コンテンツへスキップ

幼少時に通ってた小児科医の待合室には
学研から出てたまんが『生きている地球』がおいてあった

宇宙が出来て
地球が生まれて
そこに生命が生じて
生物が進化してく

その過程がとても理路整然として描かれてたので大いに納得したが
子供の純粋無垢さを差し引いても疑いの余地がなかったから
記されてるコトが事実だと素直に信じられたのだった

ところが同じ頃に教会で教えられた「天地創造」の方は
自分にとっては釈然としナイ部分が多く
深く追求して質問すればするほど理不尽な回答しか得られず
とても歴史的事実だとは信じ難かった
いや、明らかに寓話だと断定できたのだった

そもそも自然に興味津々の子供で
花や鳥や虫が好きで図鑑が大好きだったせいもあり
現存する生物だけでも膨大な種類があるコトをよく心得てたので
そりゃあ「ノアの方舟」の話には合点が行くワケがナイw
総ての動物をつがいで方舟に乗せるなんてのは
文明の利器が揃った現代においてさえ物理的に全く不可能なのだから
それを真実だなんて受け止めようもなかった

だから「天地創造」の際に
あるいはノアが方舟に動物のつがいを詰め込む際に
【種】の数をカウントしてたなら
これらが寓話でしかナイコトがもっとはっきりと示せただろうにチッ(-д-)、
なんて舌打ちしてはひとりごちてた・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

しかしサンタクロースを信じる子供は愛らしいし
その期待に応えようとしてサンタクロースを演じる親は更に愛らしい(*^^*)
その穢れなき魂のあり方は人として愛らしい!
穢れなき魂には罪はナイし愛らしいコトは美しきコトである!!
そんな美しい事態なら
サンタクロースを信じてナイコトを非難されるのも心地゚+.(・∀・)゚+.゚イイし
こちらもあえて否定する気は毛頭ナイ

信じる信じナイは別としても
自分も神話や伝説の類が好ましいと思える性質ではあり
これらが夢や希望を与えてくれればどんなに不条理だって構わナイ

尤も寓話としての正しさは科学としての正しさとは全く逆なので
科学的に寓話を否定する余地などナイのだ
寓話を彩る迷信の類が近代に至って科学的に実証されるコトはままあるが
時空を経て継承される内にどんどん変化してった寓話は
原初のモノこそが正確だ
正確と言うのは内容が正しいかどうかでなく
例えばディズニーが改変した寓話は
アメリカ国民の能天気さに合わせてか悲劇的要素は排除され
時に悲劇もハッピーエンドの結末に書き換えられ
もはや原典とはまるで違ったモノになってしまってたりするが
寓話としては完全に間違ってる
(まあエンターテインメントとしては楽しませられれば何でもOKで
寓話としての真意を伝える必要なんかナイんだがね)

それに比べて科学となると
その時点での最新理論こそが最も正しい
とお互いが仮定して話を進めるし
それまでずっと正しいとされて皆が信じてたコトでも
実は正しくなかったと証明さえできれば
その証明を裏付ける新説の方が正しい、つまりは元の説は正しくナイ
そうなれば元の説は時代を経て顧みられなくなるモノだ

また寓話と科学は価値も正反対だ

寓話は多少辻褄が合わなくたって非現実的であったって
間違っていようもナイ類のモノで
そこに求めるのは何が正しいかでなく
先人の知恵だったり、信奉の根源的な挿話だったり
先述のディズニーならば単に愉しめる要素だ

反して科学は事象の実体の解明で
それが理性的、客観的、第三者的であるコトに意義がある
(但し、特に学会のような組織が確固たる権威を持つようになってから
権威主義によって価値が決まる場合もあり
極端な話、真偽を実証できナイ複数の説があったとしたら
最も権威ある学者の説が真偽以上にまかり通るコトもあった)

そういう根本的に成り立ちの違う寓話と科学が
同じ土俵でどちらが正しいか決着をつけようとするのは
その取り組み自体がナンセンスである

なので、サンタクロースの存在を信じる子供は無敵だ。(゚д゚lll)ギャボ

自分は無神論者で科学をよく勉強してたが
高校で「応用微生物」を勉強してる時にこんな風に愉しんだ

これらの生物も「天地創造」の時に神が創ったとしたら?
性別もナイ微生物をノアはつがいでなくてコロニーで方舟に詰め込んでたのか?
生物か非生物か不明のウイルスも方舟に乗れたのだから今に至るとしたら
どうやって箱舟に乗り込んだのだろうか?
そもそも神としてはウイルスを生物のつもりで創ったのか?

・・・次々と想像してたら仕舞いには噴出さずにはいられなくなるが
科学の概念で非科学的な物語に想いを巡らすのは愉しい(^▽^*)

どちらを信奉するかきちんと決める必要ナイし
決めたからって信奉しナイ方に敵対する必要ナイし
必要ナイコトを上手くできナイからってそれに対して懺悔するなんてのは
全くもって不要だと思うのだがそれを生真面目にやってたのが
このトルストイの『懺悔』だったりするのだ

懺悔 (岩波文庫 赤 619-0)

絶対に答えが出ナイ問題をずっと考えてたらツライ
世界の始まりはどうだったか?
どうやって生命は誕生したのか?
なぜ生物種はこれほどまでに多種多様なのか?
・・・etc.etc.なんてのは問題が大き過ぎるだけに
これはもうシラフで悩んでたらもれなく気が狂って当然だろう

以前読んだ時はトルストイに同調して
同じ真実の深淵に嵌って気が狂いそうになった・・・んでやめたヽ(゚∀。)ノ

深淵を彷徨い続けてはいけナイ
実際に深淵の虜となったニーチェなんかはもう・・・ヤヴァイ
抜けられナイ恐ろしさと虚しさでうっかり死にたくなったりするが
これでちょっと気がふれてて簡単に死ぬ方法があれば
もれなく死んでしまうからだ

嘔吐

同じ感覚をもっとよりリアルに味わうならサルトルの『嘔吐』だが
今読み返してみると全然リアル(現実的)ではナイね
なんせトルストイはもちろんサルトルも発想が庶民とは隔絶してて
それはとりもなおさず生活が庶民とは一線を画してたからだ

働けど働けど我が暮らし楽にならざりじっと手を見る

そんな啄木の気持が切実にわかるほどになると
『懺悔』も『嘔吐』も働かざる者の倦怠からくる憂愁だとわかる

ニーチェの『悲劇の誕生』では
アポロン(的)とディオニュソス(的)とゆー単語が繰り返される

これらが古代ギリシアの神であり
アポロンは太陽神で予言、医術、音楽を司ってて、ディオニュソスは酒の神
くらいの認識はおよそ無教養な現代日本人でも持ってるだろう

とはいえ、のっけから

 芸術は、<アポロン的なもの>と<ディオニュソス的なもの>という、ふたつの要素のせめぎあいによって展開してゆく。それはオスとメスによる生殖のようなものだ。生物の場合、ふたつの異質なものが絶えずせめぎあい、両者の和合はしかるべきときに定期的にしか訪れないわけだが、芸術にもそれと似たところがある。そうした芸術の特質を、ただ論理的に理解するだけでなく、ずばり直観的にも把握できるようになれば、美学はおおきく前進することになるだろう。

などと、言われても太陽神と(葡萄)酒の神が
どうしてオスとメスほどに対極的なのかはわからりづらい

ギリシア神話の神々の中ではヘルメスが1番好きだが
次いでアポロンとディオニュソスも甲乙付け難くお気に入り
そんな自分でさえもニーチェの位置付けには疑問を感じてしまう

アポロンは人間だったなら絶対にモテたであろうに非モテで
例えば、予言の術を授けるから恋人になれ、とか
トロイの王女カッサンドラに言い寄るのもおかしいが
それで振られた腹いせに予言を信じる者がいナイようにしたり
美女コロニスを手篭めにして、恋人気取りでいたら
他の男と結婚してしまったからって、コロニスを殺そうとしたり
意外と人間臭いってか、姑息な部分が垣間見えるので
ニーチェが示唆するような高潔なイメージは
どうにも持てナイのだが。(´д`;)ギャボ

だいたいアポロンは悲恋のエピソードばかりなのだが
腐女子にとってギリシア神話の美味しい部分こそがアポロンの悲恋で
ヒュアキントスやキュパリッソスなる美少年とアポロンとの
在りし日のやりとりには妄想力を惜しまナイし
美少年の死に際に限定すれば悲壮感の中にも優美なアポロンてのはわかるが
主知的、理性的とかは微妙に違う気がするし
それに比してディオニュソスを激情的とするのはどうかと思われ

仲間のパーンやサテュロスのような牧羊神ら(※)は
確かに放埓な獣らしい下半身をしてたりするし
パーンの笛の音に陶酔してマイナデスは踊るだろうが
ディオニュソス自身は酩酊もせずに超然としてるカンジだが?
ローマのバッカスの従者であるファウヌス然り

さかしま (河出文庫)サテュリコン―古代ローマの諷刺小説 (岩波文庫)サテリコン [DVD]

サテュロスの名に由来する『サテュリコン』なる奇異な小説を知ったのは
偕成社の少女世界文学全集の『クォ・バディス』で
そこには『サチリコン』とあり
登場人物のペトロニウスが書いた詩や散文の本なので
実在するとは夢にも思ってなかった

ところが雑誌ALLANの影響でマルキ・ド・サドを澁澤龍彦訳で読み漁り
澁澤訳のユイスマンスの『さかしま』に巡り会い
ペトロニウスも『サテュリコン』も実在してたと知って
シュリーマンがトロイの遺跡を探し当てたかのような興奮を思えたが
なんせネットで検索などできなかった時代のコトで
更に女子高生が大っぴらに買い求めづらかったのもあって
闇雲に古本屋を探し回るしかなかった

また映画『サテリコン』の存在を知ったのもALLANに載ってたからだが
そこで紹介されてる美少年ジトーネに一目惚れして
この映画を冥土の土産にどうしても観たい、と思いながら20年余りが過ぎ
結局、DVDが発売されたのを買って観たのは2003年だった

そうしてずっと『サテュリコン』を切望してたので
サテュロスの名がいつも脳裏を掠めてて
山羊の角と下半身を持つ異形の姿さえも身近に感じてたw

ヴィヴィアンウエストウッド Vivienne Westwood マン サティア オーブ ペンダント ネックレス シルバー

なのでVivian WestwoodのSatyrシリーズとか物欲を煽って困る!
今なんてDoCoMoのVivianスマホのマチキャラになってて
Satyrが着信で踊ったりするらしくて
スマホ嫌いなのに欲しくてたまらなくて困ってるるる~

SH-01E Vivienne Westwood docomo [Orb camouflage]

最後になったが愛するヘルメスに関しては
神に対して不謹慎かもしれなんだが
ファッションを含めたルックスがたまらなく好きだし
性格的にやんちゃで愛嬌たっぷりなのもときめかずにはいられナイ

最も美しい青年の容貌を持つとされるアポロンに文句はナイが
ヘルメスの方が愛らしいと思えてしまうのは単に好みで
特にボッティチェリの『プリマヴェーラ(春)』でのヘルメスときたら
ヘアスタイルといい、顔立ちといい、個性的な帽子とサンダル(ブーツ?)といい
大好きなテイストだけで仕上がってるるる~

サンドロ・ボッティチェリ *春(プリマベーラ)【ポスター+額縁】約53 x 76 cm ゴールド

新しいブログのタイトルは「アポロンとディオニュソス」になるはずだった

それが「Pythia aut Maenas」となったのは
目の錯覚でURLの「pvsa.mmrs」の部分が「pythia.maenas」に見えてしまい
アポロン神の巫女であるPythia(ピューティアーもしくはピュティア)と
ディオニュソス(あるいはバッカス)の信女のMaenas(マイナス)の方が
ひねりがあって゚+.(・∀・)゚+.゚イイような気がしたからだ

これをGoogle翻訳でラテン語(※)にしようとした際に
「ピュティアとマイナス」でなく「ピュティアかマイナス」にしたのは
アポロンとディオニュソスは「と」による一体感に違和感を感じナイが
ピュティアとマイナスの間には「と」で結びつかナイ強い反発を感じたからだ
ちなみに「Pythia aut Maenas」の"aut"が英語の"or"である

とはいえ、ピュティアとマイナスにはどちらも
忘我する、とゆー共通点があるのだ
ピュティアはある種の毒ガスにやられて神懸りになり
マイナスは葡萄酒のアルコールで狂乱状態になり
前者は予言をし、後者は淫行に耽る

Maenas

また蛇と戯れるこの女がそれだけでマイナスだとわかるのは
マイナデス(マイナスの複数形)が蛇を神聖視してるからなのだが
ピュティアもその名称自体が大蛇(ピュートー)から派生してて
蛇繋がりなのだな・・・などと考えを巡らしてたら
このマイナスが突如としてエウリュディケに見えてきた!

ギリシア神話におけるエウリュディケは
楽人オルフェウスの妻だったが結婚の喜びもつかの間に
蛇に咬まれて死んでしまった女だ

エウリュディケを失ったオルフェウスは嘆き悲しみ
彼女を黄泉の国まで迎えに行き
なんとか連れて帰る段取りまではできたものの
地上に出るまで決して振り向いてはならぬ、とゆー禁忌を犯してしまい
愛妻を携えて地上に戻るコトは叶わなかった・・・
と、そんな悲劇である

ニーチェの処女作『悲劇の誕生』では
「アポロ的」「ディオニューゾス的」なる表現を用いてて
これらが「理性」と「情動」であるとか正反対の形容に対比させてるが
両者を併せ持つと最高峰の芸術(※)形態である【悲劇】になるとも言及してる
【悲劇】はギリシア悲劇を特定してるのだが、それを構成する要素である音楽(コロス)の意味合いが強い

このニーチェの考察にキリスト教的価値観が付随されてしまうと
優美なアポロンが神的、粗野なディオニュソスが悪魔的
と、受け止められがちなので誤謬が生じるのだが
キリスト教のフィルターを省いたもっと太古の宗教観からしたら
アポロンの竪琴が奏でるのは死者に手向ける挽歌なのであり
それに比してディオニュソスのパン・フルートの調べは
生者の音楽なればこそ、エロスの舞踏が引き起こされるのだ

そして死と生は全ての生物が内包してるモノではあるが
決して一個体に同時に顕現するコトはなく
必ずどちらか一方の状態なのである

生死はまるで実体と鏡像のような関係だが
アポロンとディオニュソスも然りで
一人の人間が兼ね備えてる相対する性質のようではなかろうか?

ディオニューソス―神話と祭儀

オルフェウスの悲劇は妻との別離の後日談があり
これがまた悲劇的にも八つ裂きにされて死んでしまうのだが
彼を殺したのはトラキアの女たちであり
彼女らはマイナデスであった

それとゆーのもオルフェウスは亡き妻に捧げる挽歌を奏じてて
それを耳にしたマイナデスに襲われてしまったのだが
要するに情欲を煽っておいて放置プレイだったのでレイプされて
彼女らの狂気が八つ裂きにまで至らしめたのである

ここで1つの疑問が浮かぶのは
オルフェウスは異説ではアポロンの息子だとされてたりもするが
少なくとも彼の竪琴はアポロンから授かってたので
まさに「アポロ的」な挽歌だったはずなのに
マイナデスはなぜ欲情したのか?むしろ欲情できたのか?

解せナイ、これは計画的な犯罪ではあるまいか?

エウリュディケは人間ではなく森のニンフとされてるが
蛇に咬まれて死んだのを考え合わせたら
この女は実はマイナスで、夜の森に集い、葡萄酒で酔い
蛇と踊りながら淫行に興じてたのに
結婚して仲間を裏切ったために蛇の制裁を受けたのではなかろうか?

そもそもオルフェウスがアポロンから竪琴を与えられた際に
楽才をも享受したのだとすれば
それはエウリュディケの挽歌を歌う宿命だったのでは?

自分なりにそう納得してみたトコロで
もう1つ新たな疑問が沸いたのは
オルフェウスの死に様で、ディオニュソスと同じだったのだ

☆追記...
結局、新しいサイトは閉鎖され、このサイトに吸収合併されたw

昭和生まれで子供の頃に星座の名の由来に興味があったなら
きっと野尻抱影の本を読んでただろう

自分ももれなくそんな一人で
ギリシア神話自体が野尻の著書で初めて読んだし
そこに鏤められた星座に纏わるエピソード群を拠点として
ギリシア(ローマ)神話の世界観が構築されてったが
一通りわかった気になったトコロで手放してしまって四半世紀経過ヽ(゚∀。)ノ

代わって、この10年来に何十冊もギリシア・ローマ神話の本を購入したが
読めば読むほど、その世界観が覆されてった。(゚д゚lll)ギャボ

同じエピソードでも著者によって内容がマチマチであり
しかも辻褄が合わナイのを無理矢理こじつけてたりするので
改めて神話に異説は付き物だと思い知った。(´д`;)ギャボ

所詮は神話であって
史実でナイのはもちろんだが単なる伝承や英雄伝説より信憑性に欠くし
そこに最初から真も偽もナイのだが
だからこそ自分にとって納得が行くように編纂して
真とすれば゚+.(・∀・)゚+.゚イイとも思うのだ

むしろ史実だって確実な事象は確固たる事実として脳内に留めるが
それ以上にその時代を担った人々の心理を読み解いて
真実がどうあったのかを思索するコトこそ
歴史を学ぶ意味があるるる~

総ての神話はぶっちゃけ人間による創作だろうが
神話を創り上げる過程においてどんな想いがあったのか
神や怪物は何の比喩で、英雄に映し出された理想の人間像は何の教訓か
そしてなぜ民族の中で信じられて伝えられてきたのか
そこを深読みするのが醍醐味なのだ(*^^*)

ニーチェとヘーゲル―ディオニュソス哲学の地下通路

それにしたってニーチェが『悲劇の誕生』で比喩に使うほど
アポロンもディオニュソスも明確な切り分けができるキャラクターではなく
逆にギリシア神話の神において最も近しい2柱とも言え
違うのは容貌の美醜と信奉されてる場所(神殿か森か)くらいだ

なんせ両者とも音楽と酒がついて回り
美女との恋愛には全く縁がナイ非モテなのだ・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

ツァラトゥストラ (中公文庫)

ニーチェついでに『ツァラトゥストラ』で「神は死んだ」てのがあるが
これはプルタルコスの『モラリア』【5】「神託の衰微について」に
船上で「大いなるパーンは死せり!」との天の声を耳にした逸話が載ってて
後世のご都合主義のキリスト教が
古代の総ての神に代わってイエス・キリストが唯一神になった
などと勝手に解釈したのだ(゚*゚;)

逸話自体に何の根拠もナイのに
それに対するまた更にまるで根拠のナイ解釈で
まともなおつむをしてたらとても納得できナイが
これを当然のように妄信してしまうキリスト教徒に危惧して
この台詞を逆手にとって皮肉を言ってるのだ

モラリア〈5〉 (西洋古典叢書)

だがしかし
自分にはこのプルタルコスの伝える逸話にどうも不信感を抱いてて
3年前にやっと邦訳された『モラリア』【5】を読んでみて
謎が解けた気がしたΣ(゚д゚lll)ガーン

まあ謎解きは長~くなるから後日にして
とにかく酒の神ディオニュソス(バッカス)と牧神パーンと
山羊の角と脚を持ったファウヌス、サテュロス、シレノスの類は
ギリシア・ローマ神話の中で混同されてるので
あちこち読み漁るほどに困惑が増すとゆー有り様なのだが
そんな迷宮から脱出するのには初心に帰るのが1番で
前述したかつての愛読書である野尻の『星の神話・伝説』を入手して
「やぎ座」の項目をたった2ページ読んで万事解決p(-_-+)q

 山羊といっても、魚の尾をしているふしぎな『海山羊』です。そして、これもいて座の半人半馬の怪人などとおなじく、西アジアの星座から伝わったもので、バビロニアの古い彫刻にこの姿が残っています。

そうなのだった!
これらの半獣神の起源はバビロニアの占星術由来なのだった!!
で、1年前に書いた記事[Goats Head Soup]を大幅に修正した(汗)

 パアンというのは、ギリシアの森林と野原の神で、山羊の角と、毛のはえたとがった耳で、足にもひずめがありました。
 彼はいつも山のほら穴に住み、いたってのんきで、遊び好きで、夕ぐれになると穴から出てきて、おなじ半人半獣のサチュロスと、森や谷川の精女(ニンフ)たちを追いまわしたり、ヨシの茎で作ったシリンクスという笛をふいて羊飼いや精女(ニンフ)たちとおどったりしていました。
 あるとき、神々がナイル川の岸で酒盛りをひらき、パアンはヨシの笛をふいて、興をそえていました。そこへ、怪物ティフォン(うお座参照)が現れたので、神々はあわてて、思い思いの形にかわってにげました。パアンも山羊になってナイル川にとびこんだのですが、水にひたった部分だけ魚の尾にかわり、外にでていた部分は山羊のままでした。
 このできごとの記念に、大神ゼウスが、その形を星座に伝えたといいます。しかし、これは、山羊の尾が魚になっているのを、むりに説明した話です。

スッ ━━━━━ ゚+.(゚∀゚)゚+.゚━━━━━ キリ!

ちなみに日本語版Wikipediaの山羊座の項目
出典は明らかにされてはいナイが間違いなく野尻のこの本だなw

うお座参照、とあるのでうお座も見てみるるる~

 この二ひきの魚は、愛の女神アフロディテーと、その子エロースとが、ユウフラテス川の岸を歩いていると、怪物ティフォーンがおどしにでてきたので、親子はあわてて川へとびこみ、魚にばけて逃げました。
 その記念にアテーネ女神が、二ひきの魚を星の間に加えたものと伝えられます。
 この神話は、やぎ座、みなみのうお座にも通じていますが、古代バビロニアでも、この星座を魚と呼んで、女神アシュタルテとその子になっていたので、それがギリシアに伝わって変化したものと思われます。アシュタルテは、ギリシアのアフロディテー(ヴィーナス)と同じ女神で、星では金星にあたります。

このバビロニアのアシュタルテは
アッシリア(アッカド語)のイシュタル由来で
イシュタルは元はと言えばシュメールのイナンナなワケだが
イナンナの夫がドゥムジ、イシュタルの夫・・・もとい愛人はタンムズとなり
このタンムズへの信仰が「大いなるパーンは死せり!」の
謎解きの鍵なのだ・・・愉しいねえ(^▽^*)

ミシュレの『フランス史』はそれだけで読み応えがあるが
読み比べるとより一層面白いかと思いついた

まずは『フランス史 II 中世【下】』
「8 ジャンヌ・ダルク―オルレアンの解放とランスの戴冠式」
「9 ジャンヌ・ダルク―裁判と死」

フランス史 2 中世 下
ジャンヌ・ダルク処刑裁判
ジャンヌ・ダルク [Blu-ray]
Saint Joan (New Mermaids)
ジャンヌ・ダルク (中公文庫)

自分の中のジャンヌ・ダルク像は胡散臭さが先立ってしまってたが
それとゆーのもキリスト教に即した絵本だったからだ

ジャンヌは火焙りにされてしまうが後に聖人として称えられて
めでたしめでたし・・・かょ。(゚д゚lll)ギャボ
何の疑問も抱かずに読後に感動できるなんて
自分にはおかしいとしか思えなかった。(´д`;)ギャボ

いや、むしろ信者こそが教会のあり方に対して疑念を抱くだろうに?
なんせ異端審問でジャンヌを火刑に処したのは当の教会組織だ
(この辺りの事情はルター以降だと釈然とする
つまりローマ・カトリック教会によるプロテスタント迫害だ
しかしジャンヌはルター以前の人であるるる~)

フランス人でもキリスト教信者でもなければ
ジャンヌ・ダルクにはとても共鳴できようもナイはず・・・(-_-;)
まあ自分は異装趣味に関しては応援できてしまうのだがw
自分だけでなくオスカルファンには鎧帷子姿のジャンヌがぐっとくるだろう

時代遅れの騎士道をズタズタに打ち破った一歩先行くイギリスに
今にも乗っ取られる寸前のフランスで男たちは立ち向かう勇気を失ってたが
そこにまさに騎士道精神の象徴的な姿で少女が旗を揚げるのである
この時代のフランスのどうしようもなさを知れば知るほど
それを打破しようとする少女のひたむきさの威力を思い知るp(-_-+)q

近年になってシラーの『オルレアンの処女』を読んで
ジャンヌの心情を克明に描いてるのはさすがシラーだと感心はしたが
いかんせん聖人ジャンヌなんである、一人の人間としてではなくね・・・
しかも肝心の火焙りになるシーンがナイのもどうかとヽ(゚∀。)ノ

それが今更ながら王道のミシュレの『ジャンヌ・ダルク』を読み
これこそが史実に忠実でかつ人間を描いた傑作だと確信した!
3つしか読んでなくっても・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

先述の『フランス史』のジャンヌの部分を
ミシュレが執筆してたのは1838年~1839年頃だったらしいが
その10年後の1848年の2月革命で挫折したミシュレは
ナポレオンへの忠誠の誓いを拒否して1852年には全てを失ってしまう
ところがその翌年に『フランス史』から抜粋されて
『ジャンヌ・ダルク』が単行本として出版されたのである!!

この単行本の邦訳が1987年に中公文庫で出てたのを昨年になって突然買ったのだが
もう「序文」だけですっかりジャンヌ・ダルクに
そしてミシュレに参ったのだった・・・バタリ ゙〓■●゙
※ちなみにこの序文は当たり前だが単行本化の際に加筆されたモノ

今回『フランス史』の方で前後の情勢もよくわかる中で読むと
より一層ジャンヌ・ダルクの生きザマに心を打たれるが
この一人の献身的な少女は神の加護がある聖人なんかではなく
ニーチェの称するトコロの超人なのではナイだろうか?

そこで他の作家の『ジャンヌ・ダルク』を読み比べてみたくなったが
邦訳で入手可能なのはマーク・トウェインくらいだった

アナトール・フランスのは元から邦訳がなさそうでフランス語版ならありそうだが
英語版はあるのだろうか?

1番読みたいバーナード・ショーの『聖女ジョウン』も原語(英語)版に頼るしかなさそうだが
とりあえず作品解説本『バーナード・ショーの劇』
「【第九章】 聖女ジョウン」を読めるだけでもありがたい(-人-;)

そしてヴォルテールの発禁を食らった『オルレアンの処女』だが
ネットで探したら英語版が読めそうな気配
LINK:THE MAID OF ORLEANS

他にもググってみたら
少女マンガでは天川すみこの『ジャンヌ・ダルク』てのもあったが
1巻の表紙の絵柄が好みからすると微妙だな・・・
また『ピュタゴラスの旅』の酒見賢一原作のマンガで
『D'arc(ダーク)ジャンヌ・ダルク伝』には酷く興味をそそられたが
絵柄が近藤勝也なる漫画家で自分の苦手なジブリ系だった。(゚д゚lll)ギャボ
無理っつ。(´д`;)ギャボ

『王様の耳はロバの耳』と言えば
日本ではイソップ(アイソポス)寓話として知られてて
自分の世代だとミュージカルで観てたりするのだが
元ネタはギリシア神話のエピソードの1つだ

ロバの耳をした王様がいてそれを秘密にしてる
そんな前フリで物語は始まるのだが
王様がなぜロバの耳をしてるのかの説明は一切ナイのが常だ

King Midas and the Golden Touch

実は王様の名前はミダスと言い
太陽神アポロンの竪琴と牧神マルシュアスの葦笛で
演奏を競った際にマルシュアスを応援してて
マルシュアスが負けたので
お前の耳はおかしい、そんな耳はこうしてやるるる~
と、アポロンによってロバ耳にされたのだった。(゚д゚lll)ギャボ

アポロンはオリュンポスの12神に数えられてる神で
言わば神々の中でも代表格なのだが
それに比して、牧神マルシュアスは「神」の字は付くが
酒の神ディオニュソス(バッカス)の従者でしかなく
この勝負は音楽自体よりも演者の格からして
奏ずる前から勝負が決まってる気がしなくもナイ
ましてやアポロンは太陽神で音楽の神でもあるのだからして!

なので、完璧主義者のクラシックの演奏家に
快楽主義者のロック・ミュージシャンが挑むようなモノだが
それにしたって負けたマルシュアスの生皮を剥いだり
応援してた人間をロバ耳にするとは酷いp(-_-+)q

まあアポロンは人でなく神なので
むしろまさに「人でなし」なんだがなw

この挿話の教訓てのは
ロバ耳にされたミダス王は単なる聴衆でしかなく
一国の王ではあっても
音楽に関しては素人でしかナイのだから
彼に許される音楽に対する意見は
好きか嫌いかの個人的見解の範疇までで
間違っても第三者的に「評価」をしてはいけなかった・・・
そういうコトなのかね?

ギリシア神話では神に対して人間は一律に低位の存在で
人間社会での地位や名誉を得て
驕りや不遜を抱いてる者は
手厳しい制裁を受ける憂き目に遭う

音楽の神アポロンの完璧(なはず)の演奏より
牧神=山羊男のマルシュアスの方が劣ってる(はず)
なのに、たかが人間ごときが
その歴然とした勝敗に口出しをするのはタブーだったのだ

具体的にどんな演奏だったのかは不明なので
実際に聴いて自分がどちらを好むかは
自分自身にもわかりかねるがね
なんてのは現在日本人だからほざける戯言なのだよ(-_-;)

個人的にはアポロンは格別に好きな存在なので
その演奏を聴ける機会に恵まれたとしたら
それだけでもう拝んでしまうしかナイし
どれほど優美な旋律なのか
想像してるだけでも陶酔できる・・・ホゥ(*-∀-)

でも少々酔いどれのマルシュアスの調べに合わせて
くるくると回って陽気に踊りながら呑むのも
愉快そうだとも思われ♪

絶対的に優れてるのはアポロンだとしても
自分はマルシュアスにも好感が持てるかもしれナイので
ロバ耳にされたミダス王には同情を禁じ得ナイね

想像するにミダスは
王様だけあって育ちが良過ぎたのだろう
プライドの高い相手を憤慨させてしまうと無駄に恨みを買うだけ
そういう苦い経験をしておらず
畏れずに素直な感想を言ってしまったのだろう
それにしたってアポロンは横暴過ぎるがな・・・

自分は音楽に関しては
よく言えば音痴で、はっきり言えば音感なんか全然なくて
曲の出来の良さなんてのはまるでわからん人種だ

それでも音楽に対して歴然とした嗜好があるのは
音楽を構成してる要素以外の部分で
ぶっちゃけ、好感持てるかどうか、だけで選別してるるる~

ノリやすい調子の良さに踊ってみたり
うっとりとしてくるような繊細さや可憐さに目を瞑って心酔したり
心の中を白南風が吹き抜けるような清々しさに一緒に歌ってしまったり
反対に心の中の澱を吹き飛ばす破壊力に合わせてヘドバンしたり
そうして気に入った曲を物凄く愉しんではいるが
絶対音感ある人や音楽が理論的に解かる人には
こういう感覚ってあるのかナイのか
なかったとしたら謎なんだろうか?

ミダス王がどれほど音楽を聴き分けられたのかは不明だが
聴き分けられナイ人間には音楽を愉しむ価値もナイと
その権利を奪うのは音楽の神として正しいんだろうか?!

古代ギリシアではこの物語が
教訓を知らしめる説話としてあったらしく
驕り高ぶり、神に逆らったり
賢者に物言う者は必ずや罰が下り
マルシュアスのように生皮を剥がされたり
ミダスのようにロバ耳にされたり
そんな悲惨な目に遭うと・・・
それにしても戒めの域を超えた残虐さだが。(´д`;)ギャボ

だいたいにおいて演奏する人間(もしくは山羊男)は
何のためにそうして素晴らしい音を奏でるのか?

奏者自身も含めて
その演奏が必要だからで
なぜ必要なのかは癒しとなるからだ
愉しむのも愉しむコトによって最終的に得てるのは癒しなのだ

悲劇の誕生―ニーチェ全集〈2〉 (ちくま学芸文庫)

ところで上記のアポロンとマルシュアスの奏でる音の対比は
ニーチェの言うトコロのアポロン的、ディオニュソス的と置き換えるのは早計だが
プルタルコスの『モラリア【5】』に収録されてる「デルポイのEについて」に
素晴らしい見解の引用の記載がいくつかあり
それによって自分の想像が全く見当外れだと気がついた(滝汗)

エウリピデス

ステシコロス

ソポクレス

ところでジェフリー・チョーサーの『カンタベリー物語』の
「バースの女房の話」の中にこのロバ耳の王様のエピソードがあるが
チョーサーは王様の秘密を唯一知ってるのは床屋でなく奥さん(王妃)としてて
壺ではなく泉の水中に告白してしまうとしてるるる~

しかもこの挿話の続きはオウィディウスを参照するように促してて
こちらは通常通りに秘密を知ってるのは床屋で
掘った穴に秘密を漏らすとその穴を埋めた後に葦が生えてきて
その生えてきた葦が風にそよぎながら囁いて秘密をばらした、としてる

また【葦】なのかヽ(゚∀。)ノ

なかなか核心に辿り着けずにいるが
アポロンとディオニュソスは実はこのブログのテーマ(なはず)で
そこにこのブログのタイトルにある【葦】が複雑に絡み合ってるのを
解いているのかむしろより一層こんがらからせてるのか?!

実はギリシア語で【葦】とある場合には
植物以外に弦楽器の駒(ブリッジ)を指すのだそうだ
(我ながら後出しジャンケンみたいな話題の振り方だがw)
とか言いつつも自分は弦楽器には全くの素人なので
それは例えばギターだとどの部分なのか指差せっても無理っつ・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

でもググったらわかりやすい画像が見つかった♪
しかも(少年ダビデのハープ)とあり『旧約聖書』に登場するダビデ王の竪琴か?!
LINK:おもちゃのハープ♪
→記事中ほどに竪琴の部位名称及び解説の画像が(*^^*)

しかしながらダビデは紀元前1000年頃の人なので
このダビデのハープは洗練され過ぎてるのではなかろうか?

ヘルメス(メルクリウス)が拾った亀から竪琴を作った、てのは神話にしても
そういう神話が生まれたのは古代ギリシアでは竪琴と言えば
亀の甲羅製の弦楽器だったからなのでは?

よく知らナイで購入したCD『古代ギリシャの音楽』には
古代ギリシアの楽器を再現して演奏してて
ブックレットに写真が載ってた

phorminx:ポルミンクス(フォルミンクス)

lira:リラ(リュラ、もしくはリュレ)

ついでに名前からしてギターの原型となったぽいkithara:キタラ

アポロンやオルフェウスの持ってた竪琴は
後代の絵画や彫刻で見る装飾過多の華美なモノのはずがナイよな。(´д`;)ギャボ

アポロンの竪琴は牛泥棒の見返りにヘルメスから譲り受けてるので
間違いなくヘルメスが拾った亀から作ったモノのはずで
ややこしいコトにオルフェウスの竪琴も
父(とゆー説もある)アポロンより与えられてるらしい

つまり3つとも同じ竪琴なのだろうか・・・竪琴パラドックス。(゚д゚lll)ギャボ

さて
生まれたばかりのヘルメスが揺籃を抜け出して
亀を拾って中身を抉り出して竪琴を作り
アポロンの牛を盗んではシラをきり
バレても竪琴を与えてごまかし
人の゚+.(・∀・)゚+.゚イイアポロンから錫杖までもらう
そんな一部始終が岩波文庫抄訳版『四つのギリシャ神話―ホメーロス讃歌より』
「ヘルメースへの讃歌」にある
LINK:「ヘルメース讃歌」

この「ヘルメース讃歌」中の竪琴の作成手順の冒頭には
葦の茎を~、とあってあえて【葦】と訳してるくらいなので
ブリッジとして使われてるパーツのコトではナイらしいが
だとするとどの辺に使われてるのかも不明瞭だw

とにかくヘルメスは亀で竪琴を作る際に葦を使ってるるる~
更に通説では葦笛(シュリンクス)は牧神が作ったとされてるが
「ヘルメース讃歌」では葦笛もヘルメス作だとしてるるる~

まあいずれにせよ
葦はそうして楽器に事欠かナイ植物だったのだ、実は!

だからアポロンの竪琴と牧神マルシュアスの笛と
どちらが優れてるかなんて競い合いをしてアポロンが勝ったが
(そりゃあ音楽の神が負けたらマズイワケで)
所詮は葦を使って作られた原始的な楽器同士だったのだな

しかも牧神の笛はシュリンクスに相場が決まってると思ってたが
マルシュアスの笛はアウロス(もしくはアウルス)で
『ホメーロス讃歌』の「ヘルメース讃歌」でアポロンは
マルシュアスの吹くアウロスとヘルメスが吹くシュリンクスを比較して
シュリンクスの方が優れてる、とのたまってるのだった

アウロスはシュリンクスより先に存在してて
縦笛で2管笛でオーボエとかと同じくダブルリードだそうだ
画像の真ん中のがアウロスだろう
LINK:英語のWikipediaのAulos

シュリンクスの方は恐らく[葦舟と葦笛]にあげたラウネッダスに類似と思われ
3管笛でクラリネットと同様シングルリードだ
LINK:英語のWikipediaのLauneddas

ミダース王 (CenturyBooks―人と思想)

とか書いてはいても自分のように楽器に疎い人間には
詳細を辿るほどアウロスとシュリンクスの差異に実感が湧かナイのだが
牧神マルシュアスの吹くアウロスはアポロンの爪弾く竪琴に敗北し
それだけでは済まず木に吊るされて皮を剥がされてしまい
マルシュアスの方が勝者としたミダス王はロバの耳にされてしまう。・゚・(ノД`)・゚・。
このブログにはあえて掲載せずにおくが
「Marsyas」で画像検索すれば凄惨な場面が嫌になるほど出てくる(゚*゚;)

ところでこの牧神マルシュアスだが
マルシュアスてのは名前でその実体については
オウィディウスは牧神サテュロスとしてるが
ブルフィンチは牧神パーンとしてて
マルシュアスが仕える神も前者はバッカスで後者はディオニュソスだ

ギリシアではディオニュソスとパーン
ローマ(つまりラテン語)でバッカスとサテュロスで
ニーチェがディオニュソスと言うのは
ドイツ語がラテン語由来でナイからと勝手に思い込んでて
シンパの自分もニーチェに倣ってディオニュソスを使ってたが
改めて調べてみると各国語で混在してるのでどちらでも構わナイようだ

酒の神ディオニュソス(バッカス)に仕える牧神や巫女は
酒宴で神に音楽と舞踊を捧げるのだが
この様子をモチーフにしたバレエ(音楽)があり
バッカスから転じて仏語でBacchanales(バッカナール)だ(他国語も類似)
余談だがカフェのオーバカナルの店名の由来はこれだ♪





しばらく編み物の日記ばかりだったが
本を読んでなかったワケではナイ

まずは夏休みにとーちゃんから借りてきた本を一通り読んだ
LINK:LIST

これで今更ながら近代哲学の中で抜けてた部分を補ったのだが
読後には喉に小骨が刺さったままのような不快感が残り
それゆえ考察がまとまらずにいた

引っかかってたのはヨーロピアン特有の根源的な問題で
キリスト教の神の存在を無視しては話を進められず
むしろ黙認した上で話を進めなくてはならナイって部分だ

神、即ち【理性を欠いた絶対正義】を振りかざす人々に対しては
理性的に話を進めるほど認識がずれてくので
トルストイニーチェもそこで悶え苦しんだワケだが
根性無しのトルストイは帰依するしかなかったし
最期まで頑張ったニーチェは発狂するしかなかった。(゚д゚lll)ギャボ

それにしても【理性を欠いた絶対正義】に対して辻褄を合わせようと
躍起になって事実や真実の方を捻じ曲げてしまうってのは
自分のような理性的=科学的な思考回路の朴念仁には
どうしても理解不可能なのだが
そうして逆に深く知りたくなったのは
神の存在を鵜呑みにできる人間の精神構造だ

しかも無知蒙昧さゆえに鵜呑みにしてるのでなく
教養のある人間が理論的考察を重ねた上で
どうやって宗教概念を構築してくのか?
これを知らずしてキリスト教がどうのこうのと語るのは
詰めが甘過ぎるるる~

そうなのだ、詰めが甘いのだ、自分w
十字軍(聖地奪還遠征軍)とか騎士団(騎士修道会)とか
凄~~~く好きなくせに
実は参加者の心情を全く理解できてなかったりして(滝汗)

やっぱ最低でも
古代ではアウグスティヌス
中世ではトマス・アクィナス
この2人くらい押さえておかなきゃな

てなカンジで
アウグスティヌスの『告白』『アウグスティヌス講話』
トマス・アクィナスは講談社学術文庫の『トマス・アクィナス』
購入して早速読み始めた

読んでみて痛感したのは自分と全く同じ心情だってコトだ
つまり「この世界を正しく認識したい」のであって
ただその前提に「世界は神の創りたもうたモノ」てのが
あるかナイかだけが違うのだ

あともう1つの決定的な違いは万事の捉え方で
彼らは真剣や真摯を通り越して深刻(シリアス)なのだが
常に上から【理性を欠いた絶対正義】に裁かれてる
そんな受身感覚が齎すのだろう

しかし自分は【自分の考える正義】が掟となるので
その都度真剣に捉えて熟考して判断を下し
それに従って行動するようにしてる
だから自信はなくとも責任を回避するワケにもいかず
判断も行動も能動的にならざるを得ナイ

そしてどちらのタイプの人間も同じなのは
それぞれの【正義】に対して
同調しつつも逆らった行動をとってしまいがちな部分だ
簡単に言えば悪(魔)の誘惑に弱い!

宗教概念の有るのと無いのでは真逆かもしれナイが
【正義】を実践できる人間同士だったら
ある意味気持ちは通じ合えるのではナイだろうか?

そんな疑問を抱いた時にちょうど゚+.(・∀・)゚+.゚イイ本が!
『これからの「正義」の話をしよう―いまを生き延びるための哲学』

ちなみにマイケル・サンデルの主張する【正義】は
【社会理念に基づいた正義】だと思うので
社会生活を余儀なくされてる人間としては従うべきかもだが
社会に従属しなくて済むなら必ずしも正しくはナイ
まあ実際誰もが社会に従属してるのだが。(´д`;)ギャボ

ところでマイケル・サンデルの著書は
さすがベストセラーだけあっておもしろさは抜群だったね
専門の哲学より心理学に長けてて
人の気持ちを捉える(興味をそそる)のが上手いと思ったよ

でも感心しただけで感動はなかった
気持ちを捉えられても心の琴線には響かなかった
よほど美しさに感じ入らナイと震えるコトがナイ
そういう琴線の持ち主なのだ、きっと愚鈍なのだ、自分www

そして副題に「いまを生き延びるための哲学」とあるが
哲学は生き延びるためにあるのではなく
美しく生きるためにあるのだと思ってたのだヽ(゚∀。)ノ

つまり現代社会は美しく生きられナイようにできてるのだな
美しく生きたらのたれ死ぬしかナイのか・・・?!

bibliotheke

本棚に居並ぶ本の中で純然たる【ギリシア神話】の総括的な系譜と言えば
その古さからもヘシオドスの『神統記』なのだろうが
これだと本トに系譜のみで【ギリシア神話】の醍醐味である挿話はナイ

だからこそここに現れる系統図の正しさは絶対とは言わナイまでも
由緒正しさでは他の追従を許さナイのだが
このヘシオドスに次ぐ、あるいはヘシオドスを継ぐ正統派となると
これがずっと時代を下ってローマ時代のアポロドーロスになってしまうのだ

もしかしたら現物が残存してナイばかりか実在した記録としても残ってナイだけで
ヘシオドス~アポロドーロスの間にも
【ギリシア神話】の集大成書は存在してたのかもしれナイが
とりあえず手元にあるモノの中で信憑性があるのはこの2冊に尽きるのだった

おおよそどの民族にも神や英雄の挿話があり
古代世界では稀に粘土板に文字で刻まれてたりもするが
たいてい口承文学として語り継がれてきてて
古代ギリシアではこれを吟遊詩人が叙事詩として歌い継いできて
紀元前8世紀頃にホメロスによって完成された『イリアス』と『オデュッセイア』も
文書化はホメロス死後の紀元前6世紀頃と推定されてるるる~

その後【ギリシア神話】の一部を主題にして
これを演出して実際に演じた【ギリシア悲劇】が数多登場したが
【ギリシア神話】の挿話を系統立てて纏めたようなモノは特に作成されてなかった

古代ギリシアでは【ギリシア神話】は人口に膾炙してたから
きっと江戸っ子が古典落語を殆ど総て知ってたのと同じく
古代ギリシア人もその挿話の総てを系統立てて記憶に留めてたのだと思われ

だから【ギリシア神話】の手引きとなるような挿話集が改めて編纂されたのは
ローマ期において作成されたのだとした方が納得が行く
ギリシアを征服したローマだったが
ローマ人はギリシア人の優れた文化を蔑ろにせず手本にしてて
その理解のためには【ギリシア神話】の知識が不可欠だったのだ!
なんせギリシア人は出自がどの神や英雄に由来してるのかが
冗談が過ぎるくらい明確にあったほどだからね(゚*゚;)

ギリシア神話 (岩波文庫)

そうしてギリシア語の文献に明るかったアポロドーロスが
系譜に重きを置いて遍く編纂したのがこのアポロドーロスの『ギリシア神話』・・・
原題『Bibliotheke(ビブリオテーケー)』なのでは?

ギリシア神話 (少年少女世界文学館 1)

そんな過程を考察してみれば
「延々と続く本筋とは関係なさそうな人物の系譜」や
「頭数を合わせるだけのための名前のみの登場」が
むやみやたらと出てきてまともに読むとうんざりするコト必至なのも合点が行くw

ところがこの正統派の【ギリシア神話】をバックボーンにして
オウィディウスの『変身物語』やウェルギリウスの『アエネーイス』といった
庶民にも受け入れやすい娯楽性に富んだラテン文学が開花するのだ

こうしていつの間にか改訂された【ギリシア・ローマ神話】が
西欧に根付いて美術の主題になり文学の土壌になり知識人の常識となったワケだが
ラテン文学の隆盛以降は娯楽性を追及し過ぎてこじつけてる部分も多く
より信憑性を求めるとアポロドーロスなのだ!
なので何かを調べるためにはまず紐解くコトにしてる!!

まあでもそもそも【神話】に信憑性を求めるのはどうかしてるな(-_-;)

実際にあった出来事も多少は含まれたかもしれナイが
荒唐無稽なエピソードならもれなく虚構であるコトを疑う余地がナイし
総じて【ギリシア・ローマ神話】が史実かどうか、と真剣に聞かれたら
寓話だ、と真顔で胸を張って答えられるp(-_-+)q

科学的に検証しようとするのに無理があるのは重々承知してる!
しかしそう割り切りつつも考察を重ねずにはいられナイのは
そこで編み出したい結論があるからなのだ!!

もちろん【神話】に希求するのは真実ではなくて
(でもたまたま偶然事実を突き止めてたりするかも?!)
自分の思想や嗜好の「新たな方向付け」と「根付いてる部分への共感」で
要するに自分の存在意義を見出してるのだが
いや、そこまでイッちゃダメだ・・・まるでニーチェじゃナイか。(´д`;)ギャボ

確かにアポロンやディオニュソスの項では
ニーチェと共感(反駁)したくて無駄に思索を巡らすコトもあるかなヽ(゚∀。)ノ