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louis14

ヴォルテールの『ルイ十四世の世紀』第1巻は
当時のフランスはもちろんだがイギリスにも詳しいし
ヨーロッパ全体の動きがわかりやすくまとめられてるので
フランス革命前のヨーロッパの情勢の史料としては優れてるのだが
ルイ14世の人となりについて描かれてる部分が皆無なので
いかんせん面白みには事欠く。(´д`;)ギャボ

続く第2巻も第24章まで第1巻と同じ調子で淡々とした政局の変遷が続き
第24章で早くも主人公のルイ14世は死んでしまうのだが
ここまででルイ14世について想うトコロがナイので
死に際しても感傷的になりようがナイ。(゚д゚lll)ギャボ

そこがヴォルテールの狙いなのかどうかの結論は読後に譲るとして
第25章から一転して面白くなるのは人間関係が赤裸々に描かれるからだ

しかもその端々にコルネイユ、モリエール、ラシーヌといった古典劇に触れてて
特に第26章で32歳まで人前でバレエを踊ってたルイ14世が
ラシーヌの『ブリタニキュス』を観て以来、人前で踊らなくなった
即ち、詩人が君主に態度を改めさせた、とゆーのは笑えたw

『ブリタニキュス』はネロ(作中ネロン)が
先帝の嫡子でネロの義理の弟のブリタニキュス(ブリタンニクス)を暗殺する話で
ネロと言えば芸術(詩や音楽)をこよなく愛したローマ皇帝で
度が過ぎてネロ祭なる発表会を催してたくらいだが
愚帝や暴君との呼び声も高い人物なので
ルイ14世は同じコトをやって近しいと思われたくなかったのだろうが
厳密に言えばネロは踊ってたのではなく謳ってたのだ(-_-;)

そして謳う皇帝ネロは
剣闘士として戦う皇帝コンモドゥスやアナーキストで女装の皇帝ヘリオガバルスと並び
自分の中では最も人間的な魅力溢れる3大皇帝なので
踊る王ルイ14世にも惹かれずにはいられナイ

映画『王は踊る』は未見だがどのくらい史実に忠実なのだろうか?
ルイ14世が太陽王と渾名されたのも太陽の役を踊ったかららしい(※)が
『王は踊る』のDVDやサントラCDのジャケットはまさに太陽役ってカンジだな
『ルイ十四世の世紀』には「王が太陽に扮した際・・・」とある

映画《王は踊る》サウンドトラック王は踊る [DVD]

章が前後してしまうが第25章には
モーパッサンの紀行文『水の上』の一文を読んで気になってた【鉄仮面】の話が載ってた

サント・マルグリットの、陸地よりの突端には、鉄仮面やバゼーヌが幽閉された有名な城塞がある。

それまで【鉄仮面】はデュマの『ダルタニアン物語』に出てくるのしか知らず
デュマの創作だと思い込んでたので仰天して註釈を見ると

この有名な伝説は、ヴォルテールらが流布しはじめたものらしく、事実は、黒ビロードの面をかぶせられた囚人で、イタリアの伯爵マッティオリのことである。彼は、国際関係の犯罪で、ヴェネツィアでとらえられ、1679年ころ、サント・マルグリット島に幽閉され、ついでバスティーユに移されて、1703年に死んだ。

ヴォルテールは『ルイ十四世の世紀』では【鉄仮面】の正体には言及しておらず
1661年のマゼラン枢機卿の死の数ヶ月後にサント・マルグリットに運ばれ
バスティーユに移されたのは1790年となってる

『水の上』の訳者は吉江喬松と桜井成夫で『ルイ十四世の世紀』を踏まえてはいるかもだが
この訳註はそれとは別の【鉄仮面】伝承を参考にしてるのは間違いナイ

またヴォルテールは仮面の状態を以下のように記してる

仮面を被りつづけ、これは、顎当に、鋼のばねがついていて、被ったまま、自由に物が食べられるようになっている。顔を出したら殺してしまう、という命令が出ていた。

更にヴォルテールは【鉄仮面】の男と遭遇した人物として
男の世話をしてたサン・マルス司令官、ルーヴォワ候、バスティーユの医師を挙げ
各々の対応の仕方から身分の高い人物であるとの確証はしてるが
ルイ14世の双子の片割れだと匂わすような部分はナイ

仮面の男―仮面の男とその背景 (竹書房文庫)
仮面の男 (角川文庫クラシックス)

それにしても映画『仮面の男』はデュマを原作にしてるらしいが
脚色し過ぎで全く違う話になってると思われ(※)
まあ予想以上に面白くて何度見ても飽きナイので文句はナイがヽ(゚∀。)ノ
角川文庫クラシックスの『仮面の男』と比較

藤本ひとみの小説『ブルボンの封印』と
それを漫画化した森川久美の『ブルボンの封印』も
【鉄仮面】の正体をルイ14世の双子の片割れとしてる点では同じだが
これはこれでまた違う話でしかも主題がラブ・ロマンスなので
1度読んで面白かったのは否めナイが2度目に読む気は失せた・・・バタリ ゙〓■●゙

【鉄仮面】抜きの『三銃士』なら映画でも漫画でも数限りなく存在し
近年、人形劇になってたのも欠かさず観てたが
自分的には田中雅子の少女漫画『風のダルタニヤン』が
絵柄も綺麗だしデュマの原作に忠実ながら面白いので気に入ってるるる~

最後に【鉄仮面】の正体は誰だったのかは
『鉄・仮・面―歴史に封印された男』で明かされてるらしいが
それが真実かどうかはまた別の話だ

ラシーヌの『エステル』についての殆ど総ては
ヴォルテールの『ルイ十四世の世紀』を読めばわかるのだが
やはり自分自身もその芝居を観るなり、せめて読むなりしなくては
単なるウケ売りになってしまうので
『世界古典文学全集【48】ラシーヌ』を購入して読んでみた

結論から言えばヴォルテールの言及とほぼ近い感想だったが
ヴォルテールが触れてナイ根幹的な部分にこそ自分には深く考えさせられた

比較するためにヴォルテールの言及を引用すると

(前略)荒唐無稽で、面白くもおかしくもない事件を、見せられるだけだ。王さまが一人出て来るが、半年も一緒に暮しながら、お后の素性を知らぬし、それを調べてみようともしないのだから、とうてい正気とは思えぬ。大臣がまた、ユダヤ人が、自分に敬意を表さぬというので、老若男女問わず、これを皆殺しにするよう、王さまに頼み込むなど、滑稽とも、野蛮とも、何ともいいようがない。この同じ大臣が、つまらぬことをしたもので、ユダヤ人を、十一ヶ月以内に、残らず殺せという触れを出すが、これでは、何のことはない、逃亡するなり、自衛の手段を講じるなり、勝手に振舞えということになる。王さまも王さまで、いわれもないのに、このおかしな命令に署名しておきながら、また、いわれもないのに、突然、当の気に入りの大臣を、絞り首にしてしまう。おまけに、筋らしい筋がなく、変化に乏しいし、面白みもないときているから、良識を持ち、趣味のよいものなら、うんざりするのが当然だ。

などと貶し放題だ。(´д`;)ギャボ

ここでヴォルテールが見落としてる重大な事実は
大臣の一族が先にユダヤ人に皆殺しにされてた過去があったコトである

サムエル記 (2) (ヘブライ語聖書対訳シリーズ (14))
出エジプト記 (1) (ヘブライ語聖書対訳シリーズ (3))

『旧約聖書』の「サムエル記」でイスラエル(ユダヤ人)の王サウルは
預言者サムエルに神の意思を告げられるるる~

わたしは、アマレクがイスラエルにした事、すなわちイスラエルがエジプトから上ってきた時、その途中で敵対したことについて彼らを罰するであろう。今、行ってアマレクを撃ち、そのすべての持ち物を滅ぼしつくせ。彼らをゆるすな。男も女も、幼な子も乳飲み子も、牛も羊も、らくだも、ろばも皆、殺せ。

ところがサウルはアマレクの王を生け捕り、家畜も殺さずにいたので
サムエルは神の意に背いたサウルを罪人扱い。(゚д゚lll)ギャボ

サムエルに引き渡されたアマレクの王は神の前でサムエルによって切り刻まれ
神はそれをよしとしたがサウルを王としたのを悔いた・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

後にダビデがアマレクの総てを「ぶんどり物」(※)として捕らえ
これらをまた皆殺しにして正しい大虐殺(?)の見本をやってのけたのだ
「ぶんどり物」てのは自分の持ってる聖書にそう書いてある通りだ
参考:セム、ハム、ヤペテ~アブラハム(アブラム)

マイケル・サンデルの講義に出たらサンデルもたじろぐだろう

正義=ユダヤ、以上p(-_-+)q←ユダヤ

ポカーン。(゚д゚ )←サンデル

みたいなw

とにかくユダヤ人がのさばるのに邪魔な民族は皆殺しにするのがユダヤ人の正義で
むしろ情けを起こしたりすれば神に背いた罪人と見做されるのだ

こういう民族に対して不条理を感じナイ人間だけが
もれなくキリスト教を享受できるのだな

信じる者は救われる

とは(都合)好く言ったモノで
ユダヤ人が信じる神ヤハウェは自ら選んだ民族以外を呪う神で
基本的にはヨーロピアンもアメリカンも呪われて然るべきなのだが
そこが神の子イエス・キリストの出現から解釈が変わって
ユダヤ人でなくても信じる者は救われる、となったのだ(゚*゚;)

しかも何を信じるかってユダヤ人の神ヤハウェではなく
唯一無二の神であり、キリストがその神の子であるコトであり
神を信じててもキリストを疑うのは善しとしナイ
これを父(神)と子(キリスト)と聖霊は三位一体なのだとして
非科学的、非理性的、かつ主観的な言い分で思考停止させてしまうのだなヽ(゚∀。)ノ

『エステル』がジェズイット教団にウケたのは然りで
ルターがローマ・カトリックに反旗を翻して真の信仰を説いた宗教改革に
真っ向から敵対したのがジェズイット教団(イエズス会)で
フランスではユグノーと呼ばれてたルター派の新教徒たちと衝突してた

ところでヴォルテールのみならず
ラシーヌも大臣の一族が皆殺しにされた過去をスルーしてるかと思いきや
以下のようなイスラエルの娘の台詞が見受けられた

祖先が罪を犯し、もう祖先は死んでしまった、
その罪の刑罰をわたしたちがこうむるのです。

まあこの一箇所だけでは観客には完全にスルーされただろうな(苦笑)

フローベールの『ボヴァリー夫人』のオメーがヴォルテールの信奉者で
そのヴォルテールが著書『ルイ十四世の世紀』の中で
ラシーヌを讃美してる中でも『アタリー』を高く評価してたので
オメーは自身の娘にアタリーと名付けた

と、そこまでの話は呑み込めたが
ヴォルテールがなぜ『アタリー』に対して高評価なのか
またなぜ前作の『エステル』を酷評してるのか
今一つ納得が行かナイのは当然ながら自分が観てナイからだヽ(゚∀。)ノ
参考LINK:マントノン夫人の高尚な意地悪

「百聞は一見にしかず」
換言すれば「一見が無理なら百聞を信じるしかナイ」のだが
聞くに及ばず見るに適わず、でも読めば゚+.(・∀・)゚+.゚イイワケで
『世界古典文学全集【48】ラシーヌ』を購入

『世界古典文学全集【48】ラシーヌ』には年代順に全作品が収録されてた!
そこで目的を忘れて『アレクサンドル大王』から読み始めるのは
ヲタ的には何も間違ってはいナイのだ!!

そして次にやっと『エステル』に辿り着いたのだが
本文に到達する前に序文で躓いてしまう・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

なんせラシーヌは序文で次のように述べてるのだ

わたしは、俗世のものと聖なるものとを混同することを慎重に避けたけれども、それでもアシュエリュス{アハシュエロス}をよりよく描きだすために、ヘロドトスから二、三の特徴を借りてもよいと考えた。というのは、この歴史家が語るイダスプ{ヒュスタスペス}の子の有名なダレイオス王とアシュエリュスが同じ者であると考える多くの聖書解釈学者の意見に従ったからである。

現代ではアハシュエロス=クセルクセスが通説のようだが
当時(ラシーヌの生きた17世紀頃)の聖書解釈学者や歴史家の間では
アハシュエロス=ダレイオス、しかもヒュスタスペスの子ならダレイオス1世なのか?
それともラシーヌが勘違いしてるのだろうか。(゚д゚lll)ギャボ

ヘロドトスの『歴史』巻3によればダレイオス1世は
王座を簒奪した謀反人を始末した7人の中で
取り決めに従って馬を1番先に嘶かすコトができたので王位に就いたが
ダレイオス自身には先王のキュロスやカンビュセスと同じ血は流れておらず
4人の妻の内3人が王家の娘で残る1人が謀反を看破したオタネスの娘で
ワシテやエステルに該当するような女は見受けられナイ
だいだいにおいてダレイオスの女とのエピソードはほとんど伝わってナイのだが
それとゆーのもダレイオスは戦争に明け暮れてたからだ

但しペルシア戦争に至るきっかけを作ったのは
妻アトッサにピロートークでギリシア征伐を勧められたからだが
アトッサはキュロスの娘にしてカンビュセスの妻であり
またカンビュセス亡き後には謀反を企てたマゴスの妻でもあった女で
間違いなくワシテにもエステルにも当て嵌まらナイ

ヘロドトスはダレイオスの妻(妾)との挿話をこの他に一切記述してナイので
これはやはりラシーヌの勘違いだろう。(´д`;)ギャボ

尤も現代においては『旧約聖書』に史実でナイ事象が含まれてるのは周知の事実で
それらは口承で伝えられてきた昔語りのようなモノだったのを
神と神が選んだ民族の栄光の物語、にユダヤ人が都合よく編纂してるのだw

なので『エステル記』も辺鄙な土地に伝わる物語なのかもしれなくて
アハシュエロスはダレイオスでもクセルクセスでもナイかもだ

『エステル記』を歴史的事実として検証しようと思ったら
ハマンの一族アマレク人がユダヤ人によって皆殺しにされた事件が
誰が王の時に起こったかを調べれば゚+.(・∀・)゚+.゚イイのだが
ペルシア側の史料にはそういった史実は認められナイ

エステル記 (ティンデル聖書注解)

聖書の解釈(むしろ曲解w)本の最新刊がまさに『エステル記』だったりするが

(前略)おとぎ話のように思われがちなエステル記の史実性にさまざまな資料から迫り、またモルデカイの傀儡のように見なされがちなエステルの自立性にも焦点を当てる。ユダヤ人問題にも触れる画期的な注解書。

てなワケで史実としての確たる資料がナイコトがよくわかるるる~
LINK:ティンデル聖書注解

それにしても『エステル記』の史実性についてググってたら
キリスト教信者はヲタとしては本トにレベル高くて
信じてる姿になんとか近づけるために事実無根でもでっちあげて
最終的には精神論で何かの比喩であると片付けて納得させるってコトを
改めて実感してしまったのが以下のLINK記事とか・・・ヽ(゚∀。)ノ
LINK:アマレク―後編

  アラビアやその周辺諸国には、アマレク人に関するたくさんのおとぎ話があります。これらのおとぎ話には根拠はありませんが、多くのアラビア、イスラム作家がアマレク人についての物語を創作してきました。さらに最近になって、イスラム作家たちは「イスラエルの大量虐殺による不運な犠牲者」としてアマレク人を描くようになりました。

確かに世界中に御伽噺はあって解釈は自由だが
上記のようにはっきりと自身でも「おとぎ話」で「根拠はありません」
「イスラム作家がアマレク人についての物語を創作してきました」とまで書いてるのに
そのすぐ後には次のように記してるのだ

 イスラム作家たちが書くアマレク人の物語は架空のものですが、アマレクとその子孫が確かに存在していたことは歴史的事実です。なぜなら、彼らについて明確な記述が聖書にあるからです。

架空ですが聖書にあれば歴史的事実です、なんて
信者以外には何の説得力もナイのに力説してるのが痛い、痛過ぎるるる~

単にペルシアに伝わる美しくも残忍な奴隷女の物語としたら
それはそれで自分は好きだけどね
LINK:アハシュエロス王との謁見のために化粧をするエステル

racine

フローベールの『ボヴァリー夫人』を読んでて
どうしてポンペイウス・トログスの『地中海世界史』に行き当たってしまったのか
改めて考えると奇妙な経路だが
それは登場人物のオメーがヴォルテールの信奉者で
ヴォルテールはラシーヌの讃美者で
ラシーヌがアレクサンドロス大王マニアなら
自分はアレクサンドロス大王ヲタだとゆー自負からだp(-_-+)q

とにもかくにも『世界古典文学全集【48】ラシーヌ』を購入して
真っ先に読み始めたのは入手目的とは別に『アレクサンドル大王』だったが
これが自分にはヲタ的に駄作に思えたワケだ

但しインドでのアレクサンドロスの恋愛のエピソードはラシーヌ曰く
創作ではなくクルティウス・ルフスとユスティニスを参照した、そうだが
クルティウス・ルフスを確認したがはっきりせず
ユスティヌスを確認しようと思ったらなんと持ってなかったのだ。(゚д゚lll)ギャボ

ラシーヌにはアレクサンドロス大王ヲタとしては負けるつもりはナイので
早速ユスティヌスを手に入れようとググってみると
ユニアヌス・ユスティヌスは3世紀の人で彼のアレクサンドロスに関する著作は
実はポンペイウス・トログスの著『ピリッポス史44巻』の抄録だった

ピリッポスはもちろんアレクサンドロスの父のピリッポスで
タイトルからしたらピリッポスの生涯に詳しく
アレクサンドロスについてはオマケ程度にしか載ってナイのではナイかと思えたが
実質的には44巻中の7~9巻がピリッポス史に過ぎず
アレクサンドロスでさえ13巻で死んでしまう・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

つまり訳者がつけたタイトル通りに『地中海世界史』なのだ
ディアドコイ(後継者争い)についてはもちろんだが
アレクサンドロスが対峙したダレイオス3世より以前のペルシア史や
マケドニアの起源、周辺民族の歴史にも詳しかった!

そうして時間がある時にくまなく読破したい内容だったが
まずは問題の箇所を確認せねばなるまい

第12巻には確かにラシーヌの言を裏付ける以下の記述があった

(前略)そこから彼{アレクサンドロス}は、ダイダロスの山々とクレオピス女王の王国へ行った。彼女が彼に屈服した時、彼女は同衾することによってアレクサンドロスから王国を買い取り、武器で得られなかったことを誘惑によって得た。そして、彼女は彼との間に生まれた息子をアレクサンドロスと名づけ、この子は、のちインド王国を支配した。女王クレオピスは貞節を投げ捨てた故に、その後、インド人によって王の娼婦と呼ばれた。

ちょっと待て。(´д`;)ギャボ

アレクサンドロスの息子をもうけた、までいくと間違いなく虚言だろw

このクレオなんちゃら女王についての記述もだが
アレクサンドロスがインドで息子を儲けたなんて話は他には一切載っておらず
著者ポンペイウス・トログスか、後の編纂者ユスティヌスの創作だろうな(-_-;)

そしてラシーヌはおそらくアレクサンドロスについて
序文に表記してる2冊(※)しか読んでなかったので鵜呑みにしたのかもしれナイ
『ポンペイウス・トログス 地中海世界史』『クルティウス・ルフス アレクサンドロス大王伝』

それにしてもラシーヌがアレクサンドロスの相手役に
インドの美女を選んだ点だけは高評価に値するね

もし写真のようなレベルの美女であったら
それはもう総ての男にとって盲目的に惚れざるを得ナイだろうてw

アレクサンドロスがぞっこんになったクレオなんちゃらに限らず
ポリュスやタクシルが命を賭して愛するアクシアーヌがこんな美女ならば
愛するのに他に何か理由を持ち出す必要もナイ・・・ホゥ(*-∀-)

しかも写真のナイ時代のコトだから美醜の実像を窺い知るのには
肖像画を見て想像するくらいなので正確さや説得力に欠けるのだが
ラシーヌはインド人の美女を実際に見たのだろうか?

そうだとすればこれはアレクサンドロスの偉大さ以上に
女性の神々しいまでの美しさを讃美する戯曲なのではナイだろうか?
なんせアレクサンドロスも平伏してるのだからねヽ(゚∀。)ノ

とするとまた従来の悲劇とは趣が異なってくるのは
美女がハッピーエンドになってしまっては悲劇が成り立たナイからで
いや、だからこれはやっぱり駄作なのだ・・・バタリ ゙〓■●゙

とりあえずインド美女Neha Dalviの画像をまとめて貼っておこうっと♪

racine

筑摩書房の『世界古典文学全集【48】ラシーヌ』を買うまでは
『エステル』と『アタリー』が読みたかったのだが
気づけば真っ先に『アレクサンドル大王』を読んでたのは
アレクサンドロス大王ヲタとして当然だなw

ところが『アレクサンドル大王』は期待を裏切る駄作だった。(゚д゚lll)ギャボ
これはラシーヌの2作目で一応出世作になったらしいが
まだ本領は発揮してなかったようで
アレクサンドロスの相手役が美貌の王女であるコトで萎えるのを差し引いても
どうにも詰めの甘さが否めナイ出来で拙い点を列挙すれば以下の通り

1.クルティウス・ルフスやプルタルコスを参考にしたってワリには
  インド征服中のアレクサンドロスって設定を使ってる「だけ」に過ぎず
  ほぼフィクションで歴史的考察の余地も価値もなくつまらナイ

アレクサンドロス大王伝 (西洋古典叢書)
プルタルコス英雄伝〈中〉 (ちくま学芸文庫)
地中海世界史 (西洋古典叢書)

ラシーヌ自身が第1の序文において作中の実在した人物ポリュスについて

クルティウス・ルフスの{『アレクサンドロス大王伝』の}第8巻全部を写さねばならないだろう。

などとのたまってるがポリュスは実際には第8巻の第13章と第14章にしか登場せず
この芝居全体の主題でも第8巻の第12章~第14章に収まってるるる~

ちなみにクルティウス・ルフスではインドのある国の王ポリュスはポロスで
インドの別の国の王タクシルはタクシレス、その妹のクレオフィルはクレオカレスだろうが
訳注にはクレオカレスは「不詳」とあり、タクシレスの妹であるとゆー記述はナイ

アレクサンドロスは、ポロスにも自分の盛名によって帰順を強いることができると考え、クレオカレスを派遣した。

ラシーヌはなぜこの1文にしか出てきてナイクレオカレスがタクシレスの妹で
更にアレクサンドロスの恋慕する美貌の姫であると思えたのだろうか(-_-;)?

第2の序文には以下のようにあった

アレクサンドロスとクレオフィルの恋は私の創作ではない。クルティウス・ルフスと同様、ユスティヌスもこれについて述べているからである。

なななんですと~Σ(゚д゚lll)ガーン

ここまできて初めてユスティヌスの『西洋古典叢書 地中海世界史』を
買いそびれてたコトに気付いたのでこれを機に購入したw
まあ購入するまでもなく引用があったのだが・・・ヲタだからヽ(゚∀。)ノ

そのユスティヌスからの引用によれば
クレオフィルはアレクサンドロスの子を産んで同じ名をつけてるるる~

しかし物語の主軸となってるのはこのカップルの恋愛ではなく
ラシーヌが創作した女王アクシアーヌを巡って
三角関係に陥る2人の王タクシルとポリュスだ(と自分は思う)

2.男女の恋愛の中でも美女を巡る恋の鞘当てなら
  もう少し登場人物の誰かに肩入れできそうなモノだが
  それぞれの思惑が空回りしてしまってるせいか感情移入し難い

アクアシーヌがアレクサンドロスとの和平を受け容れナイので
ポリュスはこれに倣ってあくまでも抗戦を主張し
タクシルはアレクサンドロスに情をかけられた妹クレオフィルに譲歩し
和平交渉に応じようとポリュスを説得するが拒絶される

しかしアクアシーヌが美貌以外にどこが魅力的なのかが描けておらず
ポリュスが命を懸けて戦うのが悲喜劇的に見えてしまうし
袖にされて犬死にするタクシルに至っては完全なる喜劇なのだ。(´д`;)ギャボ

それはクレオフィルについても同じコトが言えて
天下のアレクサンドロスが、しかも決して好色ではなかっただろうに
なぜクレオフィルに夢中になるのかがわからナイのだよ(-_-;)

中ではアクアシーヌが1番アクが強いキャラだが
好感度は低いのでもう少しバックグラウンドが掘り下げられてナイと共感はしづらい

3.主人公が誰なのかわからナイヽ(゚∀。)ノ
  タイトルにはなってるがアレクサンドロスではナイのは確かで
  あとの4人の主要人物の中にも主役らしい者はいナイ

ラシーヌ自身は序文で「タイトル通りにアレクサンドロスが主役(てか主題)だ」と主張してるが
その主張も批評家の「アレクサンドロスが主役にしちゃ影が薄い」って意見に応えてのコトで
自分も確かにアレクサンドロス讃歌的な作りではあると思うが
三角関係の3人の動向がストーリーを展開させてるのは間違いナイのだ

主となる人物に焦点が絞れてナイ・・・
これがこの芝居を悲劇とも喜劇ともつかなくしてしまってるのだ

4.せっかく従者の中で唯一登場してるヘファイスティオンだのに
  その役ドコロは単なる伝令使でまるで人間性が見えてこナイ
  =誰がやったって同じって役ドコロに成り下がってるのだよ・・・

いや、これは自分の個人的な見解だw

それにしてもラシーヌとは興味の範疇が近似であっても
そこから構築する世界観が今回は全く異なってて
読後は肩透かしを食らったってカンジだ。(´д`;)ギャボ

ローマ皇帝の中でもとりわけネロが好きな自分は
ネロについて書かれてる本を蒐集してるので
ラシーヌの『ブリタニキュス』もいつかは欲しいと思ってた

だから岩波文庫から出てる『ブリタニキュス』を古本屋で見かけては
購入すべきかどうか何度も迷いに迷ってた
迷いがあったのはこの本がちょうど岩波文庫の紙質が悪い時代に出てて
その後に重版されずにいたコトによる
時を経て紙面はすっかり褐変してるよれよれのモノばかりで
どうしてもコレクションに加え難い品質だった

だからいつかこれが奇跡的に復刊されるか
もしくは更に望み薄だが新訳が出たりした折には購入しようと決心してた

とはいえ、いずれにしろ随分気の長い話だと思ってたが
2006年夏に先に渡辺守章訳の『フェードル / アンドロマック』が復刊され
続いて2008年に遂に『ブリタニキュス / ベレニス』が同じく渡辺守章訳で出た!

ブリタニキュス ベレニス (岩波文庫)

古く『ブリタニキュス』は『星の王子さま』の訳で名高い内藤濯の訳だったので
きっと真意を深く追求した意訳だと予想できて魅力的だったが
『ブリタニキュス / ベレニス』の渡辺守章訳の方は
実際に脚本として用いられた口語訳なのがむしろ非常に読み易かった!!
これは既に『フェードル / アンドロマック』で馴染んでたせいもあるだろう

しかし渡辺訳版の秀でた点は本文以上に訳注と「解題」にあるるる~

ためつすがめつ購入を迷い続けた『ブリタニキュス』には
『ベレニス』が未収録であったのは言うまでもナイが
これが『ブリタニキュス / ベレニス』に比して1/4くらいの薄さだったのは
『ベレニス』が途轍もなく長い戯曲だったからではナイ
(実際『ブリタニキュス』より短い)

『ブリタニキュス』と『ベレニス』とで訳注が合わせて100ページ以上あり
「解題」がこれまた100ページ以上に及ぶために
200ページ強分の厚みが増してたのだった。(゚д゚lll)ギャボ

200ページとゆーページ数からも歴然としてるが
訳注も「解題」もとにかく詳細で隙がナイ。・゚・(ノД`)・゚・。

とりわけ「解題」の中の「ラシーヌの生涯と作品」には
各作品の紹介と共にその作品に対する当時の評価などもあったので
これを読んだら元の話を知ってるだけに(※)
ラシーヌの脚本をちゃんと読んだような気にすっかりなってしまえてたが
既出の4作(フェードル、アンドロマック、ブリタニキュス、ベレニス)以外は
後に筑摩書房の『世界古典文学全集【48】ラシーヌ』を入手して読んで
そういえば全く未読であった、と改めて気付いたくらい
渡辺の「解題」は詳し過ぎたのだったヽ(゚∀。)ノ
『アレクサンドル大王』は伝記の邦訳本を総て持ってたし、『アタリー』も『エステル』も『旧約聖書』にある

そうなのだ、ラシーヌにすっかり魅了された自分は
絶版の全集をついに手に入れたのだった!

しかもかねてから中公世界の名著と筑摩世界文学大系は
「解説」の充実度で他に比肩するモノはナイと確信を持ってたので
迷わず筑摩書房の『世界古典文学全集【48】ラシーヌ』を購入したのだが
これが予想以上に素晴らしい内容だった!!

ラシーヌ執筆の全作品がもれなく年代順に収録されており
時代背景、公演の評判、ラシーヌが参考とした資料などの詳細が
各作品の冒頭の「解説」にあり
それとは別にラシーヌ自身が書いた序文や
時の権力者に送った作品についての書簡などもあり
要するにこれ一冊でラシーヌを完璧に網羅できてしまうのだ

それでも『ブリタニキュス / ベレニス』も買っておいて損はなかった
てか、この岩波文庫版新訳の訳注と「解題」は
ネロヲタの自分としては最強に俺得で死ねる・・・バタリ ゙〓■●゙

それにしてもラシーヌの扱う題材は
どうしてこうも自分のヲタ趣味と合致するのだろうか?

トロイ戦争ヲタには既読の『アンドロマック』も俺得だったが
未読の中にも『イフィジェニー』があり
ゲーテの『タウリス島のイフィゲーニエ』と読み比べれば
一粒で2度美味しく愉しめるってモノだ♪

そして未読の目玉はなんと言っても『アタリー』と『エステル』だが
これはフローベールの『ボヴァリー夫人』の中で
最も個性的な登場人物オメーが娘にアタリーと名付けてるのが
まさしくラシーヌの『アタリー』由来なのだった
ましてやそうと名づけたオメーの真意を推し量るためには
実際に読んでみナイコトには考察のしようもナイ以上に
作中でオメーが信仰する神ヴォルテールの著書『ルイ十四世の世紀』で
『アタリー』を高く評価しつつ『エステル』を貶してる
と知らなけらばいかんせん意味不明なのである。(゚д゚lll)ギャボ

『エステル』と『アタリー』はプルーストの『失われた時を求めて』でも
「スワン家のほうへ」第一部の「コンブレ」で比喩に使われてるが
もちろんこの2作品をただ読むだけでなく
完璧に理解してなければやはり意味不明なのである。(´д`;)ギャボ

しかしアレクサンドロス大王ヲタである自分にとって
未読の中で真っ先に読んだのは『アレクサンドル大王』だったがw

それとゆーのも自分の読書の仕方がいつも決まってて
未読の本はまず目次や索引からアレクサンドロスを探して
そこから読み始めるからだ

racine

ラシーヌの『エステル』と『アタリー』について述べてる箇所が
ヴォルテールの『ルイ十四世の世紀』の第2巻にあった

まず『エステル』と『アタリー』の訳注を見てみると次のようにある

『エステル』(Esther)及び『アタリー』(Athalie)
ラシーヌの創作活動の最後を飾るこの二作は、いずれも旧約聖書に取材し、合唱隊を登場させてギリシャ悲劇の形式に近づけてあり、晩年キリスト教に深く帰依するようになった作者が、悲劇の世界に新しい境地を開いたものとして注目される。
「アタリー」が初演当初成功しなかったのは、サン・シールの女生徒たちに対する宗教教育上の配慮から、衣装や装置を極端に簡素にしてしまったためとも言われるが、今日では、ラシーヌの代表作の一つとして、高く評価されている。

そして『ルイ十四世の世紀』の第27章には
モンテスパン夫人に代わって王の寵を受けるようになったマントノン夫人が
ラシーヌに『エステル』を依頼した経緯が以下のようにあった

知的な楽しみを復活させたのは、サン・シールの女学校である。ラシーヌは、ヤンセニスムと宮廷に気兼ねして、劇作を断念していたが、マントゥノン夫人が、このラシーヌに頼んで、自分の学校の生徒に上演できるような悲劇を作らせた。主題は聖書からとるというのが、その希望である。

王が病気になり、宮廷での艶やかな宴を一切取り止めてから
以来、観劇に姿を現すコトもなくなって
宮廷のみならず国中が塞いでた状態だったのだが
そこでマントノン夫人がささかやな観劇を自らの学院の生徒によって催し

まず、サン・シールの校内で、それから、1689年の冬、ヴェルサイユで、何度も、王の御前で上演される。

これに続く意表をつく文章が以下だ

宗教界の歴々や、ジェズイット教団の僧侶たちが、この妙な芝居を見ようとして、許可を得るのに汲々たるありさま。この作品が、当時、完全な成功を収めたのにひきかえ、二年後、『アタリー』が、同じ人々の手で上演され、全くの不首尾に終ったのは、注目に値する。

『エステル』は素人の女生徒による「妙な芝居」でもウケたらしい(゚ ゚;)
しかも宗教界の歴々やジェズイット教団の僧侶たちに?!
ところが『アタリー』は同じように「妙な芝居」であっても不評だった(-_-;)
それも宗教界の歴々やジェズイット教団の僧侶たちに?!

更にヴォルテール曰く

この両者が、作者の死後久しくしてから、パリで上演された時には、結果は正に正反対だったが、これは宮廷内の人間関係が変わったからだ。『アタリー』は、1717年に上演され、当然のことながら、感激の渦を巻き起こした。『エステル』の方は、1721年に上演されたが、何の反応もなく、その後二度と日の目を見ぬ。

キタ ━━━━━(゚∀゚)━━━━━ !

『エステル』はどうやら自分の予想してた通りに
ルイ14世の愛妾マントノン夫人の思惑に則った脚本だったようだ!!

つまり王の寵愛を過度に受けるエステルに自身を擬えてた芝居で
観ててそういうコトだとわかって権勢を誇る夫人へのお追従が絶えなかったのが
好評に繋がったのだな。(´д`;)ギャボ

ヴォルテールは「作者の死後」としてるが
要するにもうお追従は不要なマントノン夫人の権威の失墜後(※)で
だから1717年の『アタリー』の上演時も1721年の『エステル』の上演の際も
改めてプロの演劇集団による公演に正当な評価が下されたのだったが
その結果は『アタリー』の大当たり~(殴)
ルイ14世が1715年に没してるのでその少し前だろう

ところでヴォルテールは1ページ近く割いて『エステル』をクソ貶しに貶してるが
詩としては実に素晴らしい、と締め括ってラシーヌ自身を貶してはいナイ

ボヴァリー夫人 (河出文庫)

さてここで当初の疑問に話を戻すと
『ボヴァリー夫人』のオメーが娘にアタリーと名付けたのは
ヴォルテールに共鳴してるのだと合点が行った!
なぜならオメーは自らが神と仰ぐ人物を次のように挙げてる!!

ソクラテス、フランクリン、ヴォルテール、ベランジェの神だ!

ヴォルテールの言はオメーにとってキリストの福音なのだ(-人-;)

それにしてもマントノン夫人は
エステルに擬えられてさぞご満悦だっただろうが
マントノン夫人によって退けられたモンテスパン夫人も
アハシュエロスの元正妻ヴァスチ(ワシテ)に譬えられてて
さぞや悔しい思いをしてたのだろう

そう想像するとマントノン夫人もたいがいな女だが
意地悪の仕方が余りにも高尚なのがなんだか素敵に思えてくるし
それにそうとわかって耐えるモンテスパン夫人にしても
また更にそこでマントノン夫人に媚び諂ってる輩にしたってさえ
なんてインテリジェンスなのかと感動してしまうよなヽ(゚∀。)ノ

ヴォルテールにしてみればそれ以上に
不寛容なジェズイット教団の連中が『エステル』を絶賛してる図ワロタ
てなカンジなのかね(゚*゚;)

そしてそういう総てを踏まえてオメーのキャラクター設定を施したのだから
自分にはフローベールこそが神だな。(゚д゚lll)ギャボ

racine

『エステル』の原典も『アタリー』と同じく『旧約聖書』なのだが
こちらは目次に「エステル記」とあるので探す手間は不要

ペルシアの専制君主と美しい女奴隷の物語、てのが朧気な認識だったが
冒頭に首都がスサとあり

アハシュエロスすなわちインドからエチオピヤまで127州を治めた

てコトはアケメネス朝ペルシアの話で
確認するとアハシュエロス=クセルクセス1世じゃナイか。(゚д゚lll)ギャボ

歴史 下 (岩波文庫 青 405-3)

慌ててヘロドトスの『歴史』を開いてみると
「エステル記」と同じエピソードは見つからなかったが
クセルクセスもアハシュエロスと似たようなコトをしてたので
同一人物である確証が持てた。(´д`;)ギャボ

『歴史』の下巻にある【巻9】でクセルクセスは弟のマシステスの妻に横恋慕して
無碍にされたのでこの女自体は諦めたが
この弟夫婦の娘(名前は不明)を息子ダレイオスに嫁すよう取り計らいながらも
息子の嫁であるコトはお構いなしに自身の愛人にしてしまう・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

そこでクセルクセスは満足させてくれた娘に言う
「欲しいモノは何でも与えよう」と!

「エステル記」のアハシュエロスもエステルに会う度にこう言う!!

「王妃エステルよ、あなたの求めることは何か。あなたの願いは何か。国の半ばでもあなたに与えよう。」

これだけで既に同一人物な気がしてきたが
ここでユダヤ人のエステルがアハシュエロスに請いたモノが凄まじい!

1.ユダヤ人大量虐殺計画を企てた寵臣ハマンとその一族の処刑
2.エステルの叔父モルデカイの手柄に対しての取立て

ユダヤ人がユダヤ人大量虐殺計画の中止を請願するのはわかるが
当の寵臣とその息子ら10人の処刑では飽き足らず
一族の占めて7万5千人の殺戮をユダヤ人が行う許可を求めたのだ!!
ちなみにエステルの叔父の手柄とは王の暗殺計画を看破したコトだ

『旧約聖書』ではユダヤ人は神に選ばれた民族であるから
ユダヤ人が何をしても常に正義であり、危害を加え(ようとす)る者は容赦しナイ
とゆー道理を無理に通すために著された経典で
そういう意味でユダヤ人であるエステルの行いはユダヤ人にとっては正しいが
第三者の立場から見るとエステルこそ残忍酷薄に見えてしまう(苦笑)

アハシュエロスも寵妃エステルの望みを叶えたいだけなので悪意はナイのだろうが
言われるままに従って満足してて、正義も道理も憐憫の情もへったくれもナイ

一方、ヘロドトスによればクセルクセスも
娘(愛人となった息子ダレイオスの嫁)に誓言までして望みを叶えようとしたものの
娘が欲したモノがエステルに比べたらたわいナイモノでありながら
禍の元凶となり得るモノだったので困惑した(゚*゚;)
なんせクセルクセスが着てる正妻アメストリスの織った上着なのだからしてw
世の浮気男の常らしく、正妻には頭が上がらナイのだなヽ(゚∀。)ノ

それでも結局クセルクセスは娘に上着を与えてしまい
そうと知って激怒した正妻は報復に出る。(´д`;)ギャボ
しかも当の娘ではなくその母親に矛先を向ける。(゚д゚lll)ギャボ

元はと言えばクセルクセスはこの母親の方にこそ横恋慕してたので
正妻にしてみれば待ちかねた復讐だったかもしれナイし
クセルクセスのお気に入りの娘に傷をつければ
自身も不興を買ってしまうため母親の方にしたのか?!

いずれにしろ凄惨過ぎる仕打ちは以下の通り・・・

正妻は母親の身柄を自身に預けるようクセルクセスに掛け合うが
弟のマシステスの妻なので兄としては勝手に身柄を拘束するワケには行かず
まずはマシステスに離別を申し渡した・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

もちろんマシステスは離婚を受け入れようもなかったが
クセルクセスがそうして言い含めてる間にマシステスの妻は既に制裁を受けてて
帰宅したマシステスが見た妻は乳房も鼻も耳も舌も切られてた・・・((((; ゜Д゜))) ガクガクブルブル

事態に激昂したマシステスは兵を挙げるもクセルクセスに討ち取られるるる~

よく調べ物のために紐解く『旧約聖書』の中でも『歴史』の中でも
今までは引っかからなくて記憶に留めてなかった部分だったが
こうして改めて読んでみるとあんまりな話だな・・・バタリ ゙〓■●゙

ところで『旧約聖書』の「エステル記」では
アハシュエロスの正妻はワシテ(ヴァスチ)だったのだが
王の不興を買って王妃の位を剥奪されてしまい
そこへ代わって王妃の座についたのがエステルなのである
なのでこの『歴史』のクセルクセスの横恋慕から始まる一連の事件の時の正妻は
既にワシテではなくエステルなのではナイかと思うのだがどうだろう?
いや、この報復の残虐ぶりはエステルに間違いナイ(-人-;)
アメストリス=エステルに1票p(-_-+)q

ラシーヌの『フェードル / アンドロマック』が2006年に岩波文庫で復刊されたのを買い
巻末の「ジャン・ラシーヌ略年譜」に『アタリー』を発見したコトによって
フローベールの『ボヴァリー婦人』のオメーの娘の名アタリーの由来について改めて考察し始めたが
同じ年の暮れにまとめて購入した筑摩世界文学大系にも『フェードル』が収録されてた
LINK:筑摩世界文学大系【14】古典劇集

岩波文庫版の訳者渡辺守章による「解説」は30ページ以上に及び
読み応えはあっても残念ながら『アタリー』についての言及はなかったが
筑摩世界文学大系の方は訳者二宮フサによる解説が丸1ページ(※)で
概要は「ジャン・ラシーヌの作品群とその時代背景」と題するべきモノで
『アタリー』についても次のような決定的な事実が記されてた
筑摩世界文学大系の1ページは岩波文庫の3ページ分以上に相当する

とにかくラシーヌは1677年1月の『フェードル』上演を最後に、演劇の世界と絶縁した。彼が後年聖書に取材した宗教悲劇『エステル』、『アタリー』を書いたのは、当時のルイ14世の寵妃マントノン夫人の要請によるもので、2篇とも夫人の設立したサン・シールの女生徒たちによって演じられたのである。

ここへきて重要な見落としに気づいたのは
『アタリー』には必ず付随して『エステル』が絡んでた事実だ
Bajazet / Mithridate / Iphigenie / Phedre / Esther / Athalie [French]
二宮の上記引用によれば『エステル』も『アタリー』も
ラシーヌが演劇界と絶縁した後(※)の『旧約聖書』を題材とした作品で
マントノン夫人の要請でサン・シールの女生徒が演じるために書かれたのだった
ラシーヌが『フェードル』以降に書いたのは『エステル』と『アタリー』2作品のみ

改めて渡辺の『フェードル / アンドロマック』の巻末の「ジャン・ラシーヌ略年譜」で
『エステル』について確認すると次のようにあった

旧約聖書に基づき、ジャン=バチスト・モローが作曲した「合唱入り悲劇」は非常に国王の気に入り、宮廷中の話題となる。

ちょっと待て(-_-;)

『エステル』は素人の女生徒だけによって演じられたのなら
どれほど脚本が優れていようがお世辞にも絶賛されるようなモノではなかっただろう

宝塚のエンターテイメント性を知る現代人の自分にとっては
女生徒だけの芝居は微笑ましくも思える反面
日々の過酷な練習が宝塚の完成度を高めてると知ってて
貴族の孤児を寄せ集めただけの学校のクラブ活動が
同じレベルに到達するコトは断じて在り得ナイと思えるのだ。(´д`;)ギャボ

それでも『エステル』が

国王の気に入り、宮廷中の話題となる

なんて成功を収めてたとしたら
そこには芝居の出来とは別の要因がウケてたに違いナイのだ。(゚д゚lll)ギャボ

とりあえず『エステル』も『アタリー』も『旧約聖書』が原典なのはわかったし
『エステル』は目次にもある「エステル記」でペルシアの話だろうが
「アタリー記」てのはナイしその名に覚えがナイヽ(゚∀。)ノ

しかし『旧約聖書』は小学生の時に読破したので一応総てが既読の物語で
中には興味深く繰り返し読んでる部分とそうでナイ部分があり
記憶にナイアタリーの名が出てくるとしたら
特におもしろいと感じなくてすすんで読み返してなくて
更に参照すべき重大な記述(有名な場面、例えば預言とか)も含まれてなくて
しかも読み切り的に挿入されてるエピソードなのではナイかと予想でき
「列王紀」(※)の辺りと狙いを定めてたら下巻の第8章にアタリヤの名を発見できた
LINK:列王紀下8
自分の持ってる1955年発行の日本聖書協会の旧約聖書ではこの列王紀だけが「紀」の字を使ってる(他は「記」)

あらすじをものすごく簡単に述べると
異教の神バアルを信仰したために滅びた民族の話で
王アハジヤの母親でアハジヤ亡き後に王位を継いだのがアタリーだ

ユダヤ教徒からすれば異教徒=悪だったので
預言者エリシャはラモテ・ギレアデのエヒウなる者に
イスラエルの王ヨラムとユダの王アハジヤを撃ち
その一族アハブ王家を滅亡させて替わって王となるようけしかけた

エヒウは言われるままにヨラムとアハジヤを殺した後
ヨラムの母親のイゼベルを宦官に命じて惨殺させた(投げ落として馬に踏ませた)
ところがイゼベルは王の娘であったためその遺骸を葬るよう指示するが
頭蓋骨と手足しか見つからなかったと報告を受けた途端エヒウは
「だろ?犬に食われるって預言あったわw」って・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

アハブ王家へのエヒウの残虐行為は続き
王の子ら70人の首を籠に詰めて持ってこさせるわ
一族の42人が身を隠してるのを見つけて皆殺しにするわ
自身もバアル信仰をすると嘘を流布して
信者を神殿に集めて皆殺しにして神殿も破壊した

その殺戮に至る理由が異教徒であるコトだけなのは
現代日本人にとってはマジキチとしか思えナイが
当のエヒウにしてみると神の言を代弁する預言者によって
異教徒を一掃して代わって王になる使命を受けたので
それを生真面目にまっとうしてるだけなのだヽ(゚∀。)ノ

王となったエヒウはイスラエルを統治してたが治世28年で没し
一方、息子アハジヤを失いながらも生き延びたアタリーは
バアルを信仰しながら6年間国を治めてたのだが
ユダヤ教の神官にクーデターを起こされて殺された

ラシーヌの脚本はどんなだろうか想像もつかナイな・・・

racine

フローベールの『ボヴァリー夫人』に出てくるオメーは
科学の最先端の職種だったであろう薬剤師であり
粋人気取りでやたらと高尚なモノに憧れては
純朴な民衆を俗物と見下してるような人物なのだが
お気に入りだったりするのは自分と似てるからだろうか。(゚д゚lll)ギャボ

オメーは4人の子持ちで上から順に
長男が栄光の象徴ナポレオン、次男が自由の象徴フランクリン
などとたいそうな名前をつけてるのだが
次のイルマのローマン主義への譲歩、てのがわからナイし
1番下のアタリーがフランス演劇最大不朽の傑作に敬意を表して、だそうだが
初めて読んだ際には意味不明だった。(´д`;)ギャボ

すぐに調べようともしたがなんせ20ん年前のコト!
今みたいにググれなかったから専ら本に頼るしかナイのだが
おおよその見当くらいつかなければ本屋や図書館でも調べようがナイ!!

イルマのローマン主義ってのはフランスのロマン主義文学だろうか?
シャトーブリアンやユゴーの作にはイルマは見当たらナイが
それも自分が未読なだけだろうか?

アタリーのフランス演劇はフランス古典主義演劇だろうとは思ったが
それこそ当時は全く未読で未知の世界だったから
コルネイユか?モリエールか?ラシーヌか?
と絞るコトさえままならなかったのだ

そうして謎のままに年月は過ぎて
2006年の夏の岩波文庫の一括重版28点35冊の中に
ラシーヌの『フェードル / アンドロマック』があり
トロイ戦争ヲタの自分はアンドロマックがヘクトルの妻アンドロマケであるとピンときて
それ以上深いコトは何も考えずに購入した

フェードル アンドロマック (岩波文庫)

フランス古典主義演劇作家ラシーヌの作品に初めて触れたのがこの時で
それまではラシーヌ本人についてや作品について全然何も知らなかったので
本編を読む前にまず巻末の「解説」と「ジャン・ラシーヌ略年譜」にとりかかったが
訳者の渡辺守章による「年譜」は【略】とあるワリには15ページに及び
これをじっくり読み進んでいったら『アタリー』の作品名を発見!

1691年(53歳)
一月、サン・シールにおいて、悲劇『アタリー』の御前稽古。『エステル』で試みた実験、すなわちコロス(合唱隊)が重要な役割を占める古代悲劇に比肩しようとする計画であり、更には、オペラが流行させた壮麗な装置が効果を挙げるべき芝居でもあり、しかもラシーヌの「異教的悲劇」の「偉大な悪女」に匹敵する女王アタリーを主人公に据えた極めて野心的な作品である。しかし前作『エステル』が、宮廷内で余りに世俗的に評判になったことへの批判もあって、衣装なしで御前上演がなされただけである。(『アタリー』のコメディー・フランセーズ初演は1716年3月。)

これがオメーの言うフランス演劇最大不朽の傑作なのだな!
そうとわかればアマゾンで検索!!

だがしかし・・・『アタリー』の個別の邦訳本は見当たらナイし
全集には入ってるかもしれなかったが総て絶版状態にあり
収録作品リストがなくてどれに入ってるかわからナイのに
年代も古く状態も微妙なのに値段は破格な全集を買い漁るワケにもいかず
『アタリー』の入手を一旦は諦めざるを得なかった

但しこの時点までで以下のコトが判明した

1.ラシーヌ53歳の時の作品でこれが最期の作品となった
2.マントノン夫人の主催するサン・シール女子学院(貴族の孤児たちの教育機関)の生徒が演じた
3.ラシーヌの生前には衣装ナシの御前稽古のみで上演されなかった
4.コメディー・フランセーズによる初演は1716年でラシーヌの死後17年後だった

Racine's Athalie, Ed. with an Introduction, Containing a Treatise on Versification

そしてこれらの事実からどうも疑わしく思えてきたのが
『アタリー』がフランス演劇最大不朽の傑作だ、とのオメーの評価の真意だ

通常だったらプロの演劇集団が商業的成功を収めてこそ世間の評価も高まるのだが
既に前作の『エステル』から以降は素人の女学生が演じてるだけで
『アタリー』に至ってはそれさえ上演されてナイのだ?!

それでも『エステル』は

宮廷内で世俗的に評判になった

とゆーのだからこれはどう考えてもおかしな話だヽ(゚∀。)ノ

ラシーヌの『アタリー』(と加えて『エステル』)が
なぜルイ14世の愛妾マントノン夫人の許でのみ上演されてたのだろうか?
そしてなぜ(『エステル』の宮廷での成功があり)『アタリー』は上演前から不興を買ってたのか?
オメーが『アタリー』を絶賛してるのはどういう思惑からなのか?
いや、著者フローベールがオメーの人間像をどう見せようとしてるのか?

謎が深まるほどに魅了されるるる~