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2006年にまとめて購入した筑摩文学大系の中に
ロレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』と
ディドロの『運命論者ジャックとその主人』があり
2007年の終わり頃に先に『運命論者ジャックとその主人』を読んで
続けて『トリストラム・シャンディ』を読んでたのだが
これが1ヶ月かかっても第1章を読んでたくらい
超スローペースだったヽ(゚∀。)ノ

トリストラム・シャンディ 上 (岩波文庫 赤 212-1)トリストラム・シャンディ 中 (岩波文庫 赤 212-2)トリストラム・シャンディ 下 (岩波文庫 赤 212-3)

それとゆーのも本文中に気にかかる単語が頻出するので
その度に寄り道読書をする羽目になったのだ

寄り道読書とは1冊の本を最初から最後まで読むのに
本文から注へとページを行き来するのだが
注では飽き足らずに他の本で確認したり
そうして開いた本に更に別の本で確認したい事項があり・・・
などしてて、本の山が出来てしまうばかりで
当初、読もうとした1冊がなかなか読み進まナイ読書形態だw

自分はこの寄り道読書こそが本を読む愉しみだと思ってるので
読了までに20冊くらいは参照するのが常だ

『運命論者ジャックとその主人』もそれで
ルソー、ヴォルテール、プラトン、アリストテレス・・・etc.
など、読み返しながら読み進んでったのだが
それ以上に、既にストーリー自体が寄り道しまくりで
脱線に次ぐ脱線で本筋がなかなか展開せず。(゚д゚lll)ギャボ

運命論者ジャックとその主人

でもそこが愉快痛快に感じられた自分は
『運命論者ジャックとその主人』の風変わりな構想が
『トリストラム・シャンディ』に影響されたのだと知って
これを続けて読まずにいられなくなった(*^^*)
ディドロは英語に堪能なので『トリストラム・シャンディ』を読んで
そのパロディ版(?)をフランス語で書いたのだろう

ところが『トリストラム・シャンディ』は
予想を遥かに上回る寄り道読書っぷりを発揮させたので
のろのろながらもようやく第1章を読み終えた時に
まだ本文に入る前にある引用について謎が解けずにいて
寄り道と思ってたらすっかり迷子になってたのだ。(´д`;)ギャボ

そもそもがその引用とはエピクテトスなのだが
自分はエピクテトスを読み込んでたつもりでいたのに
これが全く意味不明だった・・・バタリ ゙〓■●゙

行為にあらず、行為に関する意見こそ、人を動かすものぞ。

しかもどこに書いてあったのか、まるで覚えがなく
改めて中公バックス世界の名著のエピクテトスの巻を読み返すも
この部分がどうしても見つからナイ
筑摩世界文学大系のギリシア思想家集の方は訳者も違うので
もしやと思ってこちらも一通り読むが見つからず

でもここへきて見落としてたコトが明らかになった
筑摩の方はページ数も少ナイので抄訳だとすぐ気付いたが
中公の方も抄訳だったのだ・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

この引用部分がちょうど抜け落ちてるのかΣ(゚д゚lll)ガーン

自分が持ってる以外のエピクテトスの本に
岩波文庫の『人生談義』があったが
その時点ではこれが完訳版だとは知らなかったし
重版未定でアマゾンでは上下巻共に¥3,000以上もしたので
そこまでして買う気は起こらなかった

当然ながらググってもみたが
エピクテトスの何の何章からの引用かはどこにもなくて
謎のままに終了・・・

人生談義〈上〉 (岩波文庫)人生談義〈下〉 (岩波文庫)

それから5年後(2013年)の岩波文庫の春の復刊に
『人生談義』があったので即購入すると
完訳版だったのでこれで謎が解明できると確信して
最初から最後まで一気に読んだ・・・が、該当箇所が見つからず
またしても謎のままに終了・・・

☆・・・☆・・・☆

電子書籍を読むようになって
重宝してるのがSONY ReaderのEvernoteとの連携機能だ

テキストの一部を選択してEvernoteへ送信すると
新規ノートが作成されて保存されるので
この引用ノートを後から編集すれば
自分なりの注釈書がEvernote内にできるのだが
これが寄り道読書には最高のツールで
『トリストラム・シャンディ』を読むのなら
SONY Reader Storeで購入するに限る、てワケで購入

但し、読み始めるにはやはり前回から謎の部分が気になるが
これがエピクテトスの『人生談義』の下巻『提要』の5にあった!

人々を不安にするものは事柄ではなくして、事柄に関する考えである。

これを探し当てた紆余曲折の過程はこちら→『トリストラム・シャンディ』の巻頭の引用

さ、安心して読み始めようっと♪

rebours

心が乾くから本を読むワケだが
何度読んでもその度に潤してくれる本が愛読書と成り得る

生涯を通じて愛読してる本があるなら
それこそが人生のバイブルだったに違いナイ

自分の1番の愛読書は何か?

ふと思い立って本棚としばしにらめっこ・・・
1番読み込んだ=1番傷んでる?

いや、最初から汚れた感があるような紙質の古本を買ってたり
買い直して今はたまたま綺麗な状態のもあったりするし
そもそも同じタイトルでも訳者が違って何冊も持ってたりするから
そうすると傷みが1冊に集中しナイので基準にはならナイのだ
それに確認作業のために頻繁に開く本は辞書のようなモノで愛読書とは言えナイ

さかしま (河出文庫)

長い間飽きずに様々な読み方で愉しんで2度も買い直してる本なら
澁澤龍彦訳のユイスマンスの『さかしま』だが
素直に愛読書と言えるかどうかはビミョ~(-_-;)

一応(?)小説なのだが筋を追うコトはなく
専ら主人公デ・ゼッサントのアート・エッセーのような感覚で
そこに挙げられてる事物や事象についての感じ方に対して
共鳴しながら読む、ってよりは酔う・・・耽溺する
となると、愛読書ってより耽読書なのだな

そうすると愛読書らしいのはアランかもしれナイ

アランの『幸福論』は自分より年上の本だけあってよごよごなのだが
古本屋で買った時からその状態なので特に気にするには及ばず
ずっと旧仮名遣いの石川湧訳に馴染んでたのだが
近年になって新訳(ってもそんなに新しくもナイが)を2冊購入して
今は3冊持ってるw

新しく買ったのは集英社の白井健三郎訳と岩波文庫の神谷幹夫訳だが
神谷訳が1番的確な訳であるコトは疑いようもなく
でも石川湧の旧仮名遣いの訳は日本語の美しさが際立ってるし
それに比べて白井健三郎の訳は読み易い点で勝ってる
そんな風に三者三様なのだから3冊とも必要なのであるるる~

ところで『幸福論』と言えば
アランに加えてヒルティとラッセルで「世界3大幸福論」とする向きもあるが
これはまるで「世界3大宗教」のような括りで3者は全く相容れナイ

ヒルティはキリスト教信者にとっての幸福論であり
ラッセルは凡庸に生きるコトの幸福さを諭してるモノであり
キリスト教信者でもなく、既に凡庸に幸福を見出して生きてる自分には
何の効力も持たナイのだよ・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

幸福論 (第1部) (岩波文庫)

だがしかし!
エピクテトスに関する詳述があるので
ヒルティの『幸福論』は岩波文庫の第1部を持ってたりして
その部分だけはしつこく読み返してたりするのだ

アランの『幸福論』の何が+.(・∀・)゚+.゚イイのかって
論じられてる幸福の定義やその定義に即した対応策も心地好く心に響くが
それ以上に引用してる事柄がどれもこれも自分と趣味が合ってて
【幸福論】として読んで理解して実践しなくても
読んだだけで幸福になれてしまうw

まず1番最初に引用されてるのがアレクサンドロス大王で
愛馬ブケファルスとの出会いのエピソードだが
この締め括りにはワザとアレクサンドロスのコトを
「アリストテレスの弟子」などと呼ぶ・・・ホゥ(*-∀-)

これだけで自分は至福を味わえるのだが
そうなると著者アランが幸福に纏わるエッセーにおいて
挙げてる事物や事象についての感じ方に対して
共鳴しながら読む、ってよりは酔う・・・耽溺する
って、これじゃアランの『幸福論』も『さかしま』と同じく
愛読ではなく耽読してるのかもしれナイ

そう考えたら耽読書ばかりだ
う~ん、何だろう、1番の愛読書・・・ヽ(゚∀。)ノ

とにかく誰もが「おもしろかった」とゆー現代作家の人気小説も
自分にとってはどうにもつまらなく感じるのは
単に耽溺する要素に欠けてて内容が薄っぺらに思えるからだし
逆に古典でも耽溺する要素の盛り込みが(少)ナイと
まるで興味が沸かナイくらいだから
耽読書でなく愛読書てのが既に自分には在り得ナイのかも?

なんて諦めてたが1つ思いついた!
幼少時から何度も読み返してて
特に耽溺する要素が見当たらなくても
読み始めれば必ず夢中になってしまう小説・・・

エミリー・ブロンテの『嵐が丘』だ!!
てコトは、自分の人生のバイブルは『嵐が丘』なのだろうか?!

tristram-shandy

読書の意義は自分にとっては「知りたいコトを知るため」に尽きるが
だから読み方も知りたいトコロが書いてありそうな部分を知りたい順に読む

誰しも本を読んでる時に読めナイ漢字や意味の曖昧な単語に出会えば辞書を引くだろうが
同じように調べたい事柄にぶち当たったら他の本を参照する・・・
その所作がやたらと多いのが自分の読書の特徴だ

1冊読み始めるとすぐに10冊くらいの本が山積になり
何がどの本の何ページに書いてあった、とかそういう思索の過程と
思索の末に自分なりに見出した回答などの
メモ書きがたくさんできるるる~

そんなたわいもナイ読書が自分には人生における至福の時間なのだが
この至福を味わってるうちに最初に読み始めた1冊が数ページ読んだまま放置プレイ・・・
なんてコトもしばしばw

トリストラム・シャンディ 上 (岩波文庫 赤 212-1)
トリストラム・シャンディ 中 (岩波文庫 赤 212-2)
トリストラム・シャンディ 下 (岩波文庫 赤 212-3)
古い医術について 他8篇 (岩波文庫 青 901-1)
情念論 (岩波文庫)
森鴎外全集 【11】ファウスト  ちくま文庫
科学1001の常識―生命・遺伝子・素粒子・宇宙 (ブルーバックス)
ダランベールの夢 他四篇 (岩波文庫 青 624-2)
大博物学者ビュフォン―18世紀フランスの変貌する自然観と科学・文化誌

リチャード・スターンの『トリストラム・シャンディ』は
そうした放置プレイをしまくってる小説で

行為にあらず、行為に関する意見こそ、人を動かすものぞ。――エピクテータス

とか、いきなりエピクテトスで始まってて
しかも自分としてはカナ~リ読み込んでるはずのエピクテトスなのに
この句がどこに書いてあったか全く思い当たらなくて気になって確認w
でも一通り目を通してみたが見つからナイ(;つД`)

よく考えたら邦訳は抄訳なのだった・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

諦めて気を取り直して『トリストラム・シャンディ』第一巻第一章を読むと
「生殖の際の体液や気分によって生まれる個体の天分や一家全体の運命までもが決定付けられる」
とあり、体液と体質についての関係が詳しく述べられてる本として
自分が思い起こすのはヒポクラテスだった
『空気、水、場所について』や『人間の自然性について』の中で
どういう土地においてどんな生活をしてるかで体質の傾向に違いがあり
それによってかかりやすい疾患や疾病が何であるか、しきりに述べられてるのだ

気がつけばなんとなくヒポクラテスを読み始めてしまってたり(-_-;)

再度『トリストラム・シャンディ』に戻ってやっと2ページ目に進むが
今度は【動物精気】だと。(゚д゚lll)ギャボ
次はデカルトかょ。(´д`;)ギャボ

デカルトの『情念論』第一部の「7.身体各部およびその若干機能に関する略解」に
「筋肉の運動は神経の作用であり(以上は概略で以下は引用)

神経とはすべて脳に源を発する細糸または細管状のものであり、脳と同じくきわめて微妙な一種の気体ないしは気息をふくんでいる。これを動物精気(esprits animaux)と呼ぶ。

」とあり
「10.動物精気はいかにして脳の中に作られるか」に
「心臓で希薄化された血液の中で極めて精妙な部分が動物精気で
その実体はろうそくの炎のような敏速に動く極微体な物体で
これの一部は脳室へ入り他の一部は脳実質の気孔から神経→筋肉へと移動」とある
以上、引用部分は伊吹武彦訳による(筑摩世界文学大系)

デカルトは身体を科学的に見て機械として扱ってるがそれを支配するのは精神であるとしてて
この対極しつつも一体である不可思議な2者の繋がりを『情念論』で緻密に論じてる

簡潔に言い表せば、精神の中に生じる情念が
精気とゆー神経伝達物質のようなモノになって身体に作用する、てなカンジ

と、ここでやっと『トリストラム・シャンディ』第1巻の第2章へ
1ページ読み進むのに時間がかかり過ぎるったらナイが
ここへきて「精子(ホマンキュラス)の小人」て。(゚д゚lll)ギャボ

第一巻 第二章は全体に渡って古典生物学的ホムンクルス説が展開されてて
当時の最新の科学がどういう風に民間に波及してたのか窺い知るコトができるので
非常に参考になるし的外れの見解こそがおもしろい!

科学は正しい新説で古く間違った説が上書きされてしまうと
モノによっては【古典~学】などと称されるようになって残るのだが
余りにも荒唐無稽な説は当然ながら抹殺されるるる~

そうして闇に葬られた説には魅力的な発想からきた興味深い説も少なくナイが
ホムンクルス説もその奇異さにおいて立ち消えてしまうのは惜しい説だ
どの本だったか失念したがたいそう不気味な図入りで
この説がまことしやかに説明されてる科学の本があって持ってたはず・・・
鞭毛を持った精子の頭部に体育座りの人間が詰まってる図は
夢見が悪くなりそうな衝撃があって忘れたくても忘れられナイのだが
肝心の解説はうろ覚えなのが悔やまれる。(´д`;)ギャボ

ゲーテの『ファウスト』に出てくるような中世の錬金術師が作成した人造人間の小人を
元来ホムンクルスと呼んでたワケだがそれがなぜ精子の中の小人になったのか?

オランダのレーウェンフックが自作の顕微鏡で精液を観察した際に
生殖過程における精子の役割を初めて理解したのが17世紀後半のコトだった
レーウェンフックはこの他にも
様々な顕微鏡画(もちろん当時には写真はナイ)を英国王室学会に送りつけたのだが
これらは画期的な業績であると認められて
フェロー(英国王室学会の名誉会員)に推挙された
そんなレーウェンフックは精子たる「精液微小動物」を観察しながら
その頭部に小人(ホムンクルス)が入ってる、と考えた
(以上『応用微生物学』教科書と講談社ブルーバックス『科学1001の常識』を参考に記載)

とはいえレーウェンフックは実際には精子の頭部に小人をはっきりと見たのではナイ
既にそういう考えを発表してた人物がいたので
精子の形態(頭部があり鞭毛が生えてる形)から想像しただけなのだ
なぜなら精子の頭部に本トに人型のモノが入ってたとしても
それを認められるほど精度の高い顕微鏡が作れてなかったのは明白だからだ

【存在胚種】とゆー考え方はオランダの昆虫学者スワンメルダムが1669年に提唱した説だが
毛虫の解剖をしてたら蝶の形態が発現したので
マトリョーシカ式に最初から入れ子状態になってるのだ、としてて興味深い説だ

【世代の無限分割】とゆー考え方はフランスのマルブランシュが1674年に著書『真理の研究』に著した説で
リンゴの木がリンゴの種から生じるのはそこに既にリンゴの木があったからで
世界の終わりまでの分のそこに存在するべきリンゴの木は
総て最初の木に入れ子状態で存在してた、となるともう常軌を逸してるが・・・

これら【存在胚種】や【世代の無限分割】は総括して胚種の前成説とされるが
言い換えればこれが【ホムンクルス説】なのである

ディドロはこの説に『ダランベールとディドロの対談』の中で反駁してる

1つの原子(アトム)のなかに完成された一匹の象がおり、この原子の中に完成された象がもう一匹いる、そんなことが果てしなく続く、なんて考えることを理性は嫌うからね。

とディドロ自身として述べててダランベールにはそんなディドロに対する反対意見を語らせてる
つまりダランベールは古典的で保守的で一般的だから【ホムンクルス説】の方が当時は罷り通ってたってコトだ!

しかしこの訳注には「ビュフォンもディドロと同意見だった」とあるが
むしろディドロが大博物学者ビュフォンに影響されたのだろう

『大博物学者ビュフォン』の第9章「発生から生殖へ~第十章 生殖から生命の問題へ」で
35ページに渡って詳述されてた・・・
(ここではホムンクルスを主題にしてるからビュフォンの正当な見解の方をこそ省く)

スターン自身が信じてたのかどうかは定かではナイが
『トリストラム・シャンディ』の作中ではさも最新の科学理論であり
読者は知らなかったかもしれなくともこれこそが事実である、と恭しく記述されてる

って、ダメだ、誰か止めてくれ~ヽ(゚∀。)ノ