小説『ドリアン・グレイの肖像』にみる詩的表現

紀伊國屋新宿本店で「ほんのまくら」なるブックフェアをやってて
これが実に気色悪いのだが書き出しの一文が表紙になってて
著者名や作品名がわからナイ状態で売られてたのは
2012年の夏だった


出典:www.mishimasha.com

自分には読みたい本も買いたい本もあり過ぎて
こんなイベントに足を運んでまで
本の無駄買いをする意欲は到底持てナイが
小説の冒頭ってのは凄く興味深い

もちろんそれは興味の範疇にある小説に限った話で
この抽出の無作為さは闇鍋の具のような気持ち悪さしかナイ

オスカー・ワイルドの小説『ドリアン・グレイの肖像』は
次のような一節から始まってる

 アトリエの中には薔薇のゆたかな香りが満ち溢れ、かすかな夏の風が庭の木立を吹きぬけて、開けはなしの戸口から、ライラックの淀んだ匂いや、ピンク色に咲き誇るさんざしのひとしお細やかな香りを運んでくる。

自分は初めてこの出だしを読んだ時には
文脈からその情景を思い起こして
どう考えても矛盾してるとしか思えなかったw

美に対する直観が鈍い、とワイルドに嗤笑されそうだが
科学的に、理性的に、現実的に、考えてみれば
薔薇のきつい匂いが充満した部屋では
風にのって運ばれてきたライラックやさんざしの香りなど
感じ取れるはずもナイのだ。(´д`;)ギャボ

そして少し先に読み進むと
これがまたよくわからナイ例えにぶつかるるる~

時おり、おもてを飛ぶ小鳥の夢のような影が、大きな窓にかかった長い山繭織りのカーテンをよぎり、その一瞬、まさに日本的な気分をつくり出す。すると、かれの脳裡には、固定した芸術媒体を通じて身軽さと動きの感じを伝えようとするあの東京の画家たちの硬玉のように青白い顔が浮んでくる。

え~と・・・。(゚д゚lll)ギャボ

このワイルドの日本観を用いた例えは未だに理解に苦しむが
情景をはっきりと思い描こうとするからこそ
さっぱり掴めなくなるのだ
単に異国情緒の雰囲気が漂った気がする、なんてトコロだろうか?

どうもワイルドの小説は表現が詩的過ぎるのであるるる~

確かにこういう表現は
ボードレールやランボーの詩には多用されてて
はっきり思い浮かべると情景が重なり合ってしまい
実体が掴めなくなってしまうのだが
それが詩なら抽象的であっても何も問題はナイ

悪の華 (集英社文庫)

尤も詩の場合には
情景の正確さより語句の美しさ自体を愉しむので
矛盾が生じてもそれに捉われるコトもナイのだが
小説中ではどうも引っかかるのだ

ボードレールはこの表現方法についても自ら詩作してるが
その詩のタイトル『コレスポンス』は
鈴木信太郎によって【交感】
また堀口大學によって【呼應】と訳されてて
これは五感によって概念を直観的に感じさせる手法である

万人に共有される秩序だった理解ではなく
特異的な美感を持つ者にしか感じようがナイ「悟り」・・・とでも言おうか?

そのモノの本質的な美を感じ取らせるために
研ぎ澄まされた美意識から共鳴を呼び覚ます語句を鏤めるのだが
その語句には自然の色や香り、花や鳥の名など
これは残念ながら幼少期の内にその美しさに胸を打たれた記憶がなければ
どうにも持ち得るコトができナイ感覚だったりもする

なのでまるでわからナイモノの門前払いをしたがってるかのようなのだが
小説でそこまでやるのはさすがワイルドだなw

太陽と月に背いて

これって邦題が絶妙ですよね
原題は『Total Eclipse』
eclipseは名声などが失墜するとゆー意味ですが
天文学用語では食:しょくで
いずれにせよ、光を遮るって意味です
つまり完全に暗黒の状態なんですよ
これをどう邦題かするか・・・

完全な失墜

ぢゃつまらナイでしょ(笑)
そこで食の意味を取り入れて
太陽と月が出てくる
ランボーとヴェルレーヌのソドミイ:衆道の関係を
暗に表すようなダブル・ミーニングも兼ねて
その宿命をタイトルに託したのかね?

Total Eclipse (1995) / 太陽と月に背いて 北米版DVD  [Import] [DVD]

お天道様の下を歩けナイ2人

月夜に2人はアブサンを呑みに出かけるが

狂気に包まれて崩壊してしまう

誰が2人をわかってくれるだろう

夜の帳だけが自分たちを隠しおおす

そんな風に作為的な詩的表現が見え隠れする・・・
原題と邦題の関係はとても厄介な問題ですが
これはクリアーした好例だと思います

これはランボーですが
他にもマルキ・ド・サドの『クイルズ』も
好きな作家の伝記的映画として
とても興味深く観て感銘を受けました(レビュー書いちまった)

『オスカー・ワイルド』も観てみたいと思いつつ
未見のまま・・・
積極的に観る気が起きナイのは
ワイルド役の役者が余りにも美しくナイからですが(爆)
それもボジー役のジュード・ロウの美しさを
際立たせるためと言えばそうなのかもしれませんがね~

それにしても常々思うのは
美しい男はその美しさが稀有なために理解されナイし
それが理解できる美しくもナイ男と恋に落ちる
とゆーのが常套パターンですね

これが神話の時代なら
神に愛でられるのかもしれませんが・・・
もっとも神話の時代でも
美しい男は悲恋に終わるようですがね
そして皆薄命なのです

しかし神に愛でられるべき美しい男が
美しくナイ男に陵辱される姿は
なぜああも官能的なのでしょうか?

ポール・ヴェルレーヌとアルチュール・ランボー
日本ではまだ江戸時代だった頃のフランスの詩人

この2人の関係はDVD『太陽と月に背いて』参照・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

ヴェルレーヌの詩篇は上田敏の訳が余りにも素晴らしくて
たぶん誰でも知ってるであろう一節に

  秋の日のヴィオロンのためいきの、身にしみてひたぶるにうら悲し。
  <以下略>

  ちまたに雨の降るごとく、わが心にも涙ふる。
  <以下略>

などがある
ああ、これか~って思ったでしょ?!
自分が特に好きなのは

  大きな黒いまどろみが、いのちの上へ上からくる。
  <中略>
  墓穴の祠の中で、一つの手に揺られている
  一つのゆりかご―それが今の自分だ。
  在るはただ沈黙だけ!

とゆーモノですが
これに呼応するようなランボーの詩がまた゚+.(・∀・)゚+.゚イイ

  <前略>
  ぼくが泣いて涙を流すと、あたり一面きんいろに見え
  ―そしてもう飲めなかった。

彼らはアブサンを 金色の酒 と呼んでたのですが
この金色の酒の虜でいつも やられるまで 呑んでたのです
それを真似て自分もアブサンを呑んでは
ベッドで涙に暮れたりしてましたね・・・

最初は暗黒です
不安にかられているからです
それがもう呑めナイくらいに呑んでしまうと
世界が薔薇色になるんです(金色と表現してもイイかもしれません)

ああ、こういうコトだったのか・・・

心地よい眠りに薔薇色の世界は苛まれ
薔薇色が閉ざされた頃には悪夢に魘されてる

起きたら仕事が待ってます
自分は仕事には穴を開けられナイ人間です
そう思い込んで自己催眠かけてるのかもしれませんがね

このままずっと呑んでいられナイモノだろうか?

薔薇色の世界の誘惑にはまだ負けたコトはナイです
負けてみたい気もするけど(笑)

そして今夜もとりあえず薔薇色を見るまで呑みます(爆)

・・・また呑む言い訳でした( *゚Д゚)つ[酒]

ちなみに後の2つは片山敏彦訳です
昭和35年4月5日発行の世界詩集(アポロン社)より