ホフマンの『黄金の壺』

謎解きをし始めたのはいつのコトだったか?

それがライフワークになったのはいつからだったか?

意識の奥底でずっと燻り続けてるモノが
自分にはいくつかあって
それらを明らかにしたい想いに駆られてる

その答えズバリが載ってるか
もしくは答えに近づけるヒントが
記してあると思われる本を
読みたくて、読みたくて、堪らナイ

また、そういう書物からインスパイアされた
絵画やオペラ、バレエ、映画なども
観たくて、観たくて、堪らナイ

狂おしいくらい求めて已まナイが
そんな風に知識欲が旺盛過ぎるのは
凄く幸せなコトだと確信してる

順調に求めるままに満たされれば
至福を味わい続けられ
人生に退屈を味わう瞬間などナイのだからして!

そして謎が解けた時の絶頂感は
恐らく人間の感覚の中で
最も心地よく突き抜ける快感だろうて!!

自分にとってホフマンは
いくつもの謎を提示し続けてくれる存在だが
初めて読むに至ったきっかけは
ボードレールの『人口楽園』だった

「アシーシュの詩」の冒頭が以下

 自分自身を観察でき、自分の受けた印象を覚えている人ならば、つまり、あのホフマンのように、自分の精神の気圧計を作りあげる術を心得ている人々ならば、自分の思想の美しい季節や楽しい日々や心地よい瞬間について、これを自分の気象観測所でいろいろ記録することもあったわけである。

「あのホフマン」と言われても
どのホフマンなのか皆目見当が付かず・・・

数ヵ月か半年くらい経ってたか
古本屋でぼろぼろよれよれの岩波文庫に
ホフマンの名を確認し購入

そうして入手しただけで
ヴォルテージが最高潮になるも
読み始めてみると荒唐無稽過ぎる展開に
全然ついて行けず。(゚д゚lll)ギャボ

今や世界的な人気を誇る日本のアニメの方が
どんなに異世界を描いてたとしても
まだしも整合性があると思われ。(´д`;)ギャボ

それは『黄金の壺』だった

あらすじを述べれば・・・

主人公はフツーの男子大学生で
リラの木の下で会った緑の蛇と恋に落ちる!
って、のっけからこれで
頭から?マーク放出しまくりw

しかもこの緑の蛇の恋人は
奇遇にも主人公のバイトの雇い主の娘だった!!
って、蛇の娘を持つくらいだから
当然ながら雇い主も人間ではナイのだが
蛇でもなくて、なななんと火の精サラマンデルwww

かつてアトランティスにおいて
このサラマンデルの恋人だったのが
百合の花・・・

(゚Д゚)ハァ?

父:サラマンデル
母:百合

その間に生まれたのが3匹の蛇

(゚Д゚;)ハァア?

その内の1匹が緑の蛇で
長じてフツーの人間の男である主人公の
恋人となったのだった・・・

バタリ ゙〓■●゙

だがしかし!
人間の(と断りを入れるのもなんだが)女に
横恋慕されたり
その女に加担する魔女が
りんご売りの老婆に化けてやって来て
ガラス瓶に閉じ込められたり
散々な目に遭う!!

それでも主人公と緑の蛇は愛を貫き
アトランティスにて幸せに暮らしました
めでたしめでたし(なのか?!)

不可思議さに唖然茫然となってる内に
感情移入し損ねてたら
あれ?これで終わり???
みたいなヽ(゚∀。)ノ

愛する相手が動物だとしても
もう少しヒューマニズムが感じられれば
種の違いの壁を乗り越えて
愛が実った時の感動もあるんだろうが
心の琴線に触れるような出来事が何もなくて
ひたすら意味不明・・・

ロマン派は病的だ

とはゲーテの言で
自分が読んだのは『黄金の壺』だけなので
ドイツ・ロマン派を総括して
病的かどうかは断言できかねるのだが
『黄金の壺』に限っては明らかに病的で
ドイツ・ロマン派に対しても
苦手意識を持ったって仕方がナイ

とはいえ
ホフマン自身の奇行遍歴などは
一切(と言って問題ナイくらい)なく
司法官の職にも就いてて(と年譜にはある)
社会的には奇人変人扱いされる謂われはナイのだ

要するにそれだけ
文学作品から発せられる異様さに
読者がやられてしまう破壊力があるのだよ

結局
ボードレールの言うトコロの
ホフマンの気圧計(バロメーター)ってのは
どういう意味(ニュアンス)なのか
『黄金の壺』を読んだだけでは判然とせず
いや、読後にこそ謎が深まったやも

そして謎解きが大好物の自分は
ホフマンの作品に不気味さを感じつつも
ハマっていくのだった・・・

小説『ドリアン・グレイの肖像』にみる詩的表現

紀伊國屋新宿本店で「ほんのまくら」なるブックフェアをやってて
これが実に気色悪いのだが書き出しの一文が表紙になってて
著者名や作品名がわからナイ状態で売られてたのは
2012年の夏だった


出典:www.mishimasha.com

自分には読みたい本も買いたい本もあり過ぎて
こんなイベントに足を運んでまで
本の無駄買いをする意欲は到底持てナイが
小説の冒頭ってのは凄く興味深い

もちろんそれは興味の範疇にある小説に限った話で
この抽出の無作為さは闇鍋の具のような気持ち悪さしかナイ

オスカー・ワイルドの小説『ドリアン・グレイの肖像』は
次のような一節から始まってる

 アトリエの中には薔薇のゆたかな香りが満ち溢れ、かすかな夏の風が庭の木立を吹きぬけて、開けはなしの戸口から、ライラックの淀んだ匂いや、ピンク色に咲き誇るさんざしのひとしお細やかな香りを運んでくる。

自分は初めてこの出だしを読んだ時には
文脈からその情景を思い起こして
どう考えても矛盾してるとしか思えなかったw

美に対する直観が鈍い、とワイルドに嗤笑されそうだが
科学的に、理性的に、現実的に、考えてみれば
薔薇のきつい匂いが充満した部屋では
風にのって運ばれてきたライラックやさんざしの香りなど
感じ取れるはずもナイのだ。(´д`;)ギャボ

そして少し先に読み進むと
これがまたよくわからナイ例えにぶつかるるる~

時おり、おもてを飛ぶ小鳥の夢のような影が、大きな窓にかかった長い山繭織りのカーテンをよぎり、その一瞬、まさに日本的な気分をつくり出す。すると、かれの脳裡には、固定した芸術媒体を通じて身軽さと動きの感じを伝えようとするあの東京の画家たちの硬玉のように青白い顔が浮んでくる。

え~と・・・。(゚д゚lll)ギャボ

このワイルドの日本観を用いた例えは未だに理解に苦しむが
情景をはっきりと思い描こうとするからこそ
さっぱり掴めなくなるのだ
単に異国情緒の雰囲気が漂った気がする、なんてトコロだろうか?

どうもワイルドの小説は表現が詩的過ぎるのであるるる~

確かにこういう表現は
ボードレールやランボーの詩には多用されてて
はっきり思い浮かべると情景が重なり合ってしまい
実体が掴めなくなってしまうのだが
それが詩なら抽象的であっても何も問題はナイ

悪の華 (集英社文庫)

尤も詩の場合には
情景の正確さより語句の美しさ自体を愉しむので
矛盾が生じてもそれに捉われるコトもナイのだが
小説中ではどうも引っかかるのだ

ボードレールはこの表現方法についても自ら詩作してるが
その詩のタイトル『コレスポンス』は
鈴木信太郎によって【交感】
また堀口大學によって【呼應】と訳されてて
これは五感によって概念を直観的に感じさせる手法である

万人に共有される秩序だった理解ではなく
特異的な美感を持つ者にしか感じようがナイ「悟り」・・・とでも言おうか?

そのモノの本質的な美を感じ取らせるために
研ぎ澄まされた美意識から共鳴を呼び覚ます語句を鏤めるのだが
その語句には自然の色や香り、花や鳥の名など
これは残念ながら幼少期の内にその美しさに胸を打たれた記憶がなければ
どうにも持ち得るコトができナイ感覚だったりもする

なのでまるでわからナイモノの門前払いをしたがってるかのようなのだが
小説でそこまでやるのはさすがワイルドだなw

フロルッサス・デ・ゼッサントの影響

四半世紀に渡って何度も同じ本の同じ部分を読んでる

ユイスマンスの『さかしま』がそれだが
中でも第3章が最多で次いで第5章、第7章、第12章、第14章辺りだ

A rebours

『さかしま』は「奇異」な小説で
主人公のデ・ゼッサントの趣味や思想を並べ立ててるだけで
ストーリーはその中で挿話として展開するのみだ

なので一応はユイスマンスの小説なのだが
読んでる感覚からするとまるでデ・ゼッサントのエセー(エッセイ)だ

デ・ゼッサントは19世紀フランスの貴族の男なので
その趣味や思想は健全(ノーマル)な現代日本人には全く縁のナイモノばかりで
自分も未だに半分もわかってナイ気が・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

読み始めたのは高校生の頃で
一般よりはよほど不健全(アブノーマル)な文学を好んで読んでたし
芸術も音楽もデカダンの香りがするモノを愛好してるワリに
バイオテクノロジーとゆー生化学の最先端を勉強してて
自分も世界を理解してキタ ━━━━━(゚∀゚)━━━━━ !と奢り高ぶってたので
デ・ゼッサントが次々と提示してくる固有名詞が
ほとんど初見であるコトに衝撃を受けた!!

澁澤の注釈がなければ、いや、注釈があっても
1/10もデ・ゼッサントの趣味や思想を理解できなかった
てか、全然知らナイモノの羅列でしかなかった。(゚д゚lll)ギャボ

そもそも固有名詞を除いたトコロで
漢和辞典がなければ数ページも読み進めナイほど
新鮮な読み方の漢字が怒濤のように繰り出すのであるるる~

澁澤龍彦訳しか読んだコトがナイのだが
他の澁澤訳のデカダン文学に慣れ親しんでたはずの自分が
『さかしま』だけは全く置き去りにされたのだった
しかし漢和辞典と注釈に頼りながらもしぶとく読み進んだのは
デ・ゼッサントの趣味と思想に共鳴する部分を片鱗ながらも見出してたからで
生涯の友となる予感がしてたのだ

それからもう四半世紀が過ぎようとしてるが
デ・ゼッサントの趣味や思想を未だ総て理解しておらず
また理解しても納得はできずに反駁さえするような見解も生じた
それでもデ・ゼッサントが魅力的なのは変わらナイ

初めて読んだ時はとにかくいちいち興奮した

第1章でボオドレエル(ボードレール)の語を見つけて
まずは文学の趣味の接点があるコトに嬉しくなった(*^^*)

まあデカダン趣味は読む前から予想してて読み始めたのだが
第2章でパストゥール(パスツール)の名(※)を目にして
まさかデカダン趣味の貴族にこの近代細菌学の開祖を語られるとは
予想してなかっただけに殊更嬉しくなった(^▽^*)
応用微生物を勉強してた自分にとってはパスツールはとても近しい存在だった

第3章では古代ローマのラテン文学が網羅されるのだが
それら殆ど総てを批判するデ・ゼッサントの気に入ってるのが
ペトロニウスの『サテュリコン』とアプレイウスの『黄金の驢馬』で
ついでに言えばヘリオガバルスに好意的なのだ(゚ ゚;)

しかもウェルギリウスやオウィディウスに始まって
セネカに大プリニウスまで続けざまに延々と非難囂々の挙句に
いきなり上記3人が絶賛されてるのであるヽ(゚∀。)ノ

なのでここまでですっかり決心してしまったのだ

きっと一生かかって追い求め続ける、と・・・ホゥ(*-∀-)

ベランジェ、そしてフローベールとボードレール

『ベランジェという詩人がいた』からのネタは続く・・・

ベランジェが訴えられて
第1回目の裁判があった1821年に
フローベールとボードレールが生まれた

2人ともベランジェに対しては批判的だそうだが
そうするとヴォルテールに対しても非難を浴びせてるのは
然りなんだろうか

フローベールは『ボヴァリー夫人』で
オメーとゆー自分からしたら理想的な男性像を描いてるので
オメー=フローベールなのでは、とすっかり誤解をしてたのだが
フローベールからするとオメーは
ベランジェやヴォルテールと同じ神を敬う
好まれざる人物像なんだ・・・。(゚д゚lll)ギャボ

自分もこの2人にはさぞや嫌われただろうな(苦笑)

ちなみに
フローベールの『ボヴァリー夫人』も
ボードレールの『悪の華』も
裁判にかけられ
『ボヴァリー夫人』は無罪
『悪の華』は有罪
だった・・・

ベランジェ自身は2度の裁判で2度とも有罪になり
罰金を課されて投獄される

第1回目の裁判で問題になったシャンソン集は
以下の4つの争点について審議された

風俗壊乱
公共の倫理、宗教倫理の冒涜
王個人の侮辱
反乱幇助

あるシャンソンの一部の意味や
あるシャンソンの全体のイメージの
意図するモノが上記4つに該当してるかどうか?

結果
当初は公共の倫理、宗教倫理の冒涜反乱幇助
該当すると有罪判決を下されて
のちに反乱幇助に対しては
やはり無罪だったと判決が覆された

結局のトコロ最後まで引っかかったのは
宗教倫理の冒涜、ってヤツなんだな・・・。(´д`;)ギャボ

これはもう現代の日本人からしたら
有罪になるのがむしろ不条理だとしか思えナイ

だがしかし
自分も今まで知らなかったのだが
ベランジェより1世紀ほど古い時代には
ルソーの『エミール』やビュフォンの『博物誌』まで
発禁になってたそうだから侮れナイ

さすがに
フローベールの『ボヴァリー夫人』は無罪となったが
これが有罪になってたら余りにもナンセンスだよな。(゚д゚lll)ギャボ

ボードレールの『悪の華』が有罪になったのは
公衆道徳良俗紊乱だったワケだが
これは簡単に言えば
政府が恋愛の歓喜の表現に対して
キリスト教に準じてナイ形態を容認するワケには行かなかったのだな

逆に自分がボードレールを高く買うのは
その禁断詩編だったりするんだがw

なぜか最近またボードレールを読む機会が多いけど
相容れナイ部分は増大してくばかりで
今まで好きな作家の中でも格別な引き立てがあったのが
不可解に思われてきたくらいだが
それでもレズビアンを高尚に詠ったこの男を
嫌いになる余地はナイんだよなwww

ボードレールは『悪の華』とゆータイトルを
時代が許せば『レスボスの女たち』としてたはずなのだ(*^^*)

ベランジェという詩人がいた―フランス革命からブルボン復古王朝まで