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紀伊國屋新宿本店で「ほんのまくら」なるブックフェアをやってて
これが実に気色悪いのだが書き出しの一文が表紙になってて
著者名や作品名がわからナイ状態で売られてたのは
2012年の夏だった


出典:www.mishimasha.com

自分には読みたい本も買いたい本もあり過ぎて
こんなイベントに足を運んでまで
本の無駄買いをする意欲は到底持てナイが
小説の冒頭ってのは凄く興味深い

もちろんそれは興味の範疇にある小説に限った話で
この抽出の無作為さは闇鍋の具のような気持ち悪さしかナイ

オスカー・ワイルドの小説『ドリアン・グレイの肖像』は
次のような一節から始まってる

 アトリエの中には薔薇のゆたかな香りが満ち溢れ、かすかな夏の風が庭の木立を吹きぬけて、開けはなしの戸口から、ライラックの淀んだ匂いや、ピンク色に咲き誇るさんざしのひとしお細やかな香りを運んでくる。

自分は初めてこの出だしを読んだ時には
文脈からその情景を思い起こして
どう考えても矛盾してるとしか思えなかったw

美に対する直観が鈍い、とワイルドに嗤笑されそうだが
科学的に、理性的に、現実的に、考えてみれば
薔薇のきつい匂いが充満した部屋では
風にのって運ばれてきたライラックやさんざしの香りなど
感じ取れるはずもナイのだ。(´д`;)ギャボ

そして少し先に読み進むと
これがまたよくわからナイ例えにぶつかるるる~

時おり、おもてを飛ぶ小鳥の夢のような影が、大きな窓にかかった長い山繭織りのカーテンをよぎり、その一瞬、まさに日本的な気分をつくり出す。すると、かれの脳裡には、固定した芸術媒体を通じて身軽さと動きの感じを伝えようとするあの東京の画家たちの硬玉のように青白い顔が浮んでくる。

え~と・・・。(゚д゚lll)ギャボ

このワイルドの日本観を用いた例えは未だに理解に苦しむが
情景をはっきりと思い描こうとするからこそ
さっぱり掴めなくなるのだ
単に異国情緒の雰囲気が漂った気がする、なんてトコロだろうか?

どうもワイルドの小説は表現が詩的過ぎるのであるるる~

確かにこういう表現は
ボードレールやランボーの詩には多用されてて
はっきり思い浮かべると情景が重なり合ってしまい
実体が掴めなくなってしまうのだが
それが詩なら抽象的であっても何も問題はナイ

悪の華 (集英社文庫)

尤も詩の場合には
情景の正確さより語句の美しさ自体を愉しむので
矛盾が生じてもそれに捉われるコトもナイのだが
小説中ではどうも引っかかるのだ

ボードレールはこの表現方法についても自ら詩作してるが
その詩のタイトル『コレスポンス』は
鈴木信太郎によって【交感】
また堀口大學によって【呼應】と訳されてて
これは五感によって概念を直観的に感じさせる手法である

万人に共有される秩序だった理解ではなく
特異的な美感を持つ者にしか感じようがナイ「悟り」・・・とでも言おうか?

そのモノの本質的な美を感じ取らせるために
研ぎ澄まされた美意識から共鳴を呼び覚ます語句を鏤めるのだが
その語句には自然の色や香り、花や鳥の名など
これは残念ながら幼少期の内にその美しさに胸を打たれた記憶がなければ
どうにも持ち得るコトができナイ感覚だったりもする

なのでまるでわからナイモノの門前払いをしたがってるかのようなのだが
小説でそこまでやるのはさすがワイルドだなw

オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』の「序文」には
ワイルドの芸術論が述べられてて、冒頭に芸術家の定義がある

芸術家とは、美なるものの創造者である。

また末尾を次のように結んでる

すべて芸術はまったく無用である。

要するに総ての美しいモノの中で人間が創ったモノが芸術なのだが
それら人の手による美は無用だってコトだ

確かに人間によって創られたのではナイ自然発生した美は
その美しさが必ず生命の営みに有用なのである

そして無用な美である芸術の存在は
だからこそ道徳的に善か悪かなどと判断すべきモノではナイし
ましてや芸術を解さナイ人間が無理矢理有用性を謳うのはナンセンスだし
そういう的を得ナイ芸術の批評はそれこそ有用ではナイばかりか有害だ

テンペスト―シェイクスピア全集〈8〉 (ちくま文庫)

そんなコトが述べられてる中で例えに使われてるのが
シェイクスピアの『テンペスト』に出てくるキャリバンである

十九世紀におけるリアリズムにたいする嫌悪は、キャリバンが鏡に映った自分の顔を見るときの怒りと異なるところがない。
十九世紀におけるロマンティシズムにたいする嫌悪は、鏡に自分の顔が映っていないといって怒るキャリバンそのままである。

前者はリアリズム(写実主義)への
後者はロマンティシズムへの批判を掲げる輩に対して
その滑稽さをキャリバンをして醜さの象徴としながら嘲笑してる
美を直観的に理解できナイ輩はまるでキャリバンだ、とねw

リアリズムの写実表現に対して「事実のままでしかナイ」とか
ロマンティシズムの夢物語に対して「現実的ではナイ」とか
わかりきった批判をするのはキャリバンと愚かさも卑しさも同レベルだってワケだ

19世紀のリアリスム(リアリズムの仏語的発音)文学と言えば
自分はフローベールの『ボヴァリー夫人』が真っ先に頭に浮かぶが
この作品は発表の翌年に告訴されても最終的には裁判に勝ち
また裁判沙汰になって話題になったお蔭で(?)
フランス中の人間がこの本を貪り読むに至った問題作だ

ボヴァリー夫人(新潮文庫)

どの辺が問題だったのかは
『ベランジェという詩人がいた』より起訴事実の部分を引用する

公衆及び宗教の道徳並びに良俗侮辱罪

『ボヴァリー夫人』の主人公のエマは夢見がちな女性で
ロマン主義に浸り
ありもしナイ自身を見出してしまって
不倫に走り
夫に内緒で散財して
行き詰まったトコロで死に至るのだが
先に引用した罪に問われてるのは実はこのエマであり
エマの代わりに彼女を創造したフローベール(と出版社)が
法廷に引きずり出されたのであるヽ(゚∀。)ノ

似たような裁判はボードレールにもあり
こちらはあろうコトか罪が認められて
ボードレールは罰金を課され
問題とされる部分(禁断詩篇)は総てカットされた

この辺の事情をワイルドは仄めかしてる気がするるる~

しかしワイルドの場合は作品が罪に問われたコトはなかったが
自身の男娼の罪で服役してるのだから
ある意味1枚上手なのだろうか?!

オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』は
純朴な美青年だったドリアン・グレイがその美貌を讃えられ
調子に乗ってヘンリー・ウォットン卿に翻弄されまくり
ダークサイドに堕ちてしまう物語。(´д`;)ギャボ

ところがドリアンの外見が
いつまで経っても若く天使のように美しいままで
寄る年波も邪悪な精神面も微塵も反映されなかった。(゚д゚lll)ギャボ
それは非科学的な事態だが
画家バジルによって描かれた肖像画が
当人に代わって年老いて醜悪な容貌へと変わってたのだ
そんな肖像画の存在をドリアンは秘密にしてて
結局はなぜそんな奇蹟が起きたのかは謎のままに終わるのだが
これは謎解きが主題なのではナイ

ブロマイド写真★『ドリアン・グレイ 美しき肖像』ヘルムート・バーガー/白黒

ドリアン・グレイのモデルとなった「輝ける青春」
若さを失していくのと併行して
美貌も褪せて、輝きようもなくなって
そう呼ぶ者もいつしかいなくなっただろうが
ワイルドはドリアン・グレイには
当人に代わって肖像画に歳を重ねさせたので
苛酷にも見た目だけがいつまでも若く美しく輝いてた(-_-;)

なぜそれがドリアンにとって苛酷だったのかと言えば
時が止まったワケではなかったので
生身の見た目が変わらなかっただけで
実は老いさらばえて醜くなっていってたのだ

「老いる」とはどういうことか (講談社プラスアルファ文庫)

老いとは単に生物学的な老化だけではナイからだ
まず生物学的な老化があり
それで身体が思うように動かなくなるワケだが
見た目にもその鈍重さが顕現してきて
いつしかあからさまに鈍そうに見えるようになるし
実際の鈍さも伴ってくのだ

全体的な鈍化に比べたら
むしろ精神の顔面への反映はもっと迅速だ
卑しさや残酷さなどは思いついた瞬間に表情に映し出されるし
そんなよからぬ想いにばかり捉われてる人間に
醜い表情の癖がついてしまうのは
老いを待つ必要さえナイのだΣ(゚д゚lll)ガーン

ドリアンの肖像画はそういった老いのメカニズムを
上辺だけ当人の代わりに請け負ってくれたので
悪徳に染まっていく過程でどんどん醜く変貌していき
どっぷり悪徳に浸った時にはまだ年齢的に老いがくる前だったが
もう十分に醜怪に朽ちてたのだ((((; ゜Д゜))) ガクガクブルブル

ワイルドはその高い美意識から
ぱっと見だけ小奇麗だが邪悪な表情を持つ人間を皮肉って
そこを赤裸々に映し出すこんな物語を書いたんだろう

自分は学生の時に生物の中でも特に単細胞生物の魅力にとり憑かれてたが
彼らのオートガミーなる細胞の蘇生の秘術は
ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』を読んでこそ理解できた

生命はどのようにして死を獲得したか―老化と加齢のサイエンス

オートガミーは老いた細胞が若い細胞に蘇る機構で
この生命の不可逆反応の摂理を超越した現象を初めて知った時は
どうしてそんなコトが現実に起こるのか理解不可能だったが
単細胞生物が無垢であるならそれもありか?!

昨今のアンチエイジング・ブームの風潮を担う医療技術の進歩が
三位一体とも言える若さと美貌と輝きの中から
若さと美貌だけを切り離して
一見して若く美しく見えるような
様々な手段を提供するようになったが
単細胞生物のオートガミーほどの完璧さがナイのは
多細胞生物の高次設計のせいかw

自分も確かに若さは保持したいと思う
日常生活をしっかり送るための健康な身体と健全な精神に加えて
更にタフに生きようと思ったらしなやかさは失いたくナイ
敏捷さが多少衰えてもしなやかであれば
身体的な苦痛は少なくて済むからだ
また心のしなやかさは瑞々しい感性の所在に他ならナイが
最期の瞬間まで「あはれ」を愉しめる自分でいたい

ドリアンは見た目のみ若く美しいまま年月を経ていくが
その心は既に醜悪に腐りきってしまってた
そこに不快感を感じナイ美意識の低い人間ほど
安易に見た目だけの安っぽい美を執拗に求めるのだね(゚*゚;)

ちなみにドリアンのモデルの「輝ける青春」について
画家バジルのモデルとなった男は「画家の序文」でこう証言してる

ワイルドの創造した悪の主人公とは正反対の存在であったことはいうまでもない

オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』の
新潮社版の冒頭には「画家の序文」があり
この画家とはバジルのモデルとなった男なのだが
主人公のドリアン・グレイのモデルについて触れてて
それは次のように書き出してる

わたしのモデルのひとりに、友人たちから「輝ける青春」と綽名されるほど、ひときわ目立つ美貌の青年がいた。

ドリアン・グレイの肖像 (新潮文庫)

若さはそれ自体が魅力的で光彩を放つのだが
その光が最も眩しく感じられるのが青春なる時期であろう
幼さから若さへ移行したばかりの頃だ

なので、青春の形容に対して
わざわざ「輝ける」などと付加する必要はナイのだが
類稀なる美貌の持ち主ともなれば
若さと美貌の相乗効果で神々しいほどに光り輝いて見えても無理はナイ

波うつ金髪、生き生きと赤みがかった頬、健康ないたずらっぽさと、品の良いユーモアと、高邁な思想とにきらめく眼。
東風が吹きすさぶときでさえ、この世を愉快なものと思わせるような若者だった。
ひとの良さと陽気さが全身から発散して、かれがはいってくれば、陰鬱このうえない部屋もほんのりと明るみを帯び、輝くのだった。

まるで太陽神アポロンを思い起こすような形容だが
神であるアポロンは永遠の美青年であり
人間であるドリアンが美青年でいられるのは
通常であれば余りにも短い期間だ。(´д`;)ギャボ

その儚さに気付いた瞬間にはドリアンに憐憫の情を禁じえナイが
ワイルドも歎息まじりにこう言ったそうだ

あんなすばらしい人間が年をとってしまうとは、なんという傷ましいことだ

若さには美が宿ってるが
美貌が輝いて見えるのは若さ故なのだ
若さを失すれば美貌が損なわれずとも輝きを失ってしまう

もちろん老いてもその人らしい美しさを携えてる人もいるが
万人が認めざるを得ナイような若く美しい人間とではその輝きの質が違う

若さ、それは無敵だが脆く儚い輝きであり
日本語にはこの輝きを表現するのに最適な言葉がある
「あはれ」だ

若さを失った時に何も残らなければ
どれほどの美貌でも輝きを失う

若い時に若さ以外に何を持ち得るかで
老いた時の顔は決まる

そう思えるので
美し過ぎる若者にはつい憐憫の情を抱いてしまうのだ(;つД`)
稀有な美貌に恵まれた者が若さに輝いてる時は
まさに無敵なので
老いた自身の姿などとても想像するコトができず
実際に老いてしまって輝きを失い美貌も褪せてみて
もはや何も人の心を捉え得ナイ自らに直面した時の
失望と絶望ははかりしれナイだろう
それまで愛され慣れてきただけに落差はいかばかりか。(´д`;)ギャボ

ワイルドの嘆きも単純に老いで美貌が損なわれるってだけでなく
それに気付けナイ悲劇をこそ輝きの中にも見取る故なのだ

しかし若さを必ず失わなくてはならナイのは
自然の摂理なので享受するしかナイ
そこで画家バジルのモデルとなった男は
ワイルドに賛同して言った

もし「ドリアン」がいつまでもいまのままでいて、代りに肖像画のほうが年をとり、萎びてゆくのだったら、どんなにすばらしいだろう。
そうなるものならなあ!

この会話から生まれたのが
虚構の「輝ける青春」に執り憑かれた若者の物語
『ドリアン・グレイの肖像』だった

オスカー・ワイルドの『The Picture of Dorian Gray』は
自分はこれまで新潮社版の『ドリアン・グレイの肖像』しか読んでおらず
その冒頭にある「画家の序文」も小説の一部と信じて疑わなかった

The Picture of Dorian Gray: An Annotated, Uncensored Edition

ところが筑摩書房版(※)の『ドリアン・グレイの画像』を読んでみたら
「画家の序文」がなかったのだ。(゚д゚lll)ギャボ
慌てて本屋に駆け込んで光文社版(仁木めぐみ訳)をチェックしたが
これにもなかったのでもしかするとナイのがフツーなのか?!
筑摩世界文学大系【91】近代小説集

まず「画家の序文」がどういうモノであるかを簡単に説明すると
登場人物である画家バジルのモデルとなった実在の男(仮に「実在のバジル」とする)が
そうとは知らずにある日この本を入手してみたら
ワイルドとのふとしたやりとりから生まれた物語のようだ、と回想してるのだが
これはワイルド自身が書いた信憑性を与えるための演出と思われた

しかしよく考えてみれば(いや、よく考えなくても)これが演出なはずはナイ

何年か過ぎたある日のこと、ふとした機会でこの本がわたしの手にはいった。

つまり実在のバジルが初版を入手してたと仮定した場合
そこに「画家の序文」が入ってたら矛盾してしまうではナイかヽ(゚∀。)ノ
そんな間抜けなパラドックスをワイルドがわざわざ演出するとは考え難い・・・

とすると「画家の序文」は少なくとも初版出版時(1891年)にはなくて
実在のバジルがそうと気づいて以降に付け加えられたのだろうが
いつどういういきさつで附されたのかの仔細がナイ

いつ、を推測すれば

ワイルドはこのテーマを永いあいだ暖めていたにちがいない。

ともあるので、実在のバジルは「ちがいない」と確信しつつも
それをワイルド自身に確認をとってはいナイコトから
ワイルドの死後(1900年以降)だろうか?

あるいは生きてても獄中にあった(1895年~1897年)間のみ
出版社が勝手に附けてた、てのもありうるか?

とにかく実在のバジルは自身がモデルとなってるのを
ワイルドから知らされてなかったのだから
本を手にした「ある日」以降にはもちろんのコト
恐らく「ある日」までもワイルドとは永らく会ってなかったワケだ

そしてどういういきさつかは「ある日」以降に実在のバジルが
自らすすんでなのか、周囲に乗せられたのかは不明だが
出版社から「画家の序文」の執筆を依頼されて書いたのだろう

なので「画家の序文」の存在はワイルドの知るトコロではなく
もしかすると意に反してるかもしれナイのだ
それとゆーのもいわゆるネタバレ的要素も含まれてるので
出版社の方針として新潮社以外ではわざと省いてるのかもしれナイ

オスカー・ワイルドの『The Picture of Dorian Gray』は
福田恆存(つねあり)の訳に慣れ親しんでたせいか
初めて筑摩世界文学大系【91】近代小説集
平井正穂訳で読み始めてみたら違和感が・・・(-_-;)

なんせタイトルからして「肖像」が「画像」とされて
『ドリアン・グレイの画像』なのだ

「picture」の訳として「画像」は全然間違いではナイのだが
現代では「画像」とするとコンピュータ上の「画像」ファイルが思い浮かび
本来の意味のドリアン・グレイが描かれた肖像画を思い起こせナイのだ
もちろん平井が訳した頃にはコンピュータなんてなかったから
当時はまだしも「画像」がコンピュータ用語には聞こえなかっただろうが
それにしても「画像」ではどうもピンとこナイ

福田訳の「肖像」としたのが実に巧妙だと思うのは
例えば『ドリアン・グレイの肖像画』とまでしてしまうと
ドリアンが描いた誰かの肖像画なのか
ドリアンの所有してる肖像画のコレクションなのか
ドリアンにとって特別思い入れのある誰かの肖像画なのか
はっきりしなくて意味を取り違え易い

まあ自分のように英語が覚束ナイ人間が
総括してどちらの訳が゚+.(・∀・)゚+.゚イイのかを判断すべきではナイが
タイトルともなるとどうにも気になってしまうのだ!
そして訳に頼らなければ読めナイからこそ
全体的な訳に対して言えるのは
平井訳の方が訳注がより細やかなので親切な気がするるる~

前項の「序文」にあるキャリバンについても訳注に以下のようにあった

シェイクスピアの『あらし』に出る醜い半獣人

「序文」の時点でそうとわかって先に読み進んでたら
第7章で再びキャリバンが出てきた時も「なるほど」と思えたはずだが
これが福田訳にはなかったのだ
福田にとってはシェイクスピア劇の登場人物は常識なのかもw

これが平井訳では以下のように
第7章の本文中にまで訳注があったヽ(゚∀。)ノ

ミランダ(シェイクスピア作『あらし』の女主人公で可憐な娘)を探しているのにキャリバン(『あらし』に出てくる醜悪な怪物)にぶっつかったような感じだった。

てなワケで、平井訳は痒いトコロに手が届く訳注で
そういう部分は初心者に向いてるかと・・・

ドリアン・グレイの画像 (岩波文庫)

岩波文庫は西村孝次訳で「画像」となってるのか

ドリアン・グレイの肖像 (光文社古典新訳文庫)

1番新しい光文社古典新訳文庫は仁木めぐみ訳で「肖像」なのか

それにしてもこれだけあちこちの出版社で出てるってコトは
もしかして日本人には人気あるのだろうか(゚ ゚;)

自分が所有してる『ドリアン・グレイの肖像』は
シェイクスピア訳に名高い福田恆存(つねあり)の訳で
1度ぼろぼろにしてしまって買い直した時も
迷わず同じ新潮文庫版を購入した

最初に読んで非常に気に入って以来
他の訳者のなんて考えたコトがなかったのだ

ドリアン・グレイの肖像 (新潮文庫)

しかし近年になって入手した『筑摩世界文学大系【91】近代小説集』
平井正穂訳の『ドリアン・グレイの画像』が入ってて
映画を観て、改めて読み返すのにはこちらを読んでみたくなった

平井正穂は同じ筑摩世界文学大系で
デフォーの『ロビンソン・クルーソー』を訳してるが
他にもミルトントマス・モアなどを手がけてて
シェイクスピアでも『オセロー』などを訳してた

オセロー (新潮文庫)

もちろん『オセロー』の訳は福田のもある

また映画『Dorian Gray(2009)』の監督オリヴァー・パーカーも
『オセロー』を撮ってるのだった

シェイクスピアは自分の好みとは今一つズレてて
これまでは余り読むコトがなかったので
実は『オセロー』も未読だったが
こんな風にシンクロニシティしてると何かあるのかと思って
うっかり読みたくなってしまうなw

テンペスト

そういえば、自分にとって初シェイクスピアは
まさに『ドリアン・グレイの肖像』の中に出てきた一節によって
『テンペスト』になったのだった

ミランダを捜しに来て、キャリバンにめぐりあったような気持だった。

との一文が第7章の初めの方に唐突に出てくるのだが
作中人物ではナイ2人(ミランダとキャリバン)を引き合いに出されても
当然ながら、どういう気持ちなのかまるでわからなかった

またキャリバンは序文にも登場してる

十九世紀におけるリアリズムにたいする嫌悪は、キャリバンが鏡に映った自分の顔を見るときの怒りと異なるところがない。
十九世紀におけるロマンティシズムにたいする嫌悪は、鏡に自分の顔が映っていないといって怒るキャリバンそのままである。

訳注もなく、当時はググるコトもできなかったので
しばらく意味不明のままだったが
シェイクスピアの『テンペスト』の登場人物と知って
読まずにはいられなくなった!

続く第8章にも女優のシビルの描写にこんな表現がある

シビル・ヴェインは自分にとって、ありとあらゆるロマンスのヒロインだ、
ある晩にはデズデモーナだったとおもえば、つぎの夜にはオフィーリアであり、
ジュリエットとして死んだかと見れば、イモージェンとなって蘇る、とね

デズデモーナは『オセロー』のヒロインの名で
オフィーリアもシェイクスピア悲劇の『ハムレット』に出てくる
ジュリエットは言わずと知れた『ロミオとジュリエット』で
イモージェンは『シンベリン』と判明した

オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』は
何度も映画化されてるがつい最近まで自分はどれも未見だった

でもせめてヘルムート・バーガーの『The Secret of Dorian Gray』だけは
冥土の土産になんとしても観たいと願ってたので
折を見ては[Dorian Gray movie]でググってソフトを探し続けてた

それがある時・・・2009年11月19日のコトだったが
[Dorian Gray(2009)]の項目がトップに出てきて「2009」に驚いた!

Dorian Gray(2009)

早速ページを開いてみると
ブルネットのドリアン・グレイに更に驚愕した!!

ドリアンがブロンドでなくてど~するp(-_-+)q

しかしあえてブルネット男をドリアンに仕立てたからには
どれほどその役者がドリアンをこなすのだろうか、と興味も湧いた

まあ確かに後から冷静になって考えてみれば
純朴な美青年ドリアンが如何にして悪徳に染まっていくのかが主題なので
ドリアンは誰もが納得するような美貌の持ち主でなくてはならナイが
その真価は髪の色なんかには左右されるモノではナイ

ドリアンは金髪でなくてはいかんp(-_-+)q

そう思い込んでたのはバーガーの印象が強烈だったからだが
実際にはバーガー版を観てもいなかったのだったヽ(゚∀。)ノ

その後、このブルネットのドリアン役のベン・バーンズが
ナルニア国のカスピアン王子だと判明し
そこそこ人気もあるようなので
『Dorian Gray(2009)』の日本公開を祈願してたのだが
祈り虚しくあえなく未公開であった(-人-;)

それがここへきて
『Dorian Gray(2009)』のDVDが日本発売されて
これに合わせてなのか、バーガー版のも新たにDVD化されて
もう1つ、ハード・ハットフィールド版のDVDまでもが出る異例の事態で
自分はとりあえずバーンズ版とバーガー版を購入して
早速、観比べてみた

バーガー版は設定が現代になってるせいもあり
全体的に軽佻浮薄な印象が否めナイし
バーガーのデカダンの香り漂う容貌では世慣れしてるように見えてしまい
当初は朴訥なはずのドリアンにしてはセクシー過ぎる嫌いもあり
最初から最期まで原作との違和感を拭いきれなかった

だいたいドリアンは自ら好んで快楽を貪ってるのではなく
悪徳の指南役であるヘンリー卿にそそのかされるままに享受しながら
陥れられてるのを愉しんでるのだと思われ

結果として堕落してしまってる自身に酔いたいのだ。(´д`;)ギャボ

そんな破滅願望こそがワイルドの表現したかったデカダンシズムで
全く健全だった人間がそこに嵌ってく過程を描いてるので
読み手は一緒に引き込まれて戦慄を覚えるのだし
映画化されても観る者が息を呑んで追うのはその部分なはず・・・

だからバーガーがのっけから人を食ったような顔で登場してしまっては
皆、いきなりドン引きで構えてしまうから堕ちる過程を愉しめナイし
快楽を貪りながら、それ自体を楽しんでる感があり
そこにまるで罪悪感など持ち合わせていナイように見えてしまうと
皮肉屋のヘンリー郷は登場する意味がナイ。(゚д゚lll)ギャボ

自分はバーガーのファンだが
原作を重視するとどうもバーガー版はいただけナイ

但し、バーガーの、そして『ドリアン・グレイの肖像』の
コレクターとしては買って損はなかった
てか、お得だった♪

しかし★をつけて評価するならバーガー版は★★★だ
これはバーガーファンなのでどうしても贔屓目に見てしまうのと
その稀に見る美しさに「免じて」なので
本来なら★★だ、はっきり言って駄作だ・・・

映画としての完成度の高さも
原作への忠実度(監督の原作の理解度)も
バーンズ版の方が圧倒的に上回ってたが
1点だけ、だが総てをダメにしてたのはラスト近くのホラー入り過ぎな部分だ

あとちょっとで終わりってトコロまで耽美な世界観を押し出してたのに
なんでいきなりB級ホラーになってしまうのだろう?!
まあでもそれを差し引いたとしても★で評価するなら★★★★★だがね

衣装、家具・調度、美術品はもちろん
何気ナイ小道具まで細部の作りが行き届いてて
基本的に美的である以上に、登場人物の趣味が反映されてて隙がなく
それは要するにワイルドの設定に沿ってるってコトだ

特にヘンリー卿にコリン・ファースってのは
最初はミス・キャストだと思ってたのだ
ぶっちゃけ、ダサイ・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ

ところが観てる内になるほどヘンリー卿だと納得したね
よく考えたら女にモテるようなルックスでは
いちいち女に甘やかされてしまうので
あそこまで世の中を拗ねて見れるほどにはならナイワケで・・・

そもそも原作においても最も魅力的な人物は
素直で美貌のドリアンではなく
美意識の高い皮肉屋のヘンリー卿なのだからして(*^^*)

『幸福な王子(もしくは幸福の王子)』を読んでて
引っかかる部分がいくつかあるが
中でもつばめに関して色々と気になってた

いつか調べようと思ってたのを
この数ヵ月かけてやっと調べ尽くしたが
最も不可思議に感じてたのは
つばめが王子にエジプトの様子を話してる際に
バールベック神殿が出てくるトコロだ

現在、バールベック神殿自体は存在せず
既にローマ時代には土台しか無くなってたトコロに
ウェヌス、ユピテル、バッカスの各々の神殿が建てられた
これらの神殿を除いた残存してる部分が
世界遺産とされてるバールベックの遺跡だ

この写真はその内のバッカス神殿だが
とにかくこの遺跡があるのは
エジプトではなくレバノンなのだ

エジプトのカイロから
レバノンのベイルートまでの距離は
583.19kmも離れてて
東京から青森までの距離に相当するが
ベイルートからバールベックの遺跡までが
更に85kmもあるので
おおよそ650kmの距離感だ

確かにつばめとゆー渡り鳥は
1日に300㎞以上も飛べるそうだから
丸2日かけて飛んでって
往復4日程で戻ってくるのも
不可能ではナイ

ましてや、この変わり者のつばめなら
エジプトからレバノンまで
渡り先から小旅行を楽しんだっておかしくはナイ
だがしかし、どうも釈然としナイのは
疑念が拭い切れナイからだ

もしかしてワイルドは
バールベックがエジプトにある
と勘違いをしてるのか?!

ところがワイルドの描いたつばめには
実は典拠があった!

それがテオフィル・ゴーティエ(もしくはゴーチエ)の詩で
「燕たちのひそひそ話」なるタイトルと知って
とりあえず家中のフランス人の詩が載ってる本を漁り
ゴーティエの詩の本を買ってみたりしたが
それらしい詩は見つからず
ググりまくってやっとネット上で探し当てた!!

Ce que disent les hirondelles

これをGoogle翻訳にかけてみたら
つばめらが話してる中に
バールベックとあり
アテネにあるパルテノン神殿や
カイロのミナレットと
一緒くたになってた

それにしても
ピラミッドはわかるがミナレットって???
ググってみると
イスラム教の宗教施設の塔のコトで
カイロのイブン・トゥールーン・モスクの
ミナレットの写真があった

また、このつばめの詩は
ゴーティエがエミール・ガレに贈った詩らしく
詩の一部と挿絵の描かれたガレのランプが
存在すると知り・・・

これとは別の形のランプが日本にあるコトまで突き止めた^^
エミール ガレ美術館蔵『燕文両耳付鶴首花器(つばめたちのひそひそ話)』

『幸福の王子』は王子(の像)とつばめの愛の物語だ

主義を貫く王子と
それに共感して付き従ったつばめ

恋愛とかそういう甘ったるいようなのでなく
博愛とかそういう生ぬるいようなのでなく
お互いの生き様に共鳴し合う愛

主義を貫く王子はワイルド自身を反映してて
つばめはロバート・ロスだろうか

ボジー(アルフレッド・ダグラス卿)は
つばめの器ではなかった

ワイルドとボジーの関係は
当時の人間社会のモラルからは不道徳だとされて
主義を貫こうとしたワイルドが断罪されると
ボジーはそんなワイルドに付き従うのをやめてしまった

ワイルドが貫こうとした主義とは何かと言えば
aestheticismで
日本語では耽美主義・唯美主義・審美主義などと訳されるが
存在自体が美そのものだったり
存在理由が美であるものを
賛美し
そうではナイモノから護ろうとする主義だ

ボジーは存在自体が美しかったのは明白だが
ワイルドが買いかぶり過ぎてか
本質を見落としてたのだろう

ボジーは美の体現者である自身に酔い痴れてて
その賛美者となったのが
今を時めくワイルドであるコトに陶酔してたが
元より堕落を好む性質で
ワイルドからは快楽だけを享受し
自身以外に対しての憐憫の情は欠落してて
ワイルドの主義の根本にある美意識を
理解してなかったようだ

生涯、何があっても
(当のワイルドに不貞をされても)
ワイルドに付き従ったのはロスだった

とはいえ
つばめも当初はボジーのようなヤツだったがねw

なんせつばめは本来ならば
とっくにエジプトへ渡ってるはずだのに
葦に一方的に恋をしたかと思えば
構ってくれナイ葦に対して「振られた」と恨み節で
その間はつばめとしての社会生活を
投げ打ってしまってるるる~

恋の成就の快楽を夢見たばっかりに
日々の暮らしが立ち行かなくなってしまう
社会の落伍者のつばめ・・・

しかも恋の相手は
同種異性のつばめのメスでなく
異種の葦・・・ましてや植物なのだ
そして性別は本トにメスなのかも疑わしい

人間社会では基本的に
カップルは同種異性を望ましいとしてて
同種同性のカップルも
ここ最近は許容されてきたものの
あくまでも許容であり
推奨では全くナイ

そんな人類のモラルを
鳥類のつばめに当て嵌めるのもなんだが
既に同種ではナイモノに恋してしまい易く
姓の別には余り拘りがナイようなので
人間社会の児童書に出てくるキャラにしては
不道徳の極みだろう

そんな不埒なつばめだったのが
王子の像に出会い
少しづつ変わってくのだ

憐憫の情が漲り過ぎて
涙となって迸る心優しき王子に
恐らく一目惚れしたのだろう

王子が像として美しかったのも一理ありかもだが
その心根の美しさに打たれたに違いナイ

だからつばめはブーたれながらも
王子の気持ちを汲んで
施し事業を手伝いながら
ぼろぼろになってく王子に対して
愛情を募らせてたのだ
しかも命懸けで!

このつばめの愛し方・・・
ワイルドは伴侶にこれを求めてたんだろう・・・

しかし社会的にも生物学的にも
正式な伴侶であった妻には
病身の、しかも梅毒持ちの夫(ワイルド)に
尽くしてもらうのは気が引けたろうし
ボジーにはもちろん、ロスにも
求めてはいたが
実際には望んでなかったろう

それに妻には子供たちを護る使命があったので
ワイルドか子供らかを選択せねばならなくなった際に
子供らを選んだのだ

ボジーはワイルドに賛美されたり
共に快楽に耽るのを愉しんでただけで
そもそもワイルド自身を愛してはいなかった
(に違いナイと断言できる)

ワイルドとボジーが同種同性カップルとして
不道徳のレッテルを貼られると
ボジーは父親の権威に縋って逃げ延びて
ワイルドだけが投獄されるに至ったコトからして
保身に長けた俗物であるのは明白だ

そうしてロスだけがワイルドに付き従い続けた
つばめのように・・・

それにしても子供の頃は
偽善者王子は酷い奴だ
なんて思ってたりもした

どうせ王子は像なのだから
実質的には死なず、あるいは既に死んでて(?)
凍え死ぬつばめだけが可愛そうだった

でも王子を放置すれば
つばめはエジプトに渡るコトができたのに
王子の元を飛び立たなかったのは
つばめの意志で
それは生半可なボランティア精神などでなく
王子への一途な愛
それに尽きる

見返りなんか何一つナイ
お互いに報われるコトは何一つナイ
それでも2人は美しい事業を助け合ってやり遂げた
自らの命と引き換えに・・・

この物語がなぜ泣けるのか?

王子もつばめも気高く美し過ぎるが
人の世においてはいつも
そういう美しい者こそが踏み躙られる
そんな悲しい現実がよぎるからだ