Domine, Quo vadis?

1951年のハリウッド映画は
英語読みの『クォ・ヴァディス』で
1954年の岩波文庫も
同じく『クォ・ヴァディス』だった

これが1995年に岩波文庫から出た新訳では
ラテン語に忠実な読みになって
『クオ・ワディス』とされてしまった。(゚д゚lll)ギャボ

通常はギリシア語名やラテン語名の
英語読みには反対派なのだが
長年に渡って慣れ親しんでしまうと
正しい方に違和感がある。(´д`;)ギャボ

かつて自分が愛読した児童書は
1964年に出た偕成社少女世界文学全集だが
Vが「ヴ」でなくて
「バビブベボ」に置き換えられてて
『クォ・バディス』だったし
著者名もシェンキェビチになってたし
映画ではヴィニシウスとリジアだったのも
ビニキウスとリギアだった

しかし新訳はラテン語読みに正しく
『クオ・ワディス』になってるのと同様
ヴィニシウスもウィニシウスとなり
何が不便かってググる際に
何通りもググる必要が生じるし
そうしてググる人のコトを考えると
こうして記事にする時にも
表記について延々と説明する羽目に(-_-;)

てなワケで
表記についてが長くなったが
以下は本題の「QUO VADIS」の意味について

『新約聖書』では「ヨハネの福音書」13-36の
【最後の晩餐】のすぐ後の場面での
シモン(別名ペテロ)の科白に出てくる

Domine, Quo vadis?

Domine:主よ(とゆー呼びかけ)
Quo vadis?:いずこへ?
主と呼ばれたイエス・キリストの行く手には
磔刑に処される運命が待ち受けてるので
最終的な行き先は処刑場だ

しかしイエスはこれに答えず
シモンに以下のような暗示的な予言をする

鶏が鳴くまでに、あなたは3度わたしをしらないと言います。

シモンは予言通りに
イエスを知らナイと3度言い
イエスは十字架に架けられたが
シモンは免れたのだった

以降、シモンはペテロを名乗るが
その後、ローマにおいて
ぺテロ自身の身の上が危うくなり
こっそりローマを出ようとした時の話が
『新約聖書外典』の「ペテロ行伝」35にある

逃げ出そうとしてるまさにその時
イエス(の幻影)が現れて
ペテロが同じ科白でイエスに問うのだ

Domine, Quo vadis?

イエスはローマに戻って
十字架に架けられようとしてたので
「今度こそ自身が十字架に架けられよう!」
そんな決意をしたペテロは
ローマに戻って磔刑に処された

しかも主と同じでは畏れ多いとして
わざわざさかさまになって
十字架に架けられたが
シェンキェヴィチの小説に出てくるのは
後の方の問いかけのシーンだ

それにしても「ペテロ行伝」が
『新約聖書』の正典から排除されたのは
正典とするのに相応しくなかったからだろうが
その基準は曖昧模糊としてる

ユダヤ教とキリスト教では
正典に入れてるモノが同じではなくて
そんな事情からも明らかなように
正典か外典かの差と信憑性は無関係だ

ぶっちゃけ、どちらも信憑性に欠けるが
外典にも興味深い挿話は満載で
芸術作品の主題になってるモノも多い

と、この辺りでそろそろ
『クォ・ヴァディス』のあらすじを
映画版に沿って紹介しておく

青年貴族マーカス・ヴィニシウスのいた軍隊が
凱旋帰国したが
そのまますぐに帰宅できなかったのは
ネロが戦勝記念の祝典を行うまで
足止めを食らったからだった

その間にヴィニシウスは
アウルス将軍の館で世話になるが
この館で運命の美(少)女リジアと出会う

リジアとはローマに滅ぼされた蛮族の国名で
ローマにしてみたら蛮族抑止のための討伐なれど
勝手に蛮族呼ばわりされて滅ぼされた方からすると
ローマに略奪されたとしか言いようがナイが
その討伐なり略奪なりの際に孤児になった娘が
亡き祖国の名を名乗ってた

それもそのはずで
リジアはただの戦災孤児でなく
その国の王女だったらしく
忠実な下僕の巨人ウルススも
共にアウルス将軍の家に身を寄せてた

本来なら元の身分に関係なく
侵略されてローマ帝国の一部となったら
その国の民は王女であれ
ローマ人の奴隷となるのが常だろうが
リジアはアウルス将軍夫妻に
本トの娘のように大切に育てられてた

これはキリストの教えの高潔さが
この物語の主題でもあるので
キリスト教徒のアウルス夫妻が
慈悲心に優れてると示したかったのだろう

映画ではヴィニシウスとリジアの
ロマンス仕立てにもなってるが
基本的にはヴィニシウスの改悛の物語であり
キリスト教徒が大嫌いなネロを
ローマの大火の犯人に仕立て上げて
極悪非道のレッテルを貼るのが
目的なのではなかろうか?!

著者のシェンキェヴィチはポーランド人で
もちろんキリスト教徒だろうが
それ以上に祖国の独立を望んでて
圧政に対しての正しき者たちの抵抗を
描きたかったのだろうし
そこでわかりやすいように
ネロの時代を脚色したのだろう

でもローマの大火はネロの仕業ではなく
キリスト教信者はネロ以外の皇帝も
厳しく取り締まってたのだ

ちなみに「ペテロ行伝」の最後には
ネロがペテロの処刑には関わってなかった事実と
その後キリスト教信者の迫害から
手を引いたコトがちゃんと述べられてる

またリジアなる国は
実はポーランドのコトで
故国を失った王女リジアは
シェンキェヴィチ自身を投影してるるる~

ELEGANTIAE ARBITER【趣味の審判者】

『クォ・ヴァディス』の著者
ヘンリク・シェンキェヴィチは
ポーランド人初のノーベル賞受賞者だ

だがしかし
彼がノーベル文学賞を受賞したのは1905年で
その時、ポーランドは完全に消滅してて
帝政ロシアの一部となってた

シェンキェヴィチが生まれた時には
まだポーランド(立憲)王国と称されてたが
実態は国王を既に帝政ロシアの皇帝が兼任してて
ポーランド人による国家ではなかったのだ

ポーランド独立を願いつつ
残念ながら独立前に死去してしまうが
そんなシェンキェヴィチの
『クォ・ヴァディス』以外の作品は
愛国者の果敢な闘いを題材にした小説が多い

まあ『クォ・ヴァディス』にしても
迫害を受けるキリスト教徒が
信仰や信念を曲げずに
死を選ぶ姿が克明に描かれており
やはり不屈の精神で抗う民衆がテーマだ

実在した登場人物が出てくる中でも
とりわけネロの側近のペトロニウスが
活き活きと描写されてるのが魅力的だが
いったいどこまでが史実で
どこからが創作なのか
その典拠を確認してみたくなった

まず児童版『クォ・バディス』の巻末に
「解説」として次のようにあった

スエトニウスという歴史家が書いたローマ時代の本を参考にして、1896年、この世界的な傑作、「クォ・バディス」を書きあげたのでした

これをずっと信じてて
いざ、スエトニウスの『ローマ皇帝伝』を
上下巻とも購入して読んでみるも・・・

確かに『ローマ皇帝伝(下)』では
ネロのプロフィールは詳述されてたが
ペトロニウスについては
その名がただの1度も出てこず・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

とゆーコトはシェンキェヴィチは
ネロについてはこの本も参考にしただろうが
ペトロニウスの特異な人物像などは
別の書物を参照してるはずだ

自分の知る限りでは
タキトゥスの『年代記(下)』において
3ページ弱で綴られてるのみが
ペトロニウスの全貌だ

1.昼日なか眠って、夜を享楽に生きた

2.無精、無頓着だったが、それが天真爛漫と見受けられた

3.激務も全うした精力家だったが、背徳者を装いネロを誑かした

1.昼日なか眠って、夜を享楽に生きた

そう言えば、Slaughterの曲には
まさにそんなペトロニウス節があった

Up all night, sleep all day, that’s right♪

これは簡潔に表現すれば
「不良」だったってコトだろうが
社会的地位が高くして「不良」てのは
潔くて゚+.(・∀・)゚+.゚イイね!

尤もネロなんかは
皇帝にしてアナーキストだから
尚更カッコ゚+.(・∀・)゚+.゚イイのだがw

なんせいくらローマが退廃してたとはいえ
当時のローマ市民の日常生活は
現代人には考えが及ばナイ健全さで
日の出と共に起きて
陽が沈んだら寝るしかなかったのは
当たり前ながら夜は真っ暗だったからだ

電気がなければ
蝋燭の灯りだけが頼りなので
そんな時代に夜を愉しむのだから
灯りの設備に無駄に金をかけて
贅を尽くしてたのだ

ペトロニウスは不道徳な金持ちだったが
彼が自腹を切るようなコトは稀で
その不道徳の限りを一身に享受するネロが
国庫から無尽蔵に浪費してたと思われ

そうして金に糸目を付けなかったからこそ
一切の道徳観念を無視して
愉しみに耽溺できたのだろう

でも実のトコロ
かつてのネロを指導した哲学者セネカこそが
破格の金持ちだったり・・・。(゚д゚lll)ギャボ

2.無精、無頓着だったが、それが天真爛漫と見受けられた

これこそがペトロニウスの真価で
無精とか無頓着とかは
鵜呑みにすると全く的を得なくなるが
ペトロニウスは何に対してもそうだったのでなく
興味の範疇以外がそうだったのだ

天真爛漫と見受けられたのは
嫣然としてたからだろう
いや、「嫣然(えんぜん)」てのは
通常は美女の微笑を表現するのに使う言葉だが
ペトロニウス程の粋人(すいじん)には
むしろ似つかわしいかもだ

ああそう、粋人の意味を説明するくらい
無粋なコトもなかろうが
読んで字の如くで粋な人であり
単なるインテリでなく
それを踏まえて遊び心がある人だ

教養があっても
それを万人にひけらかすコトなく
わかる相手にだけ仄めかし
わかった同士だけが納得するのだね

その点、セネカは洒落もわかる教養人だが
ペトロニウスと比すれば
まだしも生真面目だったので
ネロの放縦を横目に見過ごしつつも
内心は気を揉んでただろうが
そんなセネカに対しても
ペトロニウスは臆するコトなく
嫣然とやり過ごしてたのを傍から見れば
なるほど、天真爛漫に映ったはず

3.激務も全うした精力家だったが、背徳者を装いネロを誑かした

タキトゥスはペトロニウスを
「贅沢の通人」と表現してるが
資産を食い潰してる文字通りの大食漢や
無目的に放蕩三昧の能無しとは違って
世間から反感を買ったりしなかった
などと言及した上で
ペトロニウスのそれまでの職歴を示し
出世街道を着実に歩んできてるのを
その証拠としてる

つまりタキトゥスに言わせれば
ペトロニウスは「不良」のように振舞っても
本来は役職に就いてた人間なので
背徳者を装ってるだけで
ネロを誑かそうとしてたのだと・・・

恐らくタキトゥス自身は
【趣味の審判者】の意義がわかるほど
歓楽的に生きてなかっただろうし
洒落を解せなかったかもだ

ペトロニウスの教養は
単なるインテリ趣味に非ず
完璧に洒落のめしてて
素地があるくらいではついて行けなくて
だからネロが彼に夢中になったのは
裏を返せば、それがわかったからなのだ!

くだらナイお追従に
うんざりしてたであろうネロには
多少辛辣でも刺激的な方が
新鮮で愉しめたのだな

イベントは基本的には
金をかければより一層おもしろくなる

どんなつまらナイ企画でも
金をかけられるだけかけたら
たちどころに愉快になるのは間違いなく
それは現代においても変わらナイ事実であって
金を湯水のように使いながら
ひたすらバカ騒ぎするなんてのは
誰もが人生に1度は試みたいと思うものだ

ところがそんな誰もが夢見るイベントも
毎晩やってると飽きてくるモノで
日に日に面白みは減退してく

生涯に1回きりでなく
日々イベントをやり続けるには
金の力より企画力が必要で
そこでペトロニウスのプロデュース力が
ネロの魂に火を点けたのだ!

まあ実質的にはネロさえ飽きなければ
それで゚+.(・∀・)゚+.゚イイのだが
皇帝であるネロに詩の朗読や竪琴演奏をさせて
時に辛辣に批評したりして
その際のネロの反応を
周囲の人間も十分に楽しんでたのでは?

ネロが演じてる最中に居眠りした者がいて
これを咎めようとしたのを
ペトロニウスが救った有名なエピソードが
岩波文庫の『クォ・ワディス』上巻に出てくるが
ペトロニウスはすかさず
ネロをかのオルフェウスに譬え
彼の竪琴の音色で野獣が眠ったと・・・

そんな風に褒められてしまって
ネロは怒っていられなくなったのだが
これってネロがギリシア通で
オルフェウスをリスペクトしてたから
成立したんだと思うと
自分にはやはりネロが愛おしく感じられるし
ペトロニウスの大岡裁きみたいなやり口は
カッコ゚+.(・∀・)゚+.゚イイと感心する

ちなみに居眠りをした不届き者は
後に皇帝となるウェスパシアヌスだった

映画『クォ・ヴァディス』のユーニス

ポーランド人の作家シェンキェヴィチの
歴史長編小説『クォ・ヴァディス』は
1951年に映画化された

ハリウッド映画なので
登場人物の名は英語読みされてて
ペトロニウスの愛人となる奴隷女の名は
Euniceでユーニスだった

偕成社世界少女文学全集の『クォ・バディス』や
岩波文庫『クオ・ワディス』での
エウニケの呼び名の方が自分的にはしっくりくるが
以下は映画についてなので
ユーニスで統一する

このユーニスを演じてたのは
Marina Bertiなる女優で
画像のように圧倒的な美貌の正統派の美人

地中海を越えて
ローマに連行されて(と、自ら語ってるが)
折りしもペトロニウスに仕えるコトになったのだが
そんな境涯の不遇は全く気にかけておらず
むしろ愛しい主人の傍に仕えて
幸せを噛み締めてるような女である

なんせ主人のペトロニウスにメロメロでも
奴隷が主人に告白をするなんて
身分が違い過ぎて到底できなかったので
ユーニスにとって唯一の不幸は
想いを秘めねばならナイコトだった!

ところがある日
ペトロニウスの甥の元にやられそうになり
それを激しく拒絶するるる~

どんな罰を受けても構いません、どうか、おそばに!!

ユーニスを貰い受けるはずだった男こそが
主人公のヴィシニウスなのだが
元より彼には別に貰い受けたい女がいたのもあり
ペトロニウスはユーニスを手放すのを諦め
主人に逆らったコトに対して
ユーニスにムチ打ち5回の罰を与えるも・・・

ペトロニウス「ムチ打ち5回だ」
ユーニス「ここにいても?」
ペトロニウス「行い次第だ」
ユーニス「ありがとうございます」

どんな罰を受けても
愛するペトロニウスの元を離れたくナイp(-_-+)q

そうしてユーニスは
したたかムチ打たれた後で
秘かに主人の胸像にキスをしながら
さも愛しそうにささやく

愛しいご主人様、お慕いしてます、お伝えできたらいいのに・・・

美女がうっとりとした表情でつく溜息の
なんたる甘やかさ・・・ホゥ(*-∀-)
そんなユーニスを作品にしたミュシャは天才だ!

そしてまたある日
ついに告白するチャンスが訪れた

ユーニス「老婆の予言の詩があるんです」
ペトロニウス「どんな?」
ユーニス「すみれ色のローマの海に/ヴィーナスが現れて/恋人たちを結び付ける/彼女の腕で永遠に」

ペトロニウスはこの時まで
ユーニスの気持ちには全く気付かず
使用人の誰彼と相手の名を挙げるのだが
ユーニスは総てにうなだれながら首を振り続け
最後に主人をまっすぐに見据えてこう言う

He’s my lord.

一瞬硬直したペトロニウスだったが
ユーニスほどの美女に言い寄られては
拒絶できるワケもなく

すみれ色の海へ私が誘ったらどうなる?

なんて返しができるトコロが
いかにも洒落モノらしいw

そんなペトロニウスに対して
逆にユーニスは全く捻りがなくて
えくぼまで作って顔を輝かせながら
小犬のように足下にすがり

嬉しくって気絶します!

しかしどうするかを問いかけただけで
まだ誘われたワケではナイのだ
と気付いた瞬間にしゅんとしてしまう

あとはお誘いだけ・・・

てか、この一言こそが誘いでなくて何なのだ?!
そして男の方からがっつり誘わなくてどうするのだ!!

ペトロニウス「それではアンティオキアへ」
ユーニス「ポカ~ン(゚ o ゚*)」
ペトロニウス「気絶しないのかね?」
ユーニス「支度をします、今すぐに(^▽^*)」

愛するコトしかできナイ女が
愛されるコトで幸せの絶頂へ・・・
だが、幸せな日々は続かなかった。・゚・(ノД`)・゚・。

ペトロニウスには死を予見してた

ユーニスが奏でる竪琴にも死の影を感じ
遂にネロに自殺を命令され
友人を呼んで最期の晩餐の場で
自殺を宣言し決行

ユーニスは何の迷いもなく一緒に果てた
寄り添って眠るように死んでる2人が
なぜか幸せそうに見えた

こんな美しい女に命懸けで愛される男は
そりゃあ幸せだったろう

『クオ・ワディス』のペトロニウス

完訳を最初から読んでたら
恐らく平静に読み進めるだろうが
読み慣れた児童版には
「隠されてた秘め事」があって
それが露見すると思いつつ読むと
無駄にどぎまぎしてしまう

幼少の砌
偕成社の世界少女文学全集を愛読してたが
その中に『クォ・バディス』があった

ポーランド人作家シェンキェヴィチが
ネロの時代のローマを描いた歴史長編小説で
ハリウッド映画『クォ・ヴァディス』の
原作となった

児童版は何度も読んでて
映画も何度も観てて
その差異にずっと違和感を感じてたのに
完訳版の『クオ・ワディス』を
岩波文庫の上中下巻で読んだのは
恥ずかしながら四十路を過ぎてからだった

児童版として改訳したモノだと
削除(省略)されてる部分は
通常は暴力とかセックスとかの描写で
子供の教育上よくナイ
=子供がそれを真似たら困るからだ

初めて読む本へのときめきとは別に
児童版で既知の物語の完訳版を読む時には
何かしらの【禁忌】を破るはずなので
妙な興奮が伴うのはそのためだ

まるでパンドラやイヴになった気分だw

しかし完訳版『クオ・ワディス』を読んで
児童版と映画とで同じ箇所が
意図的に省かれてたのに気付き
【禁忌】を破る以上に衝撃的だった

例えば
この物語はネロの頃のローマ帝国だが
主要都市やそこに実在した人物についての噂話など
譬え話や際どい洒落に悉く引用されてて
無垢な子供には当然ながら意味不明だろうが
大人でも教養や経験値がなければ
まるで面白味を感じられまい

そんな危惧のために省かれた描写であり
物語の筋には直接関係ナイワリに
註釈が冗長になり過ぎるきらいがあるせいか
そのほとんどがスルーだったのだ・・・バタリ ゙〓■●゙

It’s Greek to me !
(それって、自分にはギリシア語だわ!)

てのは、ちんぷんかんぷんって意味だヽ(゚∀。)ノ

英語を母国語とする民族に
そんな表現があるくらいなので
無教養な一般大衆にとって
古代ギリシア(ローマ)の古典は
ちんぷんかんぷんなのだw

で、マイケル・マクローンの
古代ギリシア・ローマの古典由来の
慣用句の解釈本の原題が
まさに『It’s Greek To Me !』なのだ!

ともあれ
まだ無分別な子供以上に
インテリジェンスと無縁な大人には
ちんぷんかんぷんの応酬が続く映画なんか
総スカンを食らうのは明らかで
そりゃあ省くよな。(´д`;)ギャボ

自分からしたら
その無教養さからゴーインに展開するような
所謂アメリカン・ジョークの方が
理解不可能だがな。(゚д゚lll)ギャボ

両者は笑いのツボが違うのだよ
疑似体験も含めて
当て嵌まるエピソードが脳裏に浮かぶと
思い出して重ね合わせて
「なるほど」とほくそえんでしまうのだが
無垢な子供や無教養な大人は
奇を衒ってるだけでおかしくて笑うし
むしろ意味があっても
その意味がわからなければ笑えず

そう考えると
真に享楽的な人間とは
勤勉で教養があり
人生経験豊富で
とりわけ失敗談に尽きナイのが
望ましいかもしれナイなw

自分にとっては本でも映画でも
【It’s Greek to me !】な部分こそが
わかれば楽しいし
わからなくても謎を解く愉しみがある

『クオ・ワディス』においては
ペトロニウスが登場してる場面では
これが凄まじいほどで
さすが「趣味の審判者(アルビテル・エレガンティアルム)」と
うっとり失笑するのだwww

ペトロニウスは身分的には貴族で
地位は執政官ではあったが
ネロに重用されてたのは
政治的な立場においてではなく
あくまでもペトロニウスの芸術的趣味が
世間から持て囃されてたのを気に入られたのだ

ネロとペトロニウスの趣味趣向が
具体的にどうだったのか
その最も知りたかったコトが仔細に綴られてて
著者のシェンキェヴィチも
相当なヲタだと改めて感服した・・・ホゥ(*-∀-)

特にペトロニウスの容貌についても
まだ1段落目の終わりくらいで
決定的に胸熱な表現があり・・・

《神のごとき》アレクサンドロスがあなたに似ていたとすれば――ヘレネがああなったのも不思議はありませんね

アレクサンドロスキタ━━━━━(゚∀゚)━━━━━ !

この場合のアレクサンドロスとは
トロイの王子パリスで
葡萄の房の巻き毛を持つ美麗な王子だ

しかもこれはペトロニウスの姉の息子
ウィニキウスの台詞なんである

実はウィニキウスこそが
この物語の主役の美青年なのに
叔父のペトロニウスの美貌について
お世辞抜きでそう言ってるワケで
参考画像はアルフォンス・ミュシャ作の
『Quo Vadis(クォ・ヴァディス)』

美しい巻き毛もアレクサンドロス・パリスらしい
ペトロニウスの彫像(左)と実物(右)

これはご主人様ペトロニウスを慕う奴隷のエウニケが
こっそりと彫像にくちづけをしに来てる図で
この時エウニケは主人に逆らったので
鞭打ちされた後なんである

それはペトロニウスが
甥のウィニキウスを元気付けるために
美女の奴隷を賜ろうとしたのを
当のエウニケが断固として拒否したからだが
想いが叶わずとも罰に鞭打たれようとも
ペトロニウスの傍を離れたくなかったからだ

そうしてエウニケは最期まで・・・
ペトロニウスがネロの命で自殺をする時も
一緒に自死する

その2人の身分を超えたロマンスの
始まりの場面をなんと美しく切り取ったコトかと
ミュシャの感性に絶対的な信奉を齎したのが
この作品である

実物を観れた時は
2時間近く並んだ甲斐があったと
この1点だけでも狂喜乱舞モノだった!

話が逸れたが
《神のごとき》とは
もちろんその美貌が人並み外れてるからだが
「趣味の審判者」と呼ばれる程に
美意識の高い人間が
自らもその美意識に適ってるのだp(-_-+)q

そんな男なればこそ
アレクサンドロス・パリスは
世界一の美女ヘレネが一目惚れした末に
9歳の娘を置いて駆け落ちするに至り
それが元でトロイ戦争が始まったとな!!

児童版や映画ではいかんせん
ここの詰めが甘かったので
自分はペトロニウスを侮ってたが
今や完璧な敗北感を味わってるるる~
但しとても気分が゚+.(・∀・)゚+.゚イイ負けだが♪

児童版の人物紹介の
ペトロニウスの項を読み返してみると・・・

ローマでもっともすぐれた貴族。その賢さのために皇帝ネロの信頼が厚い。ネロの詩の先生であり、また辛辣な批評家でもある。(後略)

訳者である野田開作の苦心を考えると
申し訳ナイが笑ってしまう!

「すぐれた貴族」なる表現自体が不可思議だが
「賢さのために~信頼が厚い」も
「ネロの詩の先生」も
ペトロニウスの奥深い人物像を
人生経験の浅い子供に対して
わかるように解説するコト自体が
不可能だろうてヽ(゚∀。)ノ

世界観を構築した10冊(子供の頃の愛読書)

人生において最良の本を
10冊選ぶとしたら?

まず、小学校高学年の時に
選んでたと思われる10冊(タイトル)

生きている地球(学研学習マンガ)
ビーグル号航海記(チャールズ・ダーウィン著)
シートン動物記(アーネスト・T・シートン著)
ハックルベリー・フィンの冒険(マーク・トウェイン著)
宝島(スティーヴンソン著)
幸福な王子(オスカー・ワイルド著)
にんじん(ルナール著)
クォ・バディス(シェンキェビチ著)
埋もれた世界(A・T・ホワイト著)
キュリー夫人 愛と科学の母(清閑寺健著)

これらは人生の初期段階で
世界観を構築するのに役立ったが
後に人生の岐路においても
常に道標となった

虚弱体質だった幼少の砌に
お世話になった小児科の待合室に
置いてあったのが『生きている地球』

【ビッグバン】から始まり
地質時代の様子が年代を追って描かれたマンガで
それはまさに知りたかったコトばかりで
毎度、熱心に読んでは
興奮して更に熱が上がってたw

その本への病的な執着が
遂に医師の妻で薬剤師の女性の心を動かし
「よかったらどうぞ持って帰って
差し上げますから」と言わしめた時
熱意が人の心を動かすと
奇蹟が起きるのだと
初めて確信したのだった

生命の誕生から
人類への進化までを
理路整然と説いた【進化論】には
魂を揺さぶられたが
とりわけ生命の誕生については
オパーリンの【コアセルヴェート説】で
神々しく美しい生命のスープが
干潟になって濃縮してく様子を思い描いては
生命の神秘に涙した

そんな風に理性と感動によって
自分が世界観の外枠を構築した後で
旧約聖書の冒頭の創世記による世界の始まりを
キリスト教かぶれの母親から
いくら恭しく押し付けられたトコロで
突っ込みドコロ満載な寓話としか思えなかったw

【進化論】を構想するに至った経緯を
ダーウィンが綴った『ビーグル号航海記』は
自然の厳しさ(ある意味無慈悲さ)と
そこに生きる生物の
力強さと儚さ、強靭さとしなやかさといった
地球が織りなすドラマに感じ入った

そうして【進化論】を踏まえて
動物の生態に興味を持つようになり
『シートン動物記』も読むべくして読んだが
中でも「狼王ロボ」でオオカミが大好きになり
今に至るるる~

『ハックルベリー・フィンの冒険』や『宝島』は
『ビーグル号航海記』からしてそうなんだが
後に海洋小説とそれを原作とした映画を
格別に好むきっかけになった

まあ自分自身はからきし苦手で
酒より船の方が酔うんだがね( *゚Д゚)つ[酒]

典型的なお人好しの江戸っ子だった自分は
『幸福な王子』でワイルドのペシミズムに衝撃を受け
母親に嫌悪されてると悲観し始めた時
『にんじん』で同士を見出してほっとした

歴史小説『クォ・バディス』(※)は
ローマ皇帝だったのがネロの時代の
キリスト教に傾倒した長編で
実在した登場人物のネロとセネカ
そしてペトロニウスが魅力的だった
映画のタイトルでは『クォ・ヴァディス』、新訳(岩波文庫)だと『クオ・ワディス』

当時はまだキリスト教に対して
今ほど反感は抱いておらず
もれなくこの小説こそが
不信感を募らせる要因になったのだったヽ(゚∀。)ノ

『埋もれた世界』は
トロイア、エジプト、メソポタミア、マヤの
遺跡を発掘する考古学者たちについて
子供にもわかりやすく書かれて(翻訳されて)たが
古代文明の中でも自分は特にトロイアに惹かれた

たくさんの伝記を読んだ内では
『キュリー夫人』に1番感銘を受けたが
それは化学者としてノーベル賞を受賞した女性が
既にいるのは心強かったからだ、なんて
自分もキュリー夫人の後に続くつもりでいて
化学だけは執り憑かれた様に勉強してた

但し、物理学(の数式)を理解できるほど
知能を持ち合わせておらず断念。(´д`;)ギャボ

『クォ・バディス』の著者シェンキェヴィチも
キュリー夫人と同じく
ノーベル賞を受賞してるポーランド人だが
受賞時にはポーランドは地図上から消えてて
2人とも祖国独立を悲願してたのだった。(゚д゚lll)ギャボ

結局、シェンキェヴィチは
独立を目にする前に命尽きたが・・・

上記10冊の他にも
世界観を構築するのに
補助的な役目を担ったのが
山川出版の日本史用語集と世界史用語集と
旧約聖書・新約聖書、古事記、ギリシア神話などで
愛読書と言うよりは便覧のように
何かにつけ参照しまくった

自分はこの時点で最早
読書の醍醐味は
1冊の本を最初から最後まで読みこなして
単体で消化するだけに非ず
一言一句から
著者の真意を汲んで
改めて世界を読み解くコトに
意義があると気付いて
生真面目に読書をしなくなった・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

40年近く経った今
改めてこれら10冊に感謝したいのは
与えられた知識はもちろん
感動、信条、希望、霊感・・・etc.etc.
そしてノスタルジーも加わり
人生をスピリチュアルな面から
支えてくれたコトだ

気のふれた母親に
押し入れに閉じ込められても
電気スタンドで照らされた文字から
確信してた

世界は広く美しい(はず)

いつも心を希望で満たし
明るい未来へ導いてくれ続けた

親友(著者)と時空を超えて
共有してる宝物のような存在が
愛読書だと自分は思う