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現エリザベス女王はエリザベス2世なのだと
最近になって知った、とゆーか再認識したのだが
エリザベス1世となると1558年に25歳の若さで即位して
一生を独身で通したテューダー朝最後の女王だ

生涯に6人の妻を持ったヘンリー8世を父に持ち
母はその2番目の妻アン・ブーリンだ
映画『ブーリン家の姉妹』ではナタリー・ポートマンによって
美しさゆえに勝気なアン・ブーリンが描かれているが
実像は冴えナイからこそ女子力に磨きをかけたぽい

ブーリン家の姉妹 [Blu-ray]

ヘンリー8世の妻になるまでの策士ぶりとか
前妻を陥れてからのその娘にまで及ぶ悪辣な仕打ちとか
その美貌によってちやほやされるのが当たり前の
ヨユーがある女には在り得ナイ陰湿さなのでそう思うのだがw

このアン・ブーリンの陰謀で
前妻との離婚を(より正確には離婚ではなく婚姻の無効を)
ゴリ押ししたヘンリー8世は
ローマ・カトリック教会と真っ向から対立した。(゚д゚lll)ギャボ

(仮)ザ・チューダーズ ヘンリー8世/背徳の王冠 DVD-BOX1

それとゆーのも聖トマス・アクィナスが認めてませんでしたから!(※)
ああ、しかしトマス様、なんたるコトでしょう!!
ルター批判によってカトリック信仰の擁護者の称号を授かった王が
遂には破門されてしまうとは・・・(←『トリストラム・シャンディ』風w)
ヘンリー8世の時代のトマスと言えばトマス・モアだが、モアも認めておらず
それが原因でモアはロンドン塔に幽閉ののち斬首刑に処された
またそうしてモアを追い詰めるに至った国教会の支持者クロムウェル卿もトマスだった

でも現代日本人からしたら一国の王の婚姻について
なんで他国の教会組織に許可をもらう必要があるのか???だし
従わなかったら破門されるってのも???だろうし
そもそも破門ってのが意味不明かと・・・。(´д`;)ギャボ

カトリック信者にとってのローマ・カトリック教会は
人間による神の代理組織の頂点、なのだ(現代においても!)

そこから破門されてしまうと秘蹟を享受できなくなり
秘蹟による赦しがなければ死後は地獄行き、と信じられてるるる~

聖地奪回のための十字軍遠征にこぞって参加したのも
そうすれば赦しを得られるとローマ・カトリック教会が説いたからだし
また参加せずとも金銭によって参加したコトにしてもらえたのも
ローマ・カトリック教会がそう示唆したからだ

これで免罪符による教会の不当な金儲けが正当化されたのを
おかしい、と感じて信仰の意義を唱えたのがルターの宗教改革で
ヘンリー8世在位中(1517年)の出来事だったが
熱心なカトリック信者でインテリだった王は(女癖は悪かったが)
ルターを批判しカトリックの秘蹟を擁護する文書を著して
当時の教皇に【信仰の擁護者】と称された

その同じ王が、たかが女性問題なんか(※)で
ローマ・カトリック教会と決別して仕舞いには破門されてるって
どんだけ女に弱いの?バカなの???
王妃はそのままにしといて影で愛人ともよろしくやるのが穏便な方法では?!

しかもそこまでして結婚したアン・ブーリンなのに
数年後には離婚してロンドン塔に幽閉した後にあっさり処刑ヽ(゚∀。)ノ
そういう両親の熾烈な愛憎劇の渦中に生まれ落ちたエリザベス1世が
決して結婚しなかったのには諸説あるが
自分としてはこのバックグラウンドだけで十分と思えるがね

このエリザベス1世の治世は1558年~1603年と44年ほども続いてて
シェイクスピアやマーロウの演劇が持て囃されてたが
要するにこの時代の文学と言えばほぼ戯曲だった

エリザベス朝演劇集〈1〉

そこからするとトマス・ハーディの『ダーバヴィル家のテス』での
以下の表現はシェイクスピアやマーロウに見受けられるのだろうか?

白雪をちりばめた紅ばらという、エリザベス朝の古めかしいたとえを、これほどしつこく、くり返し思い出させる女性の唇と歯を、いままで彼はついぞ知らなかった。彼は恋人としてだったら、それらを即座に完璧な口もとだと呼んだかもしれない。しかし、いや――それらは完璧ではなかった。一目みて完璧と見まごう画面に、一刷毛の描き残し、または不完全さが残っていてこそ、甘美な魅力は生まれるのだ、――不完全さ、それは人間性を発揮する要素だからである。

自然が望む美はシンメトリーなのだが
人間が憐憫の情を抱くのはアシンメトリーで
完璧にほど近い美の中の僅かに不完全な愛くるしさなのだ

そんなテスの唇を見つめる時
恋人のエンジェルは全神経をつらぬく薫風が吹き起こりめまいがするそうで
この薫風はギリシア語で「アウラ」(大沢衛の訳は【開花発気】)だ
なんて瑞々しい表現だろう・・・ホゥ(*-∀-)

テス  Blu-ray スペシャルエディション

ロマン・ポランスキによって映画化された『テス』では
小説で想像してたよりも幾分明るいイメージのナスターシャ・キンスキーが
ハーディの美的表現通りのテスを演じてたが
当時17歳のキンスキーはこの時ポランスキと深い仲だったそうで
だからこその出来の良さなのかもしれナイが
そこにどうにも苦々しさを感じてしまうのが残念だ

映画『テス』はポランスキの亡き妻シャロン・テイトに捧げられたが
それは彼女こそが夫に映画化を勧めてたからなのだ
チャールズ・マンソンの狂気の犠牲となる前に・・・

tristram-shandy

キリスト教には【洗礼】なる儀式があり
この儀式をせずに死ぬのは信者にとって途轍もなく恐ろしいらしい

なんせキリスト教では死後の世界を確証してて
例えば自分のような無神論者は無条件で地獄や煉獄へ落ちるとされてるるる~

洗礼の外気ドイツ Rummelsburger 宗教 1902 年

神の御許=天国、に行き着くためには魂の救済が必要不可欠で
特にカトリックでは【洗礼】の秘蹟によってこの処置を施すのだそうだ

このカトリックの教えが民間信仰として根強いと確信したのは
トマス・ハーディの『ダーバヴィル家のテス』を再読した時(数年前)だった

テスの産んだ子は私生児だったため【洗礼】を受けられずにいて
この子が死に瀕した際にテスはその純粋な信仰心から
私生児=罪の子、であるコトと【洗礼】=魂の救済処置、が施されてナイコトの
二重の負い目を持つ我が子が死んだら地獄に落ちると確信する

カトリックの信徒が叩き込まれてる地獄の概念はテスにとっては凄まじく
思い巡らせばもう居ても立ってもいられなくなったのだろう
とうとう自らの手で赤ちゃんに【洗礼】を行うに至る

[1]水(聖水)で浄める
[2]名前(洗礼名)を付ける

かつて自分がカトリックのシスターに教わった【洗礼】の概要もこの2つで
思いの外やるコト自体は安易ではあるが誰でもできるワケではナイ
れっきとした授洗者(神父)が行わねば【洗礼】の秘蹟とはならナイのだが
それもおそらく承知の上でテスが【洗礼】を強行したのは
恐怖心から何もせずにはいられなかったのだ

淡い望みと冷たくなった我が子を胸に抱いて
キリスト教徒として埋葬してもらうよう神父に依頼しに行くテスだったが
神父は教義上、その子をキリスト教徒と認めるワケにはいかず
堕獄の集ばかりが眠る墓場に埋められるコトになった

この堕獄の集とはキリスト教の教義に適わぬ死に方をした者で
悪名高い酔っ払い、自殺者、そして【洗礼】の秘蹟を齎されずに死んだ者だ
どんなに素晴らしい生き方をした人でも無垢な乳幼児でも
死ぬ前に【洗礼】を受けなければ地獄行きなのだよヽ(゚∀。)ノ

神ってどんだけ了見の狭いヤツなんだかw

いや、実際に神がどう取り計らってるのかは知る由もナイが
無神論者が神に対してそう感じてしまうのは勝手な思い込みではなく
ローマ・カトリック教会の教えが貶めてるのにほかならナイのだ

しかしとりあえず信者がどれほど【洗礼】に重きを置いてるかは
無神論者にも納得はできなくとも理解はできる
だからなるべく早く子供に【洗礼】を受けさせたいのだろうし
極論として生まれる前の子供の【洗礼】にまで及んでしまうのもわかる
なんせ近代まで子供が死ぬ確率は現代とは比較にならナイほど高く
妊娠~出産時の死亡率も母子共に高かったのだ

ロレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』の第1巻の第20章では
生まれる前の子供の【洗礼】、つまり嬰児の【洗礼】についての
ローマ・カトリック教会とソルボンヌ大学と聖トマス・アクィナスの見解が
原注に以下のように記されてる

ローマカトリック教会の儀典書は、危急の際における出産前の子供の洗礼を指令しています――ただし、子供の体のいずれかの部分が授洗者の目にふれた時という条件付です。――ところがソルボンヌの博士たちは、1733年4月10日、彼らの間で行われた審議の結果、産婆の権限を拡大して、子供の体のいかなる部分も外にあらわれないときでも、注射によって(小なるカヌーレの使用により――つまり、注射器を用いて)洗礼を施すべきことを決定しました。――ここで甚だ不思議なのは、かの聖トマス・アキナスが、一方ではあのスコラ派神学の無数の紛糾錯雑したこんぐらかりを作るほうにもああいうきわ立った緻密な頭を持ちながら、この問題には大いに労力を傾注したあげくに、最後はこれを第二の不可能事として遂に断念してしまったことです。――「母胎内にある嬰児は、」(聖トマスは言っています)「いかなる手段によりてもこれに洗礼を施すを得ず」――何ということです、トマス様!トマス様!

現代日本に生息する無神論者からしたら
胎児に【洗礼】を施そうとするコト自体がナンセンスなのだが
聖水を注射器に仕込んで母胎に注入する、なんてグロテスクな方法には
どうしてそんな発想ができるのか、眉を顰めてしまうが
この「母胎に注射器」を条件とすれば【洗礼】が「有効」と認める、となヽ(゚∀。)ノ
いやいや、それを神も認めてるかどうかは誰にもわからんて。(´д`;)ギャボ

ちなみに作中では「母胎に注射器」での【洗礼】の代わりに
主人公のトリストラム・シャンディは以下を提案してる

父親の精子の小人全員に対してならどうか?

精子全部を聖水で浄める、なんてのはもうやり方も想像を絶するなw

それにしても今でこそ生まれる前に性別を知り得て
性別に見合った名前をつけるなんてコトが当たり前にできるのだが
昔はそうはいかなかったのだから
もしかして「母胎に注射器」で【洗礼】を行うより
洗礼名をつける方が困難だったりして。(゚д゚lll)ギャボ

エリザベス朝の劇作家シェイクスピア原作の『から騒ぎ』の映画を見た
1993年のハリウッド映画だがそんな映画があったコトすら記憶に留めてなかった
その頃はシェイクスピアに苦手意識があったのだ(-_-;)

から騒ぎ [DVD]

でもおかげで(?)今まで原作を読んでなかったのと
『ヴィクトリア朝の性と結婚』とゆー本を読んでた矢先だったので
今回はそのまま楽しめた気がするるる~

じゃじゃ馬ならし・空騒ぎ (新潮文庫)
ヴィクトリア朝の性と結婚―性をめぐる26の神話 (中公新書)

2組のカップルが誕生するまでのいきさつが描かれてて
要はハッピーエンドの悲喜劇なのだけど
そこに描き出されたエリザベス朝時代の性と結婚の常識が
現代日本人には驚愕なのだ((((; ゜Д゜))) ガクガクブルブル

1.良家の子女は処女であるコトが大原則である
2.実は非処女であったとわかると男は100年の恋も冷める
3.男は処女と確信してた婚約者が非処女とわかると女をゴミのように捨てる
4.非処女は誰からも罵倒されて然るべき存在である
5.4.ゆえに非処女の濡れ衣の恥辱に耐えられナイ処女は自害して当前
6.やっぱり処女だったと判明した途端に男はゴミのように捨てた女に愛情が蘇る
7.実際に処女を喪失してた侍女については誰も攻め立てナイ
8.もちろん男の側は放埓ゆえの独身主義でも誰からも攻められようもナイ

良家の子女は結婚前に処女を喪失するくらいなら死んだ方がマシで
また男の方も処女かどうかだけが愛情(?)の指針なのだ
尤も「処女なら可愛がってやるるる~」「非処女なら死んで詫びろ!」なんて
豹変できるのが愛情なのかも疑わしいがねw

結婚の認可が教会によってたので神聖さを求められたのはわかるが
それを女の方にばかり要求したのがどうも腑に落ちナイのだ。(´д`;)ギャボ

それとゆーのも教会結婚は宗教的意義より経済的意義が大きかったのだ
良家の御曹司は持参金つきの女を娶って家を守る義務があり
メイドや娼婦と恋愛結婚されたりしては困るるる~
とゆー家父長制の利益のための制度だったのだ

だから実態は「教会が認めナイと結婚できナイ」のではなく
「一家の利益に適ってると家族が合意しなければ結婚できナイ」ように
教会が一枚噛んでるってのが正しいのだね

そして1度結婚すると解消ができなかった(離婚できなかった)のも
教会結婚の定めたトコロだったがこれも経済的意義に合致した
トマス・アクィナスの次の言が『教会法典』の教義に採用されたからだが・・・

人間の男と女の結合は永続しなければならないとともに解消されてはならない

ああ、トマス様!聖なるトマス様!!(←『トリストラム・シャンディ』風w)
仰るコトご尤も、ですが、信者たちは真意を汲み取らず
実に都合よく取り入れてるのがなんと嘆かわしい。・゚・(ノД`)・゚・。

自分は無神論者だがトマス・アクィナスのスコラ派哲学的言及には
【神】を抜きにすれば賛同できたりしてヽ(゚∀。)ノ

それでもまだシェイクスピアの時代はマシで
ヴィクトリア朝時代ともなると病的にお上品になり
レディ(良家の処女)に見せるべきでナイ部分を一切カットした
『家庭版シェイクスピア』なんてのも発刊されたほどだ。(゚д゚lll)ギャボ

こうした見せかけのお上品さが蔓延すればするほど
売春は蔓延った・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ
妻とは神聖なセックス(?)をして、影ではメイドと乳繰り合い
外では娼婦と奔放にセックスをしてたワケだ

ところで旦那様とメイドの不倫は前述の『ヴィクトリア朝の性と結婚』によれば
自分が想像してた以上に日常茶飯事的なモノだったようだ

但し私生児を産んだ女性の比率でメイドがダントツに多いのは
女性の職業と言えばメイド、ってな時代なので元よりメイドが多いからで
それで私生児を産んだ女性の全体数から比率を比較されてもなんだが
実質的に私生児を産んだメイドはわんさといたのは事実だし
避妊も覚束ナイ時代だったので実数を反映してるだろう

僕らの受けた教育の忌まわしいところは、キリスト教が性を公認せず、尊重しないことだ

『宝島』『ジキルとハイド』のスティーヴンソン

神は性欲を植えつけた・・・そうしておいて、この欲望を刺激したり、助長するのを禁じている、性欲を植えつけた目的である結婚のため以外には。

『不思議の国のアリス』のルイス・キャロル

この時代のこの手の名言が見つかったらまたここに追加しよう♪

小学生の頃からキリスト教美術のマニアで特に天使画ヲタだった

天使の性を超越した美しさの御絵は耽美主義者には見逃せなかったが
聖母子像、イエス、聖人なども画家がここぞとばかりに聖なる美しさを表現してて
天使ほどではナイにしても目を見張る綺麗な御絵(※)をたくさん持ってた
御絵(ごえ)はイエスやマリア、大天使や聖人が描かれたカード

それらのほとんどは何かの折にシスターにもらったのだが
1枚¥5とか¥10の駄菓子価格から売ってたので
子供がお手軽に蒐集するのにはちょ~どよかった(*^^*)
ちなみに今でも四谷のドンボスコで売ってるがさすがに¥20以下は余りなさそうだw

皆がお菓子のオマケのシールやカードを集めてるのと同じように
せっせと御絵を集めてたのだったが
そんなコレクションからお気に入りを紹介

これは主役の聖母より脇役の天使の方が有名な(?)
ラファエロの『サン・シストの聖母』

聖母子像が多々ある中でもお気に入りなのが
このフェルツィ作『街角の聖母』で
取って付けたような神々しい絵柄よりこの人間らしい表情にぐっと来るね

サッソフェラートの『聖母の祈り』は祈ってるのか呪ってるのか・・・
不気味な表情なのが気に入ってたりしてヽ(゚∀。)ノ

痛々しい姿のこの人は聖セバスチャンだ
聖人とされる人にはバプテスマのヨハネ、弟子の十二使徒と
4大教父、4大聖女、守護聖人がいて聖セバスチャンは守護聖人
守護してるのは兵士や射手だってコトだが
セバスチャン自身はローマ軍に弓矢で射殺されてるるる~

ローマ皇帝ディオクレアヌスの時のローマ軍人だったのだが
キリスト教徒の友人が処刑されるのを助けたせいで
自身が処刑される破目になった
御絵にしては随分グロテスクな1枚でその肉感的な姿態が美しい
この『聖セバスチャンの殉教』はソドマ作・・・
と信じてたが実は御絵用に装飾してあったのだと最近気がついた!

本物は迫力が違う!!


この『聖フロリアン』は作者不明。(´д`;)ギャボ
消防の守護をしてるんで消防署に祀られてたりするのだが
どうして消防の守護聖人になったかは悲惨だ

フロリアンもローマ皇帝ディオクレアヌスの時
ノリクム(現オーストリア)に駐在のローマ軍人だったが
キリスト教信者迫害の任務を拒絶したために火刑を言い渡された
そしていよいよ処される時に火を点けようとしたローマ兵に

自分は炎の上の天上に這い上がる

と言い放ったので畏れた兵士たちは火刑を取り止めたが
代わりにフロリアンに大岩を縛り付けて溺死させたそうな。(゚д゚lll)ギャボ

この投げ込まれる直前の様子を描いた画像とか顛末の詳細ページがあった
LINK:The Public Safety Net

『聖チェチリア』はミュージシャンや詩人の守護をするるる~
4大殉教聖女の1人でその中でも唯一の既婚者
嫁いだ先の夫が異教徒だったので改宗させたらしい

たいていは楽器と紅白の薔薇とか天使を伴って美麗に描かれるのだが
これは右端にいる天使こそが不気味だな((((; ゜Д゜))) ガクガクブルブル
まあ上級天使になるほど姿は顔と翼だけとか不気味になるワケで
教義的にはWaterhouseの作の天使よりも格は上なのだがw

ところで自分は冒頭に書いたように
キリスト教美術のマニアではあったが信者ではなかった

生命―その本質,起源,発展 (1962年)
生命の起原―生命の生成と初期の発展 (1969年)

物心ついた頃には既に理性的に論考しててかつ懐疑的でもあり
地球や生命の誕生についてはオパーリンの【コアセルヴェート説】を信奉してたので
『旧約聖書』の「創世記」は神話とゆー寓話であると捉えてた

今でも『旧約聖書』は『古事記』や『ギリシア神話』などと同レベルで信じてるし
『新約聖書』はアーサー王の伝説よりは史実に近いと考えてるが
イエス・キリストの【奇蹟】にはマーリンの【魔法】と同レベルを感じてしまう

しかし魔術師が道義的理由で自然の摂理に背けるように見せかけるのは構わナイが
神の子が神(自然の摂理)に反した行動をとる意味はわからん(-_-;)

科学的=理性的な考え方の人間にとっては自然の摂理は絶対的であれば
それが神が創りたもうたモノであろうが神の手によらナイモノであろうが構わナイ
理路整然とした世界観の妨げにならなければ問題ナイからだ

少なくとも自分とアリストテレスとトマス・アクィナスにとっての真理は
信仰を超越して理解し合えるモノであるはずなので
その真理が何によるモノであるかの「何」についての定義の必要はナイ

もちろんトマス・アクィナスは便宜上、あるいは立場上
「何」を「神」であるとしてはいるが
ローマ・カトリック教会のご都合主義で創られた神に準拠してナイ
そんなトコロに真理が存在しようもナイからなw

ともかく真理の探究者にとって
現世の掟が捻じ曲げられるようなコトは起こってはならナイのだが
実際に起こりようもナイ

なぜならそれは美しくナイからだp(-_-+)q←マヂ

自然は美しいが不自然は醜いのだ、これが真理だp(-_-+)q←マヂ

だからキリスト教自体は絶対的な真理なんかでは決してナイのだが
キリスト教を真理に近づかせるのにキリスト教美術は一役買ってるだろう





しばらく編み物の日記ばかりだったが
本を読んでなかったワケではナイ

まずは夏休みにとーちゃんから借りてきた本を一通り読んだ
LINK:LIST

これで今更ながら近代哲学の中で抜けてた部分を補ったのだが
読後には喉に小骨が刺さったままのような不快感が残り
それゆえ考察がまとまらずにいた

引っかかってたのはヨーロピアン特有の根源的な問題で
キリスト教の神の存在を無視しては話を進められず
むしろ黙認した上で話を進めなくてはならナイって部分だ

神、即ち【理性を欠いた絶対正義】を振りかざす人々に対しては
理性的に話を進めるほど認識がずれてくので
トルストイニーチェもそこで悶え苦しんだワケだが
根性無しのトルストイは帰依するしかなかったし
最期まで頑張ったニーチェは発狂するしかなかった。(゚д゚lll)ギャボ

それにしても【理性を欠いた絶対正義】に対して辻褄を合わせようと
躍起になって事実や真実の方を捻じ曲げてしまうってのは
自分のような理性的=科学的な思考回路の朴念仁には
どうしても理解不可能なのだが
そうして逆に深く知りたくなったのは
神の存在を鵜呑みにできる人間の精神構造だ

しかも無知蒙昧さゆえに鵜呑みにしてるのでなく
教養のある人間が理論的考察を重ねた上で
どうやって宗教概念を構築してくのか?
これを知らずしてキリスト教がどうのこうのと語るのは
詰めが甘過ぎるるる~

そうなのだ、詰めが甘いのだ、自分w
十字軍(聖地奪還遠征軍)とか騎士団(騎士修道会)とか
凄~~~く好きなくせに
実は参加者の心情を全く理解できてなかったりして(滝汗)

やっぱ最低でも
古代ではアウグスティヌス
中世ではトマス・アクィナス
この2人くらい押さえておかなきゃな

てなカンジで
アウグスティヌスの『告白』『アウグスティヌス講話』
トマス・アクィナスは講談社学術文庫の『トマス・アクィナス』
購入して早速読み始めた

読んでみて痛感したのは自分と全く同じ心情だってコトだ
つまり「この世界を正しく認識したい」のであって
ただその前提に「世界は神の創りたもうたモノ」てのが
あるかナイかだけが違うのだ

あともう1つの決定的な違いは万事の捉え方で
彼らは真剣や真摯を通り越して深刻(シリアス)なのだが
常に上から【理性を欠いた絶対正義】に裁かれてる
そんな受身感覚が齎すのだろう

しかし自分は【自分の考える正義】が掟となるので
その都度真剣に捉えて熟考して判断を下し
それに従って行動するようにしてる
だから自信はなくとも責任を回避するワケにもいかず
判断も行動も能動的にならざるを得ナイ

そしてどちらのタイプの人間も同じなのは
それぞれの【正義】に対して
同調しつつも逆らった行動をとってしまいがちな部分だ
簡単に言えば悪(魔)の誘惑に弱い!

宗教概念の有るのと無いのでは真逆かもしれナイが
【正義】を実践できる人間同士だったら
ある意味気持ちは通じ合えるのではナイだろうか?

そんな疑問を抱いた時にちょうど゚+.(・∀・)゚+.゚イイ本が!
『これからの「正義」の話をしよう―いまを生き延びるための哲学』

ちなみにマイケル・サンデルの主張する【正義】は
【社会理念に基づいた正義】だと思うので
社会生活を余儀なくされてる人間としては従うべきかもだが
社会に従属しなくて済むなら必ずしも正しくはナイ
まあ実際誰もが社会に従属してるのだが。(´д`;)ギャボ

ところでマイケル・サンデルの著書は
さすがベストセラーだけあっておもしろさは抜群だったね
専門の哲学より心理学に長けてて
人の気持ちを捉える(興味をそそる)のが上手いと思ったよ

でも感心しただけで感動はなかった
気持ちを捉えられても心の琴線には響かなかった
よほど美しさに感じ入らナイと震えるコトがナイ
そういう琴線の持ち主なのだ、きっと愚鈍なのだ、自分www

そして副題に「いまを生き延びるための哲学」とあるが
哲学は生き延びるためにあるのではなく
美しく生きるためにあるのだと思ってたのだヽ(゚∀。)ノ

つまり現代社会は美しく生きられナイようにできてるのだな
美しく生きたらのたれ死ぬしかナイのか・・・?!