ダンテの『新生』

ダンテと言えば誰もが真っ先に思い浮かべるのは『神曲』だ

『神曲』は著者のダンテ自身が主人公で
古代ローマの詩人ウェルギリウスの案内で地獄、煉獄を巡り
煉獄の山頂でかつてダンテの永遠の女性だったベアトリーチェに再会し
彼女の導きで天国へ行く・・・てのが物語の大まかな筋立てだが
舞台背景からしてこれはダンテの自伝ではなく
フィクションであるのは明らかだ

但し、登場人物(怪物含む)は先の3人は元より
誰一人としてダンテに創作された者はおらず
史実と言うと神話や伝説の世界も含めるので語弊があるが
時代を超えて人々に認識されてきた者ばかりなのだ

既存のキャラを自身の解釈で創作の中で勝手に使うのは
現代日本の同人誌の黄金パターンだが
ダンテの『神曲』も同じノリで
ヲタな自分としては親しみを感じてしまってたりw

しかし実際には世界的に必読の古典の名著として認められており
日本でも新旧様々な訳や解説書が各出版社から出てるので
「神曲」+「ダンテ」でアマゾンでググれば400件以上もヒットするが
これが「新生」+「ダンテ」では僅かに18件だ

『新生』はダンテが若い頃の自伝的作品で
『神曲』に至るまでのダンテとベアトリーチェの出会いから別れまでが
詩と散文(詩の解説)を織り交ぜて描かれてるが
なぜ(どんな目的で)ダンテが『神曲』を書いたのか
その真意が綴られてる、てか、そうと見てとれる重要な作品だ

ところがこれが久しく絶版だったのだ!
なんせ1番新しい角川文庫の三浦逸雄訳が1967年で
自分はまだ生まれてナイとゆーありさま(゚*゚;)

それでも幸いなコトに
とーちゃんが岩波文庫の山川丙三郎訳(※)を持ってて
近年になって自分でも筑摩世界文学大系の野上素一訳もゲト♪
文語訳で旧仮名遣い

読むには困らなかったが
両者を照らし合わせてみてもどうにも不明瞭な部分があり
新訳が出たらそれも欲しいと常々思ってて
それが先月やっと出た(三浦訳から45年ぶりの新訳ってど~よ?!)

新生

訳者は『神曲』も訳してて定評のある平川祐弘訳だ
ちなみに正しくは【示右弓ム】である(ギャル文字もなかなか便利だなw)

早速購入して読んでみて
今まで声を大にしては言えなかったコトに確信が持てた

ダンテは妄想キモヲタのストーカーだ・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

初めて『新生』を読む以前には先に『神曲』を読んでて
ダンテが妄想癖の神話・伝説・歴史のヲタぽいとは感じつつも
ベアトリーチェと相思相愛だったが結ばれずに死に別れたので
そのせいでダンテは少し常軌を逸してるとばかり・・・ヽ(゚∀。)ノ

それが『新生』を読んでみると
2人は決して相思相愛なんかではなく、友だちでさえなく
ダンテが一方的にベアトリーチェに憧れてるだけで
何の進展もナイままに死に別れてたのだった。(゚д゚lll)ギャボ

いや、別れるってのも変な表現だ
9歳で出会って以来、ダンテはベアトリーチェと会釈しかしたコトなく
その会釈さえもダンテの思い込みと思われ。(´д`;)ギャボ

ロマンチックな悲恋を想像してたのだが
ダンテに負けず劣らず妄想癖の(キモ)ヲタの自分でさえ
『新生』での妄想キモヲタダンテのストーカーぶりにはドン引きだった

但し、作品としてはそんなダンテだからこそ面白いのだろうし
ダンテの妄想キモヲタキャラは友だちとしては許容範囲だし
ストーカー趣味は度を超えたら止めさせるよ、友だちとしてね

でもダンテでなくても誰しも恋をすれば
多かれ少なかれ妄想癖のストーカーにはなるものだし
相手と一緒にいる幸せそうな未来の光景が妄想(想像)できなければ
そもそも恋愛の始まりようがナイ

言い換えれば、相思相愛でも一方通行でも目下恋愛中の状態は
相手と一緒にいる幸せそうな未来の光景が想像できて
その通りになるように願う気持ちを捨てられずにいる事態だ

いま私は『愛』の宝に由来する一切の心づよさを失ってしまい
そのため私のあわれな身の上は語るだに恐れが迫ってくる
それゆえ乏しさを恥らいもって、隠そうとする人々のごとくせんとして
よろこびを外部にあらわし心の中は毀れまた泣くのである。

総てが満たされるような恋愛など有り得ナイ

もしもそんな恋愛に身を置けば、その至福たるや筆舌に尽くし難いだろうが
失った時の悲嘆はどれほどか、想像するだに怖ろしくもある

だからほんのちょっとの幸せをゆっくりじっくり噛み締めながら
それが気が遠くなるほど永く続くコトを祈るのが゚+.(・∀・)゚+.゚イイ

ただ【快楽】を貪るのは悪徳だが
そうして祈りながら【快楽】を与え合うのはこの上ナイ美徳であろう