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「序文」:ワイルドの芸術論

オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』の「序文」には
ワイルドの芸術論が述べられてて、冒頭に芸術家の定義がある

芸術家とは、美なるものの創造者である。

また末尾を次のように結んでる

すべて芸術はまったく無用である。

要するに総ての美しいモノの中で人間が創ったモノが芸術なのだが
それら人の手による美は無用だってコトだ

確かに人間によって創られたのではナイ自然発生した美は
その美しさが必ず生命の営みに有用なのである

そして無用な美である芸術の存在は
だからこそ道徳的に善か悪かなどと判断すべきモノではナイし
ましてや芸術を解さナイ人間が無理矢理有用性を謳うのはナンセンスだし
そういう的を得ナイ芸術の批評はそれこそ有用ではナイばかりか有害だ

テンペスト―シェイクスピア全集〈8〉 (ちくま文庫)

そんなコトが述べられてる中で例えに使われてるのが
シェイクスピアの『テンペスト』に出てくるキャリバンである

十九世紀におけるリアリズムにたいする嫌悪は、キャリバンが鏡に映った自分の顔を見るときの怒りと異なるところがない。
十九世紀におけるロマンティシズムにたいする嫌悪は、鏡に自分の顔が映っていないといって怒るキャリバンそのままである。

前者はリアリズム(写実主義)への
後者はロマンティシズムへの批判を掲げる輩に対して
その滑稽さをキャリバンをして醜さの象徴としながら嘲笑してる
美を直観的に理解できナイ輩はまるでキャリバンだ、とねw

リアリズムの写実表現に対して「事実のままでしかナイ」とか
ロマンティシズムの夢物語に対して「現実的ではナイ」とか
わかりきった批判をするのはキャリバンと愚かさも卑しさも同レベルだってワケだ

19世紀のリアリスム(リアリズムの仏語的発音)文学と言えば
自分はフローベールの『ボヴァリー夫人』が真っ先に頭に浮かぶが
この作品は発表の翌年に告訴されても最終的には裁判に勝ち
また裁判沙汰になって話題になったお蔭で(?)
フランス中の人間がこの本を貪り読むに至った問題作だ

ボヴァリー夫人(新潮文庫)

どの辺が問題だったのかは
『ベランジェという詩人がいた』より起訴事実の部分を引用する

公衆及び宗教の道徳並びに良俗侮辱罪

『ボヴァリー夫人』の主人公のエマは夢見がちな女性で
ロマン主義に浸り
ありもしナイ自身を見出してしまって
不倫に走り
夫に内緒で散財して
行き詰まったトコロで死に至るのだが
先に引用した罪に問われてるのは実はこのエマであり
エマの代わりに彼女を創造したフローベール(と出版社)が
法廷に引きずり出されたのであるヽ(゚∀。)ノ

似たような裁判はボードレールにもあり
こちらはあろうコトか罪が認められて
ボードレールは罰金を課され
問題とされる部分(禁断詩篇)は総てカットされた

この辺の事情をワイルドは仄めかしてる気がするるる~

しかしワイルドの場合は作品が罪に問われたコトはなかったが
自身の男娼の罪で服役してるのだから
ある意味1枚上手なのだろうか?!