恋愛が成就するとはどういうコトなのか?

恋愛が成就する

それは非常に難しい問題だ

何をして成就なのか?
その定義からして曖昧模糊としてるからだ

愛する相手とどうしたいのかと
どういう形で恋愛を成就させたいのかは
実は似て非なるモノだ

若さゆえのときめきとは
愛する相手とどうしたいのか
これに尽きる

視線はひたすら想う相手を追い求め
近付けたら話したい
見詰め合えたらキスしたい
気持ちが高揚すればベッドで過ごしたい・・・

そうした次々と湧き起こる欲求が
叶い続ける限りは
成就してると満足できるのだ

しかもその際に
お互いの立場なんかどうでもよく
同性愛だろうが不倫だろうが
むしろ障害があるほどに
成就したとより満足できるのが
若さってモノだろう

そういう恋愛の成就は
ぶっちゃけ肉欲の満足感だけで
それも若いうちなら
夢のような出来事だろうが
歳を重ねれば
現実を見据えざるを得ず
夢心地ではいられなくなるのだ

だからいい歳こいて不倫してると
バカにされるし
糾弾されるワケだw

肉欲の同意を恋愛の成就と考えてて
しかも人生において
他に何の愉しみも見いだせずにいると
モテるための努力以外は
何もしナイ人間になってしまう。(゚д゚lll)ギャボ

それだって若い娘が
一時的に夢中になって頑張ってる図は
バカなりに可愛いとは思うが
美魔女とかって酔い痴れてるようなのは
バカに付ける薬がなくて
可哀そうだと思う。(´д`;)ギャボ

美貌を構成する成分の殆どは若さで
若さは儚いからこそ美しい

歳をとればとるほどに
美女も醜女(しこめ)も差はなくなり
美人だからと結婚した男ならば
若くて綺麗な他の女性に
現を抜かすようになるのは必定

そんな至極当然の未来も予期できずに
モテる容貌を取り繕うのにばかり
必死になってるからバカだと言うのだw

男を楽しませるのは
起きてる時は顔だけで
寝てる時は身体だけ・・・

そんな美人こそが
3日で飽きられるって典型だヽ(゚∀。)ノ

さて19世紀フランスの
モーパッサンは短編作家として知られるが
長編では『女の一生』『ベラミ』
そして『死の如く強し』を書いてる

『女の一生』は穢れを知らぬ女が
汚れた男に翻弄され続ける転落悲話で
自分は主人公の女が大嫌いだが
それでも読み返してしまうし
映画も映画館まで観に行ってしまった(苦笑)

『ベラミ』は貧乏なイケメン【ベラミ】が
金持ちの奥様や令嬢を手玉に取りながら
成り上がってく出世物語で
不道徳さがひたすら愉快痛快だったが
実は死生観などが語られてて
読み込む程に味わい深い作品だった

そして『死の如く強し』は・・・
中年の男女のロマンスなのだが
女の娘が絡んだ三角関係が
自分にはどうにも陳腐に感じられたヽ(゚∀。)ノ

男は初老だが
美男で独身を貫いてる名の通った画家
女はモデルで
画家と不倫関係を12年間続けてる

12年前の絶世の美女も
40歳ともなれば色褪せてくるし
ましてや彼女に生き写しの
18歳の娘の愛らしさ!

美意識の高い画家が
どうして娘に心変わりをせずにいられよう?

そもそも歳老いてから
若者との恋愛に現を抜かすなど
自分からしたらその有様は美しくなく思える

容貌が見るに忍びなく衰えゆくのは
女だけでなく男もだし
しかも美貌を誇ってた者ほど
その落差は顕著なのだが
そんな現実に憂える初老の男女のロマンスは
深刻になるほど救いようがなく
それはもう悲劇と言うより喜劇的で
とても耐えられずに
実は1度読み始めてから10年以上
途中で放棄してた・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

ところが自分も歳をとって
ふと読み返してみると
老いを噛み締めながらの恋愛の
行く末に心が軋み
滑稽であるほどに切なさが胸を打った・・・
いや、打ったのでなく
食い込んできたの方が正確だ

恋する気持ちが切ナイのは
年齢には隔たりがなかったし
若者の切なさが甘酸っぱいとしたら
年寄りの切なさはもれなく苦い(-_-;)

冒頭で
愛する相手とどうしたいのかと
どういう形で恋愛を成就させたいのかは
実は似て非なるモノだ
と述べたが

どういう形で恋愛を成就させたいのか?

唯一無二の愛する相手だと
お互いに確信できたら
それが恋愛の成就だ

なぜなら恋愛は0か1なのだ

A~Zまで選り取り見取りの中から
相手を決め兼ねてるモテる人は
実は自身しか愛せナイ恋愛音痴でしかなく
同じコトを違う相手と繰り返し続けるのだ

もっと゚+.(・∀・)゚+.゚イイ人がいるはず

モテる人は周囲が羨むほどには
心は満たされてはいなかったりする

まあ男だったら美女をモノにすれば
肉欲と征服欲だけは満たされるだろうが
女はどんな男を陥落しようが
心が満たされなかったら
娼婦の感覚しか味わえやしナイ

0か1・・・
愛する相手がたった1人あり
その人でなければ要らんとね!!

0か1の相手とお互いに信じ合い
ずっと愛し続けられれば
何も偽らずに、何も迷わずに
日々を過ごせて至福だろう・・・ホゥ(*-∀-)

そして伴侶として
お互いを認め合うようになるには
艱難辛苦を助け合って
乗り越えてこそp(-_-+)q

一方的に依存してて
相手が思う通りにしてくれナイと
嘆いてるようではダメで
いつも相手に何をしてあげたら
笑顔になってもらえるかを
考え、実行するコト!

若かろうが
歳をとっていようが
最も努力すべきはそこ!!

『女の一生』のジャンヌと『遥か群衆を離れて』のバスシェバ

美人は得でブスなら損

人生はそんなに単純なモノではナイが
金持ちと貧乏人ならば
金持ちにヨユーがあるのは間違いナイだろう

貧乏してる
てのは、生活についての心配がいつもあり
また生活以外の何かをしようとすると
まずお金はもちろん無いのだが
だからこそ生活費のために
働いてるのが常なので
時間も無かったりするのだ

まずそうした生活に窮してる女が
生涯の伴侶となる男として
稼ぎもナイのに金がかかる男を選ぶのは
物理的に無理だし
自身の生活や家族の生活のためには
恋愛感情より損得勘定が先立って
受身にならざるを得ナイ

それならば受身にならずに済む金持ちで
しかも女としての恵まれた容姿を持ち得てたら
理想的な男と結婚できて
幸せになれる確約となり得るのかと言えば
そんなコトもナイ

☆・・・☆・・・☆

モーパッサンの『女の一生』では
主人公の貴族の子女ジャンヌが
生活に困るようなコトがナイ家に生まれて
清く正しく美しく育ったばっかりに
金汚く女癖の悪い男の犠牲者となってしまう

恵まれた女だったはずのジャンヌは
修道院育ちで男を見る目がなく
そこにあざとくつけいった男との結婚によって
不幸に身をやつしてくのだが
どんな情況に陥ってもただ嘆くばかりで
自らは解決策を企てようともせず
次々と襲ってくる不幸を
ひたすら享受し続けるるる~

端から見て
どんなに恵まれて生まれた女だって
当人がそれに気づかなければ
やはり受身でしかなかったりするのだ

そして財産は使えば無くなるし
美貌も年月に晒されるだけで色褪せてしまう

それでもずっと働きもせず
家事一つさえもせず
またそれを当然と受け止めてるジャンヌは
それでも自分などからしたら
確かに恵まれてる環境とは思えるが
別段、羨ましくもナイ

☆・・・☆・・・☆

一方
トマス・ハーディの『遥か群衆を離れて』の
主人公の農場主の美女バスシェバは
元はそこそこ貧しく
近隣の農場の手伝いなどしてたが
その秀でた美貌ゆえの誇り高さがあったので
そこそこの金持ち男の当たり障りのナイ求婚に対して
「あなたを愛してません!」
なんて、一喝して断れるような女だった

その後、遺産相続によって
引き継いだ農場経営に成功して
若くして金持ちになったバスシェバは
更に男に対して受身ではいられなくなってしまう

そうしてずっとバスシェバの周囲には
魅力的な゚+.(・∀・)゚+.゚イイ男(悪い男?)がおらず
何のときめきも抱けずにいたのだが・・・

ところが突如として現れたのが
バスシェバが不慣れなタイプの男!

それはハンサムで洒落者の軍人だったが
とうとうバスシェバは陥落される

結婚した時までは有頂天だったバスシェバだが
夫の生活態度に翻弄され
特に放浪癖と浮気に悩まされるようになる

☆・・・☆・・・☆

これらジャンヌとバスシェバの
恵まれてた女だったのに
結婚によって人生が破綻する物語は
一見すると酷似してるのだが
根幹が決定的に違ってる

ジャンヌは夫に対して
「幸せにしてくれるはず」と期待して結婚したが
その期待が裏切られる度に失望してるだけで
最初から最期まで夫に対して愛情の欠片もナイのだ

だから浮気をされても
夫の不実さ以上に腹立たしいのは
浮気相手が身分が低いから見下してた女中で
彼女に見くびられたコトに対してなのだ

つまりジャンヌは自分自身だけを愛してて
社会的には夫に裏切られた妻だが
実質的には夫を愛してもいなかったので
夫の裏切りについてはワリとスルーで
女中に裏切られたコトの方が
苦々しく思ってる節がある

それに比べてバスシェバは
浮気相手の女の墓に花を添えられるほどに
夫の総てを赦し
最期まで情熱的に愛し
欲し続けた

結果的に
夫に顧みられるコトは叶わなかったので
さぞや辛かったろうと思う反面
実際、幸せだったとも思えてしまうのは
だってそこには希望があるから!

名義上だけでも夫であれば
公的に愛する権利があるのだから
溢れる愛を我慢しなくても゚+.(・∀・)゚+.゚イイし
そうして愛し続ければ
いつか相手も愛してくれるコトがあるかもしれナイ
いや、ナイかもしれナイし
その可能性の方が高いのは承知の上で
でもずっと待ってても゚+.(・∀・)゚+.゚イイのだ

愛される、まで行かずとも
拒絶さえされなければほっとするし
目が合えば嬉しいし
唇を合わせれば至上の喜びで
肌を合わせたら・・・ヽ(´▽`)/
その時、赦せナイような一体何が
愛しい相手にあるのか?

無いっつp(-_-+)q

キリスト教では人の罪を神が贖うために
「赦しの秘蹟」なる儀式があるが
恋人同士が肌を合わすのは
愛する相手を「赦す」儀式でもあると思われ
そしてお互いに「赦し」合ってる状態が
きっと相思相愛なのだろう

それにしても愛されてる側の人間てのは
それだけでは不幸ではナイかもだが
愛する側の人間ほどには
実は幸せではナイような気がするのだ。(´д`;)ギャボ

極論を言えば
一方的に愛されてる側の人間てのは
相手を受け入れるか拒むかだけで
恋愛の境地には至れナイのかも。(゚д゚lll)ギャボ

とりあえず恋愛には
美貌も財産も決して有利には働かナイのは
間違いなかろうヽ(゚∀。)ノ

ティツィアーノの描いた大がらの女性の絵

モーパッサンは
『女の一生』では主人公のジャンヌを
ヴェロネーゼの肖像画の女性に譬えてるが
短編『ロンドリ姉妹』では
一糸纏わぬ姿でベッドで眠る女を
こう表現してる・・・

ティツィアーノの描いた大がらの女性の絵

そもそもティツィアーノが描く女性には
女神含め、貧相で痩せこけたような女はいなくて
大柄の女性が裸で横たわってる絵は
いくつも思い当たるが
著者の意図するのがズバリどれなのか?

正解を確認しようもナイコトだからこそ
自由気ままに推理するのは愉しい

聖水係の男
「冷たいココはいかが!」
脂肪の塊(ブール・ド・スュイフ)
マドモアゼル・フィフィ
ローズ
雨傘
散歩
ロンドリ姉妹
痙攣
持参金

年譜
訳者あとがき

その前にまず
どういうシチュエーションなのかと言えば
登場人物は列車の旅で先刻知り合ったばかりの
フランス男2人組と1人のイタリア女

不機嫌そうにしてる不愛想な女が
男たちとは打ち解けナイままに
宿を共にするコトになるも
ホテルは二部屋しか空きがなかった

一部屋を女に与えてしまうか
どちらかが女と同衾するかの選択肢で
意を決して女に意向を伺うと
女は拒絶せず、また選択もせず
どちらの男でも結構、とな!

男たちは言い争いの後
主人公の男の方が女の部屋へ入ってみれば
女は素っ裸で眠ってた!!

これ、女の意図はどうなんだろう?

その晩の宿を提供してくれる男に対して
お礼のつもりで寝るのだとしたら
「好きにして」の意思表示か?

ただ単に着替えの途中で
眠さに勝てなくなっただけなのか?

ティツィアーノの『ダナエ』は
裸でベッドに横たわってる大柄の女性だが
このエピソードは最高神ゼウスが
純潔を死守するために閉じ込められてるダナエを
さすが雷神だけあって
金の雨になってゴーカンしに行くとゆーモノ

なので、ダナエはゼウスに犯されるのを
待ってたワケではナイのだよヽ(゚∀。)ノ

それでも神に、そして運命に
身を委ねるしかナイ処女の表情は
絶望してるようには見えず

『ロンドリ姉妹』の女も
捨てる神あれば拾う神あり
なんて諺があるが
拾ってくれた男が神でなくとも
運命ならば身を委ねてしまおうと
意を決してたのだとしたら
『ダナエ』とダブらなくもナイ

ただ気になるのは
ポーズが刺激的過ぎる気がw

ティツィアーノが描く横たわる裸婦と言えば
人間でなく女神ではあるが
『ヴィーナス』連作のシリーズもあげておく

1つめは『ヴィーナスとオルガン奏者』

ヴィーナスはオルガン奏者には目もくれず
でもそっぽを向いてはいても
音楽そのものに感じ入ってるよう

ヴィーナスと見詰め合うのは息子のアモル(※)で
しかもプットタイプ(幼児体形)なので
以外にも母親としての情を感じる
※エロス、クピド、キューピッドの別名もある

オルガン奏者のヴィーナスへの欲情は
あからさまに一方通行がゆえに
音に託すしかなく
官能的な音楽を奏でてるのではと
見てる方は今にもその聴こえナイ音色に
情欲を掻き立てられそうな・・・

『ロンドリ姉妹』の女と重ね合わせてみれば
確かに男2人は拒絶こそされなかったが
どちらも選ばれてはおらず
ヴィーナスとオルガン奏者との距離感は
もしかして似てる?

2つめは『ヴィーナスとアドニス』

代わって今度はヴィーナスの方が
アドニスに対して一方的に恋焦がれてる図

狩りの最中のような着衣のアドニスに
裸のヴィーナスが腕を伸ばしてて
タックルをかまそうとしてるように見えるw

またこの絵はよく見ると
奥の方ではアモルが寝こけてて
母親の恋路にだけは関わり合いたくナイ
とでも言わんばかりなのが笑えるが
息子もたじろぐほど恋愛にかまける母親は
現実的には息子を女性不振にしてしまうだろうね

夫を裏切っても平然としてて
バレては不味い相手には嘘を付くのだから
それが女ってモノなんだと認識したら
女性不振にならナイ方が不思議だ

そういう男が女性不振から解放されるには
一途な女性にひたむきに愛され続けるしかナイが
疑念を抱いただけでもその女性に対して
母親と同類と感じてしまったら
そこで一巻の終わりだ

話が逸れてしまったが
『ロンドリ姉妹』の女は先に述べたように
不機嫌そうにしてる不愛想な女でも
実は1度情を交わしたら
このヴィーナスのような激しさで
求めてくるのやも・・・?!

男は好きなのだよ
自身に無関心な美女を陥落するのもだが
積極的な美女に陥落させられるのもw

自分はこの物語を初めて読んだ時は
もしかしてその両方を味わえる
極上の女との出会いの物語かと勘ぐってた^^;

読み進むと予想とは違って
もっと複雑で・・・
そりゃあもう複雑怪奇www

最後にこれが本命と思える『ウルビーノのヴィーナス』

見る者を見返して虜にするこのヴィーナスは
一見してまるで情欲の女神だが
周囲に描かれたモノから察するに
嫁入り支度の整ったお嬢様なのだよ!

夫となる男以外とも既にしたたかに通じてるのか?
あるいは処女の無垢ゆえの奔放な魅力なのか?

『ロンドリ姉妹』の女も
両極端に想像できるくらい謎めいてる点からしても
この『ウルビーノのヴィーナス』を想起させる

ジャンヌの容貌とヴェロネーゼの緑

モーパッサンは『女の一生』の冒頭で
ヒロインのジャンヌの容貌を
次のように表現してる

ヴェロネエズの肖像画を思わせた。

ヴェロネエズはヴェロネーゼ(Veronese)だ

北イタリアのヴェローナ出身故に
ヴェロネーゼと称されるも
本名はPaolo Caliariで
ヴィンチ村出身のレオナルドが
ダ・ヴィンチと呼ばれてるが如くである

ヴェロネーゼの作品と言えば
有名ドコロは『カナの婚礼』とか・・・

自分が好きな『レダと白鳥』とか・・・

しかしヴェロネーゼの肖像画となると
生憎、印象に残ってるモノがナイ

ググってみると・・・この辺りだろうか???

これはヴェネチア女性の肖像なので
恐らく豪商の奥方と見た

フランス貴族の嫁入り前のジャンヌは
ましてや修道院に預けられてたときたら
こんなに恰幅良いはずもなくw

とは言え
ヴェロネーゼの作品はやはり
キリスト教やギリシア神話を主題としたモノが多く
テーマに沿った登場人物が描かれてて
相対的に肖像画は少なく
その中でも若い女性となると
これくらいしか該当するモノが見当たらず

まあ他のちょっと年上だろう女性の肖像画も
面立ちはどれも似通ってるので
当たらずとも遠からずかと思われ

ところでヴェロネーゼと言えば
Vert Veroneseと称する色があって
直訳すれば「ヴェロネーゼの緑」

高級ブランドのHERMESでも
このカラーが取り扱われてて
ファッション・デザイナーのマーク・ジェイコブスが
まさにこのバーキンを持ってた!

くすんだ緑、カーキぽい(てか、カーキ?!)

これより一段トーンが明るいVert Anisだと
全然ヴィヴィッドな印象になって
名だたるバーキン持ちのヴィクトリア・ベッカムが
目に眩しい黄色いコートに合わせてる

そういうワケで
Vert Veroneseがどんな色なのかは判明

今度はそのヴェロネーゼの緑が
いったいどの絵から派生したのか気になって
それらしい緑を用いた印象的な一作品があるかどうか
ググりまくるも該当作品は見当たらず・・・

但し
殆ど総ての作品で複数の人物を描いてて
登場人物1人1人の表情を引き立たせるためにか
背景に木々などを配してても
明るいトーンの緑でなく
アースカラーで描いてるってのはある

よって
まるでヴェロネーゼが背景に好んで使うような緑
なのか?(断言はせずにおくw)

カランダッシュの水彩色鉛筆に
ヴェロネーゼ・グリーンがあった!

水彩色鉛筆だとトーンがだいぶ明るめ!!

どうもヴェロネーゼの緑は
国(あるいは民族もしくは言語)による違いもありそうだw

最後はバルバロ邸のフレスコ画

ヴェロネーゼが手掛けてて
樹木が主役級に描かれてるので
ヴェロネーゼの緑を一通り堪能できるるる~

続・トルストイの『モーパッサン論』

トルストイは『モーパッサン論』において
モーパッサンのある部分を絶賛して
ある部分に対して残念がってる

モーパッサンの『女の一生』では
善良な女が不埒な夫と放蕩息子に悩まされるが
トルストイの解釈ではこの女が
『旧約聖書』の「ヨブ記」に譬えられてて
要約すると・・・
道徳的な女が不道徳な男に踏み躙られる不幸と
その不幸が誰にも理解されナイコトを
深く感動的に描いてると絶賛し
以降の長編、特に次いで書かれた『ベラミ』は
美しい純潔な魂と社会の堕落との衝突が
同じように描かれてても
不道徳な登場人物の方にこそ
作者が肩入れしてるように思えて
濡れ場における詳細な描写も
芸術性を損なってると残念がってる

モーパッサンがなぜ
トルストイにとって残念な長編を書いてしまうのかは
以下の言にあるように
トルストイも根本的にわかってはいる

 モーパッサンが出入りしていたサークルで、芸術が奉仕すべき美として昔も今も認められているのは、何よりもまず女、若い、美しい、しかも多くは裸体の女、それからその女との性的な交渉である。そう認めてきた人々の中には、単にモーパッサンの≪芸術≫上のすべての仲間、つまりが画家や彫刻家や小説家や詩人ばかりではなく、若い世代の教師たる哲学者もふくまれている。

しかし理解するコトと納得するコトは別なので
ルナンの『マルクス・アウレリウスについて』から
以下の言葉を批判的に引用してくる

キリスト教の欠陥はここにはっきりあらわれている。つまりキリスト教はもっぱら道徳的でありすぎるのだ。美は完全にしめ出されている。ところが、円満具足の哲学の眼からみると、美はうわべだけの長所、危険なもの、不都合なものであるどころではない。それは徳と同じく、神のたまものなのだ、美には徳に匹敵する価値がある。美しい女は天才や、徳の高い女と全く同じように、神の意図の一面、神の目的のひとつをあらわしている。美しい女はそのことを知っているからこそ、おのずと気位が高くなるのだ。美しい女は自分が体内に持っている無限の宝を本能的に感知する。(後略)

(後略)の後もトルストイは
ルナンの美女讃歌を延々と引用して
「宝石を身に付けたり、化粧をしたり、髪型や服装に凝ったり、
女がその美しさを際立たせるようとするのは正しい行い」
としてる部分に次のように
皮肉な解釈を入れてくるワケだ。(゚д゚lll)ギャボ

してみれば、この若い世代の指導者{ルナン}の考えでは、ようやく、現代にいたって、パリの裁縫師や理髪師がキリスト教の犯したあやまちをただし、美のために本来の、そして最高の地位を回復してやった、という訳である

有史以来
人類は不自然な生活を強いられてて
生物としての本能が蔑ろにされてきた

特定の時代や地域社会でしか通じナイような
独特の価値観が存在してるが
それらはいずれも誰かが
要するに人間が勝手に作った観念でしかなく
バックグラウンドを異にする者が
正しいか誤りかを論じるのはナンセンスだ

キリスト教が華美な女性を疎んじてるのを
美の表現者である芸術家や
美徳の体現者である哲学者が
反感を持論で展開するのまでは構わナイ

でもトルストイの反論は
それを曲解してて
ましてやパリの裁縫師や理髪師を
つまり、技能労働者をバカにした物言いは
所詮ドシア人(※)だって僻みで
世の中を舐めた資産家のお坊ちゃんの世迷言だ
お洒落なパリに憧れるド田舎者の無粋なロシア人、の略w

そう思えるので
自分が賛同できるのは
モーパッサンや同じサロンに集う人々の方
だった・・・そう、過去形なんである

今現在の姥(年老いた女)の自分にとっては
トルストイの見解もありに思える

再度、肝心な部分を引用すると・・・

何よりもまず女、若い、美しい、しかも多くは裸体の女、それからその女との性的な交渉である。

生物学的見地からすれば
この主張は全く持って正しく
生物は子孫を残すために
生殖を行う必要があり
その際にはお互いに
優先順位が同等でナイ性を選ばなくてはならず
またできるだけ若く(=体力があり)
そして美しい(=整ってる)相手を求めるのは
分子生物学(※)からしても正しい
生物をDNA単位から考察する学問

但し
人間以外の生物の場合は
性の優先順位(※)が高い雌に雄を選ぶ権利があり
雄の方こそが若さと美しさで雌に選別される
正確にはミトコンドリアの優位性

ところが人間社会は変わってて
どんなに若く美しい雄でも
それだけでは雌に選んでもらえナイ!

とゆーのも
雌には子供を産み育てる環境についても
十分に考慮する必要があるからで
そこで若さと美しさで劣ってる雄でも
社会的に優位だったり、財産を持ってたりすると
子供を産み育てる環境も好かろうと
選んでもらえたりする(よね?)

いや、子供でなく
雌自身が好い環境で生活したくて
ってのが本音か???
まあ雌の見解の真意については今回はスルーでw

男が女にアプローチをかける時に
本能的に近付いてしまうのが
若く美しい女であるのは至極当然だが
仮に若くも美しくもナイ女しかいなければ
そこは躊躇せずにか、多少は躊躇したとしても
その女に選んでもらおうとするのが
男の性なのだ

最終的に性衝動を何とかしてくれるのであれば
ぶっちゃけ何でも構わナイ、てのが
雄の真っ当な種蒔き本能なので
手当たり次第に攻略を試みてく内に
選んでもらえたらラッキー、てなモノだ

攻略する順番は手当たり次第なんかではナイと
反論するヤツもいるかもしれナイが
そこはきっと個々の好みが反映してると思うので
傍から見てれば手当たり次第なのだよ

理性によって制御してはいるが
箍が外れた男はそんなモノだろう(-_-;)

それにしても
男が女を選ぶ時に
若さの判別は簡単だが
美醜の基準は曖昧模糊としてて
若いけど美しくはナイ女と
若くはナイが美しい女となると
どちらを選ぶかは微妙なトコロだ

僅差で前者をオススメするのは
生物学的な理由による
妊娠の確率が高く
子育てをするのに十分な体力があるからだ
でも後者も妊娠可能な限り
選ばれたとしても間違ってはいナイ

換言すれば
妊娠の可能性が全くナイ女だけは
美醜を問わず男を選ぶ権利もなければ
またそういう女を男が受け入れてしまうのは
生物学的には間違ってるとも言えるヽ(゚∀。)ノ

だからって
若くも美しくもナイ女は男に愛される価値がナイ
と思うのは生物学的狭量による早計で
哲学的とか、もっと素朴な情によるとか
あるいはスピリチュアル(霊的)とか
愛される理由付けはいくらでもある

むしろ社会的とか生物学的な結び付きは
若さと美しさと条件に適えば
もれなく誰でも゚+.(・∀・)゚+.゚イイとも言える

でも人間同士が愛を育むのは
とある妙齢の男ととある妙齢の女が、でなくて
個対個であって
性別も年齢も容姿も思想も何もかも
お互いが受け入れられれば
それだけでいんじゃん?

社会的かつ生物学的に条件が適って
お互いに合意した結婚だとしても
持続させるには条件を保ち続けるのでなく
他の要素で愛を育んでいかなければ
意味がナイワケで
条件が変わっただけで
破綻して離婚に至るのがオチ

その脆さに気付かナイで
社会的かつ生物学的な条件を
保つコトだけに奔走してる状態を
「若い」とか「青い」と言う

トルストイの『モーパッサン論』

筑摩世界文学大系がお気に入りなのは
本文以外が充実してるからだ

巻末には必ず
充実した「解説」と詳細な「年譜」があり
更に巻によっては
他の作家による論文が収録されてたりするるる~

筑摩世界文学大系のモーパッサンの巻には
ロシアの文豪トルストイの『モーパッサン論』が・・・

筑摩世界文学大系【44/47】モーパッサン



「女の一生」岡田真吉訳
「ベラミ」中村光夫訳
「脂肪の塊」杉捷夫訳
 短編 杉捷夫訳
  「山小屋」
  「ペルル嬢」
  「橄欖畑」
  「シモンのパパ」
  「わら椅子直しの女」
  「狂女」
  「海の上のこと」
  「ジュール叔父」
  「ひも」
  「老人」
  「雨がさ」
  「くびかざり」
  「酒樽」
  「帰村」
  「あな」
  「クロシェット」
  「港」
「モーパッサン論」トルストイ / 木村影一訳
 解説 中村光夫
 年譜

そしてこれがモーパッサンを論じてるってよりは
モーパッサンとゆーフィルターを通して
自身の主義・思想を述べてるカンジで
大変興味深い内容になってる

なんせロシアには近代に至るまで
自国語の口語文学がなく(※)
仏文学に対するロシア人作家の劣等感は
そりゃあ根が深かったろう
ロシアの宮廷ではフランス語をしゃべってたくらいだ

貴族で才能にも恵まれてたトルストイだが
仏文学に対してのコンプレックスはあったに違いナイ

晩年のトルストイは
勤労農民の素朴な信仰心に回心させられ
自身の貴族の身分を恥じるようになったりもするが
「モーパッサン論」を書いてる時点では
まだその境地に達してなかったらしく
『女の一生』を大絶賛してるのが笑えるw

トルストイはあくまでも貴族目線で
主人公の貴族女のジャンヌに降りかかる
身に余る不幸を憐れみつつ
打ちひしがれても無抵抗でいる女に対して
純粋だとか、清らかだとか
見当違いの感動をしてるのであるwww

1日の大半が仕事に消費されて
やっと生活が成り立ってる勤労庶民には
(要するに自分のような人間には)
生まれながらにして生活苦には無縁で
自らが稼ぐ必要が全くナイ上に
家事や雑事さえも人任せの貴族女ジャンヌが
どんな悲劇に見舞われようが
おざなりに生きてられるのなんて
羨ましいくらいで、同情の余地無しp(-_-+)q

既に子供も与えてくれた夫に浮気されようが
その子供の放蕩が過ぎようが
それで明日のメシに困りゃあしナイのだから
悲しみに暮れてばかりいナイで
好きなコトをして楽しく生きればいんじゃん?

無趣味で無教養ゆえに
暇を持て余してるだけの貴族女が
「何もやるコトがナイ!」
などと嘆いてるのに対して
「なんと道徳的な女だ!!」
と感動できるトルストイのおめでたさには
さすが貴族、としか言いようがナイw

察するに
トルストイの周囲の貴族女はきっとこんなだろう

依頼心の塊のクセに我が強くて
欲深なワリに自身では何一つ行動を起こさず
気に入らなければ文句だけは人一倍

そんな女たちの厚かましさに
トルストイは辟易してただろうから
無欲なジャンヌを清らかな乙女として
崇め奉りたくもなるワケだ

ジャンヌときたら
ダメンズのダンナに騙され続けても
更に息子もダメンズに育て上げて
挙句に財産をもぎ取られても
他力本願で受身であり続け
生きるコトに消極的なままで
本ト、心底無欲・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

とはいえ
この時代の女が生きるためには
食わせてくれる男に対して
身を委ねるしかなかったのだから
貴族女も百姓女も娼婦も
男に傅かねばならなかった

それとゆーのも
社会が女にはごく限られた仕事しか与えず
微々たる収入を得る手段しかなく
それで生計を立てるのは大変なコトだったのだ

『女の一生』の原題『Une vie』は
直訳すれば「人生」で
とあるありふれた女の生涯の物語の意だが
このタイトルの解釈からして
トルストイの感覚が一般庶民とはズレてる

この作品の内容をなすものは、題名が示すとおり、破滅させられた、無邪気な、美しい行いならなんでもする素質を持った、愛すべき女性の一生の叙述である。

バタリ ゙〓■●゙

またモーパッサンの『女の一生』以外の作品について
トルストイは特にその芸術性について貶してる

モーパッサンのようにしか民衆を描かない作家、つまりブルターニュの下女たちの腰や乳房にしか興味を持たず、はたらく人々の生活は嫌悪と嘲笑とをもって描く作家は、芸術家として大きなあやまちをおかしているのである。

何が1番気に入らナイかって
男たちの放縦さにあるらしいが
トルストイはフランス文化に対して
畏敬の念を抱いてるからこそ
フランス男らの興味が
肉欲をそそるような対象にしかなく
貴婦人のはちきれんばかりに盛り上がった乳房や
下女の粗末なスカートを揺らす肉厚の尻などにあるのを
モーパッサンが赤裸々に描いてしまうコトに
「裏切られた感」があるぽい

しかもそこで女の方もそれに呼応して
お互いに理性を働かせるコトなく
本能に付き従ってしまうので
その低俗さに耐えられナイのだろうが
そこは自分も苦手意識があって
トルストイの言い分を理解はできる(゚*゚;)

でもだからって
放縦な男に騙されてる女に対して
それだけで同情するのはどうかと思う

逆にその放縦な男が
他の全ての性質も性悪だとは限らナイし
男のせいで不幸な目に遭った女が
それでも男を愛してる可能性もあるしね

トルストイは恐らく
放縦な男を悪と捉えてて
男が悲惨な目に遭ったり死んだりする場面では
きっと胸を撫で下ろしたりするのだろうが
そういうトコロもさすが貴族・・・

自分がジャンヌだったら
毎日自由時間を満喫して過ごせるだろうから
それを自覚できたら幸せ過ぎて
ダンナにも同等に幸せになる権利があると思えて
快楽を与えてくれる女に夢中になるのなんて
咎めようもナイけど・・・
既に息子を儲けてるのだから
自分に対しての義務は果たしてくれたんだしね

お互いに義務から解放されて
それぞれの快楽に耽ってるなんてのは
もしかしたら夫婦の理想形態ではナイだろうか?!

どんなに恵まれた人間も
そうと気付かなければありがたさを感じず
人生をどう生きるか以前に
まず今日を生き抜かなければと
そのために働いてる人間に
どう生きるか悩んでる時間は殆どなく
だからさもトルストイのように
「高潔に生きよう」とか誓ってるヨユーは
勤労庶民にあるはずもナイのだよ

『女の一生』以外の作品では
モーパッサンは生々しく庶民の人生を描いてて
それが自分には共感できるし素晴らしいと思えるが
そういう作品を蔑むトルストイは
さすが貴族、だ(こればっかりだな)

そして自分が『女の一生』を蔑みつつも
何度も読んだり映画を観てるのは
自身より社会的に恵まれた立場の女性の
無欲さが織りなす悲喜劇によって
自身の現実の厳しさが和らぐからだろう

どう控えめに見ても
ジャンヌより自分の方が
充実した人生を愉しみながら生きてる♪

モーパッサンのエスプリやユーモアと
自分のような江戸っ子の洒落は
生真面目なトルストイと無欲なジャンヌにゃ
理解できまいヽ(゚∀。)ノ

『女の一生』のジャンヌは凡庸か非凡か?

19世紀のフランス文学にハマって
メリメの『カルメン』
フローベールの『ボヴァリー夫人』
モーパッサンの『脂肪の塊』『ベラミ』
そして『女の一生』を立て続けに読んでた時期があって
全てがたまたま杉捷夫(としお)訳だった

『カルメン』を読むまで
カルメンの人物像を誤解してて
男にとってのみ魅力的な女だと思ってたが
女としてでなく、人として
生き様がカッコ好くて感動したし
死に様がカッコ好過ぎたのは残念だった

『ボヴァリー夫人』は
ボヴァリー夫人たるエマ(エンマ)が
夢見がちで不倫にひた走り
見栄っ張りで借金まみれになるような
勘違いバカ女で嫌悪感を抱いたが
自殺で落とし前を付けたのは
理想と現実のギャップに気付いたからだろうし
気付けナイような教育しか受けておらず
気付かせてくれる人間関係も育めなかったので
相対的には憐憫の情を抱けなくもナイ

『脂肪の塊』だけは短編で
面と向かってそうとは呼ばれてナイが
「脂肪の塊」と称されて噂される娼婦が
ラストで嗚咽するトコロで
一緒に嗚咽してしまい
読後もしばし嗚咽したままで
平常心を取り戻すのに時間がかかった程で
必ず泣いてしまう物語の1つとなった

『ベラミ』はそんな『脂肪の塊』と同じ作者なのかと
疑念を抱いてしまう程のピカレスク度MAX小説で
女を食い物にしてのし上がる男が主人公で
読後にはスタンダールの『赤と黒』で
出世を目論むジュリアン・ソレルが
なんだが可愛く思えてきた

そして『女の一生』のヒロインのジャンヌは
読み進むほどに肩透かしを食らって
何一つ共感できナイままに反感を持ってしまい
いくら悲惨な目に遭おうと
同情の余地もナイ程に嫌気が差した

先に『脂肪の塊』等を読んでおらず
『女の一生』一作だけだったら
モーパッサンを過小評価してたと思われw

美しくしなやかでスリリングな人間が好きで
特に女性は稀有な美貌によって
既にモラル的な是非は超越してるような美女だと
非凡な言動に魅せられ、心惹かれるのだが
するコトなすコト凡庸なジャンヌは
つまらナイ女の代表なのだ。(´д`;)ギャボ

でもそんなコトはタイトルで察するべきだった!
非凡な女の境涯が描かれてる作品は
『カルメン』や『ボヴァリー夫人』や『脂肪の塊』のように
その女の呼び名を冠してるのだが
『女の一生』は原題もそのまま『Une vie』で
不特定な女のままある人生、なのだよ。(゚д゚lll)ギャボ

そんな凡庸なジャンヌだが
父親のパーソナリティは実に興味深い!
93年を苦々しく思いつつ
革命の起爆剤となったであろう
ジャン・ジャック・ルソーの自然崇拝を
従来のキリスト教よりは信奉する!!

93年・・・1793年はルイ16世が処刑された年で
この年を苦々しく思うのは貴族だからだが
それだけの単純なキャラクターではナイ
貴族と言っても田舎に居を構えて
自然の中でのびのびと育ったせいか
貴族特有の高慢な性質も
悠然とした性格にすっかり呑み込まれてしまってて
周囲に不快感を与えるほど露呈しナイのだ
男気がある、とゆー程度

そして更にキリスト教には懐疑的で
ルソーの自然主義に共感を覚えてる点で
自分にとっては基本的に理解し合える相手だ

以上の父親についてのプロフィールは冒頭にあり
物語が進む中で少しづつ過去も解き明かされ
若い時にはなかなかどうしてやんちゃだったようで
情に脆く、感動しやすく
単に善良ではナイ心根の良さを持ち合わせてるぽい

その妻でありジャンヌの母親でもある婦人は
この父親に比すれば影が薄い存在だが
途中でいきなり意外な過去が発覚したりするるる~

そんな両親にしては
娘のジャンヌが主人公でありながら凡庸なのは
多感な時期に修道院にやられてたのが
原因と思われ。(´д`;)ギャボ

そんなワケで『女の一生』は
自分的には駄作と打ち捨ててたのだが
アラフォーになって違う訳で読み返してみたら
ジャンヌは凡庸だなんて
一言で簡単に片付けられなくなってた

ジャンヌの生活や人生に対する無欲さが
常軌を逸してるレベルで
非凡なコトに改めて気付いたのだ。(゚д゚lll)ギャボ

そしてジャンヌの全ての悲運は
その無欲さによるモノだとも思えてきた

例えば「金が欲しい」と思うから
働く(正攻法)、強奪する(非合法)
あるいはジャンヌの息子のように無心するのだが
無欲なので得ようと思わず
何のアクションも起こさずにいるし
逆に息子にたかられるままに
じゃんじゃん与えてしまえるのだ

浮気を放置しっ放しのダンナに対しても
悲しむだけで何の働きかけもしナイのは
単に裏切られたのが悲しいだけで
ダンナを欲してナイからだ

むしろダンナに限らず男が欲しくナイのだろう
そこはレズビアンの自分には唯一共感できる部分だw
ダンナにも他の男にも心や身体が傾くコトがなく
だから関心をすら惹く気がなく
女として美しくあろうなどと思いつきもせず
無欲なのだ

とはいえ、ジャンヌは冷酷な人間でもなく
フツーに愛情を育めるタイプだが
それを子供にだけ注いでしまったコトで
しかも庇護や過保護が過分に含まれてたせいで
息子の放蕩三昧が歯止めの利かナイレベルに達したのだ

ジャンヌはこの時代の良家の奥様にしては
赤ん坊を乳母に任せずに
自身で育てたのも珍しいってか変わってるが
乳母に任せっきりの育児に対して
「おかしいだろう?」と意見したのがルソーなので
さすが父親がルソー崇拝者だけのコトはある

でもジャンヌ自身はきっと
ルソーの教育論『エミール』を読んでおらず
だから息子を甘やかし過ぎて
ダメンズに育て上げてしまったんだろうヽ(゚∀。)ノ

ジャンヌは他の本もロクに読んでなかったから
その無味乾燥とした人生の中で
唯一感動したのがキリスト教なのは
もれなく当たり前の話だなw

『聖書』が世界的なベストセラーなのは
本を読まナイ大多数が唯一読んだ本だからだなwww

でもジャンヌはこれも父親の影響なのか
結果としては敬虔な信者にはならなかったのだ
教会に通ったりしなかったし
子供にも信仰を強要しなかった

なんせ子供の聖体拝受をどうしようか迷ってるのだ
同じくモーパッサンの『メゾン テリエ』では
娼婦が娘に聖体拝受をさせる話で
これは信仰心よりも親心で
堅気の子のように体裁を整えてやるんですが
それと比べたらジャンヌの信仰心は
恐らく娼婦にも異端視されるほどなんだろう

つまりジャンヌは人生には受身で翻弄されてても
決して世間には流されておらず
凡庸な人生を非凡に生き抜いたがために
不幸に身をやつした気がしてきた

Lady Chatterley’s Lover

デーヴィッド・ハーバート・ロレンス(以降D・H・ロレンス)の
『チャタレイ夫人の恋人』を読むのは人生3度目だが
実は1度目も2度目も読了するに至っておらず
2度目なんか回数に入れて゚+.(・∀・)゚+.゚イイのかどうか?!

チャタレー夫人の恋人 (ちくま文庫)

最初に読み始めたのは四半世紀前の高校生の時で
誰の訳だったかは失念したが恐らく削除部分がある版だっただろうが
それでも不倫関係の男女の濡れ場の描写には吐き気を催し
とても続けて読み通すコトができず放置した。(´д`;)ギャボ

ベランジェという詩人がいた―フランス革命からブルボン復古王朝まで

次の機会はワリと最近になってから(2008年)で
『ベランジェという詩人がいた』を読んでたら
ポール・ルイ・クーリエの裁判記録の最後の一文に
次のようにあった

 ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』は、四十年以上前に摘発され、最高裁で有罪が確定した。現在、新潮文庫版の訳本は、今なお問題となった十数か所が削除されたままである。

21世紀の日本で猥褻が理由で削除されたままとか在り得んてw
アマゾンで検索すると1996年には新潮社の伊藤整訳も完訳版になってた
それにしてもそれまででも削除されたままって凄い不思議www
『ベランジェ~』は1994年に出てるので確かに執筆時点までは削除されたままだった

チャタレイ夫人の恋人 (新潮文庫)

この時(2008年)、手元に伊藤訳の『チャタレイ夫人の恋人』があり
しかも有罪判決から2年後の1959年発行の筑摩世界文学大系【56】だったので
開いてみるとあとがきに裁判の過程の詳細があった♪
また、伊藤による解説「『チャタレイ夫人の恋人』の性描写の特筆」
一緒に収録されてるオルダス・ハクスリーによる「ロレンス論」
そしてこのシリーズの巻末に必ずある充実した作品解説と詳細な年譜
更に月報まで附いてて以下が掲載されてた

「ロレンス覚え書」南博
「ロレンスの旅行記」篠田一士
「ロレンス論」(スティーブン・)スペンダー[村上至孝訳]

これらを一通り読んでロレンスについてすっかり心得た気になって
本文は削除部分のアスタリスクを確認して終了・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

新訳 チャタレー夫人の恋人

この時点まで、1996年の伊藤整訳の完訳版が
削除前の元のままのだと思ってたのだが
息子の伊藤礼が削除版に対して補訳を行ったモノだと
今回初めて知って(てか、気付いて)
数多ある訳の中でこれを読むべし、と決心するも
結局は電子書籍版があったので飯島淳秀訳にしてしまった

チャタレイ夫人の恋人について・性の虚偽と真実 (1951年)

『チャタレイ夫人の恋人について・性の虚偽と真実』
なんて著書があるから訳も精確に違いナイ
そうして期待を込めて巻末の解説から読み始めて
本文に差し掛かる前に疑問が浮かんだ

ん?これって完訳?削除部分あり?

奥付けは2005年4月25日になってるが
調べてみたら最初に三笠書房から出たのは1955年で
伊藤整の有罪判決より前だったりして?!

遡れば1950年の小山書店から出てるロレンス選集の第1~2巻が
伊藤整訳の『チャタレイ夫人の恋人』完訳だったが
それが1951年から裁判沙汰になってて1957年に有罪になって
その後に新潮社から削除版を出してたワケで
飯島淳秀訳の初版は1955年で裁判中に出してるコトになるるる~
微妙なトコロだが裁判中では削除部分は謎だったのだから
完訳で出す準備を進めてたに違いナイが
裁判になってるのは周知の事実で
完訳だとしても表現を抑えてたかもしれナイ

色々と思い巡らせながら飯島淳秀訳の電子書籍を
伊藤整の削除部分と照合してみたらアスタリスクがあった!!

飯島訳の初版は間違いなく完訳で出てただろうが
裁判後には発禁になってか、もしくはなる前に伊藤に倣ってか
削除部分をアスタリスクにした版で出し直したのだろう

とにかく完訳ではなかったコトが判明したので気が楽になって
今回は一気に半分ほどまで読んでしまえたが
そこまでで放棄したくなるドギツイ性描写は見当たらず
もちろん、高校生の時と今とでは受け止め方に差はあるだろうが
もしかして前に読んだのは実は完訳だったのだろうか。(゚д゚lll)ギャボ

初稿 チャタレー卿夫人の恋人

☆・・・☆・・・☆

ところで今回は初めてYAHOO!で電子書籍を購入してみたが
KindleにもSONYのReader StoreにもBookLive!にもhontoにもパブーにも
「チャタレー」及び「チャタレイ」で検索してみてなかったのを
ダメ元でYAHOO!で検索したらあったからだ♪
但し、買ってから気付いたのだが対応デバイスが
パソコン、スマートフォン、タブレットはOKでもアプリ未対応で
ダウンロードしてアプリから直接オフラインでは読めず
オンラインでYAHOO!ブックストアにログインして
[わたしの本棚]ページから開くコトしかできなかったヽ(゚∀。)ノ

そうして探してる間に伊藤整の『女性に関する十二章』が
SONYのReader Storeで「チャタレイ」で検索に引っかかったので購入し
試しに「チャタレー」で検索をかけたら以下も見つかった

宮本百合子『「チャタレー夫人の恋人」の起訴につよく抗議する』
『あなたの知らないロレンスとチャタレー―新潮45 eBooklet 教養編5』

後から改めて『女性に関する十二章』のタイトルで検索したら
KindleにはなかったがBookLive!にもhontoにもあった?!
つまり、SONYのReader Storeについて
検索機能が利用者にとって最適化されてる、と言えるるる~

Lorelei

セーヌ河を愛するモーパッサンは
短編『水の上』で川を称える際に比較対照として
ユゴーの「夜は大洋から(原題:Oceano Nox)」(※)をあげてるが
この詩は猛り狂う海を歌った人類初の叙情詩だそうだ
詩集『光と影(原題:Les Rayons et les Ombres)』収録で『ヴィクトル・ユゴー文学館【1】詩集』にある

意外なのだがそれまでの海の詩と言えば
海原の美しさや広大さを讃美したり
穏やかな波が岸辺に打ち寄せるサマに酔い痴れたり
海の恵みを傲慢にも人間にとっての益だと有り難がったりで
嵐の海を詩にしようとは誰も思いつかなかったのである(゚ ゚;)

ユゴーがこの詩を書いたのは

「怒りに身をふるわせる」海を、八時間も眺めつづけた

そんな実体験からなのだが
モーパッサンにしても恐らく自らが夜の川で一夜を過ごした上で
短編『水の上』を書いたのだと思われる

ユゴーもモーパッサンも19世紀の人なので
近代化によって人々の感覚がいよいよ動物らしくなくなってきてて
つまり愚鈍になってしまってる五官に依らず
自然の中で研ぎ澄まされた感覚を呼び覚ましながら
詩作をしてきたのだろう

海や川の氾濫が齎す災禍には鋭いナイフで胸をえぐられるようだが
改めて自然に対して畏怖の念を抱くようになる
しかし人災は明らかに人間の悪意が関わって起きてるので
なんとも後味が悪くずっと心に燻り続けるし
実際に災難に遭った心ある者にも憎悪を植えつけてしまいかねナイ

モーパッサンの愛するセーヌは
ユゴーの愛娘レオポルディーヌを呑み込んだ

新婚の夫シャルルと共に乗船してたヨットが転覆して溺死したのである
その死後4年目に書かれた一連の詩「1843年2月15日」~「ヴィルキエにて」(※)は
神に問いかけをしては自らで呼応してるといった内容だが
そんな事情もあるユゴーにとってのセーヌは
どうしたって愛情より憎悪の方が深いのだ
『静観詩集』にある4篇の詩でヴィルキエはセーヌ河畔にある息女の溺死した場所に程近い村である

またユゴーはフランス人だがゲルマン民族の血も受け継いでおり
元より河と言えばラインに想い入れがあるようで
『ライン河(原題:Le Rhin)』なる紀行文を書いてたりもするが
これが邦訳では『ライン河幻想紀行』(※)となってるのがなんと適正なコトか!!
河畔の古城に領主がいた時代の伝説が語られてるのだ!
例えば「ザンクト・ゴアール」の章ではローレライの伝説に触れてるるる~
岩波文庫から出てる抄訳だがユゴーの描いたライン河のスケッチも収録されてる

あのローレライの伝説の岩山が、ラインに垂直に落ち込んでいる。
それこそ、声をかけたり歌を歌ったりする人に七たび答えると言われる名高い木魂の場所だ。

歌の本 (上) (岩波文庫)

自分はハイネの詩にある『ローレライ(原題:Die Loreley)』しか知らず(※)
その歌声で船乗りを誘惑しては水中に引きずり込むトコロから
下敷きになってるのは『オデュッセウス』等に登場するセイレーンと思ってたが
意外な言い伝え、なんと木魂・・・(゚ ゚;)?
セイレーンは海由来なので当然ながら木魂ではナイヽ(゚∀。)ノ
ちなみにユゴーには木魂が5回以上は聞こえなかったそうだがw
STYXにも『ローレライ(原題:Lorelei)』なる曲があるが歌詞にはラインの伝説らしい部分は微塵もナイ

ローレライ伝説の概要を確認したくてググってみると
どうもはっきりしナイながらも諸説あれど古い伝説ではナイのは間違いなく
クレメンス・ブレンターノの1801年発表の長編小説『Godwi』に
挿話として収録されてるローレライ伝説が文献としては最も古いようで
それでブレンターノの創作だって説もあるらしい

ユゴーによればローレライは水の精(ニンフ)で

その昔、神話の中で多くの王侯や伯爵たちに言い寄られた

とだけあり、ユゴー自身もよくわかってなかったのか?
あるいは当時は人口に膾炙してた伝承だったので語るまでもなかったのか?

水妖記―ウンディーネ (岩波文庫 赤 415-1)

で、「水の精」で「木魂」ならばフーケの『ウンディーネ』じゃナイのか。(゚д゚lll)ギャボ
1811年に出てるがこれがブレンターノのローレライ伝説とミックスされたとか?!
などと言いつつフーケの『ウンディーネ』は未読だか・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ
ジロドゥが戯曲化した『オンディーヌ』から推察。(´д`;)ギャボ

オンディーヌ (光文社古典新訳文庫)

この『ウンディーネ』もしくは『オンディーヌ』の物語の根幹部分の
異界の女が人間の姿になって愛する男の下へ行き
男に裏切られて一巻の終わり、とゆー悲恋の定番原則だが
アンデルセンの『人魚姫』とかバレエ『白鳥の湖』とか
必ず裏切ってしまうのが良くも悪くも人間の男の性なのだよな(-_-;)

但し『オンディーヌ』の場合には裏切った男の方が死んでしまい
オンディーヌは元の水の精の姿に戻れるのだが
愛する男との記憶を失ってしまう

愛する男を想いながら死んでくのと忘れて生き永らえるのって
どっちが幸せなのかって、自分は前者だなw

Boat on the River

モーパッサンの短編『水の上』の導入部では
主人公の(恐らくモーパッサン自身の)川への想いが炸裂してるが
せいぜい公園に流れる半ば人工的な小川と皇居のお堀しか知らナイ自分でも
水辺には深い想い入れがある、と改めて自覚させられた

それくらい故郷の水辺は誰にでも郷愁を抱かせるワケだが
ましてや世界に名だたるような川が流れてるなら尚更なのだろうから
モーパッサンがセーヌに恋するのは尤もな気がするるる~

自身の記憶にはなくとも総ての生命は海由来なので
始原的な心象風景としてDNAに刷り込まれてるのだろうか。(゚д゚lll)ギャボ

実際にほんの1日か2日東京を離れて帰ってきた際には
何よりもお堀を目にするとほっとするので
地下鉄で帰りたくなくてJRで車中からでもお堀を見ながら帰宅するが
たまに衝動に駆られてお堀沿いを1時間ほど歩いて帰ったりもした

昔からよくお堀に沿って土手縁を散歩してたが
水辺には自然があり、季節によって様々な動植物と出合えるので
例えばトンボを目にしては『とんぼのめがね』を歌うなんてのが楽しかった

さすがに大きな声では歌わなくなったが
白鳥に出会えばサン・サーンスの『白鳥』が脳内には流れるので
鼻歌交じりでバレエの『瀕死の白鳥』を想い起こしながら
うっかりひらひらと踊りながら歩いてたりもする

瀕死の白鳥/アンナ・パヴロヴァを讃えて

しかもこれが近年ではトロックス(※)しか観てナイので
バラバラと羽根を撒き散らしながらユーモラスに舞うサマを想起して
思わず吹き出してしまったりしてw
トロカデロ・デ・モンテカルロ・バレエ団

ボート場に人影が見当たらナイ時間帯には
STYXの『Boat on the River』を口ずさむ・・・ってやっぱ歌ってるるる~
LINK:ボート・オン・ザ・リバー(Boat On The River) – STYX

この曲を書いたTommy Shawはアラバマ州の出身だが
『Boat on the River』にあるような川が実際に付近を流れてたそうだ
でも河川の名をはっきり口にしてナイので
モービル川とかアラバマ川のような大河ではなさそうだが
だからこそこの曲の哀愁が漂うようなひっそりとした光景なのだろう

隣接するミシシッピ州の名は原住民の部族語で「大きな河」を意味してるが
その名の通りの大きな河、ミシシッピ川が流れてるるる~
ミシシッピ川の全長は5,971kmで本流(ミズーリ川を除く)部分だけでも3,779km
日本列島の全長がおよそ3,000kmだからスケールの違いがわかろう

トム・ソーヤーの大冒険 [DVD]

そんな大河に寄せるマーク・トウェインの想いが
『トム・ソーヤーの冒険』と『ハックルベリー・フィンの冒険』に
瑞々しい少年の感性の中に溢れんばかりに表現されてて
読む度に心の中の宝石箱を開けるような愉しみを味わえるのだ(*^^*)

マイ・フレンド・フォーエバー [DVD]

若くして亡くなった映画俳優のブラッド・レンフロは
3作目で『トム・ソーヤーの大冒険(原題:Tom and Hack)』の
ハックルベリー・フィンの役を演じたのだが
2作目の『マイ・フレンド・フォーエバー』でも川を下るシーンがあり
自分はそこで既にハックルベリー・フィンを見出してたので
観る前からハマり役だと確信してた!
これが何度観ても゚+.(・∀・)゚+.゚イイ映画なのだがやっとDVD化された!!

ハックフィンの大冒険 [DVD]

その後『ハックフィンの大冒険(原題:The Adventures Of Huck Finn)』では
イライジャ・ウッドがハックルベリー・フィンをやったが
どうもイライジャのピュアな愛らしさが憐憫の情をそそってしまい
トムの方が俄然悪びれて見えるので調子が狂うのだった。(´д`;)ギャボ

☆・・・☆・・・☆

Tommy Shawは動物をたくさん飼いながら暮らしてたらしく
とりわけ『Sing for the Day』で歌われてるHannaなる女性が
人間ではなく犬だった、とインタビューにあったり
「小鳥の餌やり機」なるモノで近所中の小鳥に餌をやってた、とか
知れば知るほど総てのエピソードに心打たれまくりで
ミュージシャンとして以上に人として実に好ましい・・・ホゥ(*-∀-)