Les Provinciales

世界を司ってるモノが
神であろうが
自然の摂理であろうが
何だって構わナイし
どうせその答えは人類には出せナイ

ただ切に願わずにはいられナイのだ
世界は美しくあるべき、と

☆・・・☆・・・☆

パスカルはキリスト教信者だった(※)が
宗派としてはジャンセニスム(ヤンセニスム)で異端であり
ローマ・カトリック教会の中でもジェズイット教団(イエズス会)は
ジャンセニストに対して攻撃的だった
23歳の時に第1の回心、31歳の時に第2の決定的回心

ローマ教皇歴代誌

ローマ・カトリック教会はローマ教皇庁を頂点にした権威主義的な組織だが
その最高権威者たる大司教は単純に考えて神に任命されたワケではナイ
そんなコトは信者だってわかってる・・・はずヽ(゚∀。)ノ
それでも神の代理機関としてヨーロッパ中で認知されてたので
神の名を騙って異端審問を行ってた

この「審問」てのは「裁判」とは違って
異端審問を受ける=既に異端者として見做されてる、なので
受けたら最後、何らかの刑罰からは逃れようもなく
まあほとんどの場合は火炙りにされたのだが
要するにローマ・カトリックが中世より権威を保ってきたのは
教会にとって都合が悪い真実を述べてる人間を
悉く惨殺するコトによってなのだよ。(゚д゚lll)ギャボ

そういうローマ・カトリックのやり方がどうにも虫が好かナイ自分は
それでキリスト教自体にも懐疑的にならざるを得なかったが
パスカルはキリスト教そのものや神(至高存在)は是認してたので
正しい信仰の在り方を希求した結果として
ジェズイットとは反目するようになったのであって
消去法的にジャンセニストの側についた、という見方が正しいと思われ

それとゆーのも、パスカルが所属してたパリのポール・ロワイヤルは
当時のフランスにおけるジャンセニスムの本拠地だったので
これを目の敵にするジェズイットの攻撃が不可避で
パスカル自身が格別にジャンセニスムに傾倒してなかったとしても
ジャンセニスム擁護の立場におかれてたのだ

パスカルはジェズイットの攻撃に対する回答をまとめて
『プロヴァンシャル』として匿名で出版したが
ジャンセニストを代表してのパスカル名義ではナイコトや
論旨が必ずしもジャンセニスムに忠実ではナイコトからしても
単にジャンセニストとして十把一絡げにしまうのは憚られるのだが
キリスト者としても決して不寛容な妄信の徒ではなく
理性的に、時には科学的にさえ、考えてる

だって人間は【考える葦】だよ・・・。・゚・(ノД`)・゚・。
from パンセ by パスカル

自分は無神論者だが
パスカルが無神論者を嘆く気持ちが痛いほどよくわかるのだ

通常であれば、信者は信仰が定めた世界観が正しいと思い込んでて
その世界観に疑いを抱く非信者を間違ってると見做し
自身は神に従順な正義なので、反駁する相手を悪(魔)だと決め付ける

パスカルは押し付けられた世界観をそのまま享受してるのではナイ
世界がどう(美しく)あるべきかを吟味した上で
思い描くようになった理想郷があり
そこを神が支配してて欲しい、と願ったのがパスカルで
自分は反対に、そこで偽りの神を祀るべからず、となるワケだw
なんせ宗教の存在こそが争いとその後の悲劇の原因なのは
有史以来の歴史が明らかにしてる史実だwww
しかしパスカルに言わせれば
良心のありかは神の存在なくしては成り立たナイ
つまり、非道をやってのける者は神を畏れずにいるためにやってしまう
そんな前提で「良心を持ってて欲しい」=「神を信じて欲しい」だとすれば
無神論者の自分も=の前の部分には共感できてしまうのだが(-_-;)

と、ここまできてからなんだが
ジェズイットにしろ、ジャンセニスムにしろ
そもそもキリスト教からして日本人には馴染みが薄いかもだな。(´д`;)ギャボ

ジェズイット(ヤソ)会士は厳格な男子修道会で
平たく言えば修業を積んだら僻地へ布教に行く派遣員の候補者で
日本に布教に来たフランシスコ・ザビエルも
この教団の創始メンバーだった

聖フランシスコ・デ・サビエル書翰抄 上巻 (岩波文庫 青 818-1)聖フランシスコ・デ・サビエル書翰抄 下巻 (岩波文庫 青 818-2)アウグスティヌス講話 (講談社学術文庫)

ジャンセニスムは人間を罪重く非力な存在と貶めて
神の恩寵なくしては救われナイ、としてるのだが
これはオランダの神学者ヤンセンの著書に端を発してて
そのタイトルの『アウグスティヌス』てのは
若き放縦の日々への悔恨に苛まれ続けたヒッポの司教の名だ

【正義】について考えてみた





しばらく編み物の日記ばかりだったが
本を読んでなかったワケではナイ

まずは夏休みにとーちゃんから借りてきた本を一通り読んだ
LINK:LIST

これで今更ながら近代哲学の中で抜けてた部分を補ったのだが
読後には喉に小骨が刺さったままのような不快感が残り
それゆえ考察がまとまらずにいた

引っかかってたのはヨーロピアン特有の根源的な問題で
キリスト教の神の存在を無視しては話を進められず
むしろ黙認した上で話を進めなくてはならナイって部分だ

神、即ち【理性を欠いた絶対正義】を振りかざす人々に対しては
理性的に話を進めるほど認識がずれてくので
トルストイニーチェもそこで悶え苦しんだワケだが
根性無しのトルストイは帰依するしかなかったし
最期まで頑張ったニーチェは発狂するしかなかった。(゚д゚lll)ギャボ

それにしても【理性を欠いた絶対正義】に対して辻褄を合わせようと
躍起になって事実や真実の方を捻じ曲げてしまうってのは
自分のような理性的=科学的な思考回路の朴念仁には
どうしても理解不可能なのだが
そうして逆に深く知りたくなったのは
神の存在を鵜呑みにできる人間の精神構造だ

しかも無知蒙昧さゆえに鵜呑みにしてるのでなく
教養のある人間が理論的考察を重ねた上で
どうやって宗教概念を構築してくのか?
これを知らずしてキリスト教がどうのこうのと語るのは
詰めが甘過ぎるるる~

そうなのだ、詰めが甘いのだ、自分w
十字軍(聖地奪還遠征軍)とか騎士団(騎士修道会)とか
凄~~~く好きなくせに
実は参加者の心情を全く理解できてなかったりして(滝汗)

やっぱ最低でも
古代ではアウグスティヌス
中世ではトマス・アクィナス
この2人くらい押さえておかなきゃな

てなカンジで
アウグスティヌスの『告白』『アウグスティヌス講話』
トマス・アクィナスは講談社学術文庫の『トマス・アクィナス』
購入して早速読み始めた

読んでみて痛感したのは自分と全く同じ心情だってコトだ
つまり「この世界を正しく認識したい」のであって
ただその前提に「世界は神の創りたもうたモノ」てのが
あるかナイかだけが違うのだ

あともう1つの決定的な違いは万事の捉え方で
彼らは真剣や真摯を通り越して深刻(シリアス)なのだが
常に上から【理性を欠いた絶対正義】に裁かれてる
そんな受身感覚が齎すのだろう

しかし自分は【自分の考える正義】が掟となるので
その都度真剣に捉えて熟考して判断を下し
それに従って行動するようにしてる
だから自信はなくとも責任を回避するワケにもいかず
判断も行動も能動的にならざるを得ナイ

そしてどちらのタイプの人間も同じなのは
それぞれの【正義】に対して
同調しつつも逆らった行動をとってしまいがちな部分だ
簡単に言えば悪(魔)の誘惑に弱い!

宗教概念の有るのと無いのでは真逆かもしれナイが
【正義】を実践できる人間同士だったら
ある意味気持ちは通じ合えるのではナイだろうか?

そんな疑問を抱いた時にちょうど゚+.(・∀・)゚+.゚イイ本が!
『これからの「正義」の話をしよう―いまを生き延びるための哲学』

ちなみにマイケル・サンデルの主張する【正義】は
【社会理念に基づいた正義】だと思うので
社会生活を余儀なくされてる人間としては従うべきかもだが
社会に従属しなくて済むなら必ずしも正しくはナイ
まあ実際誰もが社会に従属してるのだが。(´д`;)ギャボ

ところでマイケル・サンデルの著書は
さすがベストセラーだけあっておもしろさは抜群だったね
専門の哲学より心理学に長けてて
人の気持ちを捉える(興味をそそる)のが上手いと思ったよ

でも感心しただけで感動はなかった
気持ちを捉えられても心の琴線には響かなかった
よほど美しさに感じ入らナイと震えるコトがナイ
そういう琴線の持ち主なのだ、きっと愚鈍なのだ、自分www

そして副題に「いまを生き延びるための哲学」とあるが
哲学は生き延びるためにあるのではなく
美しく生きるためにあるのだと思ってたのだヽ(゚∀。)ノ

つまり現代社会は美しく生きられナイようにできてるのだな
美しく生きたらのたれ死ぬしかナイのか・・・?!