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『ガリヴァー旅行記』が出版されたのは1726年で
1667年生まれの著者ジョナサン・スウィフト59歳の時だった

イギリス人を両親に持つアイルランド移民の子として
ダブリンで生まれたスウィフトは
大学までダブリンで教育を受けた後は司祭職を務めてて
ロンドンに上京したのが1707年でスウィフトは40歳になってた

産業資本家(ブルジョワ)が台頭してきて
国家権力が王家から議会へと代わる政局の激変期だったが
スウィフトより1世代前くらいから
市民革命の波が絶対主義を押し流そうとしてた

1642年~49年のピューリタン(清教徒)革命で
イングランド王チャールズ1世は処刑され
郷紳(ジェントリ)のクロムウェルが
共和政(コモンウェルス)の名の下に護国卿(ロード・プロテクター)として
軍事独裁政権を強行するようになった

そのクロムウェルも1658年に亡くなり
クロムウェルの息子のリチャードが護国卿となるも
無能なため翌年には辞任する羽目になり政局は混乱する

混乱に乗じて国王に即位したのはチャールズ1世の息子のチャールズ2世で
政権を掌握するものの議会とは真っ向から対立した

その議会の中にもまた派閥があり
おおよそ国教徒がトーリー党で非国教徒がホイッグ党だったが
分裂の原因は王がカトリックを容認したのに対して
公職就任者をイングランド国教徒に限定したコトによる

1685年にチャールズ2世が亡くなると
今度は弟のジェームズ2世が議会にも国民にも反対されたが即位した
ジェームズ2世には跡継ぎの男子がなかったため
放っておいても断絶するしかナイので周囲は安心してたのだw

それが1688年に跡継ぎが生まれてしまったので
オランダからオレンジ公ウイリアムと妻メアリを国王夫妻として招き入れて
ジェームズ2世は退位させられた(てか、自らフランスに亡命した)

こうして無血で王位が移行したので名誉革命と呼ばれるワケだが
この名誉革命の時がスウィフト22歳だった

前述の通り、スウィフトがロンドンに上京したのは
1707年で既に40歳だったのだが
きっかけは1701年に発表した政治パンフレット(※)が
ホイッグ党に認められたコトだった
『アテネおよびローマにおける貴族・平民間の抗争・不和に関する論考』

ところが実際にロンドンで暮らすようになると
ホイッグ党にはすっかり失望して去り
反対勢力のトーリー党に就いて
機関紙への執筆などによって政治活動に貢献してたようだが
結局、トーリー党にもまた失望せざるを得なかった

なんせ1713年に彼に与えられた職は
ダブリンの聖パトリック寺院(※)の司祭長だったのであるるる~
教会(church)でなく寺院(cathedral)なので、カトリックではなく英国国教会なのだな

こうしてイギリスにおける野望が打ち砕かれ
翌年ダブリンに戻って政治活動から身を引いたのが47歳で
そんなワケで著述をしてはいたが
この時点ではまだ小説家と呼ぶのは微妙なのだ
いや、この時点までなら著述業でもナイ、なんせ本業は聖職者だw

むしろ本業が何であれ、この激動の時代には
執筆活動をしてて、ましてや政治を諷刺したりしてたら
それは政治活動の一環として厳しく取り締まられたのは言うまでもナイ

底辺で酷い目に遭いながらも政治活動をしてた者は
当時のイギリスに溢れかえってたに違いナイが
政権が安定してしまうとそういった論文は風化してしまい
新しい時代には古い時代の論文などは全く顧みられなくなってしまい
それ以上に書いた人間は忘れ去られてしまうだろう

『ガリヴァー旅行記』がなかったら
スウィフトもそのうちの一人になってたはずだ

The Life and Strange Surprizing Adventures of Robinson Crusoe, of York, Mariner

『ロビンソン・クルーソー』が出版されたのは1719年で
著者ダニエル・デフォーが59歳の時・・・

デフォーは1660年生まれで名誉革命の時は28歳だったが
20歳から商売を始めて24歳で結婚、とここまでの人生は概ね好調だった

デフォーが25歳の時にチャールズ2世が死に
ジェームズ2世の即位に反対して先帝の庶子モンマス公を推す一派に参加して
危うくモンマス公とその支援者と共に絞首刑になるトコロをなんとか免れたものの
こうした政治に関与した活動に拘わるうちに32歳で破産。(゚д゚lll)ギャボ

34歳から煉瓦商になって商売が回り始めた矢先
また政治活動に拘わるようになり執筆しだしてしまう。(´д`;)ギャボ

この辺りまではジャーナリストと言えなくもナイが本業は商人で
トーリー党のハーリーの下で補佐を勤め始めたのは40代になってからだ

彼もまた『ロビンソン・クルーソー』がなかったら
知られざる人物として歴史の闇に埋もれてしまっただろう

ちなみにデフォーの最期は
70歳にして失踪して翌年に孤独死してるのを発見されたそうだ

キリスト教徒の呆れた認識の一つに
正義のキリスト教徒が悪の異教徒を皆殺しにしても構わナイ!
いや、むしろそうすべき!!てのがあるが
スペイン人が新大陸において原住民を惨殺した歴史的事実も
キリスト教徒は認知しつつキリスト教の名の下に
正当である、としてるのはさもありなんw

いくら原住民の種族が残虐な宗教儀式を行ってたのだとしても
もちろん危害を加えられそうになったら正当防衛も必要だとは思うが
かのスペイン人たちは先住の民に対して先に危害を加えて
暴挙の限りを尽くしたのだからどこにも許す要素はナイ

アポカリプト [DVD]

しかも現代に至ってもまだ『アポカリプト』なんて映画を作って
やはり正義だった、と蒸し返してくるし。(´д`;)ギャボ

当然ながら食人を認めてるワケではナイが
戦士としてお互いが死力を尽くして戦った後に
勝った方が負けた方を食するのはその土地では理に適った掟だったんだろう
と、理解は出来なくナイ(まあ、納得はしかねるけどね)

また豊穣や戦勝やらを祈願して人間を供物にするのは
古くはどの民族だってやってた風習だろうに(賛成はしかねるがね)
それを咎めたり裁いたりする権利はキリスト教徒にはナイし
別の神の庇護下にある新大陸の先住民の命をどうにかする権利なんか
キリスト教の神にだってナイっつーのp(-_-+)q

キリスト教の神が唯一無二の普遍の神であると信じてるのは
キリスト教徒だけだってわかってナイのが痛い・・・

だからってキリスト教圏でなら
異端審問で非キリスト者と見做されたら
罪もナイ人間を拷問したり火刑に処したりするのがまかり通るのかって
近代的な道徳観念からしたらそれも食人種と同じく奇異だ

とはいえ、キリスト教の本質はユダヤ教の時代からそうで
いつでもどこでも侵略者でしかナイのに
まるで神に代わって残忍な種族を退治したみたいに聖者面して
他民族の犠牲の上に成り立ってたのだよ

怖ろしい連中だ((((; ゜Д゜))) ガクガクブルブル

そんな風に自分なりに考察して憤慨してたので
実際『アポカリプト』なんか観たら憤死しかねナイと思って
実は未見である・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

さて『ロビンソン・クルーソー』の場合だが
彼の状況では自己防衛(自らが生き延びる安全策)のためもあり
蛮人を皆殺しにする計画を何度も立てるるる~

それでいて蛮人皆殺し計画を実行したスペイン人を悪し様に罵るのだが
この辺りはロビンソン・クルーソーでなく
ダニエル・デフォーの本音なのかヽ(゚∀。)ノ

だいたいにおいて大航海時代にイギリスとスペインは
海洋(新発見の大陸、しいては植民地)の覇権を争ってたワケだから
仲が゚+.(・∀・)゚+.゚イイはずもナイが
スペイン人が基本的にカトリックであるため
イギリス人でも特にピューリタン(清教徒)はスペイン人に
苦手意識もしくは嫌悪感さえ抱いてたに違いナイだろう

ロビンソン・クルーソーがブラジルに永住する気がなかったのも尤もで
それとゆーのもブラジルはカトリック国なのだ
これもデフォーの本音ぽいかヽ(゚∀。)ノ

そんなワケで『ロビンソン・クルーソー』はいつのまにか
血湧き肉踊る冒険小説だったのが
宗教観と道徳観について思索が進む小説になり
いずれにしろ自分にとってはそれ自体は愉しめるモノだったりする

とはいえ、何度か映画になってる(※)が観たい気はしナイ
キリスト教マンセー映画だろうからきっとむかつくに違いナイ
ちなみに1つはピアース・ブロスナンで、もう1つはピエール・リシャールだ

冒険野郎マクガイバー シーズン5(日本語完全版)[DVD]

それとは別に近年のテレビシリーズの『Crusoe』は
原作とは全くかけ離れたアクションモノになってるらしいが
どのくらい「壊れてる」のかちょっと見てみたいかも・・・?!
しかし『冒険野郎マクガイバー』みたいな『ロビンソン・クルーソー』って
さすがアメリカと言うべきか。(゚д゚lll)ギャボ

それにしても自分は信仰心など微塵も持ち合わせてはいナイが
神の目にも誰の目にも触れナイと思ってても
社会的に与えられた役目・責任はきちんとこなすし
道徳的な配慮を怠るコトはナイ

自分自身を満たす工夫もしてるが
損を被ったとしても自分が必要とあらば他人に尽くす
自分の周囲も押しなべてそういう人間しかいナイ

信仰心からでなく、フツーに考えて道徳心を持ち
かつその心のままに実践してるから
あえてキリスト教の教義にあるような【戒め】を必要としナイ

神、神、と連呼してはいちいち話をこじつけて
自身に言い聞かせるロビンソン・クルーソーのやり口は
日本人には到底共感できそうにナイ

現代日本人の潜在意識には
キリスト教ももちろんだが土着の宗教が土壌として培われてナイからこそ
異民族は略奪して構わナイ、とか、異教徒を殺しても構わナイ
なんて意識を持ちようがナイのだとも思う

ところが最近は野蛮な日本人が増殖してて
彼らにとって改悛の書となり得る書物はまだ見つかってナイ

近年になって改めて『ロビンソン・クルーソー』を読んだ

初めて児童版を読んだ際には1日で読破したが
今回、完訳に1週間以上かかったのは
かつて読んだ版が随分省略されてたに違いナイ

ロビンソン・クルーソー (河出文庫)

だがしかし・・・。(´д`;)ギャボ

ロビンソン・クルーソー (岩波少年文庫)

小学生の間に何度か読み返してて
その都度、ずっと興奮しながら楽しく読みきってたが
今回は完訳とはいえ、特に参照すべき事項もなく
寄り道もせず1/3くらいまで快調なペースで読み進んだのに
突然、止まってしまった

なんで止まったかって
なんかいきなりがっかりしてしまったのだ
ちょうどロビンソン・クルーソーが無人島に1人の孤独な境遇から
それまでの人生を悔いて(要するに罰が当たった、と)
ついぞ祈ったコトなどなかった神といきなり向かい合ってしまうシーンが
茶番にしか思えなかったからだ。(゚д゚lll)ギャボ

自分のようにキリスト教圏で生息してナイ人間は
酷い目に遭った時に天罰かもしれナイ、と思ったとしても
悔い改めるべきコトは神にではなく自身の良心に問い質すし
償いをするのに神に赦しを請うて祈ったりせず
どうやって償うべきか考え、それを実行するのみだ

神を蔑ろにするとこんな酷い目に遭うぞ!
でも祈ったら助かる!!

そんなキリスト教徒目線での不埒な輩を脅すために
仕掛けられた物語のようにしか思えなくなって
すっかりしらけてしまったのだ・・・

児童版は日本人の子供向けに宗教色の濃い部分は削ってあって
フツーに冒険小説の様相だったが
完訳版はまるでピューリタン文学、しかも改悛の書で
確かに解説を読んでみると以下のようにあった

ミルトンのばあいには純正でなく、バニヤンのばあいには想像的であったピュリタニズムは、デフォーと出会うことによってはじめて、作品においても行動においても、きちんとした形を備えた積極的な信仰となった。

やっぱ正しくピューリタニズムだょヽ(゚∀。)ノ
キリスト者でナイ自分が感じた違和感は間違ってなかったが
そうなるとデフォーの本意が気になるるる~
改悛の書のパロディなんだろうか?
それともマヂ改悛の書なんだろうか???

欠乏を訴える不満は、すべて、現に与えられているものを感謝する心の欠乏から生ずる、というのが私の考え方だった。

こんな一節なら
宗教の壁を越えても万人が納得できる素晴らしい格言だが
こういう真摯な部分があるとゆーコトは
これはやはりマヂなんだろうな、デフォー(-人-;)

とすると、ピューリタン文学として大切な部分
つまり神との対話によって生じる自分自身との葛藤が
最も肝要な神との対話の部分だけ見事に取り除かれてるのは
子供向けの抄訳の中でもおそらく日本だけだろうなw

換言すれば、完訳版に茶番を見出してしまうのは
自分のような現代日本人だけで
例え異教徒だとしてもなんらかの宗教圏内に生きる人間にとっては
神を自身の神に挿げ替えて読むコトで
実に有益なワリには抹香臭さがナイ優れた文学だ

改悛の必要な不埒な少年にとって
ミルトンやバニヤンに比べたらどれほど読み易いか?!

ルソーもそう感じたらしく
『エミール』で「子供の時に読むべき唯一の本」として
『ロビンソン・クルーソー』を挙げてるし
バルザックの『ルイ・ランベール』では
初めて感動した、少年の心情を次のように表現してる

その宵じゅうオーグー神父の談話がわたくしの上に及ぼした影響は、わたくしの少年時代を通じて最もはげしいものの一つで、『ロビンソン・クルーソー』を読んだときの印象にしかくらべられない。

「自然に帰れ」とのたまうルソーにしては
子供を信仰に目覚めさせるために『ロビンソン・クルーソー』を強いるのは
どうも不自然な気もするし
ましてや最も自然に湧き上がらなくては意味のナイ信仰心を
人工的な演出によって授けよう、と考えてるのはどうかと思う反面
本から得た感動によって人生が決定付けられた自分には
素晴らしいアイディアだ、と絶賛せざると得ナイ

またルソーの教えに従ってのコトかどうかは謎だが
キリスト教がバックボーンにある国で
実際に『ロビンソン・クルーソー』が少年時代の必読書だからこそ
読者はバルザックの表現に共感できるのであって
残念ながらそうではナイ日本人には共感を覚えられナイのである

但し、自分は完訳を読むまで『ロビンソン・クルーソー』を
スティーヴンソンの『宝島』とかと同じく
最上級の冒険読物として捉えてて心から愉しんでたし
今でもその感動は持続してる