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トルストイは『モーパッサン論』において
モーパッサンのある部分を絶賛して
ある部分に対して残念がってる

モーパッサンの『女の一生』では
善良な女が不埒な夫と放蕩息子に悩まされるが
トルストイの解釈ではこの女が
『旧約聖書』の「ヨブ記」に譬えられてて
要約すると・・・
道徳的な女が不道徳な男に踏み躙られる不幸と
その不幸が誰にも理解されナイコトを
深く感動的に描いてると絶賛し
以降の長編、特に次いで書かれた『ベラミ』は
美しい純潔な魂と社会の堕落との衝突が
同じように描かれてても
不道徳な登場人物の方にこそ
作者が肩入れしてるように思えて
濡れ場における詳細な描写も
芸術性を損なってると残念がってる

モーパッサンがなぜ
トルストイにとって残念な長編を書いてしまうのかは
以下の言にあるように
トルストイも根本的にわかってはいる

 モーパッサンが出入りしていたサークルで、芸術が奉仕すべき美として昔も今も認められているのは、何よりもまず女、若い、美しい、しかも多くは裸体の女、それからその女との性的な交渉である。そう認めてきた人々の中には、単にモーパッサンの≪芸術≫上のすべての仲間、つまりが画家や彫刻家や小説家や詩人ばかりではなく、若い世代の教師たる哲学者もふくまれている。

しかし理解するコトと納得するコトは別なので
ルナンの『マルクス・アウレリウスについて』から
以下の言葉を批判的に引用してくる

キリスト教の欠陥はここにはっきりあらわれている。つまりキリスト教はもっぱら道徳的でありすぎるのだ。美は完全にしめ出されている。ところが、円満具足の哲学の眼からみると、美はうわべだけの長所、危険なもの、不都合なものであるどころではない。それは徳と同じく、神のたまものなのだ、美には徳に匹敵する価値がある。美しい女は天才や、徳の高い女と全く同じように、神の意図の一面、神の目的のひとつをあらわしている。美しい女はそのことを知っているからこそ、おのずと気位が高くなるのだ。美しい女は自分が体内に持っている無限の宝を本能的に感知する。(後略)

(後略)の後もトルストイは
ルナンの美女讃歌を延々と引用して
「宝石を身に付けたり、化粧をしたり、髪型や服装に凝ったり、
女がその美しさを際立たせるようとするのは正しい行い」
としてる部分に次のように
皮肉な解釈を入れてくるワケだ。(゚д゚lll)ギャボ

してみれば、この若い世代の指導者{ルナン}の考えでは、ようやく、現代にいたって、パリの裁縫師や理髪師がキリスト教の犯したあやまちをただし、美のために本来の、そして最高の地位を回復してやった、という訳である

有史以来
人類は不自然な生活を強いられてて
生物としての本能が蔑ろにされてきた

特定の時代や地域社会でしか通じナイような
独特の価値観が存在してるが
それらはいずれも誰かが
要するに人間が勝手に作った観念でしかなく
バックグラウンドを異にする者が
正しいか誤りかを論じるのはナンセンスだ

キリスト教が華美な女性を疎んじてるのを
美の表現者である芸術家や
美徳の体現者である哲学者が
反感を持論で展開するのまでは構わナイ

でもトルストイの反論は
それを曲解してて
ましてやパリの裁縫師や理髪師を
つまり、技能労働者をバカにした物言いは
所詮ドシア人(※)だって僻みで
世の中を舐めた資産家のお坊ちゃんの世迷言だ
お洒落なパリに憧れるド田舎者の無粋なロシア人、の略w

そう思えるので
自分が賛同できるのは
モーパッサンや同じサロンに集う人々の方
だった・・・そう、過去形なんである

今現在の姥(年老いた女)の自分にとっては
トルストイの見解もありに思える

再度、肝心な部分を引用すると・・・

何よりもまず女、若い、美しい、しかも多くは裸体の女、それからその女との性的な交渉である。

生物学的見地からすれば
この主張は全く持って正しく
生物は子孫を残すために
生殖を行う必要があり
その際にはお互いに
優先順位が同等でナイ性を選ばなくてはならず
またできるだけ若く(=体力があり)
そして美しい(=整ってる)相手を求めるのは
分子生物学(※)からしても正しい
生物をDNA単位から考察する学問

但し
人間以外の生物の場合は
性の優先順位(※)が高い雌に雄を選ぶ権利があり
雄の方こそが若さと美しさで雌に選別される
正確にはミトコンドリアの優位性

ところが人間社会は変わってて
どんなに若く美しい雄でも
それだけでは雌に選んでもらえナイ!

とゆーのも
雌には子供を産み育てる環境についても
十分に考慮する必要があるからで
そこで若さと美しさで劣ってる雄でも
社会的に優位だったり、財産を持ってたりすると
子供を産み育てる環境も好かろうと
選んでもらえたりする(よね?)

いや、子供でなく
雌自身が好い環境で生活したくて
ってのが本音か???
まあ雌の見解の真意については今回はスルーでw

男が女にアプローチをかける時に
本能的に近付いてしまうのが
若く美しい女であるのは至極当然だが
仮に若くも美しくもナイ女しかいなければ
そこは躊躇せずにか、多少は躊躇したとしても
その女に選んでもらおうとするのが
男の性なのだ

最終的に性衝動を何とかしてくれるのであれば
ぶっちゃけ何でも構わナイ、てのが
雄の真っ当な種蒔き本能なので
手当たり次第に攻略を試みてく内に
選んでもらえたらラッキー、てなモノだ

攻略する順番は手当たり次第なんかではナイと
反論するヤツもいるかもしれナイが
そこはきっと個々の好みが反映してると思うので
傍から見てれば手当たり次第なのだよ

理性によって制御してはいるが
箍が外れた男はそんなモノだろう(-_-;)

それにしても
男が女を選ぶ時に
若さの判別は簡単だが
美醜の基準は曖昧模糊としてて
若いけど美しくはナイ女と
若くはナイが美しい女となると
どちらを選ぶかは微妙なトコロだ

僅差で前者をオススメするのは
生物学的な理由による
妊娠の確率が高く
子育てをするのに十分な体力があるからだ
でも後者も妊娠可能な限り
選ばれたとしても間違ってはいナイ

換言すれば
妊娠の可能性が全くナイ女だけは
美醜を問わず男を選ぶ権利もなければ
またそういう女を男が受け入れてしまうのは
生物学的には間違ってるとも言えるヽ(゚∀。)ノ

だからって
若くも美しくもナイ女は男に愛される価値がナイ
と思うのは生物学的狭量による早計で
哲学的とか、もっと素朴な情によるとか
あるいはスピリチュアル(霊的)とか
愛される理由付けはいくらでもある

むしろ社会的とか生物学的な結び付きは
若さと美しさと条件に適えば
もれなく誰でも゚+.(・∀・)゚+.゚イイとも言える

でも人間同士が愛を育むのは
とある妙齢の男ととある妙齢の女が、でなくて
個対個であって
性別も年齢も容姿も思想も何もかも
お互いが受け入れられれば
それだけでいんじゃん?

社会的かつ生物学的に条件が適って
お互いに合意した結婚だとしても
持続させるには条件を保ち続けるのでなく
他の要素で愛を育んでいかなければ
意味がナイワケで
条件が変わっただけで
破綻して離婚に至るのがオチ

その脆さに気付かナイで
社会的かつ生物学的な条件を
保つコトだけに奔走してる状態を
「若い」とか「青い」と言う

筑摩世界文学大系がお気に入りなのは
本文以外が充実してるからだ

巻末には必ず
充実した「解説」と詳細な「年譜」があり
更に巻によっては
他の作家による論文が収録されてたりするるる~

筑摩世界文学大系のモーパッサンの巻には
ロシアの文豪トルストイの『モーパッサン論』が・・・

筑摩世界文学大系【44/47】モーパッサン



「女の一生」岡田真吉訳
「ベラミ」中村光夫訳
「脂肪の塊」杉捷夫訳
 短編 杉捷夫訳
  「山小屋」
  「ペルル嬢」
  「橄欖畑」
  「シモンのパパ」
  「わら椅子直しの女」
  「狂女」
  「海の上のこと」
  「ジュール叔父」
  「ひも」
  「老人」
  「雨がさ」
  「くびかざり」
  「酒樽」
  「帰村」
  「あな」
  「クロシェット」
  「港」
「モーパッサン論」トルストイ / 木村影一訳
 解説 中村光夫
 年譜

そしてこれがモーパッサンを論じてるってよりは
モーパッサンとゆーフィルターを通して
自身の主義・思想を述べてるカンジで
大変興味深い内容になってる

なんせロシアには近代に至るまで
自国語の口語文学がなく(※)
仏文学に対するロシア人作家の劣等感は
そりゃあ根が深かったろう
ロシアの宮廷ではフランス語をしゃべってたくらいだ

貴族で才能にも恵まれてたトルストイだが
仏文学に対してのコンプレックスはあったに違いナイ

晩年のトルストイは
勤労農民の素朴な信仰心に回心させられ
自身の貴族の身分を恥じるようになったりもするが
「モーパッサン論」を書いてる時点では
まだその境地に達してなかったらしく
『女の一生』を大絶賛してるのが笑えるw

トルストイはあくまでも貴族目線で
主人公の貴族女のジャンヌに降りかかる
身に余る不幸を憐れみつつ
打ちひしがれても無抵抗でいる女に対して
純粋だとか、清らかだとか
見当違いの感動をしてるのであるwww

1日の大半が仕事に消費されて
やっと生活が成り立ってる勤労庶民には
(要するに自分のような人間には)
生まれながらにして生活苦には無縁で
自らが稼ぐ必要が全くナイ上に
家事や雑事さえも人任せの貴族女ジャンヌが
どんな悲劇に見舞われようが
おざなりに生きてられるのなんて
羨ましいくらいで、同情の余地無しp(-_-+)q

既に子供も与えてくれた夫に浮気されようが
その子供の放蕩が過ぎようが
それで明日のメシに困りゃあしナイのだから
悲しみに暮れてばかりいナイで
好きなコトをして楽しく生きればいんじゃん?

無趣味で無教養ゆえに
暇を持て余してるだけの貴族女が
「何もやるコトがナイ!」
などと嘆いてるのに対して
「なんと道徳的な女だ!!」
と感動できるトルストイのおめでたさには
さすが貴族、としか言いようがナイw

察するに
トルストイの周囲の貴族女はきっとこんなだろう

依頼心の塊のクセに我が強くて
欲深なワリに自身では何一つ行動を起こさず
気に入らなければ文句だけは人一倍

そんな女たちの厚かましさに
トルストイは辟易してただろうから
無欲なジャンヌを清らかな乙女として
崇め奉りたくもなるワケだ

ジャンヌときたら
ダメンズのダンナに騙され続けても
更に息子もダメンズに育て上げて
挙句に財産をもぎ取られても
他力本願で受身であり続け
生きるコトに消極的なままで
本ト、心底無欲・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

とはいえ
この時代の女が生きるためには
食わせてくれる男に対して
身を委ねるしかなかったのだから
貴族女も百姓女も娼婦も
男に傅かねばならなかった

それとゆーのも
社会が女にはごく限られた仕事しか与えず
微々たる収入を得る手段しかなく
それで生計を立てるのは大変なコトだったのだ

『女の一生』の原題『Une vie』は
直訳すれば「人生」で
とあるありふれた女の生涯の物語の意だが
このタイトルの解釈からして
トルストイの感覚が一般庶民とはズレてる

この作品の内容をなすものは、題名が示すとおり、破滅させられた、無邪気な、美しい行いならなんでもする素質を持った、愛すべき女性の一生の叙述である。

バタリ ゙〓■●゙

またモーパッサンの『女の一生』以外の作品について
トルストイは特にその芸術性について貶してる

モーパッサンのようにしか民衆を描かない作家、つまりブルターニュの下女たちの腰や乳房にしか興味を持たず、はたらく人々の生活は嫌悪と嘲笑とをもって描く作家は、芸術家として大きなあやまちをおかしているのである。

何が1番気に入らナイかって
男たちの放縦さにあるらしいが
トルストイはフランス文化に対して
畏敬の念を抱いてるからこそ
フランス男らの興味が
肉欲をそそるような対象にしかなく
貴婦人のはちきれんばかりに盛り上がった乳房や
下女の粗末なスカートを揺らす肉厚の尻などにあるのを
モーパッサンが赤裸々に描いてしまうコトに
「裏切られた感」があるぽい

しかもそこで女の方もそれに呼応して
お互いに理性を働かせるコトなく
本能に付き従ってしまうので
その低俗さに耐えられナイのだろうが
そこは自分も苦手意識があって
トルストイの言い分を理解はできる(゚*゚;)

でもだからって
放縦な男に騙されてる女に対して
それだけで同情するのはどうかと思う

逆にその放縦な男が
他の全ての性質も性悪だとは限らナイし
男のせいで不幸な目に遭った女が
それでも男を愛してる可能性もあるしね

トルストイは恐らく
放縦な男を悪と捉えてて
男が悲惨な目に遭ったり死んだりする場面では
きっと胸を撫で下ろしたりするのだろうが
そういうトコロもさすが貴族・・・

自分がジャンヌだったら
毎日自由時間を満喫して過ごせるだろうから
それを自覚できたら幸せ過ぎて
ダンナにも同等に幸せになる権利があると思えて
快楽を与えてくれる女に夢中になるのなんて
咎めようもナイけど・・・
既に息子を儲けてるのだから
自分に対しての義務は果たしてくれたんだしね

お互いに義務から解放されて
それぞれの快楽に耽ってるなんてのは
もしかしたら夫婦の理想形態ではナイだろうか?!

どんなに恵まれた人間も
そうと気付かなければありがたさを感じず
人生をどう生きるか以前に
まず今日を生き抜かなければと
そのために働いてる人間に
どう生きるか悩んでる時間は殆どなく
だからさもトルストイのように
「高潔に生きよう」とか誓ってるヨユーは
勤労庶民にあるはずもナイのだよ

『女の一生』以外の作品では
モーパッサンは生々しく庶民の人生を描いてて
それが自分には共感できるし素晴らしいと思えるが
そういう作品を蔑むトルストイは
さすが貴族、だ(こればっかりだな)

そして自分が『女の一生』を蔑みつつも
何度も読んだり映画を観てるのは
自身より社会的に恵まれた立場の女性の
無欲さが織りなす悲喜劇によって
自身の現実の厳しさが和らぐからだろう

どう控えめに見ても
ジャンヌより自分の方が
充実した人生を愉しみながら生きてる♪

モーパッサンのエスプリやユーモアと
自分のような江戸っ子の洒落は
生真面目なトルストイと無欲なジャンヌにゃ
理解できまいヽ(゚∀。)ノ

幼少時に通ってた小児科医の待合室には
学研から出てたまんが『生きている地球』がおいてあった

宇宙が出来て
地球が生まれて
そこに生命が生じて
生物が進化してく

その過程がとても理路整然として描かれてたので大いに納得したが
子供の純粋無垢さを差し引いても疑いの余地がなかったから
記されてるコトが事実だと素直に信じられたのだった

ところが同じ頃に教会で教えられた「天地創造」の方は
自分にとっては釈然としナイ部分が多く
深く追求して質問すればするほど理不尽な回答しか得られず
とても歴史的事実だとは信じ難かった
いや、明らかに寓話だと断定できたのだった

そもそも自然に興味津々の子供で
花や鳥や虫が好きで図鑑が大好きだったせいもあり
現存する生物だけでも膨大な種類があるコトをよく心得てたので
そりゃあ「ノアの方舟」の話には合点が行くワケがナイw
総ての動物をつがいで方舟に乗せるなんてのは
文明の利器が揃った現代においてさえ物理的に全く不可能なのだから
それを真実だなんて受け止めようもなかった

だから「天地創造」の際に
あるいはノアが方舟に動物のつがいを詰め込む際に
【種】の数をカウントしてたなら
これらが寓話でしかナイコトがもっとはっきりと示せただろうにチッ(-д-)、
なんて舌打ちしてはひとりごちてた・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

しかしサンタクロースを信じる子供は愛らしいし
その期待に応えようとしてサンタクロースを演じる親は更に愛らしい(*^^*)
その穢れなき魂のあり方は人として愛らしい!
穢れなき魂には罪はナイし愛らしいコトは美しきコトである!!
そんな美しい事態なら
サンタクロースを信じてナイコトを非難されるのも心地゚+.(・∀・)゚+.゚イイし
こちらもあえて否定する気は毛頭ナイ

信じる信じナイは別としても
自分も神話や伝説の類が好ましいと思える性質ではあり
これらが夢や希望を与えてくれればどんなに不条理だって構わナイ

尤も寓話としての正しさは科学としての正しさとは全く逆なので
科学的に寓話を否定する余地などナイのだ
寓話を彩る迷信の類が近代に至って科学的に実証されるコトはままあるが
時空を経て継承される内にどんどん変化してった寓話は
原初のモノこそが正確だ
正確と言うのは内容が正しいかどうかでなく
例えばディズニーが改変した寓話は
アメリカ国民の能天気さに合わせてか悲劇的要素は排除され
時に悲劇もハッピーエンドの結末に書き換えられ
もはや原典とはまるで違ったモノになってしまってたりするが
寓話としては完全に間違ってる
(まあエンターテインメントとしては楽しませられれば何でもOKで
寓話としての真意を伝える必要なんかナイんだがね)

それに比べて科学となると
その時点での最新理論こそが最も正しい
とお互いが仮定して話を進めるし
それまでずっと正しいとされて皆が信じてたコトでも
実は正しくなかったと証明さえできれば
その証明を裏付ける新説の方が正しい、つまりは元の説は正しくナイ
そうなれば元の説は時代を経て顧みられなくなるモノだ

また寓話と科学は価値も正反対だ

寓話は多少辻褄が合わなくたって非現実的であったって
間違っていようもナイ類のモノで
そこに求めるのは何が正しいかでなく
先人の知恵だったり、信奉の根源的な挿話だったり
先述のディズニーならば単に愉しめる要素だ

反して科学は事象の実体の解明で
それが理性的、客観的、第三者的であるコトに意義がある
(但し、特に学会のような組織が確固たる権威を持つようになってから
権威主義によって価値が決まる場合もあり
極端な話、真偽を実証できナイ複数の説があったとしたら
最も権威ある学者の説が真偽以上にまかり通るコトもあった)

そういう根本的に成り立ちの違う寓話と科学が
同じ土俵でどちらが正しいか決着をつけようとするのは
その取り組み自体がナンセンスである

なので、サンタクロースの存在を信じる子供は無敵だ。(゚д゚lll)ギャボ

自分は無神論者で科学をよく勉強してたが
高校で「応用微生物」を勉強してる時にこんな風に愉しんだ

これらの生物も「天地創造」の時に神が創ったとしたら?
性別もナイ微生物をノアはつがいでなくてコロニーで方舟に詰め込んでたのか?
生物か非生物か不明のウイルスも方舟に乗れたのだから今に至るとしたら
どうやって箱舟に乗り込んだのだろうか?
そもそも神としてはウイルスを生物のつもりで創ったのか?

・・・次々と想像してたら仕舞いには噴出さずにはいられなくなるが
科学の概念で非科学的な物語に想いを巡らすのは愉しい(^▽^*)

どちらを信奉するかきちんと決める必要ナイし
決めたからって信奉しナイ方に敵対する必要ナイし
必要ナイコトを上手くできナイからってそれに対して懺悔するなんてのは
全くもって不要だと思うのだがそれを生真面目にやってたのが
このトルストイの『懺悔』だったりするのだ

懺悔 (岩波文庫 赤 619-0)

絶対に答えが出ナイ問題をずっと考えてたらツライ
世界の始まりはどうだったか?
どうやって生命は誕生したのか?
なぜ生物種はこれほどまでに多種多様なのか?
・・・etc.etc.なんてのは問題が大き過ぎるだけに
これはもうシラフで悩んでたらもれなく気が狂って当然だろう

以前読んだ時はトルストイに同調して
同じ真実の深淵に嵌って気が狂いそうになった・・・んでやめたヽ(゚∀。)ノ

深淵を彷徨い続けてはいけナイ
実際に深淵の虜となったニーチェなんかはもう・・・ヤヴァイ
抜けられナイ恐ろしさと虚しさでうっかり死にたくなったりするが
これでちょっと気がふれてて簡単に死ぬ方法があれば
もれなく死んでしまうからだ

嘔吐

同じ感覚をもっとよりリアルに味わうならサルトルの『嘔吐』だが
今読み返してみると全然リアル(現実的)ではナイね
なんせトルストイはもちろんサルトルも発想が庶民とは隔絶してて
それはとりもなおさず生活が庶民とは一線を画してたからだ

働けど働けど我が暮らし楽にならざりじっと手を見る

そんな啄木の気持が切実にわかるほどになると
『懺悔』も『嘔吐』も働かざる者の倦怠からくる憂愁だとわかる

モーパッサンには『水の上』と題した短編小説と紀行文がある

どちらも原題は【Sur l'eau】で「水の上」だが
初期に書かれた短編『水の上』の発表時のタイトルは
【En canot】で「ボートに乗って」だった
と、下記のLINKにあった(短編『水の上』の解説と邦訳本文)
LINK:モーパッサン 『水の上』

この解説によれば若き日のモーパッサンは
よくセーヌ河畔のボート上で楽しく過ごしてたそうだが
行楽的な楽しさ以上の愉しみを「水の上」で体験してたのだろう

そしてモーパッサンにとって「水の上」は
あくまでも川であって海ではナイ

短編『水の上』の導入部では
ユゴーの海の詩を引用して川と比較してたりもするが
川への賛美だけでなく欠点も含めての魅力を詩的に表現してて
それがまるで最愛の恋人について語るかの如くに熱っぽく
少し狂気じみた感さえあって圧倒される

そうして緊張感がMAXまで高まった状態にさせておいて
五感が研ぎ澄まされるような繊細な描写によって
すっかり河畔のボートの上の主人公の男の心境になってしまう

トルストイが『モーパッサン論』において
この短編『水の上』を高く評価してるのは凄く納得が行く

水辺で生まれ育った人なら似たような水辺に郷愁を覚えるのは当然だが
モーパッサンの「水の上」はもっと始原的な情景なので
自然の摂理を直観で享受してるような感覚に陥れられるのだ

人間が自然から感銘を受けるのは崇高な美意識に心打たれるからだが
それをなんとか模写して表現するのが芸術の本来の目的で
単なる文芸ではなく芸術として適ってる作品だ

変わって晩年に書かれた紀行『水の上』は
長編のタイトルにもある「ベラミ」号なるヨットで地中海沿岸の周遊してて
当時(19世紀)の風物についてや土地に纏わる古い伝承などが
日記形式で次から次へと軽妙に綴られてる

どうやら興味の対象がモーパッサンと被ってるらしく
繰り出される固有名詞に嬉々としていちいち反応せずにはいられナイのだが
それに対する考察がまた゚+.(・∀・)゚+.゚イイのだ!

それにしても紀行『水の上』はモーパッサンの著作にしては
本文159ページに対して訳注(※)が10ページほどもあるのは画期的だヽ(゚∀。)ノ
あまり読書家ではなかったらしく古典からの引用が殆どナイのが
もれなくモーパッサンの特徴とも言えるるる~
トルストイが憧れるようなモダンさは古めかしい装飾が一切ナイからかw
訳者は師弟関係の吉江喬松と桜井成夫で、吉江が大正2年に訳したモノを底本として桜井が新訳をした

トルストイは紀行『水の上』については次のように評価してる

その文学的活動の途上における作者の力強い道徳的成長は、これら珠玉のような短編にも、また彼の書いたいちばんりっぱな作品である『水の上』にも、消すことのできない線をもって書きとめられている。

紀行文は要は旅日記だが
そもそも日記が単に出来事の羅列でしかなければ
他人からしたらちっとも面白くナイ
出来事から何をどう思い巡らしたのか?
感性や人間性が垣間見えてこなくては意味がナイが
その点でこれ以上優れた日記はナイ

まあトルストイがモーパッサンに最も感じ入ってる部分は
基本的に人間社会の腐敗に対する憎悪に共感できるトコロだろう

有史以来、人間社会は腐敗し続けてて
美しい魂のままに生きるのは非常に困難なのだが
その困難に真っ向から挑んで生きる、否、むしろのたれ死ぬ。(゚д゚lll)ギャボ
そんな不器用ながらもひたすら美しくあり続ける人間の気高さ!
そういう人間の生きザマに何よりも心打たれるのだ!!

トルストイは『モーパッサン論』でモーパッサンについて
不道徳な人間に肩入れしてるような作品を書いてる、と非難もしてるが
これは生き方が違うから表現の仕方も違うのだと思われ。(´д`;)ギャボ

自然とは隔絶した人間社会で
幻のように現れては消える様々な現象に心奪われるコトなく生きるために
素朴な農民のように神を信じて生きようとしたのがトルストイで
自身の五感にさえ惑わされずに直観で生きたのがモーパッサンなのだ

ベラミ 《IVCベストバリューコレクション~文学編~》 [DVD]

一見、不埒な男の成り上がり話のような『ベラミ』には
それを肯定する明るさが微塵もなく
全編に渡って空虚さと疑念が常に付きまとってて
死を恐れる孤独な詩人がベラミに語りかけるシーンと
恵まれた生涯を過ごしてきた友人がベラミの目前で死んでく場面は
この物語の唯一の(2つだがw)真実なのであるが
これらを真摯に受け止められナイベラミは所詮凡庸な小人物に過ぎナイのだ(苦笑)

『ベラミ』を主人公に流されずに読めれば
絶望的な死への想いに耽る孤独な詩人の台詞と
素晴らしい伴侶を得て人生を煌かせたベラミの友人の死に際の光景が
心に残るだろう

モーパッサンが『ベラミ』で描きたかったのは死生観なのだと思われ





しばらく編み物の日記ばかりだったが
本を読んでなかったワケではナイ

まずは夏休みにとーちゃんから借りてきた本を一通り読んだ
LINK:LIST

これで今更ながら近代哲学の中で抜けてた部分を補ったのだが
読後には喉に小骨が刺さったままのような不快感が残り
それゆえ考察がまとまらずにいた

引っかかってたのはヨーロピアン特有の根源的な問題で
キリスト教の神の存在を無視しては話を進められず
むしろ黙認した上で話を進めなくてはならナイって部分だ

神、即ち【理性を欠いた絶対正義】を振りかざす人々に対しては
理性的に話を進めるほど認識がずれてくので
トルストイニーチェもそこで悶え苦しんだワケだが
根性無しのトルストイは帰依するしかなかったし
最期まで頑張ったニーチェは発狂するしかなかった。(゚д゚lll)ギャボ

それにしても【理性を欠いた絶対正義】に対して辻褄を合わせようと
躍起になって事実や真実の方を捻じ曲げてしまうってのは
自分のような理性的=科学的な思考回路の朴念仁には
どうしても理解不可能なのだが
そうして逆に深く知りたくなったのは
神の存在を鵜呑みにできる人間の精神構造だ

しかも無知蒙昧さゆえに鵜呑みにしてるのでなく
教養のある人間が理論的考察を重ねた上で
どうやって宗教概念を構築してくのか?
これを知らずしてキリスト教がどうのこうのと語るのは
詰めが甘過ぎるるる~

そうなのだ、詰めが甘いのだ、自分w
十字軍(聖地奪還遠征軍)とか騎士団(騎士修道会)とか
凄~~~く好きなくせに
実は参加者の心情を全く理解できてなかったりして(滝汗)

やっぱ最低でも
古代ではアウグスティヌス
中世ではトマス・アクィナス
この2人くらい押さえておかなきゃな

てなカンジで
アウグスティヌスの『告白』『アウグスティヌス講話』
トマス・アクィナスは講談社学術文庫の『トマス・アクィナス』
購入して早速読み始めた

読んでみて痛感したのは自分と全く同じ心情だってコトだ
つまり「この世界を正しく認識したい」のであって
ただその前提に「世界は神の創りたもうたモノ」てのが
あるかナイかだけが違うのだ

あともう1つの決定的な違いは万事の捉え方で
彼らは真剣や真摯を通り越して深刻(シリアス)なのだが
常に上から【理性を欠いた絶対正義】に裁かれてる
そんな受身感覚が齎すのだろう

しかし自分は【自分の考える正義】が掟となるので
その都度真剣に捉えて熟考して判断を下し
それに従って行動するようにしてる
だから自信はなくとも責任を回避するワケにもいかず
判断も行動も能動的にならざるを得ナイ

そしてどちらのタイプの人間も同じなのは
それぞれの【正義】に対して
同調しつつも逆らった行動をとってしまいがちな部分だ
簡単に言えば悪(魔)の誘惑に弱い!

宗教概念の有るのと無いのでは真逆かもしれナイが
【正義】を実践できる人間同士だったら
ある意味気持ちは通じ合えるのではナイだろうか?

そんな疑問を抱いた時にちょうど゚+.(・∀・)゚+.゚イイ本が!
『これからの「正義」の話をしよう―いまを生き延びるための哲学』

ちなみにマイケル・サンデルの主張する【正義】は
【社会理念に基づいた正義】だと思うので
社会生活を余儀なくされてる人間としては従うべきかもだが
社会に従属しなくて済むなら必ずしも正しくはナイ
まあ実際誰もが社会に従属してるのだが。(´д`;)ギャボ

ところでマイケル・サンデルの著書は
さすがベストセラーだけあっておもしろさは抜群だったね
専門の哲学より心理学に長けてて
人の気持ちを捉える(興味をそそる)のが上手いと思ったよ

でも感心しただけで感動はなかった
気持ちを捉えられても心の琴線には響かなかった
よほど美しさに感じ入らナイと震えるコトがナイ
そういう琴線の持ち主なのだ、きっと愚鈍なのだ、自分www

そして副題に「いまを生き延びるための哲学」とあるが
哲学は生き延びるためにあるのではなく
美しく生きるためにあるのだと思ってたのだヽ(゚∀。)ノ

つまり現代社会は美しく生きられナイようにできてるのだな
美しく生きたらのたれ死ぬしかナイのか・・・?!

une-vie

フローベールの『ボヴァリー夫人』はリアリスムの傑作だが問題作だった

主人公のボヴァリー夫人はちょっと(当時にしてみればカナ~リw)奔放な女で
退屈な夫に内緒で刺激的な愛人の元に走ってしまうのだが
これが社会に悪影響を齎すと裁判沙汰になった

アンナ・カレーニナ〈上〉 (岩波文庫)

トルストイの『アンナ・カレーニナ』も不倫の物語だが
ボヴァリー夫人であるエマ(エンマ)が生きてる間は夫にバレてなかったのと対照的に
アンナは愛人に求められるままに夫を捨てて愛人の元へ身を寄せてる

エマもアンナも不倫の末に自殺したのは同じなのだが
そのタイトルからも歴然とわかるように
エマは死ぬまでボヴァリー夫人であり続けたし
アンナは最初から最期までアンナ・カレーニナであったのだ

アンナ・カレーニナ〈中〉 (岩波文庫)
アンナ・カレーニナ〈下〉 (岩波文庫)
アンナ・カレーニナ [DVD]

田舎の開業医の妻であった夢見がちなエマは
行きずりの色男たちと不倫するのだが夫を捨てるには至らナイ

一方、官僚の妻であった美貌のアンナは
1人の将校の熱烈な求めに応じて不倫して夫を捨てるに至るが
困った時にはまた夫に寛大に迎え入れられるし
そうかと思えば再び将校と駆け落ちして猜疑心から自殺する破目に陥る

この時代の女性にとっては夫とはズバリ生活の糧、だったので
女は愛とか恋とかほざく前に
生きるためにとりあえず結婚せねばならず
逆にどんなに深く愛し合った夫でも
先立たれたら他の男に嫁ぐしか生きる道がなかったのだ

そういう社会機構の中でずっと女性の気持ちは無視され続けてきたので
エマやアンナが時代に先行して恋愛感情を顕わにしたからって
現代人の感覚で不倫だから不道徳とは言い難い

とか、若い時はエマやアンナに同調してたのだが
今になってよくよく考えてみると
エマは金持ちの愛人に駆け落ちを迫ったが断られてしまったし
若い恋人にはエマが満足できるような生活能力もなく
夫の元で暮らすしかなかったのだし
アンナは自身を求める男に対してその度に身を預けてただけで
2人とも結局は男に振り回されたに過ぎなかったのだ

いずれにせよ、この2人を責める気にはなれナイ(-人-;)

しかしトルストイが自身でアンナのようなヒロインを描きながら
「モーパッサン論」で『女の一生』のヒロインが
どれほど鬼畜な夫であれ、放蕩息子であれ、耐え抜いた
などと絶賛してる(※)のを苦々しく思ってた
※LINK:トルストイの『モーパッサン論』について

それがトーマス・マンの「アンナ・カレーニナ論」(※)を読んで合点が行った
LINK:『筑摩世界文学大系【37】トルストイ』収録

『アンナ・カレーニナ』の主役はアンナではなくレーヴィンである

なんですと。(゚д゚lll)ギャボ

レーヴィンはトルストイでありキチイもトルストイ夫人なのである

なるほど。(´д`;)ギャボ

生活力のナイ女の不倫の最期は自殺しかナイ、そんな教訓なのだなヽ(゚∀。)ノ

だからこそまあ世の中がこうも不景気になって
夫の収入だけで生活するのが困難な状況が当たり前になってくると
妻には夫に従う意味もなくなるので離婚率が上がるのは尤もな気がするるる~

une-vie

『脂肪の塊』はモーパッサンの中編小説だが
このタイトルに何を想像するだろうか?

これはこの物語に出てくる娼婦のコトで
実質そう呼ばれても仕方ナイ体型だったが愛称ではなく
誰も面と向かってはそうは呼ばなかった

【フォト/写真 5x7】 クレア・トレヴァー &ジョン・ウェイン #1 (キャビネ判 12.5x17.5cm) 駅馬車

彼女の職業を「卑しい」と認識してる人同士が噂話の中だけで
この見下した呼び名で判り合ってたのだ

脂肪のかたまり (岩波文庫)
駅馬車 [DVD]

そんな設定だけでも人間の本質的な下卑た心と
それをそのままそっくり反映させた態度が想像できてしまうが
そういう連中の犠牲に供される「脂肪の塊」ときたら
これが心優しい女だったり、とゆー不条理を見事に描ききった傑作だ

作者のギイ・ド・モーパッサンはフランスの生粋の洒落者で
長編『女の一生』が売れて時代の寵児となり
その後も【フランス人のエスプリ】の効いた作品を快調に発表し続けたが
それがウケるためにか、その後の長編にはやり過ぎ感もあり
『女の一生』を絶賛してたトルストイなどは一変して失望させられるのだった

不道徳で不埒な男が調子よく生きてるサマや
そんな男にのぼせる女の滑稽なサマや
更にその肉欲を貪りあうシーンなどに至っては
それがまかり通ってる時点でそこには作者の心情も信条も見えてこナイし
むしろ作者が悪徳の方にこそ肩入れしてるように見える

でも悪徳は小説の中にあってこそ愉しむべきモノだ
良識の壁を越えるコトのナイ日々の中で
1冊の本だけで(アルコールもあればより一層)息抜きができて
実際には堕落の罠にはついぞ嵌らず
現実的には身を持ち崩すような危険のナイ自分にこそ幸せを感じられるのである

自身を高潔に律してくれるような思想が迸る小説が正しい芸術だp(-_-+)q
とゆートルストイの嘆きは尤もだし
自分も最終的にはそういうモノを求めてるが
モーパッサンの醍醐味は正統派でナイシニカルな洒落にあるのだ!

【フランス人のエスプリ】を愉快に読み飛ばすには
「負け犬の強み」みたいなヨユーの部分がなくてはならナイのだが
トルストイは生まれながらの勝者ゆえ「絶対負けられナイ弱さ」があるのだ!!

だからモーパッサンの処女作にして
最も正統派の悲劇であるこの『脂肪の塊』に対しては
自分などは魂を引き裂かれるような衝撃を受けて
「脂肪の塊」と一緒に嗚咽するしかなくなってしまうのだが
トルストイは『モーパッサン論』の中で『脂肪の塊』については
一切言及してナイ。(゚д゚lll)ギャボ

トルストイは『女の一生』に感動して以降、モーパッサンを網羅したらしいが
もし『脂肪の塊』も読んだ上でスルーしてるのだとしたら
非常に残念に思う。(´д`;)ギャボ

そして一見何の関係もナイ映画『駅馬車』は
西部劇が好きなとーちゃんが特に気に入りのジョン・ウェインの出演作で
懐かしそうに鑑賞しだしたのを一緒に見たコトがある

その時には自分は初めて見たのだったが
途中からストーリーを知ってるような気がしてきたのは
モーパッサンの『脂肪の塊』を思い起こしたからだ!

それもそのはずで
原作はアーネスト・コックスの短編『ローズバーグ行きの駅馬車』だが
脚本を手がけたダドリー・ニコルズ曰く
西部に舞台を移したモーパッサンの『脂肪の塊』、だそうだ

但し物語の舞台が乗合馬車でそこに娼婦が乗り合わせてる以外には
むしろ共通項は見出せナイ

決定的な違いは
『脂肪の塊』では娼婦である「脂肪の塊」が孤立無援で救いようがナイのに対して
『駅馬車』の娼婦はならず者にだが求婚されて最期には清々しくさえある
まあその清々しさがハリウッドの売りなのだろうが
そんな『駅馬車』に比して『脂肪の塊』は悲壮感を満喫できるほど苦々しい

1番悪辣な軍人が1番力を持ってて
その権力の行使によって皆が苦痛を強いられ
中でも最も弱者である「脂肪の塊」がその犠牲者となり
しかも彼女が贄となるまではそうなるように仕向けてた連中が
贄となった後ではより一層彼女を蔑むのだ

この人々の非情な侮蔑に堪えられず「脂肪の塊」は嗚咽するのだが
このラストシーンには毎度泣けてくる。・゚・(ノД`)・゚・。

娼婦になりたくてなった女は人類史上ただの一人もいナイだろうに!

モーパッサンはそれがわかってる男だ
女性(の美)を崇拝し
女によって与えられる愛が齎す幸せの大きさをわかってるのだ

そして女が与える愛は男の肉欲を満たすだけのモノではナイ
自己犠牲を惜しまナイ献身的な愛で
ましてや「脂肪の塊」が愛情をもってして助けた連中は
自身を侮蔑の対象としてて、助けてやっても恩を仇で返してくるような輩だ
海より深い愛が踏み躙られた悲しみに胸が詰まって嗚咽する姿は
どれほど哀れでどれほど美しいか・・・

『女の一生』のジャンヌには同情の余地がナイが
「脂肪の塊」には憐憫の情のストックを空にさせられてしまう

トルストイは『脂肪の塊』を読んでも嗚咽しなかったのだろうか?