コンテンツへスキップ

毎年11/3の文化の日を挟んで2週間が読書週間だが
常日頃、隙を見ては本を読んでるような人間にとっては
むしろ意識しづらいイベントだったりする

それでも今年は3連休で呑みの予定もナイので
そこは引き籠って非日常的な読書をしようと思い立った

サテリコン [DVD]サテュリコン―古代ローマの諷刺小説 (岩波文庫)

例えば、葡萄酒と乾酪を用意して
フェリーニの『サテリコン』を観ながら(繰り返しかけながら)
ペトロニウスの『サテュリコン』を通して読むとかね♪

とはいえ、連休前後は日常生活を全うしなければなので
その間には普段だったら読まナイような本を読もうかと・・・
もちろん読む意義のナイモノを読みはしナイワケで
過去に必要性を感じて読み始めたのに途中で放棄してしまった本
換言すれば、読む意義に到達できナイままになってる本を
改めて読み直そうとゆーワケであるるる~

D・H・ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』
ギョーム・アポリネールの『一万一千本の鞭』
『青髯ジル・ド・レー―悪魔になったジャンヌ・ダルクの盟友』

自分、近代の官能小説(伝記)が苦手なのだろうか。(´д`;)ギャボ

チャタレイ夫人の恋人 (新潮文庫)

確かに、ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人(無修正版)』は
男女の性描写が吐き気を催すほどキツかったのでやめたのだがね
そしてアポリネールの『一万一千本の鞭』も『青髯ジル・ド・レー』も
凄惨な場面の連続で悪夢に魘され続けて断念したのだが
マルキ・ド・サドの著作なら読めるのはなぜだろうか。(゚д゚lll)ギャボ

とりあえず再読してみるコトにして
既に電子書籍で購入してあった『一万一千本の鞭』から読み始めた

☆・・・☆・・・☆

それにしても今更『一万一千本の鞭』なのは
アポリネールの『若きドン・ジュアンの冒険』を読んで
こっちは何も問題なく最後まで読了できたからで
むしろ表現にツボな部分が多く、愉しく読み進めたし
余りにも清々しい終わり方には感動さえした

若きドン・ジュアンの手柄ばなし (河出文庫)
BookLive!の電子書籍版(グーテンベルク21)では『若きドン・ジュアンの冒険』となってた

そもそも『若きドン・ジュアンの冒険』を読むきっかけは
ジョージ・バーナード・ショーの『人と超人』で
これでドン・ジュアン(ドン・ファン)について再考したくなって
モリエールの『ドン・ジュアン』を読み返したりしてた際に
BookLive!で検索に引っかかったのだった

アポリネールの描くドン・ジュアンの人物像は
『一万一千本の鞭』から想像するだに恐ろしかったが
ググってみるとドン・ジュアン当人の物語でなく
映画化されたモノが日本でも『蒼い衝動』として公開されてた

『蒼い衝動』なら深夜映画で観た記憶があった
うろ覚えだが少年が家庭教師と初体験、みたいなカンジで
その原作だったら読めナイレベルではなくね?

ドン・ジュアン (岩波文庫)

怖いもの見たさも手伝って電子書籍を購入して読んでみたら
先述の通り、フツーに、いや、愉快に読めたし
モリエールの軽妙な『ドン・ジュアン』と比しても
ラストは断然こっちがよかった!
(尤もモリエールの時代には当局が検閲にうるさかったので
ましてや脚本ともなると上映禁止にされるのは不味いからってコトで
あの終わり方しかやりようがなかったのかもだがね)

とにかく俄然『一万一千本の鞭』の結末が知りたくなった!!

☆・・・☆・・・☆

最初から最後まで3日かけて読了した感想は
頑張って読んだ甲斐はあった・・・バタリ ゙〓■●゙

1万1千の鞭 (河出文庫)
BookLive!の電子書籍版(角川文庫)では『一万一千本の鞭』と「本」が入ってた

とにかく主人公のプリンス・モニイ・ヴィベスクが
あらん限りの在り得ナイ非道を尽くすのだが
汚なさの点では食欲も性欲も喪失するレベルに不潔極まりなく
潔癖症の人間に読ませたら憤死するコト間違いナシ(-_-;)
残虐さの方はさすがに読み飛ばさずにはいられナイシーンもあったが
ずっと許容範囲を超えた状態だと憐憫の情も尽きてくるし
想像しナイように思考を止めてしまうスイッチも入るようになり
機械的に文面を追ってやり過ごしてしまえたヽ(゚∀。)ノ

途中から日露戦争の戦場に舞台が移動すると
戦地に娼館があって、そこにいる日本人の娼婦が境遇を語るのだが
アポリネールはまるで日本の文化に造詣が深そうに
色々織り交ぜてきて、結果的にちぐはぐになってて可笑しいし
日本軍の捕虜となったプリンス・モニイ・ヴィベスクが
処刑を言い渡されて惨殺されるラスト・シーンは
こう言っちゃあ何だがやはり清々しかった・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

一切の虚飾を剥ぎ取って、恥辱の限りを与え
息の根を止めるに飽き足らず、血肉まで削ぎ落として

さあ、この骨も露わな肉塊が人間の正体だ!
どうだ、皆いずれこうなる!!

う~む、実に清々しいヽ(´▽`)/
タイトルの謎も解けて読後は爽やかな気分にさえなったが
誤解のナイように付け加えれば、決して人間の尊厳を蔑にしてるワケではナイ
断じて・・・(-人-;)

ポーランドの作家シェンキェヴィチが
古代ローマ世界を克明に綴った歴史小説『クオ・ワディス』では
実在した登場人物の中でもとりわけ皇帝ネロと側近のペトロニウスについて
仔細に渡って活き活きと描かれてるので
どこまでが創作なのか、その典拠を確認してみたくなった

児童版『クォ・バディス』の巻末の「解説」には次のようにあった

スエトニウスという歴史家が書いたローマ時代の本を参考にして、1896年、この世界的な傑作、「クォ・バディス」を書きあげたのでした

しかし『ローマ皇帝伝(下)』にはネロについては詳述されてるものの
ペトロニウスの名は実際1度も出てこナイ・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

自分の知る限りではタキトゥスの『年代記(下)』において
3ページ弱で綴られてるのみが人物像の全貌だ

1.昼日なか眠って、夜を享楽に生きた
2.無精、無頓着だったが、それが天真爛漫と見受けられた
3.激務も全うした精力家だったが、背徳者を装いネロを誑かした

1.昼日なか眠って、夜を享楽に生きた

Up all night, sleep all day, that's right♪

欲望のターゲット

Slaughterの曲にはまさにそんなペトロニウス節があったなw
これは簡潔に表現すれば「不良」だったってコトだが
社会的地位が高くして「不良」てのは潔くて゚+.(・∀・)゚+.゚イイね
ネロなんかは皇帝にしてアナーキストだからカッコ゚+.(・∀・)゚+.゚イイのだ

なんせいくらローマが退廃してたとはいえ
当時のローマ市民の日常生活は現代人には考えが及ばナイ健全さで
日の出と共に起きて、陽が沈んだら寝るしかなかった

当たり前ながら夜は真っ暗なのだよ
電気がなければ蝋燭の灯りだけが頼りなので
そんな時代に夜を愉しむのだから
灯りの設備に無駄に金をかけてた=贅を尽くしてたのだ

尤もペトロニウス自身も不道徳な金持ちだったが
ペトロニウスが自腹を切るようなコトは稀だっただろう
ほとんどの遊行費は、その不道徳の限りを一身に享受するネロが
国庫から無尽蔵に浪費してたと思われ

だいたい、金銭的ヨユーがあるからこそ
一切の道徳観念を無視して愉しみに耽溺できるワケだがね
そしてかつてのネロを指導した哲学者セネカこそが
実は破格の金持ちだったりするるる~

2.無精、無頓着だったが、それが天真爛漫と見受けられた

これこそがペトロニウスの真価だろう
無精とか無頓着とかは鵜呑みにすると全く的を得なくなるが
ペトロニウスの場合は何に対してもそうだったのでなく
興味の範疇以外がそうだったのだよ
そしてそのコトが天真爛漫と見受けられたのは嫣然としてたからだろう
嫣然、ってのは通常は美女の微笑を表現するのに使う言葉だが
ペトロニウスくらいの粋人(すいじん)には似つかわしい

粋人の意味を説明するほど無粋なコトもナイが
読んで字の如く粋な人で単なるインテリでなく遊び心がある人だ
教養があってもそれを万人にひけらかすコトなく
わかる相手にだけ仄めかし、わかった同士だけが納得するのだ♪

その点セネカはペトロニウスよりは生真面目だったから
ネロの放縦を横目に見過ごしつつも内心は気を揉んでただろうが
そんなセネカに対してもペトロニウスは臆するコトなく
嫣然とやり過ごしてたのを傍から見れば
なるほど、天真爛漫に映っただろう

年代記〈下〉ティベリウス帝からネロ帝へ (岩波文庫)

3.激務も全うした精力家だったが、背徳者を装いネロを誑かした

タキトゥスはペトロニウスを「贅沢の通人」と表現したが
資産を食い潰してる文字通りの大食漢や
無目的に放蕩に身を任せてるだけの能無しとは違って
世間から反感を買うようなコトはなかった、と言及した上で
ペトロニウスのそれまでの職歴を示し
出世街道を着実に歩んできてるのをその証拠としてる

つまりタキトゥスに言わせればペトロニウスは
「不良」のように振舞っても、本来は役職に就いてた人間なので
背徳者を装って、ネロを誑かそうとしてたに違いナイ、となるが
タキトゥスは【趣味の判定者】の意義がわかるほど
歓楽的に生きてなかっただろうし、洒落を解せなかったかもだ

ペトロニウスの教養は単なるインテリ趣味に非ず
完璧に洒落のめしてて、素地があるくらいではついてけなくて
ネロはある程度まではわかったので夢中になったのだ!
お追従にうんざりしてたであろうネロには
多少辛辣でも刺激的な方が新鮮で愉しめたのだな

基本的にはイベントは金をかければより一層おもしろくなる
どんなつまらナイ企画でも金をかけられるだけかけたら
たちどころに愉快になるのは間違いナイのは
現代においても変わらナイ事実であって
金を湯水のように使いながらバカ騒ぎする、なんてのは
誰もが1度は試みたい、とは思う

ところがそんな誰もが夢見るイベントも
毎晩やってると日に日に面白みは減退してくのだ
日々イベントをやり続けるには実際、金の力より企画力で
ペトロニウスの企画はネロさえ飽きなければそれで゚+.(・∀・)゚+.゚イイ
そうしてペトロニウスはネロの魂に火を点けたのだ!!

ネロの本質的な趣向を見抜いて
見合ったイベントを次々と計画し、催し
自身も愉しんでた、それがペトロニウスの実態なのでは?!

悪評の尽きナイローマ皇帝ネロだが
自分はどうも人としての興味が尽きナイw

ネロは若い皇帝らしい傍若無人さを発揮してて好感が持てるが
皇帝になる前からネロの師傅(しふ)だったセネカと
趣味の判定者としてネロの側近になったペトロニウスが
彼らの著作を読めばわかるがネロ以上に奇人変人で魅力的だ

ストア派哲学者として現代に至るまで名の知れたセネカも
自然現象についての考察をまとめてるかと思えば
ギリシア悲劇風の戯曲を書いてたりしてて
しかもこれらがヲタ全開なのも非常に興味深いが
哲学書にしても深読みすればなかなか人間臭くて小気味良いのだ

ペトロニウスの小説『サテュリコン』はもっとわかりやすくて
ラテン文学における悪徳の金字塔、とでも言おうか

『サテュリコン』は酒池肉林享楽放縦悪徳残忍・・・etc.
ローマの退廃の限りを尽くした描写が絵にも描けナイおぞましさで
フェリーニによって映画化(※)されてるが
さすがの自分も冷や汗が出るような変質者のオンパレードで
まともな人間が観たら夢見が悪くなるコト必至だ
映画の邦題は『サテリコン』

シェンキェヴィチの歴史小説『クオ・ワディス』には
ペトロニウスが『サテュリコン』を
甥のウィニキウスに買い与える場面があり
作者が誰なのかはネロにはバレてナイ、とゆー設定なのも面白い

悪徳の宝庫のような「トリマルキオの饗宴」なる宴の
主催者トリマルキオのモデルがネロなのは火を見るより明らか(※)だが
このモデルの起用はまともな人間ならば憤慨するだろうし
当然ながら皇帝である者には侮辱ともとれるだろう
ペトロニウスがネロを槍玉に挙げた、とはネロにはバレてナイ、としてるのだ
ネロもペトロニウスも何もコメントを(残)してナイので史実としては謎ではある

自分の見解では、モデルはネロで、自身もそうと知ってて
内心では不満に思いつつも面白がってるフリをしてたのでは?

酷過ぎると思う部分にネロはぶるぶる震えながらも
洒落だ=面白がれ、とペトロニウスがすまして示唆すれば
恰好つけて無理して洒落のめしてたりしてw
そんなネロの様子をペトロニウスは内心では嘲笑ってたりしてwww

ネロ、カワ゚+.(・∀・)゚+.゚イイよ、ネロ~!!

皇帝としてどうかではなく
アーティスティックかつエキセントリックな若者として見た時
どうしても嫌いにはなれナイのだが!

粋人(すいじん)だったペトロニウスからしても
頭の硬い年寄りの政治家や血気盛んで無教養な軍人の中で
下衆な噂話か、無味乾燥とした政策論か、血生臭いだけの武勲・・・
そんな聞きたくもナイ話ばかり聞かされて
瑞々しい感性をすっかり干からびさせてたネロが
孤独に耐えるいたいけな少年に見えたに違いナイと思うのだ

そしてついかまいたくなったってくらいの出来心だったのだろうが
ペトロニウスのめくるめく快楽への誘いは
若く多感なネロにとってどれほど魅惑的に感じられたコトか

それまで皇帝としてのネロが発揮できずにいたモノを
ペトロニウスがけしかけて解放してしまったのだ
うむ、それだけのコトだと思われ

国費を散財してる時点で既に不道徳の極みゆえ
その金で何をして遊ぼうがいずれ真っ当とは言及しようもナイが
やってるコトが自著『サテュリコン』の如き世界観を反映してたなら
それはもう筆舌に尽くし難い悪徳に違いなく
その現場はきっとフツーの人間なら卒倒しかねナイし
生真面目なストア哲学者なら憤死しそうだ!

セネカは憤死はしなかったが一緒に愉しめなかったぽい
剣闘士の試合を非難したりしてるし

食べるために吐き、吐くために食べているのだ

この有名な嘆きもセネカの言だ

ローマはなぜ滅んだか (講談社現代新書)

そしてセネカは弓削達著の『ローマはなぜ滅んだか』によれば
ローマ帝国に長者番付があれば常連として名を連ねてたに違いなく
具体的にはその財産が3億セステルティウスほどだったそうだ
概算で40万セステルティウスが1億円ほどに当たるから
どれほど金持ちだったのだ・・・バタリ゙〓■●゙

そんなセネカは財産に対してこんな言い訳をしてる

財産は、賢者にあっては奴隷の地位にあるが、愚者にあっては支配者の地位にある

ストア派なら財産を持ってても悪徳には染まらナイって?!
まあそういう言い訳がましいトコロも含めてセネカは好きだがね

その点、ペトロニウス自身は案外シニカルに愉しんでたのでは?
エピキュリアン(快楽主義者)でなくシニック(犬儒派)!

しかしネロがペトロニウスに感化されるのは至極当然の成り行きだな♪
とか、ほくそえむ自分は不道徳な人間だろうかね

完訳を最初から読んでたら平静に読み進めるだろうが
読み慣れた児童版に隠されてた秘め事が露見すると思いつつ読むと
無駄にどぎまぎしてしまう

【禁忌】を破る、ってのは妙な興奮があるからなw
表現自体はたいしたコトなくてもパンドラのときめきはあるるる~

幼少の砌、偕成社の世界少女文学全集を愛読してて
その中にシェンキェヴィチの『クォ・バディス』があったが
完訳版『クオ・ワディス』を読んだのは四十路を過ぎてからだった

クオ・ワディス〈下〉 (岩波文庫)

通常だと削除(省略)されてるのは暴力とかセックスとかの描写で
子供の教育上よくナイ=子供がそれを真似たら困る、からだ
しかし児童版『クォ・バディス』で削除されてた部分は
ハリウッド映画『クォ・ヴァディス』でも意図的に省かれてたのだ!

例えば、この物語の背景であるネロの頃のローマ帝国と周辺の
主要都市やそこに実在した人物についての噂話など
譬え話や洒落に悉く引用されてるのだが
無垢な子供には意味がわからナイだろう、とか
教養や経験値がなければ面白みを感じられナイだろう、とか
そんな危惧のために省かれた描写であり
物語の筋には直接関係ナイワリに註釈が冗長になり過ぎるきらいがあるせいか
そのほとんどがスルーだったのだ・・・バタリ ゙〓■●゙

ギリシア・ローマ古典 (知のカタログ)

It's Greek to me !(※)
それって、自分にとって、ギリシア語だわ!
(つまり、それって意味わかんねえよ、ってコトだw)

英語を母国語とする民族にそんな慣用句があるくらいに
無教養な一般大衆からすれば
古代ギリシア(ローマ)の古典はちんぷんかんぷんなのだヽ(゚∀。)ノ
原題が『It's Greek To Me !』とゆーマイケル・マクローンの著書には
古代ギリシア・ローマの古典由来の慣用句の解釈が簡潔に数ページで綴られてる

まだ無分別な子供以上に
一生教養を身につける気なぞナイアメリカ人には
古代ギリシア・ローマのインテリジェンスをバックボーンにした洒落が
通じるワケもなく・・・そりゃあ省くよな。(´д`;)ギャボ

自分からしたらその無教養さからゴーインに展開する
アメリカン・ジョークの方が理解不可能だがな。(゚д゚lll)ギャボ

とゆーのも笑いのツボが違うのだよ
疑似体験も含めて知ってると「なるほど」と思い巡らせて
当て嵌まるエピソードが脳裏に浮かぶとほくそえんでしまうのだが
無垢な子供は奇を衒ってるだけでおかしくて笑うし
むしろ意味があってもわからなければ笑えナイ

そう考えると真に享楽的な人間は
勤勉で教養があり、人生経験豊富で
とりわけ失敗談に尽きナイのが望ましいかもしれナイ

言うほど教養はナイがヲタな自分にとっては【It's Greek to me !】こそが読書の愉しみだが
ペトロニウスが登場してる場面ではこれが凄まじいほどで
さすが趣味の審判者(アルビテル・エレガンティアルム)たるサマに
うっとりするやら、失笑するやら・・・

ペトロニウスは身分的には貴族で地位は執政官ではあったが
ネロに重用されてたのは政治的な立場においてではナイ
あくまでも芸術的趣味が世間から持て囃されてたのを気に入られたのだが
ネロとペトロニウスの趣味趣向が具体的にどうだったのか
その最も知りたかったコトが仔細に綴られてて
シェンキェヴィチも相当なヲタだと改めて感服した次第

特にペトロニウスの容貌についても
まだ1段落目の終わりくらいで決定的に胸熱な表現が出てくる

《神のごとき》アレクサンドロスがあなたに似ていたとすれば――ヘレネがああなったのも不思議はありませんね

アレクサンドロスキタ━━━━━(゚∀゚)━━━━━ !

この場合のアレクサンドロスとはトロイの王子パリスで
葡萄の房の巻き毛を持つ美麗な王子だ

しかもこれはペトロニウスの姉の息子であるウィニキウスの台詞だが
ウィニキウスこそがこの物語の主役の美青年なのに
ペトロニウスの美貌についてお世辞抜きで言ってるワケで
参考画像はアルフォンス・ミュシャの描いたペトロニウス(左)だ
美しい巻き毛もアレクサンドロス・パリスらしい

《神のごとき》とはもちろんその美貌が人並み外れてるからだが
趣味の審判者と呼ばれる美意識の高い人間が
自らもやはりその美意識に適ってるのだp(-_-+)q

児童版や映画ではいかんせんここの詰めが甘かったので
自分はペトロニウスを侮ってたよ(;つД`)
今や完璧な敗北感を味わってるるる~
但しとても気分が゚+.(・∀・)゚+.゚イイ負けだがな♪

児童版の人物紹介のペトロニウスの項を読み返してみると・・・

ローマでもっともすぐれた貴族。その賢さのために皇帝ネロの信頼が厚い。ネロの詩の先生であり、また辛辣な批評家でもある。(後略)

訳者である野田開作の苦心を考えると申し訳ナイが笑ってしまう!
「すぐれた貴族」て、表現自体が不可思議だが
「賢さのために~信頼が厚い」も「ネロの詩の先生」も実体は違う
まあペトロニウスの奥深い人物像を
人生経験も浅い子供にわかるように解説するコト自体が不可能だろうて

キリスト教徒はかつて信者が罰せられた遺恨から
ネロを目の敵にして悪の権化に仕立て上げようと躍起だが
ポーランド独立運動に従事したシェンキェヴィチは
そういうキリスト者の一般論を利用して
『クォ・ヴァディス』でネロを圧政者として描いてるのだろう

それにしたってキリスト教信者が胡散臭いほど清廉潔白で
ネロがローマの大火の真犯人だと脚色するのはやり過ぎだと思うが
それ以上にアーティスト、あるいはエンターテイナーとしても
ネロを侮り過ぎてる気がするのは自分も侮ってたからだ

年代記〈下〉ティベリウス帝からネロ帝へ (岩波文庫)ローマ皇帝伝 下 (岩波文庫 青 440-2)

死に至るその時に『イリアス』の一行が口をついて出たと
タキトゥスの『年代記』にもスエトニウスの『ローマ皇帝伝』にもあるし
実はネロは教養があり、感性も豊かだったのではなかろうか?

まずネロがギリシア通であったコトは疑いの余地がナイ
叙事詩や悲喜劇などを諳んじてたし
遂には自作の詩に合わせて竪琴を奏でてたくらいだ

しかしそういうコトは皇帝の趣味として相応しくなかった
かのアレクサンドロス大王もまだ王子であった時
竪琴を上手に奏でて父王ピリッポスに怒られたそうだ。(゚д゚lll)ギャボ
楽器を意のままに奏でるのも武術に秀でるのも、訓練の賜物だが

そこでアレクサンドロスが訓練すべきは竪琴であるはずがなかろう?!

とそういう意味で怒られたのだ

若くして皇帝となったネロとて、謡いながら竪琴を爪弾くのは
皇帝らしからぬ、と周囲に禁じられてたかもしれナイ
ところがペトロニウスが高尚な趣味としてネロに指南したりして
周囲も認めざるを得なくなってしまったとか?
しかもネロは調子に乗ってネロ祭なんて始めてしまったとw

とはいえ、ペトロニウスはタキトゥスが言うほどに
ネロを誑かすつもりも、そのために背徳者を装うつもりもなかっただろう
周囲からはペトロニウスがネロを手懐けてるように見えたかもだが
ペトロニウスはネロの若さと生来の感性からくるほとばしりを
自身も一緒に愉しみながら解放しただけに過ぎナイ
恐らく2人は無教養な人間をこきおろしてたに違いナイ

ペトロニウスはタキトゥスの『年代記』によれば

贅沢の通人として世に聞えていた

とあり、この一文からでもペトロニウスが時代の寵児であるコトが伺えるが
一種スター的存在には誰もが憧れを抱かずにはいられナイので
絶対君主であるはずの皇帝にとっても憧憬の対象であったはずだ

ネロは降って湧いたように皇帝の地位に就いてはいたが
それ以上に自身では芸術家として認められたい気持ちがあって
創作した詩や竪琴の演奏についての芸術性を
ペトロニウスに認めてもらえたらそれは嬉しかったのだ!

しかもそこでペトロニウスはお追従で濁さなかったのが
むしろネロの絶対的な信頼を得たのだろう
そして辛辣に批判されれば萎れ、よきアドヴァイスは素直に受け入れ
褒められれば天にも昇る心持ちになっただろう!!
とか、想像するだにネロがいじらしくてたまらなくなるるる~

ローマの哲人 セネカの言葉

そもそもネロがギリシア通になったのは
ネロの師セネカによるトコロが大きいと思われるのだが
史実としてセネカは自身が哲学者でありながら
ネロに対しては哲学を指南してナイ

セネカは一応ストア派哲学者としての彼が1番名が通ってるが
科学書も著せば戯曲も書いてる多才な著述家で
ネロの時代のローマでは最も学識の高い人物だったので
ローマ人が目指すギリシア的な教養をネロに授けたのだろう

残存するセネカの書簡には生活に即した先人の言葉で
相手にとって最も有効な回答を学派に拘らずに引用してたりするが
セネカのやり方は実践しながら学び取らせる人生哲学なので
ネロに対してもストア派たるように仕込むコトはしなかっただろう

そういう押し付けがましさはセネカのやり方に反してるし
加えて芸術家気質で詩を諳んじたり竪琴を奏でたりするコトにこそ
ネロの感性が迸ってるのを理解してたのかもしれナイ

裏を返せば、セネカはエキセントリックなネロを目にするにつけ
哲学を受け入れる資質にはネロはおよそ恵まれてナイ
と誰よりも感じてたかもしれナイ

それでも17歳にして戴冠したネロはたぶん
セネカが予想してた以上に立派に皇帝らしく振舞って見えた

ネロの天性の才で自覚もしてるが要はエンターテイナーなのだな
いつも役者のように芝居がかってたワケだが
皇帝を演じるのもなかなか堂に入った役者ぶりだったのだ

映画『クォ・ヴァディス』でのセネカは控えめな役ドコロだが
ペトロニウスの自殺に際した最期の晩餐の場面が印象的だ
とゆーのも、セネカもネロに命じられて自殺してるのだからね
映画にはそのシーンはナイからこそ見るに忍びナイ

とにかくキリスト教信者は「迫害された」とゆー史実に対して
狂信的な思い込みからひたすらネロを忌み嫌うが
新興宗教の流行が政府にとって頭痛の種なのはネロに限った話ではナイ
それどころか現代社会にしても変わらナイ事実なのだ
残酷さで言えば中世に教会が行った異端審問の方が酷いかと・・・

偕成社の世界少女文学全集の『クォ・バディス』を
初めて読んだのは小学生の時だったが
30年近く経ってこの本と古本屋で再会したのをきっかけに
映画で『クォ・ヴァディス』を観たのは2006年5月

クォ・ヴァディス [Blu-ray]

『クォ・バディス』から引用すれば主役のビニキウス(ヴィニシウス)は

たくましいからだとととのった目鼻だちとをそなえたビニキウスは、いかにもローマの青年貴族らしく、きびきびしていた

遠く北ペルシアの戦いにおもむき、大いに手柄をたてて凱旋した

などとあるので、原作ではヴィニシウスは
凛々しいラテン系美青年で、軍隊での出世を夢見る若者で
未婚であるコトから、恐らく20歳そこそこの設定だと思われたので
ロバート・テイラーの起用には困惑したのだが
それは単純に実年齢が倍の四十路(※)だったってだけではナイ
1951年作のこの映画出演時には1911年生まれのロバート・テイラーは40歳

趣味の権威者である叔父のペトロニウスが
彫刻家がヘラクレス像のモデルにしたがるような、と形容してるので
ヴィニシウスはヘラクレスを彷彿とさせる青年貴族で
確かに、ロバート・テイラーもヘラクレスレベルの容貌ではあるが
顔に瑞々しさがナイのが致命的に役に合ってなかったのだ。(゚д゚lll)ギャボ

なんせ惚れた女に洗脳されて、改心してキリスト教徒になり
持ち前の正義感を発揮して、仲間の救出に尽力するようになるのだが
結果、叔父ペトロニウスを裏切り、皇帝ネロに反目する

簡潔に表現すれば青二才なのだが
ローバート・テイラーではとてもそうは見えん。(´д`;)ギャボ
女のために信念を曲げるなんて以ての外だろうし
そもそも胡散臭い新興宗教にかぶれてるような女は相手にしナイだろうw

それに加えて、往年の超A級ハンサム俳優だったのが鼻についた
てか、推測するに年を追う毎に人気が低迷してきたので
起死回生を懸けて身体を鍛え上げてアクションスターへ転向(を計った第1作目)
らしい意気込みが見て取れてしまうのが痛かった

とはいえ、顔が引き締まってもまだ甘さを兼ね備えてて
その辺りがこの人の最大の武器なんだろうが
どんなに荒々しく傍若無人に振舞ってもいかんせん甘いのだ!
そこに頑なな聖少女さえもつい心を許してしまうのはわかるるる~!!

こうしてヴィニシウスの年齢設定があがったせいで
相手役の年齢設定もあがったのだろう
『クォ・バディス』にはアウルス将軍の息子とボール遊びをして
頬を紅潮させてるリギア(リジア)の挿絵があったので
せいぜい16~17歳と推定してたが演じてたデボラ・カーは当時30歳ヽ(゚∀。)ノ

尤もその神々しいまでの美貌で年齢を超越してたし
リジアを本トに10代の少女が演じてたら
ヴィニシウスとのロマンスに無理があるだろう

緑園の天使 [DVD]

また『クォ・バディス』によればリジアの容貌は

黒いふさふさした髪を持ち

夢の楽園の天使のよう

などとあるので、『緑園の天使』でのエリザベス・テーラー(※)を思い浮かばせてて
ブロンドのゴージャス美人のリジアには面食らったのだが
所詮ヴィニシウスとリジアは架空の人物だから
ハリウッド風だとこれで゚+.(・∀・)゚+.゚イイのかもな
映画『クォ・ヴァディス』を検索してたら、リジアに扮してるリズの写真を発見!
う~ん、『緑園の天使』の頃ならよかったけど、この頃はもう色っぽ過ぎてリジアにはミス・キャストだ

デボラ・カーはこの後『ジュリアス・シーザー』にも出てて
ブルートゥスの妻を演じてて圧倒的な美しさを誇ってる
『黒水仙』での尼僧姿も、『キング・ソロモン』での探検家スタイル(?)でも
その美麗さには遜色がなく、むしろ装飾を取り払ってしまってこそ
この人はますます光り輝いて見える本物の美女だが
『クォ・ヴァディス』ではキリスト教の敬虔な信者で不遇な身上(※)ゆえに
その美しさには泥沼に咲く蓮のような清らかさが満ちてる
リジア国(もしくは民族)の王(あるいは長)の娘で戦争孤児

また、バレエをやってた人特有の無駄な脂肪がナイ肢体を
三十路過ぎても保ってて、特に二の腕は賞賛に値する・・・ホゥ(*-∀-)

主役にロバート・テイラー、相手役にデボラ・カー
このキャスティングだけでハリウッド映画としては既に成功してるが
歴史大作としてはやはり主役の美男美女だけでは納得できナイ
ネロ、ペトロニウス、セネカ、ペテロなど
実在した人物のキャスティングの妙にこそ真価が凝縮される

自分はキャラ的にペトロニウスが大のお気に入りだが
レオ・ゲンのペトロニウスは奴隷のユーニスとセットでよかった
てか、ユーニスが良過ぎた、美し過ぎるのだよ

ネロはローマ皇帝の中では1番好きなのだが
ピーター・ユスティノフのネロもなかなか可愛くて
ポッパエアの毒女ブリと好対照だった

惜しむらくはもう少しセネカに活躍して欲しかったが
まあ史実的にもローマの大火の前に隠居してたからしかたナイ

但し、ローマの大火でネロが火付けを指図した、てのは
歴史的事実に反するだろうがね
だいたいネロに対する誹謗・中傷はキリスト教徒の陰謀でしかナイ

そんなコトを言ってる自分も初めて読んだ頃には
まだ世界観が確立してなくて流されがちだったせいか
迫害されるキリスト教徒に同情を禁じえず
逆にネロが悪の権化だと真に受けそうになってたのだがねw

ペトロニウスの『サテュリコン』の登場人物ながら
恐らく主人公よりも有名なのがトリマルキオ(Trimalchio)だ

Trimalchioはギリシア語で「3度祝福された人」の意で
フェリーニの映画ではイタリアンぽくトリマルチョーネとなってる
他の登場人物も原作と映画で読み方が違うので下表にまとめておく

登場人物『サテュリコン』『サテリコン』意味
Trimalchioトリマルキオントリマルチョーネ3度祝福された人
Gitonギトンジトーネ隣人(ゲイトン)
Encolpiusエンコルピオスエンコルピオ抱かれる人
Ascyltosアスキュルトスアシルト決してへこたれない人
Eumolpusエウモルポスエウモルポ甘く歌う人

修辞学校の教師の名がアガメムノンなのは

なぜか、彼の名はトロイア戦争におけるギリシア遠征軍の総帥の名にちなむ

とあるが、助教師の名がメネラオスなので、安易にセットで命名したと思われ

そしてまとめておいてなんだが
このブログでは臨機応変にどちらも使用する・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ
なので、基本的には小説の話題ならギトンでも映画の話題ならジトーネだ

トリマルキオの饗宴―逸楽と飽食のローマ文化 (中公新書)

しかしトリマルキオは一般的にもトリマルキオで通ってて
例えば『トリマルキオの饗宴』と冠する本があり
この記事ではその本についても触れてるのでトリマルキオで統一しとくw

その『トリマルキオの饗宴―逸楽と飽食のローマ文化』が
以前は中公新書で出てたのがタイトルがちょっと変わった(※)だけで
中身はそのままで、昨年、講談社学術文庫から再版されてた
逸楽と飽食の古代ローマ―『トリマルキオの饗宴』を読む、となった

逸楽と飽食の古代ローマ―『トリマルキオの饗宴』を読む (講談社学術文庫)

たまたま昼休みに読む本をうっかり忘れてきて
手持無沙汰で本屋に物色に行った時に見つけたので
即座に購入して愉しく読み耽ったが
この本を手にして最初に捲るページてのが決まってて
それはつまり最も気に入ってる件なのだ

 そのとき、ブドウの葉とキヅタの髪飾りをつけた美少年がブドウの籠を手にして登場し、酒神バッコスのさまざまな仕草を真似ながら、トリマルキオの詩を甲高い声でうたった。

バッカスに扮した美少年が歌い踊るのを思い浮かべて呑むワインは
格別に美味い( *゚Д゚)つ[葡萄酒]

但し、些細なコトだが、岩波文庫の国原吉之助訳のように
ブドウは葡萄、キヅタは常春藤、と漢字の方が香り高い気がするのと
「さまざまな仕草」は後からちゃんと解説があるにせよ
やはり文中での鮮明な描写があった方がより陶酔できるのに
と、ほんのちょっぴり残念に思う

『サテュリコン』では以下のように訳されてる

 こんな会話をかわしていたとき、一人の美少年が葡萄の葉と常春藤で頭髪を飾り、ときに陶酔の酒神バッコスを、ときに苦悩の解放者バッコスを、ときに霊感の鼓吹者バッコスをよそおい、葡萄の実の入った小籠を持ってまわりながら、彼の主人の詩を甲高い声でうたった。

トリマルキオがこの美少年の奴隷に対して
「ディオニュソスよ、自由(リーベル)になれ」と、声をかけると
美少年奴隷は皿の上のイノシシの頭に乗せられた解放奴隷の帽子をとって
自身の頭に乗せ、皆がそれを祝福してキスをするのだが
これはトリマルキオが美少年を奴隷の身分から自由にしてやった
と自分には思えたのだが、注釈でもそこが判然としなかった

ところが『トリマルキオの饗宴』は薀蓄本なので
当然、この場面に対しての詳しい解説があり

 少年はトリマルキオがつくった詩を殊勝にも丸暗記しており、少年らしい高く通る声で朗唱した。詩の最大の理解者は作者であるという法則にたがわず、トリマルキオは深い理解と感銘から心を揺らし、その揺れが言葉となって現われた。

そして自分が悟った通りの状況が述べられてるので胸がすくのだ!

しかし映画『サテリコン』ではこの場面はナイ。(´д`;)ギャボ
てか、原作に忠実な作りではナイので
既に饗宴参加メンバー(※)からして大いに違ってたりもするしね
『サテュリコン』では修辞学校の教師ら、エンコルピオス、アスキュルトス、ギトンだが、『サテリコン』ではエンコルピオとエウモルポ

☆・・・☆・・・☆

それにしても古代ローマにおいては
奴隷、の単語から発せられるイメージに陰惨さはまるでナイ
とりわけトリマルキオの饗宴においては
主人自身が解放奴隷だってのもあるのかもしれナイが

 少年奴隷たちは面倒な仕事中でもつねに歌をうたっていた。

なんて、陰惨どころか、底抜けに明るいし
アメリカにおける黒人奴隷なんかとは全く違ってて
主人の信頼を得られれば、人間性も尊重されるし
先述のバッカスに扮した少年のように
饗宴での才気の対価として、快く自由を与えるコトもあるのだ

『サテュリコン』の著者であるペトロニウスは
実際の家族構成がどうだったのかは謎だが
シェンキェヴィチの『クオ・ヴァディス』の中では
美しい奴隷を愛人にしてたりもするし
そもそもローマ帝国の皇帝であるネロも解放奴隷であるアクテに恋をして
由緒正しい王女だった正妻のオクタヴィアとは離婚して
アクテを愛人ではなく、正妻に迎えようとしたのだ。(゚д゚lll)ギャボ

映画『クオ・ヴァディス』ではペトロニウスと奴隷女の恋愛が
非常にロマンティックに描かれてて
自分もこの時代に生まれるなら美人の奴隷に生まれたいと思ったw

クォ・ヴァディス [DVD] FRT-052NERO ザ・ダーク・エンペラー [DVD]

ネロとアクテの恋物語も『NERO ザ・ダーク・エンペラー』で堪能できる

SATYRICONは元はと言えばラテン文学のタイトルで
「サテュロス的な出来事・人物譚」みたいな意味だろうが
書いたのはネロの時代のペトロニウスだ

その『SATYRICON』を映画化したのが
現代イタリア人のフェデリコ・フェリーニだ
邦題は小説が『サテュリコン』だが映画が『サテリコン』だ(※)
Google翻訳ではラテン語もイタリア語も綴りは同じくSATYRICONだったが

それにしてもなんてセンスの゚+.(・∀・)゚+.゚イイネーミング!
サテュロスはギリシア神話に出てくる好色な牧羊神で
本来はディオニュソスの従者なのだが
饗宴や女を求めてディオニュソスに付き従ってるので
神とつくものの野卑な淫獣のイメージが強く
悪徳に耽溺する人間たちの物語のタイトルにはぴったりだ

但し、時代が下るに従ってファウヌスやパーンと混同されてしまい
ディオニュソスでさえもバッカスと同一視されるようになり
それぞれがはっきりとした輪郭を持たなくなるが
換言すれば、それくらい詩人や芸術家が題材にしてるのだね
ディオニュソスの一味をヽ(゚∀。)ノ

ペトロニウスの小説『サテュリコン』もフェリーニの映画『サテリコン』も
自分は21世紀になってからようやく入手するに至ったのだが
手に入れるまでに小説の『サテュリコン』についてわかってたのは

  • 1.作者がペトロニウスであるとシェンキェヴィチの『クォ・バディス』(※)で知ってた
  • 2.内容はユイスマンスの『さかしま』の第3章でのデ・ゼッサントのラテン文学レビューから想像した

実際には先に映画の『サテリコン』を購入したので
『サテュリコン』を買う前にはストーリーもすっかり把握してたが
『サテリコン』に関してはALLANに載ってた数行のレヴューと
美少年ジトーネの小さな写真のみだったのだ
偕成社の少女世界文学全集だったので『クォ・バディス』なのだが、通常は『クオ・ヴァディス』、岩波文庫版では『クオ・ワディス』

ジトーネ

よく考えてみれば、たったそれだけで20年間も想い続けてたのは
もうヲタとかそういう領域を超えてると自分でも思うが
初めて自室で映画『サテリコン』を観ながら
ワイン片手に岩波文庫の『サテュリコン』を読み耽った時

至福、とゆーのはこういうコトか( *゚Д゚)つ[酒]

と、人生最高の巡り会いを堪能した

☆・・・☆・・・☆

サテリコン [DVD]

『サテリコン』は衝撃的な映画で
お目当てのジトーネは期待以上に艶めかしかったが
何もかも細部に至るまでが面白過ぎて飽きるコトがなく
ほとんど中毒の如く、自室に篭って繰り返し観てしまったりした
そういう場合、映画としてじっくり観るってよりは
もうオブジェ(?)の一部のように目に映ってる状態で
ストーリーを追ったりせず感覚を痺れさす部分を
画面からひたすら探し続けたのだった

なのでストーリー的にもどうでも゚+.(・∀・)゚+.゚イイのだが
観てると気になって仕方がナイ部分が2点だけあるので
そんなシーンについて以下に軽くメモ

1つは画廊のシーンでエウモルポの後ろに見慣れた絵が見えるが
これがなんとセウェルス一家の肖像なのだ!

セウェルス一家の肖像

手前の王子がカラカラで隣には弟のゲタがいるはずだが
ゲタは【記憶の断罪】によって消されてるるる~
このカラカラはネロより後の皇帝で
当然ネロと同時代のペトロニウスからしても後世の人だ
(ちなみに在位はネロが54~68年でカラカラは211~217年だ)

時代設定が古代ローマだがはっきりとした年代まではナイから
カラカラ以降の時代の話だとしても別段構わナイのだが
ネロの時代のペトロニウスの作だと考慮すると
いかんせん気持ち悪く感じるのだ!!

フェリーニがワザとやってるのかもしれナイがな。(゚д゚lll)ギャボ

もう1つはトリマルチョーネの模擬葬儀(?)のシーンで
般若心経が流れてるがこれもずっと後の時代に成立してるはずだ
日本人の自分からしたらギャグでしかナイし
むしろヨーロピアンには通じナイだろうから構わナイがね

これもフェリーニがワザとやってるのかもしれナイなヽ(゚∀。)ノ

☆・・・☆・・・☆

サテュリコン―古代ローマの諷刺小説 (岩波文庫)

原作の『サテュリコン』も映画以上に退廃臭を放ってて
やはり筋を追うってよりはぱっと開いたページを愉しむカンジで
何度も虫食い読みで読み返す1冊になったが
筑摩世界文学大系【64】に収録されてる『サテュリコン』は
夏目漱石が愛読してた、とゆー一文が「解題」にあり
漱石の読み方が自分と似てて親近感が湧いたw

筋なんかどうでもいいんです。こうして、御籤(おみくじ)を引くように、ぱっと開けて、開いた所を、漫然と読んでるのが面白いんです。

実際に現存する『サテュリコン』の底本は欠損部分が多く
てか、あるのが14巻~16巻までなので
仮に全16巻だったにしても大部分が欠落してるワケで
ストーリーに捉われて読んでる方が馬鹿馬鹿しい。(´д`;)ギャボ

それにしても漱石は昭和になる前にお亡くなりになってるので
そんな昔から邦訳されてたのかと思いきや
英語訳、独語訳、なんてのなら漱石なら読めそうだし
もしかすると原典のラテン語でも読めるのか?!

ちなみに筑摩世界文学大系の訳者は岩崎良三訳だが
岩波文庫の『サテュリコン』の「解題」で訳者の国原吉之助が
邦訳として岩崎良三訳の2点を挙げてる

『トリマルキオーの饗宴』昭和16年、青木書店
『サテュリコン』昭和27年、創元社

ニーチェの『悲劇の誕生』では
アポロン(的)とディオニュソス(的)とゆー単語が繰り返される

これらが古代ギリシアの神であり
アポロンは太陽神で予言、医術、音楽を司ってて、ディオニュソスは酒の神
くらいの認識はおよそ無教養な現代日本人でも持ってるだろう

とはいえ、のっけから

 芸術は、<アポロン的なもの>と<ディオニュソス的なもの>という、ふたつの要素のせめぎあいによって展開してゆく。それはオスとメスによる生殖のようなものだ。生物の場合、ふたつの異質なものが絶えずせめぎあい、両者の和合はしかるべきときに定期的にしか訪れないわけだが、芸術にもそれと似たところがある。そうした芸術の特質を、ただ論理的に理解するだけでなく、ずばり直観的にも把握できるようになれば、美学はおおきく前進することになるだろう。

などと、言われても太陽神と(葡萄)酒の神が
どうしてオスとメスほどに対極的なのかはわからりづらい

ギリシア神話の神々の中ではヘルメスが1番好きだが
次いでアポロンとディオニュソスも甲乙付け難くお気に入り
そんな自分でさえもニーチェの位置付けには疑問を感じてしまう

アポロンは人間だったなら絶対にモテたであろうに非モテで
例えば、予言の術を授けるから恋人になれ、とか
トロイの王女カッサンドラに言い寄るのもおかしいが
それで振られた腹いせに予言を信じる者がいナイようにしたり
美女コロニスを手篭めにして、恋人気取りでいたら
他の男と結婚してしまったからって、コロニスを殺そうとしたり
意外と人間臭いってか、姑息な部分が垣間見えるので
ニーチェが示唆するような高潔なイメージは
どうにも持てナイのだが。(´д`;)ギャボ

だいたいアポロンは悲恋のエピソードばかりなのだが
腐女子にとってギリシア神話の美味しい部分こそがアポロンの悲恋で
ヒュアキントスやキュパリッソスなる美少年とアポロンとの
在りし日のやりとりには妄想力を惜しまナイし
美少年の死に際に限定すれば悲壮感の中にも優美なアポロンてのはわかるが
主知的、理性的とかは微妙に違う気がするし
それに比してディオニュソスを激情的とするのはどうかと思われ

仲間のパーンやサテュロスのような牧羊神ら(※)は
確かに放埓な獣らしい下半身をしてたりするし
パーンの笛の音に陶酔してマイナデスは踊るだろうが
ディオニュソス自身は酩酊もせずに超然としてるカンジだが?
ローマのバッカスの従者であるファウヌス然り

さかしま (河出文庫)サテュリコン―古代ローマの諷刺小説 (岩波文庫)サテリコン [DVD]

サテュロスの名に由来する『サテュリコン』なる奇異な小説を知ったのは
偕成社の少女世界文学全集の『クォ・バディス』で
そこには『サチリコン』とあり
登場人物のペトロニウスが書いた詩や散文の本なので
実在するとは夢にも思ってなかった

ところが雑誌ALLANの影響でマルキ・ド・サドを澁澤龍彦訳で読み漁り
澁澤訳のユイスマンスの『さかしま』に巡り会い
ペトロニウスも『サテュリコン』も実在してたと知って
シュリーマンがトロイの遺跡を探し当てたかのような興奮を思えたが
なんせネットで検索などできなかった時代のコトで
更に女子高生が大っぴらに買い求めづらかったのもあって
闇雲に古本屋を探し回るしかなかった

また映画『サテリコン』の存在を知ったのもALLANに載ってたからだが
そこで紹介されてる美少年ジトーネに一目惚れして
この映画を冥土の土産にどうしても観たい、と思いながら20年余りが過ぎ
結局、DVDが発売されたのを買って観たのは2003年だった

そうしてずっと『サテュリコン』を切望してたので
サテュロスの名がいつも脳裏を掠めてて
山羊の角と下半身を持つ異形の姿さえも身近に感じてたw

ヴィヴィアンウエストウッド Vivienne Westwood マン サティア オーブ ペンダント ネックレス シルバー

なのでVivian WestwoodのSatyrシリーズとか物欲を煽って困る!
今なんてDoCoMoのVivianスマホのマチキャラになってて
Satyrが着信で踊ったりするらしくて
スマホ嫌いなのに欲しくてたまらなくて困ってるるる~

SH-01E Vivienne Westwood docomo [Orb camouflage]

最後になったが愛するヘルメスに関しては
神に対して不謹慎かもしれなんだが
ファッションを含めたルックスがたまらなく好きだし
性格的にやんちゃで愛嬌たっぷりなのもときめかずにはいられナイ

最も美しい青年の容貌を持つとされるアポロンに文句はナイが
ヘルメスの方が愛らしいと思えてしまうのは単に好みで
特にボッティチェリの『プリマヴェーラ(春)』でのヘルメスときたら
ヘアスタイルといい、顔立ちといい、個性的な帽子とサンダル(ブーツ?)といい
大好きなテイストだけで仕上がってるるる~

サンドロ・ボッティチェリ *春(プリマベーラ)【ポスター+額縁】約53 x 76 cm ゴールド

rebours

四半世紀に渡って何度も同じ本の同じ部分を読んでる

ユイスマンスの『さかしま』がそれだが
中でも第3章が最多で次いで第5章、第7章、第12章、第14章辺りだ

A rebours

『さかしま』は「奇異」な小説で
主人公のデ・ゼッサントの趣味や思想を並べ立ててるだけで
ストーリーはその中で挿話として展開するのみだ

なので一応はユイスマンスの小説なのだが
読んでる感覚からするとまるでデ・ゼッサントのエセー(エッセイ)だ

デ・ゼッサントは19世紀フランスの貴族の男なので
その趣味や思想は健全(ノーマル)な現代日本人には全く縁のナイモノばかりで
自分も未だに半分もわかってナイ気が・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

読み始めたのは高校生の頃で
一般よりはよほど不健全(アブノーマル)な文学を好んで読んでたし
芸術も音楽もデカダンの香りがするモノを愛好してるワリに
バイオテクノロジーとゆー生化学の最先端を勉強してて
自分も世界を理解してキタ ━━━━━(゚∀゚)━━━━━ !と奢り高ぶってたので
デ・ゼッサントが次々と提示してくる固有名詞が
ほとんど初見であるコトに衝撃を受けた!!

澁澤の注釈がなければ、いや、注釈があっても
1/10もデ・ゼッサントの趣味や思想を理解できなかった
てか、全然知らナイモノの羅列でしかなかった。(゚д゚lll)ギャボ

そもそも固有名詞を除いたトコロで
漢和辞典がなければ数ページも読み進めナイほど
新鮮な読み方の漢字が怒濤のように繰り出すのであるるる~

澁澤龍彦訳しか読んだコトがナイのだが
他の澁澤訳のデカダン文学に慣れ親しんでたはずの自分が
『さかしま』だけは全く置き去りにされたのだった
しかし漢和辞典と注釈に頼りながらもしぶとく読み進んだのは
デ・ゼッサントの趣味と思想に共鳴する部分を片鱗ながらも見出してたからで
生涯の友となる予感がしてたのだ

それからもう四半世紀が過ぎようとしてるが
デ・ゼッサントの趣味や思想を未だ総て理解しておらず
また理解しても納得はできずに反駁さえするような見解も生じた
それでもデ・ゼッサントが魅力的なのは変わらナイ

初めて読んだ時はとにかくいちいち興奮した

第1章でボオドレエル(ボードレール)の語を見つけて
まずは文学の趣味の接点があるコトに嬉しくなった(*^^*)

まあデカダン趣味は読む前から予想してて読み始めたのだが
第2章でパストゥール(パスツール)の名(※)を目にして
まさかデカダン趣味の貴族にこの近代細菌学の開祖を語られるとは
予想してなかっただけに殊更嬉しくなった(^▽^*)
応用微生物を勉強してた自分にとってはパスツールはとても近しい存在だった

第3章では古代ローマのラテン文学が網羅されるのだが
それら殆ど総てを批判するデ・ゼッサントの気に入ってるのが
ペトロニウスの『サテュリコン』とアプレイウスの『黄金の驢馬』で
ついでに言えばヘリオガバルスに好意的なのだ(゚ ゚;)

しかもウェルギリウスやオウィディウスに始まって
セネカに大プリニウスまで続けざまに延々と非難囂々の挙句に
いきなり上記3人が絶賛されてるのであるヽ(゚∀。)ノ

なのでここまでですっかり決心してしまったのだ

きっと一生かかって追い求め続ける、と・・・ホゥ(*-∀-)