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トルストイは『モーパッサン論』において
モーパッサンのある部分を絶賛して
ある部分に対して残念がってる

モーパッサンの『女の一生』では
善良な女が不埒な夫と放蕩息子に悩まされるが
トルストイの解釈ではこの女が
『旧約聖書』の「ヨブ記」に譬えられてて
要約すると・・・
道徳的な女が不道徳な男に踏み躙られる不幸と
その不幸が誰にも理解されナイコトを
深く感動的に描いてると絶賛し
以降の長編、特に次いで書かれた『ベラミ』は
美しい純潔な魂と社会の堕落との衝突が
同じように描かれてても
不道徳な登場人物の方にこそ
作者が肩入れしてるように思えて
濡れ場における詳細な描写も
芸術性を損なってると残念がってる

モーパッサンがなぜ
トルストイにとって残念な長編を書いてしまうのかは
以下の言にあるように
トルストイも根本的にわかってはいる

 モーパッサンが出入りしていたサークルで、芸術が奉仕すべき美として昔も今も認められているのは、何よりもまず女、若い、美しい、しかも多くは裸体の女、それからその女との性的な交渉である。そう認めてきた人々の中には、単にモーパッサンの≪芸術≫上のすべての仲間、つまりが画家や彫刻家や小説家や詩人ばかりではなく、若い世代の教師たる哲学者もふくまれている。

しかし理解するコトと納得するコトは別なので
ルナンの『マルクス・アウレリウスについて』から
以下の言葉を批判的に引用してくる

キリスト教の欠陥はここにはっきりあらわれている。つまりキリスト教はもっぱら道徳的でありすぎるのだ。美は完全にしめ出されている。ところが、円満具足の哲学の眼からみると、美はうわべだけの長所、危険なもの、不都合なものであるどころではない。それは徳と同じく、神のたまものなのだ、美には徳に匹敵する価値がある。美しい女は天才や、徳の高い女と全く同じように、神の意図の一面、神の目的のひとつをあらわしている。美しい女はそのことを知っているからこそ、おのずと気位が高くなるのだ。美しい女は自分が体内に持っている無限の宝を本能的に感知する。(後略)

(後略)の後もトルストイは
ルナンの美女讃歌を延々と引用して
「宝石を身に付けたり、化粧をしたり、髪型や服装に凝ったり、
女がその美しさを際立たせるようとするのは正しい行い」
としてる部分に次のように
皮肉な解釈を入れてくるワケだ。(゚д゚lll)ギャボ

してみれば、この若い世代の指導者{ルナン}の考えでは、ようやく、現代にいたって、パリの裁縫師や理髪師がキリスト教の犯したあやまちをただし、美のために本来の、そして最高の地位を回復してやった、という訳である

有史以来
人類は不自然な生活を強いられてて
生物としての本能が蔑ろにされてきた

特定の時代や地域社会でしか通じナイような
独特の価値観が存在してるが
それらはいずれも誰かが
要するに人間が勝手に作った観念でしかなく
バックグラウンドを異にする者が
正しいか誤りかを論じるのはナンセンスだ

キリスト教が華美な女性を疎んじてるのを
美の表現者である芸術家や
美徳の体現者である哲学者が
反感を持論で展開するのまでは構わナイ

でもトルストイの反論は
それを曲解してて
ましてやパリの裁縫師や理髪師を
つまり、技能労働者をバカにした物言いは
所詮ドシア人(※)だって僻みで
世の中を舐めた資産家のお坊ちゃんの世迷言だ
お洒落なパリに憧れるド田舎者の無粋なロシア人、の略w

そう思えるので
自分が賛同できるのは
モーパッサンや同じサロンに集う人々の方
だった・・・そう、過去形なんである

今現在の姥(年老いた女)の自分にとっては
トルストイの見解もありに思える

再度、肝心な部分を引用すると・・・

何よりもまず女、若い、美しい、しかも多くは裸体の女、それからその女との性的な交渉である。

生物学的見地からすれば
この主張は全く持って正しく
生物は子孫を残すために
生殖を行う必要があり
その際にはお互いに
優先順位が同等でナイ性を選ばなくてはならず
またできるだけ若く(=体力があり)
そして美しい(=整ってる)相手を求めるのは
分子生物学(※)からしても正しい
生物をDNA単位から考察する学問

但し
人間以外の生物の場合は
性の優先順位(※)が高い雌に雄を選ぶ権利があり
雄の方こそが若さと美しさで雌に選別される
正確にはミトコンドリアの優位性

ところが人間社会は変わってて
どんなに若く美しい雄でも
それだけでは雌に選んでもらえナイ!

とゆーのも
雌には子供を産み育てる環境についても
十分に考慮する必要があるからで
そこで若さと美しさで劣ってる雄でも
社会的に優位だったり、財産を持ってたりすると
子供を産み育てる環境も好かろうと
選んでもらえたりする(よね?)

いや、子供でなく
雌自身が好い環境で生活したくて
ってのが本音か???
まあ雌の見解の真意については今回はスルーでw

男が女にアプローチをかける時に
本能的に近付いてしまうのが
若く美しい女であるのは至極当然だが
仮に若くも美しくもナイ女しかいなければ
そこは躊躇せずにか、多少は躊躇したとしても
その女に選んでもらおうとするのが
男の性なのだ

最終的に性衝動を何とかしてくれるのであれば
ぶっちゃけ何でも構わナイ、てのが
雄の真っ当な種蒔き本能なので
手当たり次第に攻略を試みてく内に
選んでもらえたらラッキー、てなモノだ

攻略する順番は手当たり次第なんかではナイと
反論するヤツもいるかもしれナイが
そこはきっと個々の好みが反映してると思うので
傍から見てれば手当たり次第なのだよ

理性によって制御してはいるが
箍が外れた男はそんなモノだろう(-_-;)

それにしても
男が女を選ぶ時に
若さの判別は簡単だが
美醜の基準は曖昧模糊としてて
若いけど美しくはナイ女と
若くはナイが美しい女となると
どちらを選ぶかは微妙なトコロだ

僅差で前者をオススメするのは
生物学的な理由による
妊娠の確率が高く
子育てをするのに十分な体力があるからだ
でも後者も妊娠可能な限り
選ばれたとしても間違ってはいナイ

換言すれば
妊娠の可能性が全くナイ女だけは
美醜を問わず男を選ぶ権利もなければ
またそういう女を男が受け入れてしまうのは
生物学的には間違ってるとも言えるヽ(゚∀。)ノ

だからって
若くも美しくもナイ女は男に愛される価値がナイ
と思うのは生物学的狭量による早計で
哲学的とか、もっと素朴な情によるとか
あるいはスピリチュアル(霊的)とか
愛される理由付けはいくらでもある

むしろ社会的とか生物学的な結び付きは
若さと美しさと条件に適えば
もれなく誰でも゚+.(・∀・)゚+.゚イイとも言える

でも人間同士が愛を育むのは
とある妙齢の男ととある妙齢の女が、でなくて
個対個であって
性別も年齢も容姿も思想も何もかも
お互いが受け入れられれば
それだけでいんじゃん?

社会的かつ生物学的に条件が適って
お互いに合意した結婚だとしても
持続させるには条件を保ち続けるのでなく
他の要素で愛を育んでいかなければ
意味がナイワケで
条件が変わっただけで
破綻して離婚に至るのがオチ

その脆さに気付かナイで
社会的かつ生物学的な条件を
保つコトだけに奔走してる状態を
「若い」とか「青い」と言う

筑摩世界文学大系がお気に入りなのは
本文以外が充実してるからだ

巻末には必ず
充実した「解説」と詳細な「年譜」があり
更に巻によっては
他の作家による論文が収録されてたりするるる~

筑摩世界文学大系のモーパッサンの巻には
ロシアの文豪トルストイの『モーパッサン論』が・・・

筑摩世界文学大系【44/47】モーパッサン



「女の一生」岡田真吉訳
「ベラミ」中村光夫訳
「脂肪の塊」杉捷夫訳
 短編 杉捷夫訳
  「山小屋」
  「ペルル嬢」
  「橄欖畑」
  「シモンのパパ」
  「わら椅子直しの女」
  「狂女」
  「海の上のこと」
  「ジュール叔父」
  「ひも」
  「老人」
  「雨がさ」
  「くびかざり」
  「酒樽」
  「帰村」
  「あな」
  「クロシェット」
  「港」
「モーパッサン論」トルストイ / 木村影一訳
 解説 中村光夫
 年譜

そしてこれがモーパッサンを論じてるってよりは
モーパッサンとゆーフィルターを通して
自身の主義・思想を述べてるカンジで
大変興味深い内容になってる

なんせロシアには近代に至るまで
自国語の口語文学がなく(※)
仏文学に対するロシア人作家の劣等感は
そりゃあ根が深かったろう
ロシアの宮廷ではフランス語をしゃべってたくらいだ

貴族で才能にも恵まれてたトルストイだが
仏文学に対してのコンプレックスはあったに違いナイ

晩年のトルストイは
勤労農民の素朴な信仰心に回心させられ
自身の貴族の身分を恥じるようになったりもするが
「モーパッサン論」を書いてる時点では
まだその境地に達してなかったらしく
『女の一生』を大絶賛してるのが笑えるw

トルストイはあくまでも貴族目線で
主人公の貴族女のジャンヌに降りかかる
身に余る不幸を憐れみつつ
打ちひしがれても無抵抗でいる女に対して
純粋だとか、清らかだとか
見当違いの感動をしてるのであるwww

1日の大半が仕事に消費されて
やっと生活が成り立ってる勤労庶民には
(要するに自分のような人間には)
生まれながらにして生活苦には無縁で
自らが稼ぐ必要が全くナイ上に
家事や雑事さえも人任せの貴族女ジャンヌが
どんな悲劇に見舞われようが
おざなりに生きてられるのなんて
羨ましいくらいで、同情の余地無しp(-_-+)q

既に子供も与えてくれた夫に浮気されようが
その子供の放蕩が過ぎようが
それで明日のメシに困りゃあしナイのだから
悲しみに暮れてばかりいナイで
好きなコトをして楽しく生きればいんじゃん?

無趣味で無教養ゆえに
暇を持て余してるだけの貴族女が
「何もやるコトがナイ!」
などと嘆いてるのに対して
「なんと道徳的な女だ!!」
と感動できるトルストイのおめでたさには
さすが貴族、としか言いようがナイw

察するに
トルストイの周囲の貴族女はきっとこんなだろう

依頼心の塊のクセに我が強くて
欲深なワリに自身では何一つ行動を起こさず
気に入らなければ文句だけは人一倍

そんな女たちの厚かましさに
トルストイは辟易してただろうから
無欲なジャンヌを清らかな乙女として
崇め奉りたくもなるワケだ

ジャンヌときたら
ダメンズのダンナに騙され続けても
更に息子もダメンズに育て上げて
挙句に財産をもぎ取られても
他力本願で受身であり続け
生きるコトに消極的なままで
本ト、心底無欲・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

とはいえ
この時代の女が生きるためには
食わせてくれる男に対して
身を委ねるしかなかったのだから
貴族女も百姓女も娼婦も
男に傅かねばならなかった

それとゆーのも
社会が女にはごく限られた仕事しか与えず
微々たる収入を得る手段しかなく
それで生計を立てるのは大変なコトだったのだ

『女の一生』の原題『Une vie』は
直訳すれば「人生」で
とあるありふれた女の生涯の物語の意だが
このタイトルの解釈からして
トルストイの感覚が一般庶民とはズレてる

この作品の内容をなすものは、題名が示すとおり、破滅させられた、無邪気な、美しい行いならなんでもする素質を持った、愛すべき女性の一生の叙述である。

バタリ ゙〓■●゙

またモーパッサンの『女の一生』以外の作品について
トルストイは特にその芸術性について貶してる

モーパッサンのようにしか民衆を描かない作家、つまりブルターニュの下女たちの腰や乳房にしか興味を持たず、はたらく人々の生活は嫌悪と嘲笑とをもって描く作家は、芸術家として大きなあやまちをおかしているのである。

何が1番気に入らナイかって
男たちの放縦さにあるらしいが
トルストイはフランス文化に対して
畏敬の念を抱いてるからこそ
フランス男らの興味が
肉欲をそそるような対象にしかなく
貴婦人のはちきれんばかりに盛り上がった乳房や
下女の粗末なスカートを揺らす肉厚の尻などにあるのを
モーパッサンが赤裸々に描いてしまうコトに
「裏切られた感」があるぽい

しかもそこで女の方もそれに呼応して
お互いに理性を働かせるコトなく
本能に付き従ってしまうので
その低俗さに耐えられナイのだろうが
そこは自分も苦手意識があって
トルストイの言い分を理解はできる(゚*゚;)

でもだからって
放縦な男に騙されてる女に対して
それだけで同情するのはどうかと思う

逆にその放縦な男が
他の全ての性質も性悪だとは限らナイし
男のせいで不幸な目に遭った女が
それでも男を愛してる可能性もあるしね

トルストイは恐らく
放縦な男を悪と捉えてて
男が悲惨な目に遭ったり死んだりする場面では
きっと胸を撫で下ろしたりするのだろうが
そういうトコロもさすが貴族・・・

自分がジャンヌだったら
毎日自由時間を満喫して過ごせるだろうから
それを自覚できたら幸せ過ぎて
ダンナにも同等に幸せになる権利があると思えて
快楽を与えてくれる女に夢中になるのなんて
咎めようもナイけど・・・
既に息子を儲けてるのだから
自分に対しての義務は果たしてくれたんだしね

お互いに義務から解放されて
それぞれの快楽に耽ってるなんてのは
もしかしたら夫婦の理想形態ではナイだろうか?!

どんなに恵まれた人間も
そうと気付かなければありがたさを感じず
人生をどう生きるか以前に
まず今日を生き抜かなければと
そのために働いてる人間に
どう生きるか悩んでる時間は殆どなく
だからさもトルストイのように
「高潔に生きよう」とか誓ってるヨユーは
勤労庶民にあるはずもナイのだよ

『女の一生』以外の作品では
モーパッサンは生々しく庶民の人生を描いてて
それが自分には共感できるし素晴らしいと思えるが
そういう作品を蔑むトルストイは
さすが貴族、だ(こればっかりだな)

そして自分が『女の一生』を蔑みつつも
何度も読んだり映画を観てるのは
自身より社会的に恵まれた立場の女性の
無欲さが織りなす悲喜劇によって
自身の現実の厳しさが和らぐからだろう

どう控えめに見ても
ジャンヌより自分の方が
充実した人生を愉しみながら生きてる♪

モーパッサンのエスプリやユーモアと
自分のような江戸っ子の洒落は
生真面目なトルストイと無欲なジャンヌにゃ
理解できまいヽ(゚∀。)ノ

19世紀のフランス文学にハマって
メリメの『カルメン』
フローベールの『ボヴァリー夫人』
モーパッサンの『脂肪の塊』『ベラミ』
そして『女の一生』を立て続けに読んでた時期があって
全てがたまたま杉捷夫(としお)訳だった

『カルメン』を読むまで
カルメンの人物像を誤解してて
男にとってのみ魅力的な女だと思ってたが
女としてでなく、人として
生き様がカッコ好くて感動したし
死に様がカッコ好過ぎたのは残念だった

『ボヴァリー夫人』は
ボヴァリー夫人たるエマ(エンマ)が
夢見がちで不倫にひた走り
見栄っ張りで借金まみれになるような
勘違いバカ女で嫌悪感を抱いたが
自殺で落とし前を付けたのは
理想と現実のギャップに気付いたからだろうし
気付けナイような教育しか受けておらず
気付かせてくれる人間関係も育めなかったので
相対的には憐憫の情を抱けなくもナイ

『脂肪の塊』だけは短編で
面と向かってそうとは呼ばれてナイが
「脂肪の塊」と称されて噂される娼婦が
ラストで嗚咽するトコロで
一緒に嗚咽してしまい
読後もしばし嗚咽したままで
平常心を取り戻すのに時間がかかった程で
必ず泣いてしまう物語の1つとなった

『ベラミ』はそんな『脂肪の塊』と同じ作者なのかと
疑念を抱いてしまう程のピカレスク度MAX小説で
女を食い物にしてのし上がる男が主人公で
読後にはスタンダールの『赤と黒』で
出世を目論むジュリアン・ソレルが
なんだが可愛く思えてきた

そして『女の一生』のヒロインのジャンヌは
読み進むほどに肩透かしを食らって
何一つ共感できナイままに反感を持ってしまい
いくら悲惨な目に遭おうと
同情の余地もナイ程に嫌気が差した

先に『脂肪の塊』等を読んでおらず
『女の一生』一作だけだったら
モーパッサンを過小評価してたと思われw

美しくしなやかでスリリングな人間が好きで
特に女性は稀有な美貌によって
既にモラル的な是非は超越してるような美女だと
非凡な言動に魅せられ、心惹かれるのだが
するコトなすコト凡庸なジャンヌは
つまらナイ女の代表なのだ。(´д`;)ギャボ

でもそんなコトはタイトルで察するべきだった!
非凡な女の境涯が描かれてる作品は
『カルメン』や『ボヴァリー夫人』や『脂肪の塊』のように
その女の呼び名を冠してるのだが
『女の一生』は原題もそのまま『Une vie』で
不特定な女のままある人生、なのだよ。(゚д゚lll)ギャボ

そんな凡庸なジャンヌだが
父親のパーソナリティは実に興味深い!
93年を苦々しく思いつつ
革命の起爆剤となったであろう
ジャン・ジャック・ルソーの自然崇拝を
従来のキリスト教よりは信奉する!!

93年・・・1793年はルイ16世が処刑された年で
この年を苦々しく思うのは貴族だからだが
それだけの単純なキャラクターではナイ
貴族と言っても田舎に居を構えて
自然の中でのびのびと育ったせいか
貴族特有の高慢な性質も
悠然とした性格にすっかり呑み込まれてしまってて
周囲に不快感を与えるほど露呈しナイのだ
男気がある、とゆー程度

そして更にキリスト教には懐疑的で
ルソーの自然主義に共感を覚えてる点で
自分にとっては基本的に理解し合える相手だ

以上の父親についてのプロフィールは冒頭にあり
物語が進む中で少しづつ過去も解き明かされ
若い時にはなかなかどうしてやんちゃだったようで
情に脆く、感動しやすく
単に善良ではナイ心根の良さを持ち合わせてるぽい

その妻でありジャンヌの母親でもある婦人は
この父親に比すれば影が薄い存在だが
途中でいきなり意外な過去が発覚したりするるる~

そんな両親にしては
娘のジャンヌが主人公でありながら凡庸なのは
多感な時期に修道院にやられてたのが
原因と思われ。(´д`;)ギャボ

そんなワケで『女の一生』は
自分的には駄作と打ち捨ててたのだが
アラフォーになって違う訳で読み返してみたら
ジャンヌは凡庸だなんて
一言で簡単に片付けられなくなってた

ジャンヌの生活や人生に対する無欲さが
常軌を逸してるレベルで
非凡なコトに改めて気付いたのだ。(゚д゚lll)ギャボ

そしてジャンヌの全ての悲運は
その無欲さによるモノだとも思えてきた

例えば「金が欲しい」と思うから
働く(正攻法)、強奪する(非合法)
あるいはジャンヌの息子のように無心するのだが
無欲なので得ようと思わず
何のアクションも起こさずにいるし
逆に息子にたかられるままに
じゃんじゃん与えてしまえるのだ

浮気を放置しっ放しのダンナに対しても
悲しむだけで何の働きかけもしナイのは
単に裏切られたのが悲しいだけで
ダンナを欲してナイからだ

むしろダンナに限らず男が欲しくナイのだろう
そこはレズビアンの自分には唯一共感できる部分だw
ダンナにも他の男にも心や身体が傾くコトがなく
だから関心をすら惹く気がなく
女として美しくあろうなどと思いつきもせず
無欲なのだ

とはいえ、ジャンヌは冷酷な人間でもなく
フツーに愛情を育めるタイプだが
それを子供にだけ注いでしまったコトで
しかも庇護や過保護が過分に含まれてたせいで
息子の放蕩三昧が歯止めの利かナイレベルに達したのだ

ジャンヌはこの時代の良家の奥様にしては
赤ん坊を乳母に任せずに
自身で育てたのも珍しいってか変わってるが
乳母に任せっきりの育児に対して
「おかしいだろう?」と意見したのがルソーなので
さすが父親がルソー崇拝者だけのコトはある

でもジャンヌ自身はきっと
ルソーの教育論『エミール』を読んでおらず
だから息子を甘やかし過ぎて
ダメンズに育て上げてしまったんだろうヽ(゚∀。)ノ

ジャンヌは他の本もロクに読んでなかったから
その無味乾燥とした人生の中で
唯一感動したのがキリスト教なのは
もれなく当たり前の話だなw

『聖書』が世界的なベストセラーなのは
本を読まナイ大多数が唯一読んだ本だからだなwww

でもジャンヌはこれも父親の影響なのか
結果としては敬虔な信者にはならなかったのだ
教会に通ったりしなかったし
子供にも信仰を強要しなかった

なんせ子供の聖体拝受をどうしようか迷ってるのだ
同じくモーパッサンの『メゾン テリエ』では
娼婦が娘に聖体拝受をさせる話で
これは信仰心よりも親心で
堅気の子のように体裁を整えてやるんですが
それと比べたらジャンヌの信仰心は
恐らく娼婦にも異端視されるほどなんだろう

つまりジャンヌは人生には受身で翻弄されてても
決して世間には流されておらず
凡庸な人生を非凡に生き抜いたがために
不幸に身をやつした気がしてきた

恋愛が成就する―それは非常に難しい問題だ

何をして成就なのかの定義からして曖昧模糊としてるからだ

愛する相手とどうしたいか、と
どういう形で恋愛を成就させたいのか、とでは
まるで違う

若さゆえのときめきとは
愛する相手とどうしたいか、に尽きる

視線はひたすら想う相手を追い求め
近付けたら話したい
見詰め合えたらキスしたい
気持ちが高揚すればベッドで過ごしたい・・・

これらが叶えばすっかり浮かれてしまって
成就だ、と満足できるのだ

その際にお互いの立場なんかどうでも゚+.(・∀・)゚+.゚イイ
同性愛だろうが不倫だろうが
成就だ、と満足できるのが若さってものだ

そういう恋愛の成就は
若いうちは夢みたいな出来事だが
歳を重ねるほどにリアルになるのは
老いが現実を見据えさせるので
夢見心地ではいられなくなるからだろうか?

不細工でもいつか綺麗になれる、と若ければ将来を夢見れようが
歳をとればとるほどにどんどん醜くなるしかナイので
昔は今よりはまだしも、と思い返すだに虚しいだけである

恋する気持ちが切ナイ、てのは年齢には隔たりがナイのだが
どこかしらに甘酸っぱさのナイ切なさは
苦い・・・(-_-;)

女の一生 (新潮文庫)ベラミ (角川文庫)

19世紀フランスの短編作家として知られるモーパッサンは
長編では『女の一生』『ベラミ』『死の如く強し』を書いてるが
『女の一生』は穢れを知らぬ女が汚れた男に翻弄され続ける転落悲話で
『ベラミ』は夫たちの陰で思うがままに生きる女たちを
翻弄しながら成り上がってるつもりの優男【ベラミ】の出世物語
そして『死の如く強し』は中年の男女のロマンスだ

Fort Comme La Mort

若い時分には
『女の一生』はハーレクイン・ロマンスにも劣ると思われたし
『ベラミ』の不道徳さはひたすら愉快痛快だったが
『死の如く強し』は『女の一生』以上に陳腐に感じられたヽ(゚∀。)ノ

男は初老だが美男で独身を貫いてる名の通った画家
女は画家と不倫関係を12年間続けてるモデル

12年前の絶世の美女も40歳ともなれば
彼女に生き写しの18歳の娘の愛らしさとは
比較するのも可哀相な有様だろうて
美意識の高い画家がどうして娘に心変わりをせずにいられよう?

そもそも歳老いて恋愛に現を抜かす自体が美しくナイのだが
それは歳を経てきたからこそ研ぎ澄まされるに至った美意識とは
ちょうど反比例してるかのように
容貌が見るに忍びなく衰えゆくからだ
しかも美貌を誇ってる者ほどその落差は顕著なのだ

そんな現実を直視して憂える初老の男女のロマンスは
深刻になるほど喜劇的で救いようがなく
とても耐えられずに初めて読んだ時は実は途中で放棄したw

ところが自分も同じ立場になってから読み返してみると
老いを噛み締めながらの恋愛の行く末に心が軋み
滑稽であるほどに切なさが胸を打った・・・
いや、打ったのでなく、食い込んできたのだった。・゚・(ノД`)・゚・。

恋愛の成就は唯一無二の愛する相手を確信するコトだ
なぜなら恋愛は0か1なのだ

もっと゚+.(・∀・)゚+.゚イイ人がいるはず、と
A~Zまで選り取り見取りの中から相手を決め兼ねてるモテる人は
はっきり言って自身しか愛せナイ恋愛音痴でしかなく
そういう人は周囲が羨むほどには満たされてはいナイのだよ
男だったら美女をモノにすれば征服欲だけは満たされるだろうが
女はどんな男を陥落しようが娼婦の感覚しか味わえやしナイ

0か1・・・
愛する相手がたった一人あり、その人でなければ要らナイ

そういう0か1の相手を一生涯愛し続けられれば
例え0だったとしても満たされてるのだ!
自分自身を偽らずに、そして迷わずに日々を過ごすのは至福だ!!
そこで相手にも愛されるような奇蹟を望む前に
ただ自分が愛するコトを相手が許してくれてれば゚+.(・∀・)゚+.゚イイ

Do I, do I love you, baby?
Yeah, yeah, yeah, yeah
More than ever

叶わナイ相手をさっさと諦めて
お互いに妥協できる相手とすっかり満足できたりするのも
否定はしナイが
歳をとって人生最期の恋愛なればこそ
今更、社会的にも生物学的にも縛りがナイのだから
ただ愛する相手を愛したいのだ

そして愛するとゆーコトは
いつでも相手を待ってるとゆーコトだ(苦笑)

美人は得でブスなら損、なんて人生は単純なモノではナイが
金持ちと貧乏人ならば金持ちにヨユーがあるのは間違いナイだろう

貧乏してる、てのは生活についての心配がいつもあり
また生活以外の何かをしようとした時にお金はもちろんだが
お金を稼ぐために働いてるのが常なので時間もなかったりするのだ

まずそうした生活に窮してる女が生涯の伴侶となる男として
稼ぎもナイのに金がかかる男を選ぶのは物理的に無理だし
自身の生活や家族の生活のためには
恋愛感情より損得勘定が先立って受身にならざるを得ナイ

それならば受身にならずに済む金持ちで
しかも女としての恵まれた容姿を持ち得て生まれれば
理想的な男と幸せになれる確約となり得るのかと言えばそんなコトもナイ

☆・・・☆・・・☆

モーパッサンの『女の一生』の主人公ジャンヌなどは
生活に困るようなコトがナイ家に生まれて清く正しく美しく育ったばっかりに
金汚く女癖の悪い男の犠牲者となってしまう

恵まれた女だったジャンヌは修道院育ちで男を見る目がなく
そこにあざとくつけいった男との結婚によって不幸に身をやつしてくが
どんな情況に陥っても嘆くだけで自らは解決策を企てようともせず
ただひたすら襲ってくる不幸を次々と享受し続けるるる~

端から見てどんなに恵まれて生まれた女だって
当人がそれに気づきもせずにいればやはり受身でしかナイし
金は使えばなくなるし、美貌も年月によって色褪せてしまうのだ

それでもずっと働きもせず(家事さえもせず)
またそれを当然と受け止めて生きてるジャンヌは
自分からしたら確かに恵まれてた環境とは思えるが羨ましくもナイ

女の一生 (光文社古典新訳文庫)

トマス・ハーディの『遥か群衆を離れて』のバスシェバは
元はそこそこ貧しく農場の手伝いなどしてたが
その秀でた美貌ゆえの誇り高さがあり
そこそこの金持ち男の当たり障りのナイ求婚に対して
「あなたを愛してません!」
なんて一喝して断れるような女だった

その後、遺産相続によって若くして金持ちになったバスシェバは
更に男に対して受身ではいられなくなってしまい
魅力的な゚+.(・∀・)゚+.゚イイ男(悪い男?)が周囲にいなかったので
何のときめきもなければ能動的になるコトもなく
不慣れなタイプの男(ハンサムで洒落者の軍人)に陥落されてしまい
結婚した時までは有頂天だったが
夫の生活態度(特に放浪癖)と浮気に苦悩する破目に陥ってしまう

これらジャンヌとバスシェバの
元は恵まれてた女だったのに結婚によって人生が破綻する物語は
一見すると酷似してるのだが根幹が決定的に違ってる

ジャンヌは夫に対して「幸せにしてくれるはず」と期待して結婚したが
その期待が裏切られる度に失望してるだけで
最初から最期まで愛情の欠片もナイのだ
だから浮気をされても夫の不実さ以上に腹立たしいのは
身分が低いと見下してた女中に見くびられたコトに対してなのだ
つまりジャンヌは子供のように自身だけを愛してて
社会的には夫に裏切られた妻ではあるが
実質的には愛する相手に裏切られたとゆー辛酸は全く感じてナイのだw

それに比べてバスシェバは浮気相手の女の墓に花を添えられるほど
夫の総てを赦し、最期まで情熱的に愛し、欲し続けた
結果的に夫に顧みられるコトは叶わなかったが
自分はそんなバスシェバがさぞや辛かったろうと思う反面
実際、幸せだったとも思えるのだ

だってそこには希望があるから!

名義上だけでも夫なのだから、公的に愛する権利があるので
溢れる愛を我慢しなくても゚+.(・∀・)゚+.゚イイし
そうして愛し続ければいつか相手も愛してくれるコトがあるかもしれナイ
ナイかもしれナイがずっと待ってても゚+.(・∀・)゚+.゚イイのだ

愛される、まで行かずとも、拒絶さえされなければほっとするし
目が合えば嬉しいし、唇を合わせれば至上の喜びで
肌を合わせたら・・・ヽ(´▽`)/
その時、赦せナイような何が愛しい相手にあるのか?

ナイp(-_-+)q

キリスト教では人の罪を神が贖う「赦しの秘蹟」なる儀式があるが
恋人同士が肌を合わすのは愛する相手を「赦す」儀式でもあると思われ
そしてお互いに「赦し」合ってる状態がきっと相思相愛なのだろう

ゆるしの秘跡に戸惑うあなたへ―一神父の経験から

それにしても愛されてる側の人間てのはもちろん不幸ではナイが
愛する側の人間ほどには実は幸せではナイのかもしれナイ。(´д`;)ギャボ
極論を言えば、恋愛の対象自身は恋愛などしてナイのかもしれナイ。(゚д゚lll)ギャボ

とりあえず恋愛には美貌も財産も決して有利には働かナイ

さ、今日も元気に妄想しようヽ(゚∀。)ノ

une-vie

時代背景は特定されてナイがたぶんヴィクトリア朝のイギリス

ピューリタン革命と名誉革命を経て
立憲王政を確立したイギリスは近代化への第一歩を逸早く歩みだした

Pamela: Or Virtue Rewarded (Oxford World's Classics)

貧しい両親の許で清く正しく美しく育った娘パミラは
お屋敷に奉公に出て奥様の大のお気に入りの小間使いとなった

パミラが仕えてた奥様は亡くなったが
跡を継いだ息子の小間使いとなり、この男に見初められてハッピーエンド

あらすじを簡略にまとめると余りにもありがちでお粗末な物語のようだが
パミラにご主人が恋するまでがこの小説の1/50ほどで
ご主人とパミラの操の攻防だけで物語の2/3を費やした挙句
やっと結婚してもそれで終わりではなく
パミラが愛人でなく正妻として周囲の人間に認められるまでが残りの1/3だ
真の大団円までの展開がどれほど長いか。(´д`;)ギャボ

しかし長くても冗漫ではナイのだ
純潔至上主義者のパミラが操を守ろうと奔走する道化ぶりと
それに振り回されるご主人や周囲の茫然自失の様相が
非常に愉快痛快で飽きさせナイから゚+.(・∀・)゚+.゚イイのだ

とは言え、そう思えるのはリチャードソンの『パミラ』を読んだのが
アラフォーになってからだからだろう
若い時に読んでたらもれなく駄作として封印したなw

女の一生 (新潮文庫)
Une Vie (Le Livre de Poche)

そうして封印したモノの中にモーパッサンの『女の一生』があるが
これはアラフォーになってうっかり読み返したら
なるほどトルストイが絶賛しただけのコトはあると感心した
但し自分としてはモーパッサンの傑作なら他にもっとあると思えるがね

時代背景はナポレオン流刑後のフランス

イギリスに立ち遅れて近代化を目指し始めたフランスで
貴族はまだ93年を苦々しく思ってた

裕福な両親の許で清く正しく美しく育った娘ジャンヌことジャネットは
純潔を守るためにか思春期には修道院にやられてて
適齢期(17歳)になったので帰ってきた

ジャンヌが初めて恋した好青年子爵を両親も気に入り
数ヵ月後には難なく婿に迎えてハッピーエンド

かと思いきや、この結婚相手の男がダメンズ過ぎて
結婚を機にジャンヌは女としての不幸を次々と体験してくのだが
その人生の暗転の転機となった結婚までが小説の1/5だ

まずは幸せなはずの新婚旅行中に将来を予見するような男の金汚さが垣間見えるが
これをジャンヌは気のせいだと見過す・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

そのうち女癖の悪さが際立ってくる頃に男は業突く張りも大概になり
女中との肉欲に溺れ、ジャンヌと息子は捨て置かれる。(゚д゚lll)ギャボ

ついに女中が不義の子を産んで出て行くと
今度はジャンヌの友人の女と関係を持ち、その夫にバレて女共々殺される
いや、実際には殺人でなく、一応は事故死なのだが・・・。(´д`;)ギャボ

ダメンズ旦那が死んだのでほっとしたジャンヌだったが
心の拠り所の息子を甘やかし過ぎたせいで今度は息子の放蕩に悩まされる

借金と女をこしらえる才能に長けた(?)バカ息子の便りは金の無心ばかりで
ジャンヌは母親として身の破滅へと暴走する息子を止めるドコロか
借金の肩代わりをして息子の放蕩を加速させるヽ(゚∀。)ノ

こうして冒頭では清く正しく美しい貴族の娘だったジャンヌは
結末では不幸に身をやつした極貧ババアに様変わりしてて
かつての旦那が御手付きした女中に生活の面倒を見てもらってた(-_-;)

こうしてあらすじをまとめて比較してみると
単純に『パミラ』と『女の一生』は全く逆のパターンであるコトがわかる

『パミラ』の主人公は女から見た理想の女性かもしれナイし
『女の一生』の主人公の境涯は女として1番不愉快に感じるかもしれナイ

しかし小説の主人公でなく実在の人物だったらどうだろうか?
パミラはたいていの女には羨まれるだろうし、妬む女もいるに違いナイ
ジャンヌは殆どの女の同情を買いつつも影では呆れられるだろう

実際にはジャンヌほどでなくとも
恋愛や結婚によって(要するに男のせいで)傷を負った女性は少なくナイので
同情を禁じえナイのはジャンヌの方だろうが
その生き方に共感されはしナイ

なんせジャンヌは働かざる者であっても
食うに困らナイばかりか家事さえもせずにのうのうと生きてるのだp(-_-+)q

それを言ったらパミラも両親は貧しかったかもしれナイが
女中の分際でありながらほとんど何の仕事もせずに手紙ばっか書いてるのだがヽ(゚∀。)ノ

1日10時間以上も仕事で時間を失い続ける身の上の自分には
どちらも羨まし過ぎる身の上だが
もしジャンヌだったら毎日散歩して庭作りして料理や刺繍をして
それだけで幸せだからダンナがダメンズでも放っておくがな~

自分が働かなくても生きていけるなら
たかがダメンズのダンナくらい飼ってやれよってw

いや、そのダメンズのダンナを自分が働いて養うとかなるとね
それはさすがに無理っつ。(´д`;)ギャボ
でも若かったらそこまで頑張ってしまったかも。(゚д゚lll)ギャボ

しかしこの2作は比較すればするほど興味深く
パミラは神に忠実であるように育てられてるのだが
ジャンヌは夫に従順になるように育てられており
これはピューリタンとカトリックの差なのではなかろうか?

それにしても
パミラの旦那様は金持ちの美男かもだが朴訥なイギリスの紳士で面白味がナイし
ジャンヌの夫は酷い男だが洒落たフランス男の不埒さを発揮してて愉しめそうだな♪
なんて、確実にダメンズ好きなのだな、自分(-_-;)

une-vie

フローベールの『ボヴァリー夫人』はリアリスムの傑作だが問題作だった

主人公のボヴァリー夫人はちょっと(当時にしてみればカナ~リw)奔放な女で
退屈な夫に内緒で刺激的な愛人の元に走ってしまうのだが
これが社会に悪影響を齎すと裁判沙汰になった

アンナ・カレーニナ〈上〉 (岩波文庫)

トルストイの『アンナ・カレーニナ』も不倫の物語だが
ボヴァリー夫人であるエマ(エンマ)が生きてる間は夫にバレてなかったのと対照的に
アンナは愛人に求められるままに夫を捨てて愛人の元へ身を寄せてる

エマもアンナも不倫の末に自殺したのは同じなのだが
そのタイトルからも歴然とわかるように
エマは死ぬまでボヴァリー夫人であり続けたし
アンナは最初から最期までアンナ・カレーニナであったのだ

アンナ・カレーニナ〈中〉 (岩波文庫)
アンナ・カレーニナ〈下〉 (岩波文庫)
アンナ・カレーニナ [DVD]

田舎の開業医の妻であった夢見がちなエマは
行きずりの色男たちと不倫するのだが夫を捨てるには至らナイ

一方、官僚の妻であった美貌のアンナは
1人の将校の熱烈な求めに応じて不倫して夫を捨てるに至るが
困った時にはまた夫に寛大に迎え入れられるし
そうかと思えば再び将校と駆け落ちして猜疑心から自殺する破目に陥る

この時代の女性にとっては夫とはズバリ生活の糧、だったので
女は愛とか恋とかほざく前に
生きるためにとりあえず結婚せねばならず
逆にどんなに深く愛し合った夫でも
先立たれたら他の男に嫁ぐしか生きる道がなかったのだ

そういう社会機構の中でずっと女性の気持ちは無視され続けてきたので
エマやアンナが時代に先行して恋愛感情を顕わにしたからって
現代人の感覚で不倫だから不道徳とは言い難い

とか、若い時はエマやアンナに同調してたのだが
今になってよくよく考えてみると
エマは金持ちの愛人に駆け落ちを迫ったが断られてしまったし
若い恋人にはエマが満足できるような生活能力もなく
夫の元で暮らすしかなかったのだし
アンナは自身を求める男に対してその度に身を預けてただけで
2人とも結局は男に振り回されたに過ぎなかったのだ

いずれにせよ、この2人を責める気にはなれナイ(-人-;)

しかしトルストイが自身でアンナのようなヒロインを描きながら
「モーパッサン論」で『女の一生』のヒロインが
どれほど鬼畜な夫であれ、放蕩息子であれ、耐え抜いた
などと絶賛してる(※)のを苦々しく思ってた
※LINK:トルストイの『モーパッサン論』について

それがトーマス・マンの「アンナ・カレーニナ論」(※)を読んで合点が行った
LINK:『筑摩世界文学大系【37】トルストイ』収録

『アンナ・カレーニナ』の主役はアンナではなくレーヴィンである

なんですと。(゚д゚lll)ギャボ

レーヴィンはトルストイでありキチイもトルストイ夫人なのである

なるほど。(´д`;)ギャボ

生活力のナイ女の不倫の最期は自殺しかナイ、そんな教訓なのだなヽ(゚∀。)ノ

だからこそまあ世の中がこうも不景気になって
夫の収入だけで生活するのが困難な状況が当たり前になってくると
妻には夫に従う意味もなくなるので離婚率が上がるのは尤もな気がするるる~

une-vie

『脂肪の塊』はモーパッサンの中編小説だが
このタイトルに何を想像するだろうか?

これはこの物語に出てくる娼婦のコトで
実質そう呼ばれても仕方ナイ体型だったが愛称ではなく
誰も面と向かってはそうは呼ばなかった

【フォト/写真 5x7】 クレア・トレヴァー &ジョン・ウェイン #1 (キャビネ判 12.5x17.5cm) 駅馬車

彼女の職業を「卑しい」と認識してる人同士が噂話の中だけで
この見下した呼び名で判り合ってたのだ

脂肪のかたまり (岩波文庫)
駅馬車 [DVD]

そんな設定だけでも人間の本質的な下卑た心と
それをそのままそっくり反映させた態度が想像できてしまうが
そういう連中の犠牲に供される「脂肪の塊」ときたら
これが心優しい女だったり、とゆー不条理を見事に描ききった傑作だ

作者のギイ・ド・モーパッサンはフランスの生粋の洒落者で
長編『女の一生』が売れて時代の寵児となり
その後も【フランス人のエスプリ】の効いた作品を快調に発表し続けたが
それがウケるためにか、その後の長編にはやり過ぎ感もあり
『女の一生』を絶賛してたトルストイなどは一変して失望させられるのだった

不道徳で不埒な男が調子よく生きてるサマや
そんな男にのぼせる女の滑稽なサマや
更にその肉欲を貪りあうシーンなどに至っては
それがまかり通ってる時点でそこには作者の心情も信条も見えてこナイし
むしろ作者が悪徳の方にこそ肩入れしてるように見える

でも悪徳は小説の中にあってこそ愉しむべきモノだ
良識の壁を越えるコトのナイ日々の中で
1冊の本だけで(アルコールもあればより一層)息抜きができて
実際には堕落の罠にはついぞ嵌らず
現実的には身を持ち崩すような危険のナイ自分にこそ幸せを感じられるのである

自身を高潔に律してくれるような思想が迸る小説が正しい芸術だp(-_-+)q
とゆートルストイの嘆きは尤もだし
自分も最終的にはそういうモノを求めてるが
モーパッサンの醍醐味は正統派でナイシニカルな洒落にあるのだ!

【フランス人のエスプリ】を愉快に読み飛ばすには
「負け犬の強み」みたいなヨユーの部分がなくてはならナイのだが
トルストイは生まれながらの勝者ゆえ「絶対負けられナイ弱さ」があるのだ!!

だからモーパッサンの処女作にして
最も正統派の悲劇であるこの『脂肪の塊』に対しては
自分などは魂を引き裂かれるような衝撃を受けて
「脂肪の塊」と一緒に嗚咽するしかなくなってしまうのだが
トルストイは『モーパッサン論』の中で『脂肪の塊』については
一切言及してナイ。(゚д゚lll)ギャボ

トルストイは『女の一生』に感動して以降、モーパッサンを網羅したらしいが
もし『脂肪の塊』も読んだ上でスルーしてるのだとしたら
非常に残念に思う。(´д`;)ギャボ

そして一見何の関係もナイ映画『駅馬車』は
西部劇が好きなとーちゃんが特に気に入りのジョン・ウェインの出演作で
懐かしそうに鑑賞しだしたのを一緒に見たコトがある

その時には自分は初めて見たのだったが
途中からストーリーを知ってるような気がしてきたのは
モーパッサンの『脂肪の塊』を思い起こしたからだ!

それもそのはずで
原作はアーネスト・コックスの短編『ローズバーグ行きの駅馬車』だが
脚本を手がけたダドリー・ニコルズ曰く
西部に舞台を移したモーパッサンの『脂肪の塊』、だそうだ

但し物語の舞台が乗合馬車でそこに娼婦が乗り合わせてる以外には
むしろ共通項は見出せナイ

決定的な違いは
『脂肪の塊』では娼婦である「脂肪の塊」が孤立無援で救いようがナイのに対して
『駅馬車』の娼婦はならず者にだが求婚されて最期には清々しくさえある
まあその清々しさがハリウッドの売りなのだろうが
そんな『駅馬車』に比して『脂肪の塊』は悲壮感を満喫できるほど苦々しい

1番悪辣な軍人が1番力を持ってて
その権力の行使によって皆が苦痛を強いられ
中でも最も弱者である「脂肪の塊」がその犠牲者となり
しかも彼女が贄となるまではそうなるように仕向けてた連中が
贄となった後ではより一層彼女を蔑むのだ

この人々の非情な侮蔑に堪えられず「脂肪の塊」は嗚咽するのだが
このラストシーンには毎度泣けてくる。・゚・(ノД`)・゚・。

娼婦になりたくてなった女は人類史上ただの一人もいナイだろうに!

モーパッサンはそれがわかってる男だ
女性(の美)を崇拝し
女によって与えられる愛が齎す幸せの大きさをわかってるのだ

そして女が与える愛は男の肉欲を満たすだけのモノではナイ
自己犠牲を惜しまナイ献身的な愛で
ましてや「脂肪の塊」が愛情をもってして助けた連中は
自身を侮蔑の対象としてて、助けてやっても恩を仇で返してくるような輩だ
海より深い愛が踏み躙られた悲しみに胸が詰まって嗚咽する姿は
どれほど哀れでどれほど美しいか・・・

『女の一生』のジャンヌには同情の余地がナイが
「脂肪の塊」には憐憫の情のストックを空にさせられてしまう

トルストイは『脂肪の塊』を読んでも嗚咽しなかったのだろうか?

une-vie

モーパッサンは短編『ロンドリ姉妹』でも登場人物の女性を絵画に例えてるが
『女の一生』の主人公ジャンヌの容貌についても
冒頭部分に次のようにあり興味をそそる

ヴェロネエズの肖像画を思わせた。

「ヴェロネエズ」は現在では「ヴェロネーゼ」の表記が一般的だが
これはかのレオナルド・ダ・ヴィンチ(ヴィンチ村出のレオナルド)の如く
ヴェローナ出身ゆえにヴェロネーゼなのであり名前はPaolo Caliariだ

ヴェロネーゼの作品は『カナの婚礼』と『レダと白鳥』しか思い浮かばなかったし
ジャンヌが金髪でもあったのでレダのイメージで代用できたが
モーパッサンの意図にある絵がどれなのか気になるるる~

気になったらググれば゚+.(・∀・)゚+.゚イイ
それが今の世の中に生きてて唯一得したと思うトコロだが
早朝でも深夜でもPCに向かって数分で欲しいモノが見つかるのだよ

ヴェネチア女性の肖像・・・ジャンヌはフランス人だがこんなだろうか?

修道院から出たばかりの17歳の女の子にしては恰幅良過ぎだがw
しかしヴェロネーゼの作品は宗教画ばかりで肖像画は少なく
該当するような若い女性となるとこれくらいしか。(´д`;)ギャボ

ところでヴェロネーゼと言えばフランスにはVert Veroneseと称する色があり
HERMESのBirkinにもこのカラーがあるが・・・地味な色だ(※)
Vert Veronese

マーク・ジェイコブスがまさにこのBirkinを持ってたが
Vert(緑)とつくもののこのくすんだ色味は確かに男性には持ちやすい
こうしてみるとVert Veroneseはアースカラーなのだね

近い色でも一段トーンが明るいVert Anisだと全然ヴィヴィッドになり
名だたるBirkin持ちのヴィクトリア・ベッカムはこっちを持ってて
目に眩しい黄色いコートにバッチリ合わせてる

Vert Veroneseがどんな色なのかはわかったが
話を元に戻すとそのヴェロネーゼの緑はどの絵から派生してるのだろう?
これこそが最も興味深かったので探してみたが
それらしいくすんだ緑を用いた印象的な一作品がある
ってワケではナイような・・・(-_-;)

おそらく殆ど総ての作品で複数の人物を描いてるので
登場人物1人1人の表情を引き立たせるためにか
背景に木々などを配してても緑でなくほぼ茶色で描いてて
次のように珍しく木々の方がクローズアップされてる場合でも薄暗くて地味なカンジw

それにしても今は名画の画像がTumblrを通して出典を明示できるから
ブログで使いやすくなったな(*^^*)

☆追記...
モーパッサンの短編『酒樽』では
Petit Vertの語がブランデーのショットの意で使われてた
これ、使おう( *゚Д゚)つ[酒]

プチ・ヴェール、シルヴプレ~(ちょ~だい)!
フィ・ラン・シス(強いヤツを)!!