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19世紀のフランス文学にハマって
メリメの『カルメン』
フローベールの『ボヴァリー夫人』
モーパッサンの『脂肪の塊』『ベラミ』
そして『女の一生』を立て続けに読んでた時期があって
全てがたまたま杉捷夫(としお)訳だった

『カルメン』を読むまで
カルメンの人物像を誤解してて
男にとってのみ魅力的な女だと思ってたが
女としてでなく、人として
生き様がカッコ好くて感動したし
死に様がカッコ好過ぎたのは残念だった

『ボヴァリー夫人』は
ボヴァリー夫人たるエマ(エンマ)が
夢見がちで不倫にひた走り
見栄っ張りで借金まみれになるような
勘違いバカ女で嫌悪感を抱いたが
自殺で落とし前を付けたのは
理想と現実のギャップに気付いたからだろうし
気付けナイような教育しか受けておらず
気付かせてくれる人間関係も育めなかったので
相対的には憐憫の情を抱けなくもナイ

『脂肪の塊』だけは短編で
面と向かってそうとは呼ばれてナイが
「脂肪の塊」と称されて噂される娼婦が
ラストで嗚咽するトコロで
一緒に嗚咽してしまい
読後もしばし嗚咽したままで
平常心を取り戻すのに時間がかかった程で
必ず泣いてしまう物語の1つとなった

『ベラミ』はそんな『脂肪の塊』と同じ作者なのかと
疑念を抱いてしまう程のピカレスク度MAX小説で
女を食い物にしてのし上がる男が主人公で
読後にはスタンダールの『赤と黒』で
出世を目論むジュリアン・ソレルが
なんだが可愛く思えてきた

そして『女の一生』のヒロインのジャンヌは
読み進むほどに肩透かしを食らって
何一つ共感できナイままに反感を持ってしまい
いくら悲惨な目に遭おうと
同情の余地もナイ程に嫌気が差した

先に『脂肪の塊』等を読んでおらず
『女の一生』一作だけだったら
モーパッサンを過小評価してたと思われw

美しくしなやかでスリリングな人間が好きで
特に女性は稀有な美貌によって
既にモラル的な是非は超越してるような美女だと
非凡な言動に魅せられ、心惹かれるのだが
するコトなすコト凡庸なジャンヌは
つまらナイ女の代表なのだ。(´д`;)ギャボ

でもそんなコトはタイトルで察するべきだった!
非凡な女の境涯が描かれてる作品は
『カルメン』や『ボヴァリー夫人』や『脂肪の塊』のように
その女の呼び名を冠してるのだが
『女の一生』は原題もそのまま『Une vie』で
不特定な女のままある人生、なのだよ。(゚д゚lll)ギャボ

そんな凡庸なジャンヌだが
父親のパーソナリティは実に興味深い!
93年を苦々しく思いつつ
革命の起爆剤となったであろう
ジャン・ジャック・ルソーの自然崇拝を
従来のキリスト教よりは信奉する!!

93年・・・1793年はルイ16世が処刑された年で
この年を苦々しく思うのは貴族だからだが
それだけの単純なキャラクターではナイ
貴族と言っても田舎に居を構えて
自然の中でのびのびと育ったせいか
貴族特有の高慢な性質も
悠然とした性格にすっかり呑み込まれてしまってて
周囲に不快感を与えるほど露呈しナイのだ
男気がある、とゆー程度

そして更にキリスト教には懐疑的で
ルソーの自然主義に共感を覚えてる点で
自分にとっては基本的に理解し合える相手だ

以上の父親についてのプロフィールは冒頭にあり
物語が進む中で少しづつ過去も解き明かされ
若い時にはなかなかどうしてやんちゃだったようで
情に脆く、感動しやすく
単に善良ではナイ心根の良さを持ち合わせてるぽい

その妻でありジャンヌの母親でもある婦人は
この父親に比すれば影が薄い存在だが
途中でいきなり意外な過去が発覚したりするるる~

そんな両親にしては
娘のジャンヌが主人公でありながら凡庸なのは
多感な時期に修道院にやられてたのが
原因と思われ。(´д`;)ギャボ

そんなワケで『女の一生』は
自分的には駄作と打ち捨ててたのだが
アラフォーになって違う訳で読み返してみたら
ジャンヌは凡庸だなんて
一言で簡単に片付けられなくなってた

ジャンヌの生活や人生に対する無欲さが
常軌を逸してるレベルで
非凡なコトに改めて気付いたのだ。(゚д゚lll)ギャボ

そしてジャンヌの全ての悲運は
その無欲さによるモノだとも思えてきた

例えば「金が欲しい」と思うから
働く(正攻法)、強奪する(非合法)
あるいはジャンヌの息子のように無心するのだが
無欲なので得ようと思わず
何のアクションも起こさずにいるし
逆に息子にたかられるままに
じゃんじゃん与えてしまえるのだ

浮気を放置しっ放しのダンナに対しても
悲しむだけで何の働きかけもしナイのは
単に裏切られたのが悲しいだけで
ダンナを欲してナイからだ

むしろダンナに限らず男が欲しくナイのだろう
そこはレズビアンの自分には唯一共感できる部分だw
ダンナにも他の男にも心や身体が傾くコトがなく
だから関心をすら惹く気がなく
女として美しくあろうなどと思いつきもせず
無欲なのだ

とはいえ、ジャンヌは冷酷な人間でもなく
フツーに愛情を育めるタイプだが
それを子供にだけ注いでしまったコトで
しかも庇護や過保護が過分に含まれてたせいで
息子の放蕩三昧が歯止めの利かナイレベルに達したのだ

ジャンヌはこの時代の良家の奥様にしては
赤ん坊を乳母に任せずに
自身で育てたのも珍しいってか変わってるが
乳母に任せっきりの育児に対して
「おかしいだろう?」と意見したのがルソーなので
さすが父親がルソー崇拝者だけのコトはある

でもジャンヌ自身はきっと
ルソーの教育論『エミール』を読んでおらず
だから息子を甘やかし過ぎて
ダメンズに育て上げてしまったんだろうヽ(゚∀。)ノ

ジャンヌは他の本もロクに読んでなかったから
その無味乾燥とした人生の中で
唯一感動したのがキリスト教なのは
もれなく当たり前の話だなw

『聖書』が世界的なベストセラーなのは
本を読まナイ大多数が唯一読んだ本だからだなwww

でもジャンヌはこれも父親の影響なのか
結果としては敬虔な信者にはならなかったのだ
教会に通ったりしなかったし
子供にも信仰を強要しなかった

なんせ子供の聖体拝受をどうしようか迷ってるのだ
同じくモーパッサンの『メゾン テリエ』では
娼婦が娘に聖体拝受をさせる話で
これは信仰心よりも親心で
堅気の子のように体裁を整えてやるんですが
それと比べたらジャンヌの信仰心は
恐らく娼婦にも異端視されるほどなんだろう

つまりジャンヌは人生には受身で翻弄されてても
決して世間には流されておらず
凡庸な人生を非凡に生き抜いたがために
不幸に身をやつした気がしてきた

毎朝6時から家事の合間に『クラシック倶楽部』と『新 漢詩紀行』を見てるが
今朝の『クラシック倶楽部』はがっつり観てしまった

楽器の世界コレクション1 - ブランシェのチェンバロ - 18世紀ヴェルサイユ・クラヴサン音楽の美の世界 浜松市楽器博物館所蔵の名器“ブランシェ”による [DVD]
百合の花ひらく フランスの美・ブランシェ・チェンバロ フランソワ・クープラン/クラヴサン曲集 [浜松市楽器博物館コレクションシリーズ8]

18世紀のフランソワ・ブランシェ作のチェンバロだが
これがなんと浜松の楽器博物館にあるとはついぞ知らなかった(゚*゚;)
LINK:楽器博物館

しかも木製の250年以上前の楽器が
現代に至って演奏が出来る状態にあるとはとても思えなかったのだが
館長の方のコメントでは「眠ってた」だけだったらしく
これが目覚めたワケなのだ・・・ホゥ(*-∀-)

それにしても1曲目のタイトルに驚愕!

『葦』・・・バタリ ゙〓■●゙

最近自分はどんだけ【葦】に縁があるのか(クープラン作曲)

そうこうしてる内になんとラモーの曲を!!

『アルマンド』『やさしい訴え』

逆に『ラモー』って曲もあってこれもやった(フォルクレ作曲)

チェンバロの響きは物悲しいが重くなくて、繊細で可憐だが力強さを秘めてるようなカンジ・・・
って、本トにつくづく音楽がわからナイ人間だ、自分(滝汗)

まあそうして自分はどの曲もうっとりと聴いてしまえるが
ルソーはラモーに対して批判的だ
でもどこがマズイのか自分にはさっぱりわからナイヽ(゚∀。)ノ

ルソーは音楽に長けてて『むすんでひらいて』の作曲者でもある
そんなルソーがラモーの音楽を批判するのは
ルソーが理想とする音楽からするとラモーの音楽は正しくナイ、のだろう
LINK:ルソー音楽年譜

ルソーとラモーは上記参考LINKの年譜だけからすると
音楽そのものではなく音楽の定義=音楽論、が噛み合ってなかっただけなのか?
とも思えてくるがいずれ自分には理解不可能に違いナイ

そういえばディドロの『ラモーの甥』は未読のままだが
これはやっぱ読むべきなのだろう・・・新刊売ってナイのだがw
LINK:ドゥニ・ディドロ『ラモーの甥』

ところで昨夜は仕事帰りに購入したヴォルテールの『寛容論』を読みながら
ルソーに読んで欲しい本だ、と思ってたトコロで
今朝はなんともタイムリーな番組だった。(゚д゚lll)ギャボ

ルソーはラモーともそうして音楽論でバトルしてたが著書『エミール』の中で
『ラフォンテーヌの寓話』を子供に読ませるべきではナイ、と完全否定してたりするるる~

『エミール』は教育の理想形態(自然回帰)を説いたモノだが
ラフォンテーヌは子供に読ませる理想的な内容と比較して正しくナイ、のだろう

なんせルソーは生真面目な田舎者なのだ(-_-;)
そこまでは決して悪いコトではナイが
都会の人間よりずっと清く正しく美しく生きてる自負があり
それを場を弁えずに振りかざしまくるから周囲はとんだとばっちりなのだよ

実際にはルソーが敵視するような都会人は存在しなくて
自身の妄想が人々を都会的に見せてるのだが
それに気付いてなくてカチンとくれば毒づいてしまうのだろうな
カチンとくるのも自身の無為な劣等感からだろうに・・・

ヴォルテールやディドロは都会的でも何でもなく寛容なだけなのだ
ヴォルテール曰く

寛容とは何であるか。
それは人類の持ち分である。
われわれはすべて弱さと過ちからつくりあげられているのだ。
われわれの愚行をたがいに許しあおう。
これが自然の第一の掟である。

自身も異質なれば他者の異種なるを認めざるを得ナイが
ルソーのように模範通りに生きてるつもりで
いつでも絶対に自身が正しいとゆー思い込みが激しいと
寛容になるのは悪徳に染まるより困難なのだろう。(´д`;)ギャボ

事実ルソーは理想の教育論を説きながら
自身の子は捨て子してるのだ・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

でもルソーはそうして赤っ恥を曝した後で
『告白』そして『孤独な散歩者の夢想』を執筆して
人間らしい゚+.(・∀・)゚+.゚イイカンジになってきたと思うから
それで愛しく思うのであった(*^^*)

もし同じ時代に生きてたらルソーの良き理解者として
スイスの田舎まで彼を訪ねて一緒に散歩をしながら彼の憤りを全部聴いてあげたい

お礼にクラヴサンを奏でてもらったりして・・・ホゥ(*-∀-)
こういう実直なタイプは理解を示せばきっと驚くほど素直になついてくるだろうなw
カワ゚+.(・∀・)゚+.゚イイかも♪

でもパリに帰れば
ヴォルテールの愛人でディドロを夫に持つ
なんて゚+.(・∀・)゚+.゚イイな~

ディドロとは一緒に『百科全書』の編纂の仕事をしたい
同志として共に生きて行きたい人だ

ヴォルテールとは一緒に観劇をしたい
愉しみを享受し合うのにこんなに魅力的な人はいナイ

あ~なぜ違う時代に生まれたのだろう。・゚・(ノД`)・゚・。

近年になって改めて『ロビンソン・クルーソー』を読んだ

初めて児童版を読んだ際には1日で読破したが
今回、完訳に1週間以上かかったのは
かつて読んだ版が随分省略されてたに違いナイ

ロビンソン・クルーソー (河出文庫)

だがしかし・・・。(´д`;)ギャボ

ロビンソン・クルーソー (岩波少年文庫)

小学生の間に何度か読み返してて
その都度、ずっと興奮しながら楽しく読みきってたが
今回は完訳とはいえ、特に参照すべき事項もなく
寄り道もせず1/3くらいまで快調なペースで読み進んだのに
突然、止まってしまった

なんで止まったかって
なんかいきなりがっかりしてしまったのだ
ちょうどロビンソン・クルーソーが無人島に1人の孤独な境遇から
それまでの人生を悔いて(要するに罰が当たった、と)
ついぞ祈ったコトなどなかった神といきなり向かい合ってしまうシーンが
茶番にしか思えなかったからだ。(゚д゚lll)ギャボ

自分のようにキリスト教圏で生息してナイ人間は
酷い目に遭った時に天罰かもしれナイ、と思ったとしても
悔い改めるべきコトは神にではなく自身の良心に問い質すし
償いをするのに神に赦しを請うて祈ったりせず
どうやって償うべきか考え、それを実行するのみだ

神を蔑ろにするとこんな酷い目に遭うぞ!
でも祈ったら助かる!!

そんなキリスト教徒目線での不埒な輩を脅すために
仕掛けられた物語のようにしか思えなくなって
すっかりしらけてしまったのだ・・・

児童版は日本人の子供向けに宗教色の濃い部分は削ってあって
フツーに冒険小説の様相だったが
完訳版はまるでピューリタン文学、しかも改悛の書で
確かに解説を読んでみると以下のようにあった

ミルトンのばあいには純正でなく、バニヤンのばあいには想像的であったピュリタニズムは、デフォーと出会うことによってはじめて、作品においても行動においても、きちんとした形を備えた積極的な信仰となった。

やっぱ正しくピューリタニズムだょヽ(゚∀。)ノ
キリスト者でナイ自分が感じた違和感は間違ってなかったが
そうなるとデフォーの本意が気になるるる~
改悛の書のパロディなんだろうか?
それともマヂ改悛の書なんだろうか???

欠乏を訴える不満は、すべて、現に与えられているものを感謝する心の欠乏から生ずる、というのが私の考え方だった。

こんな一節なら
宗教の壁を越えても万人が納得できる素晴らしい格言だが
こういう真摯な部分があるとゆーコトは
これはやはりマヂなんだろうな、デフォー(-人-;)

とすると、ピューリタン文学として大切な部分
つまり神との対話によって生じる自分自身との葛藤が
最も肝要な神との対話の部分だけ見事に取り除かれてるのは
子供向けの抄訳の中でもおそらく日本だけだろうなw

換言すれば、完訳版に茶番を見出してしまうのは
自分のような現代日本人だけで
例え異教徒だとしてもなんらかの宗教圏内に生きる人間にとっては
神を自身の神に挿げ替えて読むコトで
実に有益なワリには抹香臭さがナイ優れた文学だ

改悛の必要な不埒な少年にとって
ミルトンやバニヤンに比べたらどれほど読み易いか?!

ルソーもそう感じたらしく
『エミール』で「子供の時に読むべき唯一の本」として
『ロビンソン・クルーソー』を挙げてるし
バルザックの『ルイ・ランベール』では
初めて感動した、少年の心情を次のように表現してる

その宵じゅうオーグー神父の談話がわたくしの上に及ぼした影響は、わたくしの少年時代を通じて最もはげしいものの一つで、『ロビンソン・クルーソー』を読んだときの印象にしかくらべられない。

「自然に帰れ」とのたまうルソーにしては
子供を信仰に目覚めさせるために『ロビンソン・クルーソー』を強いるのは
どうも不自然な気もするし
ましてや最も自然に湧き上がらなくては意味のナイ信仰心を
人工的な演出によって授けよう、と考えてるのはどうかと思う反面
本から得た感動によって人生が決定付けられた自分には
素晴らしいアイディアだ、と絶賛せざると得ナイ

またルソーの教えに従ってのコトかどうかは謎だが
キリスト教がバックボーンにある国で
実際に『ロビンソン・クルーソー』が少年時代の必読書だからこそ
読者はバルザックの表現に共感できるのであって
残念ながらそうではナイ日本人には共感を覚えられナイのである

但し、自分は完訳を読むまで『ロビンソン・クルーソー』を
スティーヴンソンの『宝島』とかと同じく
最上級の冒険読物として捉えてて心から愉しんでたし
今でもその感動は持続してる