがありました。
 彼はいつも山のほら穴に住み、いたってのんきで、遊び好きで、夕ぐれになると穴から出てきて、おなじ半人半獣のサチュロスと、森や谷川の精女(ニンフ)たちを追いまわしたり、ヨシの茎で作ったシリンクスという笛をふいて羊飼いや精女(ニンフ)たちとおどったりしていました。
 あるとき、神々がナイル川の岸で酒盛りをひらき、パアンはヨシの笛をふいて、興をそえていました。そこへ、怪物ティフォン(うお座参照)が現れたので、神々はあわてて、思い思いの形にかわってにげました。パアンも山羊になってナイル川にとびこんだのですが、水にひたった部分だけ魚の尾にかわり、外にでていた部分は山羊のままでした。
 このできごとの記念に、大神ゼウスが、その形を星座に伝えたといいます。しかし、これは、山羊の尾が魚になっているのを、むりに説明した話です。

スッ ━━━━━ ゚+.(゚∀゚)゚+.゚━━━━━ キリ!

ちなみに日本語版Wikipediaの山羊座の項目
出典は明らかにされてはいナイが間違いなく野尻のこの本だなw

うお座参照、とあるのでうお座も見てみるるる~

 この二ひきの魚は、愛の女神アフロディテーと、その子エロースとが、ユウフラテス川の岸を歩いていると、怪物ティフォーンがおどしにでてきたので、親子はあわてて川へとびこみ、魚にばけて逃げました。
 その記念にアテーネ女神が、二ひきの魚を星の間に加えたものと伝えられます。
 この神話は、やぎ座、みなみのうお座にも通じていますが、古代バビロニアでも、この星座を魚と呼んで、女神アシュタルテとその子になっていたので、それがギリシアに伝わって変化したものと思われます。アシュタルテは、ギリシアのアフロディテー(ヴィーナス)と同じ女神で、星では金星にあたります。

このバビロニアのアシュタルテは
アッシリア(アッカド語)のイシュタル由来で
イシュタルは元はと言えばシュメールのイナンナなワケだが
イナンナの夫がドゥムジ、イシュタルの夫・・・もとい愛人はタンムズとなり
このタンムズへの信仰が「大いなるパーンは死せり!」の
謎解きの鍵なのだ・・・愉しいねえ(^▽^*)

tristram-shandy

キリスト教には【洗礼】なる儀式があり
この儀式をせずに死ぬのは信者にとって途轍もなく恐ろしいらしい

なんせキリスト教では死後の世界を確証してて
例えば自分のような無神論者は無条件で地獄や煉獄へ落ちるとされてるるる~

洗礼の外気ドイツ Rummelsburger 宗教 1902 年

神の御許=天国、に行き着くためには魂の救済が必要不可欠で
特にカトリックでは【洗礼】の秘蹟によってこの処置を施すのだそうだ

このカトリックの教えが民間信仰として根強いと確信したのは
トマス・ハーディの『ダーバヴィル家のテス』を再読した時(数年前)だった

テスの産んだ子は私生児だったため【洗礼】を受けられずにいて
この子が死に瀕した際にテスはその純粋な信仰心から
私生児=罪の子、であるコトと【洗礼】=魂の救済処置、が施されてナイコトの
二重の負い目を持つ我が子が死んだら地獄に落ちると確信する

カトリックの信徒が叩き込まれてる地獄の概念はテスにとっては凄まじく
思い巡らせばもう居ても立ってもいられなくなったのだろう
とうとう自らの手で赤ちゃんに【洗礼】を行うに至る

[1]水(聖水)で浄める
[2]名前(洗礼名)を付ける

かつて自分がカトリックのシスターに教わった【洗礼】の概要もこの2つで
思いの外やるコト自体は安易ではあるが誰でもできるワケではナイ
れっきとした授洗者(神父)が行わねば【洗礼】の秘蹟とはならナイのだが
それもおそらく承知の上でテスが【洗礼】を強行したのは
恐怖心から何もせずにはいられなかったのだ

淡い望みと冷たくなった我が子を胸に抱いて
キリスト教徒として埋葬してもらうよう神父に依頼しに行くテスだったが
神父は教義上、その子をキリスト教徒と認めるワケにはいかず
堕獄の集ばかりが眠る墓場に埋められるコトになった

この堕獄の集とはキリスト教の教義に適わぬ死に方をした者で
悪名高い酔っ払い、自殺者、そして【洗礼】の秘蹟を齎されずに死んだ者だ
どんなに素晴らしい生き方をした人でも無垢な乳幼児でも
死ぬ前に【洗礼】を受けなければ地獄行きなのだよヽ(゚∀。)ノ

神ってどんだけ了見の狭いヤツなんだかw

いや、実際に神がどう取り計らってるのかは知る由もナイが
無神論者が神に対してそう感じてしまうのは勝手な思い込みではなく
ローマ・カトリック教会の教えが貶めてるのにほかならナイのだ

しかしとりあえず信者がどれほど【洗礼】に重きを置いてるかは
無神論者にも納得はできなくとも理解はできる
だからなるべく早く子供に【洗礼】を受けさせたいのだろうし
極論として生まれる前の子供の【洗礼】にまで及んでしまうのもわかる
なんせ近代まで子供が死ぬ確率は現代とは比較にならナイほど高く
妊娠~出産時の死亡率も母子共に高かったのだ

ロレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』の第1巻の第20章では
生まれる前の子供の【洗礼】、つまり嬰児の【洗礼】についての
ローマ・カトリック教会とソルボンヌ大学と聖トマス・アクィナスの見解が
原注に以下のように記されてる

ローマカトリック教会の儀典書は、危急の際における出産前の子供の洗礼を指令しています――ただし、子供の体のいずれかの部分が授洗者の目にふれた時という条件付です。――ところがソルボンヌの博士たちは、1733年4月10日、彼らの間で行われた審議の結果、産婆の権限を拡大して、子供の体のいかなる部分も外にあらわれないときでも、注射によって(小なるカヌーレの使用により――つまり、注射器を用いて)洗礼を施すべきことを決定しました。――ここで甚だ不思議なのは、かの聖トマス・アキナスが、一方ではあのスコラ派神学の無数の紛糾錯雑したこんぐらかりを作るほうにもああいうきわ立った緻密な頭を持ちながら、この問題には大いに労力を傾注したあげくに、最後はこれを第二の不可能事として遂に断念してしまったことです。――「母胎内にある嬰児は、」(聖トマスは言っています)「いかなる手段によりてもこれに洗礼を施すを得ず」――何ということです、トマス様!トマス様!

現代日本に生息する無神論者からしたら
胎児に【洗礼】を施そうとするコト自体がナンセンスなのだが
聖水を注射器に仕込んで母胎に注入する、なんてグロテスクな方法には
どうしてそんな発想ができるのか、眉を顰めてしまうが
この「母胎に注射器」を条件とすれば【洗礼】が「有効」と認める、となヽ(゚∀。)ノ
いやいや、それを神も認めてるかどうかは誰にもわからんて。(´д`;)ギャボ

ちなみに作中では「母胎に注射器」での【洗礼】の代わりに
主人公のトリストラム・シャンディは以下を提案してる

父親の精子の小人全員に対してならどうか?

精子全部を聖水で浄める、なんてのはもうやり方も想像を絶するなw

それにしても今でこそ生まれる前に性別を知り得て
性別に見合った名前をつけるなんてコトが当たり前にできるのだが
昔はそうはいかなかったのだから
もしかして「母胎に注射器」で【洗礼】を行うより
洗礼名をつける方が困難だったりして。(゚д゚lll)ギャボ

エリザベス朝の劇作家シェイクスピア原作の『から騒ぎ』の映画を見た
1993年のハリウッド映画だがそんな映画があったコトすら記憶に留めてなかった
その頃はシェイクスピアに苦手意識があったのだ(-_-;)

から騒ぎ [DVD]

でもおかげで(?)今まで原作を読んでなかったのと
『ヴィクトリア朝の性と結婚』とゆー本を読んでた矢先だったので
今回はそのまま楽しめた気がするるる~

じゃじゃ馬ならし・空騒ぎ (新潮文庫)
ヴィクトリア朝の性と結婚―性をめぐる26の神話 (中公新書)

2組のカップルが誕生するまでのいきさつが描かれてて
要はハッピーエンドの悲喜劇なのだけど
そこに描き出されたエリザベス朝時代の性と結婚の常識が
現代日本人には驚愕なのだ((((; ゜Д゜))) ガクガクブルブル

1.良家の子女は処女であるコトが大原則である
2.実は非処女であったとわかると男は100年の恋も冷める
3.男は処女と確信してた婚約者が非処女とわかると女をゴミのように捨てる
4.非処女は誰からも罵倒されて然るべき存在である
5.4.ゆえに非処女の濡れ衣の恥辱に耐えられナイ処女は自害して当前
6.やっぱり処女だったと判明した途端に男はゴミのように捨てた女に愛情が蘇る
7.実際に処女を喪失してた侍女については誰も攻め立てナイ
8.もちろん男の側は放埓ゆえの独身主義でも誰からも攻められようもナイ

良家の子女は結婚前に処女を喪失するくらいなら死んだ方がマシで
また男の方も処女かどうかだけが愛情(?)の指針なのだ
尤も「処女なら可愛がってやるるる~」「非処女なら死んで詫びろ!」なんて
豹変できるのが愛情なのかも疑わしいがねw

結婚の認可が教会によってたので神聖さを求められたのはわかるが
それを女の方にばかり要求したのがどうも腑に落ちナイのだ。(´д`;)ギャボ

それとゆーのも教会結婚は宗教的意義より経済的意義が大きかったのだ
良家の御曹司は持参金つきの女を娶って家を守る義務があり
メイドや娼婦と恋愛結婚されたりしては困るるる~
とゆー家父長制の利益のための制度だったのだ

だから実態は「教会が認めナイと結婚できナイ」のではなく
「一家の利益に適ってると家族が合意しなければ結婚できナイ」ように
教会が一枚噛んでるってのが正しいのだね

そして1度結婚すると解消ができなかった(離婚できなかった)のも
教会結婚の定めたトコロだったがこれも経済的意義に合致した
トマス・アクィナスの次の言が『教会法典』の教義に採用されたからだが・・・

人間の男と女の結合は永続しなければならないとともに解消されてはならない

ああ、トマス様!聖なるトマス様!!(←『トリストラム・シャンディ』風w)
仰るコトご尤も、ですが、信者たちは真意を汲み取らず
実に都合よく取り入れてるのがなんと嘆かわしい。・゚・(ノД`)・゚・。

自分は無神論者だがトマス・アクィナスのスコラ派哲学的言及には
【神】を抜きにすれば賛同できたりしてヽ(゚∀。)ノ

それでもまだシェイクスピアの時代はマシで
ヴィクトリア朝時代ともなると病的にお上品になり
レディ(良家の処女)に見せるべきでナイ部分を一切カットした
『家庭版シェイクスピア』なんてのも発刊されたほどだ。(゚д゚lll)ギャボ

こうした見せかけのお上品さが蔓延すればするほど
売春は蔓延った・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ
妻とは神聖なセックス(?)をして、影ではメイドと乳繰り合い
外では娼婦と奔放にセックスをしてたワケだ

ところで旦那様とメイドの不倫は前述の『ヴィクトリア朝の性と結婚』によれば
自分が想像してた以上に日常茶飯事的なモノだったようだ

但し私生児を産んだ女性の比率でメイドがダントツに多いのは
女性の職業と言えばメイド、ってな時代なので元よりメイドが多いからで
それで私生児を産んだ女性の全体数から比率を比較されてもなんだが
実質的に私生児を産んだメイドはわんさといたのは事実だし
避妊も覚束ナイ時代だったので実数を反映してるだろう

僕らの受けた教育の忌まわしいところは、キリスト教が性を公認せず、尊重しないことだ

『宝島』『ジキルとハイド』のスティーヴンソン

神は性欲を植えつけた・・・そうしておいて、この欲望を刺激したり、助長するのを禁じている、性欲を植えつけた目的である結婚のため以外には。

『不思議の国のアリス』のルイス・キャロル

この時代のこの手の名言が見つかったらまたここに追加しよう♪

ライプニッツはマルチな天才だった

かのニュートンと微積分の発見についてどちらが先か優先権を争ったりしたので
数学者としての認知度が高かったが
神学、哲学、法学、科学と殆ど総てにおいて当時の専門家のレベルに至ってたのである

また自身の思想を体現するために積極的に各界の識者と書簡でやりとりしたり
ベルリンに科学アカデミーを設立したり、またプロシアの政治にも携わった

そんな社交的なライプニッツだったが
晩年は打って変わって孤独な日々を過ごし
彼の葬儀に参列したのは秘書だけだった、と知って思わず勘繰ってしまった

ライプニッツはどんだけ嫌われてたんだろうか?

数学史入門―微分積分学の成立 (ちくま学芸文庫)
数学は最善世界の夢を見るか?――最小作用の原理から最適化理論へ
ライプニッツ 普遍数学への旅 (双書・大数学者の数学)

凡人が他人に嫌われる要因はわかりやすい
たいてい【短所】や【欠点】など負の要素に限られてて
第三者からも忌み嫌う理由として尤もな気がする

しかしある程度の天才ともなれば
負の要素はもちろんだが加えて正の要素も嫌悪の要因となりやすい

その才気に対して誰もが賛嘆するとは限らナイからだ
1つの見解には必ず対立する見解が存在し反駁する相手には憎まれるワケだ
更に穿った見方をすれば賛同者だってうわべは好意的でも
実は妬んでるかもしれナイヽ(゚∀。)ノ

これがライプニッツくらい天才が過ぎると偏った見解を持たなくなるので
反対意見を述べられる者もなければ賛成のしようもなく
どちらからも支持されなくなり
結果として誰からも疎まれてしまうのだった。(゚д゚lll)ギャボ

1番顕著なのはキリスト教徒で
対立する2大宗派のカトリックとプロテスタントはお互いに皆殺しにしたいほど呪い合ってるが
唯一意見の一致があるとしたら、この2大宗派の統合の絶対的阻止だろうw

そんなコトは在り得ナイばかりか最初から誰も思いつきもしナイはずだが
人智を超えてそれを提案してしまったのが誰あろうライプニッツで
これで全キリスト教徒と敵対したも同然となった。(´д`;)ギャボ

元よりライプニッツが数学を選んだのも
【普遍数学】によって総ての学問を数学に還元して統一された世界観を構築しようとしてたからだ
換言すれば明確なコンセプトである数字を使って世界の総てを正しく表現しようとしたのだが
この計画は当然ながら未完に終わった

ところが科学アカデミーは設立されてしまった
既に科学アカデミーは他国にいくつかあり
それらを統合して頂点に君臨しようと息巻いてたのが後発のプロシア科学アカデミーで
その中心人物がライプニッツだったのだから学界で疎まれて然りだろう

真理は神が齎した唯一無二のモノであり
その真理に従って理念は統一されるべきモノだ

ライプニッツが目指してたのはそんな完璧主義もしくは理想主義の究極の形態で
なるほど【予定調和】なる超絶楽観主義思考もこの思想が根底に根付いてればこそだな

まあライプニッツとしては悪気はナイ、ドコロか
自身で最も正しく生きてる人間だ、と確信してただろう

前述したように誰からも支持されずとも
自身を人智を超えて神に近い唯一の人間だ、と自負してたに違いナイ
事実、頭脳の出来は格段にレベルが上だったのだから・・・

でも人としてはどうだったのか?

コンプレックスはまるでなかっただろうから、全く悪意を抱かナイ善い人ではあったか?
憐憫の情もなかったとしたら誤解されたか?

妻や子を持たなかったのは完璧な理想の家族を思い描いて妥協できなかったからだろうか?
世紀の天才も恋愛だけは苦手だったのか?

ヴォルテールは『カンディド』において
哲学者パングロスをしてライプニッツの楽天主義を徹底的にコケにしてて
自分も思わず吹き出してしまったがその境涯を知ったらなんだか切なくなってきたよ(;つД`)

誰よりも賢く生まれても孤独・・・
天はニ物を与えず、なのか、やっぱり(-_-;)