トリマルキオの饗宴

ペトロニウスの小説『サテュリコン』で
恐らく主人公よりも有名なのが
トリマルキオ(Trimalchio)だろう

Trimalchio はギリシア語で
「3度祝福された人」の意

イタリア人監督のフェリーニの映画では
トリマルキオでなく
トリマルチョーネとなってて
他の登場人物も原作と映画で読み方が違うので
下表にまとめておく

登場人物『サテュリコン』『サテリコン』意味
Trimalchioトリマルキオントリマルチョーネ3度祝福された人
Gitonギトンジトーネ隣人(ゲイトン)
Encolpiusエンコルピオスエンコルピオ抱かれる人
Ascyltosアスキュルトスアシルト決してへこたれない人
Eumolpusエウモルポスエウモルポ甘く歌う人

修辞学校の教師の名がアガメムノンなのは

なぜか、彼の名はトロイア戦争におけるギリシア遠征軍の総帥の名にちなむ

とあるが、助教師の名がメネラオスなので
安易にセットでこの有名な悪漢兄弟の名を使ったんだろう

そしてまとめておいてなんだが
臨機応変にどちらも使用する・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

小説の話題ならギトンでも
映画の話題ならジトーネだってワケだが
例外的にトリマルキオは
一般的にもトリマルキオで通ってて
例えば『トリマルキオの饗宴』と冠する本があり
この記事ではその本についても触れてるので
トリマルキオで統一しとくw

その『トリマルキオの饗宴―逸楽と飽食のローマ文化』が
以前は中公新書で出てたのが
『逸楽と飽食の古代ローマ―「トリマルキオの饗宴」を読む』と
中身はそのままでタイトルがちょっと変わって
2012年に講談社学術文庫から再版され
今では電子書籍化した

紙の書籍でも電子書籍でも
この本を手にして最初に捲るページてのが決まってて
それはつまり最も気に入ってる件なのだ

 そのとき、ブドウの葉とキヅタの髪飾りをつけた美少年がブドウの籠を手にして登場し、酒神バッコスのさまざまな仕草を真似ながら、トリマルキオの詩を甲高い声でうたった。

バッカスに扮した美少年が歌い踊るのを思い浮かべて呑むワインは
格別に美味い( *゚Д゚)つ[葡萄酒]

但し、些細なコトだが
岩波文庫の国原吉之助訳のように
ブドウは「葡萄」、キヅタは「常春藤」、と
漢字の方が香り高い気がするのと
「さまざまな仕草」と省略してるのは
後からちゃんと解説があるにせよ、いただけナイ
文中での鮮明な描写があった方が
より陶酔できるのに
ほんのちょっぴり残念に思う

『サテュリコン』では以下のように訳されてる

 こんな会話をかわしていたとき、一人の美少年が葡萄の葉と常春藤で頭髪を飾り、ときに陶酔の酒神バッコスを、ときに苦悩の解放者バッコスを、ときに霊感の鼓吹者バッコスをよそおい、葡萄の実の入った小籠を持ってまわりながら、彼の主人の詩を甲高い声でうたった。

トリマルキオがこの美少年の奴隷に対して
「ディオニュソスよ、自由(リーベル)になれ」
と、声をかけると
美少年奴隷は皿の上のイノシシの頭に乗せられた
解放奴隷の帽子を手にとって
自身の頭に乗せ
皆がそれを祝福してキスをするのだ・・・ホゥ(*-∀-)

これはトリマルキオが美少年を
奴隷の身分から自由にしてやった
と、自分には思えたのだが
注釈でもそこが判然としなかった

ところが『トリマルキオの饗宴』は薀蓄本なので
当然、この場面に対しての詳しい解説があり

 少年はトリマルキオがつくった詩を殊勝にも丸暗記しており、少年らしい高く通る声で朗唱した。詩の最大の理解者は作者であるという法則にたがわず、トリマルキオは深い理解と感銘から心を揺らし、その揺れが言葉となって現われた。

そして自分が悟った通りの状況が述べられてるので
胸がすくのだ!

しかし映画『サテリコン』ではこの場面はナイ。(´д`;)ギャボ

てか、原作に忠実な作りではナイので
既に饗宴に参加してるメンバー(※)からして
大いに違ってたりもするしね
『サテュリコン』では修辞学校の教師ら、エンコルピオス、アスキュルトス、ギトンだが、『サテリコン』ではエンコルピオとエウモルポ

それにしても古代ローマにおいては
奴隷、の単語から発せられるイメージに
陰惨さはまるでナイ!!

とりわけトリマルキオの饗宴においては
主人自身が解放奴隷だってのもあるのかもしれナイが

 少年奴隷たちは面倒な仕事中でもつねに歌をうたっていた。

なんて、陰惨どころか、底抜けに明るいし
アメリカにおける黒人奴隷なんかとは全く違ってて
主人の信頼を得られれば
ちゃんと人間性も尊重されるし
先述のバッカスに扮した少年のように
饗宴での才気の対価として
快く自由を与えるコトさえあるのだ

『サテュリコン』の著者であるペトロニウスは
実際の家族構成がどうだったのかは謎だが
シェンキェヴィチの『クオ・ヴァディス』の中では
美しい奴隷を愛人にしてたりもするし
そもそもローマ帝国の皇帝であるネロも
解放奴隷であるアクテに恋をして
由緒正しい王女だった正妻とは離婚して
アクテを愛人ではなく
正妻に迎えようとしてたのだ。(゚д゚lll)ギャボ

映画『クォ・ヴァディス』では
ペトロニウスと美女奴隷の恋愛が
非常にロマンティックに描かれてて
自分もこの時代に生まれるなら
美人の奴隷に生まれたいと思ったりw

ネロとアクテの恋物語は
『NERO ザ・ダーク・エンペラー』で堪能できるるる~

映画『QUO VADIS(1951)』

児童版『クォ・バディス』から引用すれば
主役のビニキウス(映画ではヴィニシウス)は

たくましいからだとととのった目鼻だちとをそなえたビニキウスは、いかにもローマの青年貴族らしく、きびきびしていた

とあり、凛々しいラテン系美青年を想起する

原作では未婚なので20歳そこそこの設定だろうが
ヴィニシウス役のロバート・テイラーは1911年生まれで
映画出演時(1951年)には40歳。(゚д゚lll)ギャボ

【趣味の審判者】たる叔父のペトロニウスが
彫刻家がヘラクレスのモデルに使いたがると形容してて
確かにマッチョなハンサムではあるが
いかんせん、瑞々しさに欠く

ヴィニシウスの役ドコロは
惚れた女に洗脳されて
改心してキリスト教徒になって
持ち前の正義感を発揮して
仲間の救出に尽力するようになるも
結果的には叔父ペトロニウスを裏切って
皇帝ネロに反目する立場になるので
簡潔に表現すれば青二才だw

しかしローバート・テイラーでは
とてもそうは見えん。(´д`;)ギャボ

女のために信念を曲げるなんて
以ての外ってカンジに顔が締まってて
とても胡散臭い新興宗教にかぶれてる女に
のぼせてしまうようには見えんて

それに加えて
往年のスターだったのが鼻についたかもだ

それも年を追う毎に人気が低迷してきたので
起死回生を懸けて身体を鍛え上げて
アクションスターへ転向を計った第1作目p(-_-+)q
そんな意気込みが見て取れてしまう

それでもまだそこはかとなく
甘さを兼ね備えてて
どんなに荒々しく傍若無人に振舞っても
強面にはならぬ甘やかさがあるのが
この往年のスターの最大の魅力であろう
そこに頑なな聖少女さえも
つい心を許してしまうのはわかるるる~

こうしてヴィニシウスの年齢設定があがったせいで
相手役の年齢設定もあがったのだろう

児童版『クォ・バディス』には
アウルス将軍の息子とボール遊びをして
頬を紅潮させてるリギア(リジア)の挿絵があったので
せいぜい16~17歳と推定してたが
演じてたデボラ・カーは当時なんと30歳ヽ(゚∀。)ノ

尤もその神々しいまでの美貌で年齢を超越してたし
リジアを本トに10代の少女が演じてたら
四十路のヴィニシウスとのロマンスに
無理があるってモノだ

また児童版『クォ・バディス』によるリジアの容貌は

黒いふさふさした髪を持ち(中略)夢の楽園の天使のよう

とあるのから自分は勝手に
『緑園の天使』でのエリザベス・テーラーを当て嵌めてて
ブロンドのゴージャス美人のリジアには
正直、面食らったのだった

しかしその想起は自分だけではなかったようで
リジアに扮してカメラテストを受けてるリズの写真が
IMDbにアップされてた!

でもこの頃はもう色っぽ過ぎて
リジアにはミス・キャストだ(-_-;)

デボラ・カーはこの後
『ジュリアス・シーザー』にも出てて
ブルートゥスの妻を演じてるが
圧倒的な美しさを誇ってる

『黒水仙』での尼僧姿も
『キング・ソロモン』での探検家スタイル(?)でも
その美麗さには遜色がなく
むしろ装飾を取り払ってしまってこそ
ますます光り輝いて見える本物の美女だが
それが『クォ・ヴァディス』では
不遇な身上の元王女で
敬虔なキリスト教の信者なので
泥沼に咲く蓮のような清らかさが満ちてる

また、バレエをやってた人特有の
無駄な脂肪がナイ肢体を
三十路過ぎても保ってて
特に二の腕は賞賛に値する・・・ホゥ(*-∀-)

主役にロバート・テイラー
相手役にデボラ・カー
このキャスティングだけで
ハリウッド映画としては既に成功してるが
歴史大作としてはやはり
主役の美男美女だけでは納得できん!

ネロ、ペトロニウス、セネカ、ペテロなど
実在した人物が大多数なので
そのキャスティングの妙にこそ真価が凝縮されてる

自分はキャラ的にペトロニウスが大のお気に入りだが
レオ・ゲンのペトロニウスは
奴隷のユーニス役の美女とセットで好かった

ネロはローマ皇帝の中では1番好きなのだが
ピーター・ユスティノフのネロもなかなか可愛くて
ポッパエアの毒女ブリと好対照だった

惜しむらくは
もう少しセネカに活躍して欲しかったが
まあ史実的にも
ローマの大火の前に隠居してたからしかたナイ

但し、ローマの大火でネロが火付けを指図したなんて
歴史的事実に反してるんだがね・・・
だいたいネロに対する誹謗・中傷は
キリスト教徒の陰謀でしかナイ

そんなコトを言ってる自分も
初めて読んだ頃には
まだ世界観が確立してなくて
憐憫の情だけは持ち得てたので
迫害されるキリスト教徒に同情を禁じえず
逆にネロが悪の権化だと
うっかり真に受けそうになってたのだった

Domine, Quo vadis?

1951年のハリウッド映画は
英語読みの『クォ・ヴァディス』で
1954年の岩波文庫も
同じく『クォ・ヴァディス』だった

これが1995年に岩波文庫から出た新訳では
ラテン語に忠実な読みになって
『クオ・ワディス』とされてしまった。(゚д゚lll)ギャボ

通常はギリシア語名やラテン語名の
英語読みには反対派なのだが
長年に渡って慣れ親しんでしまうと
正しい方に違和感がある。(´д`;)ギャボ

かつて自分が愛読した児童書は
1964年に出た偕成社少女世界文学全集だが
Vが「ヴ」でなくて
「バビブベボ」に置き換えられてて
『クォ・バディス』だったし
著者名もシェンキェビチになってたし
映画ではヴィニシウスとリジアだったのも
ビニキウスとリギアだった

しかし新訳はラテン語読みに正しく
『クオ・ワディス』になってるのと同様
ヴィニシウスもウィニシウスとなり
何が不便かってググる際に
何通りもググる必要が生じるし
そうしてググる人のコトを考えると
こうして記事にする時にも
表記について延々と説明する羽目に(-_-;)

てなワケで
表記についてが長くなったが
以下は本題の「QUO VADIS」の意味について

『新約聖書』では「ヨハネの福音書」13-36の
【最後の晩餐】のすぐ後の場面での
シモン(別名ペテロ)の科白に出てくる

Domine, Quo vadis?

Domine:主よ(とゆー呼びかけ)
Quo vadis?:いずこへ?
主と呼ばれたイエス・キリストの行く手には
磔刑に処される運命が待ち受けてるので
最終的な行き先は処刑場だ

しかしイエスはこれに答えず
シモンに以下のような暗示的な予言をする

鶏が鳴くまでに、あなたは3度わたしをしらないと言います。

シモンは予言通りに
イエスを知らナイと3度言い
イエスは十字架に架けられたが
シモンは免れたのだった

以降、シモンはペテロを名乗るが
その後、ローマにおいて
ぺテロ自身の身の上が危うくなり
こっそりローマを出ようとした時の話が
『新約聖書外典』の「ペテロ行伝」35にある

逃げ出そうとしてるまさにその時
イエス(の幻影)が現れて
ペテロが同じ科白でイエスに問うのだ

Domine, Quo vadis?

イエスはローマに戻って
十字架に架けられようとしてたので
「今度こそ自身が十字架に架けられよう!」
そんな決意をしたペテロは
ローマに戻って磔刑に処された

しかも主と同じでは畏れ多いとして
わざわざさかさまになって
十字架に架けられたが
シェンキェヴィチの小説に出てくるのは
後の方の問いかけのシーンだ

それにしても「ペテロ行伝」が
『新約聖書』の正典から排除されたのは
正典とするのに相応しくなかったからだろうが
その基準は曖昧模糊としてる

ユダヤ教とキリスト教では
正典に入れてるモノが同じではなくて
そんな事情からも明らかなように
正典か外典かの差と信憑性は無関係だ

ぶっちゃけ、どちらも信憑性に欠けるが
外典にも興味深い挿話は満載で
芸術作品の主題になってるモノも多い

と、この辺りでそろそろ
『クォ・ヴァディス』のあらすじを
映画版に沿って紹介しておく

青年貴族マーカス・ヴィニシウスのいた軍隊が
凱旋帰国したが
そのまますぐに帰宅できなかったのは
ネロが戦勝記念の祝典を行うまで
足止めを食らったからだった

その間にヴィニシウスは
アウルス将軍の館で世話になるが
この館で運命の美(少)女リジアと出会う

リジアとはローマに滅ぼされた蛮族の国名で
ローマにしてみたら蛮族抑止のための討伐なれど
勝手に蛮族呼ばわりされて滅ぼされた方からすると
ローマに略奪されたとしか言いようがナイが
その討伐なり略奪なりの際に孤児になった娘が
亡き祖国の名を名乗ってた

それもそのはずで
リジアはただの戦災孤児でなく
その国の王女だったらしく
忠実な下僕の巨人ウルススも
共にアウルス将軍の家に身を寄せてた

本来なら元の身分に関係なく
侵略されてローマ帝国の一部となったら
その国の民は王女であれ
ローマ人の奴隷となるのが常だろうが
リジアはアウルス将軍夫妻に
本トの娘のように大切に育てられてた

これはキリストの教えの高潔さが
この物語の主題でもあるので
キリスト教徒のアウルス夫妻が
慈悲心に優れてると示したかったのだろう

映画ではヴィニシウスとリジアの
ロマンス仕立てにもなってるが
基本的にはヴィニシウスの改悛の物語であり
キリスト教徒が大嫌いなネロを
ローマの大火の犯人に仕立て上げて
極悪非道のレッテルを貼るのが
目的なのではなかろうか?!

著者のシェンキェヴィチはポーランド人で
もちろんキリスト教徒だろうが
それ以上に祖国の独立を望んでて
圧政に対しての正しき者たちの抵抗を
描きたかったのだろうし
そこでわかりやすいように
ネロの時代を脚色したのだろう

でもローマの大火はネロの仕業ではなく
キリスト教信者はネロ以外の皇帝も
厳しく取り締まってたのだ

ちなみに「ペテロ行伝」の最後には
ネロがペテロの処刑には関わってなかった事実と
その後キリスト教信者の迫害から
手を引いたコトがちゃんと述べられてる

またリジアなる国は
実はポーランドのコトで
故国を失った王女リジアは
シェンキェヴィチ自身を投影してるるる~

映画『クォ・ヴァディス』のユーニス

ポーランド人の作家シェンキェヴィチの
歴史長編小説『クォ・ヴァディス』は
1951年に映画化された

ハリウッド映画なので
登場人物の名は英語読みされてて
ペトロニウスの愛人となる奴隷女の名は
Euniceでユーニスだった

偕成社世界少女文学全集の『クォ・バディス』や
岩波文庫『クオ・ワディス』での
エウニケの呼び名の方が自分的にはしっくりくるが
以下は映画についてなので
ユーニスで統一する

このユーニスを演じてたのは
Marina Bertiなる女優で
画像のように圧倒的な美貌の正統派の美人

地中海を越えて
ローマに連行されて(と、自ら語ってるが)
折りしもペトロニウスに仕えるコトになったのだが
そんな境涯の不遇は全く気にかけておらず
むしろ愛しい主人の傍に仕えて
幸せを噛み締めてるような女である

なんせ主人のペトロニウスにメロメロでも
奴隷が主人に告白をするなんて
身分が違い過ぎて到底できなかったので
ユーニスにとって唯一の不幸は
想いを秘めねばならナイコトだった!

ところがある日
ペトロニウスの甥の元にやられそうになり
それを激しく拒絶するるる~

どんな罰を受けても構いません、どうか、おそばに!!

ユーニスを貰い受けるはずだった男こそが
主人公のヴィシニウスなのだが
元より彼には別に貰い受けたい女がいたのもあり
ペトロニウスはユーニスを手放すのを諦め
主人に逆らったコトに対して
ユーニスにムチ打ち5回の罰を与えるも・・・

ペトロニウス「ムチ打ち5回だ」
ユーニス「ここにいても?」
ペトロニウス「行い次第だ」
ユーニス「ありがとうございます」

どんな罰を受けても
愛するペトロニウスの元を離れたくナイp(-_-+)q

そうしてユーニスは
したたかムチ打たれた後で
秘かに主人の胸像にキスをしながら
さも愛しそうにささやく

愛しいご主人様、お慕いしてます、お伝えできたらいいのに・・・

美女がうっとりとした表情でつく溜息の
なんたる甘やかさ・・・ホゥ(*-∀-)
そんなユーニスを作品にしたミュシャは天才だ!

そしてまたある日
ついに告白するチャンスが訪れた

ユーニス「老婆の予言の詩があるんです」
ペトロニウス「どんな?」
ユーニス「すみれ色のローマの海に/ヴィーナスが現れて/恋人たちを結び付ける/彼女の腕で永遠に」

ペトロニウスはこの時まで
ユーニスの気持ちには全く気付かず
使用人の誰彼と相手の名を挙げるのだが
ユーニスは総てにうなだれながら首を振り続け
最後に主人をまっすぐに見据えてこう言う

He’s my lord.

一瞬硬直したペトロニウスだったが
ユーニスほどの美女に言い寄られては
拒絶できるワケもなく

すみれ色の海へ私が誘ったらどうなる?

なんて返しができるトコロが
いかにも洒落モノらしいw

そんなペトロニウスに対して
逆にユーニスは全く捻りがなくて
えくぼまで作って顔を輝かせながら
小犬のように足下にすがり

嬉しくって気絶します!

しかしどうするかを問いかけただけで
まだ誘われたワケではナイのだ
と気付いた瞬間にしゅんとしてしまう

あとはお誘いだけ・・・

てか、この一言こそが誘いでなくて何なのだ?!
そして男の方からがっつり誘わなくてどうするのだ!!

ペトロニウス「それではアンティオキアへ」
ユーニス「ポカ~ン(゚ o ゚*)」
ペトロニウス「気絶しないのかね?」
ユーニス「支度をします、今すぐに(^▽^*)」

愛するコトしかできナイ女が
愛されるコトで幸せの絶頂へ・・・
だが、幸せな日々は続かなかった。・゚・(ノД`)・゚・。

ペトロニウスには死を予見してた

ユーニスが奏でる竪琴にも死の影を感じ
遂にネロに自殺を命令され
友人を呼んで最期の晩餐の場で
自殺を宣言し決行

ユーニスは何の迷いもなく一緒に果てた
寄り添って眠るように死んでる2人が
なぜか幸せそうに見えた

こんな美しい女に命懸けで愛される男は
そりゃあ幸せだったろう

『砂男』と『ネオン・デーモン』

早朝に映画を観てたのは
前夜に1度観た『ネオン・デーモン』の
細部を確認したかったからだ

こんな衝撃的なシーンから始まるが
一緒に観てたダンナは
これがドールだ(人間ではナイ)と断言。(゚д゚lll)ギャボ

自分はモデルの物語だと知ってたので
ドールに見立ててる人間だと思いつつも
100%の自信がなく・・・

クローズ・アップになってみて
その瞳を確認してから
やっと人間だと確信・・・ホッ(*-∀-)=3

そうして人間かドールかの区別をするのに
自然と瞳に注目するのは
自分だけではナイだろう

今はカラ・コンが普及したので
ドールぽい目にも見せかけられるが
だからこそ、逆に
いかにもドールぽい目ならば
人間が意図してやってるのがわかる

ましてや今の自分は
『眼の世界劇場』なんて本を読んでる最中で
目玉に対して敏感になってるのだがw

そもそも先週(あ、もう先々週か)
『ホフマン物語』のオペラを観に行って
どうにも腑に落ちナイ部分を
ホフマンの原作や原文のドイツ語まで
検証してる最中だったのだ

オートマタ(自動人形)のオランピアと・・・

彼女を創ったスパランツァーニ博士以外に
その目玉部分だけを提供してるコッペリウスの
存在の奇妙さに引っ掛かってた

見ての通り
象徴的に目玉を配した衣装も
渦巻や螺旋を配したオランピアの巨大ドレスに
引けを取らずヽ(゚∀。)ノ

原作では
夜遅くまで起きてる子供の
目玉を砂男が抉り出すなんてコトを
乳母やがまことしやかに話して
幼かったナタナエルを怖がらせてる

そこまでで済めば
大人になったナタナエルは
忘れるか、思い出して笑うレベルだろう

しかし実在した弁護士コッペリウスの正体が
砂男だと確信してたナタナエル。(´д`;)ギャボ

青年になってからも
そっくりの晴雨計売りのコッポラに遭遇したら
すっかり現実として砂男が蘇えるるる~

しかも理想の女性と思って恋したオランピアが
コッポラに目玉を刳り貫かれてて
実はオートマタだったと気付くなんて
夢にしたって酷い悪夢でおかしくなりそうだが
残酷にも現実なのだった

((((; ゜Д゜))) ガクガクブルブル

思いっきりネタバレしてしまうと
『ネオン・デーモン』でも
目玉が象徴的に出てくる(以下、グロテスク画像注意)

これはラスト・シーンで
モデルが吐き出した目玉だが
これをもう1人のモデルが拾って
呑み込んだトコロで終わり
文字通り後味が悪い結末となってる(゚*゚;)

目玉を吐き出すきっかけになったのは
その時、プールサイドでの撮影だったが
水底に見える2つ並んだ栓が
まるで目玉のように見えてた(のは気のせい?)

それが水流によって揺らいで見えてて
吐き気を催してしまい
控え室へ駆け込む(最終的には嘔吐)

そのずっと前の場面で
鏡に描いてるこれ・・・

この×が2つ並んでるのも目玉(が無い状態?)・・・
てのは考え過ぎだろうか?

そんなワケで色々気になって
翌朝、再度、じっくり観てみたら
主人公の少女と契約するモデル・エージェンシーが
ロバータ・「ホフマン」・・・バタリ ゙〓■●゙

やはり『砂男』の不気味なモチーフを
意識して使ってる・・・のか?

いや、鏡が出てくるシーンも多いから
むしろ『砂男』だけでなく
『ホフマン物語』なんだろうか???

特にモデルの1人が
整形しまくりの人工的美女って設定で・・・
(彼女にとっては歯を磨くのと整形は同義らすぃw)

その彼女がランウェイのバックステージで
独特の奇抜なメイクを施されて
まるで他人のように鏡の中の顔を見てたりするが
その鏡像はまるでピエロ。(゚д゚lll)ギャボ

整形しまくりの時点で彼女自身の本来の顔と
鏡に映る姿はかけ離れてしまってるのに
美しさを極めてトップモデルの座を手にしても
鏡像がピエロ。(´д`;)ギャボ

何とも皮肉な事態だw

そして別のモデルは
オーディションに落ちた際に
鏡をぶち割った!

それまではナルシストで
鏡を見ては惚れ惚れしてただろうが
恐らく初めて
第三者に拒絶されてしまったので
今まで信じてた鏡像に
裏切られた感がそうさせたのだろうか(゚ ゚;)

そして主人公の少女が
ランウェイのラストの1番気合の入ったドレスを着て
登場するシーンがこんな・・・

三角3つからなるこのネオンが
タイトルのネオン・デーモンなのか???

個人的にはこの主人公の気絶シーンが
最も美しさを堪能できた

それにしても『砂男』のまとめ中に
なんでこんな映画を観てしまったのか?!

凄いシンクロニシティだヽ(´▽`)/

テスとバスシェバ

作者が同じくトマス・ハーディの
『ダーバヴィル家のテス』のテスと

『遥か群衆を離れて』のバスシェバは

その美貌や高潔さなどがよく似たタイプの女だ

しかしテスの一家は困窮してたので
テスが養うしかなかったが
かたやバスシェバは遺産を受け継いで
牧場主となり、成功して金持ちになった

テスは生活のために自らを恥辱に晒さねばならず
またそれがために愛する男に拒絶されるも
バスシェバは条件の゚+.(・∀・)゚+.゚イイ男のプロポーズも拒み
初めて恋した相手を悠々と夫に迎えるのであるるる~

但し
バスシェバに限らず
世間ではよくあるコトだが
夫は博打好きで酒に溺れるタイプで
妻以外の女にのめり込みやすく
更に放浪癖があった・・・

呑む、打つ、買うは
男の甲斐性だったらまだしも
バスシェバに依存してるのだから
タチが悪い(-_-;)

とはいえ
稀にこれらの悪癖を全く持ち合わせてナイ男もいるが
テスの愛したエンジェルのように
無駄な生真面目さで女を傷付けるのは
尚更タチが悪いし
新婚初夜を迎える寸前に
妻を拒絶するとは
「タチ」も悪いのかヽ(゚∀。)ノ

換言すれば
テスは結婚生活での苦労はなかった!
愛人生活にしたって
アレックが溺れてるのがテスだけだったし
生活する上での金銭的な苦労は
一切、なかったはずだ

実際、テスのような極貧の娘が生きてく術は
貧農の男に嫁ぐか
金持ちの愛人になるしかナイのは
わかりきってる事実だ

どうしても嫁ぎたい貧農の男がいなければ
金持ちの愛人だって゚+.(・∀・)゚+.゚イイじゃナイか?

もしかしてテスは
サミュエル・リチャードソンの『パミラ』で
小間使いのパミラが本妻に成り上がったように
アレックから愛人でなく本妻に望まれたら
子供じみた抵抗などせずに上手くいってたのだろうか?

でも愛人に望まれた純潔至上主義者のテスは
操を守りきれなかった自身と
相手の男をひたすら呪い続けるるる~

テスがこの呪縛から解放されるためには
価値観をひっくり返されるほど
恋人に愛されるしかなかっただろうが
エンジェルはテス以上に純潔至上主義者だったため
相手の男のアレックだけでなく
愛する女のはずのテスも
同じように呪い
穢れてる女とは別れるのだったΣ(゚д゚lll)ガーン

愛する女自身よりも
女の純潔の方が大切で
それを失ってしまったら
女には愛する価値が無いのか???

そんな奇異な価値観を振り翳してくる男よりは
酒と博打と女に溺れ易いトロイの方が
自分にはまだしも人として愛らしいと思えるが
(放浪癖さえなければねぇ・・・)

結末では
エンジェルがテスを赦せるまでに
人としてやっと成長したので
テスを迎えに行くのだが
時既に遅し・・・

と思いきや!
テスはアレックを殺害して
エンジェルと短い逃避行の末に捉えらえ
後に処刑されるのだった!!

かたやバスシェバは
生活に困るコトもナイので
トロイに酷い目に遭いながらも
最期まで愛し続けて
むしろ愛情のストックがある間に
トロイが死んでくれて
こう言っては何だがほっとしただろうし
きっと幸せだったと思う。・゚・(ノД`)・゚・。

夫が単に浮気性だと
嫉妬で腸(はらわた)が煮えくり返るくらいで
赦せば戻ってくるのだと思えば
幸せでいられるし
そんな夫が死んでしまえば
もう浮気のしようもなくなるから一安心だヽ(´▽`)/

女は基本的には
男より精神的に逞しく明朗快活だが
それは男のように無駄なプライドを持ち合わせておらず
実力が無いのに虚勢を張っては
弱点を突付かれていじけたりしナイからだし
まともな女は家事だの雑事に追われて生活してるので
そんな風に自身の殻に閉じ篭って
周囲に当たり散らしてるような暇も無いのだ

女が底力を発揮するのは
不幸な目に遭ってこそなのだと思う(*^^*)

悲恋の経験だって
それを乗り越えられれば
人生を豊かにするし
女の本能がそうと知ってるから
恋愛に勇猛果敢に挑むのだォゥ( -∀-)/

見てくれの「女子力」なんかあったって
当たり障りの無い男にちやほやされて
まるで自惚れが強いだけの
男尊女卑の男みたいになるだけだw

それにしても映像化された『テス』は
ナスターシャ・キンスキー版も
ジェマ・アータートン版(BBCのドラマ)も
テスがアレックに
苺を食べさせられるシーンが゚゚+.(・∀・)゚+.゚イイ

このシーンが恋の始まりのように映るから
テスがアレックを拒む理由がわからなくなるるる~

だって心底嫌なヤツだったら
その手から苺を口に入れられたりしたら
絶対に気持ち悪くて食べられナイのが女ってもんよ?

主従関係によって拒むコトができなかったとしても
後から意地でも吐き出すと思うから
そういうシーンが必要で
それがなかった以上
テスがアレックを心から拒んではいナイばかりか
受け入れてるように見えてしまう・・・

そしてジェマ・アータートンのこのカウルと・・・

この日傘・・・

こういうのを編んでみたいヽ(´▽`)/

読書感想文『ダーバヴィル家のテス』

ヒロインが理想的な男性に見初められて
途中、紆余曲折あるも
ハッピーエンドヽ(゚∀。)ノ

ハーレクイン・ロマンスとか
ハリウッド映画なんかにもありがちな
男女の恋愛だけが主題の安易な展開の物語には
既に小学生の頃から辟易してたので
悲劇的な結末と知って
『ダーバヴィル家のテス』を読んだ

高校生の時だった・・・

☆・・・☆・・・☆

感動が人生を形成してきた

芸術であったり
科学であったり
哲学であったり

自然主義文学はつまらナイ

恋人と添い遂げて幸せか
思いを遂げられなくて不幸か
それしか選択肢のナイ人生

ハーレクイン・ロマンスは
ロマンスと謳ってるけど
根本は自然主義文学なのかもな?

ハーディのTess of the d’Urbervillesを読んで

☆・・・☆・・・☆

このたった12行の感想は
学生時代のルーズリーフ片から拾ったモノだが
読書感想文の最短記録であるるる~

今にして思えば
この時は物語の背景にある処女信奉が
どうにもかったるく感じて
途中からはもう悲喜劇にしか思えなかったし
極めつけの処女信奉者のエンジェルが
とにかくウザかったしキモかった(゚*゚;)

ところが2007年の晩秋に再読して
ナスターシャ・キンスキー主演の映画も観た後では
テスの方が病的な処女信奉者で
狷介固陋(けんかいころう)で身勝手な女で
同情の余地はナイと思った

頑迷固陋(がんめいころう)でなく
狷介固陋なのだ

頑迷固陋
頑固で視野が狭く、道理をわきまえないさま。また、自分の考えに固執して柔軟でなく、正しい判断ができないさま。頭が古くかたくななさま。▽「頑迷」はかたくなで道理に暗いこと。「固陋」はかたくなで見識が狭いこと。また、頑固で古いものに固執すること。「迷」は「冥」と書くこともある。
狷介固陋
かたくなに自分の意志を守って、人のことを受け入れないさま。また、かたくなで頑固なさま。▽「狷介」は自分を固く守って妥協しないさま。「固陋」は自分の狭い視野にとらわれてかたくななさま。

テスの場合
道理を弁え過ぎてるのが問題だった

テスが最初から
アレックの愛人に収まってれば
万事上手く行ったはず・・・(;つД`)

男を見る目がナイばっかりに
゚+.(・∀・)゚+.゚イイ男(アレック)を蹴って
バカな男(エンジェル)に愛を捧げて
総てを曝け出して、赦しを乞うてみたら
挙句、捨て置かれたなんて・・・バタリ ゙〓■●゙

ましてや
テスに処女信奉を振り翳しておいて
エンジェル自身は童貞ではなく
憤懣やるかたなかったp(-_-+)q

それにしたって
テスがつくづく狷介固陋だと思うのは
己の立場をわかっておらず
破滅的な行動に走ってしまう部分だ

テスは自身の家族を養うために
アレックの愛人になってて
エンジェルに顧みられなかった間
テスもテスの家族の生活も
アレックに任せっきりだったのに
なぜエンジェルについて行きたい衝動のままに
アレックを刺せるのかがわからナイ?

自分がテスなら
裏切ったエンジェルなんかより
実質的に養ってくれてるアレックに恩義を感じて
身を引くのが当然だと思うけど・・・

なぜ激情にかられてアレックを刺してまで
エンジェルなんかを追うんだろう???

あ、でも、そうか?!

それでアレックの愛人に収まってから
2人の間に真実の愛が芽生えて
可愛い子供が生まれて大団円とか
最終的にはアレックの本妻として認められて
シンデレラ・ストーリー的なハッピーエンドとか
そんなだったら再読ドコロか
最初から読んでなかったと思われw

そして再読した2007年の
読書感想文(てか、メモ書き)が以下

☆・・・☆・・・☆

2度目の『テス』筑摩世界文学大系版

白雪をちりばめた紅ばらという、エリザベス朝の古めかしいたとえを、これほどしつこく、くり返し思い出させる女性の唇と歯を、いままで彼はついぞ知らなかった。彼は恋人としてだったら、それらを即座に完璧な口もとだと呼んだかもしれない。しかし、いや――それらは完璧ではなかった。一目みて完璧と見まごう画面に、一刷毛の描き残し、または不完全さが残っていてこそ、甘美な魅力は生まれるのだ、――不完全さ、それは人間性を発揮する要素だからである。

自然が望む美はシンメトリーなのだが
人間が憐憫の情を抱くのはアシンメトリーで
完璧にほど近い美の中の
僅かに不完全な愛くるしさなのだ

そんなテスの唇を見つめる時
恋人のエンジェルは
全神経を貫く薫風が吹き起こり
めまいがするそうで
この薫風はギリシア語で「アウラ」
大沢衛の訳は【開花発気】だ
なんて瑞々しい表現だろう・・・ホゥ(*-∀-)

Snow-White and Rose-Red

この表現がエリザベス朝の文学で
散見されるのだろうか?

エリザベス1世の治世は1558年~1603年(44年!)で
この時代の文学と言えば
演劇が持て囃されてたのでほぼ戯曲で
シェイクスピアやマーロウか?

☆・・・☆・・・☆

更にナスターシャ・キンスキー版のDVDを
視聴した際のメモが以下・・・

☆・・・☆・・・☆

ロマン・ポランスキーによって
映画化された『テス』では
小説で想像してたよりも幾分明るいイメージの
ナスターシャ・キンスキーが
ハーディの美的表現通りのテスを演じてたが
当時17歳のキンスキーは
この時ポランスキと深い仲だったそうで
だからこその出来の良さなのかもしれナイが
そこにどうにも苦々しさを感じてしまうのが残念だ

映画『テス』はポランスキーの
亡き妻シャロン・テイトに捧げられたが
それは彼女こそが夫に映画化を勧めてたからなのだ
チャールズ・マンソンの狂気の犠牲となる前に・・・

☆・・・☆・・・☆

シャロン・テート・・・美しい方でした

チャールズ・マンソン率いる「ファミリー」が
身重のシャロン・テートを惨殺したのは1969年で
死刑宣告を受けてたマンソンだったが
その後、終身刑となって服役中だったはず・・・
Wikiによればマンソンは昨年末に獄死したらしい

『遥か群衆を離れて(2015)』

2018年3月の時点で
日本では原作の翻訳も絶版状態で
オリジナルの映画もソフト化されておらず。(゚д゚lll)ギャボ

自分はこの2015年のリメイク版を
字幕版も吹替版もWOWOWで観れた(録画した)が
未だにソフトが出てなくて
アマゾンビデオで字幕版が観れるだけの状態。(´д`;)ギャボ

なぜ日本ではこの作品ばかりが
ここまで蔑ろにされてるのか
理解に苦しむ・・・

同じトマス・ハーディ原作で
やはり何度も映画化されてる『テス』は
2種がソフト化もされてるし
原作の『ダーバヴィル家のテス』の翻訳などは
岩波、ちくま、河出・・・と枚挙に暇がナイ程出てて
加えていくつかの全集にも収録されてて
小林清一訳で電子書籍にもなってて
『テス』の解釈本まで数冊あるとゆーのに?!

それにしても冷静に考えてみると
テレンス・スタンプのファンである自分にとって
彼が出てナイ『遥か群衆を離れて(2015)』は
観る意味があるのかどうか・・・?

ましてやバスシェバ役が
『華麗なるギャツビー』の最新(2013年)リメイク版で
デイジーをやったキャリー・マリガンとはね。(´д`;)ギャボ

自分は1974年版での
ミア・ファローのデイジーがお気に入りなので・・・

キャリー・マリガンのデイジーは
余りにもイメージが違ってて
観るのを躊躇した(結局は観たけど)。(゚д゚lll)ギャボ

『華麗なるギャツビー』に比べれば
『遥か群衆を離れて』の方がギャップは少なくて
これなんかは凄く可愛くて
個人的には好きなカンジではあるるる~

でもこれが強気の処女バスシェバかって言えば
どうも違う気がしてならナイ(゚*゚;)

どちらかと言えば
トロイが愛したファニーのイメージだ

これがオリジナルのファニーだが・・・

こちらは2015年版のファニー

こうして見ると
キャリー・マリガンがファニーで
ジュノー・テンプルがバスシェバだと
好かったような気もしてくるが
そうなると男性陣もそのままではダメだな

男性キャストと言えば
2015年版ではトロイとオークだったら
断然オークの方が゚+.(・∀・)゚+.゚イイ男に見えるが・・・

犬のせいじゃナイよな?

トロイはこれ
ただのオッサンにしか見えんが・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

しかもそれでいて
゚+.(・∀・)゚+.゚イイ男の如き振る舞いでは
そもそも強気のバスシェバなら一笑に付して
惚れ込むワケもなかろうp(-_-+)q

アマゾンビデオのレビューでは
テレンス・スタンプのトロイを知らずに
この2015年版のトロイだけを見て
「キモイ」キャラ設定してる人もいるくらいだから
バスシェバ以上にミスキャストだろうw

これならボールドウッドの方が
まだしも・・・いや、断然素敵だろう!

但し、この2015年版のボールドウッドは
原作のイメージより若過ぎる気もするがね

でも原作者トマス・ハーディの意図するトコロを考えたら
オークとトロイとボールドウッドは三者三様で
それぞれに魅力的に描かれるべきなのでは?

自分はオークが好みのタイプではナイが
朴訥とした男が一途に想い続けながらも
その想いを周囲にはひた隠して
影で支えるコトができる程に男前になって
最後にはその成長ぶりを認めたバスシェバが
かつては「あなたを愛してません!」と
プロポーズを断ったのに
「愛してるから戻ってきて!!」と
乞うようになる・・・
これって純朴な青年の成長物語として見れば
凄く感動的な物語ではあると思う

そしてオークを受け入れるには
バスシェバにも恋愛・結婚の破綻を
経験する必要があったとも思う

う~ん、深い・・・

だから、こんなに面白い物語なのに
なぜ、日本では疎んじられてるのだろうかヽ(゚∀。)ノ

La donna è mobile バスシェバの女心

NHK BSの『クラシック倶楽部』を
早朝にやってた時は
毎朝、家事をしながら聴いてた

お気に入りの曲を好ましく奏でてくれてる奏者だとか
稀に美しく装飾されたチェンバロとかだと
家事の手を休めて
画面に釘付けになるコトもしばしばw

ある時
セルソ・アルベロのテノール・リサイタルで
オペラのアリアを程よく軽快に歌ってた

でも自分は常々
オペラは朝っぱらから観るモノではナイ(-_-;)
と、思ってたのだが
それは朝の爽やかな空気感を払拭してしまうからだ

ところがアルベロの明るく透明感のある声には
そんな懸念は吹き飛んでしまい
すっかり魅了されて
ソファーに腰を据えたトコロで
ヴェルディの『リゴレット』のアリア
「女心の歌」が始まった

La donna è mobile
Qual piuma al vento

女は(donna)気まぐれ(mobile)だ
風(vento)の中の羽(piuma)のように

mobile(モービレ)は英語のmobileと同義なのだな
まあ固定されてナイ電子機器を
モバイルと言うのはもはや日本語でもあり
世界共通のIT用語だがね

そんな歌い出しで始まるこの曲には
日本語の歌詞が何種類かあるくらいだから
きっと原詩の表現が抽象的なのだと予測できるが
この時の字幕にはぐっとキタ━━━━━(゚∀゚)━━━━━ !

恋にうるむ肌に触れずにいれば
女心は変わるよ、風の中の羽のよう

恋にうるむ肌・・・てのが゚+.(・∀・)゚+.゚イイ!
科学的に、物理的に、潤わすのでなく
スピリチュアルな潤い!!

愛しい相手にそうと気付かれず
触れてもらえずにいれば
風の中の羽のようにふわふわと浮きつ沈みつ
確かに自分自身でも
本心の捉えドコロがなくなってしまいそうだ・・・

このアリアを軽妙に歌うのは
名うてのプレイボーイ(死語?)の公爵なのだが
さすが女心がよくわかってると感心するも
実は公爵のお相手の方が
女心よりもよっぽど移ろいやすいと思われwww

そうなのだp(-_-+)q

男は種蒔き本能がある以上に
新たに開墾したがるモノなのだが
たいていの女は1人の最愛の男しか愛せナイモノだ
女心がわからぬなどと嘆くなかれ

男の態度に応じて
女心は浮き沈みしてるのだから
恋にうるむ肌を存分に堪能すれば
女は素直に男に従うだろうて(*^^*)

☆・・・☆・・・☆

さて
トマス・ハーディの『遥か群衆を離れて』では
強気な美女バスシェバが
トロイ軍曹と恋に落ちた様子を
以下のように表現してる

強気の女がその強気を投げ棄ててしまふと、投げ棄てるべき強さなどは全く持たない弱気の女よりもっと弱くなるものである。

美女は美しいから強気でいられるのか
強気だからこそ美しく見えてしまうのか?
はたまた弱気な美女なんて存在するのだろうか?

バスシェバはかつては求婚を断るのに
「あなたを愛してませんから!」
と、はっきり言える女だった

ところがトロイに恋してからは
全く理性を失って
俗に言う「恋は盲目」の状態になって
彼の総てを享受するようになり
トロイに対する誹謗や中傷となると
自身のコト以上に憤慨して
事実を彎曲させてでも彼を信じずにはいられナイ
そんなバカな女に成り下がってしまうのであるるる~

傍から見れば
あるいはトロイからしたら
恋に打ちひしがれるバスシェバのバカっぷりは
哀れでしかなかったろう。(´д`;)ギャボ

普段から男に振り回されてるような心弱い女以上に
強気の女が強気を失ってる様子には
憐憫の情を抱かずにはいられナイ・・・

それがトロイを失って(失踪してしまったのだが)
条件の゚+.(・∀・)゚+.゚イイ男(当然、オークではナイ)に
改めてプロポーズされる(※)も
やはりその男を愛してナイので乗り気ではなく
トロイがもし帰ってこなかったら・・・
との条件を提示した上で受けるので
実質的にはトロイを待ってたのだった。(゚д゚lll)ギャボ
以前も求婚されたが、「あなたを愛してません!」ときっぱり断った

皆がトロイは死んだと思ってて
ましてやトロイの子を身ごもったまま死んだ女との間に
真実の愛を見出したトロイが
いたたまれなくなった故の失踪であると
誰よりもよくわかってるはずのバスシェバだのに
まだトロイを待つのだ、待っていたいのだ

だってトロイを愛してるから。・゚・(ノД`)・゚・。

女は一途だからこそ
女心は風の中の羽のように「不安定」になるのだ

『遥かに狂乱の群を離れて』

先に原作を読んでて
勝手に思い描いたイメージが
映画とは全然違う

Σ(゚д゚lll)ガーン

とか

逆に先に映画で観てて
後から原作の小説を読み進みながら
じわじわと違和感に苛まれて
こんなんじゃナイ

p(-_-+)q

なんてのは
小説が原作の映画の宿命みたいなモノだ

トマス・ハーディの『遥か群衆を離れて』は
たった1度、映画を観ただけで
その時の鮮烈なヴィジュアルの印象を
20年以上引きずってた後で
初めて小説(※)を読んだので
そのギャップに面食らった。(゚д゚lll)ギャボ
昭和初期訳の『遥かに狂乱の群を離れて』

小説を読むまでは
ヒロインが美貌の農場主バスシェバで・・・

相手役がハンサムで洒落者のトロイ軍曹で・・・

2人の悲恋物語のように捉えてたのだが・・・

小説ではトロイの方が端役扱いで
雇われ羊飼いのゲーブリエル・オークの方が
準主役だったのだ!!

確かに
冒頭でヒロインに求婚してて
最終的にはヒロインとハッピーエンドになるも
殆ど記憶に残ってなかったくらい
映画の中では地味な登場人物なんである。(´д`;)ギャボ

しかも道徳的な人間の見本のように描かれてるが
そういう男はたいていの女にとっては
魅力的とは言い難いタイプだw

小説ではオークのルックスには何の言及もナイので
取り立てて言う程の酷さではなくとも
良くも悪くも抜きん出てはおらず
印象に残らナイ平凡さなのだと解釈できるし
そこは映画のイメージと合ってるとも言えるが
間違いなく女の関心は惹かナイタイプだw

極め付けが恋愛に関して疎過ぎて
女からしたら腹立たしくさえあるのだヽ(゚∀。)ノ

後にそんなオークを上回るレベルの
恋愛に不向きの男の代表格も出現するので
まあそいつと比べれば
いくらか怒りも緩和されるがね・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

物語の最初の方で
バスシェバにプロポーズをした時のオークは
独立したばかりの牧場主で
それなりに結婚生活を送れる収入の見込みはあって
同じように牧場経営をしてる家の娘ならば
結婚相手に望むコトができたし
それを世間から高望みと非難されはしなかった

それで「不当ではナイだろう」との考えから
牧場の手伝いに訪れた美女バスシェバを見初めて
すぐに彼女の家まで押しかけて
いきなり結婚を迫ってしまったのだが
その無骨な性急さが
どれほど女に嫌悪感を抱かせるコトか(゚*゚;)

ましてやその申し込み方も大失敗なのは
彼女の美貌に平伏し
「後生だから結婚してください」とか
懇願するならまだしも
「自分ならあなたを幸せに出来ます」って・・・?!
最悪だな!!

当然ながら
たいしたコトナイ男にそんな風に「卑下」されては
美女が怒り心頭にならナイ方がおかしい!

そこでバスシェバは最も歴然とした断り方をするのだ
「あなたを愛してませんから!」とね

しかしそうとはっきり言われても
オークにはなぜ拒まれたのかが理解不能なのは
結婚生活の資産的な条件が揃えば
求婚を受け入れてもらえると
道徳的な男らしく過信してるからだヽ(゚∀。)ノ

その後
バスシェバは遠くへ行ってしまい
オークは不運に見舞われて牧場を失い
つまりは職も失って
ハローワークのようなトコロへ
職探しに行く身の上となり・・・

それは若しも彼が金持ちだつたとしたら、恐慌といつたほどであつたらうけれども、不幸は個人的恐怖を和らげる立派な麻酔剤である。

なんて描写をされるような転落を余儀なくされたが
その身に余る不幸の最中に
彼が見出した幸せが
もうね、バカバカしくて呆れたっつーの(-_-;)

「彼女と結婚してなくてよかった」

バタリ ゙〓■●゙

幸せに出来ると予想して
結婚しようと思ったが
こんな不幸に巻き込むなら
結婚しなくてよかった

確かに道徳的な見解ではあるなwww

でもこれって
オークがバスシェバを幸せに出来るって自信は
彼女に与えられる物資の質と量だけだって
オーク自身でも自覚してるってコトだし
更に不愉快なのはオークなんか(※)が
バスシェバはそれだけで幸せになれる女だと
上から目線で決め付けてるトコロだp(-_-+)q
美女で引く手数多のバスシェバに対して、オークなんか非モテキモヲタだろうて

もしもバスシェバが
物欲を満たそうと躍起になってるだけの女ならば
最初っからその美貌でもって
いくらでも条件の゚+.(・∀・)゚+.゚イイ男に
食らいついてるだろうから
オーク如きが相手にされるワケもなかろう?!

こういう非モテ男の何が癇に障るって
「愛してません」と徹底的な根拠によって
はっきりと拒まれてるってのに
その肝心なトコロがスル―されてるからだ!

しかもそんな拒絶を無視して
「結婚してたかも?」なんて図々しく仮定して
「しなくてよかった」までになる???
以上が非モテ男のオークの場合である

☆・・・☆・・・☆

女にとって名状し難い魅力を持ってる男には
不思議な共通点があるが
トロイ軍曹についての以下の描写で・・・

彼にあつては過去とは昨日のことであり、将来とは明日のことであつて、決して、次の時代の謂ではなかつた。

『カサブランカ』のボギーにも・・・

これと似たような台詞がある

昨夜?
そんな昔のことは覚えてない
今夜?
そんな先のことはわからない

女の誘いをそつなく断るのも
気が利いてると思えるから゚+.(・∀・)゚+.゚イイ男なのだ

この台詞が不躾ながらも
なぜか心地好く響くのには
女が最も拘りを持つ【時系列】に対して
無頓着だ(だから止めた方が゚+.(・∀・)゚+.゚イイ)と
暗に先手を打ってるからだろう

こういう粋な計らいが出来る男ならば
楽しく付き合っていけるだろうと
女に安心感を与えつつも
どこかしら危険な香りもすれば
意外と実直だったり・・・

とにかく
非モテ男にありがちな
生真面目一方に付き合ってくのかと
げんなりくるような「しんどさ」が無いのだ

非モテ男オークとは正反対のトロイは
色男の常で金はなかったが
力の方は剣術が達者で
生まれ持っての家柄と美貌を誇るように
紅い制服が似合う軍人だった

女に対してどんな非道もやってのけそうに見えて
案外ロマンチストな部分も持ち合わせてて
貧しく鈍臭くも愛らしい女を愛し
1度は捨て置きながらも後から純愛に目覚めて
一途に想ってみたりする・・・ホゥ(*-∀-)

まあそれが金持ちで賢い美女の夫の地位を得た後で
なのが不味いのだが。(゚д゚lll)ギャボ

トロイは女に対して臆するトコロがナイので
美女に何の気兼ねも無く
その美貌を褒め称えるコトが出来るのだが
美しく誇り高き処女バスシェバも
ただでさえトロイの容姿から目が離せナイのに
その口から自身を美しいと賛美する言葉が発せられたら
そりゃあ抵抗のしようもなかろうてw

そこで更に追い打ちをかけるように
すっかり゚+.(・∀・)゚+.゚イイ気分になった頃合いに
皮肉交じりにさらりと愛の告白をするのだから
もう本気なのかどうかが気になって
思い悩んでる内に夜も眠れなくなるほどに
狂おしく愛してしまうワケだwww

バスシェバに対するトロイの迫り方を
非モテ男オークの場合と比較すると
その決定的な差がよくわかる

私はあなたを(物資によって)幸せに出来ますから
是非とも結婚しましょうヽ(゚∀。)ノ

   by オーク

他の女とキスするよりあなたに罵られる方が好ましいので
ここ(あなたのそば)にいたいんですよ

   by トロイ

これでトロイを振ってオークを選べるのも
女としてよりむしろ人として立派なのかもしれナイ

でも不幸に陥るかもしれナイ予感がしながらも
ただひたすら愛し愛されたい男として
総てを敵に回してでも
トロイを求めてしまうのが女ってモノだし
最終的にどんな転落を味わったとしても
女は自身が選んだ男なら
絶対に恨んだりは出来ナイはず・・・

だからバスシェバも
身を切られるような裏切りに遭いながら
トロイを愛する気持ちは一向に変わらナイのだ!
夫が愛した女性に憐憫の情さえ抱き
トロイを選んだコトには微塵も後悔なんかしてナイのだ!!

人生においてたった1度でも
恋する男に乞われたいヽ(´▽`)/

そんな女の根源的な
でも刹那的な願望を叶える男・・・
いや~テレンス・スタンプはハマり役だわ・・・ホゥ(*-∀-)