Dorian Gray(2009)。。。2017-04-12 06:00:12 更新

オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』は
何度も映画化されてるがつい最近まで自分はどれも未見だった

でもせめてヘルムート・バーガーの『The Secret of Dorian Gray』だけは
冥土の土産になんとしても観たいと願ってたので
折を見ては[Dorian Gray movie]でググってソフトを探し続けてた



それがある時・・・2009年11月19日のコトだったが
[Dorian Gray(2009)]の項目がトップに出てきて「2009」に驚いた!

Dorian Gray(2009)

早速ページを開いてみると
ブルネットのドリアン・グレイに更に驚愕した!!



ドリアンがブロンドでなくてど~するp(-_-+)q

しかしあえてブルネット男をドリアンに仕立てたからには
どれほどその役者がドリアンをこなすのだろうか、と興味も湧いた

まあ確かに後から冷静になって考えてみれば
純朴な美青年ドリアンが如何にして悪徳に染まっていくのかが主題なので
ドリアンは誰もが納得するような美貌の持ち主でなくてはならナイが
その真価は髪の色なんかには左右されるモノではナイ

ドリアンは金髪でなくてはいかんp(-_-+)q

そう思い込んでたのはバーガーの印象が強烈だったからだが
実際にはバーガー版を観てもいなかったのだったヽ(゚∀。)ノ

その後、このブルネットのドリアン役のベン・バーンズが
ナルニア国のカスピアン王子だと判明し
そこそこ人気もあるようなので
『Dorian Gray(2009)』の日本公開を祈願してたのだが
祈り虚しくあえなく未公開であった(-人-;)



それがここへきて
『Dorian Gray(2009)』のDVDが日本発売されて
これに合わせてなのか、バーガー版のも新たにDVD化されて
もう1つ、ハード・ハットフィールド版のDVDまでもが出る異例の事態で
自分はとりあえずバーンズ版とバーガー版を購入して
早速、観比べてみた

バーガー版は設定が現代になってるせいもあり
全体的に軽佻浮薄な印象が否めナイし
バーガーのデカダンの香り漂う容貌では世慣れしてるように見えてしまい
当初は朴訥なはずのドリアンにしてはセクシー過ぎる嫌いもあり
最初から最期まで原作との違和感を拭いきれなかった

だいたいドリアンは自ら好んで快楽を貪ってるのではなく
悪徳の指南役であるヘンリー卿にそそのかされるままに享受しながら
陥れられてるのを愉しんでるのだと思われ

結果として堕落してしまってる自身に酔いたいのだ。(´д`;)ギャボ

そんな破滅願望こそがワイルドの表現したかったデカダンシズムで
全く健全だった人間がそこに嵌ってく過程を描いてるので
読み手は一緒に引き込まれて戦慄を覚えるのだし
映画化されても観る者が息を呑んで追うのはその部分なはず・・・

だからバーガーがのっけから人を食ったような顔で登場してしまっては
皆、いきなりドン引きで構えてしまうから堕ちる過程を愉しめナイし
快楽を貪りながら、それ自体を楽しんでる感があり
そこにまるで罪悪感など持ち合わせていナイように見えてしまうと
皮肉屋のヘンリー郷は登場する意味がナイ。(゚д゚lll)ギャボ

自分はバーガーのファンだが
原作を重視するとどうもバーガー版はいただけナイ

但し、バーガーの、そして『ドリアン・グレイの肖像』の
コレクターとしては買って損はなかった
てか、お得だった♪

しかし★をつけて評価するならバーガー版は★★★だ
これはバーガーファンなのでどうしても贔屓目に見てしまうのと
その稀に見る美しさに「免じて」なので
本来なら★★だ、はっきり言って駄作だ・・・



映画としての完成度の高さも
原作への忠実度(監督の原作の理解度)も
バーンズ版の方が圧倒的に上回ってたが
1点だけ、だが総てをダメにしてたのはラスト近くのホラー入り過ぎな部分だ

あとちょっとで終わりってトコロまで耽美な世界観を押し出してたのに
なんでいきなりB級ホラーになってしまうのだろう?!
まあでもそれを差し引いたとしても★で評価するなら★★★★★だがね

衣装、家具・調度、美術品はもちろん
何気ナイ小道具まで細部の作りが行き届いてて
基本的に美的である以上に、登場人物の趣味が反映されてて隙がなく
それは要するにワイルドの設定に沿ってるってコトだ

特にヘンリー卿にコリン・ファースってのは
最初はミス・キャストだと思ってたのだ
ぶっちゃけ、ダサイ・・・ヾ(・_・;)ぉぃぉぃ



ところが観てる内になるほどヘンリー卿だと納得したね
よく考えたら女にモテるようなルックスでは
いちいち女に甘やかされてしまうので
あそこまで世の中を拗ねて見れるほどにはならナイワケで・・・

そもそも原作においても最も魅力的な人物は
素直で美貌のドリアンではなく
美意識の高い皮肉屋のヘンリー卿なのだからして(*^^*)

『ドリアン・グレイの肖像』とシェイクスピア。。。2017-04-13 06:00:49 更新

自分が所有してる『ドリアン・グレイの肖像』は
シェイクスピア訳に名高い福田恆存(つねあり)の訳で
1度ぼろぼろにしてしまって買い直した時も
迷わず同じ新潮文庫版を購入した

最初に読んで非常に気に入って以来
他の訳者のなんて考えたコトがなかったのだ

ドリアン・グレイの肖像 (新潮文庫)

しかし近年になって入手した『筑摩世界文学大系【91】近代小説集』
平井正穂訳の『ドリアン・グレイの画像』が入ってて
映画を観て、改めて読み返すのにはこちらを読んでみたくなった

平井正穂は同じ筑摩世界文学大系で
デフォーの『ロビンソン・クルーソー』を訳してるが
他にもミルトンやトマス・モアなどのピューリタン文学を手がけてて
やはりシェイクスピアも『オセロー』などを訳してた

オセロー (新潮文庫)

もちろん『オセロー』の訳は福田のもある

また映画『Dorian Gray(2009)』の監督オリヴァー・パーカーも
『オセロー』を撮ってるのだった

シェイクスピアは自分の好みとは今一つズレてて
これまでは余り読むコトがなかったので
実は『オセロー』も未読だったが
こんな風にシンクロニシティしてると何かあるのかと思って
うっかり読みたくなってしまうなw

テンペスト

そういえば、自分にとって初シェイクスピアは
まさに『ドリアン・グレイの肖像』の中に出てきた一節によって
『テンペスト』になったのだった

ミランダを捜しに来て、キャリバンにめぐりあったような気持だった。


との一文が第7章の初めの方に唐突に出てくるのだが
作中人物ではナイ2人(ミランダとキャリバン)を引き合いに出されても
当然ながら、どういう気持ちなのかまるでわからなかった

またキャリバンは序文にも登場してる

十九世紀におけるリアリズムにたいする嫌悪は、キャリバンが鏡に映った自分の顔を見るときの怒りと異なるところがない。
十九世紀におけるロマンティシズムにたいする嫌悪は、鏡に自分の顔が映っていないといって怒るキャリバンそのままである。


訳注もなく、当時はググるコトもできなかったので
しばらく意味不明のままだったが
シェイクスピアの『テンペスト』の登場人物と知って
読まずにはいられなくなった!

続く第8章にも女優のシビルの描写にこんな表現がある

シビル・ヴェインは自分にとって、ありとあらゆるロマンスのヒロインだ、
ある晩にはデズデモーナだったとおもえば、つぎの夜にはオフィーリアであり、
ジュリエットとして死んだかと見れば、イモージェンとなって蘇る、とね


デズデモーナは『オセロー』のヒロインの名で
オフィーリアもシェイクスピア悲劇の『ハムレット』に出てくる
ジュリエットは言わずと知れた『ロミオとジュリエット』で
イモージェンは『シンベリン』と判明した

筑摩世界文学大系【91/86】近代小説集
宮廷画家の花形〔ペイター / 工藤好美〕
セバスティアン・ヴァン・ストーク〔ペイター / 工藤好美〕
ドリアン・グレイの画像〔ワイルド / 平井正穂〕
説教壇から射つ〔マイヤー / 小栗浩〕
北の海〔シュトルム / 国松孝二〕
踏切番ティール〔ハウプトマン / 佐藤晃一〕
騎兵の物語〔ホーフマンスタール / 松本道介〕
グストル少尉〔シュニッツラー / 野島正城〕
アドルフ〔コンスタン / 市原豊太〕
アルジールの妖精トリルビー〔ノディエ / 鈴木健郎〕
マテオ・ファルコネ〔メリメ / 江口清〕
シルヴィ〔ネルヴァル / 入沢康夫〕
アルルの女〔ドーデー / 桜田佐〕
ヴェラ〔リラダン / 菅野昭正〕
赤い卵〔フランス / 大井征〕
リップ・ヴァン・ウインクル〔アーヴィング / 斎藤光〕
街の女マギー〔クレイン / 大橋健三郎〕
解説〔平井正穂 / 佐藤晃一 / 小林正 / 西川正身〕

ドリアン・グレイの「画像」。。。2017-04-14 06:00:52 更新

オスカー・ワイルドの『The Picture of Dorian Gray』は
福田恆存(つねあり)の訳に慣れ親しんでたせいか
初めて平井正穂訳で読み始めてみたら違和感が・・・(-_-;)

タイトルからして「肖像」が「画像」とされて『ドリアン・グレイの画像』なのだ
LINK:筑摩世界文学大系【91】近代小説集

「picture」の訳として「画像」は全然間違いではナイのだが
現代では「画像」とするとコンピュータの画面上の「画像」ファイルが思い浮かび
本来の意味のドリアン・グレイが描かれた肖像画を思い起こせナイのだ
もちろん平井が訳した頃にはコンピュータなんてなかったから
当時はまだしも「画像」がコンピュータ用語には聞こえなかっただろうが
それにしても「画像」ではどうもピンとこナイ

福田訳の「肖像」としたが実に巧妙だと思うのは
例えば『ドリアン・グレイの肖像画』とまでしてしまうと
ドリアンが描いた誰かの肖像画なのか
ドリアンの所有してる肖像画のコレクションなのか
ドリアンにとって特別思い入れのある誰かの肖像画なのか
はっきりしなくて意味を取り違えやすい

まあ自分のように英語が覚束ナイ人間が
総括してどちらの訳が゚+.(・∀・)゚+.゚イイのかを判断すべきではナイが
タイトルともなるとどうにも気になってしまうのだ!
そして訳に頼らなければ読めナイからこそ全体的な訳に対して言えるのは
平井訳の方が訳注がより細やかなので親切な気がするるる~

前項の「序文」にあるキャリバンについても訳注に以下のようにあった

シェイクスピアの『あらし』に出る醜い半獣人


「序文」の時点でそうとわかって先に読み進んでたら
第7章で再びキャリバンが出てきた時も「なるほど」と思えたはずだが
これが福田訳にはなかったのだ
福田にとってはシェイクスピア劇の登場人物は常識なのかもw

平井訳ではご丁寧に第7章の方にも以下のように本文中に訳注があったヽ(゚∀。)ノ

ミランダ(シェイクスピア作『あらし』の女主人公で可憐な娘)を探しているのにキャリバン(『あらし』に出てくる醜悪な怪物)にぶっつかったような感じだった。


てなワケで平井訳は痒いトコロに手が届く訳注で
そういう部分は初心者に向いてるかと・・・

ドリアン・グレイの画像 (岩波文庫)

岩波文庫は西村孝次訳で「画像」となってるのか

ドリアン・グレイの肖像 (光文社古典新訳文庫)

1番新しい光文社古典新訳文庫は仁木めぐみ訳で「肖像」なのか

それにしてもこれだけあちこちの出版社で出てるってコトは
もしかして日本人には人気あるのだろうか(゚ ゚;)

ドリアン・グレイの「画家の序文」について。。。2017-04-15 06:00:24 更新

オスカー・ワイルドの『The Picture of Dorian Gray』は
自分はこれまで新潮社版の『ドリアン・グレイの肖像』しか読んでおらず
その冒頭にある「画家の序文」も小説の一部と信じて疑わなかった

The Picture of Dorian Gray: An Annotated, Uncensored Edition

ところが筑摩書房版(※)の『ドリアン・グレイの画像』を読んでみたら
「画家の序文」がなかったのだ。(゚д゚lll)ギャボ
慌てて本屋に駆け込んで光文社版(仁木めぐみ訳)をチェックしたが
これにもなかったのでもしかするとナイのがフツーなのか?!
筑摩世界文学大系【91】近代小説集

まず「画家の序文」がどういうモノであるかを簡単に説明すると
登場人物である画家バジルのモデルとなった実在の男(仮に「実在のバジル」とする)が
そうとは知らずにある日この本を入手してみたら
ワイルドとのふとしたやりとりから生まれた物語のようだ、と回想してるのだが
これはワイルド自身が書いた信憑性を与えるための演出と思われた

しかしよく考えてみれば(いや、よく考えなくても)これが演出なはずはナイ


何年か過ぎたある日のこと、ふとした機会でこの本がわたしの手にはいった。


つまり実在のバジルが初版を入手してたと仮定した場合
そこに「画家の序文」が入ってたら矛盾してしまうではナイかヽ(゚∀。)ノ
そんな間抜けなパラドックスをワイルドがわざわざ演出するとは考え難い・・・

とすると「画家の序文」は少なくとも初版出版時(1891年)にはなくて
実在のバジルがそうと気づいて以降に付け加えられたのだろうが
いつどういういきさつで附されたのかの仔細がナイ

いつ、を推測すれば


ワイルドはこのテーマを永いあいだ暖めていたにちがいない。


ともあるので、実在のバジルは「ちがいない」と確信しつつも
それをワイルド自身に確認をとってはいナイコトから
ワイルドの死後(1900年以降)だろうか?

あるいは生きてても獄中にあった(1895年~1897年)間のみ
出版社が勝手に附けてた、てのもありうるか?

とにかく実在のバジルは自身がモデルとなってるのを
ワイルドから知らされてなかったのだから
本を手にした「ある日」以降にはもちろんのコト
恐らく「ある日」までもワイルドとは永らく会ってなかったワケだ

そしてどういういきさつかは「ある日」以降に実在のバジルが
自らすすんでなのか、周囲に乗せられたのかは不明だが
出版社から「画家の序文」の執筆を依頼されて書いたのだろう

なので「画家の序文」の存在はワイルドの知るトコロではなく
もしかすると意に反してるかもしれナイのだ
それとゆーのもいわゆるネタバレ的要素も含まれてるので
出版社の方針として新潮社以外ではわざと省いてるのかもしれナイ

輝ける青春。。。2017-04-16 06:00:45 更新

オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』の新潮社版の冒頭には
画家バジルのモデルとなった男が書いたらしい「画家の序文」があり
主人公のドリアン・グレイのモデルについて触れてるが
それは次のように書き出してる
ドリアン・グレイの肖像 (新潮文庫)


わたしのモデルのひとりに、友人たちから「輝ける青春」と綽名されるほど、ひときわ目立つ美貌の青年がいた。


若さはそれ自体が魅力的で光彩を放つのだが
その光が最も眩しく感じられるのが青春なる時期であろう
幼さから若さへ移行したばかりの頃だ

なので青春の形容に対してわざわざ「輝ける」などと付加する必要はナイのだが
類稀なる美貌の持ち主ともなれば
若さと美貌の相乗効果で神々しいほどに光り輝いて見えても無理はナイ




波うつ金髪、生き生きと赤みがかった頬、健康ないたずらっぽさと、品の良いユーモアと、高邁な思想とにきらめく眼。
東風が吹きすさぶときでさえ、この世を愉快なものと思わせるような若者だった。
ひとの良さと陽気さが全身から発散して、かれがはいってくれば、陰鬱このうえない部屋もほんのりと明るみを帯び、輝くのだった。


まるで太陽神アポロンを思い起こすような形容だが
神であるアポロンは永遠の美青年であり
人間であるドリアンが美青年でいられるのは通常であれば余りにも短い期間だ。(´д`;)ギャボ

その儚さに気付いた瞬間にはドリアンに憐憫の情を禁じえナイが
ワイルドも歎息まじりにこう言ったそうだ


あんなすばらしい人間が年をとってしまうとは、なんという傷ましいことだ


若さには美が宿ってるが
美貌が輝いて見えるのは若さ故なのだ
若さを失すれば美貌が損なわれずとも輝きを失ってしまう

もちろん老いてもその人らしい美しさを携えてる人もいるが
万人が認めざるを得ナイような若く美しい人間とではその輝きの質が違う

若さ、それは無敵だが脆く儚い輝きであり
日本語にはこの輝きを表現するのに最適な言葉がある
「あはれ」だ

若さを失った時に何も残らなければどれほどの美貌でも輝きを失う
若い時に若さ以外に何を持ち得るかで老いた時の顔は決まる

そう思えるので美し過ぎる若者にはつい憐憫の情を抱いてしまうのだ(;つД`)
稀有な美貌に恵まれた者が若さに輝いてる時は
まさに無敵なので老いた自身の姿などとても想像するコトができず
実際に老いてしまって輝きを失い美貌も褪せてみて
もはや何も人の心を捉え得ナイ自らに直面した時の失望と絶望ははかりしれナイだろう
それまで愛され慣れてきただけに落差はいかばかりか。(´д`;)ギャボ

ワイルドの嘆きも単純に老いで美貌が損なわれるってだけでなく
それに気付けナイ悲劇をこそ輝きの中にも見取る故なのだ

しかし若さを必ず失わなくてはならナイのは自然の摂理なので享受するしかナイ
そこで画家バジルのモデルとなった男はワイルドに賛同して言った


もし「ドリアン」がいつまでもいまのままでいて、代りに肖像画のほうが年をとり、萎びてゆくのだったら、どんなにすばらしいだろう。
そうなるものならなあ!


この会話から生まれたのが虚構の「輝ける青春」に執り憑かれた若者の物語
『ドリアン・グレイの肖像』となったのだった

『ドリアン・グレイの肖像』のあらすじと考察。。。2017-04-17 06:00:59 更新

オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』は
純朴な美青年だったドリアン・グレイがその美貌を讃えられ
調子に乗ってヘンリー・ウォットン卿の意のままに翻弄されまくり
ダークサイドに堕ちてしまう。(´д`;)ギャボ

ところがドリアンの外見はいつまで経っても若く天使のように美しいままで
寄る年波も邪悪な精神面も微塵も反映されなかった。(゚д゚lll)ギャボ
それは非科学的な事態だが画家バジルによって描かれた肖像画が
当人に代わって年老いて醜悪な容貌へと変わってたのだ

そんな肖像画についてドリアンは秘密にしてて
結局は謎のままに終わるのだがこれは謎解きが主題なのではナイ

ブロマイド写真★『ドリアン・グレイ 美しき肖像』ヘルムート・バーガー/白黒

ドリアン・グレイのモデルとなった「輝ける青春」(※)は
若さを失していくのと併行して美貌は褪せて
輝きようもなくなってそう呼ぶ者もいつしかいなくなっただろうが
ワイルドはドリアン・グレイには当人に代わって肖像画に歳を重ねさせたので
苛酷にも見た目だけいつまでも若く美しく輝いてた(-_-;)
※前項参照:輝ける青春

なぜそれがドリアンにとって苛酷だったのかと言えば
時が止まったワケではなかったので
生身の見た目が変わらなかっただけで実は老いさらばえて醜くなっていってたのだ
「老いる」とはどういうことか (講談社プラスアルファ文庫)
寿命はどこまで延ばせるか? (PHPサイエンス・ワールド新書)
生命はどのようにして死を獲得したか―老化と加齢のサイエンス

老いとは単に生物学的な老化だけではナイからだ
まず生物学的な老化があり、それで身体が思うように動かなくなるワケだが
見た目にもその鈍重さが顕現してきて
いつしかあからさまに鈍そうに見えるようになるし実際の鈍さも伴ってくのだ

全体的な鈍化に比べたらむしろ精神の顔面への反映はもっと迅速だ
卑しさや残酷さなどは思いついた瞬間に表情に映し出されるし
そんなよからぬ想いにばかり捉われてる人間に
醜い表情の癖がついてしまうのは老いを待つ必要さえナイのだΣ(゚д゚lll)ガーン

ドリアンの肖像画はそういった老いのメカニズムを
上辺だけ当人の代わりに請け負ってくれたので
悪徳に染まっていく過程でどんどん醜く変貌していき
どっぷり悪徳に浸った時にはまだ年齢的に老いがくる前だったが
もう十分に醜怪に朽ちてたのだ((((; ゜Д゜))) ガクガクブルブル

ワイルドはその高い美意識から
ぱっと見だけ小奇麗だが邪悪な表情を持つ人間を皮肉って
そこを赤裸々に映し出すこんな物語を書いたんだろう

自分は学生の時に生物の中でも特に単細胞生物の魅力にとり憑かれてたが
彼らのオートガミーなる細胞の蘇生の秘術は
ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』を読んでこそ理解できた

オートガミーは老いた細胞が若い細胞に蘇る機構で
この生命の不可逆反応の摂理を超越した現象を初めて知った時は
どうしてそんなコトが現実に起こるのか理解不可能だったが
単細胞生物が無垢であるならそれもありか?!

昨今のアンチエイジング・ブームの風潮を担う医療技術の進歩が
三位一体とも言える若さと美貌と輝きの中から若さと美貌だけを切り離して
一見して若く美しく見えるような様々な手段を提供するようになったが
単細胞生物のオートガミーほどの完璧さがナイのは多細胞生物の高次設計のせいかw

自分も確かに若さは保持したいと思う
日常生活をしっかり送るための健康な身体と健全な精神に加えて
更にタフに生きようと思ったらしなやかさは失いたくナイ
敏捷さが多少衰えてもしなやかであれば身体的な苦痛は少なくて済むからだ
また心のしなやかさは瑞々しい感性の所在に他ならナイが
最期の瞬間まで「あはれ」を愉しめる自分でいたい

ドリアンは見た目のみ若く美しいまま年月を経ていくが
その心は既に醜悪に腐りきってしまってた
そこに不快感を感じナイ美意識の低い人間ほど
安易に見た目だけの安っぽい美を執拗に求めるのだね(゚*゚;)

ちなみにドリアンのモデルの「輝ける青春」について
画家バジルのモデルとなった男は「画家の序文」でこう証言してる


ワイルドの創造した悪の主人公とは正反対の存在であったことはいうまでもない


ドリアン・グレイの肖像 (新潮文庫)ドリアン・グレイの肖像 (光文社古典新訳文庫)ドリアン・グレイの画像 (岩波文庫)

「序文」:ワイルドの芸術論。。。2017-04-18 06:00:48 更新

オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』の「序文」には
ワイルドの芸術論が述べられてて、冒頭に芸術家の定義がある


芸術家とは、美なるものの創造者である。


また末尾を次のように結んでる


すべて芸術はまったく無用である。


要するに総ての美しいモノの中で人間が創ったモノが芸術なのだが
それら人の手による美は無用だってコトだ

確かに人間によって創られたのではナイ自然発生した美は
その美しさが必ず生命の営みに有用なのである

そして無用な美である芸術の存在は
だからこそ道徳的に善か悪かなどと判断すべきモノではナイし
ましてや芸術を解さナイ人間が無理矢理有用性を謳うのはナンセンスだし
そういう的を得ナイ芸術の批評はそれこそ有用ではナイばかりか有害だ
テンペスト―シェイクスピア全集〈8〉 (ちくま文庫)
ボヴァリー夫人 (上) (岩波文庫)
ボヴァリー夫人 (下) (岩波文庫)

そんなコトが述べられてる中で例えに使われてるのが
シェイクスピアの『テンペスト』に出てくるキャリバンである


十九世紀におけるリアリズムにたいする嫌悪は、キャリバンが鏡に映った自分の顔を見るときの怒りと異なるところがない。
十九世紀におけるロマンティシズムにたいする嫌悪は、鏡に自分の顔が映っていないといって怒るキャリバンそのままである。


前者はリアリズム(写実主義)への
後者はロマンティシズムへの批判を掲げる輩に対して
その滑稽さをキャリバンをして醜さの象徴としながら嘲笑してる
美を直観的に理解できナイ輩はまるでキャリバンだ、とねw

リアリズムの写実表現に対して「事実のままでしかナイ」とか
ロマンティシズムの夢物語に対して「現実的ではナイ」とか
わかりきった批判をするのはキャリバンと愚かさも卑しさも同レベルだってワケだ

19世紀のリアリスム(リアリズムの仏語的発音)文学と言えば
自分はフローベールの『ボヴァリー夫人』が真っ先に頭に浮かぶが
この作品は発表の翌年に告訴されても最終的には裁判に勝ち
また裁判沙汰になって話題になったお蔭で(?)
フランス中の人間がこの本を貪り読むに至った問題作だ

どの辺が問題だったのかは
『ベランジェという詩人がいた』より起訴事実の部分を引用する


公衆及び宗教の道徳並びに良俗侮辱罪


『ボヴァリー夫人』の主人公のエマは夢見がちな女性で
ロマン主義に浸り、ありもしナイ自身を見出してしまって不倫に走り
夫に内緒で散財して行き詰まったトコロで死に至るのだが
先に引用した罪に問われてるのは実はこのエマであり
エマの代わりに彼女を創造したフローベール(と出版社)が
法廷に引きずり出されたのであるヽ(゚∀。)ノ

似たような裁判はボードレールにもあり
こちらはあろうコトか罪が認められてボードレールは罰金を課され
問題とされる部分(禁断詩篇)は総てカットされた

この辺の事情をワイルドは仄めかしてる気がするるる~

しかしワイルドの場合は作品が罪に問われたコトはなかったが
自身の男娼の罪で服役してるのだから、ある意味1枚上手なのだろうか?!

小説『ドリアン・グレイの肖像』にみる詩的表現。。。2017-04-19 06:00:31 更新

紀伊國屋新宿本店で「ほんのまくら」なるブックフェアをやってて
これが実に気色悪いのだが書き出しの一文が表紙になってて
著者名や作品名がわからナイ状態で売られてるらしい


出典:www.mishimasha.com

自分には読みたい本も買いたい本もあり過ぎて
こんなイベントに足を運んで本の無駄買いをする意欲は到底持てナイが
小説の冒頭ってのは凄く興味深い

オスカー・ワイルドの小説『ドリアン・グレイの肖像』は
次のような一節から始まってる


アトリエの中には薔薇のゆたかな香りが満ち溢れ、かすかな夏の風が庭の木立を吹きぬけて、開けはなしの戸口から、ライラックの淀んだ匂いや、ピンク色に咲き誇るさんざしのひとしお細やかな香りを運んでくる。


自分は初めてこの出だしを読んだ時には
文脈からその情景を思い起こしてどう考えても矛盾してると思えた

美に対する直観が鈍い、とワイルドに嗤笑されそうだが
科学的に、理性的に、現実的に、考えてみれば
薔薇のきつい匂いが充満した部屋では
風にのって運ばれてきたライラックやさんざしの香りなど感じ取れるはずもナイのだ。(´д`;)ギャボ

そして少し先に読み進むとこれがまたよくわからナイ例えにぶつかる


時おり、おもてを飛ぶ小鳥の夢のような影が、大きな窓にかかった長い山繭織りのカーテンをよぎり、その一瞬、まさに日本的な気分をつくり出す。すると、かれの脳裡には、固定した芸術媒体を通じて身軽さと動きの感じを伝えようとするあの東京の画家たちの硬玉のように青白い顔が浮んでくる。


え~と・・・。(゚д゚lll)ギャボ

このワイルドの日本観を用いた例えは未だに理解に苦しむが
情景をはっきりと思い描こうとするからこそ、さっぱり掴めなくなるのだ
単に異国情緒の雰囲気が漂った気がする、なんてトコロだろうか?

どうもワイルドの小説は表現が詩的過ぎるのであるるる~

確かにこういう表現はボードレールやランボーの詩には多用されてて
はっきり思い浮かべると情景が重なり合ってしまい
実体が掴めなくなってしまうのだが
それが詩なら抽象的であっても何も問題はナイ

尤も詩の場合には情景の正確さより語句の美しさ自体を愉しむので
矛盾が生じてもそれに捉われるコトもナイのだが
小説中ではどうも引っかかるのだ
悪の華 (新潮文庫)
悪の華 (岩波文庫 赤 537-1)

ボードレールはこの表現方法についても自ら詩作してるが
その詩のタイトル『コレスポンス』は
鈴木信太郎によって【交感】、堀口大學によって【呼應】と訳されてて
これは五感によって概念を直観的に感じさせる手法である

万人に共有される秩序だった理解ではなく
特異的な美感を持つ者にしか感じようがナイ「悟り」・・・とでも言おうか?

そのモノの本質的な美を感じ取らせるために
研ぎ澄まされた美意識から共鳴を呼び覚ます語句を鏤めるのだが
その語句には自然の色や香り、花や鳥の名など
これは残念ながら幼少期の内にその美しさに胸を打たれた記憶がなければ
どうにも持ち得るコトができナイ感覚だったりもする

なのでまるでわからナイモノの門前払いをしたがってるかのようなのだが
小説でそこまでやるのはさすがワイルドだなw