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毎年11/3の文化の日を挟んで2週間が読書週間だが
常日頃、隙を見ては本を読んでるような人間にとっては
むしろ意識しづらいイベントだったりする

それでも今年は3連休で呑みの予定もナイので
そこは引き籠って非日常的な読書をしようと思い立った

サテリコン [DVD]サテュリコン―古代ローマの諷刺小説 (岩波文庫)

例えば、葡萄酒と乾酪を用意して
フェリーニの『サテリコン』を観ながら(繰り返しかけながら)
ペトロニウスの『サテュリコン』を通して読むとかね♪

とはいえ、連休前後は日常生活を全うしなければなので
その間には普段だったら読まナイような本を読もうかと・・・
もちろん読む意義のナイモノを読みはしナイワケで
過去に必要性を感じて読み始めたのに途中で放棄してしまった本
換言すれば、読む意義に到達できナイままになってる本を
改めて読み直そうとゆーワケであるるる~

D・H・ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』
ギョーム・アポリネールの『一万一千本の鞭』
『青髯ジル・ド・レー―悪魔になったジャンヌ・ダルクの盟友』

自分、近代の官能小説(伝記)が苦手なのだろうか。(´д`;)ギャボ

チャタレイ夫人の恋人 (新潮文庫)

確かに、ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人(無修正版)』は
男女の性描写が吐き気を催すほどキツかったのでやめたのだがね
そしてアポリネールの『一万一千本の鞭』も『青髯ジル・ド・レー』も
凄惨な場面の連続で悪夢に魘され続けて断念したのだが
マルキ・ド・サドの著作なら読めるのはなぜだろうか。(゚д゚lll)ギャボ

とりあえず再読してみるコトにして
既に電子書籍で購入してあった『一万一千本の鞭』から読み始めた

☆・・・☆・・・☆

それにしても今更『一万一千本の鞭』なのは
アポリネールの『若きドン・ジュアンの冒険』を読んで
こっちは何も問題なく最後まで読了できたからで
むしろ表現にツボな部分が多く、愉しく読み進めたし
余りにも清々しい終わり方には感動さえした

若きドン・ジュアンの手柄ばなし (河出文庫)
BookLive!の電子書籍版(グーテンベルク21)では『若きドン・ジュアンの冒険』となってた

そもそも『若きドン・ジュアンの冒険』を読むきっかけは
ジョージ・バーナード・ショーの『人と超人』で
これでドン・ジュアン(ドン・ファン)について再考したくなって
モリエールの『ドン・ジュアン』を読み返したりしてた際に
BookLive!で検索に引っかかったのだった

アポリネールの描くドン・ジュアンの人物像は
『一万一千本の鞭』から想像するだに恐ろしかったが
ググってみるとドン・ジュアン当人の物語でなく
映画化されたモノが日本でも『蒼い衝動』として公開されてた

『蒼い衝動』なら深夜映画で観た記憶があった
うろ覚えだが少年が家庭教師と初体験、みたいなカンジで
その原作だったら読めナイレベルではなくね?

ドン・ジュアン (岩波文庫)

怖いもの見たさも手伝って電子書籍を購入して読んでみたら
先述の通り、フツーに、いや、愉快に読めたし
モリエールの軽妙な『ドン・ジュアン』と比しても
ラストは断然こっちがよかった!
(尤もモリエールの時代には当局が検閲にうるさかったので
ましてや脚本ともなると上映禁止にされるのは不味いからってコトで
あの終わり方しかやりようがなかったのかもだがね)

とにかく俄然『一万一千本の鞭』の結末が知りたくなった!!

☆・・・☆・・・☆

最初から最後まで3日かけて読了した感想は
頑張って読んだ甲斐はあった・・・バタリ ゙〓■●゙

1万1千の鞭 (河出文庫)
BookLive!の電子書籍版(角川文庫)では『一万一千本の鞭』と「本」が入ってた

とにかく主人公のプリンス・モニイ・ヴィベスクが
あらん限りの在り得ナイ非道を尽くすのだが
汚なさの点では食欲も性欲も喪失するレベルに不潔極まりなく
潔癖症の人間に読ませたら憤死するコト間違いナシ(-_-;)
残虐さの方はさすがに読み飛ばさずにはいられナイシーンもあったが
ずっと許容範囲を超えた状態だと憐憫の情も尽きてくるし
想像しナイように思考を止めてしまうスイッチも入るようになり
機械的に文面を追ってやり過ごしてしまえたヽ(゚∀。)ノ

途中から日露戦争の戦場に舞台が移動すると
戦地に娼館があって、そこにいる日本人の娼婦が境遇を語るのだが
アポリネールはまるで日本の文化に造詣が深そうに
色々織り交ぜてきて、結果的にちぐはぐになってて可笑しいし
日本軍の捕虜となったプリンス・モニイ・ヴィベスクが
処刑を言い渡されて惨殺されるラスト・シーンは
こう言っちゃあ何だがやはり清々しかった・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

一切の虚飾を剥ぎ取って、恥辱の限りを与え
息の根を止めるに飽き足らず、血肉まで削ぎ落として

さあ、この骨も露わな肉塊が人間の正体だ!
どうだ、皆いずれこうなる!!

う~む、実に清々しいヽ(´▽`)/
タイトルの謎も解けて読後は爽やかな気分にさえなったが
誤解のナイように付け加えれば、決して人間の尊厳を蔑にしてるワケではナイ
断じて・・・(-人-;)

ポーランドの作家シェンキェヴィチが
古代ローマ世界を克明に綴った歴史小説『クオ・ワディス』では
実在した登場人物の中でもとりわけ皇帝ネロと側近のペトロニウスについて
仔細に渡って活き活きと描かれてるので
どこまでが創作なのか、その典拠を確認してみたくなった

児童版『クォ・バディス』の巻末の「解説」には次のようにあった

スエトニウスという歴史家が書いたローマ時代の本を参考にして、1896年、この世界的な傑作、「クォ・バディス」を書きあげたのでした

しかし『ローマ皇帝伝(下)』にはネロについては詳述されてるものの
ペトロニウスの名は実際1度も出てこナイ・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

自分の知る限りではタキトゥスの『年代記(下)』において
3ページ弱で綴られてるのみが人物像の全貌だ

1.昼日なか眠って、夜を享楽に生きた
2.無精、無頓着だったが、それが天真爛漫と見受けられた
3.激務も全うした精力家だったが、背徳者を装いネロを誑かした

1.昼日なか眠って、夜を享楽に生きた

Up all night, sleep all day, that's right♪

欲望のターゲット

Slaughterの曲にはまさにそんなペトロニウス節があったなw
これは簡潔に表現すれば「不良」だったってコトだが
社会的地位が高くして「不良」てのは潔くて゚+.(・∀・)゚+.゚イイね
ネロなんかは皇帝にしてアナーキストだからカッコ゚+.(・∀・)゚+.゚イイのだ

なんせいくらローマが退廃してたとはいえ
当時のローマ市民の日常生活は現代人には考えが及ばナイ健全さで
日の出と共に起きて、陽が沈んだら寝るしかなかった

当たり前ながら夜は真っ暗なのだよ
電気がなければ蝋燭の灯りだけが頼りなので
そんな時代に夜を愉しむのだから
灯りの設備に無駄に金をかけてた=贅を尽くしてたのだ

尤もペトロニウス自身も不道徳な金持ちだったが
ペトロニウスが自腹を切るようなコトは稀だっただろう
ほとんどの遊行費は、その不道徳の限りを一身に享受するネロが
国庫から無尽蔵に浪費してたと思われ

だいたい、金銭的ヨユーがあるからこそ
一切の道徳観念を無視して愉しみに耽溺できるワケだがね
そしてかつてのネロを指導した哲学者セネカこそが
実は破格の金持ちだったりするるる~

2.無精、無頓着だったが、それが天真爛漫と見受けられた

これこそがペトロニウスの真価だろう
無精とか無頓着とかは鵜呑みにすると全く的を得なくなるが
ペトロニウスの場合は何に対してもそうだったのでなく
興味の範疇以外がそうだったのだよ
そしてそのコトが天真爛漫と見受けられたのは嫣然としてたからだろう
嫣然、ってのは通常は美女の微笑を表現するのに使う言葉だが
ペトロニウスくらいの粋人(すいじん)には似つかわしい

粋人の意味を説明するほど無粋なコトもナイが
読んで字の如く粋な人で単なるインテリでなく遊び心がある人だ
教養があってもそれを万人にひけらかすコトなく
わかる相手にだけ仄めかし、わかった同士だけが納得するのだ♪

その点セネカはペトロニウスよりは生真面目だったから
ネロの放縦を横目に見過ごしつつも内心は気を揉んでただろうが
そんなセネカに対してもペトロニウスは臆するコトなく
嫣然とやり過ごしてたのを傍から見れば
なるほど、天真爛漫に映っただろう

年代記〈下〉ティベリウス帝からネロ帝へ (岩波文庫)

3.激務も全うした精力家だったが、背徳者を装いネロを誑かした

タキトゥスはペトロニウスを「贅沢の通人」と表現したが
資産を食い潰してる文字通りの大食漢や
無目的に放蕩に身を任せてるだけの能無しとは違って
世間から反感を買うようなコトはなかった、と言及した上で
ペトロニウスのそれまでの職歴を示し
出世街道を着実に歩んできてるのをその証拠としてる

つまりタキトゥスに言わせればペトロニウスは
「不良」のように振舞っても、本来は役職に就いてた人間なので
背徳者を装って、ネロを誑かそうとしてたに違いナイ、となるが
タキトゥスは【趣味の判定者】の意義がわかるほど
歓楽的に生きてなかっただろうし、洒落を解せなかったかもだ

ペトロニウスの教養は単なるインテリ趣味に非ず
完璧に洒落のめしてて、素地があるくらいではついてけなくて
ネロはある程度まではわかったので夢中になったのだ!
お追従にうんざりしてたであろうネロには
多少辛辣でも刺激的な方が新鮮で愉しめたのだな

基本的にはイベントは金をかければより一層おもしろくなる
どんなつまらナイ企画でも金をかけられるだけかけたら
たちどころに愉快になるのは間違いナイのは
現代においても変わらナイ事実であって
金を湯水のように使いながらバカ騒ぎする、なんてのは
誰もが1度は試みたい、とは思う

ところがそんな誰もが夢見るイベントも
毎晩やってると日に日に面白みは減退してくのだ
日々イベントをやり続けるには実際、金の力より企画力で
ペトロニウスの企画はネロさえ飽きなければそれで゚+.(・∀・)゚+.゚イイ
そうしてペトロニウスはネロの魂に火を点けたのだ!!

ネロの本質的な趣向を見抜いて
見合ったイベントを次々と計画し、催し
自身も愉しんでた、それがペトロニウスの実態なのでは?!

ペトロニウスの『サテュリコン』の登場人物ながら
恐らく主人公よりも有名なのがトリマルキオ(Trimalchio)だ

Trimalchioはギリシア語で「3度祝福された人」の意で
フェリーニの映画ではイタリアンぽくトリマルチョーネとなってる
他の登場人物も原作と映画で読み方が違うので下表にまとめておく

登場人物『サテュリコン』『サテリコン』意味
Trimalchioトリマルキオントリマルチョーネ3度祝福された人
Gitonギトンジトーネ隣人(ゲイトン)
Encolpiusエンコルピオスエンコルピオ抱かれる人
Ascyltosアスキュルトスアシルト決してへこたれない人
Eumolpusエウモルポスエウモルポ甘く歌う人

修辞学校の教師の名がアガメムノンなのは

なぜか、彼の名はトロイア戦争におけるギリシア遠征軍の総帥の名にちなむ

とあるが、助教師の名がメネラオスなので、安易にセットで命名したと思われ

そしてまとめておいてなんだが
このブログでは臨機応変にどちらも使用する・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ
なので、基本的には小説の話題ならギトンでも映画の話題ならジトーネだ

トリマルキオの饗宴―逸楽と飽食のローマ文化 (中公新書)

しかしトリマルキオは一般的にもトリマルキオで通ってて
例えば『トリマルキオの饗宴』と冠する本があり
この記事ではその本についても触れてるのでトリマルキオで統一しとくw

その『トリマルキオの饗宴―逸楽と飽食のローマ文化』が
以前は中公新書で出てたのがタイトルがちょっと変わった(※)だけで
中身はそのままで、昨年、講談社学術文庫から再版されてた
逸楽と飽食の古代ローマ―『トリマルキオの饗宴』を読む、となった

逸楽と飽食の古代ローマ―『トリマルキオの饗宴』を読む (講談社学術文庫)

たまたま昼休みに読む本をうっかり忘れてきて
手持無沙汰で本屋に物色に行った時に見つけたので
即座に購入して愉しく読み耽ったが
この本を手にして最初に捲るページてのが決まってて
それはつまり最も気に入ってる件なのだ

 そのとき、ブドウの葉とキヅタの髪飾りをつけた美少年がブドウの籠を手にして登場し、酒神バッコスのさまざまな仕草を真似ながら、トリマルキオの詩を甲高い声でうたった。

バッカスに扮した美少年が歌い踊るのを思い浮かべて呑むワインは
格別に美味い( *゚Д゚)つ[葡萄酒]

但し、些細なコトだが、岩波文庫の国原吉之助訳のように
ブドウは葡萄、キヅタは常春藤、と漢字の方が香り高い気がするのと
「さまざまな仕草」は後からちゃんと解説があるにせよ
やはり文中での鮮明な描写があった方がより陶酔できるのに
と、ほんのちょっぴり残念に思う

『サテュリコン』では以下のように訳されてる

 こんな会話をかわしていたとき、一人の美少年が葡萄の葉と常春藤で頭髪を飾り、ときに陶酔の酒神バッコスを、ときに苦悩の解放者バッコスを、ときに霊感の鼓吹者バッコスをよそおい、葡萄の実の入った小籠を持ってまわりながら、彼の主人の詩を甲高い声でうたった。

トリマルキオがこの美少年の奴隷に対して
「ディオニュソスよ、自由(リーベル)になれ」と、声をかけると
美少年奴隷は皿の上のイノシシの頭に乗せられた解放奴隷の帽子をとって
自身の頭に乗せ、皆がそれを祝福してキスをするのだが
これはトリマルキオが美少年を奴隷の身分から自由にしてやった
と自分には思えたのだが、注釈でもそこが判然としなかった

ところが『トリマルキオの饗宴』は薀蓄本なので
当然、この場面に対しての詳しい解説があり

 少年はトリマルキオがつくった詩を殊勝にも丸暗記しており、少年らしい高く通る声で朗唱した。詩の最大の理解者は作者であるという法則にたがわず、トリマルキオは深い理解と感銘から心を揺らし、その揺れが言葉となって現われた。

そして自分が悟った通りの状況が述べられてるので胸がすくのだ!

しかし映画『サテリコン』ではこの場面はナイ。(´д`;)ギャボ
てか、原作に忠実な作りではナイので
既に饗宴参加メンバー(※)からして大いに違ってたりもするしね
『サテュリコン』では修辞学校の教師ら、エンコルピオス、アスキュルトス、ギトンだが、『サテリコン』ではエンコルピオとエウモルポ

☆・・・☆・・・☆

それにしても古代ローマにおいては
奴隷、の単語から発せられるイメージに陰惨さはまるでナイ
とりわけトリマルキオの饗宴においては
主人自身が解放奴隷だってのもあるのかもしれナイが

 少年奴隷たちは面倒な仕事中でもつねに歌をうたっていた。

なんて、陰惨どころか、底抜けに明るいし
アメリカにおける黒人奴隷なんかとは全く違ってて
主人の信頼を得られれば、人間性も尊重されるし
先述のバッカスに扮した少年のように
饗宴での才気の対価として、快く自由を与えるコトもあるのだ

『サテュリコン』の著者であるペトロニウスは
実際の家族構成がどうだったのかは謎だが
シェンキェヴィチの『クオ・ヴァディス』の中では
美しい奴隷を愛人にしてたりもするし
そもそもローマ帝国の皇帝であるネロも解放奴隷であるアクテに恋をして
由緒正しい王女だった正妻のオクタヴィアとは離婚して
アクテを愛人ではなく、正妻に迎えようとしたのだ。(゚д゚lll)ギャボ

映画『クオ・ヴァディス』ではペトロニウスと奴隷女の恋愛が
非常にロマンティックに描かれてて
自分もこの時代に生まれるなら美人の奴隷に生まれたいと思ったw

クォ・ヴァディス [DVD] FRT-052NERO ザ・ダーク・エンペラー [DVD]

ネロとアクテの恋物語も『NERO ザ・ダーク・エンペラー』で堪能できる

SATYRICONは元はと言えばラテン文学のタイトルで
「サテュロス的な出来事・人物譚」みたいな意味だろうが
書いたのはネロの時代のペトロニウスだ

その『SATYRICON』を映画化したのが
現代イタリア人のフェデリコ・フェリーニだ
邦題は小説が『サテュリコン』だが映画が『サテリコン』だ(※)
Google翻訳ではラテン語もイタリア語も綴りは同じくSATYRICONだったが

それにしてもなんてセンスの゚+.(・∀・)゚+.゚イイネーミング!
サテュロスはギリシア神話に出てくる好色な牧羊神で
本来はディオニュソスの従者なのだが
饗宴や女を求めてディオニュソスに付き従ってるので
神とつくものの野卑な淫獣のイメージが強く
悪徳に耽溺する人間たちの物語のタイトルにはぴったりだ

但し、時代が下るに従ってファウヌスやパーンと混同されてしまい
ディオニュソスでさえもバッカスと同一視されるようになり
それぞれがはっきりとした輪郭を持たなくなるが
換言すれば、それくらい詩人や芸術家が題材にしてるのだね
ディオニュソスの一味をヽ(゚∀。)ノ

ペトロニウスの小説『サテュリコン』もフェリーニの映画『サテリコン』も
自分は21世紀になってからようやく入手するに至ったのだが
手に入れるまでに小説の『サテュリコン』についてわかってたのは

  • 1.作者がペトロニウスであるとシェンキェヴィチの『クォ・バディス』(※)で知ってた
  • 2.内容はユイスマンスの『さかしま』の第3章でのデ・ゼッサントのラテン文学レビューから想像した

実際には先に映画の『サテリコン』を購入したので
『サテュリコン』を買う前にはストーリーもすっかり把握してたが
『サテリコン』に関してはALLANに載ってた数行のレヴューと
美少年ジトーネの小さな写真のみだったのだ
偕成社の少女世界文学全集だったので『クォ・バディス』なのだが、通常は『クオ・ヴァディス』、岩波文庫版では『クオ・ワディス』

ジトーネ

よく考えてみれば、たったそれだけで20年間も想い続けてたのは
もうヲタとかそういう領域を超えてると自分でも思うが
初めて自室で映画『サテリコン』を観ながら
ワイン片手に岩波文庫の『サテュリコン』を読み耽った時

至福、とゆーのはこういうコトか( *゚Д゚)つ[酒]

と、人生最高の巡り会いを堪能した

☆・・・☆・・・☆

サテリコン [DVD]

『サテリコン』は衝撃的な映画で
お目当てのジトーネは期待以上に艶めかしかったが
何もかも細部に至るまでが面白過ぎて飽きるコトがなく
ほとんど中毒の如く、自室に篭って繰り返し観てしまったりした
そういう場合、映画としてじっくり観るってよりは
もうオブジェ(?)の一部のように目に映ってる状態で
ストーリーを追ったりせず感覚を痺れさす部分を
画面からひたすら探し続けたのだった

なのでストーリー的にもどうでも゚+.(・∀・)゚+.゚イイのだが
観てると気になって仕方がナイ部分が2点だけあるので
そんなシーンについて以下に軽くメモ

1つは画廊のシーンでエウモルポの後ろに見慣れた絵が見えるが
これがなんとセウェルス一家の肖像なのだ!

セウェルス一家の肖像

手前の王子がカラカラで隣には弟のゲタがいるはずだが
ゲタは【記憶の断罪】によって消されてるるる~
このカラカラはネロより後の皇帝で
当然ネロと同時代のペトロニウスからしても後世の人だ
(ちなみに在位はネロが54~68年でカラカラは211~217年だ)

時代設定が古代ローマだがはっきりとした年代まではナイから
カラカラ以降の時代の話だとしても別段構わナイのだが
ネロの時代のペトロニウスの作だと考慮すると
いかんせん気持ち悪く感じるのだ!!

フェリーニがワザとやってるのかもしれナイがな。(゚д゚lll)ギャボ

もう1つはトリマルチョーネの模擬葬儀(?)のシーンで
般若心経が流れてるがこれもずっと後の時代に成立してるはずだ
日本人の自分からしたらギャグでしかナイし
むしろヨーロピアンには通じナイだろうから構わナイがね

これもフェリーニがワザとやってるのかもしれナイなヽ(゚∀。)ノ

☆・・・☆・・・☆

サテュリコン―古代ローマの諷刺小説 (岩波文庫)

原作の『サテュリコン』も映画以上に退廃臭を放ってて
やはり筋を追うってよりはぱっと開いたページを愉しむカンジで
何度も虫食い読みで読み返す1冊になったが
筑摩世界文学大系【64】に収録されてる『サテュリコン』は
夏目漱石が愛読してた、とゆー一文が「解題」にあり
漱石の読み方が自分と似てて親近感が湧いたw

筋なんかどうでもいいんです。こうして、御籤(おみくじ)を引くように、ぱっと開けて、開いた所を、漫然と読んでるのが面白いんです。

実際に現存する『サテュリコン』の底本は欠損部分が多く
てか、あるのが14巻~16巻までなので
仮に全16巻だったにしても大部分が欠落してるワケで
ストーリーに捉われて読んでる方が馬鹿馬鹿しい。(´д`;)ギャボ

それにしても漱石は昭和になる前にお亡くなりになってるので
そんな昔から邦訳されてたのかと思いきや
英語訳、独語訳、なんてのなら漱石なら読めそうだし
もしかすると原典のラテン語でも読めるのか?!

ちなみに筑摩世界文学大系の訳者は岩崎良三訳だが
岩波文庫の『サテュリコン』の「解題」で訳者の国原吉之助が
邦訳として岩崎良三訳の2点を挙げてる

『トリマルキオーの饗宴』昭和16年、青木書店
『サテュリコン』昭和27年、創元社

rebours

四半世紀に渡って何度も同じ本の同じ部分を読んでる

ユイスマンスの『さかしま』がそれだが
中でも第3章が最多で次いで第5章、第7章、第12章、第14章辺りだ

A rebours

『さかしま』は「奇異」な小説で
主人公のデ・ゼッサントの趣味や思想を並べ立ててるだけで
ストーリーはその中で挿話として展開するのみだ

なので一応はユイスマンスの小説なのだが
読んでる感覚からするとまるでデ・ゼッサントのエセー(エッセイ)だ

デ・ゼッサントは19世紀フランスの貴族の男なので
その趣味や思想は健全(ノーマル)な現代日本人には全く縁のナイモノばかりで
自分も未だに半分もわかってナイ気が・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

読み始めたのは高校生の頃で
一般よりはよほど不健全(アブノーマル)な文学を好んで読んでたし
芸術も音楽もデカダンの香りがするモノを愛好してるワリに
バイオテクノロジーとゆー生化学の最先端を勉強してて
自分も世界を理解してキタ ━━━━━(゚∀゚)━━━━━ !と奢り高ぶってたので
デ・ゼッサントが次々と提示してくる固有名詞が
ほとんど初見であるコトに衝撃を受けた!!

澁澤の注釈がなければ、いや、注釈があっても
1/10もデ・ゼッサントの趣味や思想を理解できなかった
てか、全然知らナイモノの羅列でしかなかった。(゚д゚lll)ギャボ

そもそも固有名詞を除いたトコロで
漢和辞典がなければ数ページも読み進めナイほど
新鮮な読み方の漢字が怒濤のように繰り出すのであるるる~

澁澤龍彦訳しか読んだコトがナイのだが
他の澁澤訳のデカダン文学に慣れ親しんでたはずの自分が
『さかしま』だけは全く置き去りにされたのだった
しかし漢和辞典と注釈に頼りながらもしぶとく読み進んだのは
デ・ゼッサントの趣味と思想に共鳴する部分を片鱗ながらも見出してたからで
生涯の友となる予感がしてたのだ

それからもう四半世紀が過ぎようとしてるが
デ・ゼッサントの趣味や思想を未だ総て理解しておらず
また理解しても納得はできずに反駁さえするような見解も生じた
それでもデ・ゼッサントが魅力的なのは変わらナイ

初めて読んだ時はとにかくいちいち興奮した

第1章でボオドレエル(ボードレール)の語を見つけて
まずは文学の趣味の接点があるコトに嬉しくなった(*^^*)

まあデカダン趣味は読む前から予想してて読み始めたのだが
第2章でパストゥール(パスツール)の名(※)を目にして
まさかデカダン趣味の貴族にこの近代細菌学の開祖を語られるとは
予想してなかっただけに殊更嬉しくなった(^▽^*)
応用微生物を勉強してた自分にとってはパスツールはとても近しい存在だった

第3章では古代ローマのラテン文学が網羅されるのだが
それら殆ど総てを批判するデ・ゼッサントの気に入ってるのが
ペトロニウスの『サテュリコン』とアプレイウスの『黄金の驢馬』で
ついでに言えばヘリオガバルスに好意的なのだ(゚ ゚;)

しかもウェルギリウスやオウィディウスに始まって
セネカに大プリニウスまで続けざまに延々と非難囂々の挙句に
いきなり上記3人が絶賛されてるのであるヽ(゚∀。)ノ

なのでここまでですっかり決心してしまったのだ

きっと一生かかって追い求め続ける、と・・・ホゥ(*-∀-)