セネカの猥談

ディドロの『運命論者ジャックとその主人』は
知ったかぶりの主人とその従者ジャックの
珍道中の物語ではあるが
話が脱線しまくって
もう珍道中ドコロではなくなってるw

しかし、脱線の方向性が
ドストライクに興味の範疇だったりして
もれなくいちいち面白いのは
著者のディドロと自分が
思想も趣向も似通ってるんだろう

古代ローマにおいて
恐らく最も悪名高い皇帝ネロと
その師傅(しふ)だったセネカと
ネロの指南役に収まったペトロニウスが
三度の飯よりも好きな自分だが
ディドロもその辺りが大好物だったのは
『クラウディウスとそのネロの治世、
およびセネカの生き方と著作に関する試論
―この哲学者の読書案内』
なんてのを書いてたくらいなので明らかだ!
残念ながら邦訳がナイので未読だがp(-_-+)q

『運命論者ジャックとその主人』では
ジャックの主人の台詞に
以下のようなツッコミがあり・・・

 身持ちがよくって、哲学を鼻にかけている良識の士が、どうしてこんな猥褻な話をしておもしろがることができるのですか?
――まず第一に、読者諸君、これはコント(作り話)ではなくてイストワール(実話)なのだ。
 だからぼくはジャックの愚かなおこないを書いたからって、スエトニウスがわれわれにチベリウス帝の放埓三昧を伝える時以上にわるいことをしているとは思わない。
たぶんそれより罪は軽いと思っている。なぜ諸君はスエトニウスを読み、何ら彼を非難しない。
なぜ諸君はカトゥルスやマルチアリスやホラチウスやペトロニウスやラ・フォンティーヌその他に眉をしかめないのか?
どうして諸君はストア派のセネカに、凸面鏡に映ったあなたの奴隷の淫猥な姿がわれわれには必要なんですか、と言わないのか?
どうして諸君は故人にだけ寛大な態度を示すのか?

チベリウス帝=ティベリウス帝は
訳注(※)には「=ネロ帝」となってたが
スエトニウスの『ローマ皇帝伝』で
ティベリウス帝と言えば
第2代皇帝ティベリウス・ユリウス・カエサルで
第3巻に出てくるし
別途、第5代皇帝ネロは
第6巻に出てくる
自分が読んでる『運命論者ジャックとその主人』は古い筑摩世界文学大系収録のモノで訳者は小場瀬卓三

一般的にはネロ帝と言えば
第5代皇帝ネロで
クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス
もしくは
クラウディウス・カエサル・ドルスス・ゲルマニクス
なのでティベリウス帝とネロ帝は別人だが
同じ本にあったので
ジャックの主人は勘違いをしてるんだろうが
訳者も勘違いをしてるんだろうか?

そもそも『ローマ皇帝伝』は
カエサルと以降の11人の皇帝について
歴史的な事象よりは
個人的な趣味が描かれてて
だから伝記ってよりは
全体的にゴシップ色が強いのは否めず

それにしたってティベリウス帝を
やり玉に上げずともよかろうにとは思うがね

だがしかしここで肝心なのは
最後の方の「ストア派のセネカ」と
「凸面鏡に映ったあなた(セネカ)の奴隷の淫猥な姿」で
これはセネカの著書のどこかに
自身の奴隷の凸面鏡に映った淫猥な姿について
描写があるかもってコトだ!

なんせティベリウス帝のように
ガセネタも多いので
セネカの猥談なんてのは
大いに勘違いの可能性があるるる~

しかしこれが予想に反して
一応、記述されてるのが確認できたヽ(゚∀。)ノ

【16 ホスティウス・クアドラの忌まわしい物語】で
それは『セネカの自然研究(全)―自然現象と道徳生活―』の
「第一巻 大気中の火(光)について」にあった

まずホスティウス・クアドラが誰かと言えば
アウグストゥス帝の頃(b.c.27~a.d.14)の男で
後の芝居にエロキャラとして登場する程
その猥褻ぶりが知られてたそうだが
この男の奴隷たち(性の別など拘らず)が
凸面鏡だらけの部屋で
のべつ幕なしに行為を致してたのだ(゚*゚;)

セネカ自身が奴隷にやらせてた
とゆー疑いは晴れたw

そしてセネカは紀元元年前後に生まれてるが
どうやらホスティウス当人の痴態を
直接は見てなくて
ホスティウスの如きエロキャラが
登場する芝居を観てたぽい

セネカの詳述した淫猥な事態の描写は
実際に参加してなかったとしたら
まるでごく近しい友人でもあったかのように
思えてしまう程なのだが
と言うコトはセネカはこの芝居を
どんだけじっくり鑑賞してたんだかね?!

ストイックなストア派のイメージが・・・。(´д`;)ギャボ

いや、既にそれを
どうやって芝居にしてたのかがもうね
謎過ぎるるる~・・・バタリ ゙〓■●゙

いかに妄想力自慢の自分でも
想像図が追い付けず。(゚д゚lll)ギャボ

古代ローマにおいても
人類始まって以来の放縦さ極まった時世で
それこそ『サテュリコン』の世界観をもってすれば
芝居としてフツーに上演されてるのも
「あり」だったのだろうか?!

想像力を欠きつつ読みながら
自分が真面目に疑問を抱いたのは
当時の鏡に映る鏡像の精度と
当時の照明の明るさだ・・・( *゚Д゚)つ[酒]

何がどういうアングルで映ってるか
はっきり認識できるレベルではなかった気がするのだが
それでもかぶりつきになるくらい
興奮が出来たのだろうか?

いかん、エロについては
生真面目に考えるだに論点がずれてくw

トリストラム・シャンディ

2006年にまとめて購入した筑摩文学大系の中に
ロレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』と
ディドロの『運命論者ジャックとその主人』があり
2007年の終わり頃に先に『運命論者ジャックとその主人』を読んで
続けて『トリストラム・シャンディ』を読んでたのだが
これが1ヶ月かかっても第1章を読んでたくらい
超スローペースだったヽ(゚∀。)ノ

トリストラム・シャンディ 上 (岩波文庫 赤 212-1)トリストラム・シャンディ 中 (岩波文庫 赤 212-2)トリストラム・シャンディ 下 (岩波文庫 赤 212-3)

それとゆーのも本文中に気にかかる単語が頻出するので
その度に寄り道読書をする羽目になったのだ

寄り道読書とは1冊の本を最初から最後まで読むのに
本文から注へとページを行き来するのだが
注では飽き足らずに他の本で確認したり
そうして開いた本に更に別の本で確認したい事項があり・・・
などしてて、本の山が出来てしまうばかりで
当初、読もうとした1冊がなかなか読み進まナイ読書形態だw

自分はこの寄り道読書こそが本を読む愉しみだと思ってるので
読了までに20冊くらいは参照するのが常だ

『運命論者ジャックとその主人』もそれで
ルソー、ヴォルテール、プラトン、アリストテレス・・・etc.
など、読み返しながら読み進んでったのだが
それ以上に、既にストーリー自体が寄り道しまくりで
脱線に次ぐ脱線で本筋がなかなか展開せず。(゚д゚lll)ギャボ

運命論者ジャックとその主人

でもそこが愉快痛快に感じられた自分は
『運命論者ジャックとその主人』の風変わりな構想が
『トリストラム・シャンディ』に影響されたのだと知って
これを続けて読まずにいられなくなった(*^^*)
ディドロは英語に堪能なので『トリストラム・シャンディ』を読んで
そのパロディ版(?)をフランス語で書いたのだろう

ところが『トリストラム・シャンディ』は
予想を遥かに上回る寄り道読書っぷりを発揮させたので
のろのろながらもようやく第1章を読み終えた時に
まだ本文に入る前にある引用について謎が解けずにいて
寄り道と思ってたらすっかり迷子になってたのだ。(´д`;)ギャボ

そもそもがその引用とはエピクテトスなのだが
自分はエピクテトスを読み込んでたつもりでいたのに
これが全く意味不明だった・・・バタリ ゙〓■●゙

行為にあらず、行為に関する意見こそ、人を動かすものぞ。

しかもどこに書いてあったのか、まるで覚えがなく
改めて中公バックス世界の名著のエピクテトスの巻を読み返すも
この部分がどうしても見つからナイ
筑摩世界文学大系のギリシア思想家集の方は訳者も違うので
もしやと思ってこちらも一通り読むが見つからず

でもここへきて見落としてたコトが明らかになった
筑摩の方はページ数も少ナイので抄訳だとすぐ気付いたが
中公の方も抄訳だったのだ・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

この引用部分がちょうど抜け落ちてるのかΣ(゚д゚lll)ガーン

自分が持ってる以外のエピクテトスの本に
岩波文庫の『人生談義』があったが
その時点ではこれが完訳版だとは知らなかったし
重版未定でアマゾンでは上下巻共に¥3,000以上もしたので
そこまでして買う気は起こらなかった

当然ながらググってもみたが
エピクテトスの何の何章からの引用かはどこにもなくて
謎のままに終了・・・

人生談義〈上〉 (岩波文庫)人生談義〈下〉 (岩波文庫)

それから5年後(2013年)の岩波文庫の春の復刊に
『人生談義』があったので即購入すると
完訳版だったのでこれで謎が解明できると確信して
最初から最後まで一気に読んだ・・・が、該当箇所が見つからず
またしても謎のままに終了・・・

☆・・・☆・・・☆

電子書籍を読むようになって
重宝してるのがSONY ReaderのEvernoteとの連携機能だ

テキストの一部を選択してEvernoteへ送信すると
新規ノートが作成されて保存されるので
この引用ノートを後から編集すれば
自分なりの注釈書がEvernote内にできるのだが
これが寄り道読書には最高のツールで
『トリストラム・シャンディ』を読むのなら
SONY Reader Storeで購入するに限る、てワケで購入

但し、読み始めるにはやはり前回から謎の部分が気になるが
これがエピクテトスの『人生談義』の下巻『提要』の5にあった!

人々を不安にするものは事柄ではなくして、事柄に関する考えである。

これを探し当てた紆余曲折の過程はこちら→『トリストラム・シャンディ』の巻頭の引用

さ、安心して読み始めようっと♪

読書の意義と生きる意義

自分が寝る時間を削ってでも読書をするのは
悪夢に魘されてるよりは本を読んでる方が幸せだからだが
不眠不休でその幸福を味わえナイのが人間の宿命で
自然と日々3~4時間は寝てしまうモノだ

睡眠の科学―なぜ眠るのかなぜ目覚めるのか (ブルーバックス)

もちろん睡眠不足が齎す弊害も心得てるので
観念して眠気と無駄な格闘はしナイが
眠ってるより起きてる方が時間を有意義に使えた気分になるし
6時間も寝てしまうと無為に過ごした後悔に苛まれてしまう

それとゆーのも1日24時間の内
やらなければならナイ義務に費やす時間が
やりたいコトをやれる時間より圧倒的に長くやるせナイからで
その不満を少しでも解消する手っ取り早い方法が
眠らずに本を読んで過ごす、ってワケだ

ところがそういう差し迫った状況や
差し迫った状況に自分を追い込みやすい気質を覆して
自暴自棄になって呑んでるだけで時間を過ごせるのだから
アルコールの威力はたいしたモノだな( *゚Д゚)つ[酒]
半分は眠ってるような、もう半分は気絶してるような
そんな朦朧とした状態だと損も得もなく本心が顕現するるる~

このまま現実の世界とはもう縁を切りたい・・・

死にたい、てのとは違う、永遠にでなくw
ちょっとだけ日常のあらゆる拘束から解放されたい
ちゃんときちんとやってるのに
毒づかれて心が疲弊するあの不毛な瞬間を
今日1日だけでも味わいたくナイのだ。(´д`;)ギャボ

だからって、呑んでは壊れ、壊れては呑み
完璧に人格が崩壊して、意識を失って、倒れて、怪我して
這う這うの体で帰宅の途につく・・・
なんて呑み方が毎度なのはさすがにどうかしてるレベルだろうて
これ以上の大怪我をしナイうちになんとかしなきゃヽ(゚∀。)ノ

☆・・・☆・・・☆

リア充、てのはリアル(現実)が充実している人、の意だが
現実=社会生活、に馴染んでるのが当人だけでなく
恋人や友達や同僚もそうである場合に使われるのが専らで
つまり、社会的な立場において貶める隙がナイ人だ

なので、ヲタが人生の目的を達成してたとしても
それが客観的に見て社会性を欠くのでリア充認定はされナイが
現代日本人にとってのステイタスに迎合するのに必死なリア充より
実際、充実度は高いのではなかろうか?

世界の名著〈29〉ヴォルテール,ディドロ,ダランベール (1970年)

 実を言えば、なににもなりたいとは思わないんです。全然なににもなりたくありません。勉強がしたいんです。私は今のままで充分で、なんの不足もありません。ほかにはなにもほしくありません。

パリの法律事務所で見習いをしてた若きディドロのこの発言は
父親を激怒させた(送金も打ち切らせた)が
自分も全く同じ気持ちなのでわかる
これが叶えばディドロも自分も至福であろうとヽ(´▽`)/

哲学 I 〈新装版〉 (ディドロ著作集)

自分はヲタでリア充てのとは対極的な存在で
本を読んで勉強する時、いや、とゆーとなんだな
故人の考えに触れて世界を慮る時、が正しいだろうか?
不明なコトを明らかにしたいからそうするのだが
その答えを得る以上に共鳴したいのだ

世界観を構築する一助となる言が顕現した瞬間
著者とは時空を超えて同志としての一体感を得るのだが
簡単に言えば、世界が燦然と輝き、孤独が癒される
この奇跡が起きたような感覚を一度、味わってしまうと
それだけで満足できてしまうので先のディドロの言葉通りなのだ

とはいえ、ディドロも自分も生身の人間なので
生きてる限り、衣食住を賄う収入を何らかの形で得なくてはならず
本を読んでるだけ、とゆーワケには行かナイ!

自分は生まれながらに勤労者の資質があったので
一労働者として生きてくコトには疑念を抱かなかったが
もう四半世紀以上も1週間の連休さえとれずに
ある意味ずっと働き詰めだったので
会社を辞めて、とりあえずトルコに旅行に行く
そんな計画を昨年の念頭に立てたのだ!!

それが計画後1ヶ月もしナイ内に母親が入院したのをきっかけに
気がつけば介護生活に突入してしまい
当然ながらトルコにも行けなくなってしまった。(゚д゚lll)ギャボ

ポイズン・ママ―母・小川真由美との40年戦争

そんなんでどうにも現状が腑に落ちず
日々の仕事や家事や介護がそれ自体キツイとは思わナイが
母親の吐き出すちょっとした毒で
今更ながらいちいち心がささくれやすくなってるみたいで
なんとも堪えてるのだ・・・バタリ ゙〓■●゙

☆・・・☆・・・☆

リア充もヲタも生きる目的は幸せになるコトで
そのために何が必要で、どうすればそれを得られるか
そこに違いがあるだけなので
もっとシンプルに突き詰めてみようp(-_-+)q

義務は義務として、こなし(やっつけでも構わんw)
本を買うために働いて、本を読むために睡眠時間を減らす

ん、これで゚+.(・∀・)゚+.゚イイのだ♪

チェンバロ(ハープシコード、クラヴサン、クラヴィチェンバロ)

毎朝6時から家事の合間に『クラシック倶楽部』と『新 漢詩紀行』を見てるが
今朝の『クラシック倶楽部』はがっつり観てしまった

楽器の世界コレクション1 - ブランシェのチェンバロ - 18世紀ヴェルサイユ・クラヴサン音楽の美の世界 浜松市楽器博物館所蔵の名器“ブランシェ”による [DVD]
百合の花ひらく フランスの美・ブランシェ・チェンバロ フランソワ・クープラン/クラヴサン曲集 [浜松市楽器博物館コレクションシリーズ8]

18世紀のフランソワ・ブランシェ作のチェンバロだが
これがなんと浜松の楽器博物館にあるとはついぞ知らなかった(゚*゚;)
LINK:楽器博物館

しかも木製の250年以上前の楽器が
現代に至って演奏が出来る状態にあるとはとても思えなかったのだが
館長の方のコメントでは「眠ってた」だけだったらしく
これが目覚めたワケなのだ・・・ホゥ(*-∀-)

それにしても1曲目のタイトルに驚愕!

『葦』・・・バタリ ゙〓■●゙

最近自分はどんだけ【葦】に縁があるのか(クープラン作曲)

そうこうしてる内になんとラモーの曲を!!

『アルマンド』『やさしい訴え』

逆に『ラモー』って曲もあってこれもやった(フォルクレ作曲)

チェンバロの響きは物悲しいが重くなくて、繊細で可憐だが力強さを秘めてるようなカンジ・・・
って、本トにつくづく音楽がわからナイ人間だ、自分(滝汗)

まあそうして自分はどの曲もうっとりと聴いてしまえるが
ルソーはラモーに対して批判的だ
でもどこがマズイのか自分にはさっぱりわからナイヽ(゚∀。)ノ

ルソーは音楽に長けてて『むすんでひらいて』の作曲者でもある
そんなルソーがラモーの音楽を批判するのは
ルソーが理想とする音楽からするとラモーの音楽は正しくナイ、のだろう
LINK:ルソー音楽年譜

ルソーとラモーは上記参考LINKの年譜だけからすると
音楽そのものではなく音楽の定義=音楽論、が噛み合ってなかっただけなのか?
とも思えてくるがいずれ自分には理解不可能に違いナイ

そういえばディドロの『ラモーの甥』は未読のままだが
これはやっぱ読むべきなのだろう・・・新刊売ってナイのだがw
LINK:ドゥニ・ディドロ『ラモーの甥』

ところで昨夜は仕事帰りに購入したヴォルテールの『寛容論』を読みながら
ルソーに読んで欲しい本だ、と思ってたトコロで
今朝はなんともタイムリーな番組だった。(゚д゚lll)ギャボ

ルソーはラモーともそうして音楽論でバトルしてたが著書『エミール』の中で
『ラフォンテーヌの寓話』を子供に読ませるべきではナイ、と完全否定してたりするるる~

『エミール』は教育の理想形態(自然回帰)を説いたモノだが
ラフォンテーヌは子供に読ませる理想的な内容と比較して正しくナイ、のだろう

なんせルソーは生真面目な田舎者なのだ(-_-;)
そこまでは決して悪いコトではナイが
都会の人間よりずっと清く正しく美しく生きてる自負があり
それを場を弁えずに振りかざしまくるから周囲はとんだとばっちりなのだよ

実際にはルソーが敵視するような都会人は存在しなくて
自身の妄想が人々を都会的に見せてるのだが
それに気付いてなくてカチンとくれば毒づいてしまうのだろうな
カチンとくるのも自身の無為な劣等感からだろうに・・・

ヴォルテールやディドロは都会的でも何でもなく寛容なだけなのだ
ヴォルテール曰く

寛容とは何であるか。
それは人類の持ち分である。
われわれはすべて弱さと過ちからつくりあげられているのだ。
われわれの愚行をたがいに許しあおう。
これが自然の第一の掟である。

自身も異質なれば他者の異種なるを認めざるを得ナイが
ルソーのように模範通りに生きてるつもりで
いつでも絶対に自身が正しいとゆー思い込みが激しいと
寛容になるのは悪徳に染まるより困難なのだろう。(´д`;)ギャボ

事実ルソーは理想の教育論を説きながら
自身の子は捨て子してるのだ・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

でもルソーはそうして赤っ恥を曝した後で
『告白』そして『孤独な散歩者の夢想』を執筆して
人間らしい゚+.(・∀・)゚+.゚イイカンジになってきたと思うから
それで愛しく思うのであった(*^^*)

もし同じ時代に生きてたらルソーの良き理解者として
スイスの田舎まで彼を訪ねて一緒に散歩をしながら彼の憤りを全部聴いてあげたい

お礼にクラヴサンを奏でてもらったりして・・・ホゥ(*-∀-)
こういう実直なタイプは理解を示せばきっと驚くほど素直になついてくるだろうなw
カワ゚+.(・∀・)゚+.゚イイかも♪

でもパリに帰れば
ヴォルテールの愛人でディドロを夫に持つ
なんて゚+.(・∀・)゚+.゚イイな~

ディドロとは一緒に『百科全書』の編纂の仕事をしたい
同志として共に生きて行きたい人だ

ヴォルテールとは一緒に観劇をしたい
愉しみを享受し合うのにこんなに魅力的な人はいナイ

あ~なぜ違う時代に生まれたのだろう。・゚・(ノД`)・゚・。

それはマリー・アントワネットから始まった

2007年はなぜかフランス革命づいてたw

正月早々に映画『マリー・アントワネット』を観た
画面的には砂糖菓子のようだが音楽はパンキッシュな映画で
ゴスロリ好きにはたまらナイ作り・・・

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フェルゼンとの不倫のシーンで使われる曲が
アダム・アントの『Goody Two Shoes』だったのが個人的には1番嬉しかったり(*^^*)

Marie Antoinette

春先にはこの映画で使われた衣装が
なぜか明治記念館に展示されてたので観に行った



お茶をしてから新宿御苑のフランス庭園を巡り
渋谷Bunkamura Museumのティアラ展にも行ったりして
なんとも優雅な1日だった・・・ホゥ(*-∀-)

こういうのは庶民だからこその愉しみなのであるるる~

ここからフランス革命はもちろん
フランス革命前の啓蒙思想家の本も次から次へと購入して
ヴォルテールの『ルイ十四世の世紀』の第1巻もこの年の5月に購入したのだが
とにかく何かに執り憑かれたかのように買い漁り
しまいにはそのために本棚を買う羽目に・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

元よりお気に入りのラファイエット熱もぶり返すし
ユゴーの『93年』を読んでヴァンデ軍にハマったりもしたが
そこへきて更に新宿紀伊國屋書店の紀伊國屋画廊にて
2007年10月25日(木)~10月30日(火)と短い期間だったが
『フランス革命下の民衆と自由・平等(歴史資料)
―専修大学「ベルンシュタイン文庫」が語るフランス革命―』
なる展示があった

専修大学の創立130年記念事業だそうだが
なんてタイムリーに(ユゴーの『93年』読んでる時に)
まさに欲してた展示をやってくれたのだろうか。・゚・(ノД`)・゚・。

当初ベルンシュタインときて「あれ?ドイツ???」と思ったが
フルネームはミシェル・ベルンシュタイン=ロランで
フランスの古書籍商で書誌学者だ(2003年没)

展示品はこの方のコレクションで
フランス革命期に刊行、または記録された印刷史料と手稿史料で
具体的には人権宣言の公布書や『93年』に出てくるアッシニヤ紙幣
ロベス・ピエール、サン・ジュストの処刑判決書も見れたが
やはりルイ16世とアントワネットの処刑判決書にぐっとくるモノがあった(;つД`)

全く予想外にロゼッタストーンの写しもあり大興奮!!
と同時に残念で仕方がなかった!
なぜフランス語を解さナイんだ、自分・・・。(´д`;)ギャボ
まあでもほんのいくつかの単語が読めた時には
嬉しくて飛び跳ねそうになったり(*^^*)

ところでルイ16世が処刑直前に書いた家族への遺書は
結局家族の手に渡らなかった、と自分の頭にはインプットされてて
だからこそ、そのまま現存してたのだろうか?
展示されてたのは写しだったが・・・真偽は不明だ

それとは別にヴァレンヌ逃亡直後に書かれた遺書「すべてのフランス人に告ぐ」の方は
2009年にアメリカで直筆のモノが発見されたらしい

無料でこれだけのモノが見れるとは感無量(いや、別に洒落のつもりではw)だったが
その上お土産がすごかった!!

  1. 当時描かれたフランス革命史画のポストカード4点
  2. 当時描かれたフランス革命史画の解説
    (画廊前廊下に展示してあったモノの史料でプリント2枚)
  3. 革命の詳細な年表(プリント1枚)
  4. 図録(20ページフルカラーで表紙はこの記事トップの画像)
  5. 以下のクリアファイル2種


こりゃ専修大学には足向けて寝られナイわな・・・(-人-;)

と、そういうワケで2007年の終わりに近い頃は
ディドロの『運命論者ジャックとその主人』を読んでて
続けてこの元ネタとなった『トリストラム・シャンディ』に至り
読み始めて10日目くらいにまだ第1巻の第9章を読んでたが
ここで次の引用にぶち当たった

 かがやく月の女神よ、 おん身もしカンディードとキューネゴンド女史の身の上に心身を労してなお余力あるならば、――願わくばトリストラム・シャンディの身に起こることもまたおん身の庇護下に包容したまわんことを

カ、カンディドかよ。(゚д゚lll)ギャボ
なんだ、先に『カンディド』読んでおけばよかった。(´д`;)ギャボ
と、元の木阿弥のヴォルテールの『カンディド』を
『トリストラム・シャンディ』を中断して先に読むコトにw

何が元の木阿弥かって
自分を『トリストラム・シャンディ』に導いた『運命論者ジャックとその主人』と
同じ本に収まってるるる~

ちなみに元の木阿弥は、三省堂の辞書に以下のようにあった

一説に、戦国大名の筒井順昭が病死したとき、その子順慶が幼かったので、死をかくして順昭に声の似た盲人木阿弥を替え玉として病床に置いた。順慶が成長したのち、順昭の死を公にし、木阿弥はまたもとの生活にもどったという故事から

ホムンクルス

読書の意義は自分にとっては「知りたいコトを知るため」に尽きるが
だから読み方も知りたいトコロが書いてありそうな部分を知りたい順に読む

誰しも本を読んでる時に読めナイ漢字や意味の曖昧な単語に出会えば辞書を引くだろうが
同じように調べたい事柄にぶち当たったら他の本を参照する・・・
その所作がやたらと多いのが自分の読書の特徴だ

1冊読み始めるとすぐに10冊くらいの本が山積になり
何がどの本の何ページに書いてあった、とかそういう思索の過程と
思索の末に自分なりに見出した回答などの
メモ書きがたくさんできるるる~

そんなたわいもナイ読書が自分には人生における至福の時間なのだが
この至福を味わってるうちに最初に読み始めた1冊が数ページ読んだまま放置プレイ・・・
なんてコトもしばしばw

トリストラム・シャンディ 上 (岩波文庫 赤 212-1)
トリストラム・シャンディ 中 (岩波文庫 赤 212-2)
トリストラム・シャンディ 下 (岩波文庫 赤 212-3)
古い医術について 他8篇 (岩波文庫 青 901-1)
情念論 (岩波文庫)
森鴎外全集 【11】ファウスト  ちくま文庫
科学1001の常識―生命・遺伝子・素粒子・宇宙 (ブルーバックス)
ダランベールの夢 他四篇 (岩波文庫 青 624-2)
大博物学者ビュフォン―18世紀フランスの変貌する自然観と科学・文化誌

リチャード・スターンの『トリストラム・シャンディ』は
そうした放置プレイをしまくってる小説で

行為にあらず、行為に関する意見こそ、人を動かすものぞ。――エピクテータス

とか、いきなりエピクテトスで始まってて
しかも自分としてはカナ~リ読み込んでるはずのエピクテトスなのに
この句がどこに書いてあったか全く思い当たらなくて気になって確認w
でも一通り目を通してみたが見つからナイ(;つД`)

よく考えたら邦訳は抄訳なのだった・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

諦めて気を取り直して『トリストラム・シャンディ』第一巻第一章を読むと
「生殖の際の体液や気分によって生まれる個体の天分や一家全体の運命までもが決定付けられる」
とあり、体液と体質についての関係が詳しく述べられてる本として
自分が思い起こすのはヒポクラテスだった
『空気、水、場所について』や『人間の自然性について』の中で
どういう土地においてどんな生活をしてるかで体質の傾向に違いがあり
それによってかかりやすい疾患や疾病が何であるか、しきりに述べられてるのだ

気がつけばなんとなくヒポクラテスを読み始めてしまってたり(-_-;)

再度『トリストラム・シャンディ』に戻ってやっと2ページ目に進むが
今度は【動物精気】だと。(゚д゚lll)ギャボ
次はデカルトかょ。(´д`;)ギャボ

デカルトの『情念論』第一部の「7.身体各部およびその若干機能に関する略解」に
「筋肉の運動は神経の作用であり(以上は概略で以下は引用)

神経とはすべて脳に源を発する細糸または細管状のものであり、脳と同じくきわめて微妙な一種の気体ないしは気息をふくんでいる。これを動物精気(esprits animaux)と呼ぶ。

」とあり
「10.動物精気はいかにして脳の中に作られるか」に
「心臓で希薄化された血液の中で極めて精妙な部分が動物精気で
その実体はろうそくの炎のような敏速に動く極微体な物体で
これの一部は脳室へ入り他の一部は脳実質の気孔から神経→筋肉へと移動」とある
以上、引用部分は伊吹武彦訳による(筑摩世界文学大系)

デカルトは身体を科学的に見て機械として扱ってるがそれを支配するのは精神であるとしてて
この対極しつつも一体である不可思議な2者の繋がりを『情念論』で緻密に論じてる

簡潔に言い表せば、精神の中に生じる情念が
精気とゆー神経伝達物質のようなモノになって身体に作用する、てなカンジ

と、ここでやっと『トリストラム・シャンディ』第1巻の第2章へ
1ページ読み進むのに時間がかかり過ぎるったらナイが
ここへきて「精子(ホマンキュラス)の小人」て。(゚д゚lll)ギャボ

第一巻 第二章は全体に渡って古典生物学的ホムンクルス説が展開されてて
当時の最新の科学がどういう風に民間に波及してたのか窺い知るコトができるので
非常に参考になるし的外れの見解こそがおもしろい!

科学は正しい新説で古く間違った説が上書きされてしまうと
モノによっては【古典~学】などと称されるようになって残るのだが
余りにも荒唐無稽な説は当然ながら抹殺されるるる~

そうして闇に葬られた説には魅力的な発想からきた興味深い説も少なくナイが
ホムンクルス説もその奇異さにおいて立ち消えてしまうのは惜しい説だ
どの本だったか失念したがたいそう不気味な図入りで
この説がまことしやかに説明されてる科学の本があって持ってたはず・・・
鞭毛を持った精子の頭部に体育座りの人間が詰まってる図は
夢見が悪くなりそうな衝撃があって忘れたくても忘れられナイのだが
肝心の解説はうろ覚えなのが悔やまれる。(´д`;)ギャボ

ゲーテの『ファウスト』に出てくるような中世の錬金術師が作成した人造人間の小人を
元来ホムンクルスと呼んでたワケだがそれがなぜ精子の中の小人になったのか?

オランダのレーウェンフックが自作の顕微鏡で精液を観察した際に
生殖過程における精子の役割を初めて理解したのが17世紀後半のコトだった
レーウェンフックはこの他にも
様々な顕微鏡画(もちろん当時には写真はナイ)を英国王室学会に送りつけたのだが
これらは画期的な業績であると認められて
フェロー(英国王室学会の名誉会員)に推挙された
そんなレーウェンフックは精子たる「精液微小動物」を観察しながら
その頭部に小人(ホムンクルス)が入ってる、と考えた
(以上『応用微生物学』教科書と講談社ブルーバックス『科学1001の常識』を参考に記載)

とはいえレーウェンフックは実際には精子の頭部に小人をはっきりと見たのではナイ
既にそういう考えを発表してた人物がいたので
精子の形態(頭部があり鞭毛が生えてる形)から想像しただけなのだ
なぜなら精子の頭部に本トに人型のモノが入ってたとしても
それを認められるほど精度の高い顕微鏡が作れてなかったのは明白だからだ

【存在胚種】とゆー考え方はオランダの昆虫学者スワンメルダムが1669年に提唱した説だが
毛虫の解剖をしてたら蝶の形態が発現したので
マトリョーシカ式に最初から入れ子状態になってるのだ、としてて興味深い説だ

【世代の無限分割】とゆー考え方はフランスのマルブランシュが1674年に著書『真理の研究』に著した説で
リンゴの木がリンゴの種から生じるのはそこに既にリンゴの木があったからで
世界の終わりまでの分のそこに存在するべきリンゴの木は
総て最初の木に入れ子状態で存在してた、となるともう常軌を逸してるが・・・

これら【存在胚種】や【世代の無限分割】は総括して胚種の前成説とされるが
言い換えればこれが【ホムンクルス説】なのである

ディドロはこの説に『ダランベールとディドロの対談』の中で反駁してる

1つの原子(アトム)のなかに完成された一匹の象がおり、この原子の中に完成された象がもう一匹いる、そんなことが果てしなく続く、なんて考えることを理性は嫌うからね。

とディドロ自身として述べててダランベールにはそんなディドロに対する反対意見を語らせてる
つまりダランベールは古典的で保守的で一般的だから【ホムンクルス説】の方が当時は罷り通ってたってコトだ!

しかしこの訳注には「ビュフォンもディドロと同意見だった」とあるが
むしろディドロが大博物学者ビュフォンに影響されたのだろう

『大博物学者ビュフォン』の第9章「発生から生殖へ~第十章 生殖から生命の問題へ」で
35ページに渡って詳述されてた・・・
(ここではホムンクルスを主題にしてるからビュフォンの正当な見解の方をこそ省く)

スターン自身が信じてたのかどうかは定かではナイが
『トリストラム・シャンディ』の作中ではさも最新の科学理論であり
読者は知らなかったかもしれなくともこれこそが事実である、と恭しく記述されてる

って、ダメだ、誰か止めてくれ~ヽ(゚∀。)ノ

『運命論者ジャックとその主人』の名台詞

ディドロの『運命論者ジャックとその主人』には好きな名台詞がある

毎日のようにひとは愛していない女と寝るし、愛してる女とは寝ないからな・・・。

男ってそういうものだよな。(´д`;)ギャボ

しかしわかってるのにどうしても腹が立つのが女ってものだよな。(゚д゚lll)ギャボ

人はみなそれぞれ、侮辱や善行を自分の流儀で評価いたします。

【流儀】は
その人の【信念】と置き換えるとわかりやすいが
その人の【生きザマ】と言い換えればもっとはっきりする

信心深い人や道徳心の強い人や無神論者や
情に流されやすい人や勘定高い人や冷血漢や・・・etc.

誰の評価が1番正しいのか?

1番客観的な評価か?

自分が受けた傷の痛みは
浅ければ忘れた頃に客観的に語る時も来るかもしれナイが
深ければどんなに忘れたくても思い出しては苦々しい気分を味わい続けるものだ
施された善行についても
窮地を救ってもらったりした場合に
その助っ人がどんなに他で罪を重ねていようが戒めるコトなぞできやしナイ

1番法律に則った評価か?

先進国家では基本的に法律に則ってなくてはならナイが
人の気持ちを無視するような法律なら
その法律の方を変えるべき

1番人の気持ちを汲んだ評価か?

そうあって欲しいがそういうコトは残念ながら稀だ・・・
こういうのが叶うと奇蹟と呼ぶのか?