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神保町の古本屋で背表紙に「『水の上』モーパッサン」とあった文庫を
トルストイの絶賛した短編『水の上』が収録されてると思い込み
値段だけ確認して中身を見ずに入手したのは2008年のコト

帰宅して目次を見た瞬間に間違いに気づいて目が点になったが
気を取り直して「解説」を読んでみると
むしろ短編『水の上』よりよほど興味が沸いたのは
これが晩年のカナ~リおかしくなってきてから書いた紀行文だったからだ

 モーパッサンの従者フランソワの『モーパッサンの回想記』によると、『水の上』ができたのは、1887年(出版されたのは、88年であるが)のように思われる。そうとすれば、彼の死んだ1893年7月3日から6年ばかり前の作である。すなわち、彼の38歳ころに書いたものである。
 モーパッサンが『ル・オルラ』を書いたのは、1887年で、そのころから彼の狂的徴候が見え出してきたと一般にいわれている。しかし、彼自身は、こういっている。「今日私は、『ル・オルラ』の原稿をパリへ送ってやった。一週間たたないうちに、すべての新聞は、私が気ちがいになったということを報ずるであろう。それは、勝手にするがよい。けれど、私は、まったく正気だ。(後略)」

改めて『筑摩世界文学大系【44】モーパッサン』の巻末の年表で確認すると
実際にはこの5年後に精神病院に送られてるので(※)
この発言にはぎくりとくるモノがあった
精神病院に送られた翌年には死んでる

ところで「ル・オルラ」ってどういう意味なのだろうか?
モーパッサン自身が先の発言の略した中で「想像の作り物」だとしてて
それが「読者をぞっとさせるであろう」としてる

綴りは【Le Horla】・・・
しかし杉捷夫編纂の仏語の辞書には載っておらず・・・バタリ ゙〓■●゙

ググってもヒットするのはまさしくモーパッサンの短編の【Le Horla】ばかりで
それが何なのか言及してある記事には辿り着けず
そうして謎が深まるほどに『ル・オルラ』が読みたくなるるる~

モーパッサン短編集 (3) (新潮文庫 (モ-1-8))

これが新潮文庫の『モーパッサン短編集 III』に収録と知って
早速購入して、まずはやはり「解説」から読み始めたが
何ら目ぼしい情報は見当たらず、観念して(?)『オルラ』の本編を読んだ

『オルラ』は日記形式で綴られてる小説だったが
終盤になっても「ル・オルラ」らしいモノはどこにも記されておらず
何度か今自分が読んでるのが本トに『オルラ』なのか確認してしまうほどだったが
それは間違いなく『オルラ』だった

日記を綴ってる主人公の男は平凡な日常を非凡な感覚で送ってて
およそ常識的に生きてるが常識の無意味さを直観でわかってるようで
最初の方でこんなコトをぼやいてる

 この「眼に見えぬもの」の神秘が、いかに深遠であることよ!われわれのあわれな五官では、その神秘を測ることはできぬのだ。われわれの眼にしたところで、あまりに小さいもの、あまりに大きいもの、あまりに近いもの、あまりに遠いものは、認めることができぬのだ。星の世界の住民も、一滴の水のなかの住民も、見ることはできぬのだ・・・。われわれの耳にしてもおなじことで、われわれを欺いてるのだ。なぜなら、耳は、空気の震動を、音調としてわれわれに伝えるではないか。いったい、耳なんて化け物だ。それは、空気の運動を音に変えてしまう奇蹟を行い、そして、この転身によって、自然の無言の動揺をして、音律的なものたらしめる、かの音楽を生むではないか・・・。(後略)

ポカーン。(゚д゚ )

そうそう、その通り!
と、共鳴しつつもこの感覚が気ちがい特有のモノなのだとしたら
幼少時からずっとこの疑念に捉われてきた自分は頭がおかしいのか。(゚д゚lll)ギャボ
いや、今更ながら驚愕するほど自覚がなかったワケではナイw

そして主人公の男はこんなコトも言い出す

神はおのれの姿に象って人間をつくった。そのお返しに、人間はおのれの姿に象って神をつくった。

ヴォルテールのこの言葉ほど的を得た神の定義はナイと思ってたが
主人公の男もそう感じてるるる~

結局、結末まで「ル・オルラ」が何かはわからなくて
読み終わってからあれこれ考えても納得の行く答えは見つからなくて
ただ【Le Horla】がモーパッサンの造語なのだとはわかったが
恐怖でぞっとするよりも不可解さがもやもやした気分を募らせた

再度、紀行『水の上』の「解説」に戻ってみると
モーパッサンのこんな言葉があった

要するに、不思議だとか、不可解だとかいうことは、その人の理解が足りないからである

そうなのだ(゚*゚;)
そしてその理解不可能なモノが自分にとって危険な存在に思えると
恐怖となって自分の心を捉えるのだ。(´д`;)ギャボ

それにしても当初の目的だった短編『水の上』も
この『オルラ』収録の新潮文庫の『モーパッサン短編集 III』にあったりして
間違って回り道をしたようで読む順番的にもちょうどよかった

モーパッサン短篇選 (岩波文庫)モーパッサン傑作選 (ハルキ文庫)

ところで短編『水の上』はさすがトルストイも絶賛なだけあってか
モーパッサンの短編の代表作らしく新潮文庫以外でも
岩波文庫の『モーパッサン短篇選』でも
ハルキ文庫の『モーパッサン傑作選』でも
必ず入ってたので探すまでもなかったのだヽ(゚∀。)ノ

ちなみに後から調べてわかったのだが
紀行『水の上』も短編『水の上』も原題は【Sur l'eau】でまさに「水の上」だが
短編の方は最初に発表された時点では【En canot】で「ボートで」だった

昨日(5/7)はロバート・ブラウニングの誕生日だった
と、知ったのは岩波書店のTwitterだ

今日は,イギリスの詩人ロバート・ブラウニングの誕生日(1812年).上田敏訳の「すべて世は事も無し」の名調子でご存じの方も多いでしょう.(後略)

対訳 ブラウニング詩集―イギリス詩人選〈6〉 (岩波文庫)
海潮音―上田敏訳詩集 (新潮文庫)

「すべて世は事も無し」は
上田敏の訳詩集『海潮音』の「春の朝」の最後の一行だが
その前の一行とで二行がセットでよく引用される

春の朝 ロバアト・ブラウニング

時は春、
日は朝(あした)、
朝(あした)は七時、
片岡(かたをか)に露みちて、
揚雲雀(あげひばり)なのりいで、
蝸牛(かたつむり)枝に這ひ、
神、そらに知ろしめす。
すべて世は事も無し。

春の朝の平和な光景を簡潔に表現してから神への感謝で締め括ってるので
それだけだとキリスト教信者の抹香臭さが鼻につくが
訳者の註(※)を読むと一気に面白くなるるる~
『海潮音』は青空文庫にあり、ロバアト・ブラウニングの詩と註は中程より少し後にある

かいつまんで言うなれば
ロバート・ブラウニングは善き信者なので
神にはもちろん、神の創りたもうた世界の全てに対しても
与えられたコトに感謝するだけの楽天主義者でライプニッツのノリに近いw

だから最後の一節も崇高な信仰心がなければ皮肉っぽく感じてしまう
きっとヴォルテールだったらカンディドに呟かせるだろうて

Candide of het optimisme / druk 5

そもそも神が空から世界を見下ろして「問題ナシ、おk」てのは
旧約聖書の「創世記」で第一章の最後の一節(゚ ゚;)

神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。

と、出来立ての世界に満足して締め括ったのを受け売りしてるだけのようだが
でもこれが今の自分の気持ちにぴったり
キタ━━━━━(゚∀゚)━━━━━ !

☆・・・☆・・・☆

ばーさんと、その似たような境遇の仲間を見て育ったから
50歳も過ぎた人間こそ人生を謳歌してるるる~
そう思えてずっと彼女らが羨ましかった

ばーさんらは若い頃は芸者で
後に妾宅を与えられて、お手当で生活してた人たちだったが
関東大震災と東京大空襲を助け合って生き抜いて
日陰の身の上でも身を立てようと様々な商売に取り組んで
最終的には皆、大なり小なりの賃貸の家主となって
家賃収入で生活してた立派な人たちだ

子供がいても私生児だったり
私生児と役所には登録してあるが他人の子だったり
様々な事情を抱えてたため
世間からは子供らも蔑まれたのだろうが
彼女らはいつも気丈に笑ってた

屈託がなく、気取ったトコロがなく
天然具合が恥知らずレベルだったりもしたが
好感度は高く、愛嬌に溢れた憎めナイキャラだった

堅気の人に蔑視されるのが我慢ならなかったせいか
子供らの躾には厳しく、想像するだけでも身の縮むお仕置きが用意してあり
それをわかってるから子供らも助け合って言いつけを遵守した

とはいえ、怠ける、だらける、サボる、楽をする、誤魔化す・・・
そういった一切の堕落が許されなかっただけなので
生まれつき勤勉・勤労の素質さえ持ってればなんてコトはなかっただろう

ところが怠惰な性分に生まれついた母親にはきつかったらしい・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

しかもヘマをやらかさナイように気を張って
張り過ぎてうっかりヘマをやってしまったりして
またそのヘマに対して怒られたくナイからって
責任転嫁する手立てにばかり必死になってるのが裏目に出て
それがバレた日には、元はたいしたヘマでなくても大事になってて
大叱責を食らっては逆恨みするような子供だった

そんなのが毎度のコトとなると
その好くナイクセが強固に性格づけられてしまっても無理はナイ
そしてその間違った方向に働く防衛本能が
いつしか犠牲者に対しての攻撃力へと変容しても仕方がナイ

母親が何らかのヘマをする度に自分が叱責されたのはそういうワケなのだ

とは、ある程度の歳を経てからなら理解できるが
物心ついたばかりの自分には理解不可能で耐え難かった
身に覚えのナイ呵責を呪文のように唱え続ける母親が恐ろしかったし
そんな人間に根拠なく蔑まれてるのは腹立たしかった

とにかく自分に対して悪感情をむき出しにして責めてくる母親には
負けナイほどの憎悪や嫌悪を抱き続けるしかなく
ワケがわかったとしてももうとても赦せる存在ではなかったのだ

母親の方も罵るべき存在としか捉えようがなくなってたのだろうが
おもしろいコトに自分の成長に合わせて罵り方が少しづつ変化していって
ここ15年くらいは一貫して
結婚・出産・育児のどれもできナイ人間のクズ、社会のゴミ、呼ばわりで
「女として最低限の結婚・出産・育児の義務から逃れて
それらの辛さを知らずにのうのうと生きてるなんて!
何の苦労もなく、好き勝手してて、遊び歩いてばかりいて
私は日々憂鬱だってのに!!」
とゆーのが定番になってた・・・バタリ゙〓■●゙

一応、事実無根ではなく、事実を言われてるので逆らう気もなく
相槌代わりに「生きててすいませんね」とか詫びながらやり過ごしてたし
酔っ払ったふりしてかわすか、本トに泥酔してしまうか
とりあえず母親とはもうとてもシラフでは対峙できなくなってた(-_-;)

正気になると殺意しか沸かナイからp(-_-+)q

そんな母親が今年になってから肺炎で入院した時は
これで死んでくれ、頼む、帰って来ナイでくれ~と、正直、願ってしまったが
帰って来た母親は少々ボケたせいで余り噛み付いてこなくなった

退院する時には病状はすっかり回復して
唯一気がかりだったのは寝たきりになってたコトだったが
食事と排泄はスパルタで厳しく指導したので
今では1日くらいは放っておいてもダイジョブ(※)になった
1日分3食の食事を用意しておいても放っておけば好き放題にやるから、1日中煎餅を食べてるとかあるけど
それは自分さえ気にしなければ、たいした問題ではなく、週に1日くらいはそれもありだ

てか、1日暇を持て余してるせいか
「洗濯しとこうか?」とか言い出すようになったりしてウケるるる~
最初のうちはぐちゃぐちゃにされるのが嫌で遠慮してたが
別にタオルが皺だらけでも何も困らナイし
メンドウだが害のなさそうな洗濯物を選別しといて洗濯させるコトにした
引き出しを開けると雑然としててめまいがしそうになったが
慣れてくると気にはならなくなるもので
そうしてきちんとした生活を保とうって意識が薄れたせいか
母親が入院前と比べて、精神的にも体力的にも楽になった自分がいるヽ(゚∀。)ノ

実質的にも家事が今まで以上に楽になった
火事が恐いからIHにしたが、魚焼くのにひっくり返す手間も不要になったりとか♪

でも1番救われたのは
母親が素直に「美味しい」と飯を食うようになったコトだな
ダイエットだ、味が合わナイわ、とか文句がなくなった。(゚д゚lll)ギャボ

赤毛のアン DVD-BOX

ばーさんほどのヨユーはナイにしても
少しだけ行く末が明るくなった気がしてきたトコロで
ロバート・ブラウニングの一節を大嫌いな『赤毛のアン』のように
つい小声で呟いてしまうのだった。(´д`;)ギャボ

louis14

ヴォルテールの『ルイ十四世の世紀』第1巻は
当時のフランスはもちろんだがイギリスにも詳しいし
ヨーロッパ全体の動きがわかりやすくまとめられてるので
フランス革命前のヨーロッパの情勢の史料としては優れてるのだが
ルイ14世の人となりについて描かれてる部分が皆無なので
いかんせん面白みには事欠く。(´д`;)ギャボ

続く第2巻も第24章まで第1巻と同じ調子で淡々とした政局の変遷が続き
第24章で早くも主人公のルイ14世は死んでしまうのだが
ここまででルイ14世について想うトコロがナイので
死に際しても感傷的になりようがナイ。(゚д゚lll)ギャボ

そこがヴォルテールの狙いなのかどうかの結論は読後に譲るとして
第25章から一転して面白くなるのは人間関係が赤裸々に描かれるからだ

しかもその端々にコルネイユ、モリエール、ラシーヌといった古典劇に触れてて
特に第26章で32歳まで人前でバレエを踊ってたルイ14世が
ラシーヌの『ブリタニキュス』を観て以来、人前で踊らなくなった
即ち、詩人が君主に態度を改めさせた、とゆーのは笑えたw

『ブリタニキュス』はネロ(作中ネロン)が
先帝の嫡子でネロの義理の弟のブリタニキュス(ブリタンニクス)を暗殺する話で
ネロと言えば芸術(詩や音楽)をこよなく愛したローマ皇帝で
度が過ぎてネロ祭なる発表会を催してたくらいだが
愚帝や暴君との呼び声も高い人物なので
ルイ14世は同じコトをやって近しいと思われたくなかったのだろうが
厳密に言えばネロは踊ってたのではなく謳ってたのだ(-_-;)

そして謳う皇帝ネロは
剣闘士として戦う皇帝コンモドゥスやアナーキストで女装の皇帝ヘリオガバルスと並び
自分の中では最も人間的な魅力溢れる3大皇帝なので
踊る王ルイ14世にも惹かれずにはいられナイ

映画『王は踊る』は未見だがどのくらい史実に忠実なのだろうか?
ルイ14世が太陽王と渾名されたのも太陽の役を踊ったかららしい(※)が
『王は踊る』のDVDやサントラCDのジャケットはまさに太陽役ってカンジだな
『ルイ十四世の世紀』には「王が太陽に扮した際・・・」とある

映画《王は踊る》サウンドトラック王は踊る [DVD]

章が前後してしまうが第25章には
モーパッサンの紀行文『水の上』の一文を読んで気になってた【鉄仮面】の話が載ってた

サント・マルグリットの、陸地よりの突端には、鉄仮面やバゼーヌが幽閉された有名な城塞がある。

それまで【鉄仮面】はデュマの『ダルタニアン物語』に出てくるのしか知らず
デュマの創作だと思い込んでたので仰天して註釈を見ると

この有名な伝説は、ヴォルテールらが流布しはじめたものらしく、事実は、黒ビロードの面をかぶせられた囚人で、イタリアの伯爵マッティオリのことである。彼は、国際関係の犯罪で、ヴェネツィアでとらえられ、1679年ころ、サント・マルグリット島に幽閉され、ついでバスティーユに移されて、1703年に死んだ。

ヴォルテールは『ルイ十四世の世紀』では【鉄仮面】の正体には言及しておらず
1661年のマゼラン枢機卿の死の数ヶ月後にサント・マルグリットに運ばれ
バスティーユに移されたのは1790年となってる

『水の上』の訳者は吉江喬松と桜井成夫で『ルイ十四世の世紀』を踏まえてはいるかもだが
この訳註はそれとは別の【鉄仮面】伝承を参考にしてるのは間違いナイ

またヴォルテールは仮面の状態を以下のように記してる

仮面を被りつづけ、これは、顎当に、鋼のばねがついていて、被ったまま、自由に物が食べられるようになっている。顔を出したら殺してしまう、という命令が出ていた。

更にヴォルテールは【鉄仮面】の男と遭遇した人物として
男の世話をしてたサン・マルス司令官、ルーヴォワ候、バスティーユの医師を挙げ
各々の対応の仕方から身分の高い人物であるとの確証はしてるが
ルイ14世の双子の片割れだと匂わすような部分はナイ

仮面の男―仮面の男とその背景 (竹書房文庫)
仮面の男 (角川文庫クラシックス)

それにしても映画『仮面の男』はデュマを原作にしてるらしいが
脚色し過ぎで全く違う話になってると思われ(※)
まあ予想以上に面白くて何度見ても飽きナイので文句はナイがヽ(゚∀。)ノ
角川文庫クラシックスの『仮面の男』と比較

藤本ひとみの小説『ブルボンの封印』と
それを漫画化した森川久美の『ブルボンの封印』も
【鉄仮面】の正体をルイ14世の双子の片割れとしてる点では同じだが
これはこれでまた違う話でしかも主題がラブ・ロマンスなので
1度読んで面白かったのは否めナイが2度目に読む気は失せた・・・バタリ ゙〓■●゙

【鉄仮面】抜きの『三銃士』なら映画でも漫画でも数限りなく存在し
近年、人形劇になってたのも欠かさず観てたが
自分的には田中雅子の少女漫画『風のダルタニヤン』が
絵柄も綺麗だしデュマの原作に忠実ながら面白いので気に入ってるるる~

最後に【鉄仮面】の正体は誰だったのかは
『鉄・仮・面―歴史に封印された男』で明かされてるらしいが
それが真実かどうかはまた別の話だ

ラシーヌの『エステル』についての殆ど総ては
ヴォルテールの『ルイ十四世の世紀』を読めばわかるのだが
やはり自分自身もその芝居を観るなり、せめて読むなりしなくては
単なるウケ売りになってしまうので
『世界古典文学全集【48】ラシーヌ』を購入して読んでみた

結論から言えばヴォルテールの言及とほぼ近い感想だったが
ヴォルテールが触れてナイ根幹的な部分にこそ自分には深く考えさせられた

比較するためにヴォルテールの言及を引用すると

(前略)荒唐無稽で、面白くもおかしくもない事件を、見せられるだけだ。王さまが一人出て来るが、半年も一緒に暮しながら、お后の素性を知らぬし、それを調べてみようともしないのだから、とうてい正気とは思えぬ。大臣がまた、ユダヤ人が、自分に敬意を表さぬというので、老若男女問わず、これを皆殺しにするよう、王さまに頼み込むなど、滑稽とも、野蛮とも、何ともいいようがない。この同じ大臣が、つまらぬことをしたもので、ユダヤ人を、十一ヶ月以内に、残らず殺せという触れを出すが、これでは、何のことはない、逃亡するなり、自衛の手段を講じるなり、勝手に振舞えということになる。王さまも王さまで、いわれもないのに、このおかしな命令に署名しておきながら、また、いわれもないのに、突然、当の気に入りの大臣を、絞り首にしてしまう。おまけに、筋らしい筋がなく、変化に乏しいし、面白みもないときているから、良識を持ち、趣味のよいものなら、うんざりするのが当然だ。

などと貶し放題だ。(´д`;)ギャボ

ここでヴォルテールが見落としてる重大な事実は
大臣の一族が先にユダヤ人に皆殺しにされてた過去があったコトである

サムエル記 (2) (ヘブライ語聖書対訳シリーズ (14))
出エジプト記 (1) (ヘブライ語聖書対訳シリーズ (3))

『旧約聖書』の「サムエル記」でイスラエル(ユダヤ人)の王サウルは
預言者サムエルに神の意思を告げられるるる~

わたしは、アマレクがイスラエルにした事、すなわちイスラエルがエジプトから上ってきた時、その途中で敵対したことについて彼らを罰するであろう。今、行ってアマレクを撃ち、そのすべての持ち物を滅ぼしつくせ。彼らをゆるすな。男も女も、幼な子も乳飲み子も、牛も羊も、らくだも、ろばも皆、殺せ。

ところがサウルはアマレクの王を生け捕り、家畜も殺さずにいたので
サムエルは神の意に背いたサウルを罪人扱い。(゚д゚lll)ギャボ

サムエルに引き渡されたアマレクの王は神の前でサムエルによって切り刻まれ
神はそれをよしとしたがサウルを王としたのを悔いた・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

後にダビデがアマレクの総てを「ぶんどり物」(※)として捕らえ
これらをまた皆殺しにして正しい大虐殺(?)の見本をやってのけたのだ
「ぶんどり物」てのは自分の持ってる聖書にそう書いてある通りだ
参考:セム、ハム、ヤペテ~アブラハム(アブラム)

マイケル・サンデルの講義に出たらサンデルもたじろぐだろう

正義=ユダヤ、以上p(-_-+)q←ユダヤ

ポカーン。(゚д゚ )←サンデル

みたいなw

とにかくユダヤ人がのさばるのに邪魔な民族は皆殺しにするのがユダヤ人の正義で
むしろ情けを起こしたりすれば神に背いた罪人と見做されるのだ

こういう民族に対して不条理を感じナイ人間だけが
もれなくキリスト教を享受できるのだな

信じる者は救われる

とは(都合)好く言ったモノで
ユダヤ人が信じる神ヤハウェは自ら選んだ民族以外を呪う神で
基本的にはヨーロピアンもアメリカンも呪われて然るべきなのだが
そこが神の子イエス・キリストの出現から解釈が変わって
ユダヤ人でなくても信じる者は救われる、となったのだ(゚*゚;)

しかも何を信じるかってユダヤ人の神ヤハウェではなく
唯一無二の神であり、キリストがその神の子であるコトであり
神を信じててもキリストを疑うのは善しとしナイ
これを父(神)と子(キリスト)と聖霊は三位一体なのだとして
非科学的、非理性的、かつ主観的な言い分で思考停止させてしまうのだなヽ(゚∀。)ノ

『エステル』がジェズイット教団にウケたのは然りで
ルターがローマ・カトリックに反旗を翻して真の信仰を説いた宗教改革に
真っ向から敵対したのがジェズイット教団(イエズス会)で
フランスではユグノーと呼ばれてたルター派の新教徒たちと衝突してた

ところでヴォルテールのみならず
ラシーヌも大臣の一族が皆殺しにされた過去をスルーしてるかと思いきや
以下のようなイスラエルの娘の台詞が見受けられた

祖先が罪を犯し、もう祖先は死んでしまった、
その罪の刑罰をわたしたちがこうむるのです。

まあこの一箇所だけでは観客には完全にスルーされただろうな(苦笑)

フローベールの『ボヴァリー夫人』のオメーがヴォルテールの信奉者で
そのヴォルテールが著書『ルイ十四世の世紀』の中で
ラシーヌを讃美してる中でも『アタリー』を高く評価してたので
オメーは自身の娘にアタリーと名付けた

と、そこまでの話は呑み込めたが
ヴォルテールがなぜ『アタリー』に対して高評価なのか
またなぜ前作の『エステル』を酷評してるのか
今一つ納得が行かナイのは当然ながら自分が観てナイからだヽ(゚∀。)ノ
参考LINK:マントノン夫人の高尚な意地悪

「百聞は一見にしかず」
換言すれば「一見が無理なら百聞を信じるしかナイ」のだが
聞くに及ばず見るに適わず、でも読めば゚+.(・∀・)゚+.゚イイワケで
『世界古典文学全集【48】ラシーヌ』を購入

『世界古典文学全集【48】ラシーヌ』には年代順に全作品が収録されてた!
そこで目的を忘れて『アレクサンドル大王』から読み始めるのは
ヲタ的には何も間違ってはいナイのだ!!

そして次にやっと『エステル』に辿り着いたのだが
本文に到達する前に序文で躓いてしまう・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

なんせラシーヌは序文で次のように述べてるのだ

わたしは、俗世のものと聖なるものとを混同することを慎重に避けたけれども、それでもアシュエリュス{アハシュエロス}をよりよく描きだすために、ヘロドトスから二、三の特徴を借りてもよいと考えた。というのは、この歴史家が語るイダスプ{ヒュスタスペス}の子の有名なダレイオス王とアシュエリュスが同じ者であると考える多くの聖書解釈学者の意見に従ったからである。

現代ではアハシュエロス=クセルクセスが通説のようだが
当時(ラシーヌの生きた17世紀頃)の聖書解釈学者や歴史家の間では
アハシュエロス=ダレイオス、しかもヒュスタスペスの子ならダレイオス1世なのか?
それともラシーヌが勘違いしてるのだろうか。(゚д゚lll)ギャボ

ヘロドトスの『歴史』巻3によればダレイオス1世は
王座を簒奪した謀反人を始末した7人の中で
取り決めに従って馬を1番先に嘶かすコトができたので王位に就いたが
ダレイオス自身には先王のキュロスやカンビュセスと同じ血は流れておらず
4人の妻の内3人が王家の娘で残る1人が謀反を看破したオタネスの娘で
ワシテやエステルに該当するような女は見受けられナイ
だいだいにおいてダレイオスの女とのエピソードはほとんど伝わってナイのだが
それとゆーのもダレイオスは戦争に明け暮れてたからだ

但しペルシア戦争に至るきっかけを作ったのは
妻アトッサにピロートークでギリシア征伐を勧められたからだが
アトッサはキュロスの娘にしてカンビュセスの妻であり
またカンビュセス亡き後には謀反を企てたマゴスの妻でもあった女で
間違いなくワシテにもエステルにも当て嵌まらナイ

ヘロドトスはダレイオスの妻(妾)との挿話をこの他に一切記述してナイので
これはやはりラシーヌの勘違いだろう。(´д`;)ギャボ

尤も現代においては『旧約聖書』に史実でナイ事象が含まれてるのは周知の事実で
それらは口承で伝えられてきた昔語りのようなモノだったのを
神と神が選んだ民族の栄光の物語、にユダヤ人が都合よく編纂してるのだw

なので『エステル記』も辺鄙な土地に伝わる物語なのかもしれなくて
アハシュエロスはダレイオスでもクセルクセスでもナイかもだ

『エステル記』を歴史的事実として検証しようと思ったら
ハマンの一族アマレク人がユダヤ人によって皆殺しにされた事件が
誰が王の時に起こったかを調べれば゚+.(・∀・)゚+.゚イイのだが
ペルシア側の史料にはそういった史実は認められナイ

エステル記 (ティンデル聖書注解)

聖書の解釈(むしろ曲解w)本の最新刊がまさに『エステル記』だったりするが

(前略)おとぎ話のように思われがちなエステル記の史実性にさまざまな資料から迫り、またモルデカイの傀儡のように見なされがちなエステルの自立性にも焦点を当てる。ユダヤ人問題にも触れる画期的な注解書。

てなワケで史実としての確たる資料がナイコトがよくわかるるる~
LINK:ティンデル聖書注解

それにしても『エステル記』の史実性についてググってたら
キリスト教信者はヲタとしては本トにレベル高くて
信じてる姿になんとか近づけるために事実無根でもでっちあげて
最終的には精神論で何かの比喩であると片付けて納得させるってコトを
改めて実感してしまったのが以下のLINK記事とか・・・ヽ(゚∀。)ノ
LINK:アマレク―後編

  アラビアやその周辺諸国には、アマレク人に関するたくさんのおとぎ話があります。これらのおとぎ話には根拠はありませんが、多くのアラビア、イスラム作家がアマレク人についての物語を創作してきました。さらに最近になって、イスラム作家たちは「イスラエルの大量虐殺による不運な犠牲者」としてアマレク人を描くようになりました。

確かに世界中に御伽噺はあって解釈は自由だが
上記のようにはっきりと自身でも「おとぎ話」で「根拠はありません」
「イスラム作家がアマレク人についての物語を創作してきました」とまで書いてるのに
そのすぐ後には次のように記してるのだ

 イスラム作家たちが書くアマレク人の物語は架空のものですが、アマレクとその子孫が確かに存在していたことは歴史的事実です。なぜなら、彼らについて明確な記述が聖書にあるからです。

架空ですが聖書にあれば歴史的事実です、なんて
信者以外には何の説得力もナイのに力説してるのが痛い、痛過ぎるるる~

単にペルシアに伝わる美しくも残忍な奴隷女の物語としたら
それはそれで自分は好きだけどね
LINK:アハシュエロス王との謁見のために化粧をするエステル

ローマ皇帝の中でもとりわけネロが好きな自分は
ネロについて書かれてる本を蒐集してるので
ラシーヌの『ブリタニキュス』もいつかは欲しいと思ってた

だから岩波文庫から出てる『ブリタニキュス』を古本屋で見かけては
購入すべきかどうか何度も迷いに迷ってた
迷いがあったのはこの本がちょうど岩波文庫の紙質が悪い時代に出てて
その後に重版されずにいたコトによる
時を経て紙面はすっかり褐変してるよれよれのモノばかりで
どうしてもコレクションに加え難い品質だった

だからいつかこれが奇跡的に復刊されるか
もしくは更に望み薄だが新訳が出たりした折には購入しようと決心してた

とはいえ、いずれにしろ随分気の長い話だと思ってたが
2006年夏に先に渡辺守章訳の『フェードル / アンドロマック』が復刊され
続いて2008年に遂に『ブリタニキュス / ベレニス』が同じく渡辺守章訳で出た!

ブリタニキュス ベレニス (岩波文庫)

古く『ブリタニキュス』は『星の王子さま』の訳で名高い内藤濯の訳だったので
きっと真意を深く追求した意訳だと予想できて魅力的だったが
『ブリタニキュス / ベレニス』の渡辺守章訳の方は
実際に脚本として用いられた口語訳なのがむしろ非常に読み易かった!!
これは既に『フェードル / アンドロマック』で馴染んでたせいもあるだろう

しかし渡辺訳版の秀でた点は本文以上に訳注と「解題」にあるるる~

ためつすがめつ購入を迷い続けた『ブリタニキュス』には
『ベレニス』が未収録であったのは言うまでもナイが
これが『ブリタニキュス / ベレニス』に比して1/4くらいの薄さだったのは
『ベレニス』が途轍もなく長い戯曲だったからではナイ
(実際『ブリタニキュス』より短い)

『ブリタニキュス』と『ベレニス』とで訳注が合わせて100ページ以上あり
「解題」がこれまた100ページ以上に及ぶために
200ページ強分の厚みが増してたのだった。(゚д゚lll)ギャボ

200ページとゆーページ数からも歴然としてるが
訳注も「解題」もとにかく詳細で隙がナイ。・゚・(ノД`)・゚・。

とりわけ「解題」の中の「ラシーヌの生涯と作品」には
各作品の紹介と共にその作品に対する当時の評価などもあったので
これを読んだら元の話を知ってるだけに(※)
ラシーヌの脚本をちゃんと読んだような気にすっかりなってしまえてたが
既出の4作(フェードル、アンドロマック、ブリタニキュス、ベレニス)以外は
後に筑摩書房の『世界古典文学全集【48】ラシーヌ』を入手して読んで
そういえば全く未読であった、と改めて気付いたくらい
渡辺の「解題」は詳し過ぎたのだったヽ(゚∀。)ノ
『アレクサンドル大王』は伝記の邦訳本を総て持ってたし、『アタリー』も『エステル』も『旧約聖書』にある

そうなのだ、ラシーヌにすっかり魅了された自分は
絶版の全集をついに手に入れたのだった!

しかもかねてから中公世界の名著と筑摩世界文学大系は
「解説」の充実度で他に比肩するモノはナイと確信を持ってたので
迷わず筑摩書房の『世界古典文学全集【48】ラシーヌ』を購入したのだが
これが予想以上に素晴らしい内容だった!!

ラシーヌ執筆の全作品がもれなく年代順に収録されており
時代背景、公演の評判、ラシーヌが参考とした資料などの詳細が
各作品の冒頭の「解説」にあり
それとは別にラシーヌ自身が書いた序文や
時の権力者に送った作品についての書簡などもあり
要するにこれ一冊でラシーヌを完璧に網羅できてしまうのだ

それでも『ブリタニキュス / ベレニス』も買っておいて損はなかった
てか、この岩波文庫版新訳の訳注と「解題」は
ネロヲタの自分としては最強に俺得で死ねる・・・バタリ ゙〓■●゙

それにしてもラシーヌの扱う題材は
どうしてこうも自分のヲタ趣味と合致するのだろうか?

トロイ戦争ヲタには既読の『アンドロマック』も俺得だったが
未読の中にも『イフィジェニー』があり
ゲーテの『タウリス島のイフィゲーニエ』と読み比べれば
一粒で2度美味しく愉しめるってモノだ♪

そして未読の目玉はなんと言っても『アタリー』と『エステル』だが
これはフローベールの『ボヴァリー夫人』の中で
最も個性的な登場人物オメーが娘にアタリーと名付けてるのが
まさしくラシーヌの『アタリー』由来なのだった
ましてやそうと名づけたオメーの真意を推し量るためには
実際に読んでみナイコトには考察のしようもナイ以上に
作中でオメーが信仰する神ヴォルテールの著書『ルイ十四世の世紀』で
『アタリー』を高く評価しつつ『エステル』を貶してる
と知らなけらばいかんせん意味不明なのである。(゚д゚lll)ギャボ

『エステル』と『アタリー』はプルーストの『失われた時を求めて』でも
「スワン家のほうへ」第一部の「コンブレ」で比喩に使われてるが
もちろんこの2作品をただ読むだけでなく
完璧に理解してなければやはり意味不明なのである。(´д`;)ギャボ

しかしアレクサンドロス大王ヲタである自分にとって
未読の中で真っ先に読んだのは『アレクサンドル大王』だったがw

それとゆーのも自分の読書の仕方がいつも決まってて
未読の本はまず目次や索引からアレクサンドロスを探して
そこから読み始めるからだ

racine

ラシーヌの『エステル』と『アタリー』について述べてる箇所が
ヴォルテールの『ルイ十四世の世紀』の第2巻にあった

まず『エステル』と『アタリー』の訳注を見てみると次のようにある

『エステル』(Esther)及び『アタリー』(Athalie)
ラシーヌの創作活動の最後を飾るこの二作は、いずれも旧約聖書に取材し、合唱隊を登場させてギリシャ悲劇の形式に近づけてあり、晩年キリスト教に深く帰依するようになった作者が、悲劇の世界に新しい境地を開いたものとして注目される。
「アタリー」が初演当初成功しなかったのは、サン・シールの女生徒たちに対する宗教教育上の配慮から、衣装や装置を極端に簡素にしてしまったためとも言われるが、今日では、ラシーヌの代表作の一つとして、高く評価されている。

そして『ルイ十四世の世紀』の第27章には
モンテスパン夫人に代わって王の寵を受けるようになったマントノン夫人が
ラシーヌに『エステル』を依頼した経緯が以下のようにあった

知的な楽しみを復活させたのは、サン・シールの女学校である。ラシーヌは、ヤンセニスムと宮廷に気兼ねして、劇作を断念していたが、マントゥノン夫人が、このラシーヌに頼んで、自分の学校の生徒に上演できるような悲劇を作らせた。主題は聖書からとるというのが、その希望である。

王が病気になり、宮廷での艶やかな宴を一切取り止めてから
以来、観劇に姿を現すコトもなくなって
宮廷のみならず国中が塞いでた状態だったのだが
そこでマントノン夫人がささかやな観劇を自らの学院の生徒によって催し

まず、サン・シールの校内で、それから、1689年の冬、ヴェルサイユで、何度も、王の御前で上演される。

これに続く意表をつく文章が以下だ

宗教界の歴々や、ジェズイット教団の僧侶たちが、この妙な芝居を見ようとして、許可を得るのに汲々たるありさま。この作品が、当時、完全な成功を収めたのにひきかえ、二年後、『アタリー』が、同じ人々の手で上演され、全くの不首尾に終ったのは、注目に値する。

『エステル』は素人の女生徒による「妙な芝居」でもウケたらしい(゚ ゚;)
しかも宗教界の歴々やジェズイット教団の僧侶たちに?!
ところが『アタリー』は同じように「妙な芝居」であっても不評だった(-_-;)
それも宗教界の歴々やジェズイット教団の僧侶たちに?!

更にヴォルテール曰く

この両者が、作者の死後久しくしてから、パリで上演された時には、結果は正に正反対だったが、これは宮廷内の人間関係が変わったからだ。『アタリー』は、1717年に上演され、当然のことながら、感激の渦を巻き起こした。『エステル』の方は、1721年に上演されたが、何の反応もなく、その後二度と日の目を見ぬ。

キタ ━━━━━(゚∀゚)━━━━━ !

『エステル』はどうやら自分の予想してた通りに
ルイ14世の愛妾マントノン夫人の思惑に則った脚本だったようだ!!

つまり王の寵愛を過度に受けるエステルに自身を擬えてた芝居で
観ててそういうコトだとわかって権勢を誇る夫人へのお追従が絶えなかったのが
好評に繋がったのだな。(´д`;)ギャボ

ヴォルテールは「作者の死後」としてるが
要するにもうお追従は不要なマントノン夫人の権威の失墜後(※)で
だから1717年の『アタリー』の上演時も1721年の『エステル』の上演の際も
改めてプロの演劇集団による公演に正当な評価が下されたのだったが
その結果は『アタリー』の大当たり~(殴)
ルイ14世が1715年に没してるのでその少し前だろう

ところでヴォルテールは1ページ近く割いて『エステル』をクソ貶しに貶してるが
詩としては実に素晴らしい、と締め括ってラシーヌ自身を貶してはいナイ

ボヴァリー夫人 (河出文庫)

さてここで当初の疑問に話を戻すと
『ボヴァリー夫人』のオメーが娘にアタリーと名付けたのは
ヴォルテールに共鳴してるのだと合点が行った!
なぜならオメーは自らが神と仰ぐ人物を次のように挙げてる!!

ソクラテス、フランクリン、ヴォルテール、ベランジェの神だ!

ヴォルテールの言はオメーにとってキリストの福音なのだ(-人-;)

それにしてもマントノン夫人は
エステルに擬えられてさぞご満悦だっただろうが
マントノン夫人によって退けられたモンテスパン夫人も
アハシュエロスの元正妻ヴァスチ(ワシテ)に譬えられてて
さぞや悔しい思いをしてたのだろう

そう想像するとマントノン夫人もたいがいな女だが
意地悪の仕方が余りにも高尚なのがなんだか素敵に思えてくるし
それにそうとわかって耐えるモンテスパン夫人にしても
また更にそこでマントノン夫人に媚び諂ってる輩にしたってさえ
なんてインテリジェンスなのかと感動してしまうよなヽ(゚∀。)ノ

ヴォルテールにしてみればそれ以上に
不寛容なジェズイット教団の連中が『エステル』を絶賛してる図ワロタ
てなカンジなのかね(゚*゚;)

そしてそういう総てを踏まえてオメーのキャラクター設定を施したのだから
自分にはフローベールこそが神だな。(゚д゚lll)ギャボ

roman-catholic

中世のフランスでジャンヌ・ダルクは異端審問により「異端」と見做されたため
火焙り(Autodafé)にされ
近代のフランスでマリー・アントワネットは国民議会の革命裁判で「有罪」となり
ギロチン(Guillotine)に処された

フランス史 2 中世 下
フランス史 5 (18世紀 ヴェルサイユの時代 (全6巻))
ジャンヌ・ダルク [DVD]
マリー・アントワネット (通常版) [DVD]

異端だとなぜ罪もナイのに火焙りなのか?

ローマ・カトリック教会を頂点とする組織が度々行ったこの処置に
小学生の自分は憤怒と憐憫を覚え疑問を持ったが
そこにまるで疑問を抱かナイカトリック信者の心情はもっと謎だった

しかもそれでいて同じ刑罰を
ローマ皇帝ネロが大火の犯人に行ったのは悪魔の仕業だ
などとと嘆くのも不思議だった

ジャンヌを冤罪で火焙りにしといても
死んだ(殺した)後で聖人に加えたコトで贖われてる
とか、そういう納得の仕方をしてるのだろうか?
それならネロの場合も同じようにすれば
キリスト教信者にここまで忌み嫌われなかったんだろうかw

近代国家での刑罰は罪状に対して負わされるモノだが
どちらかといえば犯罪者には甘い措置で
死刑のような極刑が下されるコトなどほとんどナイし
それが公開処刑なんてあり得ナイ!
とゆーのが現代日本人のフツーの感覚だろう

「異端」だから殺しても差し支えナイ!!
ましてや
見せしめのためには公開処刑で火焙りに!!
なんて発想にはとてもついて行けナイ。(´д`;)ギャボ

でもそれがジャンヌの時代では罷り通ってたのだし
その後ルネサンス期になっても早過ぎた天才たちは「異端」として
火で焼かれたのだ。(゚д゚lll)ギャボ

つまり「異端」とは
ローマ・カトリック教会の主旨に適わぬ考えを持つ者で
同じキリスト教信者でもプロテスタントは「異端」だったのだが
それならローマ・カトリック教会とは何ぞや?

実際はローマ法王を中心としたキリスト教の一組織でしかナイが
古くは法王は神直属で神に任命されたとしてたw

このローマ・カトリック教会の長年に渡る大罪を
ヴォルテールが『カンディド』でわかりやすく揶揄したのだが
そのヴォルテールら啓蒙思想家の死後に
イギリスより大幅に遅れて近代化を歩み出したフランスで
今度は教会に替わって庶民がこの大罪を担った

無知ゆえの妄信が引き起こす集団ヒステリー状態が
庶民を無意識のうちに革命へと駆り立て
まずは犠牲者として選ばれた国王をギロチンで処分した

ルイ16世の処刑に対しては罪状が何もなかったが
言うなれば庶民による新しい【異端審問】で「異端」とされた

それに比べて王妃は近代国家的に一応「有罪」とされたのだが
罪状はたぶんでっちあげたのだろうと思われ
なんたって8歳の息子との近親相姦だヽ(゚∀。)ノ

それにしても皮肉なのは
処刑道具としてギロチンを認定した張本人こそが
ギロチンにかけられたフランス国王ルイ16世だったってコトだ・・・

ちなみに通常は「オトダフェ」ではなく「アウトダフェ」とかな書きするのだが
ヴォルテールによったのでフランス語読みの「オトダフェ」とした
所有してるヴォルテールの『カンディド』では【異端審問】が【異端糾問】と訳されてるが
これは汎用の【異端審問】の方で統一してる(訳者は丸山俊雄と新倉俊一)
またこの『カンディド』の「火刑(オト・ダ・フェ)」の註には次のようにあった

スペインやポルトガルで行われた、異端糾問所(Inquisition)の判決宣告、及び、その宣告を受けた異端の徒に対する刑(通常は火刑)の執行をいう。

ミシュレの『フランス史』はそれだけで読み応えがあるが
読み比べるとより一層面白いかと思いついた

まずは『フランス史 II 中世【下】』
「8 ジャンヌ・ダルク―オルレアンの解放とランスの戴冠式」
「9 ジャンヌ・ダルク―裁判と死」

フランス史 2 中世 下
ジャンヌ・ダルク処刑裁判
ジャンヌ・ダルク [Blu-ray]
Saint Joan (New Mermaids)
ジャンヌ・ダルク (中公文庫)

自分の中のジャンヌ・ダルク像は胡散臭さが先立ってしまってたが
それとゆーのもキリスト教に即した絵本だったからだ

ジャンヌは火焙りにされてしまうが後に聖人として称えられて
めでたしめでたし・・・かょ。(゚д゚lll)ギャボ
何の疑問も抱かずに読後に感動できるなんて
自分にはおかしいとしか思えなかった。(´д`;)ギャボ

いや、むしろ信者こそが教会のあり方に対して疑念を抱くだろうに?
なんせ異端審問でジャンヌを火刑に処したのは当の教会組織だ
(この辺りの事情はルター以降だと釈然とする
つまりローマ・カトリック教会によるプロテスタント迫害だ
しかしジャンヌはルター以前の人であるるる~)

フランス人でもキリスト教信者でもなければ
ジャンヌ・ダルクにはとても共鳴できようもナイはず・・・(-_-;)
まあ自分は異装趣味に関しては応援できてしまうのだがw
自分だけでなくオスカルファンには鎧帷子姿のジャンヌがぐっとくるだろう

時代遅れの騎士道をズタズタに打ち破った一歩先行くイギリスに
今にも乗っ取られる寸前のフランスで男たちは立ち向かう勇気を失ってたが
そこにまさに騎士道精神の象徴的な姿で少女が旗を揚げるのである
この時代のフランスのどうしようもなさを知れば知るほど
それを打破しようとする少女のひたむきさの威力を思い知るp(-_-+)q

近年になってシラーの『オルレアンの処女』を読んで
ジャンヌの心情を克明に描いてるのはさすがシラーだと感心はしたが
いかんせん聖人ジャンヌなんである、一人の人間としてではなくね・・・
しかも肝心の火焙りになるシーンがナイのもどうかとヽ(゚∀。)ノ

それが今更ながら王道のミシュレの『ジャンヌ・ダルク』を読み
これこそが史実に忠実でかつ人間を描いた傑作だと確信した!
3つしか読んでなくっても・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

先述の『フランス史』のジャンヌの部分を
ミシュレが執筆してたのは1838年~1839年頃だったらしいが
その10年後の1848年の2月革命で挫折したミシュレは
ナポレオンへの忠誠の誓いを拒否して1852年には全てを失ってしまう
ところがその翌年に『フランス史』から抜粋されて
『ジャンヌ・ダルク』が単行本として出版されたのである!!

この単行本の邦訳が1987年に中公文庫で出てたのを昨年になって突然買ったのだが
もう「序文」だけですっかりジャンヌ・ダルクに
そしてミシュレに参ったのだった・・・バタリ ゙〓■●゙
※ちなみにこの序文は当たり前だが単行本化の際に加筆されたモノ

今回『フランス史』の方で前後の情勢もよくわかる中で読むと
より一層ジャンヌ・ダルクの生きザマに心を打たれるが
この一人の献身的な少女は神の加護がある聖人なんかではなく
ニーチェの称するトコロの超人なのではナイだろうか?

そこで他の作家の『ジャンヌ・ダルク』を読み比べてみたくなったが
邦訳で入手可能なのはマーク・トウェインくらいだった

アナトール・フランスのは元から邦訳がなさそうでフランス語版ならありそうだが
英語版はあるのだろうか?

1番読みたいバーナード・ショーの『聖女ジョウン』も原語(英語)版に頼るしかなさそうだが
とりあえず作品解説本『バーナード・ショーの劇』
「【第九章】 聖女ジョウン」を読めるだけでもありがたい(-人-;)

そしてヴォルテールの発禁を食らった『オルレアンの処女』だが
ネットで探したら英語版が読めそうな気配
LINK:THE MAID OF ORLEANS

他にもググってみたら
少女マンガでは天川すみこの『ジャンヌ・ダルク』てのもあったが
1巻の表紙の絵柄が好みからすると微妙だな・・・
また『ピュタゴラスの旅』の酒見賢一原作のマンガで
『D'arc(ダーク)ジャンヌ・ダルク伝』には酷く興味をそそられたが
絵柄が近藤勝也なる漫画家で自分の苦手なジブリ系だった。(゚д゚lll)ギャボ
無理っつ。(´д`;)ギャボ

これは途中まで3月11日より前に書いてたが
その後は実際にリスボンの大地震のような地震が日本を襲い
内容的に些か不謹慎かと自粛してアップせずにいた

今、世界中からの応援や支援を受けて
日本は復興への長い道のりを歩み出そうとしてるが
各々がやるべきコトを真摯に考えかつ実行するのは容易くナイ

ましてや原発事故の後遺症は延々と続くだろうし
先の見通しは決して明るくナイのだから・・・

自分は小市民らしく
愛する人たちのためにだけできる範囲の些細なコトをやる・・・ので精一杯だ
まあ震災があってもなくてもそこは同じだw

どう生きるか、は生きてる以上
意識して考えてはっきりと答えを出してなくても
無意識にその回答に従って生きてるはず

人は生きるコトに切実にならナイと・・・
要するに常に死を意識して生きてなければ無意識に生きてしまうが
それは生物として本能に適った生き方だとも言える

その無意識の中に悪意がナイのが庶民で
それこそが庶民の誇るべき長所だ

でもだからこそ庶民はいつでも悪意に満ちた権威者の犠牲になってしまうのだ

庶民はいつまで愚民でいるのか?
どうしたら権勢の都合で捏造された迷信を信じなくなるのか?

と、ヴォルテールや他の啓蒙思想家が啓発し続けたのは
フランス革命より以前のコトだったが
それから300年近く経って近代化した世界のどこの国でも
庶民は迷信を熱望さえしてる。(゚д゚lll)ギャボ

現代ではプロパガンダと呼称が変わったが。(´д`;)ギャボ

カンディード 他五篇 (岩波文庫)
ヴォルテールの世紀 精神の自由への軌跡
ライプニッツ (Century Books―人と思想)

さて表題のリスボンの大地震だが
ヴォルテールの時代のポルトガルはリスボンに起きた震災で
大地震の後には大津波が来て大火災も発生して
死者3万人を含む10万人もが被災する大惨事に至った

この惨状を知ったヴォルテールは
すぐにその嘆きを『リスボンの災害についての詩』にして
その後小説『カンディド』では震災の様子を見てきたかのように描写した

『リスボンの災害についての詩』の日本語訳は
2009年の暮れに出た『ヴォルテールの世紀 精神の自由への軌跡』
「【2】隠棲 ジュネーヴ、交友と反目」にて初めて目にして強い衝撃を受けはしたが
ヴォルテールの思想の分岐点がリスボンの大震災に齎された
とは、その時はまだ気がついてなかった

今年になって『カンディド』を英語版で再読し
改めてその文章の簡潔さと訴えてるコトの深さに感動したが
リスボンの大地震についての章を読みながら
ヴォルテールの詩に託された嘆きが交錯した時に
やっとヴォルテールの精神の中でも大激震が襲ったのだと気付き
それを具現化したのが『カンディド』だったと理解できた

その矢先に今回の震災である

リスボンの大地震での悲劇は地震と津波とゆー天災によって齎されたが
火事は半分は人災だろうか?
それでも誰かに責任を負わせられるようなレベルではナイので天災の方に程近い

カンディドとパングロスはこれらの渦中にいて命からがらなんとか助かったのだが
人柱として刑に処される羽目に陥る悲劇に見舞われた

この惨事の後の人柱の処刑とゆー惨劇は紛れもナイ人災だ
なんたって人が人を手にかけるのである!

そもそもなぜこの善良な2人が人柱とされたのか?

それは人柱を選ぶ基準が「異教徒であるコト」だったからだ

ポルトガルはカトリックでドイツ(プロシア)はプロテスタントで
確かに宗派は違うが異教徒ではナイ
と、思ってしまうのは宗教に疎い日本人の錯覚で
両者はお互いに皆殺しを望んでたのが実状だ

パングロスがライプニッツの【予定調和】をカンディドに説いてたトコロを当局に見つかり
「パングロスはワケのわからナイ話をしててカンディドはそれを熱心に聴いてた」
と、それだけだったが異教徒であると疑われたのだ

これでパングロスは縛り首、カンディドは鞭打ちに処されたが
疑われただけでなく本物の異教徒であると確信されれば
処刑は1番長く見物できる火炙りだったろう

いずれにせよ
この人柱の処刑が地震や津波そのものを沈静化させるためなどではナイ
と、いくら迷信深い愚民だってさすがにわかってるが
被災した鬱憤を晴らすための見世物として必要なパフォーマンスだったのだ

当然ながら人柱に選ばれた庶民は
異教徒であったにせよ、罪もなければ悪意も全くナイ

そして人柱に選ばれなかった庶民も
処刑の光景を嬉々として見守ってたにせよ、やはり微塵も悪意はナイのである・・・

庶民の一人一人は間違いなく善人だろうが
群衆心理は無意識の悪意を引き出してしまうのが怖ろしい
異端審問はその最たるモノだ(-人-;)